畳の上に、白い線が引かれていた。
道場の端から端まで、およそ十メートル。その途中には間隔を変えて目印が置かれ、最後の一本だけは赤いテープで示されている。
「有沢。今日は速く走る練習じゃないぞ」
「分かってます!」
「本当か? 前回も同じことを言って、最後は目印を三つも飛び越えただろう」
「……今日は止まれます」
たつきが少しだけ声を小さくした。
見学していた一護は、思わず吹き出しそうになった。
十二月の夕方。普段の空手稽古を終えた道場では、希望者を対象にした個性制御の講習が行われていた。
この道場を預かる師範は、現役のプロヒーローでもある。
地域のヒーロー事務所に所属し、仕事の合間に空手を教えている人物で、通常の稽古とは別に、子供たちが自分の個性を安全に扱うための指導も引き受けていた。
もっとも、ヒーロー免許を持っているからといって、門下生に好き勝手な個性使用を認めているわけではない。
講習に参加できるのは、保護者の同意があり、個性の性質を事前に確認された生徒だけ。施設側も個性訓練に必要な手続きと安全対策を整えており、危険な出力や想定外の動作は認められない。
今日の訓練で使うのも、衝撃を吸収するマットを敷いた専用スペースだった。
そして、有沢たつきの課題は単純明快。
速く動いて、正確に止まること。
「じゃあ、出力はいつもどおり半分まで。いいな?」
「はい!」
たつきは開始位置へ戻り、腰を落とした。
彼女の個性は『倍加』。
筋力や瞬発力、反応速度といった身体能力を、最大で通常の二倍まで高められる。
単純だが、空手を習っているたつきとの相性は抜群だった。
ただし、身体能力が上がることと、その力を上手く使えることは別である。
筋力が強くなれば、地面を蹴る力も増す。反応速度が上がれば、普段より素早く動ける。
しかし、速度が上がった身体を、狙った場所で止められなければ意味がない。
少なくとも、今のたつきはそこで苦労していた。
「始め!」
師範の声とともに、少女が飛び出した。
畳を蹴る音が鋭く響く。
普段の稽古より明らかに速い。
一護は目を細めた。
目印を一つ。
二つ。
三つ。
最後の赤い線が近づいたところで、たつきの重心が僅かに下がる。
そのまま足を踏み込み――。
「……っ!」
身体が前へ流れた。
それでも、前回のように大きく行き過ぎることはなかった。たつきは咄嗟に足を運び直し、赤い線から半歩ほど先で踏みとどまった。
「そこまで」
師範の声が響く。
たつきは悔しそうに足元を見た。
「……また越えた」
「だが、前よりよくなった。減速の始め方は合っている。次は足を出す位置を少し変えてみよう」
師範が実際に足を運び、動きを示す。
たつきは真剣な顔でそれを見ていた。
一護も隅から観察していたが、師範がふとこちらへ視線を向けた。
「黒崎。今のはどう見えた?」
突然話を振られ、一護は少し考えた。
「最後に身体が前へ倒れすぎたんだと思います。足だけ先に出して、上半身が追いついてなかったんで」
「うん。よく見ていたな」
師範は頷き、たつきへ顔を向けた。
「有沢も聞こえたか? 速く動けるようになった分、姿勢が崩れたときの立て直しも難しくなる。止まることまで含めて一つの動作だぞ」
「はい!」
たつきは再び開始位置へ戻った。
その横顔には、先ほどまでの悔しさより、次こそ成功させるという気迫が浮かんでいる。
一護は小さく笑った。
ああいうところは、四歳の頃から何も変わらない。
たつきは自分が負けた理由を聞くと、納得できるまで練習する。
負けず嫌いというだけなら、一護も人のことは言えない。
だが、たつきの場合は、できなかったことをできるようにするまでの執念がなかなか凄かった。
だからこそ、彼女との組手は面白い。
たつきが個性を使わない普通の稽古でも、油断すればすぐに一本を取られる。
以前の人生で得た経験があるからといって、八歳の身体が思いどおりに動いてくれるわけではないのだ。
「一護!」
たつきに呼ばれ、顔を上げる。
「見ててよ! 今度こそ止まるから!」
「おう。頑張れよ」
「……何か余裕ある言い方!」
「応援しただけだろ!」
たつきはむっとした顔になったが、すぐに前を向いた。
師範が苦笑する。
「有沢。集中」
「はいっ!」
次の合図で、たつきは再び走り出した。
今度は最後の目印へ到達するより早く、僅かに歩幅を縮める。
腰が落ちる。
足が畳を捉えた。
そして、赤い線の手前で身体が止まった。
「……!」
たつきが目を見開く。
師範も満足そうに頷いた。
「よし。今のはいいぞ」
「やった!」
たつきは両手を上げ、思いきり喜んだ。
直後、一護の方へ振り返る。
「一護! 見た!?」
「見てたって。ちゃんと止まれたな」
「でしょ!」
嬉しそうな顔だった。
一護は思わず笑った。
個性を持っているから強いのではない。
その力を使えるようになるために、こうして何度も失敗を繰り返している。
