『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第6話 魂の輪郭

 

 畳を踏む音が、冬の道場に響いた。

 

 一護は真正面から迫る拳を見据え、僅かに重心を後ろへ移した。

 

 相手の右肩が動く。突きが来ると判断した瞬間、視界の端で左足が床を蹴った。

 

 違う。蹴りだ。

 

「――そこっ!」

 

「……っと!」

 

 咄嗟に腕を下げ、横から迫る蹴りを受け止める。

 

 思っていたより重い。

 

 しかし、体勢を崩すほどではなかった。

 

 一護は蹴り足が戻る隙に踏み込み、相手の胴へ拳を伸ばした。ところが、相手もそれを読んでいたらしく、素早く身体を引いて距離を取る。

 

 拳が空を切った。

 

「惜しい!」

 

 目の前の少女が楽しそうに笑った。

 

 有沢たつき。

 

 四年前、一護が初めてこの道場へ来た日に知り合った少女だった。

 

 あの頃は互いに四歳だったが、今では八歳になっている。短かった髪は少し伸び、背も高くなった。それに、稽古を続けてきたおかげか、構えも随分と様になっている。

 

 もっとも、負けず嫌いな性格だけは変わっていなかった。

 

「一護、さっきから考えすぎ!」

 

「考えなしに突っ込むよりましだろ」

 

「誰が考えなしよ!」

 

 言い返すなり、たつきが踏み込んでくる。

 

 一護は口元を緩めた。

 

 こういうところは、実に分かりやすい。

 

 ただし、挑発に乗ったように見えても、たつきは決して無闇に拳を振り回すわけではなかった。

 

 右の突きを見せ、左を合わせる。間合いを詰めすぎれば蹴りへ繋ぎ、こちらが引けばすぐに追ってくる。

 

 道場で四年間稽古を続けてきた技術は、伊達ではない。

 

 一護は一度攻撃を受け流し、足の運びを変えた。

 

 正面から打ち合う必要はない。たつきが得意とする間合いを外し、先にこちらの位置を取ればいい。

 

 たつきが追ってくる。

 

 一護は半歩引いた。

 

 もう一歩。

 

 相手がさらに踏み込んだところで、身体を横へ捌く。

 

 たつきの視線が追いつくより早く、一護の拳が胴の手前で止まった。

 

「――一本!」

 

 指導者の声が響いた。

 

 一護は拳を引き、たつきから距離を取る。

 

 少女は一瞬、目を丸くした。

 

 それから、悔しそうに唇を尖らせる。

 

「……今の、ずるくない?」

 

「どこがだよ」

 

「わざと下がったでしょ!」

 

「そりゃ下がるだろ。お前、すぐ間合い詰めてくんだから」

 

「むう……」

 

 たつきは腕を組み、納得できない様子で一護を見つめた。

 

 だが、指導者が近づいてくると、すぐに姿勢を正した。

 

「有沢。黒崎が下がったからといって、全部追いかけていいわけじゃないぞ。相手が何を狙っているのか、もう少し考えてみよう」

 

「……はい」

 

「黒崎もだ。最後の動きはよかったが、その前に危ない場面があっただろう。避けられる攻撃まで受け止めようとする癖があるな」

 

 一護は僅かに眉を寄せた。

 

 思い当たる節はあった。

 

 自分では避けられるつもりでも、身体が間に合わないことがある。

 

 以前のように動けるつもりで間合いを取ってしまい、結果的に受けざるを得なくなるのだ。

 

「……気をつけます」

 

「うん。二人とも、いい組手だった。今日はここまでにしよう」

 

 向かい合って礼をし、道場の端へ戻る。

 

 たつきは水筒を取るなり、一気に水を飲んだ。

 

 一護も隣へ腰を下ろし、タオルで汗を拭う。

 

 十二月に入ったばかりだというのに、稽古を終えた身体は随分と熱かった。

 

「……次は勝つから」

 

 たつきが水筒の蓋を閉めながら呟いた。

 

 一護は横目で少女を見る。

 

「毎回言ってんな、それ」

 

「だって次は勝つもん」

 

「はいはい」

 

「絶対信じてないでしょ!」

 

「信じてるって。お前が練習してんのは知ってるし」

 

 思いがけない返事だったのか、たつきが少し黙った。

 

 一護は気にせず水を飲んだが、隣から視線を感じて顔を向ける。

 

「……何だよ」

 

「いや、なんか変な感じ」

 

「は?」

 

「一護が素直に褒めるの、珍しいなって」

 

「別に褒めてねえだろ」

 

「今のは褒めてた!」

 

 たつきは得意げに笑った。

 

 一護は溜息をついた。

 

 たった一言で随分と機嫌がよくなるものだ。

 

 もっとも、たつきが稽古に真剣なのは事実だった。

 

 彼女の個性は『倍加』。

 

 自身の筋力や瞬発力、反応速度などを、最大で通常の二倍まで高められる身体強化型の個性だった。

 

 単純な能力ではあるが、使い方次第ではかなり強力だ。

 

 特に、たつきのように格闘技を習っている人間とは相性がいい。

 

 ただし、道場での通常の組手では、原則として個性の使用は禁止されている。

 

 個性には生まれつき大きな差がある。ある者は強い炎を出し、ある者は身体を硬くできる。そうした能力を自由に使ってしまえば、純粋な技術を競う稽古にはならない。

 

 だから、ここでは基本的に身体の使い方を学ぶ。

 

 たつきも、その決まりをきちんと守っていた。

 

 そして厄介なのは、個性を使わない状態でも十分に強いことだった。

 

「それにしてもさ、一護って本当に変だよね」

 

 突然そんなことを言われ、一護は顔をしかめた。

 

「いきなり何だよ」

 

「だって、先生に注意されたところ、次の稽古までに大体直してくるじゃん。普通、そんな簡単にできないよ」

 

 たつきは指を折りながら、これまでのことを挙げ始めた。

 

 足の運び。

 

 構えの高さ。

 

 突きを出すときの肩の動き。

 

 一護自身がすっかり忘れていたような指摘まで、よく覚えている。

 

「……お前、よくそんなに覚えてんな」

 

「当たり前でしょ。ずっと一緒に練習してるんだから」

 

 何でもないことのように、たつきは言った。

 

 一護は少しだけ目を瞬いた。

 

 確かに、四年も経っている。

 

 今のたつきと出会ってから、もうそれだけの時間を一緒に過ごしてきた。

 

 最初の稽古で負けたこと。

 

 互いに意地を張って、指導者に叱られたこと。

 

 大会の帰り道、たつきが買ったばかりのアイスを落としてしまい、ひどく落ち込んでいたこと。

 

 思い返せば、いろいろあった。

 

「……そうだな」

 

 一護が小さく笑うと、たつきは少し不思議そうな顔をした。

 

「何?」

 

「いや。お前、結構いい奴だよなって」

 

