帯は動かなかった。
「…………」
一護は机の前に座り、そこに置かれた空手の帯を見つめていた。
先日、確かに動いたはずだった。
自分の指が触れるより先に、帯の端が僅かに持ち上がった。それは風でも偶然でもなく、帯そのものへ自分の力が働きかけた結果だと、一護には感じられた。
だが、あれから三日。
同じことを何度試しても、帯はぴくりとも動かなかった。
「……ったく」
小さく息を吐く。
苛立っていないと言えば嘘になる。
せっかく掴んだ手応えが、指の間からすり抜けていくような感覚だった。
もっとも、だからといって力任せに霊圧を引き出すつもりはない。
それで何度も失敗したことは、十分に覚えていた。
一護は帯へ伸ばしていた手を下ろした。
十歳になった今でも、現実の身体で霊力を扱うのは難しい。
精神世界では、以前と変わらない姿で斬月を握ることができる。霊圧の流れも感じ取れるし、周囲の霊子を集める練習も随分と進んでいた。
だが、現実では違う。
自分の身体が、何かを隔てる壁のようになっている。
霊力がないわけではない。
使い方が分からないのだ。
一護は机に肘をつき、帯の端へ指を近づけた。
触れる寸前で止める。
これまでとは逆のことを考えてみる。
自分の内側にある力を、外へ押し出すのではない。
帯そのものへ意識を向ける。
布の繊維。
何度も結んだことで生まれた折り目。
擦れて少し白くなった端。
以前、銀城たちから教わったことを思い出す。
完現術。
物質に宿る魂へ働きかけ、その性質を引き出す技術。
あの頃は、死神の力を取り戻すことばかり考えていた。教わった技術も、目の前の課題を突破するために使っていた。
今思えば、随分と急いでいたものだ。
けれど、今回は違う。
何日かかってもいい。
半年でも、一年でも。
自分の身体で力を扱う方法を、最初から理解し直せばいい。
一護はゆっくりと息を吐き、もう一度帯へ意識を向けた。
すると、指先に僅かな感覚が生まれた。
「……ん?」
布に触れているわけではない。
なのに、何かの抵抗があった。
水面へ指先を近づけたときのような、微かな手応え。
一護は姿勢を崩さず、その感覚を確かめた。
急がない。
強く引っ張らない。
ただ、そこにあるものへ意識を向ける。
帯の端が、ほんの少しだけ浮いた。
「……!」
僅かだった。
せいぜい指一本分にも満たない。
それでも、今度ははっきり見えた。
布が持ち上がり、ゆっくりと元の位置へ戻る。
一護は思わず笑った。
「……できた」
小さな声が部屋に響く。
もう一度試そうとして、手を止めた。
今の感覚を忘れないうちに、まずは整理した方がいい。
一護はノートを開き、今日の出来事を書き留めた。
力を外へ押し出さないこと。
対象の状態を意識すること。
霊圧を高めるより、細かく調整した方が反応が得られること。
書いているうちに、少しだけ頭が重くなった。
やはり、現実の身体には負担がかかるらしい。
一護は鉛筆を置いた。
窓の外では、夕日が住宅街を照らしている。
そろそろ夕食の時間だった。
「……今日はここまでだな」
帯を畳み、机の端へ置く。
大きな力が出せたわけではない。
ただ布を少し動かしただけだ。
それでも、三日前の偶然めいた成功とは違う。
自分が何をしようとして、何が起きたのか。
その一部を、ようやく理解できた気がした。
◇
五年生になった春、一護は学校の体育館で、一枚の大きな図面を見下ろしていた。
描かれているのは、校舎の見取り図だった。
教室、廊下、階段、非常口。
それぞれの場所に、赤い印がつけられている。
今日は防災訓練の日だった。
単に避難経路を確認するだけではない。
地域のプロヒーローと消防関係者が学校を訪れ、災害が起きたときにどう行動するべきかを教える特別授業が行われていた。
「さて、ここで一つ質問です」
体育館の前に立つ男性が、マイクを持ち上げた。
がっしりとした体格の男だった。
普段は地域の救助活動を中心に働いているプロヒーローで、今日は青い作業服に似たコスチュームを身につけている。
男は図面の一角を指さした。
