黒崎一護が新しい家へ連れてこられたのは、生まれてから数日が経った頃だった。
病院の外へ出た途端、思いがけず強い日差しが顔に当たり、一護は反射的に目を閉じた。すぐに真咲が抱き直してくれたものの、今度は風が頬を撫でていく。大した強さでもないはずなのに、身体が小さく震えた。
赤ん坊というのは、どうやら自分が思っていた以上に面倒な生き物らしい。
眠りたいときに眠れず、起きていたいときに眠ってしまう。空腹を感じれば考え事どころではなくなり、身体のどこかに不快感があっても、それが何なのかすぐには分からない。
何より厄介なのは、自分の意思をまともに伝えられないことだった。
頭の中では、以前と変わらず言葉を組み立てられる。自分が黒崎一護であることも、死神代行として戦ってきたことも、ユーハバッハとの最後の戦いも覚えていた。だというのに、いざ口を動かそうとすると、意味のある言葉にならない。
声を出すだけならできる。だが、舌や唇が思ったように動かず、無理に何かを伝えようとすれば、妙な声が漏れるばかりだった。
それどころか、本人に泣くつもりがなくても涙が出てくる。
これには、さすがの一護も参っていた。
「一護、もうすぐおうちだからね」
頭上から真咲の声が降ってきた。
一護は目を開き、ぼんやりとした視界の中で母親の顔を探した。以前より少しだけ見えるようになったとはいえ、まだ輪郭は曖昧で、近くにあるものと遠くにあるものの区別さえ難しい。
それでも、声だけは間違えようがなかった。
真咲は一護の顔を覗き込み、安心させるように微笑んだ。
「お父さん、車を出してくれてるからね。もうちょっとだけ待ってて」
言葉の意味は理解できたが、返事をすることはできなかった。
一護は諦めて目を閉じた。
少なくとも、この身体で余計な抵抗をするのは得策ではない。首さえ満足に支えられない以上、大人しくしている方がよほど安全だった。
そんなことを考えているうちに、聞き慣れた男の声が近づいてきた。
「お待たせーっ! 黒崎家の新しい生活、いよいよ開幕だ!」
「一心、病院の前でそんなに大きな声出さないの」
「何を言う真咲! 今日は我が息子が初めて家に帰る記念すべき日だぞ!」
「だからって、ほかの患者さんの迷惑になっちゃ駄目でしょう?」
「……はい」
相変わらずだった。
一護は心の中で呆れながらも、少しだけ安心していた。
父親の黒崎一心は、前の人生とほとんど変わらない。騒がしく、妙なところで大げさで、真咲に叱られれば途端に大人しくなる。
どういう理由でこんな状況になったのかは分からないが、少なくとも両親の性格については、改めて覚え直す必要がなさそうだった。
◇
新しい黒崎家は、一護の記憶にある家とよく似ていた。
一階には診療所があり、上階が家族の生活する場所になっている。玄関の位置や階段の造り、居間の家具の配置には違いがあったが、黒崎医院の看板を見たときには、思わず懐かしさを覚えた。
もっとも、一護自身が自由に家の中を見て回れたわけではない。
退院してしばらくの間は、ほとんどの時間をベビーベッドか両親の腕の中で過ごすことになった。
真咲は一護の世話をしながら家事をこなし、一心は診療所と自宅を行き来している。患者の診察が終われば上階へ戻ってくるが、そのたびに息子の顔を見ようとするので、真咲に追い返されることも少なくなかった。
「一心、さっき寝たばかりなの」
「顔を見るだけだ! 父ちゃんは何もしない!」
「本当に?」
「もちろんだとも!」
そう言いながら、一心はベッドのそばへ顔を寄せてきた。
「一護ぉ、父ちゃんだぞぉ……」
「一心?」
「……はい」
真咲の一言で、あっさり引き下がっていく。
一護はそのやり取りを聞くたびに、前の人生で見慣れていた光景を思い出した。
昔から、父親は母親に弱かった。
もっとも、ただ頭が上がらないというだけではないのだろう。一心が真咲を大切に思っていることは、幼かった一護にも分かるほどだった。
それは今も変わらないらしい。
そんな二人の姿を眺めていると、ときどき奇妙な感覚に襲われた。
前の人生で母親を失ったことは、はっきりと覚えている。
雨の降る河川敷も、冷たくなった身体も、その後に続いた日々も。
あの出来事がなかったことになったわけではない。