 次の瞬間、たつきの顔が赤くなった。

 

「なっ、何よ急に!」

 

「……だから、何だよ」

 

「そういうこと、いきなり言うな!」

 

 たつきは勢いよく立ち上がった。

 

 その反応に、一護はぽかんとした。

 

 少し離れた場所で、指導者が二人を見て笑っている。

 

「有沢、元気が余ってるなら片づけを手伝ってくれ」

 

「は、はい!」

 

 たつきは慌てて返事をし、用具の置かれた棚へ向かった。

 

 一護はその背中を見つめ、首を傾げた。

 

「……何だったんだ?」

 

 よく分からなかったが、本人が怒っている様子でもなかったので、それ以上気にしないことにした。

 

     ◇

 

 稽古を終えて道場を出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 

 一護は上着の前を閉め、鞄を肩へ掛け直した。

 

 隣では、たつきが白い息を吐いている。

 

「ねえ一護。今度の日曜、公園で走らない?」

 

「またかよ。先週もやっただろ」

 

「先週は雨降ったじゃん。途中で帰ったし」

 

 そう言われれば、そのとおりだった。

 

 空手の道場以外でも、二人は時折一緒に身体を動かしている。もっとも、公共の場所で勝手に個性を使ったり、組手をしたりすることはできないため、普段はランニングや軽い運動が中心だった。

 

 たつきは競争となると妙に張り切るが、一護にしてみれば、今の身体の体力を確かめるいい機会でもある。

 

「……九時ならいいぞ」

 

「やった! じゃあ九時ね!」

 

「朝から遅刻すんなよ」

 

「それ、一護の方でしょ!」

 

「俺は遅刻してねえだろ」

 

「前に五分遅れた!」

 

「あれは親父が変なこと始めたせいだって!」

 

 言い合いながら歩いていると、前方の交差点で小さな騒ぎが起きた。

 

 小学生くらいの男の子が、母親らしい女性の前で泣いている。

 

 両手の周囲には青白い火花が散り、足元には落とした買い物袋が転がっていた。

 

 どうやら、感情が高ぶって個性を暴発させてしまったらしい。

 

 女性が必死になだめている。

 

 近くにいた大人が店先へ置かれた段ボールを遠ざけ、別の人間が周囲の子供たちを安全な場所へ誘導していた。

 

 一護は自然と足を止めた。

 

 たつきも隣で様子を見ている。

 

 火花が再び大きく散ったところで、男の子の母親が低い声で何かを言った。

 

 男の子は涙を拭い、ゆっくりと手を握った。

 

 火花が小さくなり、やがて消える。

 

 周囲にいた人々から、安堵したような声が漏れた。

 

「……よかった」

 

 たつきが呟いた。

 

 一護も頷いた。

 

 この世界では、個性を持っていること自体は珍しくない。

 

 しかし、それを使いこなせるかどうかは別の話だった。

 

 特に幼い子供の場合、感情に引きずられて能力が暴発することもある。

 

 たつきも、自分の個性を使い始めた頃は、力加減を間違えて物を壊したことがあるらしい。

 

「そういえば、一護の個性って、まだ分かってないんだよね」

 

 歩き始めたところで、たつきが何気なく言った。

 

「ああ。病院でも、まだ何とも言えねえってさ」

 

「ふうん」

 

 たつきは少し考えたあと、笑った。

 

「出たら教えてよ。どんな個性か気になるし」

 

「……そんだけか?」

 

「うん。あ、でも強い個性だったらちょっと悔しいかも」

 

「何でだよ」

 

「だって一護、今でも結構強いじゃん。その上すっごい個性まで出たら、勝つの大変になるでしょ」

 

 たつきは真面目な顔で言った。

 

 一護は思わず笑った。

 

「お前、結局それかよ」

 

「当たり前じゃん!」

 

 少女は胸を張った。

 

 その様子を見て、一護は何となく安心した。

 

 以前の人生のことなど、何も知らないたつき。

 

 だが、今の一護にとっては、幼い頃から共に稽古してきた友人だった。

 

 彼女が何を考えているのか、まだ分からないこともある。それでも、一緒に過ごした四年間は確かにそこにある。

 

 そして、たつきは今の一護を見ていた。

 

 個性があるかどうかではなく、同じ道場で競い合う相手として。

 

「……じゃあ、日曜な」

 

 一護が言うと、たつきは元気よく頷いた。

 

「うん! 今度こそ負けないから!」

 

「走るだけだろ」

 

「走るのだって勝負でしょ!」

 

 結局、そこへ戻るらしい。

 

 一護は苦笑し、いつもの交差点でたつきと別れた。

 

     ◇

 

「ただいま」

 

 玄関の扉を開けると、家の奥から足音が聞こえてきた。

 

「お兄ちゃーん!」

 

 最初に飛び出してきたのは、黒崎遊子だった。

 

 淡い金色の髪を揺らしながら、廊下を駆けてくる。

 

 その後ろから、黒髪の少女が少し遅れて顔を出した。

 

「一兄、おかえり」

 

 黒崎夏梨。

 

 遊子とは双子の妹だった。

 

 二人とも、今年で四歳になっている。

 

 遊子は人懐っこく、誰にでもすぐ話しかける。一方の夏梨は、同じ年齢とは思えないほど落ち着いたところがあった。

 

 もっとも、まだ四歳だ。

 

 夏梨も機嫌が悪ければ拗ねるし、眠くなれば母親へ甘える。

 

 そうした姿を見るたびに、一護は少しだけ面白くなった。

 

「おう、ただいま」

 

 しゃがみ込むと、遊子が勢いよく抱きついてきた。

 

「お兄ちゃん、きょうね、遊子ね!」

 

「ああ、何だ?」

 

「お母さんとクッキー作ったの!」

 

 遊子は一生懸命に説明し始めた。

 

 どうやら真咲と一緒に、型抜きクッキーを焼いたらしい。

 

 ただし、途中で生地を触りすぎて怒られたことや、夏梨とどちらが大きなクッキーを作るか競争したことまで話し始めたため、なかなか本題に辿り着かない。

 

 一護は靴を脱ぎながら、その話に付き合っていた。

 

「一兄」

 

 夏梨が袖を引いた。

 

 振り返ると、小さな手にクッキーの入った皿を持っている。

 

「これ、一兄の」

 

 星の形をしたクッキーが二枚並んでいた。

 

 片方は少し焦げている。

 

「……お、うまそうじゃん」

 

「夏梨が作った」

 

「そっか。ありがとな」

 

 一護が受け取ると、夏梨は少しだけ口元を緩めた。

 

 それを見た遊子が、慌てたように割り込んでくる。

 

「遊子も作ったよ!」

 

「分かってるって。二人で作ったんだろ」

 

「うん!」

 

 一護は二人の頭を軽く撫でた。

 

 妹たちが生まれたのは、一護が四歳だった頃のことだ。

 

