ハロウィーンの翌朝。
ハリー・ポッターは、これまでとは少し違った気持ちで大広間へ向かっていた。
理由は、二つある。
ひとつは、昨夜のトロール騒動だ。
巨大な怪物に襲われ、命からがら逃げ回った挙句、ロンが初めて成功させた浮遊魔法で何とか倒すことができた。
しかし、その直後にトロールが再び立ち上がったときには、本当に死ぬかと思った。
あのとき、冷泉水那子が現れなかったら。
そう考えると、今でも背筋が寒くなる。
そして、もうひとつ。
こちらの方が、ハリーにとってはずっと大きな変化だった。
ハーマイオニー・グレンジャーが、友達になったのである。
「……それでね、ロン」
大広間へ向かう廊下で、ハーマイオニーは熱心に話していた。
「昨日のトロール、あれはたぶん山トロールだったと思うの。図鑑で読んだことがあるわ」
「へえ」
「山トロールは、普通のトロールよりも身体が大きくて、とても力が強いのよ。でも、知能はあまり高くないから――」
「ハーマイオニー」
ロンが口を挟んだ。
「……何?」
「朝ご飯の前に、あの臭い怪物の話はやめようよ」
ハーマイオニーは口を尖らせた。
「ただ、興味深いと思っただけよ」
「そりゃ興味深いさ。僕たち、危うく食べられるところだったんだから!」
ハリーは思わず笑った。
昨日までなら、二人はこのまま喧嘩になっていただろう。
けれど今朝は、ハーマイオニーも少しだけ笑っていた。
それが、何だか嬉しかった。
ハリーには、友達がほとんどいなかった。
ダーズリー家で暮らしていた頃は、ダドリーに睨まれるのを恐れて、誰もハリーと親しくしようとはしなかったからだ。
それが今では、ロンがいる。
そして、ハーマイオニーもいる。
自分の隣を歩き、当たり前のように話しかけてくれる友達が、二人もいるのだ。
ハリーは、思わず笑顔になった。
そんな三人が大広間へ入ったときだった。
「あら。皆さん、おはようございます」
澄んだ声が響いた。
ハリーの心臓が跳ね上がった。
冷泉水那子だった。
***
「お、おはようございます!」
ハリーは慌てて挨拶した。
ロンも、嬉しそうに手を振る。
「おはようございます、冷泉様!」
水那子は、いつもの柔らかな微笑みを浮かべた。
ハロウィーンの夜に見せた、恐ろしいほどの魔法の使い手とは思えない、穏やかな姿だった。
「昨夜は大変でしたね。お身体に変わりはありませんか?」
「はい!」
ハリーは勢いよく頷いた。
「僕たちは大丈夫です!」
「それは何よりです」
水那子は微笑んだ。
そして、ハーマイオニーへ視線を向けた。
「グレンジャーさんも、お怪我はありませんでしたか?」
「……えっ?」
ハーマイオニーは少し驚いた。
「は、はい。大丈夫です」
「よかったです。昨夜は怖い思いをなさったでしょう」
水那子は心配そうに眉を寄せた。
「無事で、本当に安心しました」
ハーマイオニーは、少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
「ふふ。どういたしまして」
水那子は微笑んだ。
そして、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、グレンジャーさん」
「はい?」
「今度の日曜日、お時間はありますか?」
ハーマイオニーは目を瞬かせた。
「……日曜日、ですか?」
「ええ。午後に、小さなお茶会を開こうと思っているのです」
水那子は、楽しそうに続けた。
「よろしければ、いらっしゃいませんか?」
「……私が?」
ハーマイオニーは、思わず聞き返した。
「ええ、もちろん」
水那子は、少しだけ首を傾げた。
「図書室で、何度かお見かけしたことがあります。とても熱心に勉強なさっているので、以前から一度お話ししてみたいと思っていたのです」
ハーマイオニーは、すっかり驚いてしまった。
「……そうなんですか?」
「ええ。それに、ハリーさんとロンさんともお友達になられたのでしょう?」
水那子は二人へ視線を向けた。
「もちろん、お二人にもまた来ていただけたら嬉しいです」
「行きます!」
ハリーは即答した。
ロンも、ほとんど同時に頷いた。
「僕も!」
水那子は、くすりと笑った。
「ありがとうございます」
そして、改めてハーマイオニーへ向き直る。
「グレンジャーさんは、いかがでしょう?」
ハーマイオニーは少し迷った。
冷泉水那子。
その名前は、入学してから何度も耳にしていた。
日本魔法界の名門に生まれた少女。
スリザリンの二年生でありながら、上級生や監督生たちにも一目置かれているという。
しかも、昨夜はトロールを、見たこともない魔法で倒してしまった。
そんな人物が、自分をお茶会に招待してくれるというのだ。
断る理由などなかった。
「……はい。ぜひ、参加させてください」
ハーマイオニーは、少し緊張しながら答えた。
水那子は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。では、詳しいことは後ほどお知らせしますね」
そう言って、優雅に会釈した。
「それでは、皆さん。よい一日を」
三人も挨拶を返した。
水那子は、さらさらと黒髪を揺らしながら、スリザリンのテーブルへ戻っていった。
その後ろ姿を見送って、ロンが呟いた。
「……やっぱり、すごいなあ」
ハリーも、黙って頷いた。
けれど。
ハーマイオニーだけは、少し複雑な表情をしていた。
***
十一月三日、日曜日。
ホグワーツの庭園には、冷たい秋風が吹いていた。
木々の葉はすっかり色づき、池の周囲には赤や黄色の落ち葉が積もっている。
けれど、池に面したパティオには暖かな空気が満ちていた。
小さな魔法の暖房器具が置かれ、白いクロスを掛けた円卓には、銀のティーポットと色とりどりの菓子が並んでいた。
今日のお茶会は、以前よりもずっと小規模だった。
参加者は、水那子を含めて八人。
ハリー、ロン、ハーマイオニー。
そして、ハッフルパフのスーザン・ボーンズとジャスティン・フィンチ=フレッチリー、レイブンクローのパドマ・パチル、スリザリンのダフネ・グリーングラスだった。
すっかり顔馴染みになった者もいれば、まだあまり話したことのない者もいる。
けれど、前回の大きなお茶会とは違い、今日は一つのテーブルを囲む、気楽な集まりだった。
