極東の蛇は高貴なる花   作:RuNa2236

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深紅の雷霆

1991年10月31日 ― ホグワーツ魔法魔術学校

 

ハロウィーン。

 

ホグワーツ魔法魔術学校が、一年で最も賑やかになる日のひとつである。

 

大広間には無数の南瓜が飾られ、天井には蝙蝠の群れが飛び交う。

 

生徒たちは夕食のご馳走を心待ちにし、教師たちも、いつもより少しだけ機嫌が良さそうだった。

 

もっとも、ハリー・ポッターにとって、その日の始まりは決して楽しいものではなかった。

 

原因は、呪文学の授業である。

 

そして、ロン・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーの、相も変わらぬ相性の悪さだった。

 

***

 

「いいですか、皆さん! 大切なのは、正しい発音と杖の動かし方です!」

 

フリットウィック先生は、いつものように教壇の上から声を張り上げた。

 

「さあ、ご一緒に! ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」

 

生徒たちが一斉に呪文を唱える。

 

机の上には、それぞれ一枚ずつ羽根が置かれていた。

 

今日の課題は、この羽根を魔法で浮かせることだった。

 

ハリーは杖を握り、慎重に腕を動かした。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」

 

しかし、羽根はぴくりとも動かなかった。

 

「……駄目だ」

 

隣でロンも悪戦苦闘している。

 

ところが、彼の様子はハリーよりもさらに悲惨だった。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」

 

ロンは杖を勢いよく振り下ろした。

 

羽根は動かない。

 

「ちぇっ!」

 

苛立ったロンが、もう一度杖を振り上げる。

 

そのときだった。

 

「違うわよ、ロン!」

 

向かいに座っていたハーマイオニーが口を挟んだ。

 

「そんなふうに振ったら駄目だわ。先生の説明を聞いていなかったの?」

 

「聞いてたさ!」

 

「だったら、ちゃんと動かしてよ。振って、それから軽く払うの!」

 

ハーマイオニーは得意げに杖を取り出した。

 

「それに、発音も違うわ。レヴィオーサよ。レヴィオサーじゃないの」

 

ロンの顔が赤くなった。

 

「わかってるってば!」

 

「全然わかってないじゃない!」

 

ハーマイオニーはそう言って、見本を示した。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」

 

すると、羽根がふわりと浮き上がった。

 

机から離れた羽根は、ゆっくりと宙を漂い、やがて天井近くまで上昇した。

 

「素晴らしい!」

 

フリットウィック先生が歓声を上げた。

 

「ご覧なさい、皆さん! ミス・グレンジャーが成功しました!」

 

ハーマイオニーは満足そうに微笑んだ。

 

ロンは、今にも杖をへし折りそうな顔をしていた。

 

***

 

「……まったく、あいつときたら!」

 

授業が終わると、ロンは廊下を歩きながら悪態をついた。

 

「何でも知ってるつもりなんだ! いちいち人の間違いを指摘してさ!」

 

ハリーは曖昧に頷いた。

 

確かに、ハーマイオニーは少々口うるさい。

 

授業中に何かと口を出してくるし、先生の質問にも真っ先に手を挙げる。

 

もっとも、勉強熱心なこと自体は悪いことではないのだろう。

 

実際、彼女はいつも正しい答えを知っている。

 

けれど、ロンはそんなことを考える余裕もないらしかった。

 

「あんな調子じゃ、友達なんてできっこないよ!」

 

ロンは吐き捨てるように言った。

 

「そりゃそうだろうな。あんな奴と一日中一緒にいたら、頭がおかしくなっちゃうよ!」

 

そのときだった。

 

すぐ後ろから、足音が聞こえた。

 

ハリーが振り返る。

 

そこには、ハーマイオニーが立っていた。

 

彼女の顔は真っ赤だった。

 

そして、目には大粒の涙が浮かんでいた。

 

「……!」

 

ロンが口を閉じた。

 

しかし、もう遅かった。

 

ハーマイオニーは何も言わず、二人の横を駆け抜けていった。

 

ハリーは呆然と、その背中を見送った。

 

「……ロン」

 

「……何だよ」

 

「今の、聞こえてたんじゃないかな」

 

「……」

 

ロンはしばらく黙っていた。

 

そして、気まずそうに肩を竦めた。

 

「……本当のことだろ」

 

けれど、その声には、先ほどまでの勢いがなかった。

 

ハリーも、それ以上は何も言わなかった。

 

後味の悪い出来事だった。

 

とはいえ、二人ともまだ十一歳の少年である。

 

腹が立った相手に嫌味を言い、つい言いすぎてしまう。

 

相手が傷ついたことには気づいても、すぐには素直に謝れない。

 

まして、ハーマイオニーの方からも謝ってほしいような気持ちが、少しばかりあった。

 

そのまま、二人は午後の授業へ向かった。

 

***

 

夕方になると、ホグワーツはすっかりお祭り気分に包まれていた。

 

大広間には、色とりどりの料理が並んでいる。

 

ハリーとロンも、いつもの席についていた。

 

「見ろよ、ハリー!」

 

ロンが目を輝かせた。

 

「今日は南瓜のタルトまであるぞ!」

 

「本当だ」

 

ハリーは笑った。

 

午前中の嫌な出来事も、美味しそうな料理を前にすると、少しずつ遠ざかっていく。

 

ふと、スリザリンのテーブルへ目を向けた。

 

冷泉水那子がいた。

 