 真咲から妊娠を知らされたときは驚いたが、双子だと聞いたときにはさらに驚いた。

 

 そして、生まれてきた二人に遊子と夏梨という名前がつけられたとき、一護はしばらく言葉を失った。

 

 こちらの世界でも、自分には妹ができた。

 

 前の人生で知っていた妹たちと、同じ名前を持つ二人が。

 

 ただ、今の彼女たちは以前の記憶など持っていない。

 

 一護にとっても、今の妹たちと過ごしてきた日々は新しいものだった。

 

 初めて寝返りを打った日。

 

 よろよろと立ち上がり、すぐに尻餅をついた日。

 

 片言で「お兄ちゃん」と呼んでくれた日。

 

 そうした一つ一つを、家族と一緒に見てきた。

 

「一護、おかえり」

 

 台所から真咲が顔を出した。

 

 エプロンをつけ、夕食の準備をしている。

 

「ただいま、母さん」

 

「空手、どうだった?」

 

「たつきと組手やった。一本取れたけど、まだ動きが雑だって言われた」

 

「あら、よかったじゃない。ちゃんと先生のお話も聞いてるのね」

 

「……そりゃ聞くだろ」

 

 真咲は笑いながら、買い物袋を指さした。

 

「悪いんだけど、野菜を冷蔵庫へ入れてくれる? お母さん、今ちょっと手が離せなくて」

 

「ああ、いいぜ」

 

 一護は鞄を置き、台所へ向かった。

 

 遊子と夏梨も後ろからついてくる。

 

 二人とも手伝うつもりらしいが、まだ重いものを運ばせるわけにはいかない。

 

 一護は軽い野菜を二人へ渡し、冷蔵庫の下の棚へ入れてもらうことにした。

 

「遊子、そっち」

 

「はーい!」

 

「夏梨、それはこっちに入れといてくれ」

 

「分かった」

 

 小さな手が一生懸命に動く。

 

 真咲はその様子を見て、嬉しそうに笑っていた。

 

 家族が五人になってから、黒崎家は以前にも増して騒がしくなった。

 

 洗濯物は増えたし、食事の準備にも時間がかかる。朝になれば妹たちが先に起き、一心を叩き起こすこともある。

 

 けれど、一護はそんな毎日を気に入っていた。

 

 自分にできることがあれば手伝う。

 

 遊子と夏梨が喧嘩を始めれば、間へ入る。

 

 特別なことではない。

 

 この家の長男として、ごく普通のことをしているだけだった。

 

     ◇

 

 夕方、妹たちが居間で遊び始めた頃。

 

 一護は台所に立つ真咲へ、ふと気になっていたことを尋ねた。

 

「母さんの個性って、どうやって形作ってんの?」

 

 真咲が鍋をかき混ぜる手を止めた。

 

「光弓のこと?」

 

「ああ。光を集めて弓にするんだろ。それって、最初からあの形で出てくんのか?」

 

 突然の質問に、真咲は少し意外そうな顔をした。

 

 これまで一護は、両親の個性についてあまり詳しく聞いてこなかったからだ。

 

 真咲は鍋の火を弱めると、少し考えてから手のひらを上へ向けた。

 

「見た方が分かりやすいかしら」

 

 指先に、淡い光が灯る。

 

 それは最初、小さな粒のように見えた。

 

 やがて光が伸び、細い線になる。

 

 真咲が指を動かすと、光の線が弧を描き、掌に収まるほどの小さな弓の形へ変わった。

 

「こんな感じ。最初は光を出すだけだったんだけど、練習しているうちに形を整えられるようになったの」

 

 一護は目を見開いた。

 

 何度か見たことのある光景だったが、こうして過程をゆっくり見せてもらうのは初めてだった。

 

 形を持たない光が、少しずつ一つのものへまとまっていく。

 

 その様子は、前の人生で見た滅却師の弓を思わせた。

 

 もっとも、見た目が似ているからといって、同じ仕組みで動いているとは限らない。

 

 この世界の真咲が扱っているのは、あくまで個性だった。

 

「最初から弓を出そうとすると、上手くいかないこともあるのよ。小さい頃は、形が崩れてしまってね」

 

 真咲は微笑みながら、手の中の光を少し縮めてみせた。

 

「だから、まずは光を安定させる練習をしたの。矢を作るのは、そのあと」

 

 一護はしばらく光を見つめていた。

 

 形を作るより、まず安定させる。

 

 その考え方は、今の自分にも必要なものかもしれない。

 

 これまで、現実で霊力を使おうとすると、つい以前と同じ規模の力を引き出そうとしていた。

 

 だが、今の身体でそれをやれば、当然負担がかかる。

 

 力を持っているかどうかよりも、どの程度なら安全に扱えるのかを確かめるべきなのだろう。

 

「……なるほどな」

 

 思わず呟くと、真咲が笑った。

 

「参考になった?」

 

「ああ。結構」

 

「それならよかった」

 

 真咲は弓を消し、再び鍋へ向き直った。

 

「でも、一護。何でも練習すればすぐにできるようになるわけじゃないからね。難しいときは、ちゃんと休むことも大事よ」

 

「……分かってるって」

 

「本当かしら」

 

 真咲は少しだけ悪戯っぽく笑った。

 

 一護は肩をすくめた。

 

 どうやら、母親にはいろいろ見透かされているらしい。

 

 そのとき、居間から遊子の声が響いた。

 

「お母さーん! 夏梨ちゃんが遊子のお人形取ったー!」

 

「取ってない!」

 

 続いて夏梨の声がした。

 

 真咲は苦笑し、一護と顔を見合わせた。

 

「……まったく、あの子たちは」

 

「俺、見てくるよ」

 

「ありがとう。お願いね」

 

 一護は台所を出た。

 

 居間では、ぬいぐるみを挟んで双子が睨み合っていた。

 

 どちらも譲るつもりはないらしい。

 

 一護は二人の間へしゃがみ込み、事情を聞くことにした。

 

 もっとも、話は簡単だった。

 

 遊子が使っていたぬいぐるみを、夏梨も使いたくなった。

 

 それだけである。

 

「……じゃあ、交代で使えよ。先に遊子が使ってたんなら、少し待ってやれ」

 

 夏梨は不満そうに顔をしかめた。

 

 しかし、一護が隣にあった別のぬいぐるみを渡すと、少し考えてから頷いた。

 

「……分かった」

 

 遊子も嬉しそうに笑った。

 

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 

 一護は二人の頭を撫で、立ち上がった。

 

 こういうとき、どちらも一歩も引かないことがある。

 

 性格は随分違うのに、妙なところで似ている姉妹だった。

 

     ◇

 

 夜。

 

 宿題を終えた一護は、机の上に一冊のノートを開いていた。

 

 表紙には、何の題名も書かれていない。

 

 中には、ここ数年で気づいたことを簡単に記していた。

 

