目が覚めると、台所から包丁の音が聞こえていた。
とん、とん、とん。
一定の間隔で響くその音に、井上織姫は布団の中で目を開けた。
窓の外は明るく、薄いカーテンを通して朝の日差しが差し込んでいる。まだ少し眠たかったが、台所から漂ってくる味噌汁の匂いに気づくと、お腹が小さく鳴った。
「……おなかすいた」
誰に聞かせるでもなく呟いて、織姫は布団から起き上がった。
床に足を下ろし、枕元の時計を見る。
午前七時を少し過ぎたところだった。
九月三日。
今日は、織姫の五歳の誕生日だった。
もっとも、本人にとって五度目の誕生日というわけではない。
正確に数えるなら、もっと多くの誕生日を経験している。
前の人生で十七年近く生きていたのだから、今の年齢と合わせれば二十年以上になるはずだった。
ただ、そんなことを考えても、目の前にあるのは五歳の身体だった。
手も足も小さく、棚の上に置かれたものを取ろうとすれば背伸びをしなければならない。重い鍋を持つこともできず、一人で出かけられる場所にも限りがある。
それでも、赤ん坊だった頃に比べれば随分と自由になった。
歩ける。
走れる。
自分の気持ちを言葉にできる。
何より、兄と普通に会話ができる。
織姫はそれが嬉しかった。
寝間着を着替え、髪を手櫛で整えてから部屋を出る。
小さな廊下の先には、台所と食卓を兼ねた部屋があった。
決して広い家ではない。
空座町から電車でいくつか駅を離れた街にある、古いアパートの一室だった。
窓際には小さな食卓が置かれ、その横には二人分の食器を収めた棚がある。壁に掛けられたカレンダーには、今日の日付を囲む赤い丸が描かれていた。
そして、その下の台所に立っている青年がいた。
「おはよう、お兄ちゃん!」
織姫が声をかけると、青年が振り返った。
柔らかな茶色の髪。
優しげな目元。
少し痩せた顔には、まだ若さが残っている。
井上昊。
織姫の兄だった。
「おはよう、織姫。今日は早いな」
「うん! すっごくいい夢見たの!」
「そうなのか。どんな夢だった?」
織姫は少し考えた。
「ええっとね、空から大きなパンが降ってきて、街のみんなで食べる夢!」
「それは楽しそうだな」
「でもね、パンの中にたくあんが入ってたの!」
昊は思わず手を止めた。
「……たくあん?」
「うん! しかも、すっごく長いやつ!」
織姫が両手を広げてみせると、昊は堪えきれずに笑った。
「相変わらず、変わった夢を見るんだな」
「おいしそうだったよ?」
「そうか。じゃあ、今度パンとたくあんを買ってみようか」
「ほんと!?」
「食べるのは織姫だけかもしれないけどな」
昊は笑いながら、切った野菜を鍋へ入れた。
織姫は食卓の椅子を引き、いつもの席へ座った。
五歳の誕生日。
今日も兄が朝ご飯を作ってくれている。
その光景を眺めていると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
前の人生でも、兄はよく料理を作ってくれた。
両親のいる家を出てから、二人で暮らした時間があった。
決して裕福ではなかったけれど、兄はいつも織姫を気遣ってくれた。
自分のことより、妹のことを優先していた。
そんな兄が、ある日突然いなくなった。
交通事故だった。
そのあと、兄の魂が虚となって現れたことも、一護に救われたことも覚えている。
兄と交わした最後の言葉も。
けれど、今は違う。
目の前の昊は、生きていた。
仕事へ行けば帰ってくるし、朝になれば台所で味噌汁を作ってくれる。
少し疲れている日には、椅子へ座ったままうとうとしていることもあった。
そんな姿を見るたびに、織姫は妙な安心感を覚えた。
「織姫、卵焼きは甘い方がいいか?」
「うん! あ、でもお塩もちょっと入れたい!」
「甘いのか、しょっぱいのか、どっちなんだ?」
「両方!」
昊は苦笑しながら、卵を溶いた。
「じゃあ、少しだけ塩を入れよう」
「やった!」
織姫は嬉しそうに両手を上げた。
兄が笑う。
その笑顔を見ていると、今の暮らしを大切にしたいという気持ちが、自然と強くなった。
◇
織姫がこの世界で生まれ直したことに気づいたのは、まだ赤ん坊だった頃だった。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
