『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第30話 隣に立つ者

 

 準々決勝第一試合の終了から、しばらく。

 

 競技場では、セメントスによるリングの修復が進められていた。

 

 緑谷と轟の最後の激突によって砕けた床が、次々と元の形を取り戻していく。

 

 しかし、観客席の興奮までは収まっていない。

 

 轟が解き放った炎。

 

 緑谷が傷つきながらも放ち続けた衝撃波。

 

 そして、両者の全力がぶつかった最後の一撃。

 

 その余韻が残る中、大型モニターに新たな対戦カードが映し出された。

 

 黒崎一護。

 

 井上織姫。

 

『さあさあ! 準々決勝もまだまだ続くぜェ!!』

 

 プレゼント・マイクの声が、会場の熱気を再び煽る。

 

『次のカードは一年A組、黒崎一護! 対するは一年B組、井上織姫! 準決勝へ進むのはどっちだァ!?』

 

     ◇

 

 選手通路の奥。

 

 一護は壁にもたれ、競技場へ続く出口を見つめていた。

 

 背中には大きな斬月。

 

 腰には、もう一本の小さな斬月。

 

 塩崎との一回戦を終えたときと、変わらない姿だった。

 

 次の相手は井上織姫。

 

 盾舜六花。

 

 その力がどれほど厄介なのかは、よく知っている。

 

 かつて同じ世界で生き、数え切れないほどの戦いをくぐり抜けてきた。

 

 虚圏で、自分が倒れたとき。

 

 最後の戦いで、ユーハバッハを前にしたとき。

 

 思い返せば、あいつに助けられた場面はいくつもある。

 

 けれど、こうして一対一で向き合うのは初めてだった。

 

(……妙な感じだな)

 

 しかも、今の井上について知っていることは、決して多くない。

 

 十五年。

 

 再会するまでに、それだけの時間が流れている。

 

 常闇との試合では、その一端を見た。

 

 盾で攻撃を受け流し、足場を崩し、最後には自分の身体を使って相手を投げた。

 

 以前の井上なら、ああいう戦い方はしなかっただろう。

 

 いや。

 

 やろうと思っても、できなかったかもしれない。

 

 その違いを、一護は楽しみにしていた。

 

「黒崎くん!」

 

 係員が入口から顔を覗かせる。

 

「入場の準備をお願いします!」

 

「おう」

 

 一護は壁から背を離した。

 

 背中の斬月を引き抜き、続けて腰の一振りを手に取る。

 

 左右の柄を握り直すと、そのまま競技場へ歩き始めた。

 

     ◇

 

『まずはこの男ォ! 巨大な刀を振り回し、塩崎の蔓による包囲を突破! 一回戦では二刀まで披露した一年A組、黒崎一護ォォ!!』

 

 入場口から、一護が姿を現した。

 

 右手には大きな斬月。

 

 左手には、それより短いもう一本。

 

 黒い死覇装の裾を揺らしながらリングへ上がると、観客席から歓声が起こった。

 

『そして対するはァ! 常闇との試合で鉄壁の防御と鮮やかな体術を見せた一年B組、井上織姫ェェ!!』

 

 反対側の入口から、織姫が駆け出してきた。

 

 リングへ上がったところで、B組の観客席へ顔を向ける。

 

「織姫ー! 頑張りなよ!」

 

 拳藤が大きく手を振っていた。

 

 隣では小森も両手を振っている。

 

「負けるなー、織姫ちゃん!」

 

「うん!」

 

 織姫は二人へ笑い返し、正面へ向き直った。

 

 目の前には、一護がいる。

 

 二本の斬月を携えた、黒い死覇装の少年。

 

 その姿は、何度も思い描いたものだった。

 

 前世の記憶が戻ったわけではない。

 

 そもそも、一度だって忘れていなかった。

 

 それでも。

 

 こうして同じ場所に立っていることが、まだ少し不思議だった。

 

「黒崎くん!」

 

「ん?」

 

「よろしくね!」

 

 織姫が笑った。

 

 一護も口元を緩める。

 

「……おう」

 

 それから、二本の斬月を構えた。

 

「言っとくけど、手加減する気はねえぞ」

 

「うん!」

 

 織姫は力強く頷く。

 

「私も、勝つつもりだから!」

 

「……そうこなくちゃな」

 

 ミッドナイトが二人を見渡した。

 