 霊圧。

 

 霊子。

 

 魂魄。

 

 斬魄刀。

 

 そして、死神化。

 

 今の世界の人間に見られれば、子供の空想か何かだと思われるだろう。

 

 だが、一護にとっては真剣な問題だった。

 

 斬月の二人と再会してから、すでに四年近くが経っている。

 

 精神世界での修行は、少しずつ進んでいた。

 

 一刀と二刀、それぞれの斬術。

 

 霊圧の細かな調整。

 

 虚の力を無闇に解放せず、必要な分だけ扱う練習。

 

 そして、これまでほとんど学ぶ機会のなかった滅却師の技術。

 

 斬月のオッサンは、一護へ霊子を感じ取る方法から教えてくれた。

 

 最初のうちは、周囲にある霊子と自分の霊力の違いさえ曖昧だった。

 

 それが、何度も繰り返すうちに、少しずつ区別できるようになってきた。

 

 自分の内側から湧き上がる力。

 

 周囲に存在する霊子。

 

 それらをどう扱い、どう組み合わせるか。

 

 前の人生では、そんなことをじっくり考えている暇などなかった。

 

 必要に迫られるたびに力を引き出し、強引にものにしてきた。

 

 それで戦えていたのだから、ある意味では十分だったのだろう。

 

 だが、今は違う。

 

 時間をかけて学べる。

 

 斬月の二人も、それに付き合ってくれていた。

 

 もっとも、白い男に限って言えば、毎回ほとんど問答無用で斬りかかってくるのだが。

 

「……あいつ、ほんと容赦ねえよな」

 

 一護は苦笑し、ノートのページをめくった。

 

 精神世界では、以前よりずっと細かく力を扱えるようになっている。

 

 だが、現実の身体では、その成果をほとんど再現できなかった。

 

 そこが難しいところだった。

 

 四歳の頃は、霊圧の感覚すら掴めなかった。

 

 今では、落ち着いて意識を集中させれば、身体の奥に微かな霊力を感じ取ることができる。

 

 ただし、それを引き出そうとすると、妙な抵抗があった。

 

 まるで、何かが途中で塞がっているような感覚だった。

 

 無理に押し出そうとすれば、頭が重くなったり、身体に疲労が残ったりする。

 

 それで、一護は現実での無理な訓練を控えることにしていた。

 

 力が戻っても、身体を壊してしまえば意味がない。

 

 何より、家族に心配をかけるわけにはいかなかった。

 

 一護はノートの端に書いた一つの言葉へ目を向けた。

 

 魂魄分離。

 

 以前は、死神代行証を使えば肉体から魂を抜くことができた。

 

 それ以前は、ルキアの悟魂手甲や浦原の道具に頼っていた。

 

 今は、そのどれもない。

 

 だからこそ、自分の力で何とかする方法を探していた。

 

 だが、霊圧を高めたところで、魂が肉体から離れるわけではなかった。

 

 当然と言えば当然かもしれない。

 

 そもそも、何をどうすれば魂が抜けるのか、一護自身も理解していなかったのだから。

 

 ノートを閉じ、机の上へ置く。

 

 時計を見ると、そろそろ寝る時間だった。

 

 一護は部屋の明かりを消し、布団へ入った。

 

 目を閉じる。

 

 意識を、自分の内側へ向けた。

 

     ◇

 

 水面を踏む音が響いた。

 

 一護は見慣れた高層ビルの屋上に立っていた。

 

 身体は前の人生の姿へ戻り、黒い死覇装の裾が風に揺れている。

 

 足元には浅い水が広がっていた。

 

 少し離れた場所で、白い男が刀を肩に担いでいる。

 

「今日は遅ぇじゃねえか、一護」

 

「宿題やってたんだよ」

 

 白い男は一瞬きょとんとした。

 

 それから、声を上げて笑った。

 

「ハッ! てめえが小学校の宿題かよ!」

 

「しょうがねえだろ。今は小学生なんだから」

 

「前にあんな戦いしてた奴が、今じゃ計算問題か。面白えな!」

 

「……うるせえ」

 

 一護が顔をしかめても、白い男はしばらく笑っていた。

 

 やがて、刀を肩から下ろす。

 

「で、今日は何すんだ? また二刀でやるか?」

 

 一護は少し考えた。

 

 いつもなら、そのまま斬術の稽古を始めるところだった。

 

 だが、今日は別に確かめたいことがある。

 

「……悪い。今日はちょっと、おっさんに聞きてえことがある」

 

「また難しい話かよ」

 

 白い男は露骨に退屈そうな顔をした。

 

 一護は苦笑し、少し離れた場所へ目を向けた。

 

 黒い外套をまとった斬月のオッサンが、静かに立っている。

 

「現実で霊力を感じ取れるようにはなってきたんだ。でも、どうしてもそこから先へ進めねえ」

 

 一護は、自分の身体で試してきたことを説明した。

 

 胸の奥に霊力の存在を感じること。

 

 力を外へ出そうとすると抵抗が生まれること。

 

 無理をすれば、頭痛や疲労が残ること。

 

 そして、どれほど意識を集中させても、魂魄を肉体から分離できないこと。

 

 斬月のオッサンは、その話を最後まで静かに聞いていた。

 

「……一護」

 

 やがて、男が口を開いた。

 

「お前は今、魂を肉体から引き離すために、霊力を強く放出しようとしているのだな」

 

「ああ。けど、何度やっても駄目だった」

 

「ならば、考え方を変えてみるべきだろう」

 

 斬月のオッサンは足元の水面へ目を向けた。

 

 そこへ淡い光が集まり始める。

 

 小さな粒が幾つも浮かび、一つの輪を作った。

 

 輪の内側には、別の光が浮かんでいる。

 

「以前、お前が使っていた代行証は、魂魄を肉体から分離させるための働きを持っていた。しかし、それは単純に霊力を強く押し出しているわけではない」

 

 一護は光の輪を見つめた。

 

「魂と肉体は繋がっている。その繋がりに、外側から作用していたのだろう」

 

「……つまり?」

 

「まず、お前自身がその境界を感じ取る必要がある。どこからどこまでが肉体で、どこに魂が結びついているのか。それを知らずに力だけを加えても、望む結果にはならないはずだ」

 

 一護は黙り込んだ。

 

 これまで、自分は霊圧を高めれば何とかなると考えていた。

 

 だが、そもそもやろうとしていることが違うのかもしれない。

 

 力を強くすることと、魂を肉体から離すこと。

 

 両者は同じではない。

 

 考えてみれば、以前も代行証を使う際に、わざわざ自分の霊圧を限界まで高める必要などなかった。

 

「……そういうことか」

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

 そのとき、背後から白い男が近づいてきた。

 

「ったく、やっと気づいたかよ」

 

 一護は振り返った。

 

「お前、何か分かってんのか?」

 