それなのに、こうして真咲が笑っている。
以前の人生で起きたことを覚えたまま、もう一度母親に育てられている。
考えれば考えるほど、不思議な話だった。
しかし、赤ん坊の身体は長時間の考え事を許してくれなかった。
何かを考え込んでいるうちに眠気が訪れ、気づけば数時間が過ぎている。目を覚ましたときには部屋の明るさが変わり、先ほどまでそばにいたはずの父親が診療所へ戻っていることもあった。
最初のうちは、その感覚に戸惑った。
自分が眠っている間に何が起きたのか、分からないのだ。
しかも、以前のように霊圧を探って周囲の状況を確かめることもできなかった。
一護は何度か、自分の内側にある力へ意識を向けてみた。
死神としての力。
虚の力。
滅却師の力。
かつては、それぞれ異なる性質を持つものとして感じていた力だった。今ではそのすべてが自分自身の一部なのだと理解している。
だが、いくら意識を集中させても、以前のように明瞭な感覚は返ってこなかった。
力そのものが失われたのか、それとも今の身体では感じ取れないだけなのか。
判断する材料がなかった。
いずれにしても、今すぐ確かめられることではない。
一護はそう考え、ひとまず身体が成長するのを待つことにした。
もっとも、待つだけというのも性に合わなかった。
手足が動くようになれば、どこまで自分の意思で動かせるのか試す。指が曲がるようになれば、何かを掴もうとしてみる。
傍から見れば、少し活発な赤ん坊にしか見えなかっただろう。
しかし本人としては、なかなか真剣だった。
何しろ、かつては巨大な斬魄刀を振るっていたのだ。
その自分が、今では布団の端を掴むことさえ満足にできない。
まったく、先が思いやられる。
◇
ある日の午後、一護は居間のテレビから聞こえてくる声に耳を傾けていた。
真咲は近くで洗濯物を畳んでおり、画面には昼のニュース番組が映っている。
『――現場では、駆けつけたプロヒーローによる救助活動が続けられています』
一護は目を開いた。
プロヒーロー。
病院でも聞いた言葉だった。
画面の中では、派手な衣装を身につけた男が、崩れかけた建物の前に立っている。男が両腕を持ち上げると、信じられないほど大きな瓦礫が持ち上がった。
その下から、救助隊員らしい人間が次々と出てくる。
どうやら建物の内部に取り残されていた人々を助けていたらしい。
真咲は洗濯物を畳む手を止め、感心したように画面を眺めていた。
「すごいわねえ」
テレビでは、救助された人々が男へ感謝の言葉を伝えている。
男は笑顔で手を振り、何事もなかったかのように応えていた。
一護はその光景を見つめた。
最初に病院で聞いたときは、何のことか分からなかった。
だが、どうやらこの世界には、超常的な能力を使って人々を助ける職業が存在するらしい。
それだけなら、前の人生でも似たようなものだった。
死神は虚から人々を護り、迷える魂を尸魂界へ導く。役割や仕組みは違うとしても、危険に晒された誰かを助けるという点では共通している。
しかし、一護には気になることがあった。
テレビに映っている男は、明らかに普通の人間ではなかった。
瓦礫の大きさから考えて、あれほどの重量を人間の腕力だけで持ち上げられるはずがない。
それなのに、周囲の人間は特に驚いていなかった。
むしろ、当然のことのように歓声を上げている。
以前の世界なら、あれほど目立つ力を人前で使えば、間違いなく騒ぎになっていただろう。
ところが、こちらではそうではないらしい。
『なお、今回の事故については、敵〈ヴィラン〉による個性の不正使用が原因と見られており――』
聞き慣れない言葉が続いた。
個性。
ヴィラン。
どうやら、病院で耳にしたあの単語は、単なる性格や特徴を意味するものではなかったらしい。
その後も一護は、テレビから流れてくる話に注意を向けるようになった。
ニュースでは、炎を操る人間や空を飛ぶ人間が当たり前のように登場した。身体の一部が動物のようになっている者もいれば、手のひらから光を放つ者もいる。
そうした力を持つ人間が、この世界では珍しくないという。
そして、その力を『個性』と呼ぶらしかった。
最初は半信半疑だったが、何度も似たような報道を見ているうちに、一護はようやく納得し始めた。