身体が動かない。
声が出ない。
周囲のものがぼやけて見える。
誰かに抱き上げられ、知らない天井を見つめている。
そのうち、自分が赤ん坊になっていることを理解した。
だが、どうしてそうなったのかについては、今でも答えを持っていない。
最後に覚えているのは、真世界城での出来事だった。
崩れ始めた世界。
ユーハバッハの力。
自分たちが立っていた場所さえ失われていくような、あの光景。
そして、黒崎一護。
彼がこちらへ手を伸ばしていた。
織姫も、手を伸ばしたかった。
けれど、その手を取ってしまえば、きっと間に合わなかった。
何もかもが壊れてしまう。
そう思った。
だから、織姫は自分にできることをした。
世界の崩壊を拒絶するために、持てる力をすべて使った。
あの瞬間、自分が何を失うのかを、正しく理解できていたわけではない。
ただ、一護たちに生きていてほしかった。
それだけは、はっきりと覚えている。
そのあとに何が起きたのかは分からない。
気づけば、今の世界へ生まれ直していた。
ここにも、井上昊がいた。
前の人生と同じ名前を持ち、同じ顔をした兄だった。
ただ、以前の出来事は何も知らなかった。
虚に襲われたことも、黒崎一護という死神代行の存在も。
そもそも、この世界の昊は、死神や尸魂界といった言葉を聞いたことさえないらしかった。
最初は、それが少し寂しかった。
織姫が知っている兄と、目の前の兄。
同じように優しく、同じように笑う。
けれど、二人が経験してきた出来事は違う。
そのことを、織姫は幼い頃から少しずつ理解していった。
今の昊に、前の人生のことを話したことはない。
突然、妹が知らない世界で死神と戦っていたなどと言い出しても、きっと困ってしまうだろう。
それに、織姫自身もまだ分からないことが多かった。
この世界にも、以前の世界と同じような魂の仕組みがあるのか。
死神や虚が存在するのか。
自分がどうして生まれ変わったのか。
何一つ、確かな答えはなかった。
ただ、今は兄がいる。
目の前で笑っている。
その事実だけは、疑いようがなかった。
「……織姫?」
昊の声で、織姫は顔を上げた。
いつの間にか朝食の準備が終わっていたらしい。
「どうした? ぼーっとして」
「えっ? あ、ううん! なんでもないよ!」
「眠いなら、もう少し寝ててもよかったんだぞ」
「大丈夫! もうお目々ぱっちり!」
織姫が大きく目を開いてみせると、昊は笑いながら皿を置いた。
「それならよかった。ほら、食べよう」
「いただきまーす!」
織姫は両手を合わせた。
目の前には、卵焼きと味噌汁、それに白いご飯が並んでいる。
いつもと同じ朝食だった。
それでも、今日は少しだけ特別な味がした。
◇
昊が仕事へ出かけたあと、織姫は近所の公園へ連れていってもらった。
今日は仕事の都合で昼間の時間を空けられなかったため、昊は親しくしている近所の女性に、午後まで織姫の世話を頼んでいた。
女性は同じアパートに住んでおり、以前から兄妹を何かと気にかけてくれている。
織姫も、その人のことをよく知っていた。
公園には何人かの子供が遊びに来ていた。
滑り台の周辺では元気な声が響き、砂場では小さな子供たちが山を作っている。
織姫はその中に混ざり、しばらく遊んでいた。
今の身体では、以前のように長い距離を走ることもできない。
それでも、少しずつ体力はついてきていた。
最近では、同じくらいの年齢の子供たちと遊んでも、すぐに疲れてしまうことは少なくなった。
「織姫ちゃん!」
砂場の方から、女の子が声をかけてきた。
「こっち来て! お城作ろう!」
「うん!」
織姫は笑顔で駆け寄った。
砂場には、小さな山がいくつも並んでいる。
どうやら、お城のつもりらしい。
「ここが王様のお部屋で、こっちがお姫様のお部屋!」
「わあ、すごいね!」
織姫はしゃがみ込み、砂を少しずつ積み上げていった。
指先に湿った砂がつく。
形を整えようとすると、端が崩れた。
「あっ」
慌てて押さえようとしたが、今度は別の場所が崩れてしまった。
隣の女の子が笑った。
「織姫ちゃん、そこはもっとぎゅってしないと!」
「そっか! じゃあ、ぎゅーって!」
織姫は両手で砂を押し固めた。
