休憩を終えた観客たちが、続々と席へ戻っていた。
競技場の大型モニターには、八人に絞られた決勝トーナメント表が映し出されている。
その最上段。
緑谷出久。
轟焦凍。
雄英体育祭、決勝トーナメント準々決勝第一試合。
障害物競走を一位で通過した緑谷と、圧倒的な氷結能力を持つ轟。
二人の対戦が、間もなく始まろうとしていた。
◇
選手通路を歩きながら、緑谷は右手を開いた。
握る。
もう一度、開く。
指先に異常はない。
一回戦の発目との試合では、彼女の発明品に振り回されたものの、大きな怪我を負わずに済んだ。
それは幸運だったと思う。
だが、次の相手は違う。
轟焦凍。
個性は『半冷半燃』。
右半身から氷を、左半身から炎を発生させる。
緑谷はこれまで一度も、轟が炎を使うところを見たことがなかった。
使えないわけではない。
轟自身が、使わないと決めているのだ。
その理由も、本人から聞いていた。
父親であるエンデヴァーへの反発。
そして、母親から受け継いだ氷だけで一番になるという決意。
あのときの轟の表情が、脳裏に浮かぶ。
(……轟くん)
緑谷は拳を握った。
相手が背負っているものを、自分がすべて理解できるとは思わない。
けれど、それを理由に手を抜くつもりもなかった。
オールマイトから託された力。
まだ満足に扱えず、使うたびに身体を傷つけてしまう力。
それでも、自分はここまで来た。
(……勝ちたい)
緑谷は顔を上げた。
そのときだった。
「君が緑谷出久か」
低い声が、通路に響いた。
緑谷が足を止める。
目の前に立っていたのは、巨大な体躯を持つ男だった。
炎をまとった髭。
鋭い眼差し。
日本のプロヒーローランキング第二位。
フレイムヒーロー、エンデヴァー。
「……エンデヴァー!」
思わず声が漏れた。
エンデヴァーは緑谷を見下ろした。
「君の活躍は見せてもらった。素晴らしい個性だね」
「……ありがとうございます」
「指先からあれほどの風圧を生み出すとは。出力だけなら、オールマイトに匹敵するものがある」
「……っ」
緑谷の表情が僅かに強張った。
エンデヴァーはそれを気にする様子もなく、続けた。
「うちの焦凍には、オールマイトを超えてもらわなければならん」
その言葉に、緑谷は顔を上げた。
「君との試合は、あいつの実力を測る良い機会になるだろう」
エンデヴァーは腕を組んだ。
「くれぐれも、みっともない試合にはしないでくれたまえ」
「…………」
丁寧な言葉遣いだった。
しかし、そこには緑谷自身の目標や意志を尋ねる気配がなかった。
この男が見ているのは、息子の力。
そして、その先にあるオールマイトの背中だ。
「……試合直前に失礼した」
エンデヴァーが踵を返す。
「待ってください!」
緑谷は咄嗟に声を上げた。
大柄な背中が止まる。
「……何かね」
「僕は、オールマイトじゃありません」
エンデヴァーが眉を寄せた。
「そんなことは当然――」
「……当たり前のことですよね」
緑谷は拳を握り締めた。
それから、まっすぐに男を見上げる。
「轟くんも、あなたじゃない」
「…………」
エンデヴァーは振り返った。
燃えるような眼差しが、緑谷を捉える。
緑谷は視線を逸らさなかった。
「僕は、轟くんと戦います」
短い沈黙が落ちた。
やがて、エンデヴァーは鼻を鳴らした。
「……そうか」
それだけ言って、通路の奥へ歩き去っていく。
緑谷はその背中を見送った。
心臓が、激しく鳴っていた。
国内第二位のヒーローを相手に、随分と生意気なことを言ってしまった。
けれど、言わずにはいられなかった。
「……よし」
緑谷は息を吐き、競技場へ向かって歩き始めた。
◇
『さあさあ! お待たせしたぜ、リスナー諸君! ここからはいよいよ準々決勝だァ!!』
プレゼント・マイクの声が、競技場に響き渡った。
