『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第28話 譲らない一歩

 

競技場の大型モニターに、二人の名前が並んでいた。

 

 飯田天哉。

 

 八百万百。

 

 決勝トーナメント一回戦、第七試合。

 

 同じA組の学級委員長と副委員長が、リングの上で向かい合うことになる。

 

『さあ、残すところあと二試合! まず登場するのは、俊足の真面目委員長! 一年A組、飯田天哉ァァ!!』

 

 選手通路から飯田が姿を現した。

 

 背筋を伸ばし、観客席へ一礼してからリングへ上がる。

 

『そして対するは、推薦入学の才女! あらゆる道具を創り出す万能の個性を持つ、一年A組、八百万百ォォ!!』

 

 反対側から八百万が歩いてきた。

 

 その表情は落ち着いていたが、拳は固く握られている。

 

「八百万くん」

 

 飯田が声をかけた。

 

「同じクラスの仲間とはいえ、試合となれば全力で臨ませてもらう!」

 

「ええ。もちろんですわ」

 

 八百万は頷いた。

 

「こちらも遠慮はいたしません。よろしくお願いいたします、飯田さん」

 

「ああ! よろしく頼む!」

 

 二人はそれぞれの開始位置へ下がった。

 

 ミッドナイトが腕を上げる。

 

「第七試合――始め!」

 

     ◇

 

 最初に動いたのは飯田だった。

 

 ふくらはぎの排気口から白い煙が噴き出す。

 

 次の瞬間、地面を蹴った。

 

『おおっとォ! 飯田、開始早々から加速する!』

 

 一直線に距離を詰める。

 

 だが、八百万もただ待ってはいなかった。

 

 露出させた前腕から金属が伸びる。

 

 複数の板が繋がり、折り畳み式の盾となって広がった。

 

 飯田は足を踏み替えた。

 

 正面を避け、右側へ回り込む。

 

 その進路へ、八百万が盾を向けた。

 

「……!」

 

 飯田の眉が動く。

 

 もう一度、方向を変える。

 

 今度は左。

 

 八百万は盾を動かそうとしたが、追いつかない。

 

 飯田の足が伸びた。

 

「失礼する!」

 

 蹴りが盾の縁を捉えた。

 

 鈍い金属音が響く。

 

「っ……!」

 

 八百万の身体が押し戻された。

 

 それでも盾を手放さず、両足で踏ん張る。

 

 飯田は追撃せず、すぐに距離を取った。

 

「……さすがだ、八百万くん!」

 

「そちらこそ……!」

 

 八百万が息を整える。

 

 速い。

 

 予想していた以上に、踏み込みから方向転換までが滑らかだった。

 

 盾を向けるだけでは、いずれ横を抜かれる。

 

 正面から蹴りを受け止め続けるのも難しい。

 

 八百万は盾を床へ置いた。

 

 次に作るべきものを考える。

 

 大きなものでは時間がかかる。

 

 それなら、まずは相手が自由に走れる場所を減らす。

 

 八百万の腕から、細い金属製の支柱が伸び始めた。

 

     ◇

 

「飯田の奴、やっぱ速えな」

 

 A組の観客席で、切島が声を漏らした。

 

「八百万もすげえけど、あの速さに対応すんの難しくね?」

 

 瀬呂が頷く。

 

 飯田が近づいてくるまでの時間は短い。

 

 八百万の個性は何でも作れるように見えて、必要なものを選び、形にするまでに時間を要する。

 

 しかも、あの速度を相手にするとなれば、考え直す余裕すら与えてもらえない。

 

「……そうでもねえぞ」

 

 一護が口を開いた。

 

 切島が振り向く。

 

「ん?」

 

「あいつ、もう飯田の走る場所を決めにかかってる」

 

 リングでは、八百万が支柱を二本立てていた。

 

 その間に、広い網が張られる。

 

 網の高さは膝から腰ほど。

 

 人間なら簡単に飛び越えられそうなものだった。

 

「……あれ、意味あんのか?」

 

 上鳴が首を傾げた。

 

「飯田なら跳べるだろ、あんなの」

 

「跳ぶなら跳ぶで、狙いを絞れる」

 

 一護はリングから目を離さなかった。

 

「真っ直ぐ走るのと、跳んで着地するのとじゃ、攻撃できる場所も違ってくるだろ」

 

 瀬呂が目を細める。

 

「……なるほど」

 

 八百万はすでに、次の道具を作り始めていた。

 

     ◇

 

 飯田は網の手前で速度を緩めた。

 

「……なるほど!」

 

 ただの障害物ではない。

 

 正面から近づけば、あれを越える必要がある。

 

 横へ回ろうとすれば、八百万がその方向へ備えられる。

 

