『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第9話 それぞれの背中

 

 黒崎一護が中学校へ入学して最初に思ったのは、随分と賑やかな場所だということだった。

 

 入学式を終えたばかりの校舎には、新しい制服を着た生徒たちが溢れていた。教室を探して廊下を行き来する者もいれば、同じ小学校から進学してきた友人と早速話し込んでいる者もいる。

 

 窓の外では桜が散り始めていた。

 

 一護は教室の入口に貼られた座席表を確認し、自分の名前を探した。

 

 黒崎一護。

 

 窓際から二列目、後ろから三番目。

 

 悪くない場所だ。

 

 そう思って教室へ足を踏み入れたところで、聞き覚えのあるような声が耳に入った。

 

「だからさ、入学初日ってのは第一印象が大事なわけよ!」

 

「それはそうだけど、啓吾の場合はもう手遅れじゃない?」

 

「何で!?」

 

 一護の足が止まった。

 

 教室の中央で、男子生徒が二人話していた。

 

 一人は茶色い髪をした、やたらと身振りの大きい少年。もう一人は柔らかな茶髪で、穏やかな顔をしている。

 

 どちらも、見覚えがあった。

 

「……マジかよ」

 

 思わず声が漏れた。

 

 浅野啓吾。

 

 小島水色。

 

 前の人生で知っていた二人と、顔がそっくりだった。

 

 もっとも、驚いている暇はなかった。

 

 騒がしい方が一護に気づき、ぱっと顔を輝かせたからだ。

 

「おおっ! すげえ髪!」

 

 嫌な予感がした。

 

 案の定、少年は一直線に近づいてくる。

 

「なあ、お前! その髪って地毛!?」

 

「……あ?」

 

「いや、めっちゃオレンジじゃん! 染めてんの?」

 

「地毛だよ」

 

「マジで!?」

 

 あまりの大声に、近くにいた生徒が振り返った。

 

 一護は顔をしかめる。

 

「お前、もうちょっと声小さくできねえのか」

 

「えっ、そんなデカかった!?」

 

「十分デケえよ」

 

 その後ろから、もう一人の少年が歩いてきた。

 

「啓吾、初対面の人にいきなり髪の話をするのは失礼だと思うよ」

 

「いや、水色! お前だって気になるだろ!?」

 

「綺麗な色だとは思うけど、それだけかな」

 

 水色と呼ばれた少年は涼しい顔で答えた。

 

 どうやら、名前も同じらしい。

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

 四歳の頃、たつきと出会ったときは本当に驚いた。

 

 だが、あれから八年。

 

 この世界にも以前の知り合いと同じ顔や名前を持つ人間がいることは、もう理解している。

 

 だからといって、入学初日から二人まとめて現れるとは思っていなかったが。

 

「俺、浅野啓吾! こっちは小島水色!」

 

 少年が胸を張った。

 

「よろしくね」

 

 水色も軽く手を上げる。

 

 一護は二人を見た。

 

 こちらを初めて見る目だった。

 

 当たり前だ。

 

 この二人にとって、一護は今日初めて会った同級生なのだから。

 

「……黒崎一護だ」

 

 そう名乗ると、啓吾は嬉しそうに笑った。

 

「一護か! よし、今日から友達な!」

 

「早えよ」

 

「えっ、駄目!?」

 

「まだ名前言っただけだろ」

 

「名前を知るのが友達への第一歩じゃん!」

 

「その先全部飛ばしてんだよ」

 

 啓吾は大袈裟に胸を押さえた。

 

「入学初日からこんな冷たい仕打ちを受けるなんて……!」

 

 水色がくすくすと笑う。

 

「よかったね、啓吾。ちゃんと相手してくれる人が見つかって」

 

「お前も俺の味方じゃねえのかよ!」

 

 一護は額に手を当てた。

 

 どうやら、静かな中学生活は期待できそうになかった。

 

     ◇

 

 井上織姫は、新しい制服の襟を整えながら教室の前に立っていた。

 

 一年一組。

 

 入口に貼られた名簿には、確かに自分の名前がある。

 

 朝から何度も確認したというのに、こうして教室を前にすると、もう一度確かめたくなってしまう。

 

「……よし!」

 

 小さく気合いを入れてから、扉を開けた。

 

「失礼しまーす!」

 

 元気よく挨拶すると、何人かの生徒がこちらを振り返った。

 

 織姫は軽く頭を下げ、自分の席を探そうとした。

 

 そのときだった。

 

 窓際に座る少女が、隣の生徒と話しながら笑った。

 

 短い黒髪。

 

 きりっとした目元。

 

 笑うと少しだけ細くなる目。

 

 織姫の足が止まった。

 

「…………」

 

 胸の奥が、強く跳ねた。

 

 知っている。

 

 その顔を、織姫は知っていた。

 

 何度も一緒に笑った。

 

 学校へ通い、くだらない話をして、時には叱られた。

 

 危ない目に遭ったとき、真っ先に駆けつけてくれたこともあった。

 

 大切な親友だった。

 

「……たつきちゃん?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 少女が振り返る。

 

「ん? あたし?」

 

 その声を聞いた瞬間、織姫は息を呑んだ。

 

 顔だけではない。

 

 声まで、よく似ていた。

 

 けれど、目の前の少女は不思議そうに首を傾げている。

 

 織姫と再会したことを喜ぶ様子はない。

 

 その反応を見て、織姫はゆっくりと息を吐いた。

 

「あっ、ごめんなさい! 知ってる人に似てたから、つい!」

 

「そうなんだ」

 

 少女は気にした様子もなく笑った。

 

「でも、よく分かったね。あたし、有沢たつき」

 

 名前まで同じだった。

 

 織姫は一瞬だけ目を見開いた。

 

 だが、すぐに笑顔を作った。

 

「井上織姫です! よろしくお願いします!」

 

 勢いよく頭を下げると、たつきは少し驚いたあと、笑った。

 

「そんなに畏まらなくていいって。あ、席どこ?」

 

「えっとね……」

 

 織姫が座席表を示すと、たつきは目を丸くした。

 

「隣じゃん!」

 

「えっ?」

 

 確認すると、確かにそうだった。

 

 織姫の席は、たつきの隣。

 

「じゃあ、これからよろしくね。井上」

 

「うん!」

 

 織姫は大きく頷いた。

 

 椅子へ腰を下ろし、鞄から教科書を取り出す。

 

 その途中で、何となく隣へ目を向けた。

 

 たつきは、すでに別の生徒と話していた。

 

 楽しそうな笑顔だった。

 

 その顔を見ていると、懐かしさが込み上げてくる。

 