「まあ、ハーマイオニーさん。今日は来てくださってありがとうございます」
水那子は、彼女を見つけると微笑んだ。
「こ、こんにちは」
ハーマイオニーは慌てて挨拶した。
「ご招待いただいて、ありがとうございます」
「ふふ。こちらこそ」
水那子は、彼女を席へ案内した。
ハリーとロンも、既に席についている。
ハーマイオニーはその隣に座った。
そして、改めて会場を見渡した。
美しい紅葉。
白いテーブルクロス。
見事な陶磁器。
そして、中央に座る黒髪の少女。
すべてが、あまりにも調和していた。
ハーマイオニーは、思わず息を呑んだ。
水那子の姿は、まるで絵本の中の貴族の令嬢のようだった。
長く艶やかな黒髪。
白い肌。
深紅の瞳。
そして、何気ない仕草の一つひとつに漂う、洗練された気品。
彼女は決して、特別に着飾っているわけではなかった。
ホグワーツの制服に、上品なカーディガンを羽織っているだけだ。
けれど、それでも。
彼女がそこにいるだけで、周囲の景色まで美しく見えるのだ。
ハーマイオニーは、無意識に自分の髪へ手を伸ばした。
膨らみやすい、茶色い癖毛。
朝、どれだけ丁寧に梳かしても、すぐに広がってしまう髪。
今日だって、出かける前に何度も鏡を見たのだ。
それなのに、冷たい風に吹かれた今は、もうあちこちが跳ねている。
ハーマイオニーは、そっと手を引っ込めた。
***
お茶会は、穏やかに始まった。
「ハーマイオニーさんは、魔法史がお好きだと伺いました」
水那子が尋ねた。
「ええ!」
ハーマイオニーは、ぱっと顔を上げた。
「すごく面白いと思います。特に、マグルと魔法使いの関係が時代によって変わってきたところなんか、もっと詳しく調べてみたくて」
「まあ。素敵ですね」
水那子は微笑んだ。
「わたくしも歴史は好きです。もっとも、ヨーロッパの魔法史は、まだまだ知らないことばかりですけれど」
「そうなんですか?」
「ええ。日本とは歴史の流れが違いますから」
水那子は、楽しそうに続けた。
「同じ魔法使いでありながら、国や時代によって社会の仕組みがずいぶん違うでしょう? そうした違いを知るのは、とても興味深いことです」
ハーマイオニーは、すっかり話に引き込まれた。
日本の魔法史。
魔法使いとマグルの関係。
魔法省と、それに相当する日本の統治機構。
話題は次々と広がった。
そのうち、スーザンも会話に加わった。
「イギリスの魔法法制なら、私の叔母が詳しいわ」
「そうでしたね。ボーンズさんの叔母様は、ウィゼンガモットの重職に就いていらっしゃるのでしたね」
水那子が頷く。
「ええ。アメリア・ボーンズっていうの」
「一度、お話を伺ってみたいものです」
「叔母も、きっと喜ぶと思うわ」
スーザンは笑った。
ハーマイオニーも、興味深そうに頷いた。
けれど、そのとき。
彼女の胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さった。
自分は、魔法史の本をたくさん読んでいる。
授業でも、先生の質問に答えられることが多い。
それは、誇らしいことだった。
けれど、水那子は違う。
彼女は、知識を披露するために話しているのではない。
相手が何に興味を持っているのかを知り、その話を広げている。
そして、気づけば周囲の人々が、自然と会話に加わっている。
ハーマイオニーは思った。
自分が同じことをしようとしたら、きっとまた、余計なことまで説明してしまうだろう。
誰かに間違いを指摘されれば、つい言い返してしまうかもしれない。
それなのに、彼女は。
何もかも、あんなに上手なのだ。
***
「そういえば、ハーマイオニーさん」
水那子が、ふと尋ねた。
「ご実家は、歯科のお仕事をなさっているのでしたね?」
「……えっ?」
ハーマイオニーは驚いた。
「どうして、それを?」
「ジャスティンさんから、少し伺ったんです。マグルの社会には、歯を専門に診るお医者様がいらっしゃるのですね」
「ええ。両親は二人とも歯科医なの」
「まあ。ご両親ともに」
水那子は、感心したように頷いた。
「それは素晴らしいですね」
「……そうかしら」
ハーマイオニーは、少し戸惑った。
魔法界へ来てから、両親の仕事について興味を持ってもらえることは、あまりなかった。
魔法使いの家に生まれた子たちは、マグルの職業についてほとんど知らない。
なかには、そもそも関心を示さない者もいる。
マルフォイのように、マグル生まれであることを見下す生徒さえいるのだ。
けれど、水那子は。
「ええ。歯を治療するためには、長い勉強と訓練が必要なのでしょう?」
「……そうよ」
「魔法を使わずに、人の身体を治療する技術を身につけていらっしゃるなんて。とても立派なお仕事だと思います」
ハーマイオニーは、思わず目を見開いた。
魔法を使わないから、劣っている。
そう考える人は、少なくない。
けれど、水那子はまるで逆だった。
魔法を使わないのに、同じことができる。
そのことに、素直な敬意を示しているのだ。
「……ありがとう」
ハーマイオニーは、小さく答えた。
水那子は嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ。いつか、詳しく教えてくださいね」
その笑顔は、本当に綺麗だった。
そして。
ハーマイオニーは、そんな彼女に対して、ひどく嫌な感情が湧き上がってくるのを感じた。
***
嫉妬。
その言葉が、頭に浮かんだ。
ハーマイオニーは、慌てて打ち消そうとした。
そんなはずはない。
だって、水那子は何も悪いことをしていない。
むしろ、こんなにも親切にしてくれている。
自分をお茶会に招いてくれた。
両親の仕事を褒めてくれた。
誰に対しても公平で、優しくて、礼儀正しい。
それなのに。
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
ハーマイオニーは、そっと視線を落とした。
自分は、勉強ならできる。
少なくとも、それには自信がある。
魔法界について何も知らないまま入学したから、必死に本を読んだ。
教科書はすべて予習した。
授業では、先生の質問に正確に答えようと努力した。
それが、自分の誇りだった。
けれど、それ以外は?