 突き破ることもできるかもしれないが、網へ足を取られる危険は残る。

 

 飯田は左へ回り込んだ。

 

 八百万が盾を構える。

 

「こちらですわね!」

 

 その後ろから、長い棒が突き出された。

 

 先端には弾力のある保護材が巻かれている。

 

 飯田は身を捻ってかわした。

 

 だが、八百万は棒を振り回すのではなく、低く構え直した。

 

 足を狙っている。

 

 飯田が距離を詰めるには、必ずどこかで踏み込まなければならない。

 

 その瞬間を狙っているのだ。

 

「……っ!」

 

 飯田が右へ跳ぶ。

 

 八百万は棒を水平に振った。

 

 飯田は空中で膝を引き寄せる。

 

 棒が靴の下を通り過ぎた。

 

 着地。

 

 その瞬間に加速しようとして、足を止めた。

 

 目の前に、もう一本の網が広がっていた。

 

「……!」

 

 八百万が先ほど作っていたものだ。

 

 最初の網とずらして配置されている。

 

 左へ回れば盾と棒。

 

 右へ回れば網。

 

 正面から跳べば、着地する場所を狙われる。

 

 飯田は小さく息を吐いた。

 

「……よく考えられている」

 

「ありがとうございます」

 

 八百万は額の汗を拭った。

 

「ですが、褒めていただいている場合ではありませんわね」

 

「ああ!」

 

 飯田が構えを低くする。

 

「勝負はまだこれからだ!」

 

     ◇

 

 飯田は再び加速した。

 

 今度は八百万へ向かわない。

 

 網の外側を大きく回り込む。

 

 八百万は盾を持ち直した。

 

 足元に置いた支柱の位置を確かめる。

 

 飯田が右へ。

 

 八百万も右へ向く。

 

 すると、飯田は突然、反対方向へ切り返した。

 

「……!」

 

 八百万の身体が追いつかない。

 

 飯田が空いた側面へ飛び込んだ。

 

 蹴りが来る。

 

 八百万は盾を向けた。

 

 金属音。

 

「くっ……!」

 

 衝撃で身体が横へずれる。

 

 飯田は着地すると、すぐに次の一歩を踏み出した。

 

 だが。

 

「……っ!」

 

 足元に何かが触れた。

 

 柔らかな感触。

 

 見下ろすと、網の端から伸びた帯が靴へ絡みかけている。

 

 八百万が盾の陰で伸ばしていた、捕縛用の帯だった。

 

「……なるほど!」

 

 飯田は足を引いた。

 

 その動きに合わせ、八百万が棒を突き出す。

 

 飯田は上体を捻ってかわした。

 

 だが、後ろへ下がった先には先ほどの網がある。

 

 一瞬、動きが止まる。

 

『おおっとォ! 飯田の動きを八百万が封じにかかる! 速さでは追いつけねえが、場所を奪っているぞ!』

 

『八百万は正面から速さに対抗していない』

 

 相澤が口を開いた。

 

『飯田が通る場所を限定して、そこへ道具を置いている。判断は悪くない』

 

『それなら飯田はどうする!?』

 

『……それを考えるのが試合だろ』

 

 相澤は淡々と答えた。

 

     ◇

 

 八百万は飯田を見据えていた。

 

 今なら、もう一つ作れる。

 

 捕縛用の網。

 

 大きな盾。

 

 それとも、足を止めるための別の道具か。

 

 選択肢はいくつもある。

 

 だが、最善の一つを選びきれない。

 

 飯田が動く。

 

 八百万は反射的に盾を上げた。

 

 けれど、攻撃は来なかった。

 

「……え?」

 

 飯田は盾の正面を通り過ぎ、網の外側へ回り込んでいた。

 

 先ほどまでと違う。

 

 網の中へ無理に入ろうとしていない。

 

 八百万が作った障害物を、逆に利用している。

 

 彼女が追おうとすれば網を回収しなければならず、その分だけ動きが遅れる。

 

「……そういうことですのね」

 

 八百万は唇を引き結んだ。

 

 自分の作ったものが、相手の進路だけでなく自分の動きまで狭めている。

 

 ならば、場所を変える。

 

 八百万は棒を持ち直し、網のない方向へ走った。

 

 飯田の目が動く。

 

「……!」

 

 彼女が向かう先は、リングの中央。

 

 そこを確保されれば、飯田は再び障害物の外から攻めなければならない。

 

 飯田は加速した。

 

「行かせん!」

 

 ふくらはぎから排気が噴き出す。

 

 八百万が振り向いた。

 

「……っ!」

 

 棒を構える。

 

 飯田の進路へ差し込む。

 

