四本のろうそくに、小さな炎が灯った。
「よし、これで全部だな」
黒崎一心は指先の火を消すと、満足そうに息子へ顔を向けた。
「どうだ一護。父ちゃんの個性も、こういうときには便利だろ?」
「ろうそくに火つけるためだけに使ってんのかよ」
「馬鹿を言うな。ほかにも使い道はあるぞ。例えば冬場に手を温めたり、風の強い日にバーベキューの火を起こしたりだな」
「……どっちも火じゃねえか」
「そりゃ発火の個性だからな」
一護が呆れた顔をすると、一心は愉快そうに笑った。
食卓の向こうでは、真咲が皿を並べながら二人のやり取りを眺めている。
「あなたたち、ケーキが温まっちゃうわよ」
「おっと、そうだった。今日の主役は一護だからな」
一心は椅子へ戻り、ケーキの前にいる息子を見た。
黒崎一護、四歳。
この世界で生まれ直してから、それだけの月日が経っていた。
最初の頃は何をするにも苦労した。首を動かすことも、手を伸ばすことも、思いどおりにはできなかった。言葉を話せるようになるまでの時間など、思い返すだけでも気が遠くなる。
だが、今では自分の足で歩き、走り、両親と普通に会話ができるようになった。
ようやく人間らしい生活に戻ってきた、と一護は思っている。
もっとも、目の前にいる父親からすれば、そんなことは知る由もないだろう。
「一護、お願い事は決めた?」
真咲が隣へしゃがみ込み、ろうそくを指さした。
一護は四つの炎を見つめた。
願い事。
そんなものは、いくらでも思いつく。
ただ、ろうそくを吹き消すだけで叶うのなら、誰も苦労などしない。
「……まあ、一応」
「ふふ。じゃあ、どうぞ」
一護は大きく息を吸い、ろうそくへ吹きかけた。
一度目では二本が残ったものの、もう一度息を吹くと、すべての炎が消えた。
「誕生日おめでとう、一護」
「おめでとう! いやあ、もう四歳か。早いもんだなあ」
真咲が拍手をし、一心も隣から息子の頭を撫でた。
「ついこの間まで、俺の腕の中で寝てばっかりだったのにな」
「今も時々、お父さんの膝で寝ちゃうものね」
「母さん、それ言わなくていいから」
「あら、恥ずかしい?」
「……別に」
一心が声を立てて笑った。
一護は顔を背けたが、真咲の手が頭に触れると、大人しくそのままにしていた。
四度目の誕生日。
今年も母親がケーキを作り、父親がよく喋っている。
以前の人生では、こうして三人で誕生日を祝った記憶は幼い頃のものしかなかった。
その光景が今では、ごく当たり前のように目の前にある。
一護は真咲の笑顔を見上げた。
最初は、夢を見ているのではないかと思った。
母親が生きている。
父親が笑っている。
それがあまりにも信じ難く、何度も目覚めるたびに周囲を確かめた。
だが、四年も一緒に暮らしていれば、疑い続けることは難しい。
この家には、確かに自分の居場所があった。
「さて、一護。父ちゃんからの贈り物だ」
一心が食卓の下から包みを取り出した。
「……まだ何かあんのか?」
「誕生日だからな。去年は積み木だったが、今年はちょっと違うぞ」
受け取って包みを開くと、中から一冊の図鑑が現れた。
動物や植物、乗り物などが写真付きで紹介された、子供向けにしては分厚い本だった。
一護は表紙を眺め、それから父親を見た。
「これ、俺に?」
「最近は絵本より新聞の方が気になるみたいだからな。かといって、いきなり医学書を渡すのも違うだろ」
「……あれ、見てたのかよ」
「診療所の本棚にあるやつを、ずっと眺めてただろう。字が読めるようになったのは結構だが、難しい本は順番に読んだ方がいい」
一心の言葉に、一護は少しだけ目を逸らした。
どうやら、思っていた以上に行動を見られていたらしい。
「ありがとう、親父」
「ああ。大切に読んでくれ」
一心はそう言って、息子の頭をくしゃりと撫でた。
その手つきが少々乱暴だったので、一護は文句を言いかけたが、結局やめておいた。
真咲がケーキを取り分け始める。
皿の上へ切り分けられたケーキが置かれると、一護は早速フォークを手に取った。
「ねえ、一護」
真咲が隣へ座り、少し声を落とした。
「今度、お父さんのお知り合いのお医者さんに診てもらおうと思ってるの」
「……医者?」
「うん。個性のこと」
一護はフォークを止めた。
その話が出ることは、ある程度予想していた。
この世界では、ほとんどの人間が『個性』と呼ばれる特殊な能力を持っている。
生まれつき身体に特徴が現れている者もいれば、成長するにつれて突然能力が使えるようになる者もいる。その時期には個人差があるものの、四歳頃までに何らかの兆候が見られることが多いらしい。
しかし、一護にはまだ何も起きていなかった。
少なくとも、両親の目に映るような変化は。
「何か気になることがあるわけじゃないんだけどね。四歳になったし、一度ちゃんと調べてもらえたら安心かなって」
真咲の声は穏やかだったが、息子の様子を確かめるような響きがあった。
一護は少し考え、頷いた。
「いいぜ。別に嫌じゃねえし」
「本当?」
「ああ」
「そっか。ありがとう」
真咲が微笑む。
一護はケーキへ視線を戻した。
診察を受けること自体には、何の問題もない。
ただ、そこで何が分かるのかについては、あまり期待していなかった。
前の人生で、自分は死神として戦っていた。
虚の力も、滅却師の力も持っていた。
しかし今は、そのどれも満足に感じ取ることができない。
斬月の名を呼んでも刀は現れず、霊圧へ意識を向けても、以前のような明瞭な感覚は返ってこなかった。
それが力を失ったからなのか、今の身体ではまだ扱えないだけなのか。
一護自身にも分からない。
個性という概念を前提にしている医者が、そんな状態の自分を調べて何かを見つけられるとは思えなかった。
「それで、今日は何をお願いしたんだ?」
向かい側で一心が尋ねた。
一護は顔を上げる。
「……言ったら叶わねえんだろ?」
「ほう、よく知ってるな」
「さっき母さんが言ってたじゃねえか」
「そうだったか?」
「あなた、聞いてなかったの?」
真咲が笑い、一心はとぼけるように肩をすくめた。
一護は二人を見比べてから、クリームのついたフォークを口へ運んだ。
甘い味が広がる。
今年のケーキも、去年と同じくらいうまかった。
◇
診察の日は、雲一つない快晴だった。
一護が連れてこられた病院は、黒崎医院よりもずっと大きく、待合室には子供を連れた親たちが何組も座っていた。
壁には、個性の発現や成長について説明する掲示物が貼られている。
その一つには、能力が発現した際に保護者が気をつけるべきことが書かれていた。
周囲の物を破損させる場合。
本人の身体に負担がかかる場合。
制御できない現象が起きる場合。
能力の種類があまりにも多いため、注意事項も随分と幅広い。