その点では、自分も大して変わらなかった。
◇
道場を出る頃には、空が随分と暗くなっていた。
冬の風が頬を撫で、一護は上着の襟を立てた。
隣では、たつきがまだ上機嫌だった。
「最後のやつ、結構よかったと思わない?」
「よかったって。さっきから何回聞くんだよ」
「だって、前は全然止まれなかったんだもん」
たつきは白い息を吐きながら、足元を見た。
それから何かを思いついたらしく、一護へ顔を向ける。
「ねえ。今度の日曜、また走ろうよ」
「……お前、今日あんだけ走っただろ」
「今日は個性の練習! 日曜は普通に走るの!」
道場の外や公園で勝手に個性を使うことはできない。
そのことを、たつきもよく理解していた。
普段のランニングは、あくまで普通の運動だ。
それでも彼女は、何かにつけて一護と競争したがる。
「……いいけど、朝早くから呼び出すなよ」
「じゃあ九時!」
「早えよ!」
「えー、九時なんて普通じゃん!」
「休みの日くらい、もうちょっと寝かせろって」
二人の言い合いは、いつもの交差点まで続いた。
別れ際、たつきが手を振る。
「じゃあ、日曜ね!」
「ああ。またな」
少女が走っていく。
一護はその背中を見送り、自宅へ向かって歩き始めた。
たつきと初めて会ったのは四年前だった。
今では、学校が終われば道場で顔を合わせ、休みの日にも一緒に遊ぶことがある。
互いに知らないことはまだ多いが、四年も付き合っていれば、相手の癖くらいは分かってくる。
たつきは何かを思いつくと、すぐに行動へ移す。
悔しいことがあれば顔に出る。
褒められれば喜ぶくせに、少し照れくさくなると怒ったような顔をする。
そうした一つ一つは、一護がこの世界で新しく知った彼女の姿だった。
そして、今日の稽古でもまた一つ増えた。
きっと次に組手をするときは、あの足の運びを使ってくるだろう。
「……こっちも練習しとかねえとな」
一護は小さく呟いた。
たつきに負けるつもりはなかった。
◇
「ただいま」
黒崎家の玄関を開けると、奥から二つの足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃーん!」
「一兄、おかえり」
先に飛び出してきたのは遊子だった。
淡い金色の髪を揺らしながら、一護へ抱きついてくる。
その後ろにいるのが夏梨。
こちらは姉と違い、少し離れた場所から一護を見上げていた。
二人とも四歳になったばかりだった。
「おう。ただいま」
一護はしゃがみ込み、遊子の背中を軽く叩いた。
夏梨も近づいてきたので、空いている手で頭を撫でる。
「今日は何してたんだ?」
「お人形!」
遊子が元気よく答えた。
どうやら、二人で人形遊びをしていたらしい。
ただし、話を聞いてみると少々揉め事が起きていた。
遊子の人形に使っていた毛布を、夏梨が自分の熊のぬいぐるみへ掛けようとしたというのだ。
「だって、くまさん寒そうだったんだもん」
夏梨は真剣な顔で言った。
遊子も負けずに訴える。
「でも、うさぎさんも寒いんだよ!」
一護は少し考え、靴を脱いだ。
「じゃあ、もう一枚布探せばいいだろ。二人とも毛布使えるようにな」
そう言うと、姉妹は顔を見合わせた。
どうやら、そこまでは思いつかなかったらしい。
居間へ入ると、台所から真咲が顔を出した。
「あら、一護。おかえりなさい」
「ただいま。母さん、使ってない小さいタオルとかあるか?」
事情を聞いた真咲は笑い、棚から古いハンドタオルを取り出した。
「これならいいわよ。遊子、夏梨、仲良く使ってね」
「はーい!」
遊子は嬉しそうに受け取り、すぐに人形を寝かせ始めた。
夏梨も熊のぬいぐるみを膝へ乗せ、布を丁寧に掛けている。
一護は鞄を置き、その様子を眺めていた。
家族が五人になってから、黒崎家は随分と賑やかになった。
双子が生まれたばかりの頃は、夜泣きで眠れない日もあった。
二人が歩けるようになると、今度は家中を走り回るようになった。
最近では言葉も達者になり、毎日のように何かしらの揉め事が起きている。
それでも、一護は妹たちと過ごす時間が嫌いではなかった。
今の遊子と夏梨は、まだ何も知らない四歳の子供だ。
そうして少しずつ成長していく姿を見ていると、自分も兄としてちゃんとしなければならないと思わされる。
「……夏梨ちゃん」
遊子の声がした。
顔を向けると、彼女は妹の手を見つめていた。
「おてて、冷たいよ」
どうやら夏梨は、先ほどまで外で遊んでいたらしい。
指先が少し赤くなっていた。
「平気だもん」
夏梨はそう言ったが、手を擦り合わせている。
一護は隣へしゃがみ込んだ。
「おい。冷たいならちゃんと温めろよ。こっち来い」
夏梨の手を握る。
確かに冷たかった。
遊子は心配そうな顔で妹を見ていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「……遊子が温めてあげる!」
そう言って、夏梨の両手を自分の手で包み込んだ。