 しかし、飯田は棒が届く直前に足を止めた。

 

 急な減速。

 

 八百万は思わず棒を引き戻す。

 

 その一瞬を見て、飯田が再び踏み込んだ。

 

「……!」

 

 八百万は盾を向ける。

 

 飯田は横へ回る。

 

 八百万も身体を回した。

 

 盾が追いつく。

 

 飯田の目が細まった。

 

 ここまでなら、まだ防がれる。

 

 八百万は反応が遅いわけではない。

 

 自分がどこへ向かうかを絞り込ませた瞬間、ほぼ確実に対応してくる。

 

 ならば。

 

 考える間もないほど、速く動くしかない。

 

 飯田は深く腰を落とした。

 

「……八百万くん!」

 

 声を上げる。

 

「次で決めさせてもらう!」

 

 八百万は息を呑んだ。

 

 飯田のふくらはぎから、先ほどとは違う激しい排気が上がり始めた。

 

「……っ」

 

 八百万は盾を構え直す。

 

 残った帯を片手で握った。

 

 来る方向さえ分かれば。

 

 捕らえられる。

 

 飯田が地面を蹴った。

 

「レシプロバースト!!」

 

 爆発的な加速。

 

 飯田の姿が、八百万の視界から消えた。

 

「……!」

 

 正面ではない。

 

 左。

 

 八百万は盾を向けた。

 

 しかし、そこに飯田はいなかった。

 

 網の外側を回る。

 

 そう思った直後、背後で足音が鳴った。

 

「……後ろ!」

 

 八百万が振り返る。

 

 飯田が迫っていた。

 

 八百万は棒を横へ振る。

 

 飯田が身を沈めた。

 

 棒が頭上を通り過ぎる。

 

 八百万はすぐに引き戻そうとした。

 

 だが、遅い。

 

 飯田は彼女の脇へ踏み込んでいた。

 

「失礼する!」

 

 腕が伸びる。

 

 八百万の肩口を押さえ、身体の向きを変える。

 

 そのまま無理に突き飛ばすのではなく、勢いを落としながらリングの外側へ押し出した。

 

「……っ!」

 

 八百万は足を踏ん張った。

 

 だが、身体の向きが崩れた状態では十分な力を入れられない。

 

 後ろへ一歩。

 

 もう一歩。

 

 そこには、リングの縁があった。

 

「……!」

 

 八百万は咄嗟に空いた手を伸ばした。

 

 腕から短い金属棒が生まれる。

 

 床へ突き立てて身体を支えようとした。

 

 しかし、棒が床を捉えるより先に、足が縁を越えた。

 

「……あっ!」

 

 八百万はリングの外へ落ちた。

 

 飯田はすぐに手を離し、急減速する。

 

 靴底が床を擦った。

 

 レシプロバーストによる加速が途切れる。

 

 直後、ふくらはぎのエンジンが不規則な音を立てた。

 

「……ぐっ!」

 

 飯田が片膝をつく。

 

 脚に力が入らない。

 

 それでも、リングの上に残っていた。

 

 ミッドナイトが腕を上げる。

 

「八百万、場外! 勝者、飯田天哉!」

 

『決まったァァ!! 八百万の仕掛けを突破し、最後は超加速で場外へ! 勝者、飯田天哉ァァ!!』

 

 歓声が響いた。

 

     ◇

 

「……っはあ」

 

 飯田は片膝をついたまま、大きく息を吐いた。

 

 ふくらはぎのエンジンは、一時的に動かなくなっている。

 

 レシプロバーストの反動だ。

 

 リングの外では、八百万がゆっくり立ち上がっていた。

 

「……参りましたわ」

 

 彼女は小さく息を吐いた。

 

「最後、もう少し早く判断できていれば……」

 

 手の中には、作りかけだった金属棒が残っている。

 

 あの場面で何を作るべきか。

 

 考えた時間は、ほんの僅かだった。

 

 それでも、飯田の速さを相手にするには長すぎた。

 

 リングの上から、飯田が声をかける。

 

「八百万くん!」

 

 八百万が顔を上げた。

 

「君の作戦は実に見事だった! 途中、俺は完全に動きを制限されていた!」

 

「……ありがとうございます」

 

「最後も、俺の方が少し早かっただけだ!」

 

 八百万は一瞬、目を瞬かせた。

 

 それから、苦笑する。

 

「その少しが、大きいのですわ」

 

 飯田が口を閉じた。

 

 八百万はリングへ目を向ける。

 

 自分の作った盾。

 

 網。

 

 床に置いた支柱。

 

 どれも、意味のないものではなかった。

 

 ただ、相手が動き始めるより先に、必要なものを選びきらなければならなかったのだ。

 