一護はその内容に目を通しながら、ここ数年に見てきた光景を思い返していた。
街では、角や尻尾を持つ人間が普通に歩いている。
テレビでは、巨大な瓦礫を持ち上げるヒーローや、身体を炎に包んで戦う人間が映る。
そうしたものが、この世界では特別な怪異ではないらしい。
前の世界なら、死神や虚の存在を知らない人間があれほどの力を見れば、大騒ぎになっていただろう。
だが、こちらでは能力を持っていること自体が日常の一部になっている。
それも、随分と不思議な感覚だった。
「一護、疲れてない?」
隣に座った真咲が顔を覗き込んだ。
「平気」
「ならよかった」
真咲は一護の襟元を直し、それから受付の方へ目を向けた。
一心は少し離れた場所で、病院の職員と話をしている。どうやら担当医が以前の知り合いらしく、何か確認しているようだった。
しばらくすると、一護の名前が呼ばれた。
三人は診察室へ入った。
中にいたのは、白髪交じりの男性医師だった。
「久しぶりだな、黒崎先生」
「ああ。今日は息子のことで世話になる」
二人は軽く挨拶を交わし、医師は一護へ視線を向けた。
「こんにちは、一護くん」
「こんにちは」
「今日はちょっと身体を調べさせてもらうけど、痛いことはほとんどしないからね」
一護が頷くと、医師は椅子を少し近づけた。
まず尋ねられたのは、これまでの成長についてだった。
言葉を覚えた時期や、歩けるようになった頃のこと。普段の生活で変わった様子はないか、突然何かを発生させたり、物に触れずに動かしたりしたことはないか。
一護が答えられない部分は、真咲と一心が補った。
途中、一護の言葉遣いについて医師が少し驚いていたが、一心が「昔からこうなんだ」と笑うと、それ以上気にする様子はなかった。
続いて身体の状態を確かめ、必要な検査を行う。
一護は指示されたとおりに動きながら、室内の様子を観察していた。
どの検査も、この世界の医学に基づいたものだ。
それらによって死神の力や霊圧が確認できるのかどうかは分からないが、少なくとも医師は真剣に調べてくれていた。
検査が終わると、医師は机へ戻って資料を広げた。
「お父さんの個性は『発火』、お母さんは『光弓』でしたね」
「ああ。俺の方は、身体から炎を生み出す能力だ。出力や発生させる場所はある程度調整できる」
「私は光を弓と矢の形にできるんです。子供の頃から使っているので、制御には慣れていますけど」
真咲の説明に、医師が頷く。
「なるほど。ご両親の個性を考えれば、炎や光に関係する能力が現れる可能性はあります。ただ、個性の遺伝は必ずしも単純ではありません。両方の特徴が現れることもあれば、予想と違う性質を持つ場合もありますから」
医師は資料へ目を落とした。
少し間を置いてから、穏やかな口調で説明を続ける。
「今回の検査では、個性の発現を示す明確な兆候は確認できませんでした。ですが、この結果だけで無個性だと断定することもできません。今の段階では、成長を見ながら判断するのが適切でしょう」
真咲は静かに頷いた。
その表情には、少しだけ落胆が混じっていた。
一心は検査結果を確認しながら、医師と二、三言やり取りをしている。
一護は二人の様子を眺めていた。
予想していたとおりだった。
医師は、今の一護に何か特別な能力があるとは判断できなかった。
もっとも、それは当然のことだろう。
自分自身でさえ、何が残っているのか確かめられていないのだから。
「一護くん」
医師に呼ばれ、顔を上げる。
「もし今までにない感覚があったり、不思議なことが起きたりしたら、お父さんやお母さんに教えてあげてね」
「……うん」
「それで十分だよ。今は無理に何かをしようとしなくていいから」
一護は頷いた。
医師の言葉に、嘘はなかった。
この世界の常識に照らせば、それが妥当な判断なのだろう。
ただ、一護には別の問題があった。
自分の力の正体を知っていることと、その力を使えることは別だ。
そのことを、ここ数年ずっと思い知らされていた。
◇
病院からの帰り道、真咲はいつもより少し口数が少なかった。
一心はその様子に気づいていたらしく、駅へ向かう途中で歩調を緩めた。
「真咲。あんまり難しく考えるなよ」
「……うん」
「まだ何も決まったわけじゃない。先生もそう言ってただろ」
「そうなんだけどね」
真咲は一護へ目を向けた。
「この子が困ることになったら嫌だなって、思っちゃって」
一護は母親を見上げた。
この世界では、個性を持っていることが当たり前になっている。
能力の種類によって得意なことも苦手なことも異なるし、社会の中には個性を前提にした仕組みが数多く存在する。
その中で、もし何の力も持っていなかったら。
真咲は、そのとき息子がどんな思いをするのか心配しているのだろう。
「……母さん」
「ん?」
「俺、今のところ困ってねえよ」
真咲が目を瞬いた。
一護は少し考えてから続けた。
「まだ分かんねえんだろ。だったら、分かるまで待てばいいじゃん」
母親はしばらく一護を見つめていた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……そうね」
真咲はしゃがみ込み、息子の頬に触れた。
「でも、困ったことがあったらちゃんと言ってね。お母さんもお父さんもいるんだから」
「ああ」
「約束よ」
「分かったって」
一護が頷くと、真咲はようやく安心したようだった。
一心も隣で微笑み、一護の頭へ手を置いた。
「まあ、お前は昔から頑固だからな。何かあっても一人でどうにかしようとしそうだ」
「親父に言われたくねえよ」
「お、言うようになったな」
一心は笑いながら手を離した。
「だけど、こればっかりは親父の言うことを聞いとけ。相談くらい、いつでも乗ってやる」
その言葉は、普段のふざけた調子とは違っていた。
一護は少しだけ父親を見つめ、それから小さく頷いた。
「……ああ」
三人は再び歩き始めた。
真咲が手を差し出してくる。
一護はその手を握った。
大きくて、温かい手だった。
◇
その日の夕食後、一護は居間で図鑑を開いていた。
誕生日にもらった本である。
最初から順番に読んでいるわけではない。気になるページを適当に開き、知らないことがあれば少し詳しく目を通す。
以前の人生では、こうして落ち着いて本を読む時間などあまりなかった。
死神の力を得てからというもの、次から次へと事件が起こった。
尸魂界へ乗り込み、破面と戦い、藍染を倒したと思えば、今度は滅却師との戦争に巻き込まれた。
思い返せば、随分と慌ただしい人生だった。
「一護、ちょっといいか」
一心が向かい側のソファへ腰を下ろした。
手には湯飲みを持っている。