「それじゃあ、準々決勝第二試合――」

 

 掲げた腕を振り下ろす。

 

「始め!」

 

     ◇

 

 一護が踏み込んだ。

 

 開始の合図から、ほとんど間を置かずに距離を詰める。

 

 右手の大きな斬月が、織姫の正面へ迫った。

 

「三天結盾!」

 

 三人の六花が展開する盾が、その一撃を受け止めた。

 

 鈍い衝突音。

 

 織姫の靴底が床を擦る。

 

 だが、一護の攻撃はそこで終わらなかった。

 

 右手を引くと同時に、左手の短い斬月を振り込む。

 

 織姫が盾の位置を変えた。

 

 二度目の衝突。

 

 短い刃が弾かれる。

 

 一護はそのまま身体を回し、反対側から大きな斬月を振り下ろした。

 

「……っ!」

 

 織姫は盾を傾けた。

 

 真正面から受けるのではなく、斬撃の軌道を逸らす。

 

 大きな刃が、盾の表面を滑るように横へ流れた。

 

 その隙に織姫が後退する。

 

 一護は追わなかった。

 

「……やるな」

 

 斬月を握り直しながら、一護が言った。

 

「えへへ」

 

 織姫は少し照れくさそうに笑った。

 

「黒崎くんの動き、いっぱい見てきたから」

 

「そいつは厄介だな」

 

「でも、今の黒崎くんのことは、まだ知らないことも多いよ」

 

「……ああ」

 

 一護が笑う。

 

「そりゃ、お互い様だ」

 

 次に動いたのは織姫だった。

 

 真正面へ踏み込むと見せかけ、右へ回り込む。

 

 一護が短い斬月を向けた。

 

 その刃を避けるように身体を沈め、さらに一歩。

 

 大きな斬月を振りにくい距離へ入ってくる。

 

(……近え!)

 

 一護は右腕を引こうとした。

 

 織姫の手が、その腕へ伸びる。

 

 だが、彼女は掴まなかった。

 

 伸ばした腕を引くと同時に、身体を回す。

 

 肩を入れ、脇を抜ける。

 

「……!」

 

 一護の背へ、織姫の手が触れた。

 

 ぐっと押される。

 

 一護の上体が前へ流れた。

 

 踏ん張った瞬間、織姫がさらに足を踏み込む。

 

 今度は膝裏を狙った足払い。

 

「……っと!」

 

 一護は片足を浮かせ、辛うじてかわした。

 

 すぐに振り返ろうとした、そのとき。

 

「孤天斬盾!」

 

 椿鬼が走った。

 

 一護は咄嗟に身を引く。

 

 攻撃が通過したのは、その足元だった。

 

 床の一部が切り裂かれ、細い亀裂が刻まれる。

 

 踏み込もうとしていた足が止まった。

 

「……なるほど」

 

 一護は織姫を見た。

 

 その僅かな間に、彼女はすでに間合いの外へ抜けている。

 

「足を止めさせてから、逃げるってわけか」

 

「えへへ。そう簡単には捕まらないよ!」

 

「言ってくれるじゃねえか」

 

 一護は笑った。

 

     ◇

 

『おおっとォ! 井上、防ぐだけじゃねえ! 自分から黒崎の懐へ飛び込んだァ!』

 

『……上手いな』

 

 相澤が呟いた。

 

『黒崎の二刀に正面から付き合えば、左右の攻撃を続けて受けることになる。だから、自分から間合いを潰しに行っている』

 

『なるほど! でも、あの刀の間合いに入るのは怖くねえか!?』

 

『当然、危険はある。だから近づき方を工夫しているんだろう』

 

 相澤はリングを見た。

 

『それに、井上はあの距離でも戦える』

 

     ◇

 

「惜しいっ!」

 

 B組の観客席で、拳藤が膝を叩いた。

 

「もう少しで崩せたのに!」

 

 小森が隣から顔を覗かせる。

 

「一佳ちゃん、あの動き教えたの?」

 

「少しはね。でも、織姫も前から格闘技教わってみたいだし、あたしが全部教えたわけじゃないよ」

 

 拳藤はリングを見つめた。

 

 織姫の構えが低くなる。

 

 さっき一護の腕へ伸ばした手も、ただ掴むためのものではなかった。

 

 相手の反応を見るための仕掛け。

 

 自分が教えた技を、そのままなぞっているわけではない。

 