「……次は、もっと早く」

 

 小さく呟く。

 

 飯田が聞き返す前に、彼女は顔を上げた。

 

「準々決勝も頑張ってくださいませ、飯田さん」

 

「……ああ!」

 

 飯田は力強く頷いた。

 

「君の分まで、などと軽々しくは言わない。だが、次も全力で戦う!」

 

「ええ。期待していますわ」

 

 八百万は一礼し、選手通路へ向かった。

 

     ◇

 

 その頃、B組の観客席では、拳藤が立ち上がっていた。

 

「……さて」

 

 肩を軽く回す。

 

 隣では、小森も席から立ち上がるところだった。

 

「いよいよだねえ」

 

「そうだね」

 

 拳藤は小森へ目を向けた。

 

「まさか、同じクラス同士で当たるとは思わなかったけど」

 

「えへへ。ちょっと変な感じ」

 

 小森は笑った。

 

「でも、負けないよ。一佳ちゃん」

 

「こっちも、そのつもり」

 

 二人は顔を見合わせる。

 

 普段は同じ教室で授業を受け、訓練でも一緒になることがある。

 

 相手がどんな性格なのか。

 

 どんな個性を持っているのか。

 

 それぞれ、よく知っていた。

 

 だからこそ、簡単な相手ではない。

 

「一佳ちゃん!」

 

 織姫が席から立ち上がった。

 

「頑張ってね!」

 

「ありがと、織姫」

 

 拳藤が笑う。

 

 織姫は小森へも顔を向けた。

 

「小森さんも!」

 

「もちろん! 応援よろしくノコ!」

 

 小森が両手を振った。

 

 拳藤はその様子を見て、肩をすくめる。

 

「……まあ、勝つのはあたしだけどね」

 

「むー。言ったなあ!」

 

 小森が頬を膨らませる。

 

「だったら、キノコまみれにしちゃうから!」

 

「はいはい。簡単には捕まらないよ」

 

 二人は笑いながら、別々の選手通路へ向かった。

 

     ◇

 

『さあ! いよいよ決勝トーナメント一回戦、最後の試合だァァ!!』

 

 プレゼント・マイクの声が響く。

 

 大型モニターに、最後の対戦カードが表示された。

 

 小森希乃子。

 

 拳藤一佳。

 

『ここに来て、一年B組同士の対決! どっちが勝ってもB組から準々決勝進出者が出るぜ!』

 

 先に姿を現したのは小森だった。

 

『どこでもキノコを生やしちゃう!? 可愛らしい見た目に油断するなよ! 一年B組、小森希乃子ォォ!!』

 

 小森は観客席へ手を振りながらリングへ上がった。

 

「よろしくお願いしまーす!」

 

『そして対するは! B組をまとめる頼れる姉御! 巨大な拳で勝利を掴めるか! 一年B組、拳藤一佳ァァ!!』

 

 拳藤が駆け出してきた。

 

 軽く跳び上がってリングへ着地する。

 

 そのまま小森と向かい合った。

 

「よろしく、小森」

 

「うん!」

 

 小森が笑う。

 

「手加減しないからね、一佳ちゃん」

 

「望むところ!」

 

 拳藤は両手を握った。

 

 ミッドナイトが二人の様子を確かめる。

 

「第八試合――始め!」

 

     ◇

 

 小森が、ふっと息を吐いた。

 

 拳藤はその動きを見て、すぐに横へ跳ぶ。

 

 だが、何かが飛んできたわけではない。

 

 ただ、空気に細かなものが混じった。

 

「……っ」

 

 拳藤が目を細める。

 

 小森はにっこり笑った。

 

「もう始まってるよー」

 

 その直後。

 

 拳藤の袖に、小さなキノコが生えた。

 

「……!」

 

 続いて、肩。

 

 髪の端。

 

 汗の滲んだ首元にも、小さな傘が現れる。

 

 拳藤は思わず腕を見た。

 

「……早っ!」

 

「えへへ」

 

 小森が笑う。

 

「今日の一佳ちゃん、よく育ちそう」

 

「人を畑みたいに言わないでよ!」

 

 拳藤は袖についたキノコを払い落とした。

 

 だが、その間にも別の場所へ小さなキノコが増えていく。

 

『おおっとォ! 試合開始から小森の個性が炸裂! 拳藤の服にキノコが生えてきたぞ!?』

 

『胞子を散布し、湿り気のある場所で繁殖させる個性だ』

 

 相澤が説明する。

 

『汗をかいた身体や衣服は、条件が揃いやすい』

 

『ってことは、動くほど不利になんのか!?』

 

『……動かなければ勝てないだろ』

 

 相澤はリングへ視線を戻した。

 