今日は、いつもより少し華やかな髪飾りをつけている。

 

黒髪には深紅の細いリボンが結ばれ、その隣には、銀色の小さな飾りが光っていた。

 

彼女は友人たちと談笑している。

 

ときおり、優雅にティーカップを持ち上げる姿は、相変わらず絵になるものだった。

 

ハリーは思わず微笑んだ。

 

先日のお茶会以来、彼女とは廊下で挨拶を交わすようになっていた。

 

たったそれだけのことなのに、ハリーにとっては大きな変化だった。

 

以前は、遠くから見つめることしかできなかった。

 

けれど今は、彼女の方から名前を呼んでくれることもある。

 

そのたびに、胸が高鳴る。

 

ハリーは、そんな自分の気持ちを、まだ上手く説明できずにいた。

 

もっとも、ロンにはすっかり見抜かれているようだったが。

 

「……おい、ハリー」

 

「何?」

 

「また冷泉様を見てるのか?」

 

「……別に!」

 

ロンはにやりと笑った。

 

「はいはい」

 

ハリーは顔を赤くして、目の前の料理に視線を戻した。

 

そのときだった。

 

「……そういえば、ハーマイオニーは?」

 

ふと思い出したように、ハリーが尋ねた。

 

ロンも周囲を見渡した。

 

「……いないな」

 

ちょうど、近くに座っていたパーバティ・パチルが口を開いた。

 

「ハーマイオニーなら、ずっと女子トイレにいるわよ」

 

「女子トイレ?」

 

「ええ。泣いてたみたい。午後の授業にも出てこなかったもの」

 

ハリーは胸がちくりと痛んだ。

 

ロンも、気まずそうに目を逸らした。

 

「……まだ泣いてるのかな」

 

ハリーが呟いた。

 

「……さあ」

 

ロンは小さく答えた。

 

どうにも、気分が晴れなかった。

 

けれど、そのときの二人には、まだ何かをする勇気がなかった。

 

そして、そんな彼らをよそに、大広間の宴は続いていた。

 

――突然、扉が勢いよく開かれるまでは。

 

***

 

「トロールだ!」

 

クィレル先生が、大広間へ駆け込んできた。

 

顔は真っ青で、息も絶え絶えだった。

 

「地下牢に……トロールが……!」

 

先生はそう叫ぶと、その場で気を失ってしまった。

 

一瞬の沈黙。

 

そして、大広間は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 

「静粛に!」

 

ダンブルドア校長の声が響いた。

 

大広間が静まり返る。

 

「監督生諸君! 生徒たちを、各寮の談話室へ連れて行くように!」

 

教師たちが一斉に動き始めた。

 

ハリーとロンも、慌てて立ち上がる。

 

スリザリンのテーブルでは、水那子が既に席を立っていた。

 

彼女は近くの下級生へ何かを告げると、ほかの生徒たちとともに監督生のもとへ向かった。

 

その表情は、驚くほど落ち着いていた。

 

ハリーは少しだけ安心した。

 

水那子なら、きっと大丈夫だろう。

 

彼女の周囲には、いつも頼りになる上級生たちがいるのだから。

 

そして、ハリーもロンとともに大広間を出た。

 

ところが、階段へ差しかかったところで、ハリーは重大なことに気づいた。

 

「……ロン!」

 

「何だよ!」

 

「ハーマイオニーだ!」

 

ロンが足を止めた。

 

「……あっ」

 

二人は顔を見合わせた。

 

ハーマイオニーは、女子トイレにいる。

 

しかも、トロールが現れたことを知らない。

 

「……どうする?」

 

ロンが尋ねた。

 

ハリーは一瞬迷った。

 

先生の命令では、談話室へ戻らなければならない。

 

けれど。

 

ハーマイオニーを、そのままにしておくわけにはいかなかった。

 

「……助けに行こう」

 

ハリーは言った。

 

ロンも、すぐに頷いた。

 

「……うん」

 

二人は、生徒たちの列からそっと抜け出した。

 

***

 

薄暗い廊下を、二人は走った。

 

遠くから、重い足音が響いてくる。

 

ずしん。

 

ずしん。

 

何か巨大なものが、床を踏み鳴らしている。

 

「……あれ?」

 

ロンが立ち止まった。

 

角の向こうに、異様な影が見えた。

 

身の丈は三メートル以上。

 

灰色がかった皮膚。

 

岩のように大きな頭。

 

そして、太い腕には、恐ろしいほど巨大な棍棒を握っている。

 

トロールだった。

 

「……うわあ」

 

ハリーは、思わず息を呑んだ。

 

あまりにも巨大だった。

 

先日遭遇した三つ首の犬も恐ろしかったが、目の前の怪物はまた違う恐怖を感じさせた。

 

あの棍棒で殴られたら、ひとたまりもないだろう。

 

トロールは、廊下の奥へと進んでいく。

 

その先には――。

 

女子トイレがあった。

 

「……まずい!」

 

ハリーが叫んだ。

 

二人は慌てて駆け出した。

 

何とかトロールをトイレの中へ閉じ込めることには成功したものの、その直後、二人は重大なことに気づいた。

 

ハーマイオニーが、中にいるのだ。

 

「……しまった!」

 

ハリーは慌てて扉を開けた。

 

中では、ハーマイオニーが壁際に縮こまっていた。

 

そして、そのすぐ近くに、巨大なトロールが立っていた。

 

「ハーマイオニー!」

 

ハリーは叫んだ。

 

トロールが振り向いた。

 

巨大な棍棒が、ゆっくりと持ち上がる。

 

ハリーは考えるより早く動いていた。

 

近くに落ちていた物を投げつけ、トロールの注意を引く。

 

ロンも必死に叫んだ。

 

しかし、怪物は怯まなかった。

 

それどころか、苛立ったように棍棒を振り回した。

 

がしゃん!