鏡を見るたびに気になる、まとまりのない癖毛。
どこか不格好に感じる、自分の顔立ち。
魔法使いの家柄も、古い歴史も持たない、マグル生まれの少女。
そして、友達を作るのが下手な自分。
入学してからずっと、周囲と上手く馴染めなかった。
何かを教えようとすれば、口うるさいと言われる。
正しいことを言ったつもりでも、相手を怒らせてしまう。
つい先日まで、まともに友達と呼べる相手さえいなかった。
それなのに。
水那子は、何もかも持っているように見えた。
美貌。
教養。
家柄。
圧倒的な魔法の才能。
そして、誰からも愛される人柄。
しかも。
ハリーまで、彼女を見つめている。
少し離れた場所で、水那子が何かを言って笑った。
すると、ハリーも嬉しそうに笑顔になった。
ハーマイオニーは、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
ハリーが水那子に憧れていることくらい、もう知っている。
ロンが何度もからかっているからだ。
それ自体は、別に構わない。
ハリーが誰を好きになろうと、彼の自由なのだから。
けれど。
あんなふうに、誰もが彼女を好きになる。
彼女が微笑むだけで、周囲の人々が嬉しそうにする。
そんな光景を見ていると。
どうして自分は、あんなふうになれないのだろう。
そう思わずにはいられなかった。
***
「……ハーマイオニーさん?」
水那子が、そっと声をかけた。
ハーマイオニーは、はっと顔を上げた。
「……えっ?」
「紅茶のおかわりはいかがですか?」
水那子は、銀のティーポットを手にしていた。
その表情には、何の悪意もなかった。
ただ、穏やかな気遣いだけがあった。
「……あ、ありがとう」
ハーマイオニーは慌てて答えた。
「いただくわ」
「かしこまりました」
水那子は、優雅な手つきで紅茶を注いだ。
琥珀色の液体が、白いカップに満ちていく。
ふわりと、良い香りが漂った。
「熱いので、お気をつけくださいね」
水那子は微笑んだ。
ハーマイオニーは、小さく頷いた。
「……ありがとう」
そして、またしても自己嫌悪に陥った。
自分は、なんて嫌な人間なのだろう。
相手は、こんなにも親切なのに。
こちらのことを、何も見下していないのに。
むしろ、興味を持ってくれているのに。
そんな相手に嫉妬している。
もし水那子が、意地悪な少女だったなら。
もし、マルフォイのように家柄を鼻にかけ、マグル生まれを見下すような人だったなら。
きっと、こんな気持ちにはならなかった。
嫌いになればよかったのだから。
けれど、彼女は違う。
誰よりも優しくて、誰よりも上品で、誰よりも人に好かれている。
そんな人を妬む自分が、ひどく醜く思えた。
ハーマイオニーは、そっとカップを持ち上げた。
紅茶は、とても美味しかった。
それが、かえって悲しかった。
***
お茶会が終わる頃には、ハーマイオニーも何とか笑顔を作れるようになっていた。
ジャスティンとは、マグルの学校について話ができた。
スーザンとは、魔法界の法律について意見を交わした。
パドマとは、図書室で一緒に勉強する約束をした。
そして、ダフネとは、変身術の課題について話した。
楽しかった。
それは、間違いなかった。
水那子が作ってくれた機会のおかげで、新しい友達もできた。
だからこそ。
ハーマイオニーは、複雑な気持ちを抱えたまま帰路についた。
「どうだった、ハーマイオニー?」
帰り道で、ハリーが尋ねた。
「……え?」
「お茶会。楽しかった?」
ハーマイオニーは、少しだけ考えた。
「……ええ」
そして、素直に答えた。
「とても、楽しかったわ」
「だろ?」
ロンが嬉しそうに笑った。
「冷泉様のお茶会って、すっごくいいよな!」
「……そうね」
ハーマイオニーは頷いた。
すると、ハリーが微笑んだ。
「冷泉様って、すごい人だよね」
その言葉に、ハーマイオニーの胸が、また少しだけ痛んだ。
「……ええ」
今度は、少し小さな声だった。
「……本当に、すごい人ね」
ハリーは、彼女の声に混じったわずかな陰りに気づかなかった。
ロンも同じだった。
二人は楽しそうに、水那子の話を続けている。
ハーマイオニーは、そんな二人の隣を歩きながら、そっと溜息をついた。
そして、心の中で思った。
……私だって。
……あんなふうに、なれたらいいのに。
***
それから数日が過ぎた。
ハリーにとって、その一週間は忙しい日々だった。
理由は、クィディッチである。
十一月九日。
グリフィンドール対スリザリン。
ハリーにとって、初めての公式試合が迫っていた。
オリバー・ウッドは、練習のたびに厳しい指示を飛ばした。
フレッドとジョージは、ブラッジャーの避け方を教えてくれた。
チェイサーの三人も、ハリーを励ましてくれた。
けれど、ハリーは緊張していた。
何しろ、自分は十一歳なのだ。
しかも、試合に出るのは初めて。
相手はスリザリン。
あのマルフォイが所属する寮であり、昨年度の優勝チームでもある。
負けたら、きっと笑われるだろう。
それだけでも嫌なのに。
さらに、もうひとつ。
ハリーにとって、気になることがあった。
水那子は、試合を見に来るのだろうか。
彼女はスリザリンの生徒だ。
当然、自分の寮を応援するのだろう。
けれど、ハリーの初めての試合でもある。
もし、彼女が見てくれていたら。
そう思うだけで、胸が高鳴った。
もっとも。
その期待が、当日になって恐ろしく大きな緊張へ変わることを、ハリーはまだ知らなかった。
***
十一月九日、土曜日。
ホグワーツの空は、よく晴れていた。
もっとも、空気はひどく冷たかった。
クィディッチ競技場には、既に大勢の生徒たちが集まり始めている。
グリフィンドールの赤と金。
スリザリンの緑と銀。
それぞれの寮の旗が、強い風にはためいていた。
ハリーは、更衣室で深々と息を吐いた。
「……緊張する」
思わず呟く。
すると、フレッドが肩を叩いた。
「心配するなって、ハリー!」
ジョージも笑った。
「スニッチを見つけて、捕まえるだけさ!」
「そんな簡単に言わないでよ……」
ハリーが困ったように笑うと、二人は楽しそうに肩を竦めた。
ウッドが、チーム全員を集めた。
「よし、みんな!」
彼は真剣な表情で、選手たちを見渡した。
「今日は絶対に勝つぞ!」
歓声が上がった。
ハリーも、何とか声を出した。
そして、箒を握りしめた。
ニンバス2000。
自分のために用意された、真新しい箒。
これに乗って、初めての公式試合へ出場する。
ハリーは胸の高鳴りを抑えながら、更衣室を出た。
***
観客席は、既に大変な賑わいだった。
「ハリー!」
ロンが、大きく手を振っている。
隣にはハーマイオニーがいた。
二人は、どうやらハリーを応援するための旗まで用意してくれたらしい。
大きな布には、ハリーへの応援の言葉が書かれていた。
ハリーは思わず笑顔になった。
そして。
ふと、別の観客席へ視線を向けた。
スリザリンの生徒たちが集まる一角。
そこに、見覚えのある黒髪の少女がいた。
冷泉水那子だった。
今日は、濃緑色のマフラーを巻いている。
傍らには、先日のトロール騒動でも見かけた、護衛の女生徒が控えていた。
水那子は何人かの上級生と話していたが、ふとハリーの方へ目を向けた。
目が合う。
そして、彼女はにこりと微笑んだ。
小さく、手を振ってくれる。
「……!」
ハリーの心臓が跳ねた。
慌てて手を振り返す。
