畳を踏む音が、冬の道場に響いた。
一護は真正面から迫る拳を見据え、僅かに重心を後ろへ移した。
相手の右肩が動く。突きが来ると判断した瞬間、視界の端で左足が床を蹴った。
違う。蹴りだ。
「――そこっ!」
「……っと!」
咄嗟に腕を下げ、横から迫る蹴りを受け止める。
思っていたより重い。
しかし、体勢を崩すほどではなかった。
一護は蹴り足が戻る隙に踏み込み、相手の胴へ拳を伸ばした。ところが、相手もそれを読んでいたらしく、素早く身体を引いて距離を取る。
拳が空を切った。
「惜しい!」
目の前の少女が楽しそうに笑った。
有沢たつき。
四年前、一護が初めてこの道場へ来た日に知り合った少女だった。
あの頃は互いに四歳だったが、今では八歳になっている。短かった髪は少し伸び、背も高くなった。それに、稽古を続けてきたおかげか、構えも随分と様になっている。
もっとも、負けず嫌いな性格だけは変わっていなかった。
「一護、さっきから考えすぎ!」
「考えなしに突っ込むよりましだろ」
「誰が考えなしよ!」
言い返すなり、たつきが踏み込んでくる。
一護は口元を緩めた。
こういうところは、実に分かりやすい。
ただし、挑発に乗ったように見えても、たつきは決して無闇に拳を振り回すわけではなかった。
右の突きを見せ、左を合わせる。間合いを詰めすぎれば蹴りへ繋ぎ、こちらが引けばすぐに追ってくる。
道場で四年間稽古を続けてきた技術は、伊達ではない。
一護は一度攻撃を受け流し、足の運びを変えた。
正面から打ち合う必要はない。たつきが得意とする間合いを外し、先にこちらの位置を取ればいい。
たつきが追ってくる。
一護は半歩引いた。
もう一歩。
相手がさらに踏み込んだところで、身体を横へ捌く。
たつきの視線が追いつくより早く、一護の拳が胴の手前で止まった。
「――一本!」
指導者の声が響いた。
一護は拳を引き、たつきから距離を取る。
少女は一瞬、目を丸くした。
それから、悔しそうに唇を尖らせる。
「……今の、ずるくない?」
「どこがだよ」
「わざと下がったでしょ!」
「そりゃ下がるだろ。お前、すぐ間合い詰めてくんだから」
「むう……」
たつきは腕を組み、納得できない様子で一護を見つめた。
だが、指導者が近づいてくると、すぐに姿勢を正した。
「有沢。黒崎が下がったからといって、全部追いかけていいわけじゃないぞ。相手が何を狙っているのか、もう少し考えてみよう」
「……はい」
「黒崎もだ。最後の動きはよかったが、その前に危ない場面があっただろう。避けられる攻撃まで受け止めようとする癖があるな」
一護は僅かに眉を寄せた。
思い当たる節はあった。
自分では避けられるつもりでも、身体が間に合わないことがある。
以前のように動けるつもりで間合いを取ってしまい、結果的に受けざるを得なくなるのだ。
「……気をつけます」
「うん。二人とも、いい組手だった。今日はここまでにしよう」
向かい合って礼をし、道場の端へ戻る。
たつきは水筒を取るなり、一気に水を飲んだ。
一護も隣へ腰を下ろし、タオルで汗を拭う。
十二月に入ったばかりだというのに、稽古を終えた身体は随分と熱かった。
「……次は勝つから」
たつきが水筒の蓋を閉めながら呟いた。
一護は横目で少女を見る。
「毎回言ってんな、それ」
「だって次は勝つもん」
「はいはい」
「絶対信じてないでしょ!」
「信じてるって。お前が練習してんのは知ってるし」
思いがけない返事だったのか、たつきが少し黙った。
一護は気にせず水を飲んだが、隣から視線を感じて顔を向ける。
「……何だよ」
「いや、なんか変な感じ」
「は?」
「一護が素直に褒めるの、珍しいなって」
「別に褒めてねえだろ」
「今のは褒めてた!」
たつきは得意げに笑った。
一護は溜息をついた。
たった一言で随分と機嫌がよくなるものだ。
もっとも、たつきが稽古に真剣なのは事実だった。
彼女の個性は『倍加』。
自身の筋力や瞬発力、反応速度などを、最大で通常の二倍まで高められる身体強化型の個性だった。
単純な能力ではあるが、使い方次第ではかなり強力だ。
特に、たつきのように格闘技を習っている人間とは相性がいい。
ただし、道場での通常の組手では、原則として個性の使用は禁止されている。
個性には生まれつき大きな差がある。ある者は強い炎を出し、ある者は身体を硬くできる。そうした能力を自由に使ってしまえば、純粋な技術を競う稽古にはならない。
だから、ここでは基本的に身体の使い方を学ぶ。
たつきも、その決まりをきちんと守っていた。
そして厄介なのは、個性を使わない状態でも十分に強いことだった。
「それにしてもさ、一護って本当に変だよね」
突然そんなことを言われ、一護は顔をしかめた。
「いきなり何だよ」
「だって、先生に注意されたところ、次の稽古までに大体直してくるじゃん。普通、そんな簡単にできないよ」
たつきは指を折りながら、これまでのことを挙げ始めた。
足の運び。
構えの高さ。
突きを出すときの肩の動き。
一護自身がすっかり忘れていたような指摘まで、よく覚えている。
「……お前、よくそんなに覚えてんな」
「当たり前でしょ。ずっと一緒に練習してるんだから」
何でもないことのように、たつきは言った。
一護は少しだけ目を瞬いた。
確かに、四年も経っている。
今のたつきと出会ってから、もうそれだけの時間を一緒に過ごしてきた。
最初の稽古で負けたこと。
互いに意地を張って、指導者に叱られたこと。
大会の帰り道、たつきが買ったばかりのアイスを落としてしまい、ひどく落ち込んでいたこと。
思い返せば、いろいろあった。
「……そうだな」
一護が小さく笑うと、たつきは少し不思議そうな顔をした。
「何?」
「いや。お前、結構いい奴だよなって」
次の瞬間、たつきの顔が赤くなった。