『勝ち上がった八人が、ベスト四を懸けて激突する! 最初のカードはこいつらだァ!!』
大型モニターが切り替わる。
『障害物競走一位! 発目との一回戦では散々振り回されながらも突破した、底知れねえパワーの持ち主! 一年A組、緑谷出久ゥゥ!!』
緑谷が選手通路から飛び出した。
観客席から歓声が上がる。
リングに足を踏み入れた緑谷は、一度大きく息を吸った。
『対するは! ここまで圧倒的な氷結能力を見せつけてきた推薦入学組! 一年A組、轟焦凍ォォ!!』
反対側から轟が姿を現す。
歩調は落ち着いていた。
表情にも、目立った変化はない。
ただ、緑谷へ向けられた視線には、明確な闘志があった。
「……緑谷」
「轟くん」
開始位置へ向かう途中、二人は短く言葉を交わした。
「言っとくが、手加減する気はねえぞ」
「……うん」
緑谷は頷いた。
「僕も、勝ちに来た」
轟は何も答えず、自分の位置へ下がった。
ミッドナイトが二人を見渡す。
「準々決勝第一試合――始め!」
轟が右足を踏み込んだ。
◇
白い霜が、リングを走った。
次の瞬間。
轟の足元から、巨大な氷塊が立ち上がる。
「……っ!」
緑谷は右手を構えた。
氷の壁が、瞬く間に視界を埋め尽くしていく。
逃げる余裕はない。
ならば。
緑谷は指を弾いた。
空気が破裂した。
猛烈な衝撃波が氷へ激突し、巨大な塊を正面から打ち砕く。
砕けた氷が四方へ飛び散った。
『うおおおっとォ!! 開始早々、とんでもねえ一撃がぶつかったァ!!』
粉雪のような氷片が舞い落ちる。
その中に、緑谷は立っていた。
だが。
「……っ、ぐ……!」
右手の指が一本、力なく垂れている。
緑谷は痛みを堪えながら、手を下ろした。
轟はそれを見ていた。
「……自分の身体を壊してまで、防ぐのか」
右半身から、再び冷気が溢れる。
「なら、次はどうする」
床を氷が走った。
緑谷は左へ跳ぶ。
だが、氷はその先まで広がっていた。
足場が、次々と白く染まる。
「……っ!」
緑谷は別の指を立てた。
再び衝撃波が放たれる。
氷が砕け、進路が開いた。
その代償に、また一本。
指へ鋭い痛みが走った。
緑谷は歯を食いしばる。
轟は距離を詰めてこない。
それどころか、氷結でリングの広い範囲を制圧し、緑谷が近づく隙そのものを奪おうとしていた。
『轟の氷が止まらねえ! 緑谷も次々に打ち砕いていくが、これは激しいぞ!』
『……緑谷は正面から氷の進行を止めているわけじゃない』
相澤が口を開いた。
『衝撃波で氷を破壊し、逃げ道を作っている。だが、それを続けるほど自分の身体が傷つく』
『なるほど……! 轟の攻撃を防げても、緑谷には大きな負担がかかってるわけか!』
『ああ。今のままでは長く持たない』
相澤はリングへ視線を戻した。
◇
「……あいつ」
A組の観客席で、一護が眉を寄せた。
緑谷は再び氷を砕き、その反動で後方へ跳んでいた。
着地した足が、僅かによろめく。
右手はすでに、まともに握れない状態だった。
「……大丈夫なのかよ、緑谷」
切島が呟いた。
その言葉に、一護は答えなかった。
轟の攻撃を見れば、緑谷の判断が間違っているとは言い切れない。
あの氷は速く、範囲も広い。
まともに巻き込まれれば、身動きが取れなくなる。
だから衝撃波で砕く。
理屈は分かる。
だが。
(……そんな使い方、いつまでも続けられるわけねえだろ)
一護は腕を組んだ。
それでも、緑谷の目には諦めがなかった。
むしろ、指を失うたびに何かを確かめるように轟を見ている。
単に勝つためだけではない。
何かを、あいつに伝えようとしている。
そんな気がした。
◇
緑谷は地面を蹴った。
右へ。
氷が迫る。
左へ跳ぶ。
その先にも、氷。
轟は緑谷の移動先を読んでいた。
真正面から大きな氷塊を放つだけではない。
足元へ薄く氷を伸ばし、走るための場所を奪う。
緑谷が跳べば、その着地先を狙う。
(……強い!)
