うちの美少女アバターに重い過去なんてありません! 作:もろきゅー
目の前にそびえる大きな扉を見上げながら、俺は改めてその建物を観察した。
周囲の商店や民家と比べても一回りは大きく、石造りの外壁には長い年月を経てきたことを思わせる風合いがある。正面の扉も分厚い木材で造られており、表面には頑丈そうな鉄の補強が施されていた。
そして何より、入口の上に掲げられた剣と盾の紋章である。
これまでゲームやアニメで何度も目にしてきた、いかにも冒険者ギルドといった意匠だ。
いやあ、実にいいなあ。
まさか自分が本物の異世界で冒険者ギルドを訪れる日が来るなんて、少し前までは想像もしていなかった。
俺は逸る気持ちを抑えながら扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
途端に、建物の中から大勢の人々の話し声が飛び込んでくる。
外から見た印象どおり、内部もかなり広い造りになっていた。天井は高く、太い木の梁が何本も渡されており、壁にはランプのような照明が等間隔に取り付けられている。
床には使い込まれた木の板が敷き詰められ、あちこちに傷や擦れた跡が残っていた。長年にわたって大勢の冒険者が出入りしてきたのだろう。
そして、その広い室内には、いかにも冒険者といった格好の人々が大勢集まっていた。
腰に剣を下げた男、背中に弓と矢筒を背負った女性、長い槍を片手に仲間と話している若者たち。中には大きな斧を担いだ屈強な男や、全身を金属鎧で覆った騎士のような人物までいる。
これだよ、これ!
まさに俺が想像していた冒険者ギルドそのものじゃないか!
思わず興奮してしまったが、ここで大声を上げるわけにはいかない。今の俺は、あくまで優雅で気品あふれる姫騎士シャルロッテなのだ。
俺は内心の興奮を何とか抑え込み、落ち着いた表情を保ちながら室内を見渡した。
入口から少し進んだ壁際には、大きな掲示板がいくつも設けられている。そこには大小さまざまな紙が貼り出されており、冒険者たちが腕を組んだり、仲間と相談したりしながら眺めていた。
おそらく、あれが依頼掲示板なのだろう。
魔物の討伐依頼や薬草の採取依頼なんかが貼られているのかもしれない。ゲームなら、あそこから好きな依頼を選んで冒険に出発するところだ。
……もっとも、今の俺には何が書かれているのか読めないんだけど。
掲示板の反対側には横に長い受付カウンターが設けられ、いくつかに区切られた窓口では、職員たちが冒険者の対応に追われていた。
さらに奥へ視線を向けると、広い食堂のような場所があることに気がついた。
いくつもの木製のテーブルが並べられ、大勢の人々が食事をしたり、飲み物を片手に談笑したりしている。奥の壁際には酒樽が積まれたカウンターまであり、どうやら酒場も兼ねているらしい。
昼間だというのに、大きな木製のジョッキを片手に笑い合っている男たちもいた。その隣では若い女性が皿に盛られた料理を黙々と食べているし、冒険者には見えない普段着姿の客もちらほらと混じっている。
ああいう場所で仲間と冒険の話をしながら食事をするのも、いつかやってみたいものだ。
そんなことを考えながら室内を眺めていた俺だったが、ふと周囲から視線を向けられていることに気がついた。
入口の近くにいた冒険者たちがこちらを見て何やら話しているし、掲示板の前に立っていた男まで、依頼書から目を離して俺を眺めている。
……うん、やっぱり目立つよなあ。
街道でも街の中でも散々注目されてきたのだから、今さら驚くようなことではない。
むしろ、こういう場所でこそ堂々としていなければ、せっかく作った姫騎士の格好がつかないというものだ。
俺は背筋を伸ばし、できるだけ優雅に見えるよう歩き方を意識しながら、受付カウンターへと向かった。
いくつかある窓口のうち、ちょうど空いたところがあった。
そこに座っていたのは、眼鏡をかけた女性だった。