「なっ、何よ急に!」
「……だから、何だよ」
「そういうこと、いきなり言うな!」
たつきは勢いよく立ち上がった。
その反応に、一護はぽかんとした。
少し離れた場所で、指導者が二人を見て笑っている。
「有沢、元気が余ってるなら片づけを手伝ってくれ」
「は、はい!」
たつきは慌てて返事をし、用具の置かれた棚へ向かった。
一護はその背中を見つめ、首を傾げた。
「……何だったんだ?」
よく分からなかったが、本人が怒っている様子でもなかったので、それ以上気にしないことにした。
◇
稽古を終えて道場を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
一護は上着の前を閉め、鞄を肩へ掛け直した。
隣では、たつきが白い息を吐いている。
「ねえ一護。今度の日曜、公園で走らない?」
「またかよ。先週もやっただろ」
「先週は雨降ったじゃん。途中で帰ったし」
そう言われれば、そのとおりだった。
空手の道場以外でも、二人は時折一緒に身体を動かしている。もっとも、公共の場所で勝手に個性を使ったり、組手をしたりすることはできないため、普段はランニングや軽い運動が中心だった。
たつきは競争となると妙に張り切るが、一護にしてみれば、今の身体の体力を確かめるいい機会でもある。
「……九時ならいいぞ」
「やった! じゃあ九時ね!」
「朝から遅刻すんなよ」
「それ、一護の方でしょ!」
「俺は遅刻してねえだろ」
「前に五分遅れた!」
「あれは親父が変なこと始めたせいだって!」
言い合いながら歩いていると、前方の交差点で小さな騒ぎが起きた。
小学生くらいの男の子が、母親らしい女性の前で泣いている。
両手の周囲には青白い火花が散り、足元には落とした買い物袋が転がっていた。
どうやら、感情が高ぶって個性を暴発させてしまったらしい。
女性が必死になだめている。
近くにいた大人が店先へ置かれた段ボールを遠ざけ、別の人間が周囲の子供たちを安全な場所へ誘導していた。
一護は自然と足を止めた。
たつきも隣で様子を見ている。
火花が再び大きく散ったところで、男の子の母親が低い声で何かを言った。
男の子は涙を拭い、ゆっくりと手を握った。
火花が小さくなり、やがて消える。
周囲にいた人々から、安堵したような声が漏れた。
「……よかった」
たつきが呟いた。
一護も頷いた。
この世界では、個性を持っていること自体は珍しくない。
しかし、それを使いこなせるかどうかは別の話だった。
特に幼い子供の場合、感情に引きずられて能力が暴発することもある。
たつきも、自分の個性を使い始めた頃は、力加減を間違えて物を壊したことがあるらしい。
「そういえば、一護の個性って、まだ分かってないんだよね」
歩き始めたところで、たつきが何気なく言った。
「ああ。病院でも、まだ何とも言えねえってさ」
「ふうん」
たつきは少し考えたあと、笑った。
「出たら教えてよ。どんな個性か気になるし」
「……そんだけか?」
「うん。あ、でも強い個性だったらちょっと悔しいかも」
「何でだよ」
「だって一護、今でも結構強いじゃん。その上すっごい個性まで出たら、勝つの大変になるでしょ」
たつきは真面目な顔で言った。
一護は思わず笑った。
「お前、結局それかよ」
「当たり前じゃん!」
少女は胸を張った。
その様子を見て、一護は何となく安心した。
以前の人生のことなど、何も知らないたつき。
だが、今の一護にとっては、幼い頃から共に稽古してきた友人だった。
彼女が何を考えているのか、まだ分からないこともある。それでも、一緒に過ごした四年間は確かにそこにある。
そして、たつきは今の一護を見ていた。
個性があるかどうかではなく、同じ道場で競い合う相手として。
「……じゃあ、日曜な」
一護が言うと、たつきは元気よく頷いた。
「うん! 今度こそ負けないから!」
「走るだけだろ」
「走るのだって勝負でしょ!」
結局、そこへ戻るらしい。
一護は苦笑し、いつもの交差点でたつきと別れた。
◇
「ただいま」
玄関の扉を開けると、家の奥から足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃーん!」
最初に飛び出してきたのは、黒崎遊子だった。
淡い金色の髪を揺らしながら、廊下を駆けてくる。
その後ろから、黒髪の少女が少し遅れて顔を出した。
「一兄、おかえり」
黒崎夏梨。
遊子とは双子の妹だった。
二人とも、今年で四歳になっている。
遊子は人懐っこく、誰にでもすぐ話しかける。一方の夏梨は、同じ年齢とは思えないほど落ち着いたところがあった。
もっとも、まだ四歳だ。
夏梨も機嫌が悪ければ拗ねるし、眠くなれば母親へ甘える。
そうした姿を見るたびに、一護は少しだけ面白くなった。
「おう、ただいま」
しゃがみ込むと、遊子が勢いよく抱きついてきた。
「お兄ちゃん、きょうね、遊子ね!」
「ああ、何だ?」
「お母さんとクッキー作ったの!」
遊子は一生懸命に説明し始めた。
どうやら真咲と一緒に、型抜きクッキーを焼いたらしい。
ただし、途中で生地を触りすぎて怒られたことや、夏梨とどちらが大きなクッキーを作るか競争したことまで話し始めたため、なかなか本題に辿り着かない。
一護は靴を脱ぎながら、その話に付き合っていた。
「一兄」
夏梨が袖を引いた。
振り返ると、小さな手にクッキーの入った皿を持っている。
「これ、一兄の」
星の形をしたクッキーが二枚並んでいた。
片方は少し焦げている。
「……お、うまそうじゃん」
「夏梨が作った」
「そっか。ありがとな」
一護が受け取ると、夏梨は少しだけ口元を緩めた。
それを見た遊子が、慌てたように割り込んでくる。
「遊子も作ったよ!」