「最近、家にいると本ばっかり読んでるだろ。外で遊ぶのも嫌いじゃないみたいだし、何か習い事でもしてみるか?」
一護は図鑑から顔を上げた。
「習い事?」
「運動でも音楽でもいい。興味があることなら、何か始めてみるのも悪くないだろうと思ってな」
一心は湯飲みに口をつけた。
昼間の診察については、もう何も言わなかった。
個性が発現するのを待つだけではなく、今できることを見つけてほしい。
どうやら、そう考えているらしい。
一護は少しだけ黙っていた。
身体を鍛えることについては、自分でも以前から考えていた。
今の身体は、まだ小さい。
以前のように長時間走り続けることも、斬魄刀を振るうこともできない。
だが、身体の動かし方を覚えることならできる。
筋力や体力は年齢に合わせて少しずつ身につければいい。
それなら――。
「……空手」
一心が顔を上げた。
「空手か」
「ああ。やってみたい」
「なるほどな」
一心は少し考えたあと、頷いた。
「いいんじゃないか。近所に子供向けの道場があったはずだ。今度、見学に行ってみるか」
「うん」
台所で片づけをしていた真咲も、二人の話を聞いて顔を出した。
「空手? いいわね。一護、身体を動かすの好きだものね」
「まあな」
「それじゃ、私が道場に連絡しておくわ」
一護は頷き、図鑑を閉じた。
空手道場。
その言葉を聞くと、一人の少女の顔が浮かんだ。
有沢たつき。
前の人生では、幼い頃から同じ道場に通っていた。
負けず嫌いで、気が強く、何かと自分に突っかかってきた。
ただ、誰かが困っていれば放っておけない奴でもあった。
昔からよく知る友人だった。
こちらの世界にもいるのだろうか。
そんな考えが頭を過ぎったが、一護はすぐに打ち消した。
今の両親が以前とよく似ているからといって、ほかの知り合いまで同じように存在しているとは限らない。
少なくとも、今は確かめる方法がなかった。
◇
道場を訪れたのは、翌週の土曜日だった。
建物は住宅街の一角にあり、入口には古びた看板が掲げられていた。
中からは、子供たちの元気な掛け声が聞こえてくる。
「賑やかねえ」
真咲が扉を開けた。
一護はその後ろについて道場へ入る。
畳と木材の匂いが漂ってきた。
白い道着を着た子供たちが、指導者の掛け声に合わせて拳を突き出している。
足を踏み込む音。
稽古の合間に交わされる話し声。
窓から差し込む午後の日差し。
どれも懐かしかった。
「黒崎さんですね。お待ちしていました」
指導者らしい男性が近づいてきた。
真咲は軽く頭を下げ、見学の説明を受け始める。
一護はその間、道場の中を眺めていた。
以前の人生で通っていた場所とは、細かいところが違っている。
壁に掛けられた時計の位置も、道具の置き方も違う。
何より、そこにいる子供たちの顔に見覚えがない。
少しだけ妙な気分だった。
「一護くんだったね」
指導者がしゃがみ込み、目線を合わせてくる。
「今日は簡単な体験をしてみよう。同じくらいの年齢の子がいるから、一緒にやってもらうね」
「はい」
一護が頷くと、男性は道場の隅へ声をかけた。
「有沢、ちょっと来てくれるか」
一護の足が止まった。
有沢。
今、確かにそう言った。
「はーい!」
元気な返事が聞こえた。
子供たちの間から、一人の少女が駆け寄ってくる。
短い黒髪。
きりっとした目。
小柄な身体に似合わず、妙に堂々とした立ち姿。
一護は息を呑んだ。
「……え?」
少女がこちらを見た。
不思議そうに首を傾げる。
「なに?」
一護はすぐに答えられなかった。
見覚えがある。
それどころではない。
目の前にいる少女は、幼い頃の有沢たつきにそっくりだった。
以前の一護が知っているたつきは、もっと成長した姿だ。
それでも、目つきや表情、立ち方にまで確かな面影があった。
「この子、今日初めて来た黒崎一護くん。有沢が基本を教えてあげてくれるかな」
「うん!」
少女は元気よく頷き、一護へ向き直った。
「あたし、有沢たつき。よろしく!」
「……黒崎一護」
「いちご?」
「ああ」
「へえ。変わった名前」
少女はそう言って笑った。
一護は思わず苦笑した。
「……よく言われる」
「じゃあ、こっち来て。まず構え方からね」
たつきはさっさと道場の中央へ向かっていった。
一護はその背中を見つめた。
名前まで同じだった。
まさか、本当にいるとは思わなかった。
この世界へ生まれ変わってから、両親以外に前の人生の知り合いと出会ったことはない。
だから、考えないようにしていた部分もあった。
今ここにいる人々は、前の人生で知っていた人間とは違う。
そう思っておいた方が、混乱せずに済む。
けれど、目の前の少女は。
「一護、早く!」
呼ばれて顔を上げる。
たつきが不思議そうにこちらを見ていた。
一護は小さく息を吐き、彼女の隣へ歩いていった。
「じゃあ、こうやって立って」
たつきが足を開き、腰を落とした。
拳を引き、真っすぐ前へ突き出す。
小さな身体にしては、随分ときびきびした動きだった。
「やってみて」
一護も同じように構えた。
足の位置を決め、拳を引く。
前へ突き出したところで、身体が少し傾いた。
慌てて踏み直す。
たつきはその様子をじっと見ていた。
「……なんか変」
「何がだよ」
「構えは悪くないのに、足が変だよ」
一護は自分の足元を見た。
確かに、右足へ体重が偏っている。
以前の感覚で動こうとすると、今の身体には合わない部分が出てくるらしい。
身長も腕の長さも違うのだから、当然と言えば当然だった。
「ほら、こう」
たつきが足の位置を直してみせた。
一護はそれを真似る。
今度は先ほどより安定した。
「そうそう。できるじゃん!」
たつきが満足そうに笑う。
一護はその顔を見つめた。
笑い方まで、よく似ている。
けれど、やはり違った。
前の人生で知っていたたつきは、今さら一護へ自己紹介などしない。
こうして構えを教えるとしても、きっと昔の失敗を持ち出してからかってきただろう。
目の前の少女には、そうした記憶がない。
今日初めて会った相手として、一護に接している。
「……なあ」
「ん?」
「お前、いつから空手やってんだ?」
「んー……けっこう前!」
「けっこうって、いつだよ」
「覚えてない!」
たつきは自信満々に答えた。
一護は呆れた。
「何で偉そうなんだよ」
「別にいいでしょ。いっぱい練習してるんだから!」
そう言って、たつきは再び拳を突き出した。
一護は思わず笑ってしまった。
「何笑ってんの?」
「……いや、何でもねえ」
「変なの」
たつきは首を傾げたものの、すぐに稽古へ戻った。
一護も隣へ並び直す。
懐かしい。
それは間違いなかった。
だが、その懐かしさを理由に、目の前の少女を自分が知っているたつきと同じように扱うわけにはいかないだろう。