ここは、自分が知っている世界とは違う。
少なくとも、単純に時間が巻き戻っただけでは説明できない。
人々が持つ能力も、それを取り巻く社会の仕組みも、以前とは大きく異なっている。
ただ、その違いがどこまで及ぶのかは、まだ分からなかった。
死神は存在するのか。
虚はいるのか。
そもそも、この世界にも尸魂界のような場所があるのだろうか。
一護が知る限り、テレビではそうした存在について一度も触れられていない。
もっとも、前の世界でも一般人の多くは死神や虚の存在を知らなかった。
ニュースで報道されていないからといって、存在しないと決めつけることはできないだろう。
「一護、テレビが気になるの?」
真咲が顔を覗き込んできた。
一護は声のする方へ目を向けた。
「ふふ。まだ何を言ってるのか分からないよね」
いや、分かるんだけどな。
そう返したかったが、当然ながら言葉にはならなかった。
真咲は楽しそうに笑いながら、一護の頬を指先で撫でた。
「もう少し大きくなったら、一緒にいろんなものを見ようね」
一護は母親を見つめた。
新しい世界を知ることについては、確かに興味があった。
ただ、それ以上に気になることもある。
この世界で、自分はどんな力を使えるのだろう。
その答えが分かるのは、もう少し先になりそうだった。
◇
生後数か月が過ぎた頃、一護の身体は少しずつ自由に動くようになってきた。
首が据わり、周囲を見回せる範囲が広がった。腕を伸ばして物を掴むこともできるようになり、以前より長い時間起きていられるようにもなった。
もっとも、思いどおりに動かせるようになったからといって、何でもできるわけではない。
手を伸ばしても届かなかったり、掴んだつもりのものを落としてしまったりすることは日常茶飯事だった。
ある日、真咲が小さな布製の玩具を差し出してきた。
鮮やかな色の輪がいくつも繋がったもので、振ると鈴のような音が鳴る。
「一護、これ持てるかな?」
一護は玩具を見つめた。
正直なところ、何が面白いのかよく分からない。
だが、今の身体で自由に扱えるものは限られている。指先の動きを確かめるには、ちょうどいい大きさだった。
手を伸ばし、輪の一つを掴もうとする。
最初は指先が滑ってしまった。
もう一度試す。
今度は上手く握れた。
「わあ、上手!」
真咲が嬉しそうに声を上げた。
一護は思わず顔を上げた。
たかが玩具を掴んだだけだ。
以前なら、斬月のような巨大な刀でさえ自由に振るっていた。それを思えば、こんなことで褒められるのは何とも複雑だった。
しかし、母親は本当に嬉しそうだった。
「ちゃんと持てるようになったのね。一護、すごいじゃない」
真咲は何度も笑いかけてくる。
その顔を見ているうちに、一護は手の中の玩具をもう一度持ち上げてみた。
鈴の音が鳴る。
真咲はまた笑った。
そのときになって、一護はようやく気づいた。
自分が少しずつ成長していくことが、この人にとっては嬉しいことなのだ。
前の人生でも、母親はきっと同じように喜んでくれていたのだろう。
ただ、幼い頃の自分には、そんなことを考える余裕などなかった。
母親が当たり前のようにそばにいて、自分の成長を喜んでくれる。
そんな時間が、いつまでも続くものだと思っていた。
「一護?」
真咲が顔を覗き込んでくる。
気づけば、玩具を持ったまま動きを止めていたらしい。
一護は手を動かした。
鈴が鳴り、真咲がまた嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、何だか自分まで悪い気はしなかった。
もう一度玩具を振ろうとしたところで、指先から力が抜けた。
軽い音を立てて、玩具が床へ落ちる。
一護は自分の手を見つめた。
やっぱり、まだまだだな。
そう思ったところで、真咲が床から玩具を拾い上げた。
「大丈夫。また持ってみようね」
何の気負いもない声だった。
できなかったことを責めるでもなく、急かすでもない。ただ、もう一度やってみればいいのだと、当たり前のように言ってくれる。
一護は小さく息を吐いた。
今の自分には、そういう時間が必要なのかもしれなかった。
◇
その頃になると、一護は診療所の方へ連れていかれる機会も増えていた。
といっても、診察を手伝うわけではない。