「……あの子、ちゃんと自分のものにしてる」

 

 拳藤は嬉しそうに笑った。

 

「すごいねえ、織姫ちゃん」

 

 小森も微笑む。

 

「うん。ほんとに」

 

     ◇

 

 一護は慎重に距離を詰めた。

 

 織姫の盾は強い。

 

 そのうえ、近づけば足元を狙われる。

 

 ならば、無闇に踏み込む必要はない。

 

 右手の斬月を振るう。

 

 織姫が盾を出した。

 

 衝撃が走る。

 

 だが、一護は二撃目をすぐには繰り出さなかった。

 

 織姫が盾を動かす、その瞬間を待つ。

 

 左の斬月を見せると、織姫の視線がそちらへ向いた。

 

 その隙に、一護は横へ踏み込む。

 

 大きな斬月が、斜めから迫った。

 

「……っ!」

 

 盾が間に合う。

 

 けれど、今度は位置が悪かった。

 

 一護の斬撃を正面から受けてしまう。

 

 織姫の身体が大きく押し戻された。

 

 靴底が床を擦る。

 

 リングの縁が近づく。

 

(……まずい!)

 

 織姫は盾を傾け、斬撃を流した。

 

 そのまま横へ跳ぶ。

 

 しかし、一護はすでに移動先へ身体を向けていた。

 

「……!」

 

 短い斬月が進路を塞ぐ。

 

 織姫は咄嗟に足を止めた。

 

 一護の大きな斬月が迫る。

 

「三天結盾!」

 

 盾を展開する。

 

 衝撃。

 

 織姫は今度こそ、大きく後ろへ押し戻された。

 

『黒崎、攻める攻める! 井上が防いでも、今度は位置を変えて追い込んでいくぞォ!!』

 

 一護はそのまま決めに行こうとした。

 

 だが。

 

「孤天斬盾!」

 

 織姫が放った一撃が、二人の間の床を切り裂いた。

 

 破片が跳ねる。

 

 一護は踏み込みを止めざるを得なかった。

 

 その隙に織姫が横へ逃れる。

 

 リングの中央へ戻った彼女は、大きく息を吐いた。

 

「……ふう」

 

「……ったく」

 

 一護も一度足を止める。

 

「ほんと、やりにくいな」

 

「そう?」

 

「ああ。こっちの攻めたいところ、全部邪魔してきやがる」

 

 織姫が笑った。

 

「そうじゃないと、黒崎くんに勝てないもん」

 

 その返事に、一護の口元が緩んだ。

 

 十五年前の井上なら、こんなふうに自分から勝負を仕掛けてきただろうか。

 

 少なくとも、今ほど迷いなくはなかったはずだ。

 

 あいつは、自分の知らないところで強くなった。

 

 それが分かる。

 

 けれど。

 

 まだ、あいつの本気をすべて見たわけじゃない。

 

「……井上」

 

「うん?」

 

 一護は斬月を構え直した。

 

「次は、ちょっと気合い入れて受け止めろよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、織姫の目が僅かに見開かれた。

 

 右手の斬月。

 

 刃を構える角度。

 

 その周囲へ集まり始める霊圧。

 

 知っている。

 

 この構えを。

 

「……黒崎くん」

 

 一護の刃へ、霊圧が収束していく。

 

 圧縮された力が刀身の周囲で渦を巻き、足元の砂埃を巻き上げた。

 

 観客席から、どよめきが広がった。

 

 この技を、今の井上へ向けて放つ。

 

 当然、試合の範囲を超える威力を出すつもりはない。

 

 それでも、形ばかりの攻撃にはしない。

 

 井上なら、受け止められる。

 

 一護はそう信じていた。

 

「……井上!」

 

 織姫はしっかりと頷いた。

 

「うん!」

 

 盾舜六花が彼女の周囲へ集まる。

 

 一護は斬月を振り抜いた。

 

「月牙天衝!!」

 

     ◇

 

 斬月から放たれた霊圧が、巨大な斬撃となってリングを駆け抜けた。

 

 三日月を描くその一撃が、床を削りながら織姫へ迫る。

 

 空気が震えた。

 

 観客席の最前列まで、風圧が押し寄せる。

 

『なっ……何だァ!? 黒崎、刀からとんでもねえ斬撃を放ったァァ!!』

 

 織姫は逃げなかった。

 

 両足を踏み締め、真正面から手を掲げる。

 

「三天結盾!!」

 

 黄金色の盾が展開された。

 

 直後。

 

 月牙天衝が三天結盾へ激突した。

 

 轟音。

 

 凄まじい衝撃が広がり、リングの床に亀裂が走る。

 

「……っ!!」

 

 織姫の身体が押し戻された。

 

 盾は崩れていない。

 

 しかし、衝撃そのものが消えたわけではなかった。

 

 靴底が床を滑る。

 

 膝が僅かに沈む。

 

(……重い!)