彼女は、今ここで一護と出会ったのだから。
◇
稽古が始まってしばらくすると、一護は思っていた以上に苦戦することになった。
身体がついてこない。
何より、それが大きかった。
動きの意味は理解できる。
どこへ重心を置き、どう腕を伸ばせばいいのかも、ある程度は分かる。
だが、理解したとおりに身体を動かそうとすると、すぐに無理が出た。
四歳の身体には、四歳の身体なりの限界がある。
少し長く姿勢を保っているだけで足が疲れ、何度も拳を突き出せば腕が重くなった。
精神だけが以前の自分のままでも、筋肉まで同じになるわけではないのだ。
「一護、休む?」
たつきが隣から声をかけてきた。
一護は息を整えながら首を振った。
「……まだ平気だ」
「ほんと? 顔赤いよ」
「暑いだけだって」
「そっか」
たつきはそれ以上しつこく尋ねなかった。
代わりに、近くに置かれた水筒を指さした。
「じゃあ、休憩になったらちゃんと水飲みなよ。前に無理して倒れた子がいて、先生にすっごく怒られてたんだから」
一護はその言葉に少し驚いた。
てっきり、もっと頑張れと急かされるかと思っていた。
「……分かったよ」
「うん!」
たつきは満足そうに頷くと、また元気よく構えた。
一護も姿勢を整え直した。
勝ち気なところばかり目につくが、周囲をよく見ている。
そういうところも、昔から知っているたつきによく似ていた。
だが、一護は今の彼女がどういう人間なのか、まだほとんど知らない。
ならば、これから知っていけばいい。
そう考えながら拳を突き出したところで、たつきが横から声を上げた。
「あ、また足ずれてる!」
「……分かってる!」
「分かってるなら直しなよ!」
「今直そうとしてんだろ!」
二人のやり取りに、近くで稽古していた子供たちが笑った。
指導者も苦笑しながら近づいてきて、二人の姿勢を改めて確認してくれた。
その後の稽古は、一護にとってなかなか厳しいものになった。
それでも、嫌ではなかった。
前の人生では、敵と戦うために身体を鍛えていた。
目の前の誰かを護るために、必要な力を身につけようとしていた。
だが、今は少し違う。
誰かと競い、教えられ、できなかった動きを一つずつ覚えていく。
そんな普通の稽古が、思っていた以上に楽しかった。
◇
「よし、今日はここまで!」
指導者の声が響くと、子供たちが一斉に姿勢を正した。
挨拶を済ませ、稽古が終わる。
一護は大きく息を吐いた。
腕も足も疲れていたが、妙な充実感があった。
見学席から真咲が近づいてくる。
「お疲れさま、一護。どうだった?」
「……結構きつい」
「ふふ、そうでしょうね。でも、最後まで頑張ってたわよ」
真咲はタオルを差し出し、一護の汗を拭いてくれた。
そのとき、後ろから元気な声が響いた。
「一護!」
振り返ると、たつきが駆け寄ってきていた。
「来週も来る?」
一護は少しだけ考えた。
真咲が隣で微笑む。
「一護が気に入ったなら、通わせてあげようと思ってるの」
「ほんと!?」
たつきが嬉しそうに顔を輝かせた。
一護は思わず眉を上げた。
「……何でお前が喜んでんだよ」
「だって、同じくらいの子が増えたら楽しいじゃん!」
たつきは当たり前のように答えた。
「それに、一護って面白いし」
「今日会ったばっかだろ」
「だから、もっと遊べるでしょ?」
そう言って、少女は笑った。
一護はしばらくその顔を見つめていた。
今のたつきには、前の人生で自分と過ごした記憶などない。
それでも、今日一緒に稽古した相手と、また会いたいと思ってくれている。
そのことが、少し嬉しかった。
「……ああ。来週も来るよ」
「よし!」
たつきは拳を握り、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度は勝負ね!」
「……勝負?」
「うん! どっちが強いか!」
一護は思わず額に手を当てた。
「お前、すぐそういう話にすんのな」
「嫌なの?」
たつきが挑発するように笑う。
一護はその顔を見て、少しだけ口元を上げた。
「いいぜ。負けても泣くなよ」
「泣かないよ! 一護こそ、負けても泣かないでね!」
「泣かねえって」
「約束だからね!」
たつきは満足そうに頷き、道場の奥へ戻っていった。
一護はその背中を見送った。
「いいお友達ができそうね」
真咲が隣で言った。
「……まあな」
「たつきちゃん、元気な子ね」
「ああ」
一護はもう一度、道場の奥へ目を向けた。
たつきは別の子供に話しかけ、楽しそうに笑っていた。
以前の世界でも、よく似た笑い方をしていた。
ただ、今の彼女が何を面白がっているのか、一護は知らない。
今日初めて会ったのだから、当然だった。
「……母さん」
「ん?」
「ここ、通ってもいい?」
真咲は嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんよ」
一護も小さく頷いた。
それで十分だった。
◇
道場からの帰り道、真咲は一護の手を引きながら歩いていた。
夕方の空には薄い雲が広がり、住宅街にはどこかの家から夕食の匂いが漂っている。
「一護、明日も筋肉痛になるかもしれないわね」
「……そんなに動いてねえだろ」
「あら、初めての運動は思っているより疲れるものよ」
真咲は楽しそうに笑った。
一護は今日の稽古を思い返した。
確かに、普段とは違う筋肉を使った感覚がある。
たつきの方が動きも安定していた。
悔しいが、今の自分よりずっと慣れているのだろう。
それでも、今度はもう少しましな動きを見せたいと思った。
「……来週までに、ちょっと練習しとくか」
小さく呟くと、真咲が顔を覗き込んできた。
「何か言った?」
「いや、何でもねえ」
「ふふ。たつきちゃんに負けたくないの?」
「……別に」
「そう?」
真咲はそれ以上追及せず、楽しそうに前を向いた。
一護は母親の手を握り直した。
今日出会った有沢たつきは、自分の知っているたつきによく似ていた。
名前も、顔も、性格も。
けれど、彼女は一護と初めて出会った。
以前の人生で交わした会話も、一緒に過ごした時間も知らない。
それを少し寂しく思う気持ちはあった。
だが、だからといって今の彼女と距離を置く理由にはならなかった。
今日の稽古は楽しかった。
来週も会いたいと思った。
それだけで、十分だった。
「一護?」
真咲に呼ばれ、顔を上げる。
「今日は何が食べたい?」
「……何でもいい」
「もう。そういうのが一番困るのよ」
真咲は笑いながら少し考えた。
「じゃあ、久しぶりにハンバーグにしようか」
「いいな、それ」
「決まりね」
二人は並んで歩き続けた。
小さな手を包む母親の手は、温かかった。
◇
その夜、一護はいつもより早く布団に入った。