冷静で、無駄がない。
しかも、こちらは衝撃波を使うたびに身体を壊してしまう。
対して轟は、まだ右側しか使っていない。
明らかな実力差だった。
緑谷が踏み込んだ瞬間、足首へ冷気がまとわりついた。
「……しまっ!」
床から伸びた氷が、靴を固定する。
続けて、巨大な氷塊が迫った。
緑谷は左腕を構えた。
指では間に合わない。
なら、腕ごと。
力を流し込む。
直後、凄まじい衝撃波が氷を吹き飛ばした。
緑谷自身も爆風のような反動に巻き込まれ、床を転がる。
「……ぐ、ああっ……!」
左腕が、激しく痛んだ。
肘から先へ、まともに力が入らない。
呼吸が乱れる。
痛みで視界が滲んだ。
それでも、緑谷は立ち上がった。
轟は追撃しなかった。
その代わり、緑谷の腕へ目を向ける。
「……そこまでして勝ちたいのか」
緑谷は顔を上げた。
「……勝ちたいよ」
掠れた声が出る。
「当たり前だろ……!」
轟は僅かに目を細めた。
そして、再び右手を構えた。
◇
緑谷の腕が、力なく垂れ下がっている。
B組の観客席で、織姫は思わず手を握り締めた。
「……緑谷くん」
隣の拳藤も、険しい顔でリングを見つめている。
「……あれ、相当まずくない?」
「うん……」
織姫は小さく頷いた。
骨だけではない。
あれだけ大きな力を繰り返し流し込めば、周囲の組織にも相当な負担がかかるはずだ。
今すぐ治してあげたい。
そんな気持ちが、自然と込み上げてくる。
だが、試合はまだ続いている。
彼は自分の意志で立ち上がり、前を向いていた。
織姫は唇を引き結んだ。
「……すごいね、あの子」
拳藤が呟いた。
「……うん」
緑谷が再び地面を蹴る。
轟の氷が迫る。
また衝撃波が弾けた。
織姫はその光景を見つめた。
「……何か、伝えたいのかな」
「え?」
拳藤が顔を向ける。
「緑谷くん、ずっと轟くんの方を見てるから」
織姫は小さく続けた。
「勝ちたいっていう気持ちだけじゃない気がするんだ」
拳藤はリングへ目を戻した。
轟は緑谷の怪我を見て、何かを言っている。
緑谷も、必死に言葉を返しているようだった。
何を話しているのかは、観客席まで届かない。
ただ、二人が普通の試合以上に何かをぶつけ合っていることだけは分かった。
◇
轟の右肩には、白い霜がまとわりついていた。
息を吐くたび、唇の前へ白いものが広がる。
緑谷はそれを見逃さなかった。
(……やっぱり)
氷を使えば、身体が冷える。
使い続ければ、その負担は積み重なる。
轟の力も、決して無制限ではない。
だが、それを補うための能力が、もう片方にはある。
左半身の炎。
それさえ使えば、身体を温められる。
もっと自由に戦えるはずだ。
なのに、轟は使わない。
「……轟くん」
緑谷が呼びかけた。
轟は右手を上げる。
「……何だ」
「寒いんだろ」
轟の表情が変わった。
「右側ばかり使ってるから……身体が冷えてる」
「……」
「左側も使えば、もっと自由に戦えるはずだ」
轟の目が険しくなる。
「……知ったような口を利くな」
冷気が床を這った。
「俺は、あの炎を使わねえ」
「……っ」
「親父の力なんざ、頼らねえ。あいつの思い通りになってたまるか」
緑谷は歯を食いしばった。
轟が何をされたのか。
母親が何を経験してきたのか。
本人から聞いても、簡単に理解できるものではない。
けれど。
今、ここにいるのは。
「……どこ見てるんだよ」
緑谷が呟いた。
「あ?」
轟が眉を寄せる。
緑谷は顔を上げた。
「今、君が戦ってるのは僕だ!」
その声が、リングに響いた。
「君のお父さんじゃない!」
「……っ!」
轟の表情が強張った。
「……何だと」
「僕は君に勝ちたいんだ! ここで勝って、もっと先に進みたい!」
緑谷は傷ついた腕を持ち上げた。
痛みが走る。
それでも、言葉を止めなかった。
「麗日さんも、八百万さんも……みんな、勝ちたくて全力で戦ってた!」
「……」
「僕だってそうだ!」
緑谷が一歩踏み込む。
「それなのに、君は……!」
轟の右手から、冷気が溢れた。
「……黙れ!」
氷が床を走る。