「分かってるって。二人で作ったんだろ」
「うん!」
一護は二人の頭を軽く撫でた。
妹たちが生まれたのは、一護が四歳だった頃のことだ。
真咲から妊娠を知らされたときは驚いたが、双子だと聞いたときにはさらに驚いた。
そして、生まれてきた二人に遊子と夏梨という名前がつけられたとき、一護はしばらく言葉を失った。
こちらの世界でも、自分には妹ができた。
前の人生で知っていた妹たちと、同じ名前を持つ二人が。
ただ、今の彼女たちは以前の記憶など持っていない。
一護にとっても、今の妹たちと過ごしてきた日々は新しいものだった。
初めて寝返りを打った日。
よろよろと立ち上がり、すぐに尻餅をついた日。
片言で「お兄ちゃん」と呼んでくれた日。
そうした一つ一つを、家族と一緒に見てきた。
「一護、おかえり」
台所から真咲が顔を出した。
エプロンをつけ、夕食の準備をしている。
「ただいま、母さん」
「空手、どうだった?」
「たつきと組手やった。一本取れたけど、まだ動きが雑だって言われた」
「あら、よかったじゃない。ちゃんと先生のお話も聞いてるのね」
「……そりゃ聞くだろ」
真咲は笑いながら、買い物袋を指さした。
「悪いんだけど、野菜を冷蔵庫へ入れてくれる? お母さん、今ちょっと手が離せなくて」
「ああ、いいぜ」
一護は鞄を置き、台所へ向かった。
遊子と夏梨も後ろからついてくる。
二人とも手伝うつもりらしいが、まだ重いものを運ばせるわけにはいかない。
一護は軽い野菜を二人へ渡し、冷蔵庫の下の棚へ入れてもらうことにした。
「遊子、そっち」
「はーい!」
「夏梨、それはこっちに入れといてくれ」
「分かった」
小さな手が一生懸命に動く。
真咲はその様子を見て、嬉しそうに笑っていた。
家族が五人になってから、黒崎家は以前にも増して騒がしくなった。
洗濯物は増えたし、食事の準備にも時間がかかる。朝になれば妹たちが先に起き、一心を叩き起こすこともある。
けれど、一護はそんな毎日を気に入っていた。
自分にできることがあれば手伝う。
遊子と夏梨が喧嘩を始めれば、間へ入る。
特別なことではない。
この家の長男として、ごく普通のことをしているだけだった。
◇
夕方、妹たちが居間で遊び始めた頃。
一護は台所に立つ真咲へ、ふと気になっていたことを尋ねた。
「母さんの個性って、どうやって形作ってんの?」
真咲が鍋をかき混ぜる手を止めた。
「光弓のこと?」
「ああ。光を集めて弓にするんだろ。それって、最初からあの形で出てくんのか?」
突然の質問に、真咲は少し意外そうな顔をした。
これまで一護は、両親の個性についてあまり詳しく聞いてこなかったからだ。
真咲は鍋の火を弱めると、少し考えてから手のひらを上へ向けた。
「見た方が分かりやすいかしら」
指先に、淡い光が灯る。
それは最初、小さな粒のように見えた。
やがて光が伸び、細い線になる。
真咲が指を動かすと、光の線が弧を描き、掌に収まるほどの小さな弓の形へ変わった。
「こんな感じ。最初は光を出すだけだったんだけど、練習しているうちに形を整えられるようになったの」
一護は目を見開いた。
何度か見たことのある光景だったが、こうして過程をゆっくり見せてもらうのは初めてだった。
形を持たない光が、少しずつ一つのものへまとまっていく。
その様子は、前の人生で見た滅却師の弓を思わせた。
もっとも、見た目が似ているからといって、同じ仕組みで動いているとは限らない。
この世界の真咲が扱っているのは、あくまで個性だった。
「最初から弓を出そうとすると、上手くいかないこともあるのよ。小さい頃は、形が崩れてしまってね」
真咲は微笑みながら、手の中の光を少し縮めてみせた。
「だから、まずは光を安定させる練習をしたの。矢を作るのは、そのあと」
一護はしばらく光を見つめていた。
形を作るより、まず安定させる。
その考え方は、今の自分にも必要なものかもしれない。
これまで、現実で霊力を使おうとすると、つい以前と同じ規模の力を引き出そうとしていた。
だが、今の身体でそれをやれば、当然負担がかかる。
力を持っているかどうかよりも、どの程度なら安全に扱えるのかを確かめるべきなのだろう。
「……なるほどな」
思わず呟くと、真咲が笑った。
「参考になった?」
「ああ。結構」
「それならよかった」
真咲は弓を消し、再び鍋へ向き直った。
「でも、一護。何でも練習すればすぐにできるようになるわけじゃないからね。難しいときは、ちゃんと休むことも大事よ」
「……分かってるって」
「本当かしら」
真咲は少しだけ悪戯っぽく笑った。
一護は肩をすくめた。
どうやら、母親にはいろいろ見透かされているらしい。
そのとき、居間から遊子の声が響いた。
「お母さーん! 夏梨ちゃんが遊子のお人形取ったー!」
「取ってない!」
続いて夏梨の声がした。
真咲は苦笑し、一護と顔を見合わせた。
「……まったく、あの子たちは」
「俺、見てくるよ」
「ありがとう。お願いね」
一護は台所を出た。
居間では、ぬいぐるみを挟んで双子が睨み合っていた。
どちらも譲るつもりはないらしい。
一護は二人の間へしゃがみ込み、事情を聞くことにした。
もっとも、話は簡単だった。
遊子が使っていたぬいぐるみを、夏梨も使いたくなった。
それだけである。
「……じゃあ、交代で使えよ。先に遊子が使ってたんなら、少し待ってやれ」
夏梨は不満そうに顔をしかめた。
しかし、一護が隣にあった別のぬいぐるみを渡すと、少し考えてから頷いた。
「……分かった」
遊子も嬉しそうに笑った。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
一護は二人の頭を撫で、立ち上がった。
こういうとき、どちらも一歩も引かないことがある。