身体が疲れていた。
腕には鈍いだるさが残り、足を伸ばすと少しだけ筋肉が張る。
前の人生なら、あの程度の稽古で疲れることなどなかった。
それが今では、簡単な基本動作を繰り返しただけでこれだ。
「……参ったな」
一護は小さく呟き、天井を見つめた。
四歳の身体。
その事実は、何度考えても変わらない。
焦ったところで急に成長するわけではないし、以前の感覚をそのまま押しつけても、思いどおりには動いてくれない。
今日の稽古で、嫌というほど思い知らされた。
ならば、今の身体に合わせて一つずつ覚えていくしかない。
そう考えると、少しだけ気が楽になった。
一護は目を閉じた。
静かな夜だった。
階下からは、一心と真咲が話している声が微かに聞こえてくる。
内容までは分からなかったが、時折真咲の笑い声が混じった。
一護はその声を聞きながら、ゆっくりと意識を沈めていった。
いつものように、自分の内側へ意識を向ける。
霊圧を感じ取ろうとする。
斬月の存在を確かめようとする。
だが、やはり何も掴めない。
今まで何度も試してきたことだった。
前の人生で死神として戦っていたときには、意識すれば自分の内側にある力を感じ取れた。
けれど、今はその感覚が遠い。
まるで、厚い壁の向こうに何かがあるようだった。
その壁に触れようとしても、手応えがない。
霊圧の流れを探っているうちに、いつの間にか眠気が深くなっていった。
そこで、音がした。
水滴の落ちるような音だった。
一護は意識を向けた。
もう一度、音が響く。
どこかで聞いたことがある。
ひどく懐かしい音だった。
◇
足元に、水が広がっていた。
一護は目を開いた。
灰色の高層ビルが幾つも立ち並んでいる。
空には重たい雲が垂れ込め、建物の隙間を冷たい風が吹き抜けていた。
水面にはビルの輪郭が逆さまに映り、歩くたびに小さな波紋が広がっていく。
一護はしばらく、その景色を見つめていた。
「……は?」
思わず声が漏れた。
見間違えるはずがなかった。
ここは、自分の内なる世界だった。
「……マジかよ」
そう呟いた瞬間、一護はさらに驚いた。
声が違う。
いつもの幼い声ではない。
聞き慣れた、以前の自分の声だった。
慌てて身体へ視線を落とす。
黒い死覇装。
伸びた手足。
記憶にある体格。
一護は手を開き、握り直した。
指先が思いどおりに動く。
軽く地面を蹴ると、水面が弾け、身体が滑らかに前へ出た。
四歳の身体では考えられない動きだった。
「……戻ってる」
精神世界にいる一護の姿は、前の人生でユーハバッハと戦った頃のものだった。
身長も、手足の長さも、身体の感覚も。
すべてが記憶の中にある自分と一致している。
一護は腕を持ち上げ、肩を回した。
違和感はない。
足を踏み込んでも、膝が不安定になることはなかった。
軽く跳んで着地する。
水飛沫が上がる。
今の自分が知っている身体だった。
それが、たまらなく懐かしかった。
もっとも、ここで感動している場合ではない。
一護は周囲を見回した。
もし本当にここが自分の精神世界なら、いるはずだった。
ずっと、自分の中にいた二人が。
「……おっさん?」
呼びかける。
返事はなかった。
一護は水面を踏みしめ、少し歩いた。
「おい、聞こえてんだろ?」
風が吹き抜ける。
高層ビルの窓に、灰色の空が映っていた。
そのときだった。
「――やっと来やがったか、一護」
背後から声がした。
一護は振り返った。
少し離れた場所に、白い死覇装をまとった男が立っていた。
白い髪。
黒い白目と、金色の瞳。
自分と同じ顔をした、もう一人の存在。
その口元には、見慣れた獰猛な笑みが浮かんでいる。
「……お前」
「何だよ、その顔。幽霊でも見たみてえじゃねえか」
白い男は肩を鳴らし、面白そうに一護を眺めた。
「ったく、随分待たせてくれたな。こっちは退屈してたんだぜ」
一護はしばらく言葉を失っていた。
懐かしかった。
かつて幾度も剣を交え、互いに主導権を奪い合った相手だった。
自分の中にいる虚。
そう考え、必死に抑え込もうとしていた時期もある。
だが、今は違う。
こいつが自分自身の力であることを、すでに理解していた。
「……お前も、いたんだな」
「あ?」
白い男が眉を上げた。
「何だそりゃ。俺がいなくなったとでも思ってたのかよ」
「いや……まあ、ちょっとな」
「ハッ! 相変わらず妙なこと考えてんな、てめえは」
男は大きく笑った。
一護は思わず顔をしかめた。
「うるせえな。こっちは目が覚めたら赤ん坊になってたんだぞ。何がどうなってんのか、分かるわけねえだろ」
「知るかよ、そんなもん。少なくとも、今はちゃんと立ってんじゃねえか」
白い男は一護の姿を顎で示した。
一護は自分の手を見下ろした。
確かに、今の身体は以前のままだった。
現実の世界では、何をするにも四歳の身体が足を引っ張る。
だが、ここでは違う。
指先から足の裏まで、すべてが思いどおりに動いた。
「……ここは俺の精神世界だからか?」
「さあな。てめえの中なんだから、てめえで考えろよ」
「お前、相変わらず適当だな」
「そういう面倒くせえ話は、あっちに聞け」
白い男が視線を向けた。
その先には、一つの影があった。
高層ビルの壁際。
黒い外套をまとった長身の男が、静かに立っている。
長い黒髪。
深い眼差し。
一護が何度も見てきた姿だった。
「……斬月のオッサン」
男はゆっくりと顔を上げた。
「久しぶりだな、一護」
その声を聞いた瞬間、一護は思わず笑った。
「……ああ。久しぶりだな」
斬月のオッサンも、僅かに表情を緩めた。
一護は二人を見比べた。
白い男。
斬月のオッサン。
どちらも、かつて自分の中にいた存在だった。
そして、今もここにいる。
それだけで、少なくとも一つはっきりしたことがあった。
自分は前世の記憶だけを持ってきたわけではない。
「……なあ、おっさん。俺の力って、どうなってんだ?」
一護は二人の顔を見ながら、これまでのことを簡単に話した。
目覚めたときには赤ん坊になっていたこと。
以前とは違う世界へ生まれ直したらしいこと。
そこで『個性』と呼ばれる能力が当たり前になっていること。
そして、自分自身にはまだ何の力も現れていないこと。
斬月のオッサンは途中で口を挟まず、静かに耳を傾けていた。
白い男は、最初のうちこそ退屈そうにしていたが、一護が死神の力を使えないと言い出すと、少しだけ興味を示した。
「つまり、外じゃ刀も出せねえってことか」
「ああ。何度試しても、さっぱりだ」
「ふうん……」
白い男は一護を眺め、それから楽しそうに口元を吊り上げた。
「そりゃ面白えな」
「何が面白えんだよ」
「ここじゃ元どおりなのによ。外へ出りゃ、まともに剣も握れねえってわけだ」