緑谷は残った力を右手へ集めた。
すでに傷ついた指。
それでも、もう一度。
指を弾いた。
衝撃波が氷を砕いた。
「……ぐっ!」
緑谷の身体が揺れる。
膝が折れそうになる。
だが、倒れない。
轟はその姿を見つめていた。
「……何でそこまで」
思わず声が漏れた。
緑谷は息を整えながら、轟を見た。
「……君が、強いからだよ」
「……」
「だから、勝ちたい。君の全力を超えて、勝ちたいんだ」
轟は黙っていた。
緑谷は続けた。
「君の事情も、決意も……僕には全部分からない」
その声には、怒りだけではないものが混じっていた。
「でも、全力を出さないまま一番になって……それでお父さんを否定したって、僕は納得できない!」
「……っ」
轟の右手が震えた。
緑谷は轟の左半身を見た。
父親から受け継いだという、その力。
轟が憎み、拒み続けている炎。
けれど、それを持って生まれ、使うことができるのは、他の誰でもない。
目の前にいる轟自身だ。
「君の! 力じゃないか!!」
◇
轟の視界が揺れた。
目の前には、全身に傷を負った少年がいる。
腕はまともに動かず、息も荒い。
それなのに、まだ自分へ向かってくる。
自分が炎を使わなければ、緑谷にとっては有利なはずだ。
わざわざ相手の力を引き出す必要などない。
それでも、緑谷は叫んだ。
全力で来い、と。
何故だ。
何故、そこまで。
そのとき。
轟の脳裏に、古い記憶が蘇った。
幼い頃の自分。
テレビの向こうで笑っていたヒーロー。
どれほど苦しい状況でも、最後には人を安心させる笑顔。
オールマイト。
あんなふうになりたい。
誰かを救けるヒーローになりたい。
そう思っていた。
父親に言われたからではない。
自分が、そうなりたいと思ったのだ。
そして。
その隣にいた、母親。
優しく自分を見つめてくれた人。
父親のことも、家の事情も。
何も知らず、ただヒーローに憧れていた頃の記憶。
母親は、そんな自分の願いを否定しなかった。
轟は唇を噛んだ。
(……俺は)
いつからだろう。
ヒーローになることよりも、父親を否定することばかり考えるようになったのは。
炎を使わない。
あいつの思い通りにはならない。
それだけを、ずっと握り締めていた。
けれど。
目の前の緑谷は、身体を壊しながらもこちらを見ている。
父親でも、母親でもない。
自分自身を。
さっきの言葉が、耳の奥に残っていた。
父親から受け継いだ力。
だからといって、その力の使い道まで父親のものになるわけではない。
それをどう使うか。
何のために使うのか。
決めるのは、自分だ。
轟はゆっくりと右手を下ろした。
代わりに、左手を見つめる。
その指先が、僅かに震えていた。
ずっと拒み続けてきたもの。
けれど、かつて母親は、自分がなりたいものになっていいのだと教えてくれた。
その言葉を、今になって思い出した。
轟は息を吸った。
そして。
小さな火が、左手の指先に灯った。
◇
『おおっとォ!?』
プレゼント・マイクの声が響いた。
轟の左腕から、炎が立ち上る。
小さな火は瞬く間に勢いを増し、左肩を包むほどの熱量へ変わった。
『炎だァァ!! 轟の左側から炎が噴き出したァァ!!』
競技場がどよめいた。
ここまで氷結で戦ってきた轟が、初めて炎を使ったのだ。
その威力も尋常ではなかった。
熱気がリングの上を走り、周囲の空気が揺らめく。
『氷だけじゃねえ! 炎もこの威力かよ! とんでもねえ個性だァ!!』
実況席で、相澤が目を細めた。
『……半冷半燃。ようやく両方を使ったか』
その言葉には驚きよりも、静かな納得があった。
相澤はそれ以上を語らず、リングへ視線を戻した。
観客席の一角では、エンデヴァーが立ち上がっていた。
「……焦凍!」
炎をまとった男の声が、周囲に響く。
その顔には、隠しきれない興奮が浮かんでいた。
「そうだ……それでいい!」
エンデヴァーは身を乗り出した。
「その力を使え! 焦凍ォ!!」
『おおっと、エンデヴァーまで大興奮だァ! こりゃすげえ試合になってきたぜ!』
プレゼント・マイクの実況が続く。