「少なくとも、てめえが何をやろうとしてんのかは分かるぜ」

 

 白い男は一護の胸を指で軽く突いた。

 

「力を出すことばっかり考えてんじゃねえよ。てめえの身体なんだから、もっと細かいところまで感じ取れ」

 

 その言い方は乱暴だったが、言っていることは斬月のオッサンと似ていた。

 

 白い男は続ける。

 

「剣を振るときだって、腕に力入れりゃいいってもんじゃねえだろ。指の動きも、足の運びも、全部使ってんだ。なのに、霊圧になるとすぐ力任せになりやがる」

 

 一護は少しだけ顔をしかめた。

 

 反論したいところだったが、思い当たる節がある。

 

 空手の稽古でも同じことを注意されていた。

 

 身体の動かし方を理解しているつもりでも、以前の感覚に頼りすぎれば、今の身体では上手くいかない。

 

 自分の力を扱うときも、同じなのだろう。

 

「……分かった。試してみる」

 

 一護は二人から少し離れ、目を閉じた。

 

 精神世界にいる今、自分の魂は以前の姿をしている。

 

 だが、現実では八歳の身体に収まっている。

 

 その二つが、どう繋がっているのか。

 

 まずは、そこへ意識を向けることにした。

 

 霊圧を高めるのではない。

 

 何かを外へ押し出すのでもない。

 

 ただ、自分という存在の輪郭を確かめる。

 

 身体がどこまで続いているのか。

 

 魂の感覚がどこへ繋がっているのか。

 

 ゆっくりと意識を沈めていく。

 

 最初は何も変わらなかった。

 

 足元の水面は静かなままで、周囲を漂う霊子にも変化はない。

 

 しかし、しばらく続けているうちに、妙な感覚が生まれた。

 

 自分の背中の奥に、何かがある。

 

 細い糸のようなものが、遠くへ伸びているようだった。

 

 一護は眉を寄せた。

 

 初めて感じるものだった。

 

 霊圧とは違う。

 

 周囲の霊子でもない。

 

 もっと根本的な、自分が今ここにいるという感覚に近かった。

 

 そこへ意識を向けた瞬間、足元の水面が小さく揺れた。

 

「……っ」

 

 一護は目を開いた。

 

 思わず胸へ手を当てる。

 

 今の感覚が、まだ僅かに残っていた。

 

「……何だ、今の」

 

 斬月のオッサンが静かに頷いた。

 

「何かを掴んだようだな」

 

「ああ。上手く言えねえけど……どっかへ繋がってる感じがした」

 

 一護は自分の胸へ視線を落とした。

 

 白い男が隣へ近づいてくる。

 

「へえ。やっとそこまで来たか」

 

 男は楽しそうに笑った。

 

「ただし、焦って引っ張るんじゃねえぞ。一護。今のてめえが外で同じことやったら、どうなるか分かんねえんだからな」

 

 一護は意外そうに白い男を見た。

 

 こいつから、慎重になれなどと言われるとは思わなかった。

 

「……お前がそんなこと言うんだな」

 

「あ?」

 

「いや、いつも突っ込んでこいって言ってるからよ」

 

 白い男は鼻で笑った。

 

「剣の稽古と、てめえの魂をどうこうする話は別だろ。身体から出られたところで、戻れなくなったら間抜けじゃねえか」

 

 言い方は相変わらずだった。

 

 だが、一護は素直に頷いた。

 

 確かに、そのとおりだったからだ。

 

 斬月のオッサンも、同じ考えらしい。

 

「現実で試すなら、まず安全を確保しろ。今のお前は肉体が幼い。魂魄の分離そのものが成功したとしても、身体へどのような影響が出るか分からない」

 

「……ああ」

 

 一護は真剣な顔で頷いた。

 

 今の自分には、以前のように助けてくれる死神たちがいない。

 

 無理をして身体を壊しても、浦原が駆けつけてくれるとは限らない。

 

 だからこそ、慎重に進める必要がある。

 

 一護はもう一度目を閉じた。

 

 先ほどの感覚を探す。

 

 細い糸のような繋がり。

 

 今度は、少しだけ早く見つけられた。

 

「……よし」

 

 小さく呟く。

 

 少なくとも、今までとは違うところまで進めたらしい。

 

 目を開くと、白い男がすでに刀を肩に担いでいた。

 

「終わったか?」

 

「……まだ何も終わってねえけど」

 

「なら、続きはあとでいいだろ」

 

 白い男は獰猛に笑った。

 

「今度は剣の方だ。こないだの続き、やるぞ」

 

 一護は呆れた顔になった。

 

「お前、ほんとそればっかだな」

 

「当然だろ。相棒が鈍ったままじゃ、こっちも面白くねえんだよ」

 

 言い終えるより早く、白い男が刀を構える。

 

 一護は小さく息を吐き、斬月へ意識を向けた。

 

 手の中に、一振りの刀が現れる。

 

 そこから、もう一つの形を思い浮かべる。

 

 刀が二振りに分かれた。

 

 一護は左右の斬月を握り直した。

 

「……いいぜ。今度こそ一本取ってやる」

 

 白い男が口角を吊り上げた。

 

「ハッ! やってみろよ、一護!」

 

 二人が同時に地面を蹴る。

 

 刃がぶつかり合い、鋭い音が高層ビルの間へ響き渡った。

 

     ◇

 

 それから数日後。

 

 一護は学校から帰ると、いつものように宿題を終わらせた。

 

 外は雨だった。

 

 窓ガラスへ細かな水滴が当たり、時折強い風が吹いている。

 

 階下では、真咲が夕食の準備をしているらしい。

 

 妹たちは居間で遊んでおり、時々遊子の元気な声が聞こえてきた。

 

 一心はまだ診療所にいる。

 

 患者が来ているのだろう。

 

 一護は机の上の本を閉じた。

 

 ここ数日、ずっと気になっていたことがあった。

 

 精神世界で掴んだ、あの感覚。

 

 魂と肉体を結ぶ境界。

 

 まだ完全に理解できたわけではないが、以前よりも明瞭に感じ取れるようになってきていた。

 

 特に、落ち着いて呼吸を整えたとき。

 

 身体の内側にある霊力を追っていくと、そのさらに奥に、別の感覚がある。

 

 今まで何度も試してきた方法とは違った。

 

 霊圧を強く押し出そうとしなくてもいい。

 

 むしろ、力を込めない方が分かりやすかった。

 

 一護はベッドへ腰を下ろした。

 

 今日は実際に試すつもりではなかった。

 

 ただ、あの感覚をもう少し確かめたいと思った。

 

 布団の上へ身体を横たえ、深く息を吸う。

 

 目を閉じた。

 

 胸の奥へ意識を向ける。

 

 微かな霊力の流れを感じた。

 

 そこから、さらに意識を沈める。

 

 以前なら、途中で何も分からなくなっていた。

 