性格は随分違うのに、妙なところで似ている姉妹だった。
◇
夜。
宿題を終えた一護は、机の上に一冊のノートを開いていた。
表紙には、何の題名も書かれていない。
中には、ここ数年で気づいたことを簡単に記していた。
霊圧。
霊子。
魂魄。
斬魄刀。
そして、死神化。
今の世界の人間に見られれば、子供の空想か何かだと思われるだろう。
だが、一護にとっては真剣な問題だった。
斬月の二人と再会してから、すでに四年近くが経っている。
精神世界での修行は、少しずつ進んでいた。
一刀と二刀、それぞれの斬術。
霊圧の細かな調整。
虚の力を無闇に解放せず、必要な分だけ扱う練習。
そして、これまでほとんど学ぶ機会のなかった滅却師の技術。
斬月のオッサンは、一護へ霊子を感じ取る方法から教えてくれた。
最初のうちは、周囲にある霊子と自分の霊力の違いさえ曖昧だった。
それが、何度も繰り返すうちに、少しずつ区別できるようになってきた。
自分の内側から湧き上がる力。
周囲に存在する霊子。
それらをどう扱い、どう組み合わせるか。
前の人生では、そんなことをじっくり考えている暇などなかった。
必要に迫られるたびに力を引き出し、強引にものにしてきた。
それで戦えていたのだから、ある意味では十分だったのだろう。
だが、今は違う。
時間をかけて学べる。
斬月の二人も、それに付き合ってくれていた。
もっとも、白い男に限って言えば、毎回ほとんど問答無用で斬りかかってくるのだが。
「……あいつ、ほんと容赦ねえよな」
一護は苦笑し、ノートのページをめくった。
精神世界では、以前よりずっと細かく力を扱えるようになっている。
だが、現実の身体では、その成果をほとんど再現できなかった。
そこが難しいところだった。
四歳の頃は、霊圧の感覚すら掴めなかった。
今では、落ち着いて意識を集中させれば、身体の奥に微かな霊力を感じ取ることができる。
ただし、それを引き出そうとすると、妙な抵抗があった。
まるで、何かが途中で塞がっているような感覚だった。
無理に押し出そうとすれば、頭が重くなったり、身体に疲労が残ったりする。
それで、一護は現実での無理な訓練を控えることにしていた。
力が戻っても、身体を壊してしまえば意味がない。
何より、家族に心配をかけるわけにはいかなかった。
一護はノートの端に書いた一つの言葉へ目を向けた。
魂魄分離。
以前は、死神代行証を使えば肉体から魂を抜くことができた。
それ以前は、ルキアの悟魂手甲や浦原の道具に頼っていた。
今は、そのどれもない。
だからこそ、自分の力で何とかする方法を探していた。
だが、霊圧を高めたところで、魂が肉体から離れるわけではなかった。
当然と言えば当然かもしれない。
そもそも、何をどうすれば魂が抜けるのか、一護自身も理解していなかったのだから。
ノートを閉じ、机の上へ置く。
時計を見ると、そろそろ寝る時間だった。
一護は部屋の明かりを消し、布団へ入った。
目を閉じる。
意識を、自分の内側へ向けた。
◇
水面を踏む音が響いた。
一護は見慣れた高層ビルの屋上に立っていた。
身体は前の人生の姿へ戻り、黒い死覇装の裾が風に揺れている。
足元には浅い水が広がっていた。
少し離れた場所で、白い男が刀を肩に担いでいる。
「今日は遅ぇじゃねえか、一護」
「宿題やってたんだよ」
白い男は一瞬きょとんとした。
それから、声を上げて笑った。
「ハッ! てめえが小学校の宿題かよ!」
「しょうがねえだろ。今は小学生なんだから」
「前にあんな戦いしてた奴が、今じゃ計算問題か。面白えな!」
「……うるせえ」
一護が顔をしかめても、白い男はしばらく笑っていた。
やがて、刀を肩から下ろす。
「で、今日は何すんだ? また二刀でやるか?」
一護は少し考えた。
いつもなら、そのまま斬術の稽古を始めるところだった。
だが、今日は別に確かめたいことがある。
「……悪い。今日はちょっと、おっさんに聞きてえことがある」
「また難しい話かよ」
白い男は露骨に退屈そうな顔をした。
一護は苦笑し、少し離れた場所へ目を向けた。
黒い外套をまとった斬月のオッサンが、静かに立っている。
「現実で霊力を感じ取れるようにはなってきたんだ。でも、どうしてもそこから先へ進めねえ」
一護は、自分の身体で試してきたことを説明した。
胸の奥に霊力の存在を感じること。
力を外へ出そうとすると抵抗が生まれること。
無理をすれば、頭痛や疲労が残ること。
そして、どれほど意識を集中させても、魂魄を肉体から分離できないこと。
斬月のオッサンは、その話を最後まで静かに聞いていた。
「……一護」
やがて、男が口を開いた。
「お前は今、魂を肉体から引き離すために、霊力を強く放出しようとしているのだな」
「ああ。けど、何度やっても駄目だった」
「ならば、考え方を変えてみるべきだろう」
斬月のオッサンは足元の水面へ目を向けた。
そこへ淡い光が集まり始める。
小さな粒が幾つも浮かび、一つの輪を作った。
輪の内側には、別の光が浮かんでいる。
「以前、お前が使っていた代行証は、魂魄を肉体から分離させるための働きを持っていた。しかし、それは単純に霊力を強く押し出しているわけではない」
一護は光の輪を見つめた。
「魂と肉体は繋がっている。その繋がりに、外側から作用していたのだろう」
「……つまり?」
「まず、お前自身がその境界を感じ取る必要がある。どこからどこまでが肉体で、どこに魂が結びついているのか。それを知らずに力だけを加えても、望む結果にはならないはずだ」
一護は黙り込んだ。
これまで、自分は霊圧を高めれば何とかなると考えていた。
だが、そもそもやろうとしていることが違うのかもしれない。
力を強くすることと、魂を肉体から離すこと。
両者は同じではない。