「……言い方ってもんがあんだろ」
「事実じゃねえか」
白い男は肩をすくめた。
一護は反論しかけたが、結局やめた。
腹立たしいことに、否定できなかったからだ。
その様子を見ていた斬月のオッサンが、静かに口を開いた。
「一護。少なくとも、お前の魂は以前のものと繋がっている。ここにいる我々も、お前が知る斬月のままだ」
一護は頷いた。
それは目の前の二人を見れば分かる。
「だが、今のお前の肉体は以前とは違う。魂と肉体がどのような状態で結びついているのか、我々にもすべては分からない。力が残っていることと、その力を現実で扱えることは別の問題だ」
「……やっぱり、そう簡単にはいかねえか」
一護は自分の手を見つめた。
今は前の人生の姿をしている。
だが、目覚めれば四歳の身体に戻るのだろう。
いくら精神世界で自由に動けても、現実で同じことができるとは限らない。
「なら、ここで試せることから始めるしかねえな」
そう言って一護が顔を上げると、白い男が待ってましたとばかりに笑った。
「そうこなくちゃな」
その手には、いつの間にか刀が握られていた。
「久しぶりに遊ぼうぜ、相棒」
一護は嫌な予感を覚えた。
「おい、まさか――」
言い終えるより早く、白い男が地面を蹴った。
◇
白い影が、一瞬で距離を詰めてきた。
一護は反射的に身体を横へ倒した。
鋭い斬撃が鼻先を掠め、水面を深く切り裂く。
「おい! いきなり何しやがる!」
「ぼさっとしてんじゃねえよ!」
白い男は笑いながら追撃してきた。
その動きには、一切の遠慮がない。
一護は後方へ跳びながら、手へ意識を向けた。
斬月。
その名を思い浮かべる。
次の瞬間、手の中に重みが生まれた。
一振りの刀だった。
かつての斬月によく似た、幅の広い刀身。
だが、一護が千年血戦篇で打ち直してもらったときの二刀ではない。
ユーハバッハとの最終決戦で、最後に手にしていた姿だった。
「……おっ」
感触を確かめる間もなく、白い男の斬撃が迫る。
一護は刀を振り上げ、その一撃を受け止めた。
鋭い音が響き、足元の水面が大きく揺れた。
「へえ……ちゃんと出せんじゃねえか」
白い男が楽しそうに笑う。
「なら、遠慮はいらねえな!」
「最初からしてねえだろ、お前!」
一護は刀を押し返した。
互いに距離を取り、再び踏み込む。
久しぶりに握る斬月は、驚くほど自然に手へ馴染んだ。
刀の重さ。
踏み込みの感覚。
相手の動きを捉える視線。
どれも、以前の自分が知っていたものだった。
白い男が横薙ぎに刀を振るう。
一護はそれを受け流し、空いた脇へ斬り込んだ。
だが、相手は身体を捻り、紙一重で刃を躱した。
「おいおい、何だそりゃ! 随分と大人しいじゃねえか!」
「久しぶりなんだよ!」
「言い訳してんじゃねえ!」
白い男の蹴りが、一護の脇腹へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
身体が宙を舞い、数メートル先の水面へ叩きつけられる。
大きな水飛沫が上がった。
一護は顔をしかめながら起き上がった。
「……てめえ、少しは加減しろよ」
「何だよ、もうへばったのか?」
「誰がへばったって?」
「なら来いよ。一護」
白い男は肩に刀を担ぎ、不敵に笑った。
一護は舌打ちした。
腹立たしいことに、言っていることは間違っていない。
以前の感覚は残っている。
だが、ここ数年はまともに戦うことなどできなかった。
精神世界で身体が元に戻ったからといって、何もかもすぐに以前のとおりになるわけではないらしい。
「……もう一回だ」
一護が刀を構える。
白い男は嬉しそうに笑った。
「そうこなくちゃな!」
再び二人が動いた。
刃と刃がぶつかり合い、鋭い音が高層ビルの間へ響く。
白い男の攻撃は、荒々しく見えて細かい駆け引きに満ちていた。
相手の呼吸を読み、間合いをずらし、斬撃の途中で軌道を変える。
かつて一護が何度も苦しめられた戦い方だった。
しかし、今はその動きを正面から受け止められる。
以前のように、相手の存在そのものを恐れる必要はなかった。
ただ、それでも簡単に勝てる相手ではない。
むしろ、戦い方を知っているからこそ厄介だった。
白い男は一護がどう動くかをよく理解している。
そして一護も、相手が何を狙っているのかをある程度予測できる。
互いに手の内を知った者同士の戦いだった。
一護は大きく踏み込み、斬月を振り抜いた。
白い男がそれを受け止める。
衝撃で水面が弾け、周囲の空気が震えた。
互いの顔が近づく。
「……なあ、お前」
「あ?」
「ここでなら、どこまでやれる?」
白い男の口元が吊り上がった。
「さあな。試してみりゃ分かんだろ」
「……そうかよ」
一護も笑った。
次の瞬間、二人は同時に刀を振り抜いた。
◇
どれほど時間が経ったのかは分からなかった。
精神世界の空は相変わらず曇ったままで、太陽の位置から時間を判断することもできない。
一護は高層ビルの屋上に腰を下ろし、乱れた呼吸を整えていた。
少し離れた場所では、白い男が退屈そうに寝転がっている。
あれから何度も剣を交えた。
最初は以前の感覚を取り戻すだけで精いっぱいだったが、次第に身体の動きが馴染み始め、最後には互いにかなり激しい攻防を繰り広げることができた。
もっとも、決着がついたわけではない。
白い男はまだ戦い足りない様子だったが、一護が一度止めると言い出したため、渋々刀を収めたのだった。
「……ったく、久しぶりだってのに容赦ねえな」
「何だよ、もう終わりか?」
「少し休ませろって」
白い男は鼻で笑い、両手を頭の後ろで組んだ。
一護は呆れながらも、手元の斬月へ目を落とした。
一振りの刀。
千年血戦篇の最終決戦で、最後に残った姿だった。
しかし、以前に打ち直してもらったときは二刀だったはずだ。
一護はその違いが少し気になっていた。
「……そういや、斬月」
傍らに立っていた黒い外套の男が、一護へ視線を向けた。
「どうした」
「俺の刀、今は一振りなんだな」
斬月のオッサンは一護の手元を見た。
「お前が最後に握っていた姿だ」
「ああ。けど、二刀だった頃の感覚も残ってるんだよな」
一護は刀を持ち上げ、刀身を眺めた。
あのとき、刀鍛冶の二枚屋王悦に打ち直してもらった斬月は、大きな刀と小さな刀に分かれていた。
それまで自分が斬月だと思っていたものの正体を知り、二人を受け入れたことで手にした姿だった。
ところが、ユーハバッハとの最後の戦いでは、一振りの刀が残った。
その違いについて、落ち着いて考える暇などなかった。
斬月のオッサンは、一護の刀へ視線を向けたまま口を開いた。
「二刀だった斬月は、刀と鞘の関係にある。外側の鞘は最後の戦いで砕かれ、お前自身へ戻った」
「……鞘?」