 だが、今は違う。

 

 細い糸のような感覚が、確かにあった。

 

 身体の奥から、自分自身を繋ぎ止めているようなもの。

 

 一護はそれに触れるつもりで、意識を集中させた。

 

 すると、身体が僅かに軽くなった。

 

「……ん?」

 

 目を閉じたまま、眉を寄せる。

 

 布団に沈んでいた背中の感覚が、少し遠くなった。

 

 自分の身体が、どこにあるのか。

 

 一瞬だけ、その位置が曖昧になった。

 

 心臓が強く脈打つ。

 

 一護は慌てて意識を戻そうとした。

 

 その瞬間、何かが外れた。

 

「……っ!」

 

 落ちるような感覚だった。

 

 いや、違う。

 

 身体が落ちているのではない。

 

 自分だけが、そこから抜け出している。

 

 視界が大きく揺れた。

 

 次の瞬間、足元に床が現れた。

 

「……は?」

 

 一護は呆然と立ち尽くした。

 

 見慣れた自分の部屋だった。

 

 机。

 

 本棚。

 

 窓の外を流れる雨。

 

 何も変わっていない。

 

 ただ、何かがおかしかった。

 

 視線が高い。

 

 いつもなら見上げる位置にある棚が、今は目の前にある。

 

 一護はゆっくりと手を持ち上げた。

 

 黒い袖。

 

 長い指。

 

 見覚えのある手だった。

 

 慌てて身体へ視線を落とす。

 

 黒い死覇装。

 

 伸びた手足。

 

 前の人生と同じ体格。

 

「……おいおい」

 

 声まで変わっていた。

 

 八歳の少年のものではない。

 

 何度も聞いてきた、自分自身の声だった。

 

 一護はゆっくりと顔を上げた。

 

 目の前には、ベッドがあった。

 

 そして、その上に。

 

「……マジかよ」

 

 八歳の黒崎一護が横たわっていた。

 

 小さな身体。

 

 橙色の髪。

 

 見慣れた寝間着。

 

 目を閉じ、静かに呼吸している。

 

 一護は思わず一歩近づいた。

 

 自分が、自分を見下ろしている。

 

 そんな光景を目にするのは、随分と久しぶりだった。

 

「……抜けたのか?」

 

 呟くと、部屋の中へ声が響いた。

 

 確かに、現実の世界だった。

 

 精神世界ではない。

 

 窓の外では雨が降り、廊下の向こうから家族の声が聞こえてくる。

 

 それなのに、自分は死覇装を身につけて立っている。

 

 一護はゆっくりと手を開き、握り直した。

 

 指先が思いどおりに動く。

 

 身体が軽い。

 

 試しに足を動かすと、床へ触れている感覚があった。

 

 さらに意識を集中させる。

 

 胸の奥から、懐かしい霊圧が湧き上がってきた。

 

 四年間、何度も取り戻そうとしてきた感覚だった。

 

「……っ」

 

 一護は思わず息を呑んだ。

 

 以前のような力がある。

 

 霊圧を感じ取れる。

 

 精神世界の中だけではなく、現実で。

 

「……できた」

 

 小さく呟いた。

 

 その言葉を口にした途端、胸の奥から喜びが込み上げてきた。

 

 長かった。

 

 四歳の頃から、ずっと方法を探していた。

 

 何度試しても上手くいかず、霊力を感じ取ることさえできない時期もあった。

 

 だが、ようやく。

 

 道具を使わず、自分自身の力で魂を肉体から分離できた。

 

 一護は自分の両手を見つめた。

 

 もう一度、握り直す。

 

 以前の人生で何度も斬月を握った手だった。

 

 思わず笑みがこぼれる。

 

「……やったじゃねえか」

 

 だが、その喜びは長く続かなかった。

 

 目の前には、自分の肉体が残っている。

 

 八歳の身体が、ベッドの上に横たわったままだった。

 

 一護はゆっくりと顔を上げた。

 

 ……戻れるのか?

 

 ふと、そんな疑問が浮かんだ。

 

 以前なら、肉体へ戻ることはそれほど難しくなかった。

 

 だが、今回は違う。

 

 自分の力で魂を抜いたのは、これが初めてだった。

 

 戻る方法まで確かめたわけではない。

 

 喜んでいる場合ではなかった。

 

 一護はベッドへ近づき、横たわる自分を見下ろした。

 

 呼吸はしている。

 

 胸がゆっくりと上下しているのが見えた。

 

 しかし、意識はない。

 

 もし、この状態が長く続けば。

 

 考えかけたところで、廊下から小さな足音が聞こえてきた。

 

「……お兄ちゃん?」

 

 遊子の声だった。

 

 一護は顔を上げた。

 

 扉がゆっくりと開く。

 

 隙間から、淡い金色の髪をした少女が顔を覗かせた。

 

「お兄ちゃん、いる?」

 

 一護は反射的に返事をした。

 

「おう、いるぞ」

 

 だが、遊子は反応しなかった。

 

 扉をもう少し開き、部屋の中を見回している。

 

 一護は眉を寄せた。

 

「……遊子?」

 

 少女はそのまま部屋へ入ってきた。

 

 一護のすぐ横を通り過ぎる。

 

 視線は、ベッドへ向いていた。

 

「あ、お兄ちゃん」

 

 小さく呟く。

 

 遊子はベッドの縁へ手をかけ、横たわっている一護の肉体を覗き込んだ。

 

「……ねんね?」

 

 一護は息を呑んだ。

 

 見えていない。

 

 遊子には、自分の姿が見えていないのだ。

 

「……遊子」

 

 もう一度呼びかける。

 

 だが、少女は振り返らなかった。

 

 ベッドに横たわる兄へ、そっと手を伸ばしている。

 

「お兄ちゃん……?」

 

 小さな声がした。

 

 一護の胸が、僅かに締めつけられた。

 

 以前の世界では、ごく当たり前のことだった。

 

 霊感のない人間に、死神の姿は見えない。

 

 今の自分は、まさにその状態なのだろう。

 

 しかし、こうして目の前で妹が自分を探していると、妙に落ち着かなかった。

 

 手を伸ばせば触れられる距離にいる。

 

 声も聞こえている。

 

 それなのに、こちらの存在は伝わらない。

 

 一護は自分の手を見た。

 

 力を取り戻したはずだった。

 

 少なくとも、死神としての姿になることには成功した。

 

 だが、目の前の妹へ声を届けることさえできない。

 

「……くそ」

 

 思わず小さく呟いた。

 

 そのとき、遊子がベッドの上に乗りかけた。

 

 眠っている兄の顔を覗き込み、肩へ手を伸ばす。

 

 このまま放っておけば、真咲を呼びに行くかもしれない。

 

 一護はすぐに意識を切り替えた。

 

 まず、戻る。

 

 話はそれからだ。

 

 目を閉じる。

 