 けれど、以前の人生で知っていた彼女とは違う。

 

 こちらのたつきには、まだ織姫との思い出がない。

 

 それは、兄の昊と同じだった。

 

 五歳の誕生日に再び六花と出会ってから、織姫は何度も考えたことがある。

 

 自分が知っていた人と同じ顔をしていても、今の人生はその人自身のものなのだ。

 

 だから、以前の記憶を押しつけるつもりはなかった。

 

 ただ。

 

 こうして、もう一度話せることは嬉しかった。

 

「井上?」

 

 隣から声をかけられる。

 

 織姫は顔を上げた。

 

「なあに?」

 

「その髪留め、可愛いね」

 

 たつきが織姫の髪を指さした。

 

 六枚の花びらを持つ、小さな髪飾り。

 

 兄の昊からもらった、大切な贈り物だった。

 

「えへへ。ありがとう!」

 

 織姫は嬉しそうに笑った。

 

「お兄ちゃんがくれたんだ」

 

「そうなんだ。似合ってるよ」

 

 何気ない言葉だった。

 

 それなのに、織姫は少しだけ胸が熱くなった。

 

「……ありがとう、たつきちゃん!」

 

 名前を呼ばれた少女が、目を瞬いた。

 

「えっ、もうちゃん付け?」

 

「あっ、駄目だった?」

 

「いや、別にいいけど」

 

 たつきは少し照れくさそうに笑った。

 

「じゃあ、あたしも織姫って呼んでいい?」

 

「もちろん!」

 

 二人は顔を見合わせ、笑った。

 

 窓の向こうでは、春の風が桜の花びらを運んでいた。

 

     ◇

 

 織姫の弁当が、たつきに初めて警戒されたのは、入学から二週間ほど経った日のことだった。

 

「……織姫、それ何?」

 

 昼休み。

 

 織姫が弁当箱の蓋を開けると、隣にいたたつきが妙な顔をした。

 

 中には、色鮮やかなおかずが並んでいる。

 

 卵焼き。

 

 野菜の和え物。

 

 小さなハンバーグ。

 

 そして、その隣に。

 

「チーズ梅干し巻き!」

 

 織姫が得意げに答えた。

 

 たつきは箸を持ったまま固まった。

 

「……何巻き?」

 

「チーズ梅干し巻き!」

 

「聞こえてる。何でその二つを一緒にしたの?」

 

「おいしいかもしれないから!」

 

 あまりにも迷いのない返事だった。

 

 たつきはしばらく織姫を見つめたあと、頭を抱えた。

 

「……織姫って、たまに変なこと考えるよね」

 

「ええっ!? そうかな!?」

 

「うん。結構」

 

 織姫は少しだけ頬を膨らませた。

 

 その様子が可笑しかったのか、たつきは吹き出した。

 

「じゃあ、一口だけもらっていい?」

 

「もちろん!」

 

 織姫は嬉しそうにおかずを差し出した。

 

 たつきは少し警戒しながら口へ運ぶ。

 

 噛む。

 

 眉が寄る。

 

 それから、もう一度噛んだ。

 

「……どう?」

 

 織姫が期待に満ちた目で見つめる。

 

 たつきはゆっくり飲み込んだ。

 

「……不思議な味」

 

「ええっ!?」

 

「まずくはないんだけど、何でこうなったのか分かんない!」

 

 織姫は声を上げて笑った。

 

 たつきもつられて笑う。

 

 それを見た近くの女子が興味を持ち、弁当箱を覗き込んできた。

 

 織姫は嬉しくなり、早速今日のおかずの説明を始める。

 

 そのうち話題は料理から好きな食べ物へ移り、さらに休日の過ごし方へと広がっていった。

 

 たつきは空手を習っているらしい。

 

 四歳から続けているという。

 

「えっ、そんなに長く!?」

 

 織姫が驚くと、たつきは得意げに笑った。

 

「まあね。最近は大会にも出てるよ」

 

「すごい! 格好いい!」

 

「……そこまで大したことじゃないって」

 

「だって、ずっと続けてるんでしょ? すごいよ!」

 

 織姫が真剣に言うと、たつきは少し照れくさそうに顔を逸らした。

 

「……ありがと」

 

 その様子が妙に懐かしくて、織姫はまた笑った。

 

「何?」

 

「ううん! 何でもない!」

 

 たつきが不思議そうに首を傾げる。

 

 織姫は急いで弁当箱へ視線を戻した。

 

 それから、二人で昼食を取ることが増えた。

 

 たつきの空手の話を聞く代わりに、織姫は勉強で分からないところを教えることもあった。

 

 放課後、たつきが道場へ急ぐ日には、校門まで一緒に歩く。

 

 何か特別な約束をしたわけではなかった。

 

 それでも、気づけば隣にいる。

 

 そんな関係になっていた。

 

     ◇

 

「それじゃあ、次の班は前へ出て」

 

 体育館に教師の声が響いた。

 

 五月の半ば。

 

 一護たちの学校では、外部の医療関係者を招いた応急手当の講習が行われていた。

 

 床には練習用の人形や包帯が並べられ、生徒たちが班ごとに実習している。

 

 一護の班が取り組んでいたのは、三角巾を使った腕の固定だった。

 

「黒崎、そっち押さえてくれ」

 

「おう」

 

 同じ班の男子に頼まれ、一護は布の端を持った。

 

 教えられたとおりに三角巾を通し、腕を支える。

 

 何とか形になったところで、背後から声がした。

 

「肘の位置が少し低い」

 

 一護は振り返った。

 

 そこに立っていた少年を見た瞬間、思わず目を見開いた。

 

 整った黒髪。

 

 眼鏡の奥にある、鋭く真面目そうな目。

 

 姿勢のよさも、どことなく他人と距離を置く雰囲気も、よく覚えている。

 

 石田雨竜。

 

 まだ名乗られていない。

 

 それでも、一護にはその顔が誰に似ているのか、すぐに分かった。

 

 少年はそんな反応には気づかなかったらしい。

 

 三角巾を指さし、説明を続けた。

 

「この固定方法なら、肘をもう少し上げた方がいい。手首だけ支えても、腕全体が安定しないから」

 

 一護は言われた場所を確認した。

 

 確かに、少し下がっている。

 

「……なるほどな」

 

 位置を直すと、先ほどより安定した。

 

 少年は頷いた。

 

「それでいいと思う」

 

「ありがとな。お前、詳しいんだな」

 

「父が医者だから、少し知っているだけだ」

 

 落ち着いた返事だった。

 

 近くにいた教師が声をかける。

 