     ◇

 

 拳藤は右手を巨大化させた。

 

 指先まで一気に膨らむ。

 

 それを大きく振るった。

 

 空気が押し出される。

 

 目の前へ広がりかけていた胞子が、風に流された。

 

「わっ!」

 

 小森が髪を押さえる。

 

 拳藤はすぐに踏み込んだ。

 

「まずは近づかせてもらうよ!」

 

 左手も巨大化させる。

 

 小森は慌てて後ろへ下がった。

 

「おっとっと!」

 

 拳藤の大きな掌が、横から迫る。

 

 小森は身体を低くしてかわした。

 

 掌が頭上を通り過ぎる。

 

 その風圧で、小森の髪が大きく揺れた。

 

「うひゃー!」

 

 小森が叫ぶ。

 

「やっぱり一佳ちゃんの手、迫力あるね!」

 

「知ってるでしょ!」

 

 拳藤が追う。

 

 だが、小森は逃げながらも胞子を散らしていた。

 

 拳藤の腕に、再びキノコが生え始める。

 

 巨大化した手の甲。

 

 指の間。

 

 そこに、大小さまざまな傘が現れた。

 

「……っ!」

 

 拳藤が眉を寄せる。

 

 指を握ろうとした。

 

 だが、間に増えたキノコが邪魔になる。

 

 強引に握れば潰せるものもあるが、その感触が気持ち悪い。

 

「……うわ、やりにくっ!」

 

 思わず声が漏れた。

 

 小森は楽しそうに笑う。

 

「大きくなったら、生えるところもいっぱいだねえ」

 

「それ狙ってたわけ!?」

 

「もちろん!」

 

 拳藤は舌打ちしかけ、口を閉じた。

 

 このまま手を大きくしておけば、胞子が付着する面積も増える。

 

 だが、巨大な手でなければ小森との間合いを一気に詰められない。

 

 拳藤は一度、両手を元の大きさへ戻した。

 

 指の間に挟まっていたキノコが崩れ、いくつか床へ落ちた。

 

 それを払い落としながら、小森の位置を確かめる。

 

 小森はリングの反対側へ移動していた。

 

 笑顔は変わらない。

 

 けれど、こちらの動きはしっかり見ている。

 

「……やるね、小森」

 

「えへへ。褒めても何も出ないよー」

 

「いや、キノコは出てるでしょ!」

 

「それは出る!」

 

 拳藤は思わず笑った。

 

 だが、すぐに構え直す。

 

 油断すれば、身体中をキノコで覆われてしまう。

 

     ◇

 

「……あれ、結構厄介だな」

 

 A組の観客席で、上鳴が腕を組んだ。

 

「何もしてないのに生えてくんじゃん」

 

 瀬呂が顔をしかめる。

 

「俺、絶対ああいうの苦手だわ」

 

「でも、拳藤も対応してる」

 

 八百万が口を開いた。

 

 試合を終え、観客席へ戻ってきていた。

 

「風で胞子の拡散を妨げていますわ。すでに生えたものまでは消せませんけれど」

 

「……あー、なるほど」

 

 切島が頷く。

 

「じゃあ、あの手を振るのにも意味あんのか」

 

「ええ」

 

 八百万はリングを見下ろす。

 

「ただ、小森さんもそれを分かったうえで動いています。正面から風を受けない位置へ回り込んでいますもの」

 

 実際、小森は拳藤が手を振る方向を避け、横へ移動していた。

 

 拳藤が身体を向ければ、また反対側へ。

 

 胞子は風に流されても、すべてが消えるわけではない。

 

 少しずつ身体へ付着していく。

 

 それが小森の狙いだった。

 

     ◇

 

 拳藤は肩についたキノコを払い落とした。

 

 同じことを続けていても埒が明かない。

 

 小森は逃げ足が速いわけではない。

 

 けれど、自分が大きな手を振ると、その動作を見てから避けてくる。

 

 手が巨大な分、振り始めの動きも大きい。

 

 だから読まれる。

 

 拳藤は両手を開いた。

 

 右手だけを巨大化させる。

 

 小森が身構えた。

 

「……また風?」

 

「さあね!」

 

 拳藤が右手を振った。

 

 小森はすぐに横へ跳ぶ。

 

 風圧が通り過ぎる。

 

 だが、拳藤は追撃しなかった。

 

 小森が着地するのを待っている。

 

「……?」

 

 小森が首を傾げた。

 

 その瞬間、拳藤が地面を蹴った。

 

「……っ!」

 

 拳藤は大きな手を振り回さず、普通の腕のまま間合いを詰める。

 

 小森が後ろへ下がった。

 

 拳藤の拳が迫る。

 