すると、水那子は楽しそうに微笑み、口元を小さく動かした。
遠くて声は聞こえない。
けれど、何と言ったのかは、何となくわかった。
――頑張ってくださいね。
ハリーは、思わず顔を綻ばせた。
来てくれた。
本当に、見に来てくれたのだ。
その瞬間、緊張が少しだけ和らいだ。
いや、むしろ別の意味で緊張が増してしまったのかもしれない。
けれど、少なくとも。
彼女の前で、格好悪いところは見せたくなかった。
ハリーは、箒を握り直した。
***
試合が始まった。
十五本の箒が、一斉に空へ舞い上がる。
歓声が、競技場を包み込んだ。
ハリーは、空中へ上昇した。
冷たい風が頬を撫でる。
眼下には、広大な競技場。
その周囲を取り囲む、色とりどりの観客席。
そして、遠くにはホグワーツ城の尖塔が見えた。
ハリーは、思わず笑顔になった。
やっぱり、飛ぶのは楽しい。
どれほど緊張していても、箒に乗って空へ出れば、身体が自然に動く。
それは、ハリーにとって不思議な感覚だった。
ウッドが、遠くから声をかけた。
「ハリー! まずはスニッチを探せ!」
「はい!」
ハリーは頷き、競技場を見渡した。
小さな黄金の球。
金色の羽根を持つ、恐ろしく素早いボール。
それを捕まえることが、シーカーである自分の役割だった。
ところが。
スニッチは、なかなか見つからなかった。
その間にも、試合は激しく進んでいく。
クアッフルを追うチェイサーたち。
ブラッジャーを打ち返すビーターたち。
そして、ゴールを守るキーパー。
グリフィンドールとスリザリンの選手たちが、空中で激しく競り合っていた。
スリザリンの選手たちは、かなり荒っぽかった。
時には相手の進路を塞ぎ、時には強引に体当たりを仕掛ける。
観客席からは、何度も非難の声が上がった。
それでも、試合は続いていた。
そして、ハリーはついに。
小さな黄金色の光を見つけた。
「……いた!」
ハリーは、箒を傾けた。
ニンバス2000が、勢いよく加速する。
金色の光が、視界の端を横切った。
ハリーは追いかけた。
あと少し。
もう少し。
そのときだった。
スリザリンの選手が、突然進路へ割り込んできた。
「うわっ!」
ハリーは慌てて箒を引いた。
激しい衝突を避けるため、身体を大きく傾ける。
危うく振り落とされるところだった。
観客席から、怒号が響いた。
審判の笛が鳴る。
ハリーは何とか姿勢を立て直した。
けれど、スニッチは既に見失ってしまっていた。
「……くそっ!」
思わず呟く。
それでも、試合はまだ始まったばかりだ。
もう一度探そう。
そう思って、箒を持ち直した。
――そのときだった。
***
がくん。
箒が、突然大きく揺れた。
「……えっ?」
ハリーは目を瞬かせた。
何かにぶつかったわけではない。
風が強く吹いたわけでもない。
それなのに、箒が勝手に動いたのだ。
「……何だ?」
ハリーは柄を握り直した。
すると、今度は箒が突然横へ跳ねた。
「うわっ!」
身体が傾く。
ハリーは慌ててしがみついた。
しかし、箒は止まらなかった。
右へ。
左へ。
そして、今度は上へ。
まるで、見えない何者かが、箒を無理やり振り回しているかのようだった。
「……やめろ!」
ハリーは必死に箒を押さえつけた。
けれど、何をしても言うことを聞かない。
それどころか、箒はさらに激しく暴れ始めた。
そして。
突然、真下へ急降下した。
「うわあああっ!」
ハリーは悲鳴を上げた。
何とか箒へしがみつく。
しかし、次の瞬間。
身体が、宙へ投げ出された。
***
「ハリー!」
ロンが叫んだ。
観客席が騒然となった。
ハリーの身体が、箒から大きくずり落ちている。
片手だけで柄にしがみつき、必死に身体を支えていた。
けれど、箒は相変わらず激しく暴れている。
今にも、ハリーを振り落としそうだった。
「……何なの、あれ!」
ハーマイオニーが叫んだ。
ロンは真っ青になっていた。
「わかんない! でも、絶対におかしいよ!」
その隣で、ハグリッドも顔をしかめていた。
「……あれは、普通じゃねえな」
「どういうこと?」
ハーマイオニーが尋ねた。
「ニンバス2000が、あんな暴れ方するはずねえ。誰かが何かしてるとしか思えねえぞ」
ハーマイオニーは、はっとした。
誰かが、何かをしている。
つまり。
呪い。
彼女は、慌てて周囲を見渡した。
そして、教師たちのいる観客席へ目を向けた。
そのとき。
ひとりの教師が、じっとハリーを見つめていることに気づいた。
セブルス・スネイプ。
スリザリンの寮監だった。
彼は、険しい表情でハリーを見つめている。
そして、その唇が、絶えず動いていた。
「……!」
ハーマイオニーは息を呑んだ。
何かの呪文を唱えている。
間違いない。
しかも、視線はハリーから一瞬たりとも離れない。
ハーマイオニーの背筋が、ぞくりとした。
――スネイプ先生だ。
――先生が、何かしてるんだ。
彼女は、そう確信しかけた。
ところが。
次の瞬間、その隣の観客席で、もうひとりの人物が動き始めた。
***
冷泉水那子だった。
彼女は、先ほどまで静かに試合を眺めていた。
けれど今は、違う。
深紅の瞳が、空中のハリーを鋭く見据えていた。
その表情からは、いつもの柔らかな微笑みが消えていた。
「……水那子様?」
傍らに控えていた護衛の女生徒が、小さく声をかけた。
水那子は答えなかった。
代わりに、袖口から一枚の符を取り出した。
薄い和紙。
そこには、淡い青色の文字が描かれていた。
水那子は、それを指先で挟んだ。
そして、静かに呟いた。
「――水鏡」
瞬間。
符が、淡い光を放った。
その表面から、澄んだ水が滲み出す。
水滴は空中で集まり、薄く広がっていった。
そして、手のひらほどの、小さな水鏡を形作った。
水那子は、その鏡を覗き込んだ。
***
水鏡。
冷泉家に伝わる符術の一つ。
水面へ対象の姿を映し、そこに生じる魔力や妖気の流れを観測する術である。
単に遠くの景色を映すだけの魔法ではない。
魔術が作用する際に生じる、微細な歪みを読み取る。
ただし、あらゆる魔術の正体や術者を見抜けるわけではなかった。
まして、英国の杖魔法と日本の符術では、魔力の扱い方そのものが違う。
水那子にも、未知の部分は多かった。
けれど。
目の前の異常を理解するには、十分だった。
「……やはり」
水那子が、静かに呟いた。
水鏡には、空中で暴れるハリーの姿が映っていた。
その周囲に、いくつもの魔力の流れが見える。
ひとつは、箒の動きを乱す、不自然な干渉。
そして、もうひとつ。
その干渉を押し戻そうとする、別の魔術の流れ。
水那子は、そっと目を細めた。
複数の魔術が、同じ対象へ作用している。
互いに相反する命令を与え、拮抗しているのだ。
その一方は、既に完成された術式だった。
緻密で、執拗で、持続性に優れる。
そして、もう一方。
それに対抗する魔術も、相当に高度なものだった。
水那子は、周囲を見渡した。
そして、少し離れた席に座る黒衣の教師へ目を向けた。
セブルス・スネイプ。
彼は、険しい表情で何かを唱えていた。
水那子は、再び水鏡へ目を落とした。
彼の唱える呪文と、鏡に映る魔力の変化。
その両者を、慎重に照合する。
やがて。
水那子の瞳が、僅かに細められた。
「……なるほど」
スネイプが唱えているのは、少なくとも箒を暴走させる側の術ではなさそうだった。
むしろ、既にかけられた呪いを押し戻そうとしている。