 

洗面台が砕け散った。

 

石の破片が飛び散る。

 

ハーマイオニーが悲鳴を上げた。

 

「ハリー!」

 

ロンの叫び声が響く。

 

ハリーは無我夢中でトロールに飛びかかった。

 

気づけば、怪物の背中にしがみついていた。

 

右手に握った杖が、偶然にもトロールの鼻へ突き刺さる。

 

怪物が絶叫した。

 

ハリーは振り落とされそうになりながら、必死にしがみついた。

 

そのときだった。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」

 

ロンの声が響いた。

 

巨大な棍棒が、ふわりと浮き上がった。

 

そして――。

 

どすん!

 

トロールの頭へ、見事に落下した。

 

怪物は目を回した。

 

そのまま、ゆっくりと膝を折る。

 

巨大な身体が、床へ倒れ込んだ。

 

凄まじい音が響いた。

 

そして、静寂が訪れた。

 

***

 

「……やった?」

 

ロンが呟いた。

 

ハリーは、恐る恐るトロールを見た。

 

怪物は動かない。

 

どうやら、気を失ったらしい。

 

「……やったんだ!」

 

ハリーは叫んだ。

 

ロンも、ようやく笑顔を浮かべた。

 

「僕がやったんだ!」

 

「凄いよ、ロン!」

 

二人は興奮していた。

 

たった今、自分たちが何をしたのか、まだ実感が湧かなかった。

 

けれど、少なくとも。

 

ハーマイオニーは無事だった。

 

それだけは確かだった。

 

「……大丈夫?」

 

ハリーが尋ねると、ハーマイオニーは震えながら頷いた。

 

「……ええ」

 

彼女はまだ、顔色が悪かった。

 

けれど、怪我はないらしい。

 

ハリーはほっと胸を撫で下ろした。

 

そのとき、廊下から足音が響いてきた。

 

「一体、何があったのです!」

 

マクゴナガル先生だった。

 

後ろにはスネイプ先生とクィレル先生もいる。

 

三人は、倒れたトロールと、散々に破壊されたトイレを見て、言葉を失った。

 

そして、次の瞬間。

 

「ポッター! ウィーズリー! グレンジャー!」

 

マクゴナガル先生の怒声が響いた。

 

「あなたたちは、一体何を考えているのですか!」

 

ハリーは縮み上がった。

 

せっかくトロールを倒したのに、今度こそ退学になるかもしれない。

 

そう思った。

 

けれど、そのとき。

 

「……先生」

 

ハーマイオニーが口を開いた。

 

三人の視線が、彼女へ向く。

 

「……私が、悪いんです」

 

ハリーは驚いた。

 

「……ハーマイオニー?」

 

彼女は小さく息を吸った。

 

「私が、トロールを探しに行ったんです。自分なら、魔法で倒せると思って……」

 

マクゴナガル先生が目を見開いた。

 

「何ですって?」

 

「……でも、できませんでした」

 

ハーマイオニーは俯いた。

 

「ハリーとロンが、助けてくれたんです。二人がいなかったら、私は……」

 

声が震えた。

 

ハリーは、何も言えなかった。

 

ハーマイオニーは、嘘をついている。

 

自分たちを庇うために。

 

さっきまで泣いていたはずなのに。

 

自分たちのせいで、ひどく傷ついていたはずなのに。

 

それでも、彼女は二人を守ろうとしてくれている。

 

ハリーは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

マクゴナガル先生は深々と溜息をついた。

 

「……ミス・グレンジャー。あなたには失望しました」

 

厳しい声だった。

 

「グリフィンドールから五点減点します」

 

ハーマイオニーは、小さく頷いた。

 

「……はい」

 

「ですが、ポッターとウィーズリー。あなたたちが彼女を救ったことは事実です」

 

先生は二人へ向き直った。

 

「それぞれ、五点を加点しましょう。ただし、二度とこのような無謀なことはしないように!」

 

「……はい!」

 

二人は声を揃えた。

 

ハリーは、ようやく肩の力を抜いた。

 

助かった。

 

本当に、助かったのだ。

 

ところが――。

 

その瞬間だった。

 

ずしり。

 

何かが、動いた。

 

***

 

「……?」

 

ハリーは振り返った。

 

床に倒れていたトロール。

 

その巨大な指が、ぴくりと動いた。

 

続いて、腕が持ち上がる。

 

岩のような頭が、ゆっくりと起き上がる。

 

「……まさか」

 

ロンが呟いた。

 

次の瞬間。

 

「グオオオオオッ!」

 

トロールが咆哮した。

 

凄まじい音圧が、トイレ中に響き渡る。

 

「下がりなさい!」

 

マクゴナガル先生が叫んだ。

 

スネイプ先生も、素早く杖を構えた。

 

しかし、怪物の方が早かった。

 

怒り狂ったトロールは、倒れた棍棒へ手を伸ばし、そのまま立ち上がろうとした。

 

巨大な影が、ハリーたちへ覆いかぶさる。

 

