夢の部分はモジュロからの引用です。
あの場面を読んで二人をなんとかしてやりたいなぁ。甘やかしてやりたいなぁって思ったきっかけの一つなので引用しました。
東京へ向かう新幹線の窓に、午前の光が流れていた。
腕を組んで目を閉じたつもりが、いつの間にか眠っていたらしい。
夢を見た。
深い森だった。木漏れ日の下で、老婆と少年が向かい合っている。二人とも竹刀を提げていた。稽古の合間だったのだろう。老婆は髪を高い位置でひとつに結っていて、背筋は年齢のわりにまっすぐだった。少年の肩は小さく、老婆はその顔を見ずに、足元の落ち葉に向かって話していた。
「……私がいなくても、〇〇が死ななくても、誰かがなんとかしてくれたかもしれない。今だから言える、甘い幻想だよ。それでも、ここに〇〇がいる未来を選ぶことができたんじゃないかって、考えない日はないんだ」
「お婆ちゃん。泣かないで」
少年の小さな手が、老婆の袖を掴んだ。
そこで目が覚めた。
窓ガラスに、自分の顔が映っている。ネイビーのスーツに赤いネクタイ。後ろで束ねた髪が、肩のあたりで揺れていた。
(何だ、今の夢……)
あの老婆には、見覚えのある面影があった。ポニーテールで、竹刀を握る姿に隙がなく、歴戦の猛者という風格があった。
俺には、八つ年の離れた双子の妹がいる。老婆の横顔は、その片割れの真希によく似ていた。
(じゃあ、あっちの子供は真希の孫か? ……ないない。あいつ、恋愛なんて興味なさそうだし)
苦笑して、すぐに笑みが引いた。
でも、あれくらいまで長生きしてくれたらいい、とは思う。その隣に真依もいてくれたら、なんて。
呪術師は早死にする。この仕事をしていれば、嫌というほど見てきた。二人が長生きしてくれるなら、兄としてそれ以上のことはない。
(いつまで、面倒を見てやれるかな)
そこまで考えて、頭を振った。
(……何考えてんだ。先の話より、今だ)
新幹線が減速して、東京の駅名がアナウンスされた。
***
初夏の風が、東京高専のグラウンドを吹き抜けていた。
周囲を囲むのは、年季の入った日本建築の瓦屋根と、黒ずんだ木の梁。普通の高校では見られない光景だ。何度来ても、ここに立つと背筋が少しだけ伸びる。
見慣れた背中が、グラウンドの隅にあった。長い棒を握っている女の子の姿が。
呪霊を見るための丸眼鏡にポニーテール。紫のジャージにスカートを合わせた、あの独特の格好。そういえば制服もスカートで、ルーズソックスまで履いていたっけ。ボーイッシュに見られがちだが、こういうところに、本人も否定しきれない女の子らしさが出ていると思う。
「よお、兄貴」
「いい子にしてたか?」
近づいて、頭をわしゃわしゃと撫でる。八つも離れているせいか、どうしても子供のように思えてしまう。
「ばっ……! やめろよ、急に何してんだ。子供じゃねーんだし! 髪崩れんだろ!」
耳まで赤くして、真希が手を振り払った。
「ごめんごめん。はい、お土産。真依が、これがいいだろってさ」
俺は阿闍梨餅の紙袋から一つ取り出して渡す。真希は棒を地面に置いて受け取った。
「サンキュー。やっぱこれ好きなんだよな」
包みを破る前に、ぽつりと言う。
「アイツ、なんだかんだ言って、私のことわかってるよな」
「やっぱり双子なんだろ」
真希はすぐさま阿闍梨餅にかぶりついた。
「うめぇけど、やっぱ喉乾くなこれ。稽古の後に食うもんじゃねぇ」
「ははっ。じゃあ、これで飲み物でも買ってこいよ」
ポケットから小銭を出して差し出す。
「別に、それくらい持ってるっつーの。……まぁ、ありがたくもらっとくけど」
「素直でよろしい」
「チッ……うぜぇ」
子供扱いされるのが嫌らしい。十五歳。そういうお年頃なのだ。わかっている。わかっているけれど、構いたくなってしまう。
「ほら、あっちにも持ってってやれよ」
真希が顎でしゃくった先、グラウンドの向こうで、パンダと狗巻に囲まれた乙骨が、ぎこちなく笑っていた。
「うん。持ってくよ」
立ち上がりざまに、もう一度、真希の頭をぽんぽんと叩く。
「だから撫でんなって!」
背中に飛んでくる怒声に、俺は笑って片手を上げた。
「よぉ、宗介」
「こんぶ」