しかし、その反対呪文も、完全には機能していない。
相手の術が、相当に強いのだ。
そして、その反対呪文の作用が弱まるたび、ハリーの箒は激しく跳ね上がっていた。
水那子は、少しだけ考え込んだ。
――さて。
――どうしたものでしょう。
***
スネイプへ直接声をかけることはできない。
反対呪文を唱えている最中に集中を乱せば、かえって危険だ。
では、自分も杖魔法を使って、箒に干渉するべきか。
それも、得策ではない。
複数人が同じ対象へ魔術をかけたからといって、単純に威力が足し合わされるわけではなかった。
それぞれの魔術が、異なる命令を持つからだ。
解除しようとする対象が同じでも、術式の構造が違えば、互いの魔法が食い合う可能性がある。
まして、今はハリー自身が箒へしがみついている。
下手に魔力を重ねれば、箒の制御が完全に失われるかもしれない。
水那子は、静かに息を吐いた。
――ならば。
――既に成立している魔術を、補助する方がよいでしょう。
彼女は、もう一枚の符を取り出した。
そこには、たった一文字。
朱色の墨で、ひらがなの「ひ」が記されていた。
***
概念符術。
それは、冷泉家に伝わる秘術の中でも、特に高度な術体系だった。
通常の符術が、定められた術式に従って特定の現象を引き起こすのに対し、概念符術は、言葉や文字に宿る意味そのものを媒介とする。
たとえば、「ひ」。
日。
火。
緋。
赤く、明るく、温かなもの。
燃え広がる炎。
万物を照らす陽光。
生命を育む熱。
そして、成長し、増幅し、満ちていく力。
ひとつの音に重なる複数の概念を、術者の解釈によって束ねる。
それが、概念符術の基本だった。
もっとも、概念の数が多ければよいというものではない。
解釈を広げすぎれば、術の方向性が曖昧になる。
強い概念を重ねれば、制御が難しくなる。
だからこそ、術者には明確な意図と、精密な制御が求められるのだ。
水那子は、指先の符を静かに見つめた。
今回、必要なのは炎ではない。
雷でも、水でもない。
スネイプが既に構築している反対呪文を、その形を崩さずに支えること。
弱まりかけた作用を、穏やかに増幅すること。
そして、術が持続するための、わずかな余裕を与えること。
それだけだった。
***
「……水那子様」
護衛の女生徒が、小さく声をかけた。
「ご介入なさるおつもりですか?」
「ええ」
水那子は頷いた。
「ですが、今回は少しだけ」
そして、静かに微笑んだ。
「既に、先生が対処なさっていますから」
女生徒は、スネイプへ視線を向けた。
その唇が、絶えず動いている。
「……なるほど」
「わたくしが無理に割り込んでは、かえって邪魔になってしまいます」
水那子は、水鏡へ視線を戻した。
「ですから、先生の術を少しお手伝いします」
そして、右手を静かに持ち上げた。
指先の符が、柔らかな紅色に輝く。
「――ひ」
たった一音。
それだけだった。
***
朱色の文字が、ふわりと浮き上がった。
符は音もなく燃え尽き、細い光の糸となって水鏡へ吸い込まれる。
鏡面が、淡い茜色に染まった。
その光は、水面に映る複数の魔術のうち、ひとつの流れへと静かに寄り添っていく。
スネイプの反対呪文。
その術式を、外側から包み込むように。
増幅。
持続。
成長。
ただし、決して過剰にはしない。
スネイプの呪文は、彼自身が緻密に制御しているものだった。
そこへ必要以上の魔力を注げば、均衡を崩しかねない。
水那子が選んだのは、反対呪文そのものを強引に書き換えることではなかった。
術が衰えかける瞬間にだけ、わずかな力を添える。
あたかも、消えかけた燭火を風から守るように。
水鏡の表面に、細かな波紋が広がった。
そして、空中のハリーを包む魔力の流れが、少しずつ変化し始めた。
***
「……っ!」
スネイプの眉が、僅かに動いた。
何かが変わった。
自分の反対呪文が、先ほどよりも安定している。
魔力が急激に増えたわけではない。
術式が勝手に書き換えられたわけでもない。
ただ、相手の呪いに押し返されそうになるたび、どこからか僅かな支えが加わっている。
まるで、呼吸を整えてもらっているような感覚だった。
スネイプは、呪文を唱え続けた。
視線を逸らすわけにはいかない。
けれど、その脳裏には、ひとつの可能性が浮かんでいた。
東洋の秘術。
先日のトロール騒動で、校内の誰もが耳にしたという、あの奇妙な魔法。
まさか。
スネイプは、僅かに目を細めた。
しかし、すぐに意識をハリーへ戻した。
今は、考えている場合ではない。
何者かが助けているのなら、それを利用するだけだ。
***
一方、観客席の反対側。
紫色のターバンを巻いた男が、じっとハリーを見つめていた。
クィリナス・クィレル。
闇の魔術に対する防衛術の教師。
彼は、ひどく緊張した表情をしていた。
その唇が、絶えず動いている。
誰にも聞こえないほど、小さな声で。
途切れることなく。
何かを、唱え続けていた。
しかし、そのことに気づいた者はいなかった。
ハリーは、箒から振り落とされまいと必死だった。
ロンは、ハリーの名前を叫んでいた。
ハーマイオニーは、スネイプと、その近くで符術を使う水那子に気を取られていた。
そして、水那子の水鏡も、術の発信源までは捉えていなかった。
競技場には、多くの魔法使いがいる。
飛び交う箒には、さまざまな魔法が施されている。
観客席にも、無数の魔力の反応があった。
箒に作用する魔術の性質は、ある程度読み取れても、それを誰が放っているのかまでは、容易に特定できなかったのだ。
ただ、ひとつ確かなことがある。
ハリーを襲う呪いは、依然として続いていた。
そして、その呪いに抗うため、スネイプと水那子が、異なる魔術体系を用いて、懸命に対抗していたということだった。
***
「……何か、変わった?」
ロンが呟いた。
ハリーの箒は、まだ暴れている。
けれど、先ほどほど激しくはなかった。
それでも、ハリーはまだ片手でしがみついている。
今にも振り落とされそうなことに変わりはない。
「……駄目だわ」
ハーマイオニーが呟いた。
「このままじゃ、ハリーが落ちちゃう!」
彼女は、もう一度スネイプへ視線を向けた。
先生は、まだ何かを唱えている。
そして、その少し離れた場所では、水那子が小さな水鏡を覗き込んでいた。
水鏡の表面には、淡い紅色の光が揺れている。
ハーマイオニーには、それが何を意味するのかわからなかった。
ただ、スネイプと水那子の二人が、何らかの魔術を使っていることだけは確かだった。
その術が、ハリーを助けているのか。
それとも。
ハリーを苦しめているのか。
判断する材料はなかった。
けれど、今はそんなことを考えている場合ではない。
少なくとも、スネイプが唱える呪文を止めれば、何かが変わるかもしれない。
ハーマイオニーは、決意した。
「……ロン!」
「何!?」
「ちょっと、ここにいて!」
「えっ? どこ行くんだよ!」
しかし、ハーマイオニーは答えなかった。
彼女は観客席の隙間を縫うように走り出した。
そして、スネイプのいる観客席へ向かった。
***
ハーマイオニーは、スネイプの背後へ回り込んだ。
彼は、まだハリーを見つめている。
唇が動き続けていた。
隣の方では、水那子が水鏡を覗き込んでいる。
彼女も、何かに集中しているようだった。
ハーマイオニーは、そっと杖を取り出した。
そして、スネイプのローブの裾へ向けた。
小さく呪文を唱える。
次の瞬間。
ぼっ!
