クラオンヌでの凄惨な戦闘が嘘のように、夜の戦場はただ底冷えのする静寂に包まれていた。遥か東の地平線では、いまだにどこかの村が焼かれているのか、鈍い赤色をした光が不気味に空を焦がしている。冷たい夜風が吹き抜けるたび、泥水が凍りつくパキパキという微かな音が響いた。
その最前線の天幕の片隅で、小さな焚き火が爆ぜていた。
濡れた薪がパチパチと音を立て、白い煙を上げる。その貧弱な熱を分け合うようにして、二人の男が身を寄せ合っていた。
一人はシャルル。まだ頬の肉が柔らかく、軍服の襟元がぶかぶかに余っている「マリールイーズ」の少年兵だった。彼の前髪は硝煙で黒く汚れ、その瞳には、昼間に見た地獄の残像が焼き付いたまま離れない。
もう一人は、だらしない着こなしをした伍長、ビクトルだった。彼の青い戦列歩兵の上着はボタンがいくつも外れ、袖口は擦り切れてボロボロ、首元には煤けたスカーフが雑に巻き付けられている。手元には、どこかの民家から「調達」してきたらしい安物のワインの瓶が握られていた。
「伍長……」
シャルルは、小さな鉄鍋で沸かした、香りの薄い茶をすする。熱い液体が喉を通るのを感じながら、彼は何とはなしに、地平線の赤い光を見つめた。
「これからフランスは、どうなるんですかね」
その声は、恐れや悲壮感というよりは、あまりにも過酷な現実を前にして、かえって感情が麻痺してしまったかのように淡々としていた。
「さあな」
ビクトルは泥まみれのブーツを焚き火に近づけ、靴底を温めながら、ワインをぐいと煽った。
「そんな難しいことは、俺たちの給料の範囲外だ。皇帝陛下に任せておけば、何とかなるさ。あの御方は神様みたいなもんだ。今までだって、どんなに危ない崖っぷちからでも、最後には引っ繰り返して勝ってきたんだからな」
「そう、ですかね……」
シャルルは手元の茶を見つめた。
何とかなる。その言葉の重みが、今のシャルルには上手く受け止めきれなかった。
確かに皇帝は、先の六日間戦役でも神懸かり的な勝利を収めた。シレジア軍を翻弄し、各個撃破していく様は、まさに軍神そのものだった。
ヴォーシャンでは、自軍600の損害に対して敵の損害およそ7000〜9000、イエナ・アウエルシュタットの悪夢どころか、何百年も続くヨーロッパの秩序を破壊してしまった第一次イタリア遠征における破壊神の姿を、敵味方が一様に思い知らされる出来事だった。
しかし、それらの勝利の代償として、結局はどれだけの命が消えていったか。昨日まで同じ天幕で「腹が減った」と泣き言を言っていた同世代の少年たちが、今日はもう、冷たい泥の中に転がっている。フランスという国そのものが、まるで自らの命を削りながら戦っているかのように思えてならなかった。仲間のマリールイーズ兵士たちや、フランス軍の途方もない犠牲に思い至ると、シャルルの顔にじわじわと暗い影が差していく。
「……伍長」
シャルルは膝を抱え込み、火の粉を見つめたまま、声を絞り出した。
「伍長はどうやって……その、仲間が次々に死んでいったり、自分が死ぬかもしれないっていう恐怖を、耐えてるんですか。僕には、もう、隣で人が倒れるたびに、頭がおかしくなりそうになるんです」
ビクトルは、ワインの瓶を地面に置くと、上着のポケットから古びたクレイパイプを取り出した。
「さあ、どうだったかなぁ……」
ビクトルは火皿に刻みタバコを詰め、焚き火から燃えさしを器用に指でつまんでパイプに火をつけ始めた。紫煙が夜の冷気の中に広がる。