「おう。ほら、お前たちの分もあるぞ」
俺は紙袋から阿闍梨餅を二つ取り出して渡した。パンダが丸い手で器用に受け取る。
「宗介は気が利くなぁ。どっかの誰かさんとは大違いだ」
「しゃけ」
「おい! 聞こえてんぞ!」
緑茶のペットボトルを抱えた真希が、後ろから肩を怒らせてやってくる。
「こんにちは、宗介さん! 今日もお願いします!」
乙骨が駆け寄ってきて、勢いよく頭を下げた。
「うん、よろしく、憂太君。君の分もちゃんとあるから、後で食べてね」
「はい! ありがとうございます!」
先輩風を吹かせつつ、内心では少しだけ不思議な気分になる。
この、正直言って頼りなさそうに見える普通の少年が、「特級過呪怨霊・祈本里香」を従える特級術師だなんて。俺はその目で見たことはないが、真希は初対面でボコられたと言うし、小学校の任務では里香のおかげで命拾いしたらしい。
信じ難くても、本当のことなのだ。
***
「よし、いこうか」
ゴムナイフを逆手に構える。乙骨も竹刀を握り直した。
最初は様子見の打ち合いを重ねて、間合いを探る。やはり戦闘のセンスはある。飲み込みの早さは、真希と並ぶんじゃないかと思う。
けれど、まだだ。
上段からの一撃を、ナイフの腹で斜めに流す。力ではなく、角度で。竹刀が空を切った瞬間にスピードを上げ、頬、脇腹、心臓の順に、ゴムの刃先を軽く当てていく。
「はい、俺の勝ち。今ので、三回くらい死んでたかな」
「本物だったら死んでた……ゴムでよかった……。やっぱり宗介さんは強いですね」
棒を携えた真希が近づいてきた。
「そんなの、たりめーだろ。呪術師になって間もないお前が、何年も前線に出て一級やってる兄貴に勝てるわけねぇだろ」
「でも、なったばかりにしてはよくやってる方だと思うよ」
フォローしておく。いや、本心でもあるのだが。
「あ、ありがとうございます」
「兄貴は甘いな。こいつは特級かもしれねぇが、それはあの"里香"って呪霊のおかげだ。戦闘面での実力は、四級の私以下。要は、ハリボテの特級ってわけだ」
「おいおい、言い過ぎじゃないか?」
「あはは……」
「でも、小学校の任務だと、憂太君に助けられたんだろ?」
「あれはたまたまだって……!」
真希が顔を赤くして、ぷいとそっぽを向く。
「……別に、認めてねぇわけじゃねぇよ。でもさっき言ったのも事実だろ? あれが実戦だったら憂太は死んでた」
「まぁな」
「呪術師ってのはそんな甘くねぇ世界なんだ。いつ命を落としても知らねぇぞ。……これは、"先輩"としての忠告だ」
真希は棒を肩に担いで、乙骨を見据える。
「悔しかったら、もっと練習して力つけんだよ。ほら、私ともう一回やるぞ」
「は、はい!」
口調は厳しいが、真希の口の端は少し上がっていた。
中庭に、木と金属がぶつかる乾いた音が響いた。
真希の棒が横薙ぎに走り、乙骨の竹刀が弾き飛ばされる。拾い上げて踏み込み、また弾かれ、その懐に石突きが入る。乙骨は地面を転がって、それでもすぐに起き上がった。
「まだやれます!」
「おら、もう一回だ!」
構え直した真希の口の端が、やっぱり持ち上がっている。
少し離れたところで、阿闍梨餅をかじりながらパンダが言った。
「……真希、楽しそうだな。武具同士の立ち合いは、今まであんまりなかったもんな」
「しゃけしゃけ」
「うっせぇ。気のせいだ」
聞こえていたらしい。振り向きもせずに言い返す真希に、パンダは肩をすくめた。
***
「おーやってるやってる。よぉ、宗介」
間延びした声に振り向くと、目隠しをした長身が、ひらひらと手を振りながら歩いてくる。
「五条さん。お疲れ様です」
「かわいい妹の顔でも見たくなったってところかい?」
「まぁ、それもありますけど。一応、夜からこっちで任務もあって……」
「ホントどこの呪術師も忙しいよね。……それにしてもさ、真希にも稽古の相手ができたし、憂太の顔も明るくなったよね。いいこと尽くめだ」
「ええ、本当に。俺も、真希が楽しそうで何よりっていうか……」
「宗介みたいなのを、シスター・コンプレックスっていうんだっけ」
「あ、あんまり言わないでくださいよ。変な奴に思われるじゃないですか……」
「もう、充分変だよ?」