「石田、そっちの班は確認できたか?」

 

「はい。終わっています」

 

 一護は内心で小さく息を吐いた。

 

 やっぱり石田か。

 

 ただ、相手は一護のことを知らない。

 

 こちらから名前を名乗った方がいいだろう。

 

「俺、黒崎一護。隣のクラスか?」

 

 少年は頷いた。

 

「石田雨竜。そうだ」

 

「よろしくな、石田」

 

 一護が手を差し出すと、雨竜は少しだけ目を瞬いた。

 

 それから、静かに握り返した。

 

「ああ。よろしく、黒崎」

 

「石田、お前も医者になるつもりなのか?」

 

 一護が何気なく尋ねると、雨竜は頷いた。

 

「ああ。将来は医学部へ進むつもりだ」

 

「もう決めてんのか」

 

「目標を決めるのに、早すぎることはないだろう」

 

 当然のような返事だった。

 

 一護は少し笑った。

 

「……そうだな」

 

 雨竜はもう一度固定の状態を確かめてから、用具の置かれた台へ戻っていった。

 

 その背中を見送り、一護は自分の手元へ視線を戻す。

 

 以前の人生でも、石田は器用な男だった。

 

 裁縫が得意で、細かな作業には妙なこだわりを見せていた。

 

 この世界でも、そういうところは変わらないらしい。

 

 そんなことを考えていると、体育館の反対側から絶叫が聞こえた。

 

「一護ぉぉ! 助けてくれぇぇ!」

 

 啓吾だった。

 

 見ると、両腕を三角巾で吊られたまま、妙な格好で立っている。

 

 隣では水色が涼しい顔で道具を片づけていた。

 

「水色がほどいてくれねえんだよ!」

 

「先生の確認が終わってないからね」

 

「もう十分だろ! 俺、ずっとこのままなんだけど!」

 

 一護は額に手を当てた。

 

「……何やってんだ、あいつ」

 

 雨竜もそちらへ目を向け、眉を寄せる。

 

「……騒がしいな」

 

「ああ。いつもあんな感じだ」

 

「よく付き合っていられるものだ」

 

「慣れりゃそうでもねえよ」

 

 一護が肩をすくめると、雨竜は少しだけ呆れたように息を吐いた。

 

 だが、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。

 

     ◇

 

 六月に入って間もない朝、一護たちのクラスへ転校生がやってきた。

 

 担任に呼ばれ、教室の扉が開く。

 

 入ってきた少年を見て、あちこちから小さな声が漏れた。

 

「……でっか」

 

 啓吾が思わず呟いた。

 

 その感想に、一護も異論はなかった。

 

 転校生は、同じ一年生とは思えないほど大柄だった。

 

 広い肩。

 

 長い手足。

 

 浅黒い肌。

 

 長めの髪が額にかかり、表情はどことなく寡黙だった。

 

 そして、胸元には古びた硬貨を通した紐が下がっている。

 

 一護はその姿を見た瞬間、背筋を伸ばした。

 

 チャド。

 

 以前の人生で、何度も背中を預けた男だった。

 

 あの大きな身体も、静かな目も、見間違えようがない。

 

 少年は黒板の前へ立つと、短く名乗った。

 

「……茶渡泰虎です。よろしくお願いします」

 

 一護はゆっくりと息を吐いた。

 

 やはり、名前まで同じだった。

 

 担任が席を指し示す。

 

 偶然にも、一護の斜め前だった。

 

 茶渡は少し窮屈そうに椅子へ腰を下ろした。

 

 休み時間になり、一護は前の席へ声をかけた。

 

「茶渡」

 

 大柄な少年が振り返る。

 

「……何だ?」

 

「教科書、全部揃ってるか? 転校してきたばっかだろ」

 

 茶渡は少し考えたあと、首を横へ振った。

 

「……何冊か、まだ届いていない」

 

「なら、届くまで俺の見ていいぞ。席近えし」

 

「……いいのか」

 

「別に減るもんじゃねえだろ」

 

 一護は肩をすくめた。

 

 茶渡は静かに頭を下げる。

 

「……ありがとう」

 

 一護は少しだけ笑った。

 

 それから、何となく口にする。

 

「そういや、お前のことチャドって呼んでもいいか?」

 

 茶渡が首を傾げた。

 

「……チャド?」

 

「ああ。茶渡って名前、何となくそう呼びたくなってさ」

 

 少々苦しい説明だったが、茶渡は気にしなかったらしい。

 

 しばらく考えてから、僅かに口元を緩めた。

 

「……構わない」

 

「そっか。じゃあよろしくな、チャド」

 

「ああ。よろしく、黒崎」

 

 その返事を聞いて、一護は頷いた。

 

 そして、茶渡が転校してきたことで、教室の昼休みは少し賑やかになった。

 

 正確には、啓吾がさらに騒がしくなった。

 

「なあチャド! お前、何食ったらそんなデカくなるんだ!?」

 

「……普通に食べている」

 

「普通って何!? 米十杯とか!?」

 

「……そんなには食べない」

 

「じゃあ牛乳!? 牛乳なのか!?」

 

 茶渡が返答に困っているのを見て、一護は横から口を挟んだ。

 

「啓吾。お前、少し静かにしろ」

 

「俺はただ仲良くなろうとしてるだけだろ!」

 

「質問攻めにしてどうすんだよ」

 

 水色が隣で笑っている。

 

「啓吾なりの歓迎なんだよ。ちょっと騒がしいけど」

 

 茶渡は三人を見回した。

 

 それから、僅かに笑った。

 

「……賑やかだな」

 

「だろ?」

 

 一護が答えると、啓吾が嬉しそうに頷いた。

 

「そう! 俺たちのクラスは賑やかなのが売りだからな!」

 

「お前が一人で騒がしくしてるだけだろ」

 

「一護ぉ!」

 

 その騒ぎを横で聞いていた茶渡が、静かに笑った。

 

 転校してきたばかりの頃に比べれば、少しずつ表情が柔らかくなってきている。

 

 昼休みに一緒に食事をすることも増えた。

 

 教科書が届いてからも、一護のところへ分からないことを聞きに来ることがあった。

 

 そして、ある日の放課後。

 

 一護は茶渡の個性について知ることになった。

 

 きっかけは、学校で実施された個性特性の確認授業だった。

 

 専門の指導員が立ち会い、生徒たちが自分の個性の特徴や注意点を学ぶ授業である。

 

 無闇に能力を使用することは許されておらず、危険性のある個性については使用を控え、資料や既存の検査結果をもとに説明することになっていた。

 