一護は微笑ましくなり、その様子を眺めていた。
小さな手が、もう一つの小さな手を包んでいる。
遊子は真剣な顔で、妹の手を擦り始めた。
「ぽかぽかになーれ……」
小さな声で呟いた。
その瞬間だった。
遊子の指の隙間から、淡い光が漏れた。
「……ん?」
一護は目を細めた。
最初は窓から差し込む日差しが反射したのかと思った。
しかし、違った。
光は遊子の手の中から生まれていた。
小さな粒が幾つも集まり、柔らかな明かりを形作っていく。
蛍のような光だった。
それが、ゆっくりと大きくなっていく。
「……遊子?」
一護の声に、少女が顔を上げた。
「なあに、お兄ちゃん?」
本人は気づいていないらしい。
その間も、光は消えなかった。
夏梨が目を丸くする。
「……あったかい」
小さく呟いた。
一護は遊子の手へ指を近づけた。
確かに、温かさが伝わってくる。
熱いわけではない。
冬の日差しに当たっているような、穏やかな熱だった。
「……母さん!」
一護は台所へ声をかけた。
真咲がすぐに顔を出す。
「どうしたの?」
「遊子の手、ちょっと見てくれ」
真咲は息子の視線を追い、足を止めた。
遊子の手の中には、まだ小さな光が浮かんでいた。
「……あら」
思わず声が漏れる。
遊子は母親と兄を交互に見ていた。
「……遊子、何かした?」
少し不安そうだった。
真咲はすぐにしゃがみ込み、娘の顔を覗き込む。
「大丈夫よ。ちょっとお手々を見せてね」
遊子が頷く。
真咲は小さな光へ指を近づけ、慎重に温度を確かめた。
しばらくして、表情を和らげる。
「痛くない? 熱くもない?」
「ううん。ぽかぽかする!」
遊子は嬉しそうに笑った。
一護は手の中の光を見つめた。
個性だ。
恐らく、遊子の個性が初めて発現したのだろう。
真咲も同じことを考えていたらしい。
「一心にも見てもらいましょうか」
そう言って、診療所の方へ声をかけた。
しばらくすると、一心が白衣姿のまま現れた。
事情を聞くなり、娘の前へしゃがみ込む。
「遊子、ちょっと手を見せてくれな」
光の状態を確かめ、指先や皮膚に異常がないか慎重に調べていく。
それから、穏やかに笑った。
「……どうやら、個性が出たみたいだな」
「こせい?」
「ああ。遊子だけの、新しい力だ」
遊子は目を丸くした。
そして、自分の手の中に浮かぶ光をじっと見つめた。
「……遊子の?」
「そうだ」
一心が頷く。
すると、少女の顔がぱっと明るくなった。
「わあ……!」
嬉しそうに笑った拍子に、光が小さく揺れた。
その隣で、夏梨が少しだけ目を細める。
「……きれい」
遊子は妹へ顔を向けた。
「夏梨ちゃん、もう寒くない?」
夏梨は頷いた。
「うん。あったかい」
その返事を聞いて、遊子は満面の笑みを浮かべた。
光はやがて小さくなり、手の中へ消えていった。
遊子は驚いて何度か掌を開閉したが、今度は何も起きなかった。
「……なくなっちゃった」
残念そうに呟く。
真咲はその頭を優しく撫でた。
「初めて出たばかりだもの。慌てなくていいのよ」
一心も頷いた。
「明日、専門の先生にも相談してみよう。何ができる個性なのか、ちゃんと調べてから練習した方がいいからな」
遊子は少し考え、元気よく返事をした。
「うん!」
夏梨は、まだ自分の手を見つめていた。
先ほどまで冷たかった指先には、温かさが残っている。
一護はその様子を見て、小さく笑った。
遊子らしい力だと思った。
◇
遊子の個性が発現してから、二週間ほどが過ぎた。
検査の結果、彼女の能力は光と熱に関係するものだと分かった。
掌から柔らかな光を生み出し、その明るさや温度を調整できる。
ただし、まだ発現したばかりなので、光を長く維持することは難しい。
無理に使おうとすれば疲れてしまうため、当面は家族の見守りのもとで、短い時間だけ制御を練習することになった。
個性の名前は『陽灯』。
真咲が考えた名前だった。
遊子はそれを大変気に入り、家族の前で何度も繰り返していた。
「お兄ちゃん、見て!」
ある日の夕方。
宿題を終えた一護のところへ、遊子が小走りでやってきた。
両手には、小さな光が浮かんでいる。
「お、出せるようになったのか」
「うん! お母さんと練習した!」
遊子は嬉しそうに笑った。
一護が指を近づけると、ほんのりと温かい。
最初に発現したときより、少しだけ安定しているようだった。
「……すげえじゃん」
「えへへ!」
遊子は得意げに胸を張った。
だが、すぐに光が小さくなり、消えてしまう。
少女は少し残念そうな顔になったが、一護はその頭を軽く撫でた。
「少しずつできるようになってんだろ。十分じゃねえか」
「……うん!」
遊子は嬉しそうに頷いた。
そのまま一護の隣へ腰を下ろし、宿題のノートを覗き込んでくる。
まだ読めない漢字も多いらしく、時折不思議そうに首を傾げていた。
一護はそんな妹を横目に、ふと思った。
光を形にするところは、真咲の『光弓』に似ている。