今度は上手くいった。
砂の山が少し高くなる。
それを見た女の子が満足そうに頷いた。
織姫も嬉しくなって笑った。
前の人生では、こうして公園で砂遊びをした記憶はあまり残っていなかった。
幼い頃から、家のことを考える時間が多かったからかもしれない。
兄が仕事で忙しくしていたこともある。
だから、今の生活で初めて経験するように感じることが、意外とたくさんあった。
その一つ一つが、織姫には新鮮だった。
しばらくすると、近くで遊んでいた男の子たちが、ヒーローの話を始めた。
「オールマイトって、すっごいんだぜ!」
「知ってる! テレビで見た!」
「ぼくも大きくなったらヒーローになる!」
織姫は砂を固める手を止めた。
オールマイト。
この世界で暮らしていれば、何度も耳にする名前だった。
テレビにも雑誌にも登場する、非常に有名なプロヒーロー。
困っている人がいれば、どんな場所にでも駆けつけて助けてくれる。
少なくとも、テレビではそう紹介されていた。
前の人生でも、人々を護るために戦う者たちは大勢いた。
けれど、こちらの世界では、それが職業になっている。
能力を持つ者たちが、法律や資格のもとで人々を助けている。
最初は不思議だった。
しかし、今では少しずつ理解できるようになってきた。
「織姫ちゃんは?」
隣の女の子に尋ねられ、織姫は顔を向けた。
「何が?」
「大きくなったら、何になりたい?」
織姫は少し考えた。
前の人生では、そんなことを真剣に考える時間はあまりなかった。
学校へ通い、友達と遊び、時には戦いに巻き込まれた。
誰かを護るために力を使うことはあったが、それを仕事にしようと考えたことはなかった。
今の世界には、ヒーローという選択肢がある。
人々を助けるための技術を学び、それを仕事にできる場所があるらしい。
ただ、織姫にはまだ、自分が何をしたいのか分からなかった。
「……うーん」
少し考えてから、顔を上げる。
「おいしいご飯を、いっぱい作れる人かな!」
「ご飯?」
「うん! 世界中のお料理を集めて、ぜーんぶ混ぜたら、すっごいお料理ができると思うの!」
女の子が目を丸くした。
「……全部?」
「うん! カレーとオムライスとお寿司と、あとチョコレートも!」
「それ、おいしいの?」
「きっとおいしいよ!」
織姫は自信満々に頷いた。
女の子はしばらく考え込んでいたが、やがて笑い出した。
「変なのー!」
「えへへ」
織姫も笑った。
将来のことは、まだ分からない。
けれど、誰かと一緒にご飯を食べて、笑っていられる時間は好きだった。
それだけは、以前の人生から変わっていない。
◇
夕方になると、昊が迎えに来た。
仕事を終えて急いできたらしく、少しだけ息を切らしている。
「織姫、お待たせ」
「お兄ちゃん!」
織姫は駆け寄り、昊の腕へ抱きついた。
昊は少し驚いたものの、すぐに笑って頭を撫でてくれた。
「今日は楽しかったか?」
「うん! お城作ったんだよ!」
「お城?」
「すっごく大きいやつ! でもね、最後は崩れちゃったの」
「そうか。それは残念だったな」
「ううん! また作ればいいもん!」
織姫が笑うと、昊も微笑んだ。
世話をしてくれた女性へ礼を言い、二人は家へ向かって歩き始めた。
夕方の街には、仕事帰りの人々が行き交っている。
道路の向こうでは、プロヒーローの広告が大きく掲げられていた。
織姫はその広告を見上げた。
笑顔で拳を突き上げる、大柄な男が描かれている。
オールマイトだった。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ヒーローって、すごいよね」
昊は広告へ目を向けた。
「そうだな。危ない仕事だけど、人を助けるために頑張ってるんだから」
「……うん」
「織姫も、ヒーローになりたいのか?」
織姫は少し迷った。
なりたい、と答えることは簡単だった。
けれど、今の自分に何ができるのかは分からない。
前の人生では、盾舜六花という力があった。
傷ついた人を癒やし、攻撃を防ぎ、時には敵と戦うこともできた。
しかし、今の世界でその力を使えたことは、一度もなかった。
髪飾りもない。
六花たちの姿も見えない。
もし、あの力が残っていなかったら。
それでも、自分にできることはあるのだろうか。