 

 織姫は歯を食いしばった。

 

 真っ向から受け止め続ければ、身体ごと場外へ運ばれてしまう。

 

 だから、盾を傾ける。

 

 斬撃の向きを少しずつ変え、上方へ逸らしていく。

 

 それでも勢いは衰えない。

 

 一歩。

 

 さらに一歩。

 

 織姫の足が、リングの床へ長い跡を残した。

 

(……でも!)

 

 織姫は顔を上げた。

 

 目の前には、押し寄せる霊圧。

 

 その向こうに、一護がいる。

 

 あの人が、自分へ向けて放った一撃。

 

 中途半端なものではない。

 

 自分なら防げると信じてくれたからこその攻撃。

 

 だったら。

 

「……受け止める!!」

 

 織姫は両足を踏ん張った。

 

 盾の角度を変える。

 

 斬撃の勢いを、一気に上へ逃がした。

 

 月牙が盾の表面を駆け上がり、上空へ向かって散っていく。

 

 最後の衝撃が織姫の身体を揺らした。

 

 それでも、足は止まった。

 

 月牙天衝の残滓が、ゆっくりと消えていく。

 

     ◇

 

 風が収まった。

 

 織姫は盾を維持したまま、荒く息を吐いていた。

 

 リングの縁までは、あと数歩。

 

 しかし、彼女はまだ立っている。

 

『防いだァァ!! 黒崎の月牙天衝を、井上が受け止めたァァ!!』

 

 競技場に歓声が響き渡った。

 

「……すっげえ」

 

 上鳴が目を丸くする。

 

「今の、受け止められるんだな……」

 

 瀬呂もリングを見つめていた。

 

「いや、黒崎の方もすげえだろ。あんなの撃てたのかよ」

 

「……どっちも半端ねえな!」

 

 切島が拳を握る。

 

 その近くで、八百万も静かに頷いた。

 

 井上の防御力は、一回戦で十分に理解したつもりだった。

 

 しかし、ここまでの攻撃を耐え抜くとは思っていなかった。

 

 しかも、ただ受け止めたわけではない。

 

 場外へ押し出されないよう、衝撃の逃がし方まで考えていた。

 

「……見事ですわ」

 

 八百万が小さく呟いた。

 

     ◇

 

 一護は斬月を下ろした。

 

 織姫がこちらを見ている。

 

 額には汗。

 

 呼吸も荒い。

 

 それでも、彼女は嬉しそうに笑った。

 

「……えへへ」

 

「……何笑ってんだよ」

 

「だって、黒崎くんの月牙天衝、久しぶりに見たから」

 

 織姫は少し胸を張った。

 

「ちゃんと防げたよ!」

 

「……ああ」

 

 一護も笑った。

 

「見りゃ分かる。相変わらず、とんでもねえ盾だ」

 

「えっへん!」

 

 その仕草があまりにも昔のままで、一護は思わず吹き出しそうになった。

 

 けれど、笑いかけたところで、ふと考える。

 

 自分は今、井上が月牙天衝を防げると信じていた。

 

 何の迷いもなく。

 

 それなのに。

 

(……あれ?)

 

 胸の奥で、何かが引っかかった。

 

 今まで自分は、井上のことをどう考えていた?