熱を生み出すところは、一心の『発火』に近い。
だが、そのどちらとも違う。
遊子自身の個性だった。
母親の弓のように矢を射ることはできないし、父親のように炎を燃やすわけでもない。
ただ、温かな光を生み出す。
少なくとも今の遊子は、それで十分に嬉しそうだった。
◇
夏梨の個性が発現したのは、それから一か月ほど経った頃だった。
その日は、珍しく暖かな午後だった。
黒崎家の庭では、夏梨がボールを蹴って遊んでいた。
小さな箱をゴール代わりに置き、そこへ向かって何度もボールを蹴る。
一護は縁側に座り、その様子を眺めていた。
隣では、遊子が温かい飲み物の入ったカップを両手で持っている。
「一兄、見てて!」
夏梨が声を上げた。
「おう。ちゃんと見てるぞ」
少女はボールを足元へ置き、少し下がった。
右足を引く。
蹴ったボールは箱の右側へ逸れた。
夏梨は悔しそうに顔をしかめ、ボールを拾いに行く。
二球目も外れた。
三球目は、箱の端へ当たって跳ね返った。
「……むう」
一護は小さく笑った。
夏梨もなかなかの負けず嫌いだった。
遊子が隣から声をかける。
「夏梨ちゃん、がんばれー!」
「……分かってる!」
夏梨は少し顔を赤くした。
それから、もう一度ボールを置き直す。
足を引く。
小さな身体が、前へ傾く。
次の瞬間だった。
ぱちっ、と乾いた音がした。
一護は眉を寄せた。
夏梨の右足の周囲に、小さな火花が散っていた。
最初は静電気かと思った。
しかし、すぐに違うと分かった。
足元から、橙色の炎が一瞬だけ噴き出したのだ。
「――夏梨!」
一護が立ち上がる。
その声とほぼ同時に、夏梨の身体が前へ飛び出した。
「わっ!?」
本人も驚いたらしい。
蹴り出した足が予想以上の勢いで前へ伸び、身体がついていかない。
ボールは箱を大きく越え、庭の端へ飛んでいった。
夏梨は前のめりになり、地面へ転がった。
「……っ!」
一護はすぐに駆け寄った。
倒れた夏梨の足元では、まだ小さな火花が散っている。
近くには、乾いた落ち葉が数枚あった。
一護は妹を抱き起こし、火花から離れた場所へ移動させた。
その直後、一心が庭へ飛び出してきた。
「夏梨!」
手には、水の入ったバケツを持っている。
どうやら、窓から様子を見ていたらしい。
小さく燃え始めていた落ち葉へ水をかけ、火を消す。
庭に焦げたような匂いが残った。
夏梨は呆然とした顔で、自分の足を見つめていた。
「……え?」
一護は妹を抱えたまま、身体の状態を確かめた。
膝に擦り傷がある。
ただ、他に目立った怪我はなさそうだった。
それでも、今の動きは普通ではなかった。
一護は夏梨の顔を覗き込んだ。
「痛いところあるか?」
少女はしばらく答えなかった。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……ひざ」
「そっか。親父、診てやってくれ」
「ああ」
一心がすぐに近づいてきた。
先ほどまでの慌ただしさとは違い、落ち着いた手つきで娘の膝や足首を確かめていく。
真咲も庭へ出てきて、遊子を安全な場所へ下がらせていた。
しばらくして、一心が小さく息を吐く。
「……よし。今のところ、擦り傷以外に大きな異常はなさそうだ」
その言葉を聞いて、一護もようやく肩の力を抜いた。
夏梨はまだ青ざめていた。
突然、自分の足から火が出た。
そのうえ、思いがけない勢いで身体が動き、転んでしまったのだ。
四歳の子供には、随分と怖い出来事だっただろう。
「……一兄」
小さな声がした。
一護は顔を向ける。
「ん?」
「……夏梨、変なの出た」
「ああ」
「……こわかった」
夏梨は俯いた。
普段は何かと強がる妹だったが、今は一護の服を強く握っている。
一護はその頭へ手を置いた。
「そりゃ怖えよ。急にあんなの出たら、誰だってびっくりするって」
夏梨は小さく頷いた。
「でも、今はもう止まってる。親父も母さんもいるし、怪我も診てもらっただろ」
一護は妹を安心させるように、ゆっくりと言葉を続けた。
「どうやったら安全に使えるか、これから覚えてけばいいんだよ」
夏梨は少しだけ顔を上げた。
その表情にはまだ不安が残っている。
だが、一護の言葉を聞いて、僅かに落ち着いたようだった。
そのとき、遊子が駆け寄ってきた。
「夏梨ちゃん!」
小さな手が、夏梨の手へ重なる。
遊子の掌には、淡い光が浮かんでいた。
温かな明かりが、二人の指先を包み込む。
「……だいじょうぶだよ」
遊子はそう言って、妹の手を握った。
夏梨は目を丸くした。
それから、ゆっくりと手を握り返す。
「……うん」
一護は二人を見下ろしていた。
遊子の小さな光。
夏梨の足元から生まれた炎。
どちらも、まだ発現したばかりの力だった。
それでも、二人にとっては大きな出来事に違いない。
その日、夏梨のボール遊びはそこで終わった。
◇
夏梨の個性も、後日専門の医師に診てもらうことになった。