黒いローブの裾に、青白い炎が灯った。
「……!」
スネイプが、僅かに身じろぎした。
しかし、呪文を唱えることはやめなかった。
ハーマイオニーは焦った。
もう少し、強く。
そう思って、杖を動かす。
炎が広がった。
「何だ!?」
近くにいた生徒が声を上げた。
「火事だ!」
観客席が騒然となった。
スネイプが、とうとう視線を動かした。
その瞬間。
彼の反対呪文が、途切れかけた。
***
「……っ!」
水那子が、小さく息を呑んだ。
水鏡に映る魔力の流れが、急激に乱れた。
スネイプの反対呪文が弱まっている。
先ほどまで保たれていた均衡が、崩れかけていた。
このままでは。
水那子は、すぐに指先を動かした。
既に展開していた概念符術の作用を、反対呪文の残存部分へ集中させる。
ほんの僅かな時間。
それだけでも、持ち堪えさせなければならない。
「……もう少し」
水那子が呟いた。
そして、そのときだった。
観客席の後方で、何者かが激しくよろめいた。
ハーマイオニーが、混乱に乗じて通路を駆け抜けた際、紫色のターバンを巻いた教師へぶつかったのだ。
「……あっ!」
クィレルが、小さく声を上げた。
その身体が、座席へ倒れ込む。
そして。
彼の唇が、止まった。
***
水鏡に映る魔力の流れが、突然変化した。
箒を乱していた、あの不自然な干渉。
それが、急激に弱まっていく。
「……!」
水那子は、目を細めた。
原因はわからない。
けれど、今だ。
彼女は、残った概念符術の力を、スネイプの反対呪文へ静かに送り込んだ。
そして――。
ぱきん。
水鏡の表面に、小さな波紋が走った。
箒を拘束していた魔術の均衡が、崩れた。
ただし、今度は逆だった。
暴走を引き起こしていた呪いが、消えていく。
反対呪文が、最後の干渉を押し戻す。
そして。
ハリーの箒が、ようやく静かになった。
***
「……あっ!」
ロンが叫んだ。
「ハリーが!」
空中で、ハリーが何とか箒へ這い上がろうとしていた。
先ほどまでの激しい暴走は、嘘のように収まっている。
ハリーは必死に身体を引き上げ、再び箒へ跨った。
そして、大きく息を吐いた。
「……助かった」
心臓が、激しく鳴っていた。
何が起きたのか、まったくわからない。
けれど、少なくとも。
箒は、また自分の言うことを聞くようになっていた。
ハリーは、恐る恐る柄を傾けた。
箒が、滑らかに動く。
大丈夫だ。
本当に、元に戻ったのだ。
ハリーは、ようやく安堵した。
そのとき。
視界の端に、小さな金色の光が走った。
「……!」
スニッチだった。
***
ハリーは、反射的に箒を傾けた。
全身はまだ震えていた。
指先も、ひどく冷たかった。
けれど。
あの黄金色の球を見た瞬間、身体が勝手に動いたのだ。
ニンバス2000が、再び加速する。
スニッチは、地面すれすれを飛んでいた。
ハリーは、必死に追いかけた。
あと少し。
もう少し。
今度こそ。
そう思って手を伸ばした瞬間、ハリーの身体は大きく傾いた。
箒が、地面へ近づく。
そして、思いがけず、ハリーは激しく咳き込んだ。
「……げほっ!」
何かが、喉の奥へ飛び込んできた。
ハリーは慌てて着地した。
そして、口元を押さえた。
観客席が、静まり返る。
ハリーは、恐る恐る口を開いた。
その中にあったのは――。
小さな、黄金色の球だった。
金色の羽根が、ぴくぴくと動いている。
スニッチ。
ハリーは、目を見開いた。
そして、思わず叫んだ。
「……捕まえた!」
次の瞬間。
競技場が、割れんばかりの歓声に包まれた。
***
グリフィンドールの勝利だった。
試合終了。
スニッチを捕まえたハリーは、一躍学校中の話題になった。
仲間たちが駆け寄ってくる。
ウッドは、嬉しさのあまりハリーを抱きしめた。
フレッドとジョージは、大騒ぎしていた。
観客席では、ロンが飛び跳ねている。
ハーマイオニーも、ようやく戻ってきて、ほっとしたように笑っていた。
そして。
スリザリンの観客席。
水那子は、静かに水鏡を消した。
手のひらに残った水滴が、光の粒となって消える。
彼女は、深々と息を吐いた。
「……よかった」
その声には、確かな安堵が滲んでいた。
傍らの護衛が、小さく頭を下げた。
「お疲れ様でございます」
「ふふ。ありがとうございます」
水那子は微笑んだ。
そして、競技場へ目を向けた。
ハリーが、仲間たちに囲まれている。
その手には、黄金色のスニッチが握られていた。
「……初試合で、あのようなことになるなんて」
水那子は、少し困ったように笑った。
「本当に、驚かされますね」
護衛は、何も言わなかった。
けれど、彼女の表情には、どこか呆れたような色が浮かんでいた。
どうやら、水那子がまたしても危険な事態へ関わったことに、言いたいことがあるらしい。
水那子は、それに気づかないふりをした。
そして、もう一度だけ、ハリーへ視線を向けた。
「……それにしても」
小さく呟く。
「やはり、見事な飛行ですね」
水那子は、穏やかに微笑んだ。
***
その日の夕方。
グリフィンドールの談話室は、大変な騒ぎになっていた。
ハリーの初試合。
スリザリンへの勝利。
そして、最後のスニッチ捕獲。
生徒たちは、口々にハリーを褒め称えていた。
フレッドとジョージなどは、ハリーが箒から振り落とされかけた場面を、すっかり面白おかしく再現していた。
「いやあ、あのときは本当に落ちるかと思ったぜ!」
「まるで、箒がハリーを振り落とそうとしてるみたいだったな!」
ハリーは苦笑した。
実際、あのときは本当に死ぬかと思ったのだ。
けれど、今となっては。
少しだけ、笑える気がした。
やがて、騒ぎが一段落すると、ハリーとロンとハーマイオニーは、暖炉の近くへ集まった。
ロンは、まだ興奮していた。
「本当に凄かったよ、ハリー!」
「ありがとう」
「しかも、最後は口でスニッチを捕まえるなんて!」
「……あれは、僕も驚いたよ」
三人は笑った。
けれど、ハーマイオニーだけは、少し考え込んでいた。
そして、やがて口を開いた。
「……ねえ、二人とも」
「何?」
ロンが振り向いた。
「今日の箒のことなんだけど」
ハリーは、表情を引き締めた。
「……うん」
「やっぱり、何かの呪いだったと思うの」
ロンが頷いた。
「僕もそう思うよ。あんなの、普通じゃないもん」
「でしょう?」
ハーマイオニーは、少しだけ声を潜めた。
「それでね。私、気になることがあるの」
ハリーとロンが、顔を近づけた。
「……何?」
「……スネイプ先生よ」
ハリーの表情が、曇った。
「……スネイプ?」
「ええ」
ハーマイオニーは頷いた。
「私、見たの。先生が、ずっとハリーを見つめながら、何かの呪文を唱えていたのよ」
ロンが目を見開いた。
「……本当!?」
「ええ。間違いないわ」
ハーマイオニーは、真剣な表情で続けた。
「しかも、私が先生のローブに火をつけたあと、箒の暴走が収まったの」
「……火をつけた!?」
ハリーが驚いた。
ハーマイオニーは、少しだけ気まずそうに頷いた。
「……ええ。止めなきゃいけないと思ったから」
ロンは、呆気に取られていた。
「……君って、すごいことするんだな」
「そんなこと、今はどうでもいいでしょう!」
ハーマイオニーは、少しむっとした。
「問題は、誰がハリーの箒に呪いをかけたのかってことよ!」
ハリーは、考え込んだ。
スネイプ。
確かに、あの先生は自分を嫌っている。
魔法薬学の授業でも、何度も理不尽に叱られている。
けれど。
まさか、命を狙うほどだろうか。
ハリーは、少し不安になった。
そのとき、ハーマイオニーが続けた。
「……それに、もうひとつ気になることがあるの」
「……何?」
「……冷泉先輩よ」