「相変わらず適当だなぁ、この人は……」
シャルルは膝に顎を乗せ、呆れたように、ため息混じりに呟いた。この伍長はいつもそうだ。戦場での心構えを聞いても、はぐらかすか、下品な冗談で返すばかりで、真面目に応えてくれた試しがない。
「んなこと言われてもなぁ」
ビクトルはパイプをくわえたまま、煙を目に染み込ませて顔をしかめた。
「俺だって、最初からこんな風だったわけじゃねえよ。先輩や上官に銃の扱いを戦場で叩き込まれて怒鳴られながら覚えてた頃だってあったんだぜ?んー、ただ、昔……そうだな、七年戦争とか、あの辺りの古い時代を生き残ったっていう、干物みたいに干からびた爺さんたちの話を若い頃に聞いたことがあってな。その爺さんたちが言うには、昔の戦争はもっと優雅で、決まった陣形に並んで、太鼓の音に合わせて歩くだけだったらしい。だがよ、俺が革命軍や大陸軍ってやつに放り込まれてみたら、何が起きたと思う?」
ビクトルは遠い目をして、煙を吐き出した。
「爺さんたちの話より、なんかやたらと歩かされたり、走らされたりすることが多いとは思ったことはあるがね。皇帝陛下の戦争ってのは、とにかく足だ。走って、回り込んで、敵が息をつく前に横っ腹を引っ叩く。いつだって必死だった気もするし……だからよぉ、なんか、歩いてた記憶ばっかりなんだよ、まじで」
「参考にならないなぁ……」
「足も痛えし疲れるし腹は減るし、いつ死ぬかわかんねえし、でも逃げ出せば違反者で裁かれちまうし、周りの目も怖かったしなぁ、臆病者とか男じゃないとか、言われたくねえもん」
「ええ……そんなものですか……」
「いや、それより、次の村に突入した時、略奪に遅れないようにってことばっかり考えてた気もするな。あれはマジで楽しかった……うむ、うーん、どうだったっけか、なんでって言われてもなぁ、あー、覚えてるよーな、覚えてねーよーな。あの時、農家で盗んだ鶏とかオレンジの味の方が、まだ記憶にあるな、うん。あの村に綺麗なねーちゃんがいたっけな、教会にも可愛い修道女がいてなぁ、うはは。」
ビクトルは再びワインの瓶に手を伸ばす。
(ああ、これはもう酔っ払ってるな……)
シャルルはそれ以上聞くのを諦め、小さなため息をつくと、冷めかけた自分の茶を喉に流し込み、鉄鍋に残った湯を入れ直した。これ以上、この酔っ払いの昔語りに付き合っても、恐怖を克服するヒントなど得られそうにない。そう思った。
しかし、ビクトルの口は止まらなかった。パイプの煙の向こうで、彼の濁った瞳が、焚き火の炎をじっと見つめていた。
「……リヴォリとマントヴァの時だったかな。イタリア遠征の、割と最後の方だ。マッセナ元帥の当時の師団に配属されてな。タリアメントよりは前の時期になる」
ビクトルの声が、少しだけ低くなった。
「あの時の行軍は、本当に酷かった。何時間も何時間も歩き通しで、戦わされたら、また歩かされて、途中で靴の底が抜けてな。足から血を流しながら、凍てつく山道を歩いた。脱落しかけたらそれっきり、皆歩くのに必死だから、誰も助け起こしちゃくれない。あの時は、とにかく寒かったし、眠かったな。人間の脳みそってのは、本当に限界を超えると、恐怖なんて感じなくなるんだよ。ただ『眠りたい』『一歩進みたい』それだけだ」
シャルルは、お茶を注ぐ手を止めて、静かにビクトルの横顔を見た。