幸い、膝の傷はすぐに治り、身体にも異常は見つからなかった。
彼女の能力は、一心の『発火』に近い性質を持っているらしい。
ただし、夏梨の場合は炎を長く維持するよりも、一瞬だけ強く放出することに特徴があった。
特に手足から放出しやすく、足元で使った場合は反動で身体が急に加速することがある。
医師は、成長とともに制御を覚えれば、さまざまな使い方ができる可能性があると説明した。
もっとも、今はまだ危険も多い。
急な加速による転倒。
周囲への引火。
幼い身体への負担。
そのため、当面は危険な物を置かない専用の場所で、両親の見守りのもと少しずつ制御を覚えることになった。
個性の名前は『閃火』。
瞬間的に生まれる炎と閃光から、一心が考えたものだった。
夏梨はその名前を聞いたとき、少しだけ考え込んでいた。
だが、一心が「格好いいだろ」と笑うと、照れくさそうに頷いたらしい。
遊子と夏梨の個性は、必要な届け出も済ませられた。
これで、黒崎家では五人のうち四人に個性が確認されたことになる。
そして、長男の一護だけは、依然として個性が確認されていなかった。
◇
ある日の夕食後。
一護が居間で本を読んでいると、一心が隣へ腰を下ろした。
手には湯飲みを持っている。
少し離れた場所では、真咲が双子を寝室へ連れていく準備をしていた。
「一護、ちょっといいか」
一護は本から顔を上げた。
「……何だよ」
一心はしばらく息子の顔を見ていた。
それから、落ち着いた声で口を開いた。
「遊子と夏梨に個性が出ただろ」
「ああ」
「お前、何か気にしてないか?」
一護は少しだけ眉を寄せた。
何を心配しているのか、すぐに分かった。
四歳の妹たちには個性が現れた。
だが、八歳になった長男には、まだ何の兆候も確認されていない。
親として、気になるのだろう。
一護は本を閉じた。
「……別に。あいつら、嬉しそうだったしな」
一心は黙って息子を見ていた。
一護は少し考え、言葉を続けた。
「遊子は夏梨の手を温められたのが嬉しいみてえだし、夏梨も、もう一回ボール蹴りてえって言ってたぞ」
「そうか」
一心が小さく笑った。
「まあ、夏梨にはもう少し我慢してもらわないとな」
「ああ。庭燃やされたら困るし」
「それは本当に困るな」
二人は顔を見合わせて笑った。
一心は湯飲みを置き、息子の頭へ手を乗せた。
「個性のことに限らず、何か気になることがあったら言えよ」
一護は父親を見た。
その声には、余計な励ましも、何かを決めつける響きもなかった。
ただ、父親として息子のことを気にかけている。
「……分かってる」
一護は頷いた。
一心もそれ以上、個性の話を続けなかった。
しばらくして、遊子が廊下から顔を出した。
「お兄ちゃん、おやすみ!」
「おう。おやすみ」
その後ろから夏梨も小さく手を振る。
一護は二人を見送り、再び本へ目を落とした。
個性がないことを、残念に思っているわけではなかった。
自分には、前の人生から受け継いだ力がある。
斬月もいる。
ただし、それを今の身体で使う方法は、まだ分かっていない。
自力で魂魄を肉体から分離することには、一度だけ成功した。
だが、あの方法では肉体が残ってしまう。
遊子には霊体の自分が見えなかった。
その事実は、思っていた以上に大きかった。
この世界で誰かを護ろうとするなら、相手に姿を見せられた方がいい。
声が届き、手を伸ばせる方がいい。
少なくとも、そういう方法があるなら探してみたかった。
◇
それから、季節が移った。
冬が終わり、春が来る。
夏になれば、日差しが強くなる。
秋には街路樹が色づき、再び冷たい風が吹く。
黒崎家の庭には、いつの間にか新しい練習用の設備が置かれていた。
夏梨が個性を制御するために、一心が用意したものだった。
燃えやすい物を周囲から遠ざけ、足元には衝撃を吸収するマットを敷く。
練習といっても、最初のうちは炎を出さないことから始まった。
夏梨はそれが少し不満だったらしい。
「……だって、火を出す練習じゃないの?」
そんなことを言って、一心を困らせていた。
だが、何度か練習するうちに、本人も理由を理解したようだった。
力を出すことより、止めること。
自分の意思で使い始め、自分の意思で終わらせること。
それができなければ、安心してボールを蹴ることもできない。
夏梨は少しずつ、足元に火花を出したり、消したりできるようになった。
その一方で、遊子の『陽灯』は、家の中で使われることが増えた。
夕方、電気をつける前に小さな光を浮かべてみたり、寒い日に自分の手を温めたり。
もちろん、長く使えば疲れてしまうため、真咲が時間を決めていた。
遊子はそれを守りながら、嬉しそうに練習を続けていた。
双子は少しずつ成長していった。
身体が大きくなり、言葉も増える。
できることが、一つずつ増えていく。
そして、一護もまた、同じように成長していた。
◇
十歳になった一護は、以前より随分と背が伸びていた。