マクゴナガル先生が杖を振り上げる。

 

スネイプ先生の口が、呪文を形作る。

 

そのときだった。

 

――ぱちん。

 

乾いた、小さな音が響いた。

 

そして、誰もいなかったはずのトイレの入口に、ひとりの少女が現れた。

 

***

 

白い紙片が、宙を舞っていた。

 

それは、ハリーが初めて見る文字の書かれた、小さな長方形の紙だった。

 

朱色の線が、複雑な模様を描いている。

 

紙片は空中で一瞬だけ光り、やがて音もなく燃え尽きた。

 

その光の中から現れたのは――。

 

「……冷泉、様?」

 

ロンが呟いた。

 

ハリーは目を見開いた。

 

冷泉水那子。

 

その人だった。

 

黒髪が、ふわりと宙に広がる。

 

深紅の瞳が、立ち上がったトロールを静かに見据えていた。

 

いつもの柔らかな微笑みはない。

 

けれど、恐怖も、焦りもなかった。

 

ただ、静かに。

 

まるで、庭先に迷い込んだ野良犬でも見つめるような目で、怪物を眺めていた。

 

「……やはり、こちらでしたか」

 

水那子が呟いた。

 

その声は、驚くほど落ち着いていた。

 

「妖気の乱れを感じたものですから」

 

マクゴナガル先生が驚愕した。

 

「冷泉! あなた、どうやってここへ――!」

 

しかし、水那子は答えなかった。

 

答える暇がなかった。

 

トロールが、棍棒を振り上げたからだ。

 

その先には、まだ床に座り込んでいるハーマイオニーがいた。

 

「危ない!」

 

ハリーが叫んだ。

 

水那子は、静かに右手を持ち上げた。

 

その指の間には、一枚の白い紙片が挟まれていた。

 

朱で描かれた複雑な文字。

 

それが、淡い青色に輝く。

 

そして――。

 

「――一節、蛟」

 

澄んだ声が響いた。

 

瞬間。

 

轟音とともに、激流が迸った。

 

***

 

ごうっ!

 

水が、空中から生まれた。

 

いや、それは単なる水ではなかった。

 

青白い光を帯びた、巨大な奔流。

 

まるで生き物のようにうねり、渦を巻き、トロールの巨体へと襲いかかった。

 

怪物が、悲鳴を上げた。

 

「グオオッ!?」

 

激流が、その身体を包み込む。

 

棍棒を握った腕が押し戻され、巨大な脚が床から浮いた。

 

そして、凄まじい勢いで後方へ吹き飛ばされる。

 

どんっ!

 

トロールの巨体が、奥の壁へ叩きつけられた。

 

水は、そのまま怪物を押さえつけるように渦を巻いた。

 

まるで、水でできた巨大な蛇が、獲物に絡みついているかのようだった。

 

ハリーは呆然としていた。

 

何だ、これは。

 

杖を振っていない。

 

長い呪文も唱えていない。

 

ただ、短い言葉をひとつ口にしただけだ。

 

それなのに。

 

目の前では、あれほど巨大なトロールが、まるで木の葉のように押し流されていた。

 

水那子は、さらに左手を持ち上げた。

 

その指には、もう一枚の紙片があった。

 

今度は、金色の文字が描かれている。

 

深紅の瞳が、わずかに細められた。

 

「――二節、稲穂」

 

次の瞬間。

 

ぱしんっ!

 

空気が、裂けた。

 

***

 

金色の閃光が迸った。

 

それは、まるで幾筋もの稲妻を束ねたような光だった。

 

細く、鋭く、そして恐ろしく速い。

 

雷光は、複雑な軌跡を描きながら、空中を駆け抜けた。

 

水の渦に囚われたトロールが、目を見開く。

 

そして――。

 

轟ッ!

 

雷が、怪物を貫いた。

 

「グギャアアアアッ!」

 

トロールが絶叫した。

 

巨大な身体が、びくりと跳ね上がる。

 

金色の光が、水の奔流の内側を走り抜ける。

 

その光は怪物の周囲に閉じ込められたまま、外へ漏れることはなかった。

 

やがて、雷鳴が消えた。

 

水の渦が、ふわりとほどける。

 

そして、無数の光の粒となって、空中へ溶けていった。

 

あとに残されたのは、壁際に崩れ落ちたトロールだけだった。

 

今度こそ、完全に動かなくなっていた。

 

静寂。

 

誰も、口を開かなかった。

 

マクゴナガル先生も。

 

スネイプ先生も。

 

クィレル先生も。

 

そして、ハリーたち三人も。

 

誰もが、目の前で起きた出来事を理解できずにいた。

 

あまりにも、速かった。

 

ほんの数秒。

 

いや、ひょっとすると、それよりも短かったかもしれない。

 

教師たちが呪文を完成させるより早く、トロールは二度目の敗北を喫していた。

 

その中心に立つ少女は、何事もなかったかのように、手を下ろした。

 

「……これで、大丈夫でしょう」

 

水那子は小さく息を吐いた。

 

そして、ようやくハリーたちへ振り向いた。

 

いつもの、柔らかな微笑み。

 

「皆さん、お怪我はありませんか?」

 

***

 

「……あ、あの」

 

ハリーは、何とか口を開いた。

 

「……冷泉、様?」

 

「はい?」

 

「……今の、何ですか?」

 

水那子は少し首を傾げた。

 

「ああ。符術です」

 

「……フジュツ?」

 

「ええ。日本に伝わる魔術の一つですよ」

 

水那子は、残った紙片を指先で軽く示した。

 

「紙に術式を記して、そこへ魔力を通して使うのです。わたくしの家では、幼い頃から習うものなんですよ」

 

ハリーは目を丸くした。

 

幼い頃から。

 

あんな凄まじい魔法を?