「それに……マレンゴだ。あそこは本当に死ぬかと思った。オーストリアの野郎どもの砲弾がすぐ近くで炸裂してな、俺の左の足に、デカい穴が空いたんだよ。肉がちぎれて、骨が見えてた。あの時はな、恐怖なんて高尚なもんはどこにもなかったぜ。もう、その痛みのことしか頭になかった。痛くて、熱くて、泥をかきむしって、ただ泣いてた」
ビクトルは自嘲気味に笑い、自分の左足を軽く叩いた。
「そしたらよ、戦場の向こうでデカい爆発が起こったんだ。ドカン、とな。皇帝陛下……いや、当時はまだ『第一執政』だったか。陛下がな、予備兵力を投入したんだ。ドゼー将軍の部隊が突っ込んできて、それからケレルマンの騎兵が、地鳴りを立てて敵の横っ腹に突撃していった。地獄の底から這い上がってきたような突撃だったよ。それで、負け戦がひっくり返って勝っちまった。俺は泥の中でそれを見ながら、フランス万歳、って叫んでたよ。自分の足から血がドバドバ流れてるのにな。おかしな話だろ?」
シャルルは何も言えず、ただビクトルの言葉の重みに圧倒されていた。
「ロシアはな……」
ビクトルは一瞬、言葉を詰まらせた。パイプの火が消えかかり、彼はそれをじっと見つめた。
「……スモレンスクとかボロジノとか、すげー戦闘も色々あったが、帰る時の、あの寒さしか覚えてねえな。歩けるだけでも奇跡だった。人間が凍ると、木みたいにパキッと折れるんだよ。火に当たって、鼻や指が落ちた奴も多かったな……そんなしけた話ばっかりだ」
ビクトルはふう、と深く煙を吐き出した。
「まあ、とにかくたくさん死んだよ。昨日まで一緒に笑ってた奴とか、宿営地で女引っ掛けて一緒に酒飲んだやつが、次の日の朝には、頭とか身体が吹っ飛んですぐ死んじまう。さっきまで生きてた肉体が、一瞬でただの泥塗れの肉の塊になっちまうんだ。それが戦場だ。シャルル、お前が今感じてる恐怖は、当たり前の国に生きている人間としては正しい。だが、ここはまともな場所じゃねえんだよ」
シャルルはいつの間にか、持っていた茶のカップを両手で握りしめ、神妙な面持ちで聞き入っていた。ビクトルの言葉の一つ微細な部分に、教科書には載っていない、本物の戦場の血の匂いが染み付いた歴史の息吹があった。
「……僕の、同期の兵士仲間は」
シャルルは、俯きながらぽつりと言った。
「もう、ほとんど残ってないです。パリを出発した時は、あんなにたくさんいたのに。みんな、撃たれるか、病気にかかるかして……。僕だけが、どうしてここにいるのか、分からないんです」
「戦争はそういうもんさ」
ビクトルは煙草をふかしながら言う。
「戦場なんか、何から何まで健康に悪いだけだ。よく食べ、よく寝て、綺麗なおべべを着て暮らすのが人間に一番いい。ここは、その真逆を行く場所なんだからな。誰が死んで、誰が生き残るか、そんなもんに理由なんかねえよ。何割が生きて何割が死ぬか。ただの確率だ」
「………皇帝陛下や、元帥たちは……僕たちの命を何とも思っていないんでしょうか」
シャルルが、ずっと胸の奥に燻っていた疑問を口にした。
「そりゃ、何とも思ってねえわけねえだろ。だがな、あの人たちも鬼じゃねえ。まあ、ごく稀に鬼がいるかも知らんが。ここは、人が死ぬのが当然な場所ってだけさ」
ビクトルはパイプの灰を焚き火に叩き落とした。
「まあ、もしあの方々が、真面目に兵士一人一人の死を受け止めて、いちいち涙を流して何もできないなんてことになったら、それこそ軍人としてプロ失格だよな。何万人もの軍隊を動かす男が、一人の少年の死に心を痛めて命令を躊躇ってみろ、その瞬間に後ろの十万人が全滅する。だから、あの方々は心を鉄にしてなきゃならねえんだ。……いや、それでもよ」