だが、リングの上にいる轟は、その声をほとんど聞いていなかった。
自分の左手を見つめていた。
そこから立ち上がる炎。
確かに、父親から受け継いだ力だ。
けれど。
今、これを使ったのは自分だ。
誰かに命じられたわけではない。
緑谷の言葉を聞き、思い出した。
自分が、ヒーローになりたかった理由を。
「……ちくしょう」
轟が小さく呟いた。
緑谷は荒い息を吐きながら、その姿を見つめていた。
左側の炎。
ようやく現れた、轟のもう一つの力。
緑谷の口元が、僅かに緩んだ。
「……それだよ」
轟が顔を上げる。
「……何笑ってんだ」
その声には、先ほどまでの冷たさがなかった。
「その怪我で……お前、何考えてんだよ」
緑谷は答えなかった。
ただ、構え直す。
もう腕はまともに動かない。
身体のあちこちが痛み、立っているだけでも辛い。
それでも。
ここからだ。
轟の全力を相手に、どこまでやれるのか。
それを確かめたい。
「……緑谷」
轟が左手を握った。
「ありがとな」
緑谷の目が僅かに見開かれる。
炎が大きく燃え上がった。
「……俺だって、ヒーローになりてえんだ」
◇
A組の観客席では、誰もがリングを見つめていた。
「……あれが、轟の炎か」
瀬呂が呟いた。
先ほどまで競技場を包んでいた冷気が、熱気へ変わっていく。
氷だけでも圧倒的だった轟が、もう一つの力を使い始めた。
「……すげえな」
切島が息を呑む。
一護は何も言わなかった。
轟の顔を見ていた。
先ほどまで、あいつはどこか別のものと戦っていた。
目の前の緑谷ではなく。
観客席にいる父親でもなく。
もっと深いところにある、何かと。
だが、今は違う。
轟の目が、ようやく緑谷を捉えている。
「……ったく」
一護が小さく息を吐いた。
緑谷は、ほとんど動かない腕を構えている。
勝つことだけを考えるなら、相手が炎を使わない方が都合は良かったはずだ。
それでも、あいつは轟を焚きつけた。
自分の身体を壊してまで。
「……何やってんだよ、お前は」
一護は呟いた。
呆れているようで、そうとも言い切れない声だった。
あんなふうに、目の前の誰かを放っておけない人間を、一護はよく知っている。
何より、自分自身がそうだった。
◇
B組の観客席でも、織姫が身を乗り出していた。
「……すごい」
小森が目を丸くする。
「轟くん、あんな炎も出せるんだねえ」
「うん……」
織姫は頷いた。
けれど、見つめていたのは轟だけではなかった。
緑谷が笑っていた。
満身創痍で、もう立っていることさえ辛そうなのに。
轟が炎を使ったことを、嬉しそうに受け止めていた。
「……織姫?」
拳藤が声をかける。
「どうしたの?」
「……ううん」
織姫は小さく首を振った。
「緑谷くん、すごいなって思って」
拳藤もリングを見た。
「……確かにね」
織姫は両手を握った。
自分が傷つくことよりも、目の前の相手を優先してしまう。
そんな人を、よく知っている。
かつて何度も、無茶をしてまで誰かを護ろうとした人。
けれど、今リングに立っているのは緑谷だ。
その相手は轟。
この世界で、それぞれが積み重ねてきたものがある。
織姫は何も言わず、最後の攻防を見守った。
◇
リングの上。
轟の右半身から冷気が溢れる。
左半身からは炎。
白い霜が熱で溶け、水蒸気となって立ち上った。
緑谷はそれを正面から見据えていた。
(……これが、轟くんの全力)
氷の勢いは衰えていない。
それどころか、炎によって身体の冷えを補えるようになったことで、先ほどまでとは比べものにならないほど自由に力を使える。
緑谷は右手を持ち上げた。
指は、もうまともに曲がらない。
左腕も同じだ。
それでも。
あと一撃。
自分に残された力を、全部ぶつける。
轟が氷を広げた。
足元から巨大な氷塊が立ち上がる。
その背後で、左半身の炎が激しく燃え盛った。
冷気と熱気。
二つの力が同時に放たれ、競技場の空気が大きく揺らぐ。
『なっ……何だあの規模はァ!?』
プレゼント・マイクが叫んだ。
『轟、氷と炎を同時に使っている! 緑谷もまだ構えを解かねえぞ!!』