 

信じられなかった。

 

けれど、水那子はまるで、簡単な家事のやり方でも説明するような口調だった。

 

「先ほどのものは、蛟と稲穂という術です。蛟は水を操り、稲穂は雷を放ちます」

 

「……雷」

 

ロンが呟いた。

 

「……あれ、雷だったんですか?」

 

「ええ」

 

水那子はにこりと笑った。

 

「驚かせてしまいましたね」

 

驚いたなどというものではなかった。

 

ハリーは、まだ心臓がどきどきしていた。

 

あれほど巨大な怪物を、あんなにも簡単に。

 

しかも、彼女は自分たちと一つしか年齢が違わないのだ。

 

すると、マクゴナガル先生がようやく我に返った。

 

「……冷泉!」

 

その声には、驚きと怒りが入り混じっていた。

 

水那子は静かに振り向いた。

 

「はい、先生」

 

「あなた、一体何を考えているのです!」

 

先生は、厳しい表情で詰め寄った。

 

「生徒たちには、談話室へ戻るように命じたはずです!」

 

「はい。承知しています」

 

「それなのに、どうしてここへ!」

 

水那子は少しだけ目を伏せた。

 

「……申し訳ありません」

 

そして、静かに説明を始めた。

 

「トロールが城内へ侵入した際、強い妖気を感じていました。監督生の方に従って談話室へ戻りましたが、その後、再び妖気が大きく乱れたのです」

 

マクゴナガル先生が眉をひそめた。

 

「……妖気?」

 

「はい。魔性を帯びた存在が放つ気配、とでも申しましょうか。こちらの魔法体系では、少し説明が難しいのですが……」

 

水那子は、床に倒れたトロールへ視線を向けた。

 

「最初は先生方にお任せしていました。けれど、再び強い反応が現れましたので、何かあったのではないかと」

 

「それで、勝手に飛び出してきたのですか!」

 

「……はい」

 

「しかも、あなたは今、校内で空間を移動しましたね!」

 

先生の声が、さらに厳しくなった。

 

「ホグワーツには、姿くらましを防ぐ強力な魔法がかかっています! それを、どうやって――!」

 

「それも、符術です」

 

水那子は穏やかに答えた。

 

「英国の姿くらましとは、術理が異なりますので」

 

マクゴナガル先生は、一瞬言葉を失った。

 

その隣で、スネイプ先生が鋭い視線を向けていた。

 

「……興味深い魔術だ」

 

低い声だった。

 

「だが、城の防護を迂回できる魔術を、許可なく行使することがどれほど危険か、理解しているのかね?」

 

水那子は、丁寧に頭を下げた。

 

「はい。軽率でした。申し訳ありません」

 

ハリーは驚いた。

 

あれほど強大な魔法を使った少女が、今は二人の教師に頭を下げている。

 

それも、不満そうな様子を見せることもなく。

 

ただ、静かに。

 

自分の行動について、責任を受け止めているようだった。

 

「……しかし」

 

マクゴナガル先生は深々と溜息をついた。

 

「あなたが、この子たちを守ったことも事実です」

 

先生は、倒れたトロールを見た。

 

そして、もう一度水那子へ向き直った。

 

「……スリザリンから、三十点減点します」

 

ハリーは息を呑んだ。

 

三十点。

 

それは、決して小さな点数ではなかった。

 

水那子は静かに頷いた。

 

「承知しました」

 

「勝手に避難場所を離れ、危険な魔術を使用したことへの罰です。特に、狭い室内で水と雷を扱うなど、一歩間違えればほかの生徒を巻き込むところでした」

 

「……はい」

 

「ですが」

 

マクゴナガル先生は、少しだけ声を和らげた。

 

「結果として、あなたは危険な状況に置かれた生徒たちを救いました。しかも、驚くべき技術で」

 

先生は、改めて水那子を見つめた。

 

「その勇気と技量に対して、五十点を加点します」

 

「……!」

 

ハリーは驚いた。

 

ロンも、思わず声を上げた。

 

「五十点!?」

 

マクゴナガル先生は、じろりとロンを見た。

 

ロンは慌てて口を閉じた。

 

「……ただし、冷泉」

 

先生は厳しく続けた。

 

「次からは、必ず教師の指示に従うこと。わかりましたね?」

 

「はい。肝に銘じます」

 

水那子は深々と礼をした。

 

先生は、ようやく小さく頷いた。

 

***

 

「……それにしても」

 

ハリーは、まだ夢の中にいるようだった。

 

水那子が使った魔法。

 

あの巨大な奔流。

 

黄金色の雷。

 

そして、何より。

 

彼女の落ち着き払った姿。

 

ハリーは、今まで何度も彼女に驚かされてきた。

 

美しい容姿。

 

高貴な家柄。

 

見事な礼儀作法。

 

人を惹きつける話し方。

 

そして、誰もが自然と彼女に敬意を払う、不思議な存在感。

 

けれど、今日見たものは、そのどれとも違っていた。

 

あれは、力だった。

 

圧倒的な、魔法の力。

 

そして、それを当然のように使いこなす技量。

 