「この廊下で火災が発生したとします。煙が広がっていて、向こう側にはまだ人がいます。皆さんなら、どうしますか?」
何人かの生徒が手を上げた。
先生に知らせる。
消防車を呼ぶ。
別の階段から逃げる。
さまざまな答えが上がった。
その中で、一人の男子が元気よく言った。
「強い個性があったら、煙の中に入って助けに行きます!」
周囲の生徒たちから、感心したような声が漏れた。
男は否定せず、少しだけ考えるような顔になった。
「助けたいと思うのは立派だね。じゃあ、その煙の向こうで何が起きているかは分かるかな?」
男子は口を閉じた。
「床が抜けているかもしれない。別の場所でも火が出ているかもしれない。中にいる人がどこにいるかも分からない。個性が強くても、知らない危険には対応できないことがあるんだ」
男は図面の赤い印を一つずつ指さした。
「だから、まず周囲へ知らせる。それから、自分が安全にできることを考える。助けに来る人へ情報を伝えるだけでも、立派な協力になるんだよ」
一護は黙って話を聞いていた。
煙の中へ入るな。
危険を知らせろ。
言われてみれば当然のことだった。
けれど、前の人生での自分は、そうしたことをどこまで考えていただろう。
目の前に助けなければならない人間がいれば、まず身体が動いた。
敵がいれば斬月を握り、危険があれば飛び込んだ。
それで間に合ったことも多い。
だが、いつも上手くいったわけではない。
自分がどれほど強くても、一度にすべてを見渡せるわけではなかった。
まして、今の身体ではできることに限りがある。
「黒崎」
隣から小さく声をかけられた。
同じ班の男子だった。
「さっきから難しい顔してるけど、どうした?」
一護は顔を上げた。
「……いや。ちょっと考えてただけ」
「ふうん。次、うちの班の番だって」
男子が図面を指さした。
一護は頷き、立ち上がった。
訓練はその後も続いた。
班ごとに避難経路を考え、怪我人に見立てた人形を安全な場所まで運ぶ。
個性の使用は禁止され、全員が自分の身体だけで課題へ取り組んだ。
一護の班では、人形を運ぶ途中で一人の生徒が足を滑らせた。
幸い怪我はなかったが、抱えていた人形が大きく傾く。
一護はすぐに手を伸ばし、落ちかけた人形の肩を支えた。
「おい、大丈夫か?」
「う、うん。ごめん」
「いいって。持つ場所変えようぜ。そっちだけ重くなってんだろ」
男子は頷き、人形の持ち方を変えた。
班の他の生徒も手を貸す。
今度は重さが均等に分散され、運びやすくなった。
近くで見ていたヒーローが声をかけてきた。
「いい判断だったね。誰かが困っているとき、自分一人で全部引き受ける必要はない。周囲の人と役割を分けるのも大事なことだよ」
一護は少しだけ目を瞬いた。
褒められるようなことをしたつもりはなかった。
ただ、人形が落ちそうになったから支えた。
それだけだ。
だが、隣では班の仲間たちが嬉しそうに笑っていた。
「黒崎が支えてくれなかったら落としてたよな」
「いや、あれ結構重いって!」
「次はもっと上手く運べそうじゃん」
一護は少し照れくさくなり、頭を掻いた。
「……まあ、次は気をつけようぜ」
そう答えると、班の仲間たちは元気よく頷いた。
体育館の窓から、春の日差しが差し込んでいた。
◇
その日の夕方。
一護は空手道場で、たつきと向かい合っていた。
通常の組手だった。
個性は使わない。
互いに構えを取り、師範の合図を待つ。
「始め!」
たつきが踏み込んだ。
右の突き。
一護はそれを捌き、反撃しようとする。
しかし、たつきはすぐに足を引き、間合いを変えた。
以前なら、そのまま攻め込んできたはずだった。
だが、今は違う。
相手の動きを見て、次の手を選んでいる。
一護は少しだけ口元を緩めた。
こういう変化を見ると、稽古を続けてきた甲斐があると思える。
もっとも、それは相手も同じだった。
たつきは一護の動きをよく知っている。
こちらがどの方向へ動こうとするか、どんな攻撃を好むか。
四年以上も組手を続けていれば、当然覚えられてしまう。
二人は何度か攻防を繰り返した。
やがて、たつきが右へ踏み込む。
一護はその動きに合わせて身体を捌いた。