ビクトルは、乾いた笑いを漏らした。
「いくら英雄みたいな元帥さまだって、人間だ。心がぶっ壊れることだってある。もしかしたら、敵の陣地に無謀に突っ込んで死のうとしたり、あるいは、窓から飛び降りて自殺を図るとか……。いや、まさかな。あの鉄人たちが、そんなヤワなわけねえよな」
ビクトルはそう言って笑った。シャルルは、ただ、深く俯いた。
沈黙が二人を包み込んだ。焚き火の光が、二人の影を大きく天幕の布に映し出している。
ビクトルは、俯いたままのシャルルの頭を、その大きな、泥まみれの手で乱暴に、しかし温かく撫で回した。
「まあ、何にせよだ」
ビクトルの声は、先ほどまでの冷徹な古参兵のものではなくなっていた。
「今、お前が目の前で生きてることは、俺にとって嬉しいよ」
「え……」
シャルルは驚いて目を見開いた。いつも適当で、自分を子供扱いして怒鳴りつけてばかりいる伍長から、そんな言葉が出るとは思ってもみなかったのだ。
ビクトルは少し照れくさそうに顔を背け、再びワインを一口飲んだ。
シャルルは、じわじわと胸の奥が熱くなるのを感じた。
戦場という地獄の中で、なぜか明日もまた、この肩が外れそうなほど重い銃を持って立ち上がれるような気がした。
「……ありがとうございます、伍長」
シャルルは、はにかむように、小さく微笑んだ。
「でもよう!」
ビクトルは突然、ニヤニヤとした卑屈な笑みを浮かべ、シャルルの肩をバシバシと叩いた。
「お前も本当に運がねえよ! もっと景気のいい時に兵士になれば良かったんだ! 今みたいな、泥をすすって走り回るような時じゃなくてよ!」
「え?」
「大陸軍は地上最強!ってな時はよ、そりゃあ凄かったんだぜ。占領した街に入れば、ワインはタダ、美味い飯は食い放題。それに、略奪は最高だった! 時計も燭台も絵画も奪い放題!!可愛い若い女の子といえば、ベルリンの娘も、ウィーンの姉ちゃんも、みんな俺たち大陸軍の輝かしい軍服を見て、素敵!抱いて!って目をハートにして寄ってきたもんだ。ガハハ!」
「うわぁ……」
シャルルは、さっきまでの感動を綺麗に返し欲しくなり、完全に引いた目でビクトルを見つめた。
「クズだなぁ、この人は。本当にクズだ」
「何がクズだ! これが兵隊の特権ってやつだよ、お子ちゃまが!」
ビクトルは胸を張った。
「ったく、少しは上のやつを尊敬しろってんだ。いいかぁ、俺はあの偉大なランヌ元帥が、まだ大佐だった頃からこの目で見てきた男なんだぜ?あの人がまだ若くて、やんちゃだった頃の話を知りたいか? 一緒に酒場をハシゴしてよ、地元のゴロツキと大喧嘩して盛り上がった時の思い出話、今からじっくり聞かせてやろうか?」
「やめてくださいよ!」
シャルルは慌てて手を振った。
「ランヌ元帥は、僕にとっても、フランス軍にとっても永遠の英雄で、憧れなんですから! 真の軍神なんですよ! 伍長の下品な思い出で汚さないでください!」
「何が憧れだ! お前みたいな昨日今日入ってきたガキに、あの人の何が分かる!あの人は最高に熱くて、最高に怒りっぽくて、そして最高に部下思いの、本物の男だったんだ!」
ビクトルは急にムキになって、ワイン瓶を突き出した。
「俺の方が、お前なんかより何百倍もランヌ元帥を愛してるんだよ! 」
「聞いてないっすよ、おっさんの愛の告白なんて!」
シャルルは思わず吹き出し、声を上げて笑った。
それから、星霜は流れた。
あのシャンパーニュの凍てつく夜から、実に出発して二十六年という歳月が過ぎ去っていた。