四歳の頃に比べれば、身体の動かし方も分かってきた。
空手の稽古を続けているおかげで、足腰も強くなっている。
それでも、以前の人生と同じように動けるわけではなかった。
現実の身体には、まだ年齢相応の限界がある。
ただし、精神世界での修行は続いていた。
斬月の二人と再会してから、すでに六年。
その間、一護はほとんど毎日のように精神世界へ足を運んでいた。
斬術。
霊圧の調整。
霊子の感知。
虚の力の制御。
そして、滅却師としての力の扱い方。
以前の人生では戦いながら覚えてきたことを、今度は時間をかけて学び直していた。
特に、斬月のオッサンが教える霊子の扱い方は、一護にとって新鮮だった。
周囲に存在する霊子を感じ取り、集め、形を与える。
以前はその力を持っていても、細かな扱い方までは理解していなかった。
だが、今は違う。
急いで敵を倒さなければならないわけでもない。
何かを護るために、無理やり力を引き出す必要もない。
だから、一つずつ覚えられた。
もちろん、白い男との斬術の稽古は相変わらずだった。
「甘ぇぞ、一護!」
鋭い声とともに、白い刀が振り下ろされる。
一護は大きい方の斬月で受け流し、小さい方で反撃した。
白い男が身を捻る。
刃が空を切る。
次の瞬間、相手の足が一護の腹へ迫った。
「……っ!」
一護は咄嗟に身体を引いた。
だが、完全には避けきれない。
蹴りを受け、数メートルほど後ろへ滑った。
「……ったく!」
着地と同時に体勢を立て直す。
白い男は楽しそうに笑っていた。
「悪くねえな。前なら今ので転がってただろ」
「褒めてんのか、それ」
「褒めてやってんだよ。感謝しろ」
「……誰がするか」
一護は口元を吊り上げた。
精神世界では、以前の姿のまま戦える。
しかし、ここでどれほど動けるようになっても、現実の肉体が同じように強くなるわけではない。
それでも、無意味ではなかった。
剣の振り方。
間合いの取り方。
霊圧の配分。
そうした技術は、確かに積み重なっている。
問題は、それを現実の身体へどう繋げるかだった。
◇
ある日の夜。
一護は精神世界の高層ビルの屋上に立ち、斬月のオッサンと向き合っていた。
「……どうだった?」
男に尋ねられ、一護は首を振った。
「駄目だ。前よりは分かるようになってきたけど、やっぱり外じゃ上手くいかねえ」
ここ数年、一護が試していることがあった。
魂を肉体から分離せず、内側にある霊力を現実の身体へ伝えること。
死神化そのものは、以前より安定してできるようになっていた。
自分の魂と肉体を結ぶ感覚も、以前より明瞭に掴める。
だが、そこから先へ進もうとすると、どうしても上手くいかなかった。
霊力を強く引き出そうとすれば、身体が重くなる。
無理をすれば頭痛が起きる。
そして、少しでも力の向きを間違えれば、魂だけが肉体から離れかける。
それでは意味がなかった。
一護が求めているのは、魂を抜く方法ではない。
魂を抜かずに力を使う方法だった。
「……霊力を通そうとすると、どうしても身体の外へ出ようとするんだよな」
一護は自分の手を見た。
精神世界では、以前の姿をしている。
黒い死覇装。
長い手足。
そして、斬月。
だが、現実では十歳の身体だ。
その違いは、まだ埋まっていない。
斬月のオッサンはしばらく考えていた。
やがて、静かに口を開く。
「一護。お前は以前、完現術を使っていたな」
「……ああ」
一護は顔を上げた。
完現術。
死神の力を失ったあと、銀城たちと出会い、身につけた能力だった。
当時の一護は、死神の力を取り戻すことばかり考えていた。
だから、完現術そのものを深く理解していたとは言い難い。
だが、基本的な仕組みは覚えている。
物質に宿る魂へ干渉し、その性質を引き出す力。
自分の霊力だけでなく、周囲の物質との関係を利用する。
「……そういや、そんなこともやったな」
一護は呟いた。
斬月のオッサンは頷く。
「お前の力は、死神だけのものではない。虚の力も、滅却師の力も持っている。そして、かつては完現術を扱ったこともある」
その言葉を聞きながら、一護は腕を組んだ。
以前の人生では、そうした力をそれぞれ別のものとして考えることが多かった。
だが、今では分かっている。
どれも、自分の魂に関わる力だ。
それぞれ性質は違っても、完全に無関係というわけではない。
「……完現術を使えば、身体から出なくても物に触れられるってことか?」
「可能性はある。ただし、以前と同じように使えるとは限らない」
一護は頷いた。
その点は、自分でも理解していた。
以前、完現術を扱う際には、死神代行証という特別な品を使っていた。
だが、今の一護にはそれがない。
こちらの世界へ持ってこられたのは、自分自身の魂と、そこに宿る力だけだった。
それに、今の身体は以前とは違う。
完現術を使えるとしても、最初から同じように扱える保証はなかった。
「……じゃあ、何から試す?」