だが、たつきは途中で足を止めた。
踏み込むと見せかけた動きだった。
「……っ!」
一護が反応したときには、すでに次の突きが伸びていた。
拳が胴の手前で止まる。
「一本!」
師範の声が響いた。
一護は小さく息を吐いた。
完全に読まれた。
たつきは拳を引き、得意げに笑っている。
「……今の、どう?」
一護は少し考えた。
「……上手かった」
「でしょ!」
たつきは嬉しそうに笑った。
その顔を見て、一護も思わず笑ってしまった。
以前の人生で培った経験があっても、今の相手が何をするかまで分かるわけではない。
そして、たつきも日々成長している。
自分だけが同じ場所に留まっているわけにはいかなかった。
稽古のあと、二人は道場の外で水を飲みながら休んでいた。
「そういえば一護、最近何か調子よくない?」
たつきが突然言った。
一護は水筒を下ろす。
「……何が?」
「動き。前より軽い気がする」
一護は少し考えた。
確かに、最近は空手の稽古でも身体を動かしやすくなっていた。
以前より体力がついたこともある。
それに、精神世界での修行が、身体の使い方を考えるうえで役立っているのかもしれない。
ただし、現実で霊力を使っているわけではない。
「……身体が大きくなったからじゃねえの?」
「それもあるかもしれないけどさ」
たつきは少し考え込んだ。
「前は、見えてるのに間に合わないって感じだったじゃん。でも最近、そういうの減った気がする」
一護は目を瞬いた。
そんなところまで見ていたのか。
感心していると、たつきが得意げに笑った。
「ほら。あたし、一護のことよく見てるから」
「……そうかよ」
「何その返事!」
「いや、ちゃんと見てんだなと思って」
たつきは少しだけ黙った。
それから、照れくさそうに顔を逸らす。
「……当たり前でしょ。ずっと一緒に練習してるんだから」
一護はその横顔を見て、小さく笑った。
◇
十一歳の秋。
一護は、自分の部屋で一枚の布を指先に掛けていた。
空手の帯だった。
十歳の頃から続けている実験は、少しずつ成果が出始めていた。
以前は、偶然のように一度動かせるだけだった。
だが、今は違う。
集中すれば、帯の端を僅かに持ち上げられる。
ほんの短い時間だけだが、布の動きを自分の意思で変えることができるようになっていた。
それも、魂を肉体から抜かずに。
ただし、できることはまだ少ない。
動かせるのは、身近な物のほんの一部分だけ。
大きく持ち上げることも、遠くへ飛ばすこともできない。
それでも、一護にとっては大きな進歩だった。
精神世界での修行が、現実へ繋がり始めている。
そう感じられるようになっていた。
一護は帯を机へ置いた。
今日は、もう一度だけ試すつもりだった。
指を近づけ、意識を集中させる。
布の繊維。
折り目。
何度も使い込んだことで生まれた感触。
その奥にある、微かな存在へ意識を向ける。
帯の端が、ゆっくりと持ち上がった。
「……よし」
一護は小さく呟いた。
そのとき。
「一護、ちょっといい?」
扉の向こうから、真咲の声がした。
一護は思わず顔を上げた。
集中が途切れ、帯が机へ戻る。
「……ああ」
返事をすると、扉が開いた。
真咲が顔を覗かせる。
「洗濯物を取り込むの、手伝ってくれる?」
「分かった」
一護は立ち上がった。
だが、真咲はすぐに部屋を出なかった。
机の上に置かれた帯へ、目を向けていた。
「……一護」
「ん?」
「今、何かしてた?」
一護は一瞬だけ黙った。
どうやら、帯が動いていたところを見られたらしい。
真咲は驚いたというより、不思議そうな顔をしている。
一護は机の上の帯へ視線を落とした。
隠す必要は、あるのだろうか。
以前の人生の記憶については、まだ誰にも話していない。
死神や虚のことも、斬月の存在も。
だが、今の身体で何かを動かせるようになったことまで、隠し続ける理由があるのか。
少なくとも、家族に知られたところで、困ることばかりではないはずだ。
一護は少し考え、真咲へ顔を向けた。
「……母さん。ちょっと見ててくれねえか」
真咲は目を瞬いた。
それから、静かに頷いた。
「うん」