 先ほど感じた、魂と肉体を結ぶ細い糸のような感覚を探した。

 

 まだ、残っている。

 

 自分の奥から、ベッドに横たわる肉体へ向かって伸びているようだった。

 

 一護はその繋がりへ意識を向けた。

 

 無理に押し戻すのではない。

 

 自分がどこへ戻ればいいのかを確かめる。

 

 ほんの僅かな抵抗があった。

 

 身体が重くなるような感覚。

 

 それでも、一護は焦らず意識を集中させた。

 

 すると、急に視界が揺れた。

 

 足元の感覚が消える。

 

 何かに強く引っ張られた。

 

 次の瞬間、一護は大きく息を吸い込んだ。

 

「……っ、は!」

 

 目を開く。

 

 天井が見えた。

 

 小さな手が、布団の上にある。

 

 身体が重い。

 

 呼吸が少し乱れている。

 

 けれど、確かに戻っていた。

 

「……お兄ちゃん?」

 

 すぐそばから、遊子の声がした。

 

 一護はゆっくりと顔を向けた。

 

 妹が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。

 

「……遊子」

 

 名前を呼ぶと、少女の表情がぱっと明るくなった。

 

「起きた!」

 

「ああ……悪い。ちょっと寝てた」

 

 遊子は嬉しそうに笑った。

 

「お母さんがね、ごはんだって!」

 

「……そっか」

 

 一護はゆっくりと身体を起こした。

 

 頭が少し重かった。

 

 胸の奥には、何とも言えない疲労感が残っている。

 

 それでも、意識ははっきりしていた。

 

 遊子は何も知らず、一護の袖を引いている。

 

「お兄ちゃん、いこ!」

 

 一護は妹の顔を見た。

 

 さっきまで、自分の姿は見えていなかった。

 

 呼びかけても、返事はなかった。

 

 だが、今は違う。

 

 こうして目を合わせ、声を聞き、手を伸ばせる。

 

「……ああ。行くか」

 

 一護は小さく笑い、ベッドから足を下ろした。

 

 八歳の身体。

 

 短い手足。

 

 普段と変わらない感覚だった。

 

 しかし、もう疑いようがなかった。

 

 自分は、魂を肉体から抜いた。

 

 道具を使わずに。

 

 自分自身の力で。

 

 そして、どうにか戻ることもできた。

 

 そのことが嬉しい半面、背筋が少し冷たくなる。

 

 今のは、上手くいっただけだ。

 

 次も同じように戻れるとは限らない。

 

 一護は遊子の手を握った。

 

 小さな妹は、何も知らず楽しそうに歩き始めた。

 

     ◇

 

 夕食の席で、一護はいつもより少し口数が少なかった。

 

 真咲はそのことに気づいていたらしく、焼き魚を取り分けながら顔を覗き込んできた。

 

「一護、疲れてる?」

 

「……ちょっとな」

 

「空手の疲れ、まだ残ってるのかしら」

 

 一護は首を振った。

 

 真咲は少しだけ眉を寄せたが、すぐに手を伸ばし、息子の額へ触れた。

 

 冷たい掌が気持ちよかった。

 

「熱はなさそうね。でも、今日は早めに寝た方がいいかも」

 

「……そうする」

 

 素直に頷くと、真咲は少し安心したようだった。

 

 向かい側では、一心が息子の様子を静かに見ていた。

 

 普段なら何か冗談を言い出しそうなところだったが、今は黙って箸を置く。

 

「一護。最近、あんまり眠れてないんじゃないか?」

 

 一護は僅かに目を逸らした。

 

「……そんなことねえよ」

 

「そうか。ならいいんだが」

 

 一心はそれ以上追及せず、少しだけ声を落とした。

 

「身体がだるいときは、無理に何かしようとしなくていい。特にお前くらいの年齢なら、寝るのも大事な仕事だぞ」

 

 一護は父親を見た。

 

 一心は普段と同じ顔をしている。

 

 ただ、その目には医者としての真剣さがあった。

 

「……分かった」

 

 一護が頷くと、一心も小さく笑った。

 

「よし。それじゃ、しっかり食べて休め」

 

 話はそれで終わった。

 

 その隣では、遊子が一生懸命にご飯を食べている。

 

 夏梨は小さな箸を握り、真剣な顔で卵焼きを持ち上げようとしていた。

 

 何度か失敗したあと、ようやく掴めたらしい。

 

「……できた」

 

 夏梨が小さく呟く。

 

 真咲が嬉しそうに笑った。

 

「上手ね、夏梨」

 

 遊子も負けじと箸を持ち上げた。

 

「遊子もできるよ!」

 

「うん、遊子も上手だな」

 

 一心が笑い、二人の頭を撫でた。

 

 一護はその光景を眺めていた。

 

 先ほどの出来事が、まだ頭から離れなかった。

 

 霊体になった自分には、遊子の姿が見えていた。

 

 声も聞こえていた。

 

 けれど、遊子には自分が見えなかった。

 

 それは、以前の世界ではごく普通のことだった。

 

 だが、今の世界では少し事情が違う。

 

 この世界の人間は、死神という存在を知らない。

 

 もし自分が霊体のまま誰かを助けようとしても、相手は何が起きているのか理解できないだろう。

 

 それどころか、声さえ届かないかもしれない。

 

 それに、自分の肉体がその場に残る。

 

 そうした問題が、一つずつ浮かんできた。

 

 死神化する方法が見つかった。

 

 それは確かに大きな進歩だった。

 

 けれど、だからといってすべてが解決したわけではない。

 

「……一兄?」

 

 隣から夏梨が顔を覗き込んできた。

 

 一護は目を瞬いた。

 

 夏梨は自分の皿に残っていた卵焼きを指さした。

 

「これ、あげる」

 

 一護は少し驚いた。

 

「……いいのか?」

 

「うん」

 

 夏梨は頷き、卵焼きを一護の皿へ移そうとした。

 

 しかし、まだ箸の扱いに慣れていないため、途中で落としてしまった。

 

「あっ」

 

 夏梨が小さく声を上げた。

 

 一護は思わず笑い、皿を近づけた。

 

「いいって。ありがとな」

 

 夏梨は少しだけ顔を赤くした。

 

「……べつに」

 

 その返事があまりにも夏梨らしくて、一護はまた笑った。

 

     ◇

 

 その夜、一護は机に向かっていた。

 

 身体にはまだ疲れが残っている。

 

 今日は、もう何も試すつもりはなかった。

 

 机の上には、いつものノートが開かれている。

 

 一護は鉛筆を握り、今日の出来事を簡単に書き留めていった。

 

 霊力を感じ取ったこと。

 

 身体の内側にある繋がりを意識したこと。

 

 そのあと、自分の魂が肉体から離れたこと。

 

 そして、戻る際にはその繋がりを辿るような感覚があったこと。

 

 順番に書き出してみると、少しずつ整理できてきた。

 