一八四〇年、十二月十五日。
パリの街は、歴史上類を見ないほどの厳寒と、それを完全に圧するほどの熱狂に包まれていた。空からは細かい雪が舞い降り、凱旋門からコンコルド広場へと続くシャンゼリゼ大通りは、数十万人の群衆で埋め尽くされていた。
南大西洋の孤島セントヘレナで没した皇帝ナポレオン・ボナパルトの遺骨が、若き国王ルイ・フィリップの命によって、ついに祖国フランスへと帰還したのである。その遺体をアンヴァリッド(廃兵院)へと迎える、「遺骨帰還(ルトゥール・デ・ザンド)」の式典が、今まさに厳かに執り行われようとしていた。
大通りの一角、群衆の波の少し後ろ側に、二人の老人の姿があった。
一人は、すでに五十を過ぎ、白髪の混じった落ち着いた佇まいの男。かつて「マリールイーズ」と呼ばれ、泥の中で震えていたシャルルであった。彼は今や仕立ての良い外套を着て、一人の市民としての生活を送っていたが、その背筋だけは、かつて叩き込まれた軍人のそれのように真っ直ぐに伸びていた。
そして、その隣には、さらに老いさらばえた一人の老兵がいた。ビクトルである。
すでに八十歳を優に超えた彼の身体は小さく縮み、衣服もどこか昔のだらしなさを残したまま、古びた軍人の面影を漂わせていた。左足はあのマレンゴで負った古傷のせいで今も悪く、黒い木製の杖をしっかりと地面について身体を支えていた。しかし、その濁った瞳の奥にある光だけは、あのシャンパーニュの夜と変わらず、奇妙に鋭いままだった。
「……来ましたよ、伍長」
シャルルが静かに、しかし万感の思いを込めて呟いた。
地平線の彼方から、厳かな葬送行進曲の調べが響いてきた。地を震わせるような太鼓の音が、ゆっくりと近付いてくる。
群衆の騒めきが、波が引くように静まり返っていった。誰もが息を呑み、歴史そのものが通り過ぎる瞬間を待っていた。
やがて姿を現したのは、紫の天幕に覆われ、金色の鷲の装飾が施された、巨大で絢爛豪華な霊柩車だった。それを先導し、あるいは取り囲むようにして歩く男たちの姿を見た瞬間、シャルルの胸に熱いものが突き上げてきた。
そこにいたのは、かつてヨーロッパ全土を震撼させた「大陸軍(グランダルメ)」の生き残りたちだった。
ある者は、色褪せて虫食いだらけになった親衛隊の熊毛帽を誇らしげに被り、またある者は、袖の千切れた青い上着(アビ・ブルー)を着て、胸には誇らしげにレジオン・ドヌール勲章を光らせていた。白髪を振り乱し、義足の音をパカパカと響かせながら歩く老将軍たちの姿もあった。彼らは一様に、老いた身体に鞭打ち、現役兵さながらの完璧な歩調で、かつての主人のために最後の護衛を務めていた。
「……」
ビクトルが、静かに杖を右手に持ち替えた。
そして、震える左手を、ゆっくりと、しかし確実に、こめかみの横へと跳ね上げた。
完璧な、そしてこれ以上ないほど厳かな敬礼だった。
シャルルもまた、帽子を脱ぎ、胸の前に当てて、迫りくる霊柩車をじっと見つめた。
霊柩車が彼らの目の前を通り過ぎていく。あの絢爛たる棺の中に、かつて自分たちを地獄へ送り込み、同時に世界で最も輝かしい栄光を見せてくれた、あの小柄な皇帝が眠っている。アウステルリッツで世界を震撼させ、ロシアの極寒の大地で力付き、ワーテルローで全てを失うはずだった、あの男が、今、すべての旅を終えてパリへと帰ってきたのだ。
周囲の老兵たちが、次々に涙を流しながら敬礼を捧げていく。
「皇帝万歳(ヴィヴ・ランペルール)……」