ハリーの顔から、笑みが消えた。
***
「……冷泉様?」
ロンが聞き返した。
「どうして?」
ハーマイオニーは、少し言葉を選んだ。
「……私、見たのよ」
彼女は、慎重に続けた。
「スネイプ先生が呪文を唱えている、その近くで、冷泉先輩も何かの魔法を使っていたの」
ハリーは、目を瞬かせた。
「……魔法?」
「ええ。符術だと思うわ。トロールのときと似た、紙を使った魔法だったもの」
ロンも、少し驚いた顔をした。
「……冷泉様が?」
「そうよ」
ハーマイオニーは頷いた。
「小さな水の鏡みたいなものを出していたわ。それから、赤い光が見えたの」
ハリーは、少し考えた。
水那子が、符術を使っていた。
それ自体は、驚くことではない。
先日のトロール騒動でも、彼女はあの奇妙な魔法を使っていたのだから。
けれど、今回の話は少し違う。
ハリーの箒が暴走していた、その最中。
スネイプが呪文を唱え、水那子も符術を使っていたというのだ。
「……だから」
ハーマイオニーは、慎重に言った。
「二人のうち、どちらかが呪いをかけていた可能性があると思うの」
ハリーは、息を呑んだ。
「……何だって?」
「もちろん、両方ともとは限らないわ」
ハーマイオニーは、慌てて付け加えた。
「片方が呪いをかけていて、もう片方がそれを止めようとしていたのかもしれない。あるいは、二人とも何か別のことをしていた可能性だってあるわ」
「……ちょっと待ってよ」
ロンが、顔をしかめた。
「君、冷泉様がハリーに呪いをかけたって言いたいの?」
「そうじゃないわ!」
ハーマイオニーは、慌てて首を振った。
「私は、可能性の話をしているの!」
しかし、ロンは納得しなかった。
「だって、冷泉様だぞ!?」
「だから、わかってるわ!」
「先週、トロールから僕たちを助けてくれたじゃないか!」
「ええ、知ってるわ! 私だって助けてもらったもの!」
ハーマイオニーの声が、少し大きくなった。
「でも、だからって、今日の魔法が何だったのかまで、わかるわけじゃないでしょう!」
ハリーは、黙って聞いていた。
けれど、その胸の奥には、じわじわと不快な感情が広がっていた。
水那子が。
自分を、呪った?
そんなこと、あるはずがない。
彼女は、あんなにも優しい人なのだ。
自分たちを助けてくれた。
お茶会に招いてくれた。
飛行訓練のときも、褒めてくれた。
そして、今日も。
試合が始まる前に、笑顔で手を振ってくれた。
そんな人が、自分に呪いをかけるなんて。
ハリーには、到底信じられなかった。
「……冷泉様は、そんなことしないよ」
ハリーは、きっぱりと言った。
ハーマイオニーが、少し驚いたように顔を上げた。
「……ハリー」
「絶対に、そんなことしない」
ハリーは続けた。
「だって、あの人は僕たちを助けてくれたんだよ? 何度も、親切にしてくれたんだ」
「……それは、そうだけど」
「僕は、冷泉様を疑いたくない」
その声には、はっきりとした感情が滲んでいた。
ハーマイオニーは、少しだけ口を閉じた。
けれど、すぐに首を横に振った。
「……私だって、疑いたいわけじゃないのよ」
彼女は、少し悲しそうに言った。
「ただ、何が起きたのかを、ちゃんと考えたいだけなの」
そして、慎重に言葉を選んだ。
「……冷泉先輩は、スリザリンの生徒でしょう?」
「……それが?」
ロンが尋ねた。
「スネイプ先生は、スリザリンの寮監よ」
ハーマイオニーは続けた。
「しかも、冷泉先輩は外国から来た、すごく高貴な家柄の人でしょう?」
「……だから?」
「……だから、いろいろな事情があるかもしれないってことよ」
ハーマイオニーは、少し考えながら話した。
「もし、スネイプ先生が何かしていたとしても、冷泉先輩がそれに逆らえない立場だったら?」
ハリーは、眉をひそめた。
「……どういうこと?」
「例えば、学校の寮監と揉め事を起こすことは、彼女の家にとっても困ることかもしれないでしょう?」
ハーマイオニーは続けた。
「外国の名門の令嬢が、留学先の学校で先生と対立したら、外交上の問題になることだってあるかもしれないわ」
ロンは、ぽかんとした。
「……外交?」
「そうよ。家柄や立場がある人は、何でも自由にできるわけじゃないでしょう?」
ハーマイオニーは、少しだけ熱を込めた。
「だから、もしスネイプ先生が何かしていたとして、冷泉先輩がそれに協力せざるを得ない事情があった可能性だって――」
「そんなこと、あるわけないだろ!」
ロンが、勢いよく遮った。
ハーマイオニーが、びくりとした。
「……ロン!」
「冷泉様は、マルフォイにだってちゃんと注意してたじゃないか!」
ロンは、興奮していた。
「家柄がどうとか、寮がどうとか、そんなことで人を見る人じゃないよ!」
「それは、わかってるわ!」
「だったら、なんでそんなこと言うんだよ!」
ハーマイオニーは、言葉に詰まった。
ハリーも、口を開いた。
「……それに」
彼は、少しだけ強い声で言った。
「冷泉様は、僕がスリザリンと戦うのを応援してくれたんだ」
ハーマイオニーが、目を瞬かせた。
「……え?」
「試合が始まる前に、手を振ってくれた。頑張ってって、言ってくれたんだ」
ハリーは続けた。
「そんな人が、僕を箒から落とそうとするなんて、絶対におかしいよ」
ハーマイオニーは、しばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……でも、それは証拠にはならないわ」
ハリーの表情が、強張った。
「……何だって?」
「……優しくしてくれたからって、何も疑わなくていいわけじゃないでしょう?」
ハーマイオニーは、思わず言い返した。
「私だって、冷泉先輩がいい人だと思ってるわ。でも――」
「じゃあ、いいじゃないか!」
ロンが叫んだ。
「なんでわざわざ、あの人を疑うんだよ!」
ハーマイオニーは、息を呑んだ。
そして。
何も言えなくなった。
***
沈黙が流れた。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てている。
ハーマイオニーは、そっと視線を落とした。
自分は、間違ったことを言っただろうか。
そう考えた。
けれど、すぐには答えが出なかった。
今日、彼女が見たもの。
スネイプ先生の、絶え間ない呪文。
水那子の、奇妙な符術。
そして、ハリーの箒が暴走していたという事実。
それらの間に、何らかの関係がある可能性は高い。
少なくとも、考慮すべき事柄ではあるはずだ。
けれど。
それだけで、誰かを犯人だと決めつけることはできない。
そのことも、ハーマイオニーは理解していた。
だからこそ、可能性という言葉を使ったのだ。
それなのに。
二人は、最初から水那子を疑うこと自体を拒絶している。
ハーマイオニーは、少しだけ悔しくなった。
……どうして。
……どうして、あの人のことになると、こんなにも。
そこまで考えて。
彼女は、はっとした。
胸の奥に、嫌な感情が浮かび上がった。
嫉妬。
先日のお茶会で感じた、あの感情だった。
自分は、冷泉水那子に嫉妬している。
そのことを、もう否定できなかった。
彼女は美しい。
優秀で、上品で、誰にでも好かれている。
しかも、ハリーもロンも、彼女のことを心から信頼している。
ハーマイオニーは、そのことが羨ましかった。
自分は、あれほど必死に勉強しているのに。
正しいことを言おうとすれば、口うるさいと言われる。
何かを指摘すれば、嫌がられる。
それなのに、水那子は。
誰かに何かを教えるときでさえ、自然と相手の好意を得てしまう。
ハーマイオニーは、胸の奥が痛むのを感じた。
……まさか。
……私、嫉妬しているから、こんなことを言っているの?