真咲が用事で階下へ降りる際、一緒に連れていかれるだけだった。
黒崎医院はそれほど大きな病院ではなかったが、近所の人間が気軽に訪れる場所らしく、待合室にはいつも何人かの患者がいた。
その中には、前の世界なら間違いなく人目を引くような姿の者もいる。
頭に小さな角を生やした老人。腕の表面が硬い鱗に覆われた女性。大きな尻尾を持つ少年。
誰もが普通に受付を済ませ、順番を待っている。
一護は真咲の腕の中から、そうした人々を眺めていた。
テレビで見ていたときにも思ったことだが、この世界では個性を持つことが特別ではないらしい。
むしろ、何の力も持たない人間の方が珍しいのだという。
それを実感するには、こうして実際に街の人々を見るのが一番だった。
「黒崎先生、ありがとうございました」
診察室の扉が開き、少年と母親らしい女性が出てきた。
少年の腕には包帯が巻かれている。
後ろから現れた一心は、普段の騒がしさが嘘のように落ち着いた顔をしていた。
「今日はあまり無理するなよ。痛みが増したり、腫れがひどくなったりしたら、すぐにまた来てくれ」
「はい!」
「それと、しばらくは無茶な遊び方をするんじゃないぞ。個性が便利だからって、自分の身体まで丈夫になったわけじゃないんだからな」
少年は気まずそうに笑った。
どうやら、個性を使って遊んでいる最中に怪我をしたらしい。
一心は母親にもいくつか注意事項を伝え、二人を見送った。
それから、ようやく真咲たちに気づいたようだった。
「おっ、真咲! 一護も来てたのか!」
「ちょっと書類を取りに来たの。もうすぐ帰るところよ」
「そうかそうか。では父ちゃんから我が息子へ熱烈な歓迎を――」
「患者さんがいるんだから、静かにね」
「……はい」
先ほどまでの医者らしい姿が、あっという間に消えた。
一護は心の中で呆れた。
相変わらず、切り替えの激しい男だ。
しかし、一心が患者へ向けていた表情は、以前の人生で見たものとよく似ていた。
誰かが怪我をすれば治療し、困っていれば話を聞く。
今の父親が死神としての力を持っているのかは分からないが、少なくとも医者として人を助けようとするところは変わっていないらしい。
そう考えると、少しだけ安心した。
◇
さらに季節が進むと、一護の外出も増えた。
休日には真咲が近所へ散歩に連れていってくれるし、一心の仕事が休みの日には、家族揃って買い物へ出かけることもあった。
ある日の午後、三人は近くの公園へ向かっていた。
天気がよく、空には薄い雲が浮かんでいる。
一護はベビーカーの中から周囲の様子を眺めていた。
道路や信号機、商店の看板、行き交う自動車。
そうしたものは以前の世界とほとんど変わらなかったが、道を歩く人々の姿は違っていた。
犬のような耳を生やした男が携帯電話で話し、その隣を腕が四本ある女性が買い物袋を提げて歩いていく。少し離れた場所では、青い肌をした少年が友人たちと笑い合っていた。
誰も、その姿を特別なものとして扱っていない。
それがこの世界の日常なのだろう。
「今日はいい天気ねえ」
真咲が穏やかに話しかけてくる。
隣では一心が大きな袋を提げて歩いていた。
どうやら公園で食べるための軽食や飲み物を用意してきたらしい。
「真咲! 今日は父ちゃんが一護に世の中というものを教えてやろう!」
「まずは普通にお散歩しましょうね」
「いやいや、男たるもの、幼い頃から広い世界を知っておかねばならん!」
「まだ赤ちゃんなんだから、難しいことを言っても分からないわよ」
一心は胸を張ったまま、一護の方へ顔を向けた。
「なあ一護! 父ちゃんの言うこと、分かるよな!」
分かるけど、言ってることは分かんねえよ。
一護は心の中でそう返した。
すると、ちょうどそのタイミングで口から小さな声が漏れた。
「……あう」
「ほら見ろ真咲! 一護も賛成しているぞ!」
「はいはい、よかったわね」
真咲が笑い、一心は満足そうに頷いた。
どうやら今の自分の言葉は、この男にとって都合よく解釈されるらしい。
一護は早々に反論を諦めた。
公園へ着くと、そこには何組もの親子が遊びに来ていた。
滑り台やブランコの周辺では子供たちが騒ぎ、大人たちはベンチに腰を下ろして話をしている。その中には、身体に特徴的な個性を持つ子供も少なくなかった。