考えてみれば、以前も代行証を使う際に、わざわざ自分の霊圧を限界まで高める必要などなかった。
「……そういうことか」
一護は小さく息を吐いた。
そのとき、背後から白い男が近づいてきた。
「ったく、やっと気づいたかよ」
一護は振り返った。
「お前、何か分かってんのか?」
「少なくとも、てめえが何をやろうとしてんのかは分かるぜ」
白い男は一護の胸を指で軽く突いた。
「力を出すことばっかり考えてんじゃねえよ。てめえの身体なんだから、もっと細かいところまで感じ取れ」
その言い方は乱暴だったが、言っていることは斬月のオッサンと似ていた。
白い男は続ける。
「剣を振るときだって、腕に力入れりゃいいってもんじゃねえだろ。指の動きも、足の運びも、全部使ってんだ。なのに、霊圧になるとすぐ力任せになりやがる」
一護は少しだけ顔をしかめた。
反論したいところだったが、思い当たる節がある。
空手の稽古でも同じことを注意されていた。
身体の動かし方を理解しているつもりでも、以前の感覚に頼りすぎれば、今の身体では上手くいかない。
自分の力を扱うときも、同じなのだろう。
「……分かった。試してみる」
一護は二人から少し離れ、目を閉じた。
精神世界にいる今、自分の魂は以前の姿をしている。
だが、現実では八歳の身体に収まっている。
その二つが、どう繋がっているのか。
まずは、そこへ意識を向けることにした。
霊圧を高めるのではない。
何かを外へ押し出すのでもない。
ただ、自分という存在の輪郭を確かめる。
身体がどこまで続いているのか。
魂の感覚がどこへ繋がっているのか。
ゆっくりと意識を沈めていく。
最初は何も変わらなかった。
足元の水面は静かなままで、周囲を漂う霊子にも変化はない。
しかし、しばらく続けているうちに、妙な感覚が生まれた。
自分の背中の奥に、何かがある。
細い糸のようなものが、遠くへ伸びているようだった。
一護は眉を寄せた。
初めて感じるものだった。
霊圧とは違う。
周囲の霊子でもない。
もっと根本的な、自分が今ここにいるという感覚に近かった。
そこへ意識を向けた瞬間、足元の水面が小さく揺れた。
「……っ」
一護は目を開いた。
思わず胸へ手を当てる。
今の感覚が、まだ僅かに残っていた。
「……何だ、今の」
斬月のオッサンが静かに頷いた。
「何かを掴んだようだな」
「ああ。上手く言えねえけど……どっかへ繋がってる感じがした」
一護は自分の胸へ視線を落とした。
白い男が隣へ近づいてくる。
「へえ。やっとそこまで来たか」
男は楽しそうに笑った。
「ただし、焦って引っ張るんじゃねえぞ。一護。今のてめえが外で同じことやったら、どうなるか分かんねえんだからな」
一護は意外そうに白い男を見た。
こいつから、慎重になれなどと言われるとは思わなかった。
「……お前がそんなこと言うんだな」
「あ?」
「いや、いつも突っ込んでこいって言ってるからよ」
白い男は鼻で笑った。
「剣の稽古と、てめえの魂をどうこうする話は別だろ。身体から出られたところで、戻れなくなったら間抜けじゃねえか」
言い方は相変わらずだった。
だが、一護は素直に頷いた。
確かに、そのとおりだったからだ。
斬月のオッサンも、同じ考えらしい。
「現実で試すなら、まず安全を確保しろ。今のお前は肉体が幼い。魂魄の分離そのものが成功したとしても、身体へどのような影響が出るか分からない」
「……ああ」
一護は真剣な顔で頷いた。
今の自分には、以前のように助けてくれる死神たちがいない。
無理をして身体を壊しても、浦原が駆けつけてくれるとは限らない。
だからこそ、慎重に進める必要がある。
一護はもう一度目を閉じた。
先ほどの感覚を探す。
細い糸のような繋がり。
今度は、少しだけ早く見つけられた。
「……よし」
小さく呟く。
少なくとも、今までとは違うところまで進めたらしい。
目を開くと、白い男がすでに刀を肩に担いでいた。
「終わったか?」
「……まだ何も終わってねえけど」
「なら、続きはあとでいいだろ」
白い男は獰猛に笑った。
「今度は剣の方だ。こないだの続き、やるぞ」
一護は呆れた顔になった。
「お前、ほんとそればっかだな」
「当然だろ。相棒が鈍ったままじゃ、こっちも面白くねえんだよ」
言い終えるより早く、白い男が刀を構える。
一護は小さく息を吐き、斬月へ意識を向けた。
手の中に、一振りの刀が現れる。
そこから、もう一つの形を思い浮かべる。
刀が二振りに分かれた。
一護は左右の斬月を握り直した。
「……いいぜ。今度こそ一本取ってやる」
白い男が口角を吊り上げた。
「ハッ! やってみろよ、一護!」
二人が同時に地面を蹴る。
刃がぶつかり合い、鋭い音が高層ビルの間へ響き渡った。
◇
それから数日後。
一護は学校から帰ると、いつものように宿題を終わらせた。
外は雨だった。
窓ガラスへ細かな水滴が当たり、時折強い風が吹いている。
階下では、真咲が夕食の準備をしているらしい。
妹たちは居間で遊んでおり、時々遊子の元気な声が聞こえてきた。
一心はまだ診療所にいる。
患者が来ているのだろう。
一護は机の上の本を閉じた。
ここ数日、ずっと気になっていたことがあった。
精神世界で掴んだ、あの感覚。
魂と肉体を結ぶ境界。
まだ完全に理解できたわけではないが、以前よりも明瞭に感じ取れるようになってきていた。
特に、落ち着いて呼吸を整えたとき。
身体の内側にある霊力を追っていくと、そのさらに奥に、別の感覚がある。
今まで何度も試してきた方法とは違った。
霊圧を強く押し出そうとしなくてもいい。
むしろ、力を込めない方が分かりやすかった。
一護はベッドへ腰を下ろした。
今日は実際に試すつもりではなかった。
ただ、あの感覚をもう少し確かめたいと思った。
布団の上へ身体を横たえ、深く息を吸う。