「……まだ分かんない」
織姫は小さく答えた。
昊は特に驚いた様子もなく、穏やかに頷いた。
「そっか。まあ、まだ五歳だもんな」
「うん」
「ゆっくり考えればいいよ。俺だって、そのくらいの頃は何になりたいかなんて決めてなかったし」
昊は笑いながら、織姫の手を握り直した。
「それより、今日は誕生日だろ。帰ったらお祝いしないとな」
織姫はぱっと顔を輝かせた。
「ケーキある!?」
「もちろん。ちゃんと買ってきたぞ」
「やったー!」
織姫は嬉しそうに跳ねた。
昊は笑いながら、歩調を少しだけ緩めた。
二人は並んで家へ向かった。
◇
夕食は、織姫の好きなものばかりだった。
卵焼きに、から揚げ。
野菜の入ったスープと、小さなハンバーグ。
それに、昊が買ってきてくれたケーキ。
食卓に並んだ料理を見て、織姫は思わず目を輝かせた。
「わあ……!」
「誕生日だからな。今日は少し豪華にしてみた」
「すっごい! お兄ちゃん、ありがとう!」
昊は照れくさそうに笑った。
「どういたしまして。さあ、冷めないうちに食べよう」
二人は向かい合って席に座った。
いつもと同じ、小さな食卓。
けれど、今日は料理がいっぱい並んでいるせいで、少しだけ狭く感じられた。
「いただきまーす!」
織姫は元気よく両手を合わせた。
から揚げを一つ口へ運ぶ。
外側はさくさくしていて、中は柔らかい。
思わず笑みがこぼれた。
「おいしい!」
「そりゃよかった」
昊も嬉しそうに頷き、自分の皿へ手を伸ばした。
しばらく二人で食事をしていると、昊がふと口を開いた。
「織姫、最近は友達も増えたみたいだな」
「うん!」
「今日も公園でいっぱい遊んだんだろ」
「そう! お城作ったり、ヒーローの話したりしたの!」
織姫は楽しそうに、昼間の出来事を話した。
砂のお城が崩れてしまったこと。
友達がオールマイトの真似をしていたこと。
将来何になりたいかという話になったこと。
昊は途中で口を挟まず、時折笑いながら聞いていた。
その様子を見ていると、織姫は少しだけ不思議な気持ちになった。
前の人生でも、兄はこうして話を聞いてくれた。
自分が学校で何をしたのか。
友達とどんな遊びをしたのか。
どんなことが嬉しかったのか。
忙しくても、できる限り耳を傾けてくれた。
それがどれほどありがたいことだったのか、兄を失ってから何度も考えた。
だから今は、できるだけたくさん話したかった。
今日あったこと。
面白かったこと。
嬉しかったこと。
特別な話でなくても構わない。
ただ、こうして兄が聞いてくれることが嬉しかった。
「……織姫?」
昊が少し首を傾げた。
「どうした?」
気づけば、織姫は黙って兄の顔を見つめていた。
「……ううん!」
慌てて首を振る。
「お兄ちゃん、いつもありがとう!」
昊は少し驚いた顔をした。
それから、柔らかく笑った。
「どうしたんだ、急に」
「なんとなく!」
「そっか」
昊は嬉しそうに頷いた。
「俺の方こそ、いつもありがとうな」
その言葉に、織姫は目を丸くした。
「……私?」
「ああ。織姫がいてくれると、家が賑やかだからな」
昊は笑った。
「仕事から帰ってきたとき、誰かが『おかえり』って言ってくれるのは嬉しいもんだよ」
織姫はその言葉を聞き、しばらく兄を見つめた。
それから、小さく頷いた。
「……うん」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
◇
食事が終わると、昊は食卓の上へ小さなケーキを置いた。
白いクリームの上には、イチゴが並んでいる。
真ん中には、五本のろうそくが立っていた。
「じゃあ、織姫。誕生日おめでとう」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
昊がろうそくに火をつける。
小さな炎が、五つ並んで揺れた。
織姫はその光景を見つめた。
前の人生でも、兄に誕生日を祝ってもらったことがある。
小さなケーキを買ってきてくれた日もあった。
お金がなくて、手作りのお菓子だけだった年もあった。
それでも、兄は毎年、自分の誕生日を忘れなかった。
そんな記憶が、次々と浮かんでくる。
「お願い事、決めたか?」
昊が尋ねた。
織姫は顔を上げる。