 自力で死神化することは、少なくとも一度は成功した。

 

 だが、今の状態では安全に扱えるとは言い難い。

 

 そもそも、どれくらいの時間なら霊体でいられるのかも分からない。

 

 無理をすれば、肉体へ戻れなくなる可能性だってある。

 

 それに、現実の身体を残して戦うわけにもいかない。

 

 以前の人生では、コンが代わりに身体を動かしてくれることもあった。

 

 だが、今はそんな相手はいない。

 

 一護は鉛筆を置いた。

 

 窓の外では、雨が上がっていた。

 

 街灯の光が濡れた道路へ反射し、時折車の走る音が聞こえてくる。

 

 今日、自分は確かに前へ進んだ。

 

 精神世界でしか使えなかった力を、ようやく現実で感じ取ることができた。

 

 それでも、遊子には姿が見えなかった。

 

 目の前に立っていても、相手に伝わらない。

 

 その事実は、思っていた以上に気になった。

 

 もちろん、見えないままでも誰かを護ることはできる。

 

 前の人生では、そうして何度も人々を助けてきた。

 

 だが、こちらの世界では、少し違う方法も考えてみたかった。

 

 例えば、危険な場所から人を逃がそうとしたとき。

 

 声をかけても届かなければ、相手は何をすればいいのか分からない。

 

 いきなり見えない何かに身体を動かされたら、かえって怖がらせてしまうだろう。

 

 この世界には、個性を使って人々を助けるヒーローがいる。

 

 彼らは、誰の目にも見える場所で戦っていた。

 

 避難を呼びかけ、怪我人を助け、危険な相手を取り押さえる。

 

 その姿を見て、人々は安心する。

 

 少なくとも、何が起きているのかは分かる。

 

 だが、死神の姿になった自分には、それが難しい。

 

 一護はノートの端に、小さく文字を書いた。

 

 霊体の可視化。

 

 その下へ、もう一つ書き加える。

 

 肉体を残さずに力を使う方法。

 

 どちらも、今は見当がつかなかった。

 

 しかし、考える価値はある。

 

 斬月のオッサンと白い男に相談してみてもいい。

 

 霊子の扱い方をさらに学べば、何か分かることがあるかもしれない。

 

 もっとも、それが簡単に実現できるとは思っていなかった。

 

 魂魄を分離するだけでも、四年近くかかったのだ。

 

 それでも、できないと決まったわけではない。

 

 一護はノートを閉じた。

 

 そのとき、扉が控えめに叩かれた。

 

「一護、起きてる?」

 

 真咲の声だった。

 

「起きてる」

 

「入ってもいい?」

 

「ああ」

 

 扉が開き、真咲が顔を覗かせた。

 

 手には、小さなカップを持っている。

 

「まだ起きてたのね」

 

「ちょっと考え事してた」

 

「そう」

 

 真咲は部屋へ入り、机の上へカップを置いた。

 

「温かいミルク。今日は疲れてたみたいだから、少し飲んだら眠れるかなって」

 

 一護はカップを見た。

 

 甘い匂いがする。

 

「……ありがと」

 

 真咲は微笑み、ベッドの縁へ腰を下ろした。

 

 一護はカップを両手で持ち、一口飲んだ。

 

 温かい。

 

 身体の奥へ、じんわりと熱が広がっていく。

 

 真咲は息子の様子を見ながら、静かに口を開いた。

 

「一護、最近いろんなこと頑張ってるわね」

 

 一護はカップから顔を上げた。

 

「……そうか?」

 

「うん。学校も空手も。妹たちのお世話も手伝ってくれるし」

 

 真咲は嬉しそうに笑った。

 

「でも、頑張りすぎちゃ駄目よ。疲れたときは、ちゃんと休まないと」

 

 一護は少しだけ目を伏せた。

 

 母親は、自分が何をしていたのか知らない。

 

 魂を肉体から抜いたことも。

 

 死神としての姿に戻ったことも。

 

 遊子の声が聞こえていたのに、返事が届かなかったことも。

 

 何も知らない。

 

 ただ、息子が疲れているからと、温かいミルクを持ってきてくれた。

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

「……母さん」

 

「ん?」

 

「俺、まだできねえこと多いけどさ」

 

 真咲は静かに一護を見た。

 

 一護はカップを持ったまま、少し考えた。

 

 何をどこまで言えばいいのか、分からなかった。

 

 前の人生のことを、今ここで話すつもりはない。

 

 それでも、少しだけ聞いてほしかった。

 

「……できるようになりてえことが、結構あんだよ」

 

 真咲は驚いた様子もなく、穏やかに頷いた。

 

「そうね。これから、いろんなことを覚えていくものね」

 

 そう言って、息子の頭を優しく撫でた。

 

「でも、一度に全部できるようにならなくてもいいのよ。一護が頑張ってるのは、お母さんもちゃんと知ってるから」

 

 一護は顔を上げた。

 

 真咲は、いつもと同じ顔で笑っていた。

 

 その笑顔を見ると、少しだけ胸の奥が温かくなった。

 

「……ああ」

 

 一護は小さく頷いた。

 

 真咲はそれ以上何も聞かなかった。

 

 カップが空になるまでそばにいて、それから立ち上がった。

 

「じゃあ、今日はもう寝ましょうね」

 

「分かった」

 

「おやすみ、一護」

 

「……おやすみ、母さん」

 

 真咲は明かりを落とし、静かに部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 一護はしばらく、その方を見つめていた。

 

 廊下からは、母親の足音が遠ざかっていく。

 

 やがて、家の中が静かになった。

 

 一護は布団へ入った。

 

 目を閉じる。

 

 今日、初めて自分の力で死神化できた。

 

 以前なら当たり前のように使っていた力だった。

 

 けれど、今はその当たり前を取り戻すだけでも、随分と苦労している。

 

 それでも、確かに一歩進んだ。

 

 次に試すときは、もっと慎重にやろう。

 

 肉体をどう守るかも考えなければならない。

 

 霊体の姿を、どうやって人に見せるか。

 

 問題はいくらでもあった。

 

 だが、一つずつ確かめていけばいい。

 

 斬月の二人と相談することもできる。

 

 一護はゆっくりと息を吐いた。

 

 隣の部屋から、小さな寝息が聞こえてくる。

 

 遊子と夏梨だろう。

 

 昼間はあれほど騒がしかったのに、眠ってしまえば静かなものだった。

 

 一護はその音に耳を傾けながら、布団を肩まで引き上げた。

 

 今日は、もう何も試さない。

 

 身体を休めるのも必要なことだった。

 

 そう考えて目を閉じると、いつもより早く眠気が訪れた。

 

 階下では、一心が戸締まりを確認しているらしい。

 

 小さな足音が響き、やがてそれも止んだ。

 

 一護は温かい布団の中で、静かに眠りへ落ちていった。

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