目を閉じた。
胸の奥へ意識を向ける。
微かな霊力の流れを感じた。
そこから、さらに意識を沈める。
以前なら、途中で何も分からなくなっていた。
だが、今は違う。
細い糸のような感覚が、確かにあった。
身体の奥から、自分自身を繋ぎ止めているようなもの。
一護はそれに触れるつもりで、意識を集中させた。
すると、身体が僅かに軽くなった。
「……ん?」
目を閉じたまま、眉を寄せる。
布団に沈んでいた背中の感覚が、少し遠くなった。
自分の身体が、どこにあるのか。
一瞬だけ、その位置が曖昧になった。
心臓が強く脈打つ。
一護は慌てて意識を戻そうとした。
その瞬間、何かが外れた。
「……っ!」
落ちるような感覚だった。
いや、違う。
身体が落ちているのではない。
自分だけが、そこから抜け出している。
視界が大きく揺れた。
次の瞬間、足元に床が現れた。
「……は?」
一護は呆然と立ち尽くした。
見慣れた自分の部屋だった。
机。
本棚。
窓の外を流れる雨。
何も変わっていない。
ただ、何かがおかしかった。
視線が高い。
いつもなら見上げる位置にある棚が、今は目の前にある。
一護はゆっくりと手を持ち上げた。
黒い袖。
長い指。
見覚えのある手だった。
慌てて身体へ視線を落とす。
黒い死覇装。
伸びた手足。
前の人生と同じ体格。
「……おいおい」
声まで変わっていた。
八歳の少年のものではない。
何度も聞いてきた、自分自身の声だった。
一護はゆっくりと顔を上げた。
目の前には、ベッドがあった。
そして、その上に。
「……マジかよ」
八歳の黒崎一護が横たわっていた。
小さな身体。
橙色の髪。
見慣れた寝間着。
目を閉じ、静かに呼吸している。
一護は思わず一歩近づいた。
自分が、自分を見下ろしている。
そんな光景を目にするのは、随分と久しぶりだった。
「……抜けたのか?」
呟くと、部屋の中へ声が響いた。
確かに、現実の世界だった。
精神世界ではない。
窓の外では雨が降り、廊下の向こうから家族の声が聞こえてくる。
それなのに、自分は死覇装を身につけて立っている。
一護はゆっくりと手を開き、握り直した。
指先が思いどおりに動く。
身体が軽い。
試しに足を動かすと、床へ触れている感覚があった。
さらに意識を集中させる。
胸の奥から、懐かしい霊圧が湧き上がってきた。
四年間、何度も取り戻そうとしてきた感覚だった。
「……っ」
一護は思わず息を呑んだ。
以前のような力がある。
霊圧を感じ取れる。
精神世界の中だけではなく、現実で。
「……できた」
小さく呟いた。
その言葉を口にした途端、胸の奥から喜びが込み上げてきた。
長かった。
四歳の頃から、ずっと方法を探していた。
何度試しても上手くいかず、霊力を感じ取ることさえできない時期もあった。
だが、ようやく。
道具を使わず、自分自身の力で魂を肉体から分離できた。
一護は自分の両手を見つめた。
もう一度、握り直す。
以前の人生で何度も斬月を握った手だった。
思わず笑みがこぼれる。
「……やったじゃねえか」
だが、その喜びは長く続かなかった。
目の前には、自分の肉体が残っている。
八歳の身体が、ベッドの上に横たわったままだった。
一護はゆっくりと顔を上げた。
……戻れるのか?
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
以前なら、肉体へ戻ることはそれほど難しくなかった。
だが、今回は違う。
自分の力で魂を抜いたのは、これが初めてだった。
戻る方法まで確かめたわけではない。
喜んでいる場合ではなかった。
一護はベッドへ近づき、横たわる自分を見下ろした。
呼吸はしている。
胸がゆっくりと上下しているのが見えた。
しかし、意識はない。
もし、この状態が長く続けば。
考えかけたところで、廊下から小さな足音が聞こえてきた。
「……お兄ちゃん?」
遊子の声だった。
一護は顔を上げた。
扉がゆっくりと開く。
隙間から、淡い金色の髪をした少女が顔を覗かせた。
「お兄ちゃん、いる?」
一護は反射的に返事をした。
「おう、いるぞ」
だが、遊子は反応しなかった。
扉をもう少し開き、部屋の中を見回している。
一護は眉を寄せた。
「……遊子?」
少女はそのまま部屋へ入ってきた。
一護のすぐ横を通り過ぎる。
視線は、ベッドへ向いていた。
「あ、お兄ちゃん」
小さく呟く。
遊子はベッドの縁へ手をかけ、横たわっている一護の肉体を覗き込んだ。
「……ねんね?」
一護は息を呑んだ。
見えていない。
遊子には、自分の姿が見えていないのだ。
「……遊子」
もう一度呼びかける。
だが、少女は振り返らなかった。
ベッドに横たわる兄へ、そっと手を伸ばしている。
「お兄ちゃん……?」
小さな声がした。
一護の胸が、僅かに締めつけられた。
以前の世界では、ごく当たり前のことだった。
霊感のない人間に、死神の姿は見えない。
今の自分は、まさにその状態なのだろう。
しかし、こうして目の前で妹が自分を探していると、妙に落ち着かなかった。
手を伸ばせば触れられる距離にいる。
声も聞こえている。
それなのに、こちらの存在は伝わらない。
一護は自分の手を見た。
力を取り戻したはずだった。
少なくとも、死神としての姿になることには成功した。
だが、目の前の妹へ声を届けることさえできない。
「……くそ」
思わず小さく呟いた。
そのとき、遊子がベッドの上に乗りかけた。
眠っている兄の顔を覗き込み、肩へ手を伸ばす。
このまま放っておけば、真咲を呼びに行くかもしれない。
一護はすぐに意識を切り替えた。
まず、戻る。
話はそれからだ。
目を閉じる。
先ほど感じた、魂と肉体を結ぶ細い糸のような感覚を探した。
まだ、残っている。