「うん!」
「じゃあ、どうぞ」
織姫は目を閉じた。
願いたいことは、いくつもあった。
兄が元気でいてくれること。
これからも一緒に暮らせること。
友達と仲良くできること。
それから――。
黒崎くん。
ふと、一護の顔が浮かんだ。
最後に見た彼は、こちらへ手を伸ばしていた。
自分が何をしようとしているのか、きっと分かっていたのだろう。
それでも、織姫はあの手を取らなかった。
あのときは、そうするしかないと思ったから。
自分の選択を後悔しているわけではない。
ただ、一護があのあとどうなったのかは、今でも気になっていた。
ちゃんと生きているだろうか。
石田くんや茶渡くん、朽木さんたちと、元の世界へ戻れただろうか。
また学校へ通って、くだらない話をして、笑っているだろうか。
織姫はゆっくりと息を吸った。
そして、心の中で願った。
みんなが、元気でありますように。
目を開ける。
五つの炎へ、そっと息を吹きかけた。
ろうそくが消える。
昊が嬉しそうに拍手をした。
「おめでとう、織姫」
織姫は兄を見上げた。
「ありがとう!」
笑顔で答えると、昊も笑い返してくれた。
◇
ケーキを食べ終えたあと、昊は食卓の引き出しから小さな包みを取り出した。
「そうだ。もう一つあったんだ」
「え?」
「誕生日のプレゼント」
織姫は目を丸くした。
「ええっ!? ケーキもあったのに!?」
「ケーキはケーキ。プレゼントは別だろ」
昊は笑いながら、包みを差し出した。
淡い桃色の紙で包まれた、小さな箱だった。
「開けてみて」
「……うん!」
織姫は両手で箱を受け取った。
指先で包装紙を剥がしていく。
中から現れたのは、小さな髪飾りだった。
一対の、花の形をした髪留め。
六枚の花弁を模した飾りが、それぞれについている。
織姫の手が止まった。
「……あ」
呼吸を忘れた。
見覚えがあった。
見間違えるはずがなかった。
花の形。
色合い。
細かな飾りの配置。
まったく同じものではない。
けれど、あまりにもよく似ていた。
前の人生で、兄から贈られた髪飾りに。
「……どうかな?」
昊が少し不安そうに尋ねた。
「この前、駅前のお店で見てただろ? 気に入ってるのかなと思って」
織姫は顔を上げた。
そういえば、そんなことがあった。
数週間前、兄と買い物へ出かけたとき。
店先に並んでいた髪飾りの中に、懐かしい形を見つけた。
思わず足を止め、しばらく眺めてしまったのだ。
兄はそのことを覚えていたらしい。
「織姫、最近髪も伸びてきたしな。こういうの、似合うんじゃないかと思って」
昊は照れくさそうに笑った。
「……気に入らなかった?」
織姫は首を振ろうとした。
けれど、上手く動かなかった。
目の前の髪飾りが、滲んで見える。
どうして。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
前の人生でも、兄は自分に髪飾りを贈ってくれた。
あのときの織姫は、それを素直に喜べなかった。
兄と喧嘩をしてしまったことも覚えている。
まさか、あれが兄と過ごす最後の日々になるなんて、思ってもいなかった。
あとになって、何度も考えた。
どうして、もっとちゃんとお礼を言わなかったのだろう。
どうして、あんなことで怒ってしまったのだろう。
兄が自分のために選んでくれたものだったのに。
ずっと、大切にしていた。
あの髪飾りは、ただの形見ではなかった。
兄が自分を思ってくれた証であり、盾舜六花を呼び出すための大切なものでもあった。
何度も戦いを乗り越えた。
傷ついた人を癒やした。
誰かを護るために、何度も力を借りた。
そして最後には、あの髪飾りも、自分の力も、すべてを使い切ったはずだった。
その形が、今また目の前にある。
「……織姫?」
昊が心配そうに身を乗り出した。
「大丈夫か?」
織姫はようやく顔を上げた。
頬を、涙が伝っていた。
「……お兄ちゃん」
「どうした? そんなに嫌だったか?」
昊が困った顔になる。
その表情を見て、織姫は慌てて首を振った。
「違うの……!」
涙が、もう一粒こぼれた。
「違うよ……すっごく、嬉しいの……!」
昊は目を見開いた。
織姫は小さな手で髪飾りを握りしめた。
「ありがとう……お兄ちゃん……!」
声が震えた。