一護は再び机の前へ座った。
帯を指先から少し離れた位置へ置く。
真咲は何も言わず、その様子を見守っていた。
一護は深く息を吸い、意識を集中させた。
帯の端へ、微かな感覚が触れる。
少しずつ。
焦らず。
力を込めすぎないように。
すると、帯の端が持ち上がった。
ほんの数センチ。
それでも、指は触れていない。
布はゆっくりと浮き上がり、数秒後に机へ戻った。
「…………」
真咲はしばらく黙っていた。
一護は小さく息を吐いた。
「……最近、できるようになったんだ」
真咲は帯と一護の顔を交互に見た。
「一護……それ、いつから?」
「最初に動いたのは去年くらい。でも、ちゃんとできるようになったのは最近だ」
「そうだったの……」
真咲は少し考え、それから息子の隣へしゃがみ込んだ。
「今の、やってて痛かったりしない?」
「別に。長くやると疲れるけど」
「頭が痛くなったりは?」
一護は少しだけ迷った。
以前、無理に霊力を引き出そうとして頭痛が起きたことはある。
だが、今の方法ではそこまで強い負担はかかっていない。
「前はたまに。でも、最近は大丈夫だ」
真咲はその答えを聞き、少しだけ眉を寄せた。
けれど、叱ることはなかった。
「……そっか」
そう言って、一護の頭へ手を置いた。
「見せてくれてありがとう。一心にも相談して、ちゃんと調べてもらいましょうね」
一護は頷いた。
真咲は穏やかに微笑んだ。
「個性かもしれないもの。今まで分からなかっただけで、少しずつ出てきたのかもしれないわ」
一護は何も言わなかった。
真咲は知らない。
今の力が、前の人生から受け継いだ魂の力に関係していることを。
だが、今ここで説明できることでもなかった。
少なくとも、真咲が心配してくれていることは分かる。
だから、一護は素直に頷いた。
「……分かった」
◇
その日の夜、一護は一心にも力を見せた。
父親は最初こそ驚いていたが、すぐに医者としての顔になった。
無理な使用で身体に異常が起きていないかを確認し、どの程度なら安全に扱えるのかを尋ねてくる。
一護は、今まで分かっていることをできるだけ正確に説明した。
ただし、死神や霊圧については話さなかった。
それを説明するには、あまりにも多くのことを話さなければならない。
今の段階では、自分自身も何をどう伝えればいいのか分からなかった。
一心は息子の話を聞き終えると、腕を組んだ。
「……なるほどな」
それから、真咲へ顔を向ける。
「やっぱり、一度専門のところで診てもらった方がいいな。個性の発現が遅れる例もないわけじゃないが、今までの検査で何も分からなかったとなると、もう少し詳しく調べておきたい」
真咲も頷いた。
「そうね。本人が無理してないかも心配だし」
一護は二人を見た。
「……そんな大袈裟なもんじゃねえと思うけど」
一心は苦笑した。
「何言ってんだ。今までなかった力が使えるようになったんだぞ。そりゃ調べるだろ」
「……まあ、そうだけど」
「それに、お前自身がどこまで安全に使えるか、分かってた方がいいだろ?」
その言葉に、一護は黙った。
確かに、そのとおりだった。
自分の力について、すべてを理解しているわけではない。
前の人生でも、最後まで分からないことは多かった。
まして、今の身体でどう働くのかとなれば、なおさらだ。
「……分かったよ」
一護が頷くと、一心は満足そうに笑った。
「よし。じゃあ、明日からしばらくは無理な実験禁止な」
「……え?」
「検査が終わるまで、だ。いいな?」
一護は少しだけ顔をしかめた。
だが、真咲も同じように頷いている。
どうやら、反論の余地はなさそうだった。
「……分かった」
渋々答えると、一心は笑った。
「よし。いい子だ」
「子供扱いすんな!」
「十一歳は子供だろ!」
一護は言い返そうとしたが、言葉に詰まった。
実際、今の自分は十一歳だった。
真咲がその様子を見て、くすくすと笑っている。
「一護、今日はもう休みなさい。明日も学校でしょう?」
「……ああ」
一護は肩をすくめた。
何だか、妙な気分だった。
前の人生では、周囲の人間に隠れて死神として戦っていた。