ハリーは、改めて思った。

 

この少女は、本当に何者なのだろう。

 

そのときだった。

 

「……水那子様」

 

静かな声が響いた。

 

ハリーが振り向くと、トイレの入口に一人の女生徒が立っていた。

 

黒いローブを纏った、すらりとした少女だった。

 

その表情は、ひどく真剣だった。

 

彼女は水那子の傍らへ歩み寄ると、深々と頭を下げた。

 

「……ご無事で、何よりでございます」

 

「ありがとう」

 

水那子は柔らかく微笑んだ。

 

「あなたも、怪我はありませんでしたか?」

 

「……はい」

 

女生徒は答えた。

 

けれど、すぐに眉をひそめた。

 

「……ですが、水那子様」

 

「はい?」

 

「少々、申し上げたいことがございます」

 

水那子は、きょとんとした顔をした。

 

「……何でしょう?」

 

女生徒は、一瞬だけ言葉を選んだ。

 

そして、静かに口を開いた。

 

「……私がお傍に控えているとはいえ、庭掃除のようなことを、御身が自らなさる必要はございません」

 

ハリーは目を瞬かせた。

 

庭掃除?

 

今のトロール退治が?

 

どうやら、彼女たちにとっては、あの巨大な怪物を倒すことなど、庭を掃除するのと大差ないらしい。

 

それだけでも、十分に驚くべき話だった。

 

女生徒は続けた。

 

「まして、こちらは異国の学び舎でございます。ご家門のお立場をお考えになれば、みだりに危険へ身を晒されることは、お控えいただきたく……」

 

言葉遣いは丁寧だった。

 

けれど、そこには明らかな不満が滲んでいた。

 

水那子は、少し困ったように笑った。

 

「……心配をかけてしまいましたね」

 

「心配などというものではございません」

 

女生徒は即座に答えた。

 

「御身に万一のことがございましたら、私は――」

 

「大丈夫ですよ」

 

水那子が、そっと言葉を重ねた。

 

そして、次の瞬間。

 

彼女は、ふわりと笑った。

 

いつもの、社交の場で見せるような整った微笑みではなかった。

 

もう少し無邪気で。

 

少しだけ悪戯っぽくて。

 

そして、どこか年相応の、少女らしい笑顔だった。

 

「……今くらいは、普通の学生らしくしていてもいいでしょう?」

 

女生徒が、固まった。

 

「……っ」

 

「せっかくホグワーツに来たんですもの。何から何まで守っていただいてばかりでは、少し寂しいです」

 

水那子は、楽しそうに続けた。

 

「それに、こういう経験も、きっと良い思い出になりますよ」

 

「……水那子様」

 

女生徒は、何かを言い返そうとした。

 

けれど、水那子がもう一度微笑むと、その言葉は喉の奥で止まってしまった。

 

「……っ」

 

耳が、赤くなっていく。

 

頬が、みるみる紅潮する。

 

彼女は何とか表情を引き締めようとしたものの、どうにも上手くいかないようだった。

 

水那子は、そんな彼女を見て、小さく笑った。

 

「ふふ。いつもありがとうございます」

 

「……!」

 

女生徒は、完全に撃沈した。

 

しばらくの沈黙。

 

そして、ようやく絞り出すように言った。

 

「……と、とりあえず」

 

声が、少し震えていた。

 

「……危険なことは、控えていただけると助かります……」

 

水那子は、にこりと笑った。

 

「はい。気をつけますね」

 

その返事を聞いて、女生徒は深々と溜息をついた。

 

どうやら、心から納得したわけではないらしい。

 

けれど、それ以上は何も言わなかった。

 

***

 

ハリーは、そのやり取りを呆然と眺めていた。

 

何だろう。

 

胸の奥が、妙に温かい。

 

そして、同時に。

 

どきどきと、心臓が高鳴っている。

 

水那子は、いつも完璧な少女だった。

 

少なくとも、ハリーにはそう見えていた。

 

何を話しても上品で、誰に対しても優しく、どんな場面でも落ち着いている。

 

お茶会では、年上の生徒たちすら自然に従わせていた。

 

今日に至っては、教師たちよりも早く、恐ろしい怪物を倒してしまった。

 

そんな少女が。

 

今、目の前で、護衛の女の子に小言を言われている。

 

しかも、それを少し困ったように笑いながら聞いているのだ。

 

普通の学生らしくしていたい。

 

そんなことを、彼女は言った。

 

ハリーは、思わず微笑んだ。

 

そうか。

 

彼女も、学生なのだ。

 

当たり前のことなのに、今までどこか忘れていた。

 

冷泉水那子。

 

日本の高貴な家柄に生まれた少女。

 

誰もが憧れるような美貌と、圧倒的な魔法の才能を持つ存在。

 

けれど、それだけではない。

 

彼女だって、友達と笑い合いたいのだ。

 

普通の学生として、楽しい学校生活を送りたいのだ。

 

たまには、少し羽目を外してみたいのかもしれない。

 

ハリーは、そんなことを考えた。

 

そして、不意に気づいた。

 

自分は、彼女のことをもっと知りたいと思っている。

 

あの綺麗な瞳のことも。

 

優しい微笑みのことも。

 

見事な魔法のことも。

 

けれど、それ以上に。

 

今のような、少し無邪気な笑顔を、もっと見てみたい。

 

彼女が何を好きで、何を嫌いで、どんなときに楽しいと感じるのか。

 