「わっ、近い近い!」

 

 小森は身体を反らしてかわした。

 

 拳藤の右腕が通り過ぎる。

 

 そのまま左手が伸びてきた。

 

 小森は咄嗟にしゃがむ。

 

 その頭上で、拳藤の左手が巨大化した。

 

「……!」

 

 広がった掌が、逃げ道を塞ぐ。

 

 小森は横へ跳んだ。

 

 だが、拳藤はそれを追わなかった。

 

 巨大な手を盾のように立てたまま、小森の移動先へ身体を寄せる。

 

「……あれ?」

 

 小森が目を瞬かせる。

 

 拳藤はその隙に、リングの中央を確保していた。

 

 小森が逃げようとすれば、自然と外側へ向かうことになる。

 

「……そういうことかあ」

 

 小森の表情が、少しだけ真剣になった。

 

「一佳ちゃん、私を場外に出す気だね?」

 

「そりゃそうでしょ。試合なんだから」

 

 拳藤は笑った。

 

「捕まえさせてもらうよ、小森!」

 

     ◇

 

 小森は両手を広げた。

 

 胞子が散る。

 

 拳藤は左手を大きく振り、風を起こした。

 

 だが、小森もそれを待っていた。

 

 風が通り過ぎる。

 

 その直後、小森は拳藤の横へ回り込んだ。

 

「それっ!」

 

 小森の口から、軽い掛け声が漏れる。

 

 拳藤の袖へキノコが生えた。

 

 続いて、足首。

 

 靴の周りにも小さな傘が増えていく。

 

「……っ!」

 

 拳藤の踏み込みが鈍った。

 

 靴の縁に生えたキノコが、足の動きを邪魔している。

 

 大きく踏み込もうとすると、違和感がある。

 

 無理に動けば潰せるだろう。

 

 しかし、その一瞬の引っかかりが厄介だった。

 

「……やるじゃん!」

 

 拳藤が声を上げる。

 

 小森はにこりと笑った。

 

「えへへ」

 

 そのまま、拳藤の背後へ回ろうとする。

 

 拳藤は振り向いた。

 

 だが、足元が邪魔で十分に踏み込めない。

 

 小森が拳藤の脇を抜けた。

 

 リングの中央へ。

 

「……っ!」

 

 拳藤が奥歯を噛む。

 

 これで位置が入れ替わった。

 

 今度は、自分がリングの外側へ近づいている。

 

 小森は距離を取ると、両手を胸の前で合わせた。

 

「逆転だねえ、一佳ちゃん」

 

「……そうみたいだね」

 

 拳藤は足元を見た。

 

 靴の周りに生えたキノコ。

 

 それから、小森の位置を確かめる。

 

 中央。

 

 その向こうに、リングの反対側の縁が見える。

 

 拳藤は息を整えた。

 

 無理に走れば、また足を取られる。

 

 ならば、足が動かなくても使えるものを使う。

 

 拳藤は、ゆっくり両手を持ち上げた。

 

     ◇

 

「……ん?」

 

 小森が首を傾げる。

 

 拳藤は右手を巨大化させた。

 

 いつもより、さらに大きく。

 

 指が伸び、掌が広がる。

 

 小森は身構えた。

 

 また風が来る。

 

 そう考え、横へ跳べるよう足を開いた。

 

 拳藤は右手を振り下ろした。

 

 ただし、狙いは小森ではない。

 

 床だった。

 

 巨大な掌がリングを叩く。

 

 硬い音。

 

 その衝撃で、拳藤の身体が僅かに持ち上がった。

 

「……えっ?」

 

 小森の目が丸くなる。

 

 拳藤は右手を支点に、身体を前へ運んでいた。

 

 足で踏み込む代わりに、巨大な腕で自分を押し出したのだ。

 

 拳藤が小森へ迫る。

 

「……っ!」

 

 小森は慌てて後ろへ下がった。

 

 拳藤はすぐに右手を縮める。

 

 今度は左手を巨大化させた。

 

 小森の前へ、大きな掌が広がる。

 

「わっ!」

 

 小森は横へ逃げた。

 

 だが、拳藤もすぐに身体を向ける。

 

 普通の足運びでは追いつけない。

 

 ならば、また手を使う。

 

 左手を床へつき、身体を押し出す。

 

 その勢いで、小森との距離を詰めた。

 

『おおっとォ! 拳藤、巨大な手を使って自分の身体を運んでいる! 足元を封じられても止まらねえ!』

 

『個性の使い方を変えたな』

 

 相澤が言った。

 

『拳で殴ることだけが、あの個性の使い道じゃない』

 

 小森は後ろへ下がった。

 

 リングの縁が近い。

 

「……あわわ」

 