家族に知られないように、何度も誤魔化してきた。
だが、今は違う。
少なくとも、自分の力の一端については、両親に話すことができた。
それだけでも、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
◇
検査では、医師たちも一護の能力について明確な答えを出すことができなかった。
物へ触れずに僅かな干渉を起こせる。
それは確かに、個性に似た現象だった。
しかし、何を介して作用しているのか、どの程度の範囲で使えるのかは分からない。
検査で確認できたのは、一護が集中したとき、身近な物が僅かに動くこと。
そして、その際に身体へ大きな異常は見られないものの、長時間の使用では疲労が生じることだった。
医師は、現段階では詳細不明の発動型個性として経過を観察し、成長に応じて再検査することを勧めた。
一心と真咲はその説明を受け、必要な記録や届け出についても相談した。
一護自身は、検査結果に特に驚かなかった。
医師たちが分からないのも無理はない。
そもそも、この世界の医学は死神や霊圧を前提としていないのだから。
ただ、両親が安心してくれたことは嬉しかった。
そして、少なくとも自分が何かを使えるようになったことを、家族へ隠す必要はなくなった。
それは、これからの修行を続けるうえでも大きかった。
◇
十二歳の冬。
道場には、いつもより多くの人が集まっていた。
今日は、年末の交流大会だった。
普段は別の道場で稽古している生徒たちも参加し、それぞれの技術を競う。
もちろん、個性の使用は禁止されている。
一護も、たつきも、そのことはよく理解していた。
大会が始まってから、一護は順調に勝ち進んでいた。
相手の動きをよく見て、無理に攻め込まず、隙を見つけて一本を取る。
以前より身体が大きくなったおかげで、踏み込みの速度も上がっている。
空手を習い始めた頃と比べれば、随分と動けるようになっていた。
そして、決勝。
一護の目の前に立っていたのは、有沢たつきだった。
「……またお前かよ」
一護が呟くと、たつきは楽しそうに笑った。
「何よ。嫌なの?」
「嫌じゃねえけど、よく当たるよな」
「それだけ二人とも勝ってるってことでしょ」
たつきは得意げに胸を張った。
一護は小さく笑った。
確かに、そのとおりだった。
四歳から同じ道場へ通い、何度も組手をしてきた。
互いの癖も、得意な技も、ある程度は分かっている。
それでも、こうして大会で向かい合うと、いつもとは少し違った緊張感があった。
「黒崎、有沢。準備はいいか?」
審判の声が響いた。
二人は向かい合って礼をした。
構えを取る。
「始め!」
たつきが先に動いた。
右の突き。
一護はそれを捌き、すぐに反撃しようとする。
だが、たつきは間合いを外していた。
以前なら追いかけてきたはずの場面で、今は無理に踏み込まない。
一護は少しだけ眉を寄せた。
慎重になっている。
いや、違う。
こちらの動きを待っているのだ。
一護は足を運び、角度を変えた。
たつきの視線が追ってくる。
そこで一護は、軽く突きを見せた。
たつきが反応する。
その瞬間、一護は踏み込んだ。
だが、たつきも同時に動いた。
互いの拳が伸びる。
僅かな差で、一護の拳が先に胴へ届いた。
「一本!」
審判の声が響く。
一護は拳を引き、距離を取った。
たつきは悔しそうに顔をしかめたが、すぐに構え直した。
その後も、攻防が続いた。
一護が攻めれば、たつきは受け流す。
たつきが踏み込めば、一護は角度を変える。
互いに相手の動きを知っているからこそ、簡単には決まらない。
やがて、たつきが一歩下がった。
一護はその動きを見て、追いかけようとした。
その瞬間だった。
たつきが足を止めた。
下がると見せかけた動き。
一護が反応したときには、すでに彼女の身体が前へ戻っていた。
右の突き。
一護は咄嗟に腕を上げた。
だが、僅かに間に合わない。
拳が胴の手前で止まる。
「一本!」
審判の声が響いた。
一護は小さく息を吐いた。
今のは、完全に読まれた。
たつきは拳を引き、真剣な顔でこちらを見ている。
勝負はまだ終わっていない。