 茶渡の個性は『装甲皮膚』。

 

 皮膚や筋肉の一部を硬質化させ、強固な装甲を形成する能力だった。

 

 今の茶渡が安定して使えるのは、主に右腕だけらしい。

 

 腕の表面が黒い装甲のように変化し、通常の皮膚とは比較にならないほどの硬さを持つという。

 

 ただし、使用中は腕が重くなり、長時間維持すれば疲労も大きい。

 

 成長によって変化の範囲が広がる可能性はあるが、まだ詳しいことは分かっていなかった。

 

 一護は説明を聞きながら、少しだけ目を細めた。

 

 右腕の装甲。

 

 以前の人生で、チャドが使っていた力によく似ている。

 

 だが、今の茶渡には霊圧の気配がない。

 

 あくまで、この世界で生まれつき持っている個性だった。

 

 それでも、強力な能力であることに変わりはない。

 

 授業が終わったあと、一護は茶渡へ声をかけた。

 

「お前の個性、かなり頑丈そうだな」

 

 茶渡は少しだけ自分の右腕を見た。

 

「……ああ」

 

「使いこなすの、大変か?」

 

「……昔は、よく失敗した」

 

 短い返事だった。

 

 一護はそれ以上、無理に聞かなかった。

 

 茶渡は自分の腕を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 

 その表情が少しだけ暗かったことを、一護は覚えていた。

 

     ◇

 

 その出来事が起きたのは、六月の終わりだった。

 

 梅雨の雨が一時的に上がった放課後。

 

 一護は忘れ物を取りに教室へ戻った帰り、校舎の裏手から話し声が聞こえてくるのに気づいた。

 

「だから、ちょっと見せろって言ってんだろ」

 

 知らない男子の声だった。

 

 一護は足を止めた。

 

 角を曲がった先に、三人の男子生徒がいた。

 

 制服の様子からすると、上級生らしい。

 

 その正面に立っているのは、茶渡だった。

 

「……断る」

 

 低い声が響いた。

 

 上級生の一人が顔をしかめた。

 

「別に取るなんて言ってねえだろ。ちょっと見せろってだけだよ」

 

 茶渡は動かなかった。

 

 胸元に下がっている硬貨を、片手で押さえている。

 

 一護は事情を察した。

 

 祖父から受け継いだ硬貨。

 

 以前の人生でも、チャドが大切にしていたものだった。

 

 こちらの世界でも、どうやら同じらしい。

 

「お前さ、身体デカいからって調子乗ってんじゃねえの?」

 

 上級生の一人が茶渡の肩を押した。

 

 茶渡は動かなかった。

 

 ただ、静かに相手を見ている。

 

「……やめてくれ」

 

「だったら、その硬貨見せろよ」

 

 別の男子が手を伸ばした。

 

 茶渡は僅かに身を引く。

 

 だが、相手はしつこく近づいてきた。

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

「……おい」

 

 声をかけながら、角を曲がる。

 

 三人が振り返った。

 

「何だ、お前」

 

「そいつ嫌がってんだろ。やめろよ」

 

 一護は茶渡の隣へ立った。

 

 上級生が眉を寄せる。

 

「関係ねえ奴は引っ込んでろよ」

 

「同じクラスなんだよ。関係なくねえだろ」

 

 一護は動じずに答えた。

 

 茶渡が僅かに顔を向ける。

 

「……黒崎」

 

「大丈夫か?」

 

「……ああ」

 

 一護はその返事を聞き、上級生たちへ向き直った。

 

「もう帰れよ。こっちも帰るから」

 

 だが、相手は引かなかった。

 

 むしろ、一護の態度が気に入らなかったらしい。

 

「何だよ、その言い方」

 

 一人が近づいてきた。

 

 肩を掴もうと手が伸びる。

 

 一護はその動きを見て、半歩だけ身体を引いた。

 

 伸びてきた手が空を切る。

 

 相手は少し驚いたようだった。

 

「……っ、この!」

 

 再び手が伸びる。

 

 一護はその腕を受け流し、距離を取った。

 

 反撃するつもりはなかった。

 

 ここで殴り合いを始めれば、余計に面倒なことになる。

 

 相手はまだ個性を使っていない。

 

 自分から危険を大きくする理由はなかった。

 

「……やめとけって」

 

 一護が低い声で言った。

 

 そのとき、別の上級生が茶渡の胸元へ手を伸ばした。

 

 硬貨の紐を掴む。

 

「……っ!」

 

 茶渡の表情が変わった。

 

 大きな手が伸び、相手の手首を掴む。

 

 その力に、上級生が顔を歪めた。

 

「痛っ……!」

 

 茶渡はすぐに手を離した。

 

 硬貨を守るために反射的に動いたのだろう。

 

 だが、そのあと拳を握りかけたところで、ぴたりと止まった。

 

 一護はその様子を見た。

 

 茶渡は、自分の拳を見つめていた。

 

 殴ろうと思えば、簡単に殴れる。

 

 体格だけでも、相手よりずっと大きい。

 

 まして、茶渡には強力な個性がある。

 

 それでも、彼は動かなかった。

 

「……何だよ。やる気か?」

 

 上級生が強がるように言った。

 

 茶渡は静かに首を振った。

 

「……殴るつもりはない」

 

 その返事に、上級生たちは顔を見合わせた。

 

 一護は茶渡の横顔を見つめていた。

 

 その言葉の意味を、何となく理解していた。

 

 だが、相手は違った。

 

「だったら最初から大人しく――」

 

「そこまで!」

 

 鋭い声が響いた。

 

 上級生たちが振り返る。

 

 校舎の角から、教師が二人現れた。

 

 その後ろには、啓吾がいた。

 

「先生! こっちです!」

 

 さらに、その少し後ろから水色も姿を見せた。

 

 教師は状況を確認すると、上級生たちへ厳しい視線を向けた。

 

「何をしている。全員、その場から動くな」

 

 空気が一変した。

 

 上級生たちは何か言い訳を始めたが、教師はまず全員を離れた位置へ移動させた。

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

 どうやら、これ以上揉めることはなさそうだった。

 

 茶渡はまだ硬貨を握っていた。

 

 指先に力が入っている。

 

 一護はその手を見て、静かに声をかけた。

 

「……無事か、それ」

 

 茶渡はゆっくりと手を開いた。

 

 古びた硬貨が、掌の中にあった。

 

 少し傷はついているが、壊れてはいない。

 

「……ああ」

 

 茶渡は短く答えた。

 

 その声には、僅かな安堵が混じっていた。

 

     ◇

 