誰かが、枯れた声で小さく呟いた。それはかつての狂気じみた鬨の声ではなく、静かな、祈りのような響きを持っていた。
霊柩車はゆっくりと凱旋門をくぐり、廃兵院の黄金のドームへと向かって進んでいく。
ナポレオンが運ばれていき、その姿が群衆の向こうに消えた時、一つの時代が、本当に、完全に終わったのだという実感が、パリの街全体を包み込んだ。
「……ふぅ」
ビクトルが、ゆっくりと敬礼を下ろした。彼は大きく息をつくと、再び杖に体重を預け、どこか晴れ晴れとしたような、それでいて少し寂しげな笑みを浮かべた。
「すべて、終わっちまったな」
「ええ」
シャルルもまた、深く息を吐き出した。二十年以上もの間、自分たちの心の中に刺さったままだったトゲが、ようやく静かに抜けていったような、そんな不思議な解放感があった。
シャルルは隣の老兵の顔を見て、ふっと表情を和らげた。
「…ビクトル伍長……どこか飲みにでも行きますか? この寒さです、身体を温めないと明日動けなくなりますよ」
「いいな」
ビクトルは、カカッと声を立てて笑った。口の中の歯はもう大分抜けてしまっているが、その笑い方は、あの泥塗れの夜と全く同じだった。
「美味いワインがある店にしてくれよ。もちろん、お前の奢りだ」
「はいはい、分かってますよ。僕もあの頃とは違って、多少の蓄えはありますから」
二人はゆっくりと、群衆が解散し始めたシャンゼリゼ通りを歩き出した。
ビクトルは相変わらず足をひきずり、黒い杖をコツ、コツと規則正しく地面に打ち付けていたが、その足取りは年齢の割にまだ確かで、元気な様子だった。
「しかしよ、シャルル」
ビクトルは歩きながら、ふと空を見上げて言った。
「俺もお前も、大した死に損ないだな。あの一八一四年の地獄を生き残って、その後のワーテルローの全滅戦からも這い上がってよ……。七月革命の時だって、パリの街中で銃弾が飛び交う中を通り抜けてきたんだ。互いに、よっぽど神様に嫌われてるのか、地獄の閻魔に恐れられてるのか……」
ふう、と息を吐くビクトル。
「だいたい、俺もなんで最後の最後まで気張って戦っちまったのやら……ったく、二人揃って、本当に死に損なったかね」
ビクトルはそう言って、悪戯っぽくシャルルを小突いた。
「さあ、どうですかね」
シャルルは苦笑しながら、老兵の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
「でも、あの時……焚き火の前で、あなたが『お前が生きていて嬉しい』と言ってくれたから、僕は今日まで生き延びられたんだと思いますよ。ワーテルローの時も、あの言葉があったから、足を止めずに済んだ」
「あ? 俺がそんな殊勝なこと言ったか? そもそもいつのことだよ。覚えてねえな、お前頭大丈夫か?もうボケたんじゃねえのか?」
「本当に適当だなぁ、この人は」
シャルルは呆れたように笑い、それから、もう一度だけ、遠ざかるアンヴァリッドのドームを振り返った。
偉大なる皇帝は去り、戦友たちの大半は泥の中に眠っている。
しかし、彼ら「死に損ない」の胸の中には、今も、燃えるような何かが、そして仲間たちの顔が、鮮明に生き続けている。
「さあ、行きましょう。ランヌ元帥の思い出話の続き、今度こそじっくり聞いてあげますから」
「おう、言ったな! あの人がどんだけすげぇ大喧嘩をしたか、店のワインを全部空けるまで話してやるよ!」
二人の老兵の背中は、パリの白い雪の中に小さく溶けていく。