二人は再び構えた。
次の攻防は、さらに激しかった。
互いに一歩も譲らない。
何度か技を繰り出しては、間合いを取り直す。
そして、最後の瞬間。
一護はたつきの右肩が動くのを見た。
突きが来る。
そう判断して身体を捌こうとした。
だが、たつきの足が先に動いた。
踏み込みの角度が、いつもと違う。
次の瞬間、彼女の拳が一護の胴の前で止まっていた。
「――一本!」
会場に声が響いた。
一護は動きを止めた。
僅かな沈黙。
それから、審判が勝者を示した。
「勝者、有沢!」
たつきが目を見開いた。
そして、次の瞬間。
「……やった!」
思いきり拳を握りしめた。
一護はその顔を見て、思わず笑った。
負けた。
しかも、最後は完全に技を読まれた。
悔しくないわけがない。
だが、あの一撃は見事だった。
一護はたつきへ向き直り、礼をした。
たつきも慌てて姿勢を正し、礼を返す。
試合が終わると、少女は一護のところへ駆け寄ってきた。
「一護!」
「……何だよ」
「勝った!」
「分かってるって」
「やっと勝った!」
たつきは満面の笑みだった。
一護は少しだけ肩をすくめた。
「……最後のやつ、上手かったな」
そう言うと、たつきは一瞬きょとんとした。
それから、少し照れくさそうに笑った。
「……ありがと」
一護は頷いた。
「次は負けねえけどな」
たつきは嬉しそうに笑った。
「望むところ!」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
◇
大会の帰り道。
一護とたつきは、いつものように並んで歩いていた。
冬の空はすでに暗くなり始めている。
道場の交流大会が終われば、今年の大きな行事もほとんど残っていなかった。
そして、春になれば。
二人は中学生になる。
「……そういや、たつき」
一護が声をかけた。
「ん?」
「中学行っても、空手続けんだろ?」
たつきは当然のように頷いた。
「もちろん。やめる理由ないじゃん」
「そっか」
「一護も続けるでしょ?」
「ああ。できるだけな」
たつきは満足そうに笑った。
小学校を卒業すれば、二人は別の中学校へ通うことになる。
それぞれの家から通う学校が違うため、今までのように毎日顔を合わせることはなくなるだろう。
だが、道場は同じだ。
稽古を続けている限り、会う機会はいくらでもある。
「……何よ、その顔」
たつきが言った。
一護は目を瞬いた。
「どんな顔だよ」
「何か、寂しそう」
「……別に」
「ほんと?」
「ほんとだって」
たつきは少しだけ口元を緩めた。
「まあ、あたしは中学でも一護に勝つつもりだから」
一護は呆れたように笑った。
「……お前、ほんとそればっかだな」
「当たり前じゃん!」
たつきは元気よく答えた。
その声を聞いて、一護も笑った。
学校が別になったところで、こいつとの付き合いが終わるわけではない。
そう思えば、特に心配することもなかった。
◇
春。
井上織姫は、鏡の前に立っていた。
新しい制服の襟を整え、髪を軽く梳かす。
十二歳になった少女は、以前より随分と背が伸びていた。
六歳の頃から大切に使っている花の髪留めは、今も変わらず彼女の髪を飾っている。
「……うん!」
織姫は鏡の中の自分へ頷いた。
「なかなかいい感じ!」
そう言って、少しだけ身体を回してみる。
新しい制服の裾が揺れた。
今日から中学生。
小学校とは違う生活が始まる。
そう思うと、胸が少しだけ高鳴った。
「織姫、準備できたか?」
部屋の外から、兄の昊が声をかけた。
「はーい! もうちょっと!」
織姫は慌てて鞄を持ち上げた。
机の上には、昨夜まで使っていたノートが置かれている。
そこには、盾舜六花の力について、彼女なりに整理したことが書かれていた。
五歳の誕生日に再び六花と出会ってから、七年近くが経っている。
その間、織姫は少しずつ力を取り戻してきた。
最初は、六人の姿を短い時間しか保てなかった。
だが、今では以前よりずっと安定して呼び出せる。
小さな傷を癒やすこともできるようになった。
ただし、前の人生と同じ規模の力を自由に使えるわけではない。