「失われたわけではない。お前の中にある」
一護はその言葉を聞き、しばらく刀を見つめていた。
それから、目を閉じた。
二刀だった頃の感覚を思い出す。
大きな刀と、小さな刀。
それぞれ異なる重みを持ちながら、どちらも自分自身の力だった。
手の中で、何かが変わる。
一護は目を開いた。
「……おお」
刀が二振りになっていた。
千年血戦篇で手にした、あの二刀の斬月だった。
大きな刀を右手へ。
小さな刀を左手へ。
握り直すと、どちらも自然に手へ馴染んだ。
「なるほどな……」
一護は小さく笑った。
その様子を見ていた白い男が、屋上から跳ね起きた。
「へえ。そっちにも戻せんのか」
「らしいな」
一護は二振りの刀を持ち上げた。
「試してみるか?」
その言葉を待っていたかのように、白い男が笑った。
「おう。今度はそっちで来いよ」
「休憩って言っただろ」
「一振り増えたくらいで何が変わるのか、見せてみろって言ってんだよ」
一護は苦笑した。
相変わらず、戦うことになると遠慮がない。
だが、悪くない提案だった。
精神世界でなら、少なくとも刀の扱いを試すことはできる。
一刀と二刀。
どちらも斬月であるなら、使い方を理解しておいて損はない。
一護は立ち上がった。
「……今度こそ少しだけだからな」
「言ってろ」
白い男は刀を構えた。
一護も二振りの斬月を握り直し、ゆっくりと間合いを取った。
先ほどと違い、両手にそれぞれ刀がある。
攻撃できる角度が増える一方で、身体の使い方も変わる。
大きな刀だけで戦っていたときの感覚を、そのまま持ち込めばいいわけではなかった。
「……なるほど」
一護は小さく呟いた。
「何だよ」
「いや。考えてみりゃ、ちゃんと二刀で戦った時間って、そんなに長くねえんだよな」
白い男が口元を吊り上げた。
「だったら、いい機会じゃねえか」
「ああ」
一護は頷いた。
以前の自分は、短い期間のうちに多くの力を手にしてきた。
死神の力を得てから、卍解を習得するまで。
虚の力を制御し、滅却師の力の正体を知るまで。
どれも、必要に迫られて身につけたものだった。
戦いの中で強くなることはできた。
だが、その力を本当に理解していたかと問われれば、心許ない部分もある。
二刀の斬月についても、そうだった。
斬月の正体を知ったあと、もっと長い時間をかけて扱い方を研究できていたなら、違う戦い方ができたかもしれない。
そう考えると、試してみたいことがいくつも思い浮かんだ。
「……おっさん」
一護は刀を下ろし、斬月のオッサンへ顔を向けた。
「滅却師の力についても、もっと詳しく教えてくれねえか」
黒い外套の男は、僅かに目を見開いた。
一護は言葉を続ける。
「俺、正直まだ分かってねえことが多いんだよ。血装だって、まともに使いこなしてたとは言えねえしな」
以前は、使える力をそのまま戦いへ持ち込んでいた。
霊圧を高め、斬月を振るう。
虚の力が必要なら、それを引き出す。
滅却師の力については、そもそも存在を知るのが遅すぎた。
石田の戦い方を何度も見ていながら、自分が同じ系統の力を持っているなど、考えもしなかった。
それを今になって思い出すと、少しばかり勿体なかった気もする。
「俺の力なんだろ。だったら、ちゃんと扱えるようになりてえ」
斬月のオッサンはしばらく黙っていた。
やがて、その口元に僅かな笑みが浮かんだ。
「……そうか」
短い返事だった。
だが、一護にはその声がどこか嬉しそうに聞こえた。
「ならば、霊子を扱う感覚から確かめてみよう。お前はこれまで、自身の霊圧を引き出して戦うことに慣れていた。周囲にある霊子を意識して集めるとなれば、また違った感覚が必要になる」
「石田がやってたみたいなことか」
「そうだ。だが、見て理解することと、自分で行うことは違う」
一護は頷いた。
確かに、そうだろう。
斬月のオッサンは続けた。
「まずは、力を大きくすることではなく、どう動いているのかを感じ取ることから始めよう。現実の肉体で使えるかどうかは、そのあとで確かめればいい」
一護は手元の刀を見た。
二振りの斬月が、静かに光を受けている。
「……分かった」
そう答えると、白い男が不満そうに鼻を鳴らした。
「おいおい、ちょっと待てよ。そっちばっかりじゃねえだろ」
一護が振り返る。
白い男は肩に刀を担いだまま、笑っていた。
「剣の方だって、まだまだ甘い。さっきだって、俺に一発入れるのがやっとだったじゃねえか」
「何度か入れただろ」
「あれで満足してんのか?」
白い男は挑発するように首を傾げた。
一護は眉を寄せたが、すぐに小さく笑った。
「……してねえよ」
「なら話は早ぇ」
男は刀を構え直した。
「てめえの身体が元どおりになるまで、ここで付き合ってやるよ。何年かかるか知らねえけどな」
一護はその言葉に少し驚いた。
白い男は、いつものように獰猛な笑みを浮かべている。
だが、その言い方は以前と少し違っていた。
かつては、一護が弱ければ自分が王になると言い放ち、力ずくで主導権を奪おうとしていた。
今は、そんなことをする必要がない。
目の前の二人は、どちらも自分自身の力だった。
自分がそれを理解していることも、二人は知っている。
「……そうかよ」
一護は二振りの斬月を構えた。
「だったら、遠慮なく頼むぜ」
白い男が笑う。
「ハッ! 最初からそのつもりだ、一護」
斬月のオッサンも、二人の様子を静かに見つめていた。
やがて、一護へ声をかける。
「ただし、一つだけ忘れるな。ここで扱える力が、現実でも同じように使えるとは限らない。今のお前の肉体は、まだ成長の途中だ」
一護は頷いた。
今日の空手の稽古でも、嫌というほど思い知らされたことだった。
動き方を理解しているからといって、四歳の身体がそのとおりに動くわけではない。
力の使い方を知っていることと、実際に使えることは別だった。
「……ああ。無茶はしねえよ」
一護はそこで、もう一つ気になっていたことを口にした。
「それと、外で死神化する方法も考えねえとな」
斬月のオッサンが顔を向ける。
「死神化か」
「前は代行証を使って魂を抜いてたけど、今は持ってねえだろ。ルキアもいねえし、浦原さんの道具もない」
一護は二振りの刀を見下ろした。
「仮に力を使えるようになっても、肉体から魂を抜けなきゃ、前みたいには戦えねえ」
今の自分が前世と同じ方法で死神化できるかどうかも分からない。
しかし、仮にできたとしても、別の問題がある。
元の身体をその場に残してしまうことだ。
以前はそれで何とかなっていた。
だが、こちらの世界にはコンもいなければ、魂魄を管理してくれる相手もいない。
下手な場所で死神化すれば、残された肉体が危険に晒されるだろう。
一護はその事情も含めて話した。