 

 弱いと思っていたわけじゃない。

 

 あいつが何度も自分を護ってくれたことも、ちゃんと覚えている。

 

 最後の戦いで、あいつが何をしたのかも。

 

 忘れられるはずがない。

 

 ただ。

 

 もう二度と、あんな別れを繰り返したくなかった。

 

 今度こそ、俺が護る。

 

 その思いばかりが、先に立っていた。

 

 井上自身がどうしたいのか。

 

 どれだけの力をつけ、何を目指してここへ来たのか。

 

 それを知る前から、自分の中で勝手に役割を決めていたのかもしれない。

 

「……井上」

 

「ん?」

 

 織姫が首を傾げる。

 

 一護は一度、口を閉じた。

 

 試合中にする話じゃない。

 

 それは分かっている。

 

 けれど、今なら言える気がした。

 

「……悪かったな」

 

「……え?」

 

 織姫が目を瞬かせた。

 

「どうしたの、急に?」

 

「俺さ……どっかで勝手に決めつけてたんだと思う」

 

「……?」

 

「お前のことは、俺が護らなきゃならねえって」

 

 織姫の表情が変わった。

 

「……黒崎くん」

 

「お前には何度も助けられてきたのにな」

 

 一護は一度、視線を落とす。

 

「最後だって、そうだった」

 

 その言葉だけで、織姫には伝わった。

 

 最後の戦い。

 

 自分たちが別れた、あの日のことだ。

 

 一護は続けた。

 

「今だって、お前を護りてえ気持ちは変わらねえよ」

 

「……うん」

 

「でも、それだけじゃねえんだよな」

 

 自分が井上を護る。

 

 井上が自分を護る。

 

 どちらか一つを選ばなければならないわけじゃない。

 

 少なくとも、自分たちはそうやって戦ってきたはずだ。

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

「……あー、くそ」

 

 言葉が上手く出てこない。

 

 こういう話は苦手だ。

 

 それでも、ちゃんと伝えたかった。

 

 一護は左手の斬月を腰へ収めた。

 

 空いた手で、がしがしと頭を掻く。

 

「……井上」

 

 織姫が顔を上げた。

 

 一護は少し照れくさそうにしながら、それでも真っ直ぐに彼女を見た。

 

「……俺の隣を頼む」

 

     ◇

 

 織姫は、しばらく動かなかった。

 

 黒崎くんの隣。

 

 かつて、何度も立ちたいと願った場所だった。

 

 あの人の力になりたい。

 

 あの人を護りたい。

 

 ただ助けられるだけじゃなく、自分も同じ場所で戦いたい。

 

 その願いは、ずっと胸の中にあった。

 

 最後の戦いで、自分は確かにあの人を護った。

 

 けれど、それは二人が別れることにもつながってしまった。

 

 あのときの選択を、後悔しているわけではない。

 

 それでも。

 

 もし、もう一度会えたなら。

 

 今度こそ、同じ場所に立っていたかった。

 

「……黒崎くん」

 

 織姫の声が、少し震えた。

 

 一護が目を向ける。

 

 織姫は、ゆっくりと笑った。

 

 目元に涙が滲む。

 

 でも、悲しいわけじゃない。

 

 胸の奥が、どうしようもなく温かかった。

 

「……うん!」

 

 大きく頷く。

 

「任せて、黒崎くん!」

 

 一護は一瞬、目を見開いた。

 

 それから、いつものように笑う。

 

「……おう」

 

     ◇

 

 観客席では、上鳴が首を傾げていた。

 

「……なあ」

 

「あ?」

 

 瀬呂が顔を向ける。

 

「何か今、妙な空気にならなかったか?」

 

「……ああ?」

 

 瀬呂は大型モニターを見た。

 

 そこには、頭を掻きながら何かを伝えた一護と、嬉しそうに笑う織姫の姿が映し出されている。

 

 試合場で交わされた言葉までは、観客席に届いていなかった。

 

「……まあ、試合中に何話してんだとは思ったけど」

 

「だよな? 黒崎、何かすげえ真剣な顔してたし」

 

「井上も、ちょっと泣いてなかったか?」

 

 切島が言った。

 

「……あいつ、何言ったんだろうな」

 

「それが気になんだよ!」

 

 上鳴はモニターを見つめる。

 

 しかし、二人はすでに構えを取り直そうとしていた。

 

「……ま、あとで聞いてみりゃいいか」

 

「やめとけ。絶対嫌な顔されるぞ」

 

 瀬呂の言葉に、切島が笑った。

 

 一方、B組の観客席では。

 

「…………」

 

 拳藤がモニターを見つめていた。

 

「……織姫?」

 

 隣の小森が首を傾げる。

 

「一佳ちゃん、どうしたの?」

 

「いや……あの子、何かすっごい嬉しそうだったなって」

 

「うん。嬉しそうだったねえ」

 

「……何話してたんだろ」

 