何を考え、何を望んでいるのか。

 

もっと、話してみたい。

 

もっと、一緒にいたい。

 

そして、できることなら。

 

自分にも、あんなふうに笑いかけてほしい。

 

その瞬間。

 

ハリーは、ようやく理解した。

 

――ああ。

 

――僕は、この人が好きなんだ。

 

胸の奥が、じんわりと熱くなった。

 

今まで、何度も感じていた不思議な気持ち。

 

目が合うたびに高鳴る心臓。

 

名前を呼ばれるだけで嬉しくなる理由。

 

彼女の姿を、つい目で追ってしまう理由。

 

そのすべてに、ようやく名前がついた。

 

恋。

 

きっと、これが恋なのだ。

 

ハリーは、顔が熱くなるのを感じた。

 

どうしよう。

 

相手は、日本魔法界の王家とも言われる名門の少女。

 

しかも、自分より一つ年上の先輩だ。

 

こんな気持ちを抱いてしまって、いったいどうすればいいのだろう。

 

もちろん、答えなど出るはずがなかった。

 

ただ、ひとつだけ。

 

ハリーは、確信していた。

 

自分は、冷泉水那子という少女に、すっかり心を奪われてしまったのだ。

 

***

 

「……ハリーさん?」

 

突然、名前を呼ばれた。

 

「は、はい!」

 

ハリーは飛び上がりそうになった。

 

水那子が、こちらを見ていた。

 

深紅の瞳が、柔らかく細められる。

 

「……大丈夫ですか?」

 

「だ、大丈夫です!」

 

ハリーは慌てて答えた。

 

水那子は、少し不思議そうに首を傾げた。

 

そして、すぐに微笑んだ。

 

「それなら、よかったです」

 

その笑顔を見て、ハリーの心臓がまたしても跳ねた。

 

どうしよう。

 

好きだと自覚してしまった途端、今まで以上に彼女を意識してしまう。

 

まともに顔を見ることすら難しかった。

 

その隣で、ロンが小さく笑っていた。

 

どうやら、何かを察したらしい。

 

ハリーは、ますます顔を赤くした。

 

水那子は、そんな二人を穏やかに見つめていた。

 

そして、ふと視線を動かす。

 

ハーマイオニー。

 

彼女はまだ少し震えていたが、先ほどよりは落ち着いていた。

 

ハリーとロンの傍に立ち、何か言いたげな表情をしている。

 

水那子は、静かに目を細めた。

 

先ほどの会話は、聞こえていた。

 

ハーマイオニーが、自分からトロールを探しに行ったと言ったこと。

 

ハリーとロンが、それを否定しなかったこと。

 

そして、三人の間に漂う、何とも言えない気まずさ。

 

事情のすべてを知っているわけではない。

 

けれど、何が起きたのか、おおよその見当はついた。

 

おそらく、三人の間には何かしらの諍いがあったのだろう。

 

そして、ハリーとロンは、彼女を助けるために危険を冒した。

 

ハーマイオニーは、その二人を守るために、自ら責任を引き受けた。

 

ならば。

 

これは、彼ら自身に任せるべきことだ。

 

ここで自分が余計な言葉を挟めば、せっかく生まれかけている何かを壊してしまうかもしれない。

 

水那子は、そう判断した。

 

そして、いつもの柔らかな微笑みを浮かべた。

 

「……皆さん」

 

三人が顔を上げる。

 

「本当に、ご無事でよかったです」

 

それだけだった。

 

誰が悪いとも言わない。

 

何があったのかも尋ねない。

 

ただ、三人が無事だったことを、心から喜ぶように微笑んだ。

 

「どうぞ、今夜はゆっくりお休みになってくださいね」

 

そして、静かに会釈した。

 

「それでは、おやすみなさい」

 

ハリーは慌てて頭を下げた。

 

「お、おやすみなさい!」

 

ロンも続いた。

 

「おやすみなさい、冷泉様!」

 

ハーマイオニーも、小さく礼をした。

 

「……ありがとうございました」

 

水那子は、三人へ微笑み返した。

 

そして、護衛の女生徒とともに、廊下の向こうへと歩いていった。

 

その背中を、ハリーはしばらく見送っていた。

 

黒髪が、さらさらと揺れている。

 

深紅のリボンが、柔らかな光を受けて煌めいた。

 

やがて、彼女の姿は曲がり角の向こうへ消えた。

 

それでも、ハリーの胸は、まだどきどきしていた。

 

***

 

「……ポッター」

 

マクゴナガル先生の声が響いた。

 

ハリーは、はっと我に返った。

 

「は、はい!」

 

「あなたたちも、早く談話室へ戻りなさい」

 

「はい!」

 

三人は慌てて頭を下げた。

 

そして、廊下へと出た。

 

教師たちは、倒れたトロールの処理を始めている。

 

その様子を見ながら、ハリーはようやく大きく息を吐いた。

 

長い一日だった。

 

本当に、長い一日だった。

 

すると、隣から小さな声が聞こえた。

 

「……あの」

 

ハーマイオニーだった。

 

ハリーとロンが振り向く。

 

彼女は、少し俯いていた。

 

「……ありがとう」

 

小さな声だった。

 

「……助けに来てくれて」

 

ハリーは、少しだけ笑った。

 

「……うん」

 

ロンも頷いた。

 

「……まあ、当然だろ」

 

けれど、その声は少しぎこちなかった。

 