 事情を聞かれたあと、一護たちは保健室へ向かった。

 

 上級生たちが何をしていたのかは、水色が教師へ詳しく説明してくれた。

 

 彼は偶然、校舎の窓から上級生たちが茶渡を囲んでいるところを見ていたらしい。

 

 その様子がおかしいと感じ、近くにいた啓吾へ教師を呼ぶよう頼んだという。

 

「一護が先に行くの見えたから、ちょっと焦ったよ」

 

 水色は廊下を歩きながら言った。

 

 一護は頭を掻いた。

 

「……まあ、放っとくわけにもいかなかったしな」

 

「うん。でも、あの三人が何してたか分かってた方が、先生も動きやすいでしょ」

 

「そりゃそうだけど」

 

「だから、見えたことはちゃんと伝えといたよ」

 

 水色は穏やかに笑った。

 

 その隣で啓吾が胸を張る。

 

「そして俺が先生を呼んできた! どうだ、完璧な連携だろ!」

 

「お前、廊下で転びかけてたけどな」

 

「そこは言わなくていいだろ!」

 

 一護が笑うと、茶渡も僅かに口元を緩めた。

 

 保健室へ着くと、ちょうど当番の生徒が手伝いをしていた。

 

 眼鏡をかけた少年。

 

 石田雨竜だった。

 

「……黒崎?」

 

 雨竜は一護たちを見て、少しだけ眉を寄せた。

 

「何があったんだ?」

 

「ちょっと揉め事。大した怪我はねえと思うけど」

 

 一護が答えると、雨竜はまず養護教諭へ声をかけた。

 

 事情を伝え、処置が必要か確認してもらう。

 

 茶渡の手には、金網に擦れた際にできたらしい小さな擦り傷があった。

 

 養護教諭が傷を洗い、状態を確認する。

 

 雨竜はその横で、必要なガーゼや包帯を用意していた。

 

 一護は少し感心した。

 

「お前、こういうのよく手伝ってんのか?」

 

「保健委員だからな。できる範囲のことだけだけど」

 

 雨竜は手元の道具を整えながら答えた。

 

「……それより黒崎。君も怪我してないのか?」

 

「俺は平気」

 

「本当だろうな」

 

「何で疑うんだよ」

 

「無理をして隠す人間もいるからだ」

 

 言い方は少し厳しかったが、心配しているらしい。

 

 一護は小さく笑った。

 

「……大丈夫だって」

 

 雨竜はしばらく一護を見ていたが、やがて頷いた。

 

 茶渡の処置が終わる頃には、保健室の空気もすっかり落ち着いていた。

 

 啓吾が空いている椅子へ腰を下ろし、大きく息を吐く。

 

「いやー、しかしチャドって本当に強そうだよな」

 

 茶渡は少しだけ顔を向けた。

 

 啓吾は続ける。

 

「さっきの先輩たち、チャドが本気出したら絶対勝てなかっただろ」

 

「……啓吾」

 

 水色が静かに呼んだ。

 

 啓吾は口を閉じた。

 

 茶渡は自分の手を見下ろしていた。

 

 包帯が巻かれた、大きな手。

 

 その指が、ゆっくりと握られる。

 

「……俺は」

 

 低い声がした。

 

 全員が顔を向ける。

 

 茶渡は少し間を置いてから、言葉を続けた。

 

「……自分のために、人を殴りたくない」

 

 一護は黙って聞いていた。

 

 茶渡は胸元の硬貨へ手を添えた。

 

「昔、力が強いからって、何度も人を傷つけた。……じいちゃんに、それは間違ってるって教えられたんだ」

 

 その声は静かだった。

 

 だが、言葉には迷いがなかった。

 

 啓吾も水色も、何も言わなかった。

 

 茶渡は続ける。

 

「……だから、もうやらないって決めた」

 

 一護はその横顔を見つめていた。

 

 祖父から受け継いだ教え。

 

 拳の使い方。

 

 以前の人生でも、チャドはそれを大切にしていた。

 

 こちらの世界でも、彼は同じような道を歩いてきたらしい。

 

 ただし、今の彼には個性がある。

 

 皮膚を硬い装甲へ変化させ、強力な拳を作り出す力。

 

 大柄な身体と相まって、他人を傷つけようと思えば簡単にできてしまう。

 

 だからこそ、茶渡は自分の力を怖がっているのかもしれなかった。

 

 一護は少し考え、口を開いた。

 

「……別に、殴らなくてもいいんじゃねえの」

 

 茶渡が顔を上げた。

 

 一護はそのまま続ける。

 

「お前がそう決めたんなら、それでいいだろ。ただ、今日みたいに大事な物取られそうになったら、誰か呼ぶくらいはしろよ」

 

 茶渡は黙っていた。

 

「一人で何でも我慢することねえんだよ。俺らだっているんだからさ」

 

 一護は肩をすくめた。

 

「俺が困ってるときは、お前に助けてもらうこともあるかもしれねえし」

 

 茶渡はゆっくりと目を見開いた。

 

 それから、視線を落とす。

 

「……俺が?」

 

「ああ。お前、力あるんだろ。だったら、誰かを護るために使えばいいじゃねえか」

 

 一護は笑った。

 

「殴らずに助ける方法だって、いくらでもあるだろ」

 

 茶渡はしばらく黙っていた。

 

 やがて、大きな手を握り直した。

 

「……そうだな」

 

 短い返事だった。

 

 だが、その表情は先ほどより少しだけ柔らかくなっていた。

 

 そして、胸元の硬貨へ一度だけ目を落としてから、顔を上げる。

 

「……ありがとう、一護」

 

 一護は笑い返した。

 

「おう」

 

 そのとき、啓吾が勢いよく立ち上がった。

 

「そうだぞチャド! 俺たち友達だろ!」

 

 一護は顔を向けた。

 

「……お前、また勝手に決めてんな」

 

「いいだろ別に! チャドも嫌じゃないだろ!?」

 

 茶渡は少し驚いた顔になった。

 

 それから、僅かに笑った。

 

「……嫌じゃない」

 

「ほらー!」

 

 啓吾が勝ち誇ったように笑う。

 

 水色は肩をすくめた。

 

「まあ、啓吾がいると静かな時間は減ると思うけどね」

 

「水色ぉ!?」

 

 保健室に笑い声が広がった。

 

 雨竜はその様子を見ながら、少し呆れたように息を吐いた。

 

「……君たちは本当に騒がしいな」

 

 一護は笑った。

 

「そう言いながら、お前もずっとここにいるじゃねえか」

 

「僕は当番だからだ」

 

「はいはい」

 