 拳藤が呟くと、小森がにこりと笑った。

 

「あとで聞いてみよっか」

 

「……そうだね」

 

 拳藤は再びリングへ視線を戻した。

 

 そこでは、織姫が両手を上げ、一護が斬月を構え直していた。

 

「……さ、続きだ」

 

 拳藤は膝に手を置く。

 

「頑張れ、織姫」

 

     ◇

 

 一護は腰の斬月を抜き、再び左右に構えた。

 

「……さて」

 

 織姫も、目元を拭って構え直す。

 

「……うん!」

 

「話は終わりだ。こっからは勝負だぞ」

 

「うん!」

 

 織姫が笑った。

 

「私も、まだ負けてないから!」

 

「……ああ」

 

 一護は頷く。

 

「分かってる」

 

 その返事を待たずに、織姫が踏み込んだ。

 

 今度は、先ほど以上に迷いがない。

 

 右へ。

 

 左へ。

 

 細かく足を動かし、一護の間合いを外すように回り込む。

 

 一護は短い斬月で進路を塞いだ。

 

 織姫が盾を展開する。

 

 刃が弾かれた。

 

 その反動を使って、織姫はさらに距離を詰める。

 

(……速え!)

 

 一護は後ろへ跳んだ。

 

 だが、織姫は追ってくる。

 

 その足元へ、椿鬼が走った。

 

「孤天斬盾!」

 

 床に細い亀裂が刻まれる。

 

 一護が踏み込もうとしていた場所だ。

 

 足を止める。

 

 その瞬間、織姫が懐へ飛び込んだ。

 

「……っ!」

 

 一護は短い斬月を引き寄せる。

 

 織姫の手が、左腕へ伸びた。

 

 今度は本当に掴まれた。

 

 織姫が腰を落とす。

 

 身体を回す。

 

 相手の勢いを利用した投げ。

 

「……おっと!」

 

 一護は掴まれた腕を引き、重心をずらした。

 

 織姫の投げが僅かに外れる。

 

 しかし、彼女はそこで止まらない。

 

 足を踏み替え、今度は一護の膝裏を狙った。

 

「……っ!」

 

 一護は片足を浮かせてかわす。

 

 そのまま後ろへ跳んだ。

 

 距離が開く。

 

 織姫は追いかけず、足を止めた。

 

 双方の呼吸が、少し荒くなっている。

 

「……危ねえな」

 

 一護が笑った。

 

「今の、もうちょいで持ってかれてたぜ」

 

「えへへ」

 

 織姫も笑う。

 

「次はちゃんと投げるよ!」

 

「簡単に投げられてたまるかよ」

 

 そう返しながら、一護は織姫の足元を見た。

 

 さっきまでとは違う。

 

 椿鬼を使って足場を崩すだけではない。

 

 自分の身体を使って相手の重心を奪おうとしている。

 

 しかも、盾の展開も遅れていない。

 

(……ほんと、手強えな)

 

 一護は斬月を握り直した。

 

 正面から防御を崩すのは難しい。

 

 だが、それだけが勝ち方ではない。

 

 先ほど、月牙天衝を受け止めたとき。

 

 井上は盾を傾けて、攻撃の勢いを逃がしていた。

 

 大きな斬撃を受けるときも同じだった。

 

 衝撃を防ぎながら、身体が押し戻されないように工夫している。

 

 ならば。

 

(……そこを狙う)

 

     ◇

 

『さあ、両者とも一歩も譲らねえ! 井上は自分から攻め込み、黒崎も迎え撃つ!』

 

『……いい勝負だな』

 

 相澤が短く答えた。

 

『黒崎の攻撃を正面から受けるだけなら、井上はここまで動けない。防いだ後の位置取りも考えている』

 

『だが、黒崎も簡単には投げられねえ!』

 

『ああ。互いに相手の動きを読んでいる』

 

     ◇

 

 一護が踏み込んだ。

 

 右手の大きな斬月を振るう。

 

 織姫が盾を展開した。

 

 衝撃。

 

 刃が盾の表面を滑る。

 

 一護はすぐに左の斬月を突き出した。

 

 織姫が身体を捻ってかわす。

 

 そのまま懐へ入ろうとした。

 

 だが、一護は追撃しなかった。

 

 大きな斬月を引き、身体を横へずらす。

 

 織姫の手が空を切った。

 

「……!」

 

 その瞬間、一護が背後へ回り込もうとした。

 

 織姫がすぐに振り返る。

 

 盾を展開する。

 

 大きな斬月が叩きつけられた。

 

 衝撃に押され、織姫の身体が後ろへ流れる。

 

 しかし、盾を傾ければ受け流せる。

 

 織姫はすぐにその角度を変えた。

 

 刃が逸れる。

 

 一護の身体が僅かに前へ流れる。

 

(……今!)