自分の奥から、ベッドに横たわる肉体へ向かって伸びているようだった。
一護はその繋がりへ意識を向けた。
無理に押し戻すのではない。
自分がどこへ戻ればいいのかを確かめる。
ほんの僅かな抵抗があった。
身体が重くなるような感覚。
それでも、一護は焦らず意識を集中させた。
すると、急に視界が揺れた。
足元の感覚が消える。
何かに強く引っ張られた。
次の瞬間、一護は大きく息を吸い込んだ。
「……っ、は!」
目を開く。
天井が見えた。
小さな手が、布団の上にある。
身体が重い。
呼吸が少し乱れている。
けれど、確かに戻っていた。
「……お兄ちゃん?」
すぐそばから、遊子の声がした。
一護はゆっくりと顔を向けた。
妹が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「……遊子」
名前を呼ぶと、少女の表情がぱっと明るくなった。
「起きた!」
「ああ……悪い。ちょっと寝てた」
遊子は嬉しそうに笑った。
「お母さんがね、ごはんだって!」
「……そっか」
一護はゆっくりと身体を起こした。
頭が少し重かった。
胸の奥には、何とも言えない疲労感が残っている。
それでも、意識ははっきりしていた。
遊子は何も知らず、一護の袖を引いている。
「お兄ちゃん、いこ!」
一護は妹の顔を見た。
さっきまで、自分の姿は見えていなかった。
呼びかけても、返事はなかった。
だが、今は違う。
こうして目を合わせ、声を聞き、手を伸ばせる。
「……ああ。行くか」
一護は小さく笑い、ベッドから足を下ろした。
八歳の身体。
短い手足。
普段と変わらない感覚だった。
しかし、もう疑いようがなかった。
自分は、魂を肉体から抜いた。
道具を使わずに。
自分自身の力で。
そして、どうにか戻ることもできた。
そのことが嬉しい半面、背筋が少し冷たくなる。
今のは、上手くいっただけだ。
次も同じように戻れるとは限らない。
一護は遊子の手を握った。
小さな妹は、何も知らず楽しそうに歩き始めた。
◇
夕食の席で、一護はいつもより少し口数が少なかった。
真咲はそのことに気づいていたらしく、焼き魚を取り分けながら顔を覗き込んできた。
「一護、疲れてる?」
「……ちょっとな」
「空手の疲れ、まだ残ってるのかしら」
一護は首を振った。
真咲は少しだけ眉を寄せたが、すぐに手を伸ばし、息子の額へ触れた。
冷たい掌が気持ちよかった。
「熱はなさそうね。でも、今日は早めに寝た方がいいかも」
「……そうする」
素直に頷くと、真咲は少し安心したようだった。
向かい側では、一心が息子の様子を静かに見ていた。
普段なら何か冗談を言い出しそうなところだったが、今は黙って箸を置く。
「一護。最近、あんまり眠れてないんじゃないか?」
一護は僅かに目を逸らした。
「……そんなことねえよ」
「そうか。ならいいんだが」
一心はそれ以上追及せず、少しだけ声を落とした。
「身体がだるいときは、無理に何かしようとしなくていい。特にお前くらいの年齢なら、寝るのも大事な仕事だぞ」
一護は父親を見た。
一心は普段と同じ顔をしている。
ただ、その目には医者としての真剣さがあった。
「……分かった」
一護が頷くと、一心も小さく笑った。
「よし。それじゃ、しっかり食べて休め」
話はそれで終わった。
その隣では、遊子が一生懸命にご飯を食べている。
夏梨は小さな箸を握り、真剣な顔で卵焼きを持ち上げようとしていた。
何度か失敗したあと、ようやく掴めたらしい。
「……できた」
夏梨が小さく呟く。
真咲が嬉しそうに笑った。
「上手ね、夏梨」
遊子も負けじと箸を持ち上げた。
「遊子もできるよ!」
「うん、遊子も上手だな」
一心が笑い、二人の頭を撫でた。
一護はその光景を眺めていた。
先ほどの出来事が、まだ頭から離れなかった。
霊体になった自分には、遊子の姿が見えていた。
声も聞こえていた。
けれど、遊子には自分が見えなかった。
それは、以前の世界ではごく普通のことだった。
だが、今の世界では少し事情が違う。
この世界の人間は、死神という存在を知らない。
もし自分が霊体のまま誰かを助けようとしても、相手は何が起きているのか理解できないだろう。
それどころか、声さえ届かないかもしれない。
それに、自分の肉体がその場に残る。
そうした問題が、一つずつ浮かんできた。
死神化する方法が見つかった。
それは確かに大きな進歩だった。
けれど、だからといってすべてが解決したわけではない。
「……一兄?」
隣から夏梨が顔を覗き込んできた。
一護は目を瞬いた。
夏梨は自分の皿に残っていた卵焼きを指さした。
「これ、あげる」
一護は少し驚いた。
「……いいのか?」
「うん」
夏梨は頷き、卵焼きを一護の皿へ移そうとした。
しかし、まだ箸の扱いに慣れていないため、途中で落としてしまった。
「あっ」
夏梨が小さく声を上げた。
一護は思わず笑い、皿を近づけた。
「いいって。ありがとな」
夏梨は少しだけ顔を赤くした。
「……べつに」
その返事があまりにも夏梨らしくて、一護はまた笑った。
◇
その夜、一護は机に向かっていた。
身体にはまだ疲れが残っている。
今日は、もう何も試すつもりはなかった。
机の上には、いつものノートが開かれている。
一護は鉛筆を握り、今日の出来事を簡単に書き留めていった。
霊力を感じ取ったこと。
身体の内側にある繋がりを意識したこと。
そのあと、自分の魂が肉体から離れたこと。
そして、戻る際にはその繋がりを辿るような感覚があったこと。
順番に書き出してみると、少しずつ整理できてきた。
自力で死神化することは、少なくとも一度は成功した。
だが、今の状態では安全に扱えるとは言い難い。
そもそも、どれくらいの時間なら霊体でいられるのかも分からない。