『……まずいな』
相澤が声を漏らした。
次の瞬間、実況席から立ち上がる。
リングの上に集まる力は、もはや学生同士の試合という範囲では収まりきらない。
ミッドナイトも、その危険を察していた。
だが、両者は止まらない。
「……轟くん!」
緑谷が叫んだ。
「全力で来い!」
轟は一瞬、目を見開いた。
それから、口元を引き結んだ。
「……ああ」
左半身の炎が、さらに強く燃え上がる。
「緑谷……!」
二人が同時に踏み込んだ。
巨大な氷塊。
燃え盛る炎。
そして、緑谷の渾身の衝撃。
その力が、正面から激突した。
◇
轟音が、競技場を揺るがした。
リングの外周から、セメントの壁が立ち上がる。
セメントスが二人の攻撃を抑え込もうとしたのだ。
だが、衝撃はその防壁にまで及んだ。
分厚い壁が砕ける。
熱風が押し寄せる。
氷片とセメントの破片が宙へ舞った。
観客席では、生徒たちが咄嗟に頭を庇った。
「……っ!」
切島が椅子の背へ手をかける。
瀬呂も身を低くした。
凄まじい風圧が通り過ぎ、競技場を白い粉塵が覆い尽くしていく。
リングの様子は、何も見えなかった。
しばらくして。
風が収まり始めた。
舞い上がった粉塵が、少しずつ薄くなっていく。
リングには、巨大な亀裂が走っていた。
床の一部は砕け、あちこちから水蒸気が立ち上がっている。
その中央に、一人の少年が立っていた。
轟焦凍。
左半身の炎が、まだ揺らめいている。
彼は荒く息を吐きながら、正面を見つめていた。
その視線の先。
リングの外に、緑谷が倒れていた。
◇
ミッドナイトが駆け寄った。
緑谷の状態を確認し、すぐに医療班へ合図を送る。
そして、腕を上げた。
「緑谷、場外! 勝者、轟焦凍!」
一拍遅れて、歓声が弾けた。
『決まったァァ!! 最後の大激突を制したのは轟焦凍! 準決勝進出だァァ!!』
轟はその声を聞いても、動かなかった。
左手を見下ろす。
炎が、小さく揺れていた。
自分の意志で使った。
それは確かだった。
けれど、たった一度炎を使っただけで、今までのことが何もかも解決したわけではない。
父親への感情も。
母親に対する思いも。
簡単に整理できるものではなかった。
轟は拳を握る。
緑谷が担架へ乗せられていく。
「……緑谷」
声に出してみた。
返事はない。
轟は少しだけ目を伏せた。
あいつは勝ちたかった。
間違いなく、本気で自分に勝とうとしていた。
それでも、こちらの炎を引き出そうとした。
その意味を、まだ完全には理解できない。
だが、あの言葉がなければ。
自分は今も、炎を使わずにいたかもしれない。
轟は左手を握り締め、ゆっくりと踵を返した。
◇
競技場では、砕けた防壁とリングの補修が始まっていた。
『いやー……とんでもねえ試合だったな、イレイザーヘッド』
『……ああ』
相澤はリングを見下ろしていた。
『最後の一撃は、どちらも出力が大きすぎた。教師側の対応が必要になる時点で、制御にはまだ課題がある』
『まったくだぜ! 会場ごと吹っ飛ぶかと思ったぞ!』
『……緑谷の方は、それ以前の問題だな』
相澤の声が低くなった。
『あの戦い方を続けるつもりなら、早急に改善させる必要がある』
『確かに、あの怪我は心配だな……』
プレゼント・マイクは担架が運ばれていった通路へ目を向けた。
それから、再び競技場へ声を響かせる。
『さあ! 準々決勝第一試合は轟の勝利! 次のカードも見逃せねえぞォ!!』
◇
「……すげえ試合だったな」
切島が息を吐いた。
瀬呂もリングを見つめたまま頷く。
「最後のあれ、何が起きたのか全然分かんなかった……」
「……そうだな」
一護が答えた。
勝敗は明らかだ。
轟の勝ち。
緑谷の負け。
けれど、試合前の轟と今の轟では、何かが変わっていた。
それは誰の目にも分かる。
そして、その変化を引き出したのは緑谷だった。
自分の身体が壊れても、目の前の相手へ言葉をぶつけ続けた。
あいつらしいと言えば、そうなのかもしれない。
だが。
(……自分の身体も大事にしろってんだ)
一護は小さく息を吐いた。