頭から小さな角を生やした女の子が走り回り、長い尻尾を持つ男の子が遊具へ登っている。
少し離れたところでは、手のひらから小さな光を出している子供がいた。
それを見た母親らしい女性が、すぐに駆け寄って注意している。
「こら、勝手に個性を使っちゃ駄目って言ったでしょう」
「だって、ちょっとだけだもん!」
「ちょっとでも駄目。人に当たったら危ないでしょ」
子供は不満そうに口を尖らせていたが、結局は母親に従った。
一護はその光景を眺めた。
能力を持っているからといって、好き勝手に使っていいわけではないらしい。
もっとも、それも当然のことなのだろう。
この世界では、幼い子供でさえ周囲へ危害を加えかねない力を持つことがある。そう考えると、個性の使用に関する法律や規則が存在するのも理解できた。
前の世界では、死神として力を使う場面のほとんどが戦闘だった。
だが、こちらでは違う。
力を持っている人間も、学校へ通い、買い物をし、友人と遊ぶ。その日常の中で個性をどう扱うかという問題が、当たり前のように存在しているのだ。
「お、一護。あっちにブランコがあるぞ!」
一心が嬉しそうに声を上げた。
「もう少し大きくなったら、父ちゃんが思いっきり押してやるからな!」
「一心、思いっきりは駄目よ」
「むっ、そうか。ならば適度に!」
「それならいいけど」
相変わらずくだらない会話だったが、真咲は楽しそうに笑っていた。
一護もそんな二人を眺めながら、公園の景色へ視線を戻した。
そのときだった。
「危ない!」
突然、少し離れた場所から鋭い声が響いた。
一護は反射的にそちらへ顔を向けた。
公園へ続く緩やかな坂道を、小さな自転車が勢いよく下ってきていた。
乗っているのは幼い男の子だった。
どうやらブレーキを上手くかけられなくなったらしい。必死にハンドルを握っているが、速度は落ちず、前方にいる別の子供へ向かって進んでいる。
周囲の大人たちが声を上げた。
自転車の進路上にいる女の子は、突然のことに動けなくなっていた。
一護は考えるより先に身体を動かそうとした。
危ねえ。
あのままじゃぶつかる。
立ち上がろうとする。
しかし、身体は動かなかった。
ベビーカーの中で手足が小さく跳ねただけだった。
一護は息を呑んだ。
そうだった。
今の自分は赤ん坊だ。
走ることもできない。
誰かの前へ飛び出すことも、斬月を握ることもできない。
ただ、目の前で起きていることを見るしかなかった。
そんな一護の視界を、大きな背中が横切った。
一心だった。
すでに地面を蹴り、女の子の方へ駆け出している。
「どいてろ!」
一心は女の子を庇うように進路へ踏み込み、自転車のハンドルを掴んだ。
勢いを完全に止めることはできず、身体が大きく傾く。足を踏ん張りながら自転車を横へ逃がし、最後には自分も片膝をついてしまったが、どうにか転倒させずに止めることができた。
男の子は驚いた顔で固まっていた。
周囲から、安堵の声が上がる。
「おーっと、危ねえ危ねえ!」
一心は一度大きく息を吐くと、まず自転車に乗っていた男の子の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、坊主。どっか痛いとこねえか?」
男の子はしばらく呆然としていたが、やがて首を横に振った。
続いて、一心は進路上にいた女の子へ目を向けた。
「お嬢ちゃんも怪我はねえな?」
女の子が小さく頷く。
それを確かめた一心は、ようやく安心したように笑った。
「よし。二人とも無事なら何よりだ」
自転車に乗っていた男の子の母親らしい女性が駆け寄り、何度も頭を下げていた。一心は気にするなと言わんばかりに手を振り、子供たちの怪我がないことをもう一度確かめている。
その姿を、一護は黙って見つめていた。
以前の自分なら、間に合っただろう。
あの程度の距離なら、死神としての身体能力を使えば一瞬で駆けつけられた。自転車を止めることなど、難しい話ではなかったはずだ。
だが、今は違う。
自分には何もできなかった。
危険に気づき、助けようと考えたところまでは同じだった。
けれど、その先が続かなかった。
一護はベビーカーの中で、小さな手を握った。
「びっくりしたね、一護」