斬月のオッサンは、しばらく考え込んでいた。
「魂魄の分離を道具なしで行う方法がないとは言い切れない。だが、今の肉体と魂がどう結びついているかを知らずに試すのは危険だ」
「……やっぱ、まずはそこからか」
「そうだな。お前自身の力を理解することが、遠回りに見えて最も確かな方法になるだろう」
一護は頷いた。
焦っても仕方がない。
今は四歳だ。
明日、突然強敵が現れると決まっているわけでもない。
少なくとも、以前のように短い期限へ追い立てられる必要はなかった。
自分の力について知らないことがあるなら、確かめればいい。
扱い方が分からないなら、覚えればいい。
そのために時間を使うことを、今度は許されている。
「……よし」
一護は一度息を吐き、二振りの斬月を握り直した。
「まずは、今の俺がここで何をできるのか確かめようぜ。そのあとで、外でも使える方法を考える」
白い男が嬉しそうに笑った。
「いいねえ。そうこなくちゃな」
斬月のオッサンも、静かに頷いた。
一護は二人を見比べた。
前の人生では、何度も互いにぶつかり合った。
自分の力が何なのかさえ知らず、それを恐れ、拒絶したこともあった。
だが、今は違う。
二人とも、斬月だった。
そして、自分自身の力だった。
「……じゃあ、もう一回やるか」
一護が刀を構える。
白い男は獰猛に笑った。
「今度は泣くんじゃねえぞ、王様」
「誰が泣くかよ」
一護は地面を蹴った。
白い男も同時に動く。
二振りの刀が白い刃とぶつかり合い、鋭い音が高層ビルの間へ響き渡った。
今度は先ほどと違い、左右の刀を使い分ける。
大きな刀で攻撃を受け流し、小さな刀で反撃する。
だが、白い男はすぐにその動きを見抜いた。
攻撃の間へ滑り込み、一護の懐へ踏み込んでくる。
「遅ぇ!」
「くそっ……!」
一護は慌てて身体を捻り、斬撃を避けた。
水飛沫が上がる。
その隙に大きな刀を振るうと、白い男は笑いながら後方へ跳んだ。
「そうだ、それでいい! けどな、二本あるからって振り回しゃいいってもんじゃねえぞ!」
「分かってる!」
「分かってんなら、もっと頭使えよ!」
一護は舌打ちし、もう一度踏み込んだ。
二本の刀をどう動かすか。
一刀のときとは、間合いも動きも違う。
今まで当たり前のように使ってきた斬月にも、まだ試せることがあるらしい。
そのことが、少しだけ楽しかった。
白い男が刀を振り上げる。
一護は今度こそ、その動きを正面から受け止めた。
◇
目を覚ましたとき、窓の外はすっかり明るくなっていた。
一護はしばらく天井を見つめていた。
見慣れた子供部屋。
小さなベッド。
枕元には、誕生日にもらった図鑑が置かれている。
身体を起こす。
当然ながら、そこにあったのは四歳の自分の身体だった。
精神世界で自由に動き回っていた感覚が残っているせいか、いつもより手足が短く感じられる。
一護は自分の手を開き、握り直した。
以前のような大きな手ではない。
斬月を握っていた感触も、少しずつ薄れていく。
だが、精神世界で交わした会話は、はっきりと覚えていた。
斬月のオッサン。
白い男。
二人とも、以前と変わらず自分の中にいた。
「……いたんだな、やっぱり」
声に出してみると、改めて実感が湧いてきた。
力の扱い方はまだ分からない。
現実で斬月を呼び出す方法も、死神化する手段も見つかっていない。
それでも、二人がいると分かったことは大きかった。
一護はベッドから下り、床へ足をつけた。
軽く跳んでみる。
やはり、それほど高くは跳べなかった。
拳を握ってみても、以前のような力は感じられない。
それなのに、今朝は少しだけ気分が違った。
何も分からないまま、闇雲に試す必要はない。
少なくとも、力の扱い方について話せる相手が二人いる。
それも、自分以上にその力を知っている二人が。
「……ったく、あいつら」
白い男の挑発的な笑みを思い出し、一護は苦笑した。
次に精神世界へ入ったときも、きっと休む間もなく斬りかかってくるのだろう。
少々気が重かったが、悪い気はしなかった。
「一護ー! 起きてるー?」
階下から真咲の声がした。
「起きてる!」
「朝ごはんできてるわよ!」
「分かった!」
一護は返事をして、部屋の扉へ向かった。
廊下へ出ると、階下から味噌汁の匂いが漂ってきた。
朝食の準備はもう終わっているらしい。
階段を下りながら、昨日の道場での出来事を思い返した。
たつき。
そういえば、来週も勝負すると約束していた。
あいつはきっと手を抜かないだろう。
今の身体では、素直に負けを認めなければならないこともあるかもしれない。
しかし、だからといって最初から負けるつもりはなかった。
精神世界で剣を振るうことと、現実の身体を鍛えること。
どちらも、できることから始めればいい。
居間へ入ると、一心が新聞を広げていた。
真咲は台所で焼き魚を皿へ移している。
「お、起きたか。一護」
一心が新聞から顔を上げた。
「昨日はよく眠れたか?」
「……まあな」
「そりゃよかった。空手の初日で疲れてただろう」
一護が席へ座ると、一心は新聞を畳み、息子の前へ麦茶を置いてくれた。
「筋肉痛はどうだ?」
「ちょっとだけ」
「そっか。なら今日は無理せず休んどけ。身体を動かすのは楽しいが、休むのも稽古のうちだ」
一護は父親を見た。
「……親父、空手やってたのか?」
「いや。だが、身体を動かすことについては、多少は分かるつもりだぞ」
一心は笑いながら、自分の肩を軽く叩いた。
「それに、俺は医者だからな。無茶をして怪我をしたら、ちゃんと叱るぞ」
「……分かってるって」
「ならよし」
真咲が皿を運んできた。
「一護、今度たつきちゃんと勝負するんでしょう?」
「……母さん、何で知ってんだよ」
「あら、昨日帰り道に教えてくれたじゃない」
一護は少しだけ顔をしかめた。
そういえば、そんな話をした気もする。
一心は面白そうに眉を上げた。
「ほう。もう友達ができたのか」
「……まあな」
「いいことじゃないか。今度紹介してくれよ」
「別にいいけど、道場で騒ぐなよ」
「おいおい、父ちゃんを何だと思ってるんだ」
「騒がしい親父」
一心は苦笑した。
「随分な言われようだな」
真咲が楽しそうに笑った。
一護も口元を緩めながら、両手を合わせる。
「いただきます」
向かい側で真咲が微笑み、一心も遅れて手を合わせた。
食卓には、いつもと同じ朝食が並んでいる。
一護は味噌汁を一口飲み、焼き魚へ箸を伸ばした。
向かい側では、一心が真咲へ今日の予定を話していた。
診療所の仕事が終わったら、午後は買い物へ出かけるらしい。
一護はその会話を聞きながら、ご飯を口へ運んだ。
精神世界でのことは、また夜に確かめればいい。
今は、目の前の朝飯が冷めないうちに食べたかった。