「え?」
五条は楽しそうに笑って、並んで中庭の方を眺めた。
「で、どうよ? 宗介から見て、憂太はどんな感じ?」
「憂太君ですか? さっき手合わせしましたけど、戦闘センスはありますよ。あの里香って呪霊が思い通りになるなら、五条さんと肩を並べるくらいには……」
「ほんとぉ? それは言い過ぎじゃない?」
「あっ……確かに、言い過ぎたかもしれません。でも、それくらいの才能を感じたっていうか」
言いながら、自分で恥ずかしくなった。乙骨も五条さんと同じ特級ではある。けれど五条悟は、文字通り呪術界最強なのだ。誰も超えられない壁。それを数回打ち合っただけで「肩を並べる」なんて、大げさにもほどがある。
なのに、なぜか。
(……その確信だけが、ある)
なぜか、まるで彼が強くなる未来を元から知っているような気がした。
「まぁ、君の言う通り、憂太は強くなるよ。なってもらわなきゃ困るっていうか」
五条は目隠し越しにじっとこちらを見ていた。何を見ているのかは、俺にはわからない。軽い口調の底に、一瞬だけ別の重さが覗いた。
***
稽古が終わる頃には、陽が傾いていた。パンダと狗巻は別の任務で先に出て、残った二人を俺が連れ出す。
真希の希望で、行き先は家系ラーメンになった。
「汗かいたからな。塩分補充には、家系がうってつけだろ」
カウンターに並んで座ると、真希は乙骨の方へ顔を向けた。
「ほら、憂太も遠慮せず頼めよ。替え玉もいけ」
「い、いやぁ……僕はこれで充分です……」
「はぁ? お前も呪術師なんだから、もっと喰って体力つけろ! 飯食わなきゃ強くなれねぇぞ!」
真希の前には、ラーメンに加えて唐揚げと半ライスが並んでいる。乙骨がおずおずと麺をすすって、目を丸くした。
「……美味しい」
「いけるだろ? ここ、よく兄貴と来るんだよ」
得意げに笑ってから、真希はふと思い出したように、箸を止めた。
「なぁ、兄貴。真依は京都で上手くやってるか?」
「ああ。霞ちゃんと桃ちゃんと、三人でよくつるんでるよ」
「アイツさ、こっちに女が私しかいないって分かって、当てつけみたいに三人の写真を送ってくるんだぜ。ホント性格わりぃよな」
「あはは、アイツそんなことしてるのか。真依らしいな」
「だろ? まぁ、"お姉ちゃん"としては、妹が楽しくやってるならそれでいいんだけどよ」
乙骨が、遠慮がちに口を挟んだ。
「真依さんって、真希さんの双子の妹さんでしたよね。確か、京都の高専にいる……」
「そうだ。あー、これだ。真ん中に写ってる、この底意地の悪そうな顔してるのが真依だ」
真希がスマホを突き出す。カフェで撮った三人の自撮りだった。画面の真ん中で、真依が満面の笑みを浮かべている。
「確かに、ちょっと……でも、真希さんによく似てますね」
「双子だかんな。あいつ、たまにこっちに来るんだ。今度来たら紹介してやるよ」
「真依は、憂太君のことどう思うんだろうな」
「ナヨナヨした奴は嫌いだけど、こいつ意外と根性あるし、気に入るんじゃねぇの? まぁ、私より性格キツいから、覚悟しとけよ?」
「真希さんより……」
「大丈夫、大丈夫。根はいい子だから」
そうフォローしながら、俺は笑ってしまった。
しばらく、箸が丼を叩く音と、湯気だけが流れた。
「真希さんと宗介さんって、すごく仲が良いですよね」
二人のやり取りを眩しそうに見つめながら、乙骨がぽつりと言った。
「そんなことねぇよ。年が離れてるからか知らねぇが、コイツが一方的に過保護なだけだ」
「ふふ、でも羨ましいです。……僕にも、妹がいるんです。だから、妙に親近感が湧くっていうか」
「へえ。お前、一人っ子だと思ってたけど。全然そんな感じしねぇな」
「あはは……それなりに、仲良かったんですよ。今は離れて暮らしてますけど」
過去形だった。
真希は一瞬だけ乙骨の横顔を見て、何も訊かなかった。レンゲでスープをすくいながら、いつもの調子で言う。
「……まぁ、こいつみたいにウザい兄貴にはなるなよ?」
「ウザくて悪かったな」
何気ない日常だ。
けれどなぜだろう。こんな"日常"なんて、本当は味わえなかった気がする。だから俺は、とても嬉しくなって、丼の縁に箸を置いた。