真咲がベビーカーの前へしゃがみ込んだ。
その声には、まだ少しだけ緊張が残っていた。
「でも、みんな無事でよかった」
一護は母親を見上げた。
真咲は公園の入口へ目を向けている。
そこでは一心が子供たちの親と話をしていた。
大きな声で何かを言い、周囲を笑わせている。
「お父さん、ああいうところは昔から変わらないのよね」
真咲は苦笑した。
「普段はあんなにふざけてるのに、誰かが困ってるとすぐ飛んでいっちゃうんだから」
一護はもう一度、一心の方を見た。
今の父親が死神の力を持っているのかは分からない。
だが、少なくとも今使っていたのは、ごく普通の人間としての身体だった。
それでも、迷うことなく走り出した。
子供が危ないと思ったからだ。
そこに特別な理由などなかったのだろう。
「お医者さんだからって、何でもできるわけじゃないのにね」
真咲が小さく呟いた。
その言葉に、一護は少しだけ考え込んだ。
確かに、一心は何でもできるわけではない。
自転車を止め損ねていたら、自分まで怪我をしていたかもしれない。もっと危険な事故だったなら、間に合わなかった可能性だってある。
だが、少なくとも今回は間に合った。
自分にできることがあると思い、実際にそれをやってのけた。
一護は父親の姿を見つめた。
やがて一心がこちらに気づき、大きく手を振ってきた。
「おーい、真咲ー! 一護ー!」
先ほどまで真剣な顔をしていたとは思えないほど、いつもの調子だった。
「父ちゃんの大活躍、ちゃんと見てたかー!」
真咲が呆れたように溜息をつく。
「もう。ああいうこと言わなければ格好いいのに」
一護も同感だった。
ただ、不思議と悪い気分ではなかった。
自分の知っている親父は、昔からああいう男だった。
ふざけてばかりいるくせに、肝心なときには誰よりも真剣になる。
どうやら、こちらの世界でもそこは変わっていないらしい。
◇
その日の夜、一護は珍しくなかなか眠れなかった。
昼間の出来事が頭から離れなかったからだ。
目の前で誰かが危険な目に遭っている。
自分はそれに気づいている。
けれど、何もできない。
以前の自分なら、あの場面で迷うことはなかっただろう。
実際、今日の一心も迷わなかった。
ただ、二人の間には大きな違いがある。
今の一護には、助けに向かうための身体さえない。
いくら前の人生の記憶があっても、それだけで何かができるようになるわけではなかった。
しかし、だからといって、何もしないままでいるつもりもなかった。
身体は少しずつ成長している。
昨日できなかったことが、今日はできるようになる。
それなら、まずは自分の身体を自由に動かせるようになることから始めればいい。
そんな当たり前のことを考えていたとき、部屋の扉が静かに開いた。
「一護?」
真咲だった。
どうやら、まだ眠っていないことに気づいたらしい。
「どうしたの。眠れない?」
母親はベッドのそばへ腰を下ろすと、布団を掛け直してくれた。
その手が、一護の頬へ触れる。
温かかった。
「今日はいっぱいお外を見たから、興奮しちゃったのかな」
一護は母親を見つめた。
前の人生では、こうして寝かしつけてもらっていた頃の記憶はほとんど残っていない。
もっと大きくなってからのことなら覚えている。
一緒に出かけたこと。
手を繋いで歩いたこと。
笑いかけてもらったこと。
そして、最後に見た姿も。
真咲は何も知らず、穏やかな顔で息子を見つめていた。
彼女にとって、今の一護は生まれて間もない子供だ。
過去にどんな戦いを経験してきたのかも、どれほど多くのものを失ったのかも知らない。
知る必要があるとも思えなかった。
少なくとも、今すぐには。
一護は小さな手を持ち上げ、頬に触れている真咲の指を握った。
母親が微笑む。
「あら、今日は甘えん坊さんね」
何も言い返せなかった。
ただ、その手を離したくないと思った。
真咲はしばらく一護のそばにいてくれた。
やがて眠気が訪れ、意識がゆっくりと沈んでいく。
最後に聞こえたのは、母親が小さく口ずさむ子守歌だった。
◇
一護が生まれてから一年近くが過ぎようとしていた。
この頃になると、身体は見違えるほど動くようになっていた。
寝返りを打てるようになり、腹這いで移動できるようになり、やがて四つん這いで部屋の中を動き回れるようになった。