「……黒崎、君は人の話を聞いてるのか?」

 

 そのやり取りを聞いて、茶渡が静かに笑った。

 

     ◇

 

 夏休みが近づく頃には、教室の雰囲気も随分と変わっていた。

 

 最初は何となく遠慮がちだった生徒たちも、今ではすっかり打ち解けている。

 

 ただし、期末試験の結果が返ってきた日だけは別だった。

 

「終わった……!」

 

 啓吾が机へ突っ伏した。

 

 手には、赤い数字が書かれた答案用紙を握りしめている。

 

 一護は隣からそれを見た。

 

「……何点だったんだよ」

 

「聞くな……!」

 

「じゃあ見せんなよ」

 

「見せてねえだろ!」

 

 啓吾が顔を上げる。

 

 水色はその横で、淡々と答案を整理していた。

 

「啓吾、前日に勉強し始めた時点で、ある程度予想できたでしょ」

 

「でも、俺だって頑張ったんだぞ!」

 

「うん。三時間くらい」

 

「三時間もだろ!?」

 

 一護は思わず笑った。

 

 そのとき、教室の入口から雨竜が顔を出した。

 

「黒崎」

 

 一護は顔を上げる。

 

「おう、石田。何だ?」

 

「この前借りた参考書、返しに来た」

 

 雨竜は一冊の本を差し出した。

 

 一護は受け取り、鞄へしまう。

 

「もう読み終わったのか?」

 

「ああ。助かった」

 

 雨竜はそう答え、少しだけ目を細めた。

 

「それと、期末の数学。君、最後の問題は解けたか?」

 

 一護は少し考えた。

 

「……ああ。時間ぎりぎりだったけど」

 

「そうか」

 

 雨竜は僅かに口元を緩めた。

 

「僕は別の解き方をした。今度、答え合わせをしないか」

 

 一護は肩をすくめた。

 

「別にいいけど。お前、ほんと勉強好きだな」

 

「好きというより、必要だと思ってるだけだ」

 

 雨竜は真面目な顔で答えた。

 

 その隣から、水色が口を挟む。

 

「石田君、医学部志望なんだっけ」

 

「ああ」

 

「じゃあ、勉強は大事だよね」

 

 雨竜は頷いた。

 

 そのとき、啓吾が勢いよく立ち上がった。

 

「ちょっと待ってくれ! 何でみんなそんな余裕なんだよ!?」

 

 一護は呆れた顔になった。

 

「お前が勉強してねえからだろ」

 

「一護までぇ!」

 

 教室に笑い声が広がった。

 

 少し離れた席では、茶渡が静かに本を読んでいた。

 

 だが、啓吾が大騒ぎしているのを見て、僅かに笑っている。

 

「……おい、一護!」

 

 啓吾が声を上げた。

 

 一護は顔を向ける。

 

「何だよ」

 

「夏休み、みんなでどっか行こうぜ!」

 

 その言葉に、水色が顔を上げた。

 

「いいね。海とか?」

 

「海!」

 

 啓吾の目が輝いた。

 

「そうだ、海だ! 夏といえば海! そして海といえば――」

 

「……お前、ろくなこと考えてねえだろ」

 

 一護が言うと、啓吾は大袈裟に肩を落とした。

 

「まだ何も言ってないじゃん!」

 

「顔に書いてあんだよ」

 

 水色がくすくす笑う。

 

 雨竜は少し考えてから、口を開いた。

 

「僕は夏休みも勉強がある。日程によるな」

 

「石田! 少しは青春を楽しめよ!」

 

「勉強と遊びは両立できるだろう」

 

「正論で返すなー!」

 

 啓吾の声に、周囲の生徒たちが笑った。

 

 その隣で、茶渡が静かに口を開いた。

 

「……俺も、行きたい」

 

 全員が顔を向けた。

 

 茶渡は少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。

 

「……海、久しぶりだから」

 

 一護は笑った。

 

「じゃあ決まりだな。日程はあとで決めようぜ」

 

 水色が頷く。

 

「うん。みんなの予定、聞いておくよ」

 

 啓吾は両手を上げて喜んだ。

 

 雨竜は少し呆れた顔をしていたが、断るつもりはないらしかった。

 

 茶渡も、小さく笑っている。

 

 教室の窓から、夏の日差しが差し込んでいた。

 

     ◇

 

 夏休みが終わる頃、一護は道場でたつきと組手をしていた。

 

 互いに個性は使わない。

 

 普段どおりの空手だった。

 

 だが、たつきは以前より一段と動きが鋭くなっている。

 

 踏み込みの速度も、間合いの取り方も、随分と洗練されていた。

 

 一護が右へ動けば、たつきはすぐに反応する。

 

 こちらが攻め込もうとすれば、上手く距離を取る。

 

 何度も組手をしてきた相手だけに、互いの癖もよく分かっている。

 

 そして、そのことがかえって難しかった。

 

「……っ!」

 

 たつきの突きが伸びる。

 

 一護は咄嗟に捌き、反撃しようとした。

 

 だが、たつきはすでに間合いを外していた。

 

「そこまで!」

 

 師範の声が響く。

 

 二人は構えを解いた。

 

 たつきが大きく息を吐く。

 

「……はあ。やっぱ一護、強いなあ」

 

 一護は少しだけ笑った。

 

「お前もな。さっきの最後のやつ、危なかったぞ」

 

「でしょ!」

 

 たつきは嬉しそうに笑った。

 

 そのあと、二人は道場の端へ座り、水筒を取り出した。

 

 窓からは、夕方の風が吹き込んでいる。

 

「そういえば一護」

 

 たつきが何気なく口を開いた。

 

「中学、どう?」

 

 一護は水筒を下ろした。

 

「……まあ、悪くねえよ」

 

「友達できた?」

 

「できたけど、やたら騒がしい奴がいてな」

 

 啓吾の顔が浮かんだ。

 

 たつきは楽しそうに笑った。

 

「へえ。一護がそう言うくらいなら、相当だね」

 

「……まあな」

 

 一護は肩をすくめた。

 

「お前はどうなんだよ」

 

「あたし?」

 

 たつきは少し考えた。

 

「うん。楽しいよ。最近、仲いい子もできたし」

 

「へえ」

 

「ちょっと変わってるんだけど、すごくいい子なんだよね」

 

 たつきは笑った。

 

「料理の組み合わせが妙だったり、急に変なこと言い出したりするんだけどさ。勉強もできるし、優しいし」

 

 一護は少し笑った。

 

「お前、そういう奴と仲良くなりそうだもんな」

 

「何それ」

 