年齢は二十代の半ばくらいだろうか。淡い栗色の髪を後ろでまとめており、整った顔立ちには落ち着いた雰囲気がある。派手な美人というよりも、優しそうなお姉さんといった印象だ。
女性は手元の書類を整理していたが、俺が近づくと顔を上げた。
「ごきげんよう。受付はこちらでよろしいでしょうか?」
「……え?」
女性は一瞬、ぽかんとしたような表情を浮かべたが、すぐに我に返ったらしく、柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「はい、こちらで承っております。本日はご依頼でしょうか?」
「ありがとうございます。今日は依頼ではなく、冒険者の登録をお願いしたいのですけれど」
「冒険者の登録、ですか?」
女性は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに表情を整えた。
「かしこまりました。それでは、私が担当させていただきます。エリナと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
そう言って、エリナさんは丁寧に頭を下げてきた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」
俺も軽く頭を下げながら、内心で感心していた。
……うーん、実に丁寧な接客だ。
冒険者ギルドというから、もっと荒っぽい雰囲気を想像していたんだけどな。少なくともエリナさんは、普通のお店の店員さんよりもずっと接客が上手そうだ。
「それでは、まずはこちらの登録用紙に、ご記入いただけますでしょうか?」
エリナさんはカウンターの下から一枚の紙を取り出すと、俺の前へ差し出してきた。
そこにはいくつかの項目が設けられていたが、もちろん何が書かれているのかはさっぱり分からない。
「申し訳ありません。こちらの国の文字にはまだ不慣れでして、読み書きができませんの。よろしければ、代筆をお願いできないでしょうか?」
「はい、もちろん構いませんよ」
エリナさんは特に驚く様子もなく、にこやかに頷いた。
「それでは、こちらで記入させていただきますね。まずは、お名前からお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。シャルロッテ・アーデルハイト・セレスティーヌ・フォン・ローゼンハルトと申します。どうぞ、シャルとお呼びくださいませ」
「シャ、シャルロッテ……」
エリナさんの手が止まった。
……やっぱり長かったか。
個人的にはかなり気に入っているのだが、実際に口頭で伝えるとなると、少々面倒かもしれない。
「申し訳ありません。もう一度、お名前をお願いできますでしょうか?」
「もちろんですわ。シャルロッテ・アーデルハイト・セレスティーヌ・フォン・ローゼンハルト、です」
「シャルロッテ・アーデルハイト・セレスティーヌ・フォン・ローゼンハルト……様、ですね」
「ええ、そうですわ。シャルとお呼びくださいませ」
「かしこまりました、シャル様」
エリナさんは何とか名前を書き終えると、小さく息をついた。
我ながら、ちょっと長すぎたかもしれないな。まあ、今さら変更するつもりはないけど。
「それでは、次に得意な武器ですが……」
エリナさんの視線が、俺の腰に下げられた剣へと向けられた。
「ええ。わたくし、こう見えても剣には自信がありますの」
そう言って、俺は腰の剣の柄を軽く叩いてみせた。
「かしこまりました。剣、ですね」
エリナさんは頷くと、さらさらと紙に文字を書き込んでいく。
「それでは、次に犯罪歴の確認をさせていただきます」
「犯罪歴、ですか?」
「はい。当ギルドでは、新しく冒険者登録をされる方に、魔道具による確認をお願いしております。重大な犯罪歴が確認された場合、登録をお断りすることがございます」
……おお、魔道具!
ついに出てきたか、ファンタジーらしいアイテムが!