うまく笑おうとしても、涙が止まらない。
昊はしばらく驚いたように妹を見つめていた。
それから、ゆっくりと手を伸ばした。
「……そっか」
優しい声だった。
「喜んでくれたなら、よかった」
昊は織姫の頭を撫でた。
その温かさに触れた瞬間、織姫はとうとう泣き出してしまった。
「……ありがとう……!」
「うん」
「大事にする……! 絶対、大事にするから……!」
「分かった。ありがとうな」
昊は笑いながら、妹を抱き寄せた。
織姫はその胸へ顔を埋めた。
今度は、ちゃんと言えた。
ありがとう、と。
それだけのことが、こんなにも嬉しかった。
◇
しばらくして泣きやむと、昊は織姫の髪へ髪飾りをつけてくれた。
「ちょっと動かないでな」
「うん……!」
昊は慎重に髪を整え、左右へ飾りを留めた。
まだ慣れていない手つきだったが、何度か直すうちに、ようやく形が整った。
「よし。できた」
織姫は鏡の前へ走った。
そこには、橙色の髪に小さな花の飾りをつけた少女が映っていた。
顔は幼い。
髪もまだ、以前ほど長くない。
けれど、髪飾りがあるだけで、どこか懐かしい気がした。
「……わあ」
思わず声が漏れた。
昊が後ろから覗き込む。
「似合ってるぞ、織姫」
「……うん!」
織姫は笑顔で頷いた。
鏡の中で、髪飾りが小さく光を反射している。
その輝きを見つめていると、胸の奥で何かが僅かに揺れたような気がした。
織姫は目を瞬いた。
今のは。
けれど、すぐにその感覚は消えてしまった。
「どうした?」
昊が声をかけてくる。
織姫は慌てて首を振った。
「ううん! なんでもない!」
「そっか。じゃあ、写真でも撮ろうか」
「写真?」
「ああ。せっかくの誕生日だしな」
昊は棚から小さなカメラを取り出した。
織姫はぱっと顔を輝かせた。
「お兄ちゃんも一緒に!」
「俺も?」
「うん! 二人で撮りたい!」
昊は少し驚いたあと、笑って頷いた。
「分かった。じゃあ、タイマーにしよう」
カメラを棚の上へ置き、二人は並んで立った。
織姫は兄の腕へ抱きついた。
昊が少し身を屈める。
「ちゃんと写ってるかな」
「大丈夫! お兄ちゃん、もっとこっち!」
「はいはい」
小さな電子音が鳴った。
織姫は顔を上げ、思いきり笑った。
シャッターの音が響く。
画面には、二人の笑顔が映っていた。
◇
その夜、織姫はなかなか眠れなかった。
誕生日が嬉しかったから。
兄とたくさん話せたから。
それも理由の一つだった。
けれど、何より気になっていたのは、枕元に置いた髪飾りだった。
布団の中で、織姫はそっと手を伸ばした。
一対の花飾り。
六枚の花弁。
指先で触れると、冷たい金属の感触があった。
前の人生で使っていたものとは違う。
兄が新しく買ってくれた、ただの髪飾りだ。
そう理解しているはずなのに、手の中へ収めた瞬間、胸の奥がざわめいた。
「……みんな」
小さく呟いた。
舜桜。
あやめ。
火無菊。
梅厳。
リリィ。
椿鬼。
かつて、自分と一緒に戦ってくれた六人。
傷ついた人を癒やし、危険な攻撃から護ってくれた、大切な仲間たち。
最後にあの力を使ったとき、彼らがどうなったのかは分からなかった。
自分自身が消えてしまうような感覚の中で、何もかもが遠ざかっていった。
だから、もう会えないのだと思っていた。
「……いるのかな」
織姫は髪飾りを胸元へ引き寄せた。
もし、もう一度会えるなら。
もう一度、みんなの声を聞けるなら。
そう考えた瞬間だった。
指先が、僅かに温かくなった。
「……え?」
織姫は目を開いた。
手の中の髪飾りが、淡い光を帯びていた。
最初は、窓から差し込む月明かりが反射しているのかと思った。
だが、違った。
光は髪飾りの内側から生まれている。
六枚の花弁を模した飾りが、小さく瞬いていた。
織姫は息を呑んだ。
「……まさか」
光がふわりと浮き上がった。
一つ。
二つ。
そして、六つ。
小さな光の粒が、織姫の目の前へ集まっていく。
やがて、それぞれの光が形を持ち始めた。
人の姿。
小さな身体。
見覚えのある顔。
織姫は目を大きく見開いた。
「……みんな……?」
最初に姿を現したのは、穏やかな表情をした小さな男性だった。
その隣には、控えめな様子の少女がいる。