一護が尋ねると、斬月のオッサンは少し考えた。
「まずは、物質に宿る魂を感じ取ることだろう。以前のお前が最初に学んだことから、やり直してみるといい」
その言葉に、一護は黙って頷いた。
確かに、いきなり大きな力を使おうとする必要はない。
最初は、ほんの僅かでいい。
現実の身体から、何かへ働きかけることができれば。
それだけでも、大きな進歩になる。
そのとき、少し離れた場所から白い男が声をかけてきた。
「おい、一護」
振り返ると、白い男が刀を肩に担いでいる。
「難しい話は終わったか?」
「……まだ途中だよ」
「なら、さっさと終わらせろ。今日はまだ一本も取られてねえぞ」
一護は呆れた顔になった。
「お前、ほんとそればっかだな」
「当たり前だろ。てめえが鈍ったままじゃ、こっちも面白くねえんだよ」
白い男は獰猛に笑った。
一護は小さく息を吐いた。
それから、斬月へ意識を向ける。
手の中に、一振りの刀が現れた。
そこから、二刀の姿を思い浮かべる。
刀が二振りに分かれた。
一護は左右の斬月を握り直した。
「……いいぜ。今度こそ一本取ってやる」
白い男が口角を吊り上げる。
「ハッ! やってみろよ、一護!」
二人が同時に地面を蹴った。
刃がぶつかり合い、鋭い音が高層ビルの間へ響き渡った。
◇
翌日から、一護は現実でも小さな実験を始めた。
もちろん、家族の目がある場所で無茶なことをするつもりはなかった。
何より、今の身体へ大きな負担をかけるわけにはいかない。
だから、最初はごく簡単なことから試すことにした。
物質に宿る魂を感じ取る。
以前の人生でも、完現術の修行で似たことをしていた。
だが、今の一護にとっては、ほとんど最初からのやり直しだった。
目の前にある物へ意識を向ける。
机。
鉛筆。
ノート。
どれも、ごく普通の物だ。
一護は鉛筆を手に取り、しばらく見つめた。
しかし、何も感じられなかった。
何度試しても同じだった。
精神世界では、霊力の流れをはっきり感じ取れる。
だが、現実の身体では、その感覚がどうしても鈍くなる。
それでも、一護は焦らなかった。
無理に力を引き出すことはしない。
まずは、感じ取ることだけを目標にする。
それを何日も続けた。
学校から帰り、宿題を終えたあと。
空手の稽古から戻り、身体を休めている時間。
あるいは、寝る前の僅かな時間。
何も起きない日が続いた。
それでも、一護は少しずつ自分の感覚を確かめていった。
そして、ある日。
机の上に置かれた一本の帯へ、目が留まった。
空手の道着に使っている帯だった。
四歳の頃から、何本か買い替えてきた。
今使っているものも、すでに随分と擦れている。
何度も結び直し、稽古で汗をかき、大会にも持っていった。
初めて勝った日のことも、負けて悔しかった日のことも、この帯と一緒に過ごしてきた。
一護は何となく、それを手に取った。
指先で布の感触を確かめる。
すると、ほんの僅かに。
何かが、指先へ触れたような気がした。
「……ん?」
一護は眉を寄せた。
もう一度、意識を向ける。
先ほどまで何も感じられなかったはずなのに、今は違う。
帯の表面に、微かな何かがある。
霊圧とは違う。
周囲に漂う霊子とも違う。
もっと小さく、もっと曖昧なものだった。
一護は息を止めた。
それから、ゆっくりと指を動かした。
帯の端が、僅かに揺れた。
風は吹いていない。
指も動かしていなかった。
それでも、布が確かに動いた。
「……!」
一護は目を見開いた。
もう一度試そうとする。
だが、今度は何も起きなかった。
僅かな感覚も、すぐに消えてしまった。
一護はしばらく帯を見つめていた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「……マジかよ」
声が漏れた。
大したことではない。
布の端が、ほんの少し動いただけだ。
それも、一度きり。
偶然だと言われれば、そうかもしれない。
だが、一護には分かった。
今のは、自分の霊力に何かが反応した。
魂を肉体から抜かずに。
現実の身体のままで。
ほんの僅かだが、物へ働きかけることができた。
一護は帯を握り直した。
胸の奥に、久しぶりの高揚感があった。
まだ、何も完成していない。
斬月を呼び出せるわけでもない。
霊圧を自由に放出できるわけでもない。
それでも、今までとは違う手応えがあった。
ただ力を強くするのではなく、扱い方を変える。
斬月のオッサンが言っていたことの意味が、ようやく少し分かった気がした。
「……よし」
一護は小さく呟いた。
帯を丁寧に畳み、机の上へ置く。
今日は、ここまでにしよう。
無理をして何度も試せば、また身体へ負担がかかるかもしれない。
だが、明日なら。
あるいは、その次の日なら。
もう一度、同じ感覚を掴めるかもしれない。
一護はノートを開き、今日の出来事を簡単に書き留めた。
物質への干渉らしき反応。
その下に、小さく付け加える。