思わず身を乗り出しそうになったが、何とか踏みとどまった。
「どのようなものなのでしょうか?」
「こちらは、対象となる方の肉体に刻まれた記憶のうち、犯罪に関係するものを読み取る魔道具になります。すべての記憶を確認するわけではありませんので、その点はご安心ください」
「まあ、記憶を読み取れるのですか?」
「はい。ただし、ご本人が罪を犯した記憶だけでなく、犯罪の被害に遭われた記憶や、事件を目撃された記憶なども読み取ってしまうことがございます。また、犯罪とは関係がなくとも、あまりにも強く心に刻まれた記憶などは、読み取ってしまう場合がございます」
へえ、なるほど。
記憶を直接確認できるなんて、ずいぶん便利な魔道具だな。警察なんかが持っていたら、事件の捜査にものすごく役立ちそうだ。
もっとも、他人の記憶を勝手に覗けるというのは、少々怖い気もするけど。
「そのため、本来の目的とは関係のない個人的な記憶まで確認してしまう可能性がございます。こちらの魔道具を使用する際には、必ずご本人の同意をいただく決まりになっておりますので、ご了承いただけましたら、こちらに署名をお願いできますでしょうか?」
エリナさんは別の紙を取り出し、俺の前へ差し出した。
この世界の文字は書けないけど、別に日本語でもいいのかな。
「申し訳ありません。こちらの国の文字では書けないのですけれど……」
「はい。ご本人が書かれたものと確認できれば、普段お使いの文字で構いませんよ」
「それでしたら、問題ありませんわ」
俺は差し出された筆記具を受け取り、紙の空いている部分に名前を書き込んだ。
シャルロッテ・アーデルハイト・セレスティーヌ・フォン・ローゼンハルト。
もちろん、全部カタカナである。
……うーん、こうして書いてみると、やっぱり長いな。
エリナさんは俺の書いた文字を珍しそうに眺めていたが、すぐに書類を受け取って頷いた。
「ありがとうございます。それでは、ご了承いただけたということで、確認を始めさせていただきますね」
「はい、よろしくお願いいたしますわ」
エリナさんはカウンターの下へ手を伸ばすと、何やら重そうなものを取り出した。
それは、金属製の台座に固定された透明な球体だった。大きさは人間の頭ほどもあり、表面は磨き上げられたガラスのように滑らかで、内部には薄い霧のようなものが漂っている。
……おお、これは!
いかにも魔道具って感じじゃないか!
占い師が使っていそうな水晶玉だが、これで記憶を読み取れるというのだから驚きだ。
「それでは、シャル様。こちらに手を置いていただけますでしょうか?」
「ええ、こちらですわね?」
「はい。私は反対側から手を置きますので、そのまま動かさずにお待ちください」
俺は言われたとおり、水晶玉の上に右手を置いた。
ひんやりとした感触が手のひらに伝わってくるが、特に何かが起きる様子はない。
そんなことを考えていた俺だったが、そこでふと、ある可能性に思い至った。
……ちょっと待てよ。
これって、記憶を読み取る魔道具なんだよな?
ということは、俺が異世界から来たこととか、キャラクタークリエイトでシャルを作ったことなんかも、見られちゃうんじゃないだろうか。
いや、それどころか、俺が元々男だったことまで知られてしまったりして……。
……まずくない?
めちゃくちゃまずくないか、それ!?
せっかく完璧な姫騎士として振る舞っているのに、中身が男だなんて知られたら、いろいろと台無しになってしまう。
エリナさんの説明では、基本的には犯罪に関係する記憶しか読み取らないらしいし、俺は別に犯罪なんて犯していない。
……いや、強く記憶している出来事も読み取ってしまう場合があるって言ってたよな?
だったら、万が一ということも……。
「あ、あの、すみま……」
「それでは始めますね」
俺が声をかけたのとほぼ同時に、エリナさんが水晶玉の反対側へ手を置いた。
すると、それまで透明だった球体の内部に淡い光が灯り、ゆっくりと全体へ広がっていく。
……あー、間に合わなかったか。
まあ、仕方ない。
もう始まってしまったものはどうしようもないし、何か言われたらそのときに考えよう。
幸い、俺は別に悪いことをしているわけじゃない。元男だということがバレたところで、犯罪になるわけでもないだろうし。
……たぶん。
「少しお時間がかかりますので、そのままお待ちくださいね」
「かしこまりましたわ」
エリナさんはそう告げると、静かに目を閉じた。
水晶玉は淡い光を放ち続けており、その内部では白い靄のようなものがゆっくりと渦を巻いている。
いやあ、すごいなあ。
こんな魔道具が普通に使われているなんて、やっぱり異世界は面白い。
そんなことを考えながらエリナさんを眺めていると、ふと、その表情が先ほどまでとは違っていることに気がついた。
閉じられた瞼が小さく震え、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。先ほどまで血色の良かった頬も、どことなく青ざめて見えた。
……ん? 大丈夫かな。
もしかして、この魔道具って使用者にものすごい負担がかかるものだったりするんだろうか。
それとも、何か変な記憶でも見られてしまったとか……。
そういえば、俺がゲームをしているときの記憶なんかも、見られていたりするのかな。
女キャラを使っていると、ついつい後ろ姿を眺めたり、装備の見た目を確認するためにカメラをぐるぐる回したりすることがあるんだけど。
待ってくれ。もし、そういう記憶まで見られていたら、さすがに恥ずかしすぎるんですけど!?