「いや、何となく」

 

 たつきはむっとした顔になった。

 

 だが、すぐに笑った。

 

「まあ、今度紹介できたらいいけどね」

 

 一護は軽く頷いた。

 

「おう」

 

 師範が次の稽古の準備を始めたため、二人は水筒を片づけ、畳へ戻っていった。

 

     ◇

 

 九月。

 

 織姫の誕生日には、昊が小さなケーキを用意してくれた。

 

 十三歳。

 

 以前の人生では、兄と一緒に祝えなかった年齢だった。

 

 だが、今は違う。

 

 目の前には、兄がいる。

 

 そして、今年はもう一人。

 

「織姫、お誕生日おめでとう!」

 

 たつきが笑いながら、小さな包みを差し出した。

 

 中には、柔らかな色合いのハンカチが入っていた。

 

「わあ……!」

 

 織姫は目を輝かせた。

 

「ありがとう、たつきちゃん!」

 

「そんな大したものじゃないけど。使ってくれたら嬉しいな」

 

「使う! 大事に使う!」

 

 織姫は嬉しそうにハンカチを胸へ抱いた。

 

 その様子を見て、昊が笑った。

 

「たつきちゃん、今日は来てくれてありがとう。織姫がずっと楽しみにしてたんだ」

 

「いえ、こちらこそ。呼んでもらえて嬉しいです」

 

 たつきは少し照れくさそうに頭を下げた。

 

 食卓には、まだケーキが少し残っていた。

 

「そういえば、たつきちゃん」

 

 織姫が顔を上げた。

 

「今度の空手の大会、いつだっけ?」

 

「来月の終わり。まだ少し先だけどね」

 

「見に行ってもいい?」

 

 たつきは少し驚いた顔をした。

 

「えっ、来るの?」

 

「うん! たつきちゃんが試合してるところ、ちゃんと見たい!」

 

 たつきは少しだけ考えた。

 

 それから、照れくさそうに笑う。

 

「……いいけど、あんまり大声で応援しないでよ」

 

「ええっ!? 駄目なの!?」

 

「いや、駄目じゃないけど……」

 

 たつきは困ったように笑った。

 

「何か、恥ずかしいじゃん」

 

 その言葉に、織姫は真剣な顔で頷いた。

 

「分かった! じゃあ、心の中で全力応援する!」

 

「……それはそれで、すごそうだね」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 昊もその様子を見て、楽しそうに笑っている。

 

 織姫はもらったハンカチを丁寧に畳み、鞄へしまった。

 

     ◇

 

 誕生日から数日後、学校帰りの道で、たつきが何気なく口を開いた。

 

「そういえばさ、うちの道場にすっごい負けず嫌いな奴がいて」

 

 織姫は顔を上げた。

 

「たつきちゃんのお友達?」

 

「うん。四歳から一緒に練習してる幼馴染なんだけど、何かと張り合ってくるんだよね」

 

「へえ! 長い付き合いなんだね!」

 

「そう。あたしも何度も組手してるけど、なかなか勝てなくてさ」

 

 たつきは少し悔しそうな顔をした。

 

 織姫は興味深そうに頷く。

 

「たつきちゃんが勝てないなんて、すごい人なんだね!」

 

「……まあ、強いのは認めるけど」

 

 たつきは少しだけ口元を緩めた。

 

「最近は結構いい勝負できるようになってきたし、次こそ勝つつもり」

 

「頑張ってね!」

 

「もちろん!」

 

 たつきは元気よく答えた。

 

 その横顔には、長く競い合ってきた相手への親しみが浮かんでいる。

 

 織姫はそんな友達がいることを、少し羨ましく思った。

 

「その子、何ていう名前なの?」

 

 何気なく尋ねた。

 

 たつきも、何気なく答えた。

 

「黒崎一護」

 

 織姫の足が止まった。

 

「……え?」

 

 たつきが振り返る。

 

「どうしたの?」

 

 織姫は目を見開いたまま、しばらく動けなかった。

 

 黒崎。

 

 一護。

 

 その名前を、聞き間違えるはずがなかった。

 

 前の人生で、何度も呼んだ名前だった。

 

「……織姫?」

 

 たつきが少し心配そうに顔を覗き込む。

 

 織姫は慌てて笑った。

 

「あっ、ごめん! ちょっとびっくりしちゃって!」

 

「何に?」

 

「えっと……知ってる人と、同じ名前だったから!」

 

 咄嗟にそう答えた。

 

 完全な嘘ではなかった。

 

 確かに、知っている人の名前だった。

 

 ただし、その人は今、この世界にはいないはずだった。

 

 少なくとも、織姫はそう思っていた。

 

 あのとき、自分は黒崎一護を救うために、すべてを懸けた。

 

 そして、気がつけばこの世界で生まれ変わっていた。

 

 だから、以前の世界の黒崎一護は、きっと生きている。

 

 そのはずだった。

 

 目の前のたつきも、以前の人生で知っていた彼女によく似ている。

 

 兄の昊もそうだった。

 

 けれど、二人とも前世の記憶は持っていない。

 

 名前と顔が同じでも、別の人生を送っている。

 

 ならば、黒崎一護という少年がこの世界にいても、不思議ではないのかもしれなかった。

 

「……その子、どんな人なの?」

 

 織姫が尋ねると、たつきは腕を組んだ。

 

「どんな奴って言われると……」

 

 少し考える。

 

「口は悪いし、たまに偉そうだし、妙なところで意地っ張り。でも、困ってる人を見ると放っとけないんだよね」

 

 織姫は静かに聞いていた。

 

 たつきは続ける。

 

「あと、空手が強い。あたしも何度も負けてるし」

 

「……そっか」

 

 織姫は小さく頷いた。

 

 似ている。

 

 名前だけではない。

 

 たつきの話す少年の性格まで、以前の黒崎一護を思わせた。

 

 けれど、それだけで同じ人間だと考えるのは早い。

 

 この世界のたつきだって、以前のたつきとよく似ているのだから。

 

「……織姫、大丈夫?」

 

 たつきが少し心配そうに尋ねた。

 

 織姫は慌てて顔を上げる。

 

「あっ、うん! 大丈夫!」

 

「本当?」

 

「うん。ただ、すごい偶然だなって思って」

 

 たつきは少し考え、それから笑った。

 

「そうだね。名前が同じ人って、結構いるのかもしれないけど」

 

「……うん」

 

 織姫も笑った。

 

 そのまま二人は歩き始めた。

 

 駅の入口が、少しずつ近づいてくる。

 

 織姫は鞄の持ち手を握り直した。

 