赤ん坊の身体である以上、無理をすればすぐに疲れてしまう。
それでも、自分の意思で行きたい場所へ移動できるというだけで、一護には十分な進歩だった。
もっとも、自由になった分だけ、真咲に心配をかけることも増えていた。
「一護、そっちは危ないよ」
ある日、居間の棚へ近づこうとしたところで、後ろから声がかかった。
一護は振り返った。
真咲が台所からこちらを見ている。
棚の上には、普段一心が使っている雑誌や小物が置かれていた。
一護としては、そこにあるものを少し確かめたかっただけだった。
特に、棚の端に置かれた新聞が気になっていた。
テレビで流れる情報だけでは、この世界のことを理解するには限界がある。新聞なら、もう少し詳しい内容が載っているかもしれない。
そう考えたのだ。
だが、当然ながら真咲にそんな事情が分かるはずもない。
「駄目よ。倒れてきたら危ないでしょう」
母親は一護を抱き上げ、安全な場所へ戻した。
一護は小さく溜息をついた。
せっかく近づいたのに。
そう思ったが、反論できるはずもなかった。
ただ、この頃には一護も、自分の身体の扱い方をある程度理解し始めていた。
無理なことをしようとしても、結局は失敗する。
ならば、できることから増やしていくしかない。
以前は剣術の修練でも似たようなことをしてきた。
もっとも、今取り組んでいるのは斬撃の精度でも霊圧の制御でもなく、立ち上がるための練習だった。
自分でも、なかなか奇妙な話だと思う。
だが、今の身体にはそれが必要だった。
ある日の午後、一護は居間に置かれた低いソファへ手を伸ばしていた。
縁を掴み、腕に力を込める。
膝を床についた状態から、ゆっくりと身体を持ち上げた。
足が震える。
まだ身体の重さを支えることに慣れていないため、少しでも姿勢が崩れるとすぐに倒れてしまいそうだった。
それでも、一護は諦めなかった。
足の裏を床へつけ、ソファを支えにして身体を起こす。
視界が高くなった。
これまでよりも、ずっと。
一護は思わず息を呑んだ。
立てた。
何かに掴まっているとはいえ、自分の足で身体を支えている。
それは以前の自分にとって、あまりにも当たり前の行為だった。
しかし、今の一護には違った。
何度も転び、何度も身体を起こし、それでも上手くいかなかった。
それがようやくできるようになった。
「……あ!」
思わず声が漏れた。
その声に気づいた真咲が、台所から顔を出した。
そして、一護の姿を見た瞬間、目を大きく見開いた。
「一護!」
慌てて近づいてくる。
その声に驚き、一護は母親の方へ顔を向けた。
途端に身体の均衡が崩れかけた。
まずい。
そう思った瞬間、真咲がすぐそばへしゃがみ込んだ。
「すごい! 一護、立てたのね!」
一護はどうにかソファへ掴まり直した。
真咲はその姿を見て、本当に嬉しそうに笑った。
「お父さんにも見せてあげなきゃ!」
その言葉を聞いた一護は、少しだけ嫌な予感を覚えた。
今の親父にこんなものを見せたら、間違いなく大騒ぎする。
せっかく立てたところなのだから、できれば静かに見守ってほしかった。
だが、母親の嬉しそうな顔を見ると、文句を言う気にもなれなかった。
真咲は一護の前へ手を差し出した。
「一護、こっちにおいで」
一護はその手を見つめた。
まだ歩くことはできない。
ソファから手を離せば、きっとすぐに倒れてしまう。
それでも、目の前には母親がいる。
転びそうになれば、支えてくれる距離だった。
一護はゆっくりと片手を伸ばした。
ソファの縁から指が離れる。
身体が僅かに揺れた。
反射的にもう一度掴まり直そうとしたが、その前に真咲の手が一護の小さな手を包み込んだ。
「大丈夫。ちゃんと支えてるからね」
一護は顔を上げた。
真咲が笑っている。
その笑顔を見た瞬間、ふと別の光景が脳裏を過ぎった。
真世界城。
崩れた床。
白い光。
そして、こちらへ向かって伸びかけた手。
井上織姫。
最後に見た彼女の顔を、一護は今でも覚えている。
あのとき、自分は手を伸ばした。
もう少しで届くはずだった。
けれど、彼女は自分の身体を光へ変えながら、最後まで笑っていた。
あの手を掴むことはできなかった。
それは、これから何年経とうと変わらない事実なのだろう。