 

 織姫はその横を抜けようとした。

 

 だが。

 

 短い斬月が、進路を塞いだ。

 

「……っ!」

 

 織姫は足を止める。

 

 一護は、最初からその動きを待っていた。

 

 大きな斬月を引き戻す。

 

 織姫の盾が、再び正面へ向けられた。

 

 そこで、一護が大きく踏み込んだ。

 

「……!」

 

 斬月が三天結盾へ叩きつけられる。

 

 重い衝撃。

 

 織姫の身体が後ろへ押し戻された。

 

 リングの縁が迫る。

 

(……まずい!)

 

 織姫は盾を傾けた。

 

 斬撃の勢いを横へ逃がす。

 

 その隙に、側面へ抜けようとした。

 

 だが、そちらには短い斬月が待っていた。

 

 刃そのものは届かない。

 

 けれど、進もうとすれば、その間合いへ入ってしまう。

 

 織姫は反射的に足を止めた。

 

 ほんの一瞬。

 

 一護には、それで十分だった。

 

「……っ!」

 

 大きな斬月が、再び盾へ打ち込まれる。

 

 織姫は防いだ。

 

 盾は破られていない。

 

 それでも、身体を支える足が滑った。

 

 後ろへ。

 

 リングの縁を越えて。

 

「あっ……!」

 

 織姫は咄嗟に身体を捻った。

 

 片足が宙へ浮く。

 

 もう片方の足で踏み止まろうとする。

 

 しかし、届かない。

 

 身体がリングの外へ傾いた。

 

 織姫は無理に戻ろうとせず、着地の姿勢を取る。

 

 次の瞬間。

 

 両足が、リングの外へ着いた。

 

     ◇

 

 一瞬の静寂。

 

 ミッドナイトが腕を上げた。

 

「井上、場外! 勝者、黒崎一護!」

 

『決まったァァ!! 激しい攻防の末、最後は黒崎が場外へ押し出した! 勝者、黒崎一護ォォ!!』

 

 競技場が歓声に包まれた。

 

 リングの外で、織姫はしばらく動かなかった。

 

 それから、ゆっくりと顔を上げる。

 

 リングの上では、一護が斬月を下ろしていた。

 

「……負けちゃった」

 

 ぽつりと呟く。

 

 悔しい。

 

 あれだけ練習してきた。

 

 一佳ちゃんにも、たつきちゃんにも、たくさん助けてもらった。

 

 それなのに。

 

 もう少しだったのに。

 

 織姫は自分の手を見つめた。

 

 まだ、少し震えている。

 

 月牙天衝を受け止めた。

 

 一護の攻撃を防いだ。

 

 自分から何度も仕掛けた。

 

 それでも、届かなかった。

 

 けれど。

 

(……また、強くなれる)

 

 織姫は拳を握った。

 

 悔しいからこそ、次がある。

 

 もう一度戦えたなら、今度は違う動きができるかもしれない。

 

 黒崎くんが、そうやって何度も強くなってきたように。

 

「……井上!」

 

 声が聞こえた。

 

 顔を上げると、リングの上から一護がこちらを見ていた。

 

「大丈夫か?」

 

「うん!」

 

 織姫は笑った。

 

「大丈夫だよ!」

 

 一護が小さく頷く。

 

「……そっか」

 

 織姫は少しだけ頬を膨らませた。

 

「でも、悔しいなあ」

 

「……ああ」

 

 一護は笑う。

 

「だろうな」

 

「次は勝つからね!」

 

 その言葉に、一護の目が僅かに見開かれた。

 

 それから、楽しそうに口元を緩める。

 

「……おう」

 

 斬月を握り直し、頷いた。

 

「望むところだ」

 

     ◇

 

『いやー、こいつも見応えのある試合だったな、イレイザーヘッド!』

 

『ああ』

 

 相澤が頷く。

 

『黒崎の攻撃力は高い。だが、井上も最後まで防御を崩されなかった』

 