そう思った瞬間、ひどく嫌な気持ちになった。
もし、そうだとしたら。
自分は、あまりにも卑怯ではないか。
親切にしてくれた相手を、陰で疑っている。
しかも、確かな証拠もないままに。
ハーマイオニーは、唇を噛んだ。
けれど、同時に。
もうひとつの考えが、頭から離れなかった。
……でも。
……だからって、考えることをやめていいの?
好きな人だから、疑わない。
親切にしてくれたから、疑わない。
そんなことでは、何かを見落としてしまうかもしれない。
水那子が悪人だと言いたいわけではない。
むしろ、できることなら、彼女がハリーを助けていたのだと信じたい。
けれど、今の自分には、それを証明することもできないのだ。
ハーマイオニーは、深々と息を吐いた。
結局、自分でもわからなかった。
冷静に考えているつもりなのか。
それとも、嫉妬に判断を歪められているのか。
その境界が、ひどく曖昧に感じられた。
***
「……わかったわ」
やがて、ハーマイオニーが口を開いた。
ハリーとロンが、顔を上げた。
「……何が?」
「……今は、これ以上言わないことにする」
ハーマイオニーは、小さく答えた。
「私だって、冷泉先輩が犯人だって決めつけたいわけじゃないもの」
ハリーは、少しだけ表情を和らげた。
「……うん」
「ただ、何かおかしなことが起きているのは事実でしょう?」
ハーマイオニーは続けた。
「だから、そのことだけは、忘れないでいてほしいの」
ロンは、少し考えた。
そして、ようやく頷いた。
「……まあ、それはそうだね」
ハリーも、小さく頷いた。
「……わかった」
ハーマイオニーは、少しだけ微笑んだ。
けれど。
胸の奥に残ったもやもやは、消えなかった。
***
その夜。
ハリーは、ベッドに横たわりながら、今日の出来事を思い返していた。
初めてのクィディッチ。
スリザリンへの勝利。
そして、突然の箒の暴走。
あれは、本当に恐ろしかった。
もし、あのまま振り落とされていたら。
そう考えると、今でも背筋が寒くなる。
ハーマイオニーの言うとおり、何かがおかしい。
それは、間違いなかった。
けれど。
水那子が、自分を呪った。
そんなことは、どうしても信じられなかった。
ハリーは、そっと目を閉じた。
脳裏に、今日の彼女の姿が浮かんだ。
濃緑色のマフラー。
風になびく黒髪。
そして、試合前に見せてくれた、あの柔らかな微笑み。
ハリーは、思わず顔を綻ばせた。
きっと、あの人は。
今日も、自分のことを心配してくれていたのだと思う。
そう信じたかった。
いや。
信じていた。
ハリーは、静かに息を吐いた。
そして、今夜もまた。
深紅の瞳を思い浮かべながら、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
***
一方、その頃。
グリフィンドール女子寮の寝室では、ハーマイオニー・グレンジャーが、まだ眠れずにいた。
ベッドの上には、一冊の本が開かれている。
魔法の呪いと、その解除について書かれた本だった。
ハーマイオニーは、何度も同じ頁を読み返していた。
けれど、内容がなかなか頭に入ってこない。
代わりに浮かんでくるのは、あの少女の姿だった。
冷泉水那子。
自分をお茶会に招いてくれた、優しい先輩。
誰もが憧れ、誰もが敬意を払う、完璧な令嬢。
そして、ハリーがあれほど夢中になっている少女。
ハーマイオニーは、そっと本を閉じた。
……どうして。
……どうして、こんなに気になるのかしら。
彼女が呪いに関わっていた可能性が、気になるから?
それとも。
自分が、彼女に嫉妬しているから?
考えれば考えるほど、わからなくなった。
ただ、ひとつだけ。
ハーマイオニーは、心の中で願った。
……お願いだから。
……本当に、いい人であってほしい。
そうでなければ。
彼女を羨ましく思い、妬ましく感じている自分は、いったい何を信じればいいのだろう。
ハーマイオニーは、深々と溜息をついた。
そして、ようやく布団を引き上げた。
けれど、眠りに落ちるまでには、まだしばらく時間がかかった。
その胸の奥には、嫉妬と自己嫌悪、そして消しきれない疑念が、複雑に絡み合ったまま残っていた。
かくして、ハリー・ポッターの初めてのクィディッチ試合は、グリフィンドールの勝利に終わった。
けれど、その裏で何が起きていたのか。
誰が呪いをかけ、誰がそれを阻止しようとしていたのか。
その真実を、三人はまだ知らなかった。
そして、冷泉水那子という少女が、彼らの知らないところで、どれほど巧みに状況を見極めていたのかも。
ハリーは、恋する少女への信頼を胸に眠りについた。
ロンは、友達の勝利を喜びながら眠りについた。
そして、ハーマイオニーは。
誰よりも正しくありたいと願いながら、自分自身の感情に苦しんでいた。
彼女たちの友情に、小さな影が落ち始めていることを。
このとき、まだ誰も知らなかった。