だが、今は目の前に別の手がある。
以前、一度は失った母親の手だった。
一護はその手を握り返した。
小さな身体を支えてもらいながら、ゆっくりと足を動かす。
一歩。
まだ自分一人で歩けたわけではない。
母親の支えがなければ、すぐに転んでしまうだろう。
それでも、一護は自分の足を前へ出した。
「上手、上手!」
真咲が嬉しそうに声を上げた。
その声に釣られるように、一護の口元が僅かに緩んだ。
母親はそれを見て、さらに笑顔を深めた。
「ふふ、一護も嬉しいのね」
一護は否定しなかった。
今の自分は、まだ何もできないに等しい。
以前の力も使えず、誰かを護るために走り出すことさえできない。
だが、昨日までできなかったことが、今日一つできるようになった。
それは確かなことだった。
そして、この身体はこれからも成長していく。
歩けるようになり、走れるようになり、やがて自分の意思で行きたい場所へ向かえるようになる。
その先でどんな力を手にするのかは分からない。
そもそも、以前のような力が戻ってくる保証もなかった。
それでも構わないと思った。
何も分からないのなら、できることから始めればいい。
自分が何者であるかを忘れるつもりはない。
元の世界で出会った仲間たちのことも、織姫のことも。
すべてをなかったことにして、新しい人生へ逃げ込むつもりなどなかった。
ただ、目の前にある時間まで拒む必要はない。
母親が笑っている。
父親が帰ってくれば、きっと今日の出来事を聞いて大騒ぎするだろう。
そんな何でもない一日を、大切にしてもいいはずだった。
一護は母親の手を握りながら、もう一度足を動かした。
今度は少しだけ、上手く前へ出せた。
「そうそう、その調子!」
真咲が笑う。
一護も、今度は自然に笑っていた。
それからしばらくして、一心が帰宅した。
息子が初めて掴まり立ちをしたと聞いた父親は、案の定、家中に響き渡るほどの大声を上げた。
「な、何だとぉぉぉ!? 一護が立ったぁぁ!?」
「一心、声が大きい!」
「これが叫ばずにいられるか! 我が息子が! ついに! 自らの足で立ったのだぞ!」
大げさな身振りで喜ぶ父親を見て、一護は呆れたように息を吐いた。
しかし、一心はそんな息子の様子など気にも留めず、嬉しそうに抱き上げた。
「よーし一護! 次は父ちゃんと一緒に走るぞ!」
「まだ歩けもしないのに、何言ってるの」
真咲が呆れたように笑う。
一心は胸を張った。
「何を言う! 子供の成長というものは早いんだ! 今から将来の目標を立てておくことに何の問題がある!」
「じゃあ、まずは一護をちゃんと抱っこしてあげて」
「おっと、そうだった!」
一心が慌てて腕の位置を直す。
一護はその顔を見上げながら、心の中で苦笑した。
相変わらず、馬鹿な親父だ。
けれど。
こんな毎日も、悪くない。
そう思えるようになっていた。
その日の夕食後、一心は何度も一護を立たせようとして、そのたびに真咲から注意を受けた。
「一心、今日はもう十分頑張ったんだから」
「むう……せっかく我が息子の勇姿をこの目に焼きつけようと思ったのに」
「また明日見られるわよ」
真咲が笑いながら一護を抱き上げる。
一心は少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに表情を改め、息子の頭を優しく撫でた。
「……まあ、そうだな。よく頑張ったぞ、一護」
一護は父親を見上げた。
いつものように馬鹿なことを言い出すかと思っていたが、今度は違った。
一心は満足そうに笑い、真咲へ一護を預けた。
その手が離れると、少しだけ名残惜しいような気がした。
真咲は息子を抱き直し、寝室へ向かう。
後ろから一心がついてきたが、今度は大声を出すこともなかった。
「おやすみ、一護」
真咲がそっと声をかける。
一護は母親の服を握ったまま、小さく欠伸をした。
それを見た真咲が笑い、一心もつられるように頬を緩めた。
二人の顔を見比べているうちに、一護の瞼がゆっくりと重くなっていく。
眠りに落ちる直前、父親が何かを囁いた。
「……明日も元気に遊ぼうな」
一護は返事の代わりに、小さく指を動かした。
その手に一心の指が触れる。
今度は、ちゃんと握ることができた。