『それでも場外になっちまった!』

 

『盾が破られなくても、身体を動かされれば負ける。最後は黒崎がそれを利用した形だな』

 

 相澤はリングへ視線を向けた。

 

『ただ、井上もよく戦った。防ぐだけでなく、何度も黒崎の体勢を崩しかけている』

 

『なるほど! まさしく両者全力の勝負だったってわけだ!』

 

 プレゼント・マイクが声を張り上げる。

 

『勝った黒崎にも! 最後まで戦い抜いた井上にも! 盛大な拍手を送ってくれェェ!!』

 

 観客席から、拍手が巻き起こった。

 

     ◇

 

 選手通路へ戻った一護は、二本の斬月をそれぞれ背中と腰へ収めた。

 

 試合は終わった。

 

 だが、身体にはまだ戦いの感覚が残っている。

 

 井上の盾。

 

 あの反応の速さ。

 

 そして、最後まで諦めずに向かってきた姿。

 

(……強かったな)

 

 正直、少し驚いていた。

 

 昔から井上の力を軽く見たことはない。

 

 それでも、今日の試合で見せられたものは、予想以上だった。

 

「黒崎くん!」

 

 後ろから声がした。

 

 振り返ると、織姫が駆け寄ってくる。

 

「井上」

 

「おめでとう!」

 

 織姫は満面の笑みで言った。

 

「準決勝進出!」

 

「……おう。ありがとな」

 

 一護は少し照れくさそうに答えた。

 

「それより、お前こそ大丈夫か? 月牙、結構きつかったろ」

 

「うん、ちょっとだけ!」

 

 織姫は両腕を伸ばしてみせた。

 

「でも、怪我はしてないよ!」

 

「……そっか」

 

 一護は安心したように息を吐く。

 

 織姫はそんな一護を見て、ふっと笑った。

 

「黒崎くん」

 

「ん?」

 

「さっきのこと、嬉しかったよ」

 

 一護の動きが止まった。

 

「……あ?」

 

「隣を頼むって、言ってくれたこと」

 

「……ああ」

 

 一護は僅かに視線を逸らした。

 

 リングの上では、勢いもあって言えた。

 

 だが、改めて口にされると、どうにも落ち着かない。

 

「……別に、そんな大したこと言ったつもりじゃねえよ」

 

「私には、大したことだったんだよ」

 

 織姫が笑った。

 

 一護は何も返せなかった。

 

「……ありがとね、黒崎くん」

 

 織姫は続ける。

 

「でも、だからって次の試合で無茶しすぎないでね?」

 

「……分かってるよ」

 

「ほんと?」

 

「ほんとだって」

 

 織姫は一護の顔を覗き込む。

 

 一護は眉を寄せた。

 

「……何だよ」

 

「ううん!」

 

 織姫が笑う。

 

「じゃあ、応援してるね!」

 

「……おう」

 

 一護も笑った。

 

「ありがとな、井上」

 

 二人は並んで通路を歩き始めた。

 

 その先で、織姫が思い出したように顔を上げる。

 

「あっ!」

 

「……今度は何だ?」

 

「一佳ちゃんたちに、試合の報告しなきゃ!」

 

「……見てただろ、あいつら」

 

「そうだけど! ちゃんとありがとうって言いたいから!」

 

「……ああ、そうだな」

 

 一護は頷いた。

 

 織姫が少し早足になる。

 

 その横顔には、まだ試合の悔しさが残っている。

 

 けれど、俯いてはいなかった。

 

 前を向いている。

 

 その姿を見て、一護も自然と足を速めた。

 

     ◇

 

 競技場では、次の対戦カードが大型モニターに映し出されていた。

 

 爆豪勝己。

 

 芦戸三奈。

 

『さあ! 準々決勝第三試合も間もなく開始だァ!!』

 

 プレゼント・マイクの声が響き渡る。

 

『爆発を操る一年A組、爆豪勝己! 対するは同じくA組、酸を自在に操る芦戸三奈! クラスメイト同士の勝負を制するのはどっちだァ!?』

 

 観客席から、大きな歓声が上がった。

 

 選手通路の一方では、爆豪が拳を握り直している。

 

 反対側では、芦戸が肩を回して身体をほぐしていた。

 

 二人の視線が、それぞれリングへ向けられる。

 

 準々決勝は、まだ終わらない。

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