続いて、元気そうな男と大柄な男、眼鏡をかけた女性が姿を現した。
そして最後に、口元を布で覆った小柄な男が現れる。
六人。
織姫が、何度も呼び続けた名前を持つ者たちだった。
「……舜桜?」
声が震えた。
小さな男性が、ゆっくりと頷いた。
「お久しぶりです、織姫さん」
その声を聞いた瞬間、織姫の目から涙がこぼれた。
「……っ!」
慌てて口元を押さえる。
声を上げてしまえば、隣の部屋で眠っている兄を起こしてしまうかもしれない。
けれど、涙は止まらなかった。
舜桜が穏やかに微笑む。
あやめも、その隣で小さく頭を下げた。
「……織姫さん」
懐かしい声だった。
織姫は震える手を伸ばした。
「……本当に、みんななの……?」
六人は、変わらずそこにいた。
火無菊が元気よく腕を上げる。
「当然じゃないですか! ちゃんといますよ!」
梅厳が重々しく頷き、リリィも笑った。
そして、椿鬼が腕を組んだまま口を開いた。
「ったく、何泣いてんだよ」
その声に、織姫は顔を上げた。
椿鬼は相変わらず不機嫌そうな顔をしていた。
「久しぶりに会ったんだから、もっとしゃきっとしろよな」
「……椿鬼くん……」
「何だよ」
織姫は笑おうとした。
けれど、上手くいかなかった。
「……会いたかった……!」
涙がもう一度こぼれた。
椿鬼は一瞬だけ黙り、気まずそうに顔を逸らした。
「……大げさなんだよ」
その言い方まで、以前と変わらなかった。
織姫は泣きながら笑った。
六人が、目の前にいる。
もう二度と会えないと思っていた仲間たちが。
何もかも失ったはずだったのに。
こうして、また話すことができる。
「……よかった……」
織姫は小さく呟いた。
「……本当に、よかった……」
舜桜が少し近づき、穏やかに声をかけた。
「織姫さん。無事にお会いできて、私たちも嬉しいです」
その言葉に、織姫は何度も頷いた。
◇
しばらくして落ち着くと、織姫は布団の上へ座り直した。
六花たちは、枕元の小さな明かりの周辺へ集まっている。
今の彼らは、前の人生と同じ姿をしていた。
ただ、どこか光が薄い。
以前のように明瞭な輪郭を持っているものの、身体の端が僅かに透けて見えることがあった。
織姫はその様子を見つめた。
「……ねえ、舜桜」
「はい」
「私、まだみんなの力を使えるのかな」
舜桜は少しだけ考えた。
「今の織姫さんは、以前とは異なる身体を持っています。私たちも、まだ十分に力を発揮できる状態ではないようです」
織姫は小さく頷いた。
予想していた答えだった。
今の自分は五歳だ。
以前のように身体を動かせるわけでもない。
それに、こちらの世界へ来てから、霊的な力を使えたことは一度もなかった。
「でも……みんながいるってことは、力も残ってるんだよね?」
「少なくとも、私たちはここにいます」
舜桜はそう答えた。
織姫は髪飾りへ視線を落とした。
兄から贈られた、新しい髪飾り。
それを手にしたことで、六花たちは再び姿を現した。
前の人生で使っていたものとは違う。
けれど、同じように大切なものだった。
「……そっか」
織姫は小さく笑った。
それから、ふと気になったことを口にした。
「ねえ、みんな。あのあと……どうなったか、分かる?」
六花たちが静かになった。
織姫は膝の上で手を握った。
あのあと。
真世界城で、最後に自分の力を使ったあと。
世界がどうなったのか。
黒崎一護たちが無事だったのか。
それを、ずっと知りたかった。
舜桜は静かに首を振った。
「申し訳ありません。私たちにも、あのあとのことは分かりません」
「……そっか」
織姫は目を伏せた。
少しだけ、残念だった。
けれど、仕方がない。
六花たちも、自分の魂に宿る力だ。
自分が知らないことを、彼らだけが知っているとは限らない。
「……ううん。いいの」
織姫は顔を上げた。
「みんながいてくれたって分かっただけで、すっごく嬉しいから」
舜桜が微笑む。
あやめも、小さく頷いた。
織姫は六人を見回した。
前の人生では、彼らの力に何度も助けられた。
自分一人ではどうにもならなかった場面でも、六花たちがいたから誰かを護ることができた。
あの力を、もう一度使えるようになりたい。
そう思った。
ただ、すぐに使えるようにならなくても構わなかった。
今は時間がある。