無理をすれば、肉体へ戻れなくなる可能性だってある。
それに、現実の身体を残して戦うわけにもいかない。
以前の人生では、コンが代わりに身体を動かしてくれることもあった。
だが、今はそんな相手はいない。
一護は鉛筆を置いた。
窓の外では、雨が上がっていた。
街灯の光が濡れた道路へ反射し、時折車の走る音が聞こえてくる。
今日、自分は確かに前へ進んだ。
精神世界でしか使えなかった力を、ようやく現実で感じ取ることができた。
それでも、遊子には姿が見えなかった。
目の前に立っていても、相手に伝わらない。
その事実は、思っていた以上に気になった。
もちろん、見えないままでも誰かを護ることはできる。
前の人生では、そうして何度も人々を助けてきた。
だが、こちらの世界では、少し違う方法も考えてみたかった。
例えば、危険な場所から人を逃がそうとしたとき。
声をかけても届かなければ、相手は何をすればいいのか分からない。
いきなり見えない何かに身体を動かされたら、かえって怖がらせてしまうだろう。
この世界には、個性を使って人々を助けるヒーローがいる。
彼らは、誰の目にも見える場所で戦っていた。
避難を呼びかけ、怪我人を助け、危険な相手を取り押さえる。
その姿を見て、人々は安心する。
少なくとも、何が起きているのかは分かる。
だが、死神の姿になった自分には、それが難しい。
一護はノートの端に、小さく文字を書いた。
霊体の可視化。
その下へ、もう一つ書き加える。
肉体を残さずに力を使う方法。
どちらも、今は見当がつかなかった。
しかし、考える価値はある。
斬月のオッサンと白い男に相談してみてもいい。
霊子の扱い方をさらに学べば、何か分かることがあるかもしれない。
もっとも、それが簡単に実現できるとは思っていなかった。
魂魄を分離するだけでも、四年近くかかったのだ。
それでも、できないと決まったわけではない。
一護はノートを閉じた。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「一護、起きてる?」
真咲の声だった。
「起きてる」
「入ってもいい?」
「ああ」
扉が開き、真咲が顔を覗かせた。
手には、小さなカップを持っている。
「まだ起きてたのね」
「ちょっと考え事してた」
「そう」
真咲は部屋へ入り、机の上へカップを置いた。
「温かいミルク。今日は疲れてたみたいだから、少し飲んだら眠れるかなって」
一護はカップを見た。
甘い匂いがする。
「……ありがと」
真咲は微笑み、ベッドの縁へ腰を下ろした。
一護はカップを両手で持ち、一口飲んだ。
温かい。
身体の奥へ、じんわりと熱が広がっていく。
真咲は息子の様子を見ながら、静かに口を開いた。
「一護、最近いろんなこと頑張ってるわね」
一護はカップから顔を上げた。
「……そうか?」
「うん。学校も空手も。妹たちのお世話も手伝ってくれるし」
真咲は嬉しそうに笑った。
「でも、頑張りすぎちゃ駄目よ。疲れたときは、ちゃんと休まないと」
一護は少しだけ目を伏せた。
母親は、自分が何をしていたのか知らない。
魂を肉体から抜いたことも。
死神としての姿に戻ったことも。
遊子の声が聞こえていたのに、返事が届かなかったことも。
何も知らない。
ただ、息子が疲れているからと、温かいミルクを持ってきてくれた。
一護は小さく息を吐いた。
「……母さん」
「ん?」
「俺、まだできねえこと多いけどさ」
真咲は静かに一護を見た。
一護はカップを持ったまま、少し考えた。
何をどこまで言えばいいのか、分からなかった。
前の人生のことを、今ここで話すつもりはない。
それでも、少しだけ聞いてほしかった。
「……できるようになりてえことが、結構あんだよ」
真咲は驚いた様子もなく、穏やかに頷いた。
「そうね。これから、いろんなことを覚えていくものね」
そう言って、息子の頭を優しく撫でた。
「でも、一度に全部できるようにならなくてもいいのよ。一護が頑張ってるのは、お母さんもちゃんと知ってるから」
一護は顔を上げた。
真咲は、いつもと同じ顔で笑っていた。
その笑顔を見ると、少しだけ胸の奥が温かくなった。
「……ああ」
一護は小さく頷いた。
真咲はそれ以上何も聞かなかった。
カップが空になるまでそばにいて、それから立ち上がった。
「じゃあ、今日はもう寝ましょうね」
「分かった」
「おやすみ、一護」
「……おやすみ、母さん」
真咲は明かりを落とし、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
一護はしばらく、その方を見つめていた。
廊下からは、母親の足音が遠ざかっていく。
やがて、家の中が静かになった。
一護は布団へ入った。
目を閉じる。
今日、初めて自分の力で死神化できた。
以前なら当たり前のように使っていた力だった。
けれど、今はその当たり前を取り戻すだけでも、随分と苦労している。
それでも、確かに一歩進んだ。
次に試すときは、もっと慎重にやろう。
肉体をどう守るかも考えなければならない。
霊体の姿を、どうやって人に見せるか。
問題はいくらでもあった。
だが、一つずつ確かめていけばいい。
斬月の二人と相談することもできる。
一護はゆっくりと息を吐いた。
隣の部屋から、小さな寝息が聞こえてくる。
遊子と夏梨だろう。
昼間はあれほど騒がしかったのに、眠ってしまえば静かなものだった。
一護はその音に耳を傾けながら、布団を肩まで引き上げた。
今日は、もう何も試さない。
身体を休めるのも必要なことだった。
そう考えて目を閉じると、いつもより早く眠気が訪れた。
階下では、一心が戸締まりを確認しているらしい。
小さな足音が響き、やがてそれも止んだ。
一護は温かい布団の中で、静かに眠りへ落ちていった。