現実の肉体から。
書き終えると、一護は鉛筆を置いた。
窓の外では、夕日が街を照らしていた。
◇
「お兄ちゃーん!」
廊下から声が響いた。
一護が顔を上げると、遊子が部屋の扉から顔を覗かせていた。
六歳になった妹は、以前より随分と背が伸びている。
今年から小学校へ通い始め、毎日いろいろなことを覚えて帰ってくるようになった。
「どうした?」
「お母さんがね、もうすぐごはんだって!」
「分かった。すぐ行く」
一護が立ち上がると、遊子は嬉しそうに笑った。
その後ろから、夏梨も顔を出す。
「一兄、今日ね」
「ん?」
「サッカーで勝った」
一護は目を瞬いた。
「お、よかったじゃん」
夏梨は少しだけ得意げに胸を張った。
小学校へ入ってから、彼女はますますサッカーへ夢中になっている。
個性の『閃火』は、まだ安全な場所でしか練習できない。
だが、普通にボールを蹴るときには使わないという決まりを、夏梨はきちんと守っていた。
そのうえで、足の動かし方やボールの扱い方を覚えている。
「今度、一兄ともやりたい」
「いいぜ。ただし、俺も手加減しねえぞ」
「……負けないもん」
夏梨はむっとした顔になった。
一護は笑い、妹の頭を軽く撫でた。
その隣で、遊子が何かを思い出したように手を叩いた。
「あ、そうだ! お兄ちゃん!」
掌に、小さな光が浮かぶ。
淡い黄色の明かりだった。
以前よりもずっと安定していて、遊子が手を動かしても簡単には消えない。
「見て! 今日は二つできたの!」
そう言って、もう片方の手にも光を浮かべた。
一護は目を丸くした。
「へえ。いつの間にそんなことできるようになったんだ?」
「お母さんと練習した!」
遊子は嬉しそうに笑った。
掌に浮かぶ二つの光は、小さな灯りのようだった。
夏梨もその様子を見て、少しだけ目を細める。
「……あったかいね」
「うん!」
遊子は頷き、妹の手へ片方の光を近づけた。
温かな明かりが、二人の指先を照らす。
一護はその光景を眺めていた。
遊子の『陽灯』。
夏梨の『閃火』。
どちらも、最初に発現した頃とは比べものにならないほど扱いが上手くなっている。
もちろん、まだ子供の個性だ。
できることには限りがあるし、大人の見守りが必要な場面も多い。
それでも、二人は少しずつ自分の力を覚えていた。
一護も同じだった。
十歳になった今も、まだできないことは多い。
だが、今日、ほんの僅かに前へ進んだ。
自分の身体から、現実の物へ。
ほんの少しだけ、力が届いた。
「……一兄?」
夏梨に呼ばれ、一護は顔を上げた。
「何だ?」
「何か嬉しそう」
一護は少しだけ目を瞬いた。
どうやら、顔に出ていたらしい。
「……まあな」
そう答えると、夏梨は不思議そうに首を傾げた。
遊子も興味深そうに一護を見ている。
「何かいいことあったの?」
一護は少し考えた。
今日、何ができたのか。
それを今ここで説明するわけにはいかない。
だが、嘘をつく必要もなかった。
「……ちょっとな。ずっとできなかったことが、少しだけできたんだよ」
遊子は嬉しそうに笑った。
「すごい!」
夏梨も小さく頷く。
「……よかったね、一兄」
一護は二人を見た。
何ができたのかも知らないくせに、随分と素直に喜んでくれるものだ。
思わず笑ってしまった。
「……ありがとな」
そう言って、二人の頭を軽く撫でる。
遊子は嬉しそうに笑い、夏梨は少し照れくさそうに顔を逸らした。
そのとき、階下から真咲の声が響いた。
「みんなー! ごはんできたわよー!」
「はーい!」
遊子が元気よく返事をした。
夏梨も一護の袖を引く。
「一兄、早く」
「ああ。行こうぜ」
一護は机の上に置いた帯へ、もう一度だけ目を向けた。
何年も使ってきた、ごく普通の空手の帯。
そこには、まだ何の変化も見えない。
けれど、今日確かに感じたものがあった。
一護は小さく笑い、妹たちと一緒に部屋を出た。
階段を下りると、食卓には温かな夕食が並んでいた。
一心はすでに席へついており、真咲が最後の皿を運んでいる。
遊子が椅子へ座り、夏梨もその隣へ腰を下ろした。
一護はいつもの席へつく。
「一護、今日は空手どうだった?」
真咲に尋ねられ、一護は顔を上げた。
「まあまあ。たつきに一本取られたけど、最後は取り返した」
「あら、そうなの。たつきちゃん、強くなったのね」
「……ああ。油断できねえよ」
一護は苦笑した。
一心が楽しそうに笑う。
「ははは! 父ちゃんも今度見に行くか!」
「……親父、また変な応援すんなよ」
「変な応援とは何だ!」
「前に試合中、急に立ち上がって叫んだだろ!」
「息子を応援して何が悪い!」
「声がでけえんだよ!」
真咲が呆れたように笑った。
遊子は楽しそうに手を叩き、夏梨は少しだけ眉を寄せている。
いつもの黒崎家だった。
一護はそんな家族を見回し、箸を手に取った。
「……いただきます」
五人の声が重なった。
食卓には、温かな湯気が立ち上っていた。