傷つくことを恐れずに誰かへ手を伸ばす。
その気持ちは理解できる。
自分だって、何度も同じようなことをしてきた。
だからこそ、分かることもある。
自分が倒れれば、次に手を伸ばすことすらできなくなる。
護りたいものが目の前にあっても、身体が動かなくなる。
それでは意味がない。
「……ま、俺が言えた義理じゃねえけどよ」
自嘲気味に呟いた。
「ん? 黒崎、何か言ったか?」
切島が振り向く。
「いや、何でもねえ」
一護は席を立った。
「次、俺だからな」
「あ、そっか!」
切島が顔を上げる。
「頑張れよ!」
「おう」
一護は短く答え、選手通路へ向かった。
◇
B組の観客席では、織姫も立ち上がっていた。
「……織姫」
拳藤が声をかける。
「次だね」
「うん」
織姫は頷いた。
先ほどまで、緑谷の怪我が気になっていた。
あれほどの負傷なら、リカバリーガールの治療にも相当な負担がかかるだろう。
けれど、今は医療スタッフに任せるしかない。
織姫は一度、担架が運ばれていった通路へ目を向けた。
「……緑谷くん、大丈夫かな」
「先生たちもついてるし、きっと大丈夫だよ」
拳藤が答えた。
「それより、あんたもそろそろ準備しないと」
「……うん!」
織姫は頷いた。
小森が顔を上げる。
「次は黒崎くんとだよね?」
「そうだよ」
「ふふ。楽しみだねえ」
織姫は小さく笑った。
「私も!」
拳藤はその顔を見て、少しだけ首を傾げる。
緊張していないわけではないだろう。
相手は、ここまで勝ち上がってきた黒崎一護だ。
塩崎との試合では巨大な蔓の包囲を破り、途中から二本の刀を使う姿まで見せた。
強敵であることは間違いない。
それなのに、織姫はどこか嬉しそうだった。
「……黒崎のこと、よく知ってるんだよね?」
「うん」
「だったら、遠慮なくやってきなよ」
拳藤が拳を差し出した。
「いつもの訓練みたいにさ」
織姫はその拳を見て、自分の拳を軽く当てた。
「ありがとう、一佳ちゃん」
小森も隣から身を乗り出す。
「私も応援してるよー!」
「ありがとう、小森さん!」
織姫は二人へ手を振り、席を離れた。
◇
控室へ続く廊下。
織姫は一度足を止め、手のひらを見つめた。
指を開く。
ゆっくりと握る。
緊張はしている。
当然だ。
次の相手は黒崎一護。
前世で、何度も助けられた人。
その強さを、自分はよく知っている。
けれど、今の黒崎くんは、あの頃とまったく同じではない。
それは自分も同じだ。
十五年。
この世界で過ごした時間。
たつきちゃんや一佳ちゃんと積み重ねてきたもの。
常闇くんとの試合では、その一部を見せることができた。
でも、まだ全部ではない。
黒崎くんも、きっとそうだ。
「……よしっ」
織姫は両手を握った。
怖くないわけではない。
負けたくない気持ちも、ちゃんとある。
それでも。
何より、楽しみだった。
もう一度、あの人と同じ場所に立てることが。
◇
反対側の選手通路。
一護は控室の壁にもたれ、背中の斬月と、腰に差したもう一本へ目を向けた。
次の相手は、井上織姫。
盾舜六花。
あの力がどれほど厄介なのかは、よく知っている。
だが、十五年の間に織姫が何を身につけたのかまでは分からない。
常闇との試合では、その一端を見た。
盾を防御するためだけに使うのではない。
攻撃の勢いをずらし、自分から間合いを詰め、最後には投げ技で勝負を決めた。
昔の井上なら、ああいう戦い方はしなかっただろう。
いや。
できなかった、という方が正しいかもしれない。
けれど、今は違う。
あいつも、この世界で十五年を生きてきた。
「……すげえよな」
一護は小さく呟いた。
それから、口元を緩める。
簡単に勝てる相手ではない。
むしろ、どこまでやれるのか分からない。
だが、それでいい。
井上が本気で来るなら、自分も応える。
それが、今のあいつに対する礼儀だ。
「……黒崎くん!」
係員の声が響いた。
「準備をお願いします!」
「……おう」
一護は壁から背を離した。
背中の斬月を確かめ、競技場へ続く通路を歩き始める。
その先には、井上織姫が待っている。