 小森は一度、拳藤の大きな手を見た。

 

 あれを正面から受けるわけにはいかない。

 

 もう一度、胞子を散らす。

 

 拳藤の腕へ、小さなキノコが生え始めた。

 

「……っ!」

 

 だが、拳藤は止まらなかった。

 

 右手を大きく開く。

 

 その掌を、小森の進路へ向けた。

 

「……!」

 

 小森は反対側へ跳ぶ。

 

 そこへ、拳藤の左手が広がった。

 

 大きな壁。

 

 小森は咄嗟に身を屈めた。

 

 下を潜れば、まだ抜けられる。

 

 そう考えた瞬間。

 

 拳藤の右手が床へついた。

 

 身体が一気に前へ出る。

 

「……あっ!」

 

 小森は顔を上げた。

 

 拳藤が、目の前にいた。

 

 巨大な左手は、振り抜かれない。

 

 代わりに、開いた掌が小森の身体を受け止める。

 

「捕まえた!」

 

「……っ!」

 

 小森は咄嗟に身体を捻った。

 

 逃げようとする。

 

 だが、拳藤は掌を閉じなかった。

 

 押さえつけるのではなく、大きな手の面を使って進路を塞ぐ。

 

 そのまま、少しずつ押し出した。

 

「……うわっ、ちょっ、待って!」

 

 小森が足を動かす。

 

 拳藤は力加減を調整しながら、確実に前へ進んだ。

 

 リングの縁が迫る。

 

「……っ!」

 

 小森は最後に横へ抜けようとした。

 

 だが、拳藤が右手を広げる。

 

 逃げ道が塞がれた。

 

「……あ」

 

 小森の足が、リングの外へ出た。

 

 続いて、もう片方も。

 

 拳藤はすぐに押すのをやめ、掌を差し出した。

 

 小森はその手へ掴まり、転ばずに地面へ下りる。

 

 一瞬の静寂。

 

 ミッドナイトが腕を上げた。

 

「小森、場外! 勝者、拳藤一佳!」

 

『決まったァァァ!! キノコの包囲を抜け出し、最後は巨大な掌で場外へ! 勝者、拳藤一佳ァァ!!』

 

 競技場が歓声に包まれた。

 

     ◇

 

「……あーあ」

 

 小森は地面を見下ろした。

 

 それから、拳藤の顔を見上げる。

 

「負けちゃったあ」

 

 拳藤が手を元の大きさへ戻した。

 

「いやー、危なかったよ。途中、完全に足止められてたし」

 

「もうちょっとだったのにー」

 

 小森が頬を膨らませる。

 

「一佳ちゃん、ずるいよ。手で歩くなんて」

 

「いや、ずるくないでしょ!」

 

 拳藤が笑った。

 

 小森も、つられて笑う。

 

「……次は負けないからね」

 

「うん。またやろう」

 

 拳藤が拳を差し出した。

 

 小森は自分の拳を軽く当てる。

 

 それから、ふと拳藤の袖を見た。

 

「あっ」

 

「……ん?」

 

「まだ一個、生えてる」

 

 拳藤が腕を見る。

 

 袖の端に、小さなキノコが残っていた。

 

「……ほんとだ」

 

「えへへ。お土産だね」

 

「いらないって!」

 

 二人の笑い声が、リングの外に響いた。

 

     ◇

 

『これにて決勝トーナメント一回戦、全試合終了ォォ!!』

 

 プレゼント・マイクの声が競技場に響き渡った。

 

『勝ち上がった八人が出揃ったぜ! ここからは準々決勝! いよいよベスト四を懸けた戦いだァァ!!』

 

 大型モニターが切り替わる。

 

 そこに、次の対戦カードが表示された。

 

 緑谷出久 対 轟焦凍。

 

 黒崎一護 対 井上織姫。

 

 爆豪勝己 対 芦戸三奈。

 

 飯田天哉 対 拳藤一佳。

 

 観客席がどよめいた。

 

「おー、次も結構すげえ組み合わせじゃね?」

 

 上鳴がモニターを見上げる。

 

 切島も頷いた。

 

「緑谷と轟か……こりゃ楽しみだな」

 

「爆豪と芦戸も、同じA組じゃん」

 

 瀬呂が言う。

 

「さっき鉄哲相手にあんだけ動いてたし、芦戸も簡単には負けねえだろ」

 

 芦戸は席で腕を組んだ。

 

「当然っしょ! 次も勝つから!」

 

 その少し離れた場所で、一護はモニターを見上げていた。

 

 視線が止まったのは、二番目の対戦カード。

 

 黒崎一護。

 

 井上織姫。

 

「……井上、か」

 

 ぽつりと呟く。

 