 胸の奥には、まだ不思議な感覚が残っていた。

 

 会ってみたい。

 

 そう思わないわけではなかった。

 

 だが、もし本当に以前の黒崎一護と同じ顔をしていたら。

 

 きっと、自分は平静ではいられないだろう。

 

 そして、相手は自分のことを知らないかもしれない。

 

 そのことを考えると、今はまだ少し怖かった。

 

 織姫はそっと息を吐いた。

 

「……たつきちゃん」

 

「何?」

 

「今度の大会、頑張ってね」

 

 たつきは嬉しそうに笑った。

 

「もちろん!」

 

 その笑顔を見て、織姫も自然と笑った。

 

     ◇

 

 秋が深まる頃、一護は茶渡と並んで帰り道を歩いていた。

 

 夏休みに海へ行った日から、五人で集まる機会が増えていた。

 

 啓吾が言い出した計画は、最初こそどうなることかと思ったものの、結果的には悪くなかった。

 

 砂浜で啓吾が転び、水色がそれを写真に撮り、雨竜が呆れながらも日焼け止めを貸していた。

 

 茶渡は海を眺めながら、静かに笑っていた。

 

 そのあとも、放課後に何となく集まったり、休日に出かけたりすることが増えた。

 

 そして茶渡は、以前よりよく話すようになっていた。

 

「……一護」

 

 茶渡が口を開いた。

 

 一護は顔を向ける。

 

「ん?」

 

「この前、じいちゃんから手紙が来た」

 

「へえ。メキシコからか?」

 

「ああ」

 

 茶渡は胸元の硬貨へ手を添えた。

 

「……元気そうだった」

 

 一護は小さく笑った。

 

「そっか。よかったじゃねえか」

 

 茶渡も頷いた。

 

 しばらく、二人は黙って歩いた。

 

 住宅街の道には、秋の風が吹いていた。

 

「……一護」

 

 茶渡が再び口を開いた。

 

「俺、最近考えてることがある」

 

 一護は顔を向ける。

 

「何だ?」

 

 茶渡は少しだけ間を置いた。

 

「……ボクシング、やってみようかと思ってる」

 

 一護は目を瞬いた。

 

「ボクシング?」

 

「ああ」

 

 茶渡は自分の拳を見た。

 

「じいちゃんは、自分のために人を殴るなって教えてくれた。……それは、今も変わらない」

 

 一護は黙って聞いていた。

 

「でも、拳を使うこと全部が悪いわけじゃない。そういうことも、最近少し考えるようになった」

 

 茶渡はゆっくりと顔を上げた。

 

「……ちゃんとした競技として、学んでみたい」

 

 一護は少しだけ笑った。

 

「いいんじゃねえか」

 

 茶渡が顔を向ける。

 

「……そう思うか?」

 

「ああ。お前がやってみてえなら、やってみりゃいいだろ」

 

 一護は肩をすくめた。

 

「個性はどうするんだ? 普通のボクシングじゃ使えねえだろ」

 

「……それは使わない。まずは、自分の身体で覚えたい」

 

「そっか」

 

 一護は頷いた。

 

 茶渡らしい考え方だった。

 

 自分の力をどう扱うか。

 

 何のために使うか。

 

 それを、ちゃんと考えている。

 

「……じゃあ、今度ジム見に行くとき、付き合おうか?」

 

 茶渡は少し驚いた顔をした。

 

 それから、ゆっくりと頷いた。

 

「……ありがとう、一護」

 

 一護は笑った。

 

「別に。俺もちょっと興味あるしな」

 

 二人は並んで歩き続けた。

 

 道の先には、夕日が差し込んでいた。

 

 茶渡の胸元で、古びた硬貨が小さく揺れている。

 

「そういや、チャド」

 

「……何だ?」

 

「ジム決まったら、啓吾にも教えてやれよ」

 

 茶渡は少し考えた。

 

「……浅野にも?」

 

「ああ。あいつ絶対見に行くって騒ぐぞ」

 

「……そうか」

 

 茶渡は小さく笑った。

 

「水色も誘うか」

 

「おう。石田は……まあ、誘えば来るだろ」

 

 茶渡は頷いた。

 

 そのまま二人は住宅街を歩き続けた。

 

 角を曲がると、一護の家へ向かう道が見えてくる。

 

「……じゃあ、また明日な」

 

 一護が手を上げると、茶渡も大きな手を上げた。

 

「……ああ。また明日、一護」

 

 茶渡はそのまま歩いていった。

 

 一護は少しだけその背中を見送り、家へ向かって歩き始めた。

 

 玄関を開けると、奥から賑やかな声が聞こえてきた。

 

「お兄ちゃーん!」

 

 遊子だった。

 

 その後ろから、夏梨も顔を出す。

 

「一兄、おかえり」

 

「おう。ただいま」

 

 一護は靴を脱ぎながら、二人の頭を軽く撫でた。

 

 台所からは夕食の匂いが漂ってくる。

 

 真咲が顔を出し、笑った。

 

「あら、一護。おかえりなさい」

 

「ただいま。母さん、今日の晩飯何?」

 

「今日はハンバーグよ」

 

「おっ、マジか」

 

 思わず顔が緩んだ。

 

 遊子が嬉しそうに笑い、夏梨も小さく頷く。

 

「遊子もお手伝いしたんだよ!」

 

「夏梨も」

 

「へえ。ありがとな」

 

 一護は二人の頭を撫でた。

 

 居間へ入ると、一心がすでに食卓へついていた。

 

「おお、一護! 帰ったか!」

 

「……親父、何でそんな元気なんだよ」

 

「息子が帰ってきたんだから嬉しいに決まってるだろ!」

 

「毎日帰ってきてんだろうが」

 

 一心が大袈裟に胸を押さえた。

 

 真咲が笑い、遊子も楽しそうに手を叩く。

 

 夏梨は少しだけ呆れた顔をしていた。

 

 一護は溜息をついた。

 

 まったく、相変わらず騒がしい家だ。

 

 それでも、悪い気分ではなかった。

 

 椅子へ腰を下ろし、目の前の夕食へ視線を落とす。

 

 学校には、新しくできた友人たちがいる。

 

 道場へ行けば、たつきが待っている。

 

 家へ帰れば、家族がいる。

 

 そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていた。

 

「いただきます」

 

 五人の声が重なった。

 

 遊子が嬉しそうに笑い、夏梨が早速箸を取る。

 

 一心が何か冗談を言い、真咲がそれに笑っている。

 

 一護もつられて口元を緩めた。

 

 窓の外では、秋の風が静かに吹いていた。

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