ハーマイオニーは、ようやく顔を上げた。

 

目にはまだ涙の跡が残っていたが、先ほどよりもずっと落ち着いていた。

 

ロンは、しばらく何かを言いたそうにしていた。

 

そして、ようやく口を開いた。

 

「……さっきのさ」

 

「……え?」

 

「……授業のあとに言ったこと」

 

ロンは、気まずそうに頭を掻いた。

 

「……あれ、ちょっと言いすぎた」

 

ハーマイオニーが、目を見開いた。

 

「……ロン」

 

「……悪かったよ」

 

ロンは、ぼそりと呟いた。

 

ハーマイオニーは、しばらく黙っていた。

 

そして、ゆっくりと首を横に振った。

 

「……私も」

 

彼女は、小さく笑った。

 

「……ちょっと、言い方が悪かったと思う」

 

ロンは、少しだけ驚いた顔をした。

 

そして、照れ臭そうに笑った。

 

「……まあ、そうだね」

 

ハリーは、二人を見比べた。

 

何だか、おかしかった。

 

あんなに仲の悪かった二人が、今はこんなふうに話している。

 

思わず、笑みがこぼれた。

 

「……ねえ」

 

ハリーは言った。

 

「とりあえず、談話室へ戻ろうよ」

 

ロンが頷いた。

 

「そうだね」

 

ハーマイオニーも、にこりと笑った。

 

「ええ」

 

三人は、並んで歩き始めた。

 

***

 

グリフィンドールの談話室へ戻る頃には、すっかり夜も更けていた。

 

暖炉には、赤々と火が燃えている。

 

生徒たちは、ハロウィーンの騒動について興奮気味に話していた。

 

トロールが出たこと。

 

教師たちが慌てていたこと。

 

そして、スリザリンの二年生が、奇妙な魔法で怪物を倒したという噂。

 

水那子の話は、既に城中へ広まり始めているようだった。

 

「……冷泉様、凄かったな」

 

ロンが呟いた。

 

「うん」

 

ハリーは頷いた。

 

「……本当に」

 

「何なんだろうな、あの魔法」

 

「……わかんない」

 

ハリーは、少し考えた。

 

蛟。

 

稲穂。

 

あの短い言葉とともに放たれた、圧倒的な魔法。

 

今まで見たどんな魔法とも違っていた。

 

けれど、それ以上に印象に残っているのは――。

 

彼女が、護衛の少女へ向けた笑顔だった。

 

普通の学生らしくしていたい。

 

その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

 

ハリーは、そっと微笑んだ。

 

すると、ロンがにやりとした。

 

「……おい、ハリー」

 

「……何?」

 

「君、やっぱり冷泉様のこと、好きなんだろ?」

 

「……!」

 

ハリーは、顔を真っ赤にした。

 

いつもなら、慌てて否定していただろう。

 

けれど、今日は。

 

なぜだか、上手く言葉が出てこなかった。

 

「……別に」

 

ようやく、そう呟く。

 

ロンはますます楽しそうに笑った。

 

「はいはい」

 

ハーマイオニーは、不思議そうに二人を見ていた。

 

「……何の話?」

 

「いや、何でもないよ!」

 

ハリーが慌てて答える。

 

ロンは、腹を抱えて笑い始めた。

 

ハーマイオニーは首を傾げた。

 

そして、つられるように笑った。

 

ハリーも、とうとう笑い出してしまった。

 

***

 

その夜。

 

ハリーは、ベッドに横たわりながら、今日の出来事を思い返していた。

 

トロール。

 

ロンの呪文。

 

ハーマイオニーの勇気。

 

そして、冷泉水那子。

 

あまりにも多くのことが起きた一日だった。

 

けれど、ひとつだけはっきりしている。

 

今日、自分たちは大切なものを手に入れたのだ。

 

ハーマイオニーという、新しい友達。

 

彼女は少し口うるさいし、何でも知っているつもりになるところもある。

 

けれど、本当は勇敢で、優しい女の子だった。

 

ロンも、きっとそう思っているだろう。

 

何しろ、自分たちを庇うために、先生へ嘘をついてくれたのだから。

 

そんな相手を、もうただの口うるさい同級生だと思うことなどできなかった。

 

ハリーは、そっと目を閉じた。

 

暖かな布団。

 

静かな寝室。

 

そして、隣のベッドから聞こえるロンの寝息。

 

ダーズリー家にいた頃には、想像もできなかったような毎日だった。

 

この学校へ来て、本当によかった。

 

そう思った。

 

そして、眠りに落ちる直前。

 

ハリーの脳裏に、深紅の瞳が浮かんだ。

 

柔らかな微笑み。

 

長い黒髪。

 

そして、あの言葉。

 

――今くらいは、普通の学生らしくしていてもいいでしょう?

 

ハリーは、思わず微笑んだ。

 

好きだ。

 

やっぱり、好きなのだ。

 

冷泉水那子という、一つ年上の少女のことが。

 

その気持ちを胸に、ハリーはゆっくりと眠りへ落ちていった。

 

ハロウィーンの夜。

 

ハリー・ポッターは、ひとつの恋を自覚した。

 

そして、もうひとつ。

 

生涯にわたって大切な意味を持つ、二人の親友を得たのだった。

 

ハリーとロンとハーマイオニー。

 

三人は、この日を境に、かけがえのない友達となった。

 

それは、どんな魔法よりも不思議で、素晴らしい出来事だったのかもしれない。

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