 体育祭で再会してから、まだそれほど時間は経っていない。

 

 けれど、彼女の戦いは見ていた。

 

 常闇との試合で見せた動きも、盾の使い方も。

 

 前世の頃の織姫とは違う。

 

 十五年という時間を、この世界で生きてきたのだ。

 

「……さて」

 

 一護は椅子の背にもたれた。

 

 簡単な相手ではない。

 

 だからこそ、気を抜くつもりもなかった。

 

     ◇

 

 B組の観客席では、拳藤が戻ってきたところだった。

 

「お疲れさま、一佳ちゃん!」

 

 織姫が立ち上がる。

 

「ありがと。いやー、結構しんどかった」

 

 拳藤は肩を回した。

 

「小森の個性、知ってても厄介なんだよね」

 

「うん。すごかったね!」

 

 織姫は小森にも笑いかけた。

 

「小森さんも、お疲れさま!」

 

「ありがとー。惜しかったんだけどねえ」

 

 小森は拳藤の隣へ腰を下ろした。

 

 拳藤はモニターを見上げる。

 

 そして、二番目の対戦カードで目を止めた。

 

「……あ」

 

 織姫も、その視線を追った。

 

 黒崎一護。

 

 井上織姫。

 

「……そっか」

 

 拳藤が呟く。

 

「次、黒崎となんだね」

 

「うん」

 

 織姫は頷いた。

 

 拳藤は彼女の顔を見た。

 

「……大丈夫?」

 

「え?」

 

「いや、知り合いなんでしょ。戦いにくかったりしない?」

 

 織姫は少し考えた。

 

「……ううん」

 

 それから、笑う。

 

「大丈夫だよ」

 

 拳藤が目を瞬かせる。

 

 織姫はもう一度モニターを見上げた。

 

「黒崎くんなら、きっと手加減しないから」

 

 その言葉に、拳藤は小さく笑った。

 

「……なるほどね」

 

「私も、ちゃんと戦いたいんだ」

 

 織姫は両手を握った。

 

 常闇との試合で感じたこと。

 

 うまくいったことも、足りなかったこともある。

 

 それでも、自分が積み重ねてきたものを全部使って戦えた。

 

 次は一護だ。

 

 前世で何度も背中を追い、何度も助けられた相手。

 

 その一護と、今度は同じリングに立つ。

 

「……楽しみだね」

 

 拳藤が言った。

 

 織姫は笑って頷いた。

 

「うん!」

 

     ◇

 

 実況席では、プレゼント・マイクが次の対戦カードを読み上げていた。

 

『まずは緑谷VS轟! 予選から注目を集めてきた二人が、ここで激突する!』

 

 相澤はモニターへ目を向けた。

 

『……どちらにとっても、楽な試合にはならないだろうな』

 

『おっ、珍しく乗り気じゃねえか!』

 

『別に』

 

『そう照れんなって!』

 

『照れてない』

 

 プレゼント・マイクが笑う。

 

『さあ、準々決勝まで少し休憩を挟むぜ! 選手たちはしっかり身体を休めてくれよ!』

 

 場内に案内が流れる。

 

 観客が席を立ち、売店へ向かい始めた。

 

 リングでは、セメントスが床の点検をしている。

 

 次の試合に備え、競技場は一時的な休息へ入った。

 

     ◇

 

 選手通路へ向かう途中、飯田は緑谷と顔を合わせた。

 

「緑谷くん!」

 

「飯田くん!」

 

「次は轟くんとだな!」

 

「……うん」

 

 緑谷は頷いた。

 

 その顔には、先ほどのお茶子の試合を見ていたときとは違う緊張が浮かんでいた。

 

 飯田は眼鏡を押し上げる。

 

「彼は強敵だ。だが、君もここまで勝ち上がってきた。胸を張って臨んでくれ!」

 

「ありがとう」

 

 緑谷は拳を握った。

 

「飯田くんも、準々決勝進出おめでとう」

 

「ああ! 次の相手も強い。気を引き締めねば!」

 

 二人は軽く言葉を交わし、それぞれの方向へ歩き始めた。

 

 飯田は、ふと足を止めた。

 

 少し離れた通路の先。

 

 そこを、轟が歩いていた。

 

 緑谷も気づいたらしく、足を止める。

 

 轟はこちらを見ると、僅かに視線を向けた。

 

 何かを言うでもなく、そのまま通路の奥へ進んでいく。

 

 緑谷はその背中を見送った。

 

 飯田も、しばらく黙っていた。

 

 次の試合まで、もう長くはない。

 

 緑谷は一度深く息を吸い、歩き出した。

 

 飯田はその背中を見送り、自分も控室へ向かった。

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