少なくとも、明日までに強くならなければ誰かが傷つくと決まっているわけではない。
まずは、少しずつ確かめていけばいい。
「……ねえ」
織姫は小さく笑った。
「また、一緒に頑張ってくれる?」
六人が顔を見合わせた。
最初に答えたのは、椿鬼だった。
「当たり前だろ」
腕を組んだまま、ぶっきらぼうに言う。
「てめえが呼んだんだから、最後まで付き合ってやるよ」
火無菊が元気よく頷き、リリィも笑った。
舜桜は穏やかに頭を下げた。
「もちろんです」
織姫は嬉しそうに両手を合わせた。
「……ありがとう!」
その瞬間、六花たちの身体が淡く光った。
織姫は目を瞬いた。
光は少しずつ薄くなり、彼らの姿も透け始めている。
「……あれ?」
舜桜が静かに口を開いた。
「今は、まだ長く姿を保てないようです」
織姫は少しだけ残念そうな顔をした。
だが、すぐに頷いた。
「……うん。分かった」
「また呼んでください」
舜桜が微笑む。
あやめも小さく手を振った。
椿鬼は最後まで腕を組んでいたが、消える直前にちらりと織姫を見た。
「ちゃんと寝ろよ、織姫」
「……うん!」
織姫が笑顔で答えると、六人は光の粒へ戻った。
小さな光が、髪飾りへ吸い込まれていく。
やがて、部屋は元の静けさを取り戻した。
織姫はしばらく髪飾りを見つめていた。
もう光っていない。
ただの花の飾りに見える。
けれど、さっきまで六人がそこにいた。
夢ではなかった。
手の中には、微かな温かさが残っていた。
「……おやすみ、みんな」
織姫は小さく呟いた。
そして、髪飾りを大切に枕元へ置いた。
◇
翌朝、織姫は鏡の前で髪飾りをつけようとしていた。
昨日、兄から贈られたものだった。
左右の髪を整え、花の形をした飾りを留める。
しかし、片方は上手く留まったものの、もう片方がなかなか思いどおりの位置に収まらない。
「……むむむ」
鏡の前で格闘していると、背後から声がした。
「手伝おうか?」
振り返ると、昊が立っていた。
織姫は少し迷ったあと、頷いた。
「……お願い!」
「任せとけ」
昊は笑いながら、織姫の後ろへしゃがみ込んだ。
小さな髪飾りを受け取り、慎重に髪へ留めていく。
「これでどうだ?」
織姫は鏡を覗き込んだ。
左右に並んだ、六枚の花弁。
少しだけ位置が違う気もしたが、十分だった。
「……うん!」
織姫は嬉しそうに笑った。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「どういたしまして」
昊も笑い返した。
鏡の中には、二人の姿が映っている。
橙色の髪をした小さな少女。
その後ろに立つ、優しい兄。
前の人生では、二度と見ることのできなかった光景だった。
織姫は振り返り、兄の手を握った。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「今日も、お仕事頑張ってね!」
昊は少し驚いたあと、笑った。
「ああ。織姫も、いい子にしてるんだぞ」
「うん!」
織姫は元気よく頷いた。
昊が立ち上がり、台所へ向かっていく。
その背中を見送ってから、織姫はもう一度鏡を見た。
髪飾りは、朝の日差しを受けて小さく輝いている。
昨日の夜、そこから六花たちが現れた。
今も、みんながこの中にいる。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「……えへへ」
織姫は小さく笑った。
そして、台所へ向かって駆け出した。
「お兄ちゃーん!」
「どうした、織姫?」
「今日の朝ごはん、私もお手伝いする!」
「いいぞ。じゃあ、お皿を並べてもらおうかな」
「うん!」
織姫は食器棚へ向かい、小さな皿を一枚ずつ取り出した。
落とさないように、両手でしっかり持つ。
食卓へ運び、二人分を並べる。
昊はその様子を見て、嬉しそうに笑った。
「ありがとう。助かるよ」
「どういたしまして!」
織姫は胸を張った。
その拍子に、髪飾りが小さく揺れる。
鏡の中では、昨日までと少し違う自分が笑っていた。
けれど、台所から聞こえてくる兄の声も、焼きたての卵の匂いも、いつもと同じだった。
「織姫、卵焼きできたぞ」
「はーい!」
織姫は元気よく返事をした。
そして、兄の待つ食卓へ駆け寄った。