身体はまだ十二歳だ。
無理に力を使えば疲れてしまうし、大きな現象へ干渉しようとすれば、思うようにいかないこともある。
だから、織姫は焦らず練習を続けていた。
兄の昊にも、個性の一部は見せている。
この世界では、彼女の力は特殊な個性として受け止められていた。
昊はそのことを喜び、同時に心配もしていた。
怪我を治せる力があるからといって、無理に使ってはいけない。
まずは自分の身体を大切にすること。
そんなことを、何度も言われていた。
織姫も、その言葉を大切にしていた。
「……よし」
鞄を肩へ掛け、部屋を出る。
居間では、昊が朝食を用意していた。
「おはよう、お兄ちゃん!」
「おはよう。随分と元気だな」
「だって、今日から中学生だよ!」
織姫は嬉しそうに笑った。
昊も微笑み、食卓の椅子を引いてくれた。
「そうだな。新しい友達もできるといいな」
「うん! いっぱい作る!」
そう答えてから、織姫は少し考え込んだ。
「……でも、いっぱいだと名前覚えるの大変かな?」
昊は苦笑した。
「まずは一人ずつ覚えればいいだろ」
「そっか!」
織姫は納得したように頷いた。
食卓には、焼いたパンと卵料理が並んでいた。
いつもと変わらない朝食だった。
けれど、今日は少しだけ特別に感じられる。
新しい制服。
新しい学校。
これから出会う人たち。
どんな毎日になるのか、まだ分からない。
それでも、楽しみだった。
織姫は両手を合わせた。
「いただきます!」
昊も笑い、同じように手を合わせた。
窓の外では、春の陽光が街を照らしていた。
◇
同じ朝。
黒崎家では、朝食を終えた一護が玄関で靴を履いていた。
新しい制服。
まだ少し硬い鞄。
今日から、中学生だった。
「お兄ちゃん!」
遊子が駆け寄ってきた。
八歳になった妹は、以前より随分と背が伸びている。
その後ろから、夏梨も顔を出した。
「一兄、今日から中学?」
「ああ」
「……すごいね」
夏梨は少しだけ感心したような顔をした。
一護は笑い、妹の頭を撫でた。
「お前らも、そのうち行くんだぞ」
「まだ先だもん」
夏梨はそう言って、少しだけ口を尖らせた。
遊子は嬉しそうに笑う。
「お兄ちゃん、頑張ってね!」
「おう。ありがとな」
真咲も玄関へやってきた。
「一護、忘れ物ない?」
「大丈夫」
「お弁当は?」
「入れたって」
「ハンカチは?」
「持ってる」
真咲は少し考え、それから笑った。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
一護は頷いた。
「……行ってきます」
そのとき、奥から一心の声が響いた。
「一護ー! 入学式、父ちゃんも行くからなー!」
一護は思わず顔をしかめた。
「……親父、頼むから静かにしてろよ!」
「何だその言い草は! 息子の晴れ姿を見に行く父親に向かって!」
「だから、騒ぐなって言ってんだよ!」
真咲が笑い、遊子も楽しそうに手を叩いた。
夏梨は少しだけ呆れた顔をしている。
一護は溜息をついた。
まったく。
中学生になっても、この家の騒がしさは変わりそうにない。
それでも、悪い気分ではなかった。
玄関を出ると、春の風が頬を撫でた。
一護は鞄を肩へ掛け直し、歩き始めた。
今日から、新しい学校だ。
小学校とは違う授業。
違う校舎。
違う同級生たち。
知らない顔も、きっと多いだろう。
それでも、一護は特に緊張していなかった。
何が起きるか分からないことには、慣れている。
少なくとも、以前の人生で経験したことに比べれば、中学入学くらいで怖気づくつもりはなかった。
ただ、少しだけ楽しみだった。
新しい場所で、どんな奴らと出会うのか。
どんな毎日が始まるのか。
一護は歩道を進み、学校へ向かった。
道の先には、同じ制服を着た生徒たちが何人も歩いている。
校門の前では、教師たちが新入生を迎えていた。
一護はその中へ混ざり、校舎を見上げた。
まだ見慣れない建物だった。
だが、今日からここへ通う。
そう思うと、少しだけ気持ちが引き締まる。
「……よし」
小さく呟き、一護は校門をくぐった。
春の朝。
新しい一日が、静かに始まった。