特に、女キャラのお尻ばっかり眺めていたところなんて知られた日には、もう二度と顔を合わせられない気がする。
……頼むぞ、魔道具。
余計なものまで見せたりしてないよな!?
そんなくだらない心配をしている間にも、エリナさんの様子はますますおかしくなっていった。
肩が小刻みに震え始め、呼吸は明らかに荒くなっている。閉じられた目の端からは、いつの間にか涙までこぼれ落ちていた。
……いやいや、ちょっと魔道具ーッ!
本当に大丈夫なのか!?
「あの、エリナさん……?」
俺が思わず声をかけた、その瞬間だった。
「……っ、あぁ……!」
エリナさんが突然、短い悲鳴のような声を上げた。
次の瞬間、水晶玉から手が離れ、椅子が大きな音を立てて後ろへ倒れる。
「きゃっ!?」
「えっ!?」
エリナさんの身体が崩れ落ち、カウンターの向こう側へ姿が消えた。水晶玉の光も、同時にふっと消えてしまう。
……ちょっ、ええええ!?
何が起きた!?
俺は慌ててカウンターから身を乗り出した。
見ると、エリナさんは床に膝をつき、片手で口元を押さえながら激しく咳き込んでいた。
「はぁっ……はぁっ……う、ぅ……おえっ……!」
肩を大きく上下させ、何度もえずいている。眼鏡はずり落ち、目からは涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
……えええ、ちょっと待って!
急に倒れたと思ったら、今度は吐きそうになってるんですけど!?
「だ、大丈夫ですの!?」
俺が思わず声を上げると、隣の窓口にいた若い受付嬢が慌てて駆け寄ってきた。
「エリナ先輩!? どうしたんですか!?」
年齢は十代の終わりくらいだろうか。明るい色の髪を肩のあたりで切り揃えた、活発そうな雰囲気の女の子だった。
少女はカウンターの内側へ回り込むと、床にうずくまるエリナさんの肩を支えた。
「先輩! しっかりしてください!」
「うぅ……げほっ、げほっ……こ、こんな……こんなことって……!」
エリナさんは何とか顔を上げようとしていたが、呼吸が整わないらしく、何度も咳き込んでいる。身体は小刻みに震え続け、涙も止まっていない。
……いやいやいや。これ、どう見ても普通じゃないだろ。
もしかして、魔道具の使用に失敗したとか……?
それとも、俺の記憶が何かおかしかったんだろうか。
キャラクリでヌけるのは、もしかして異端……ってこと?
そんなことを考えていると、少女が突然こちらを振り向いた。
「……あ、あなた!」
「は、はい?」
「一体、何をしたんですか!?」
「えっ!?」
少女は険しい表情で俺を睨みつけてきた。その視線は、俺の手が置かれていた水晶玉へと向けられている。
「先輩がこんなふうになるなんて、今まで一度もなかったのに! 何かしたんでしょう!?」
「い、いえ、わたくしは何も……」
……いや、本当に何もしてないんですけど!?
言われたとおり水晶玉に手を置いただけだし、そもそも魔道具を動かしたのはエリナさんの方だ。
なのに、どうして俺が責められているんだろう。
「だったら、どうして先輩がこんなことに……!」
「コ、コレット……!」
そのとき、床にうずくまっていたエリナさんが、震える声を上げた。
「やめ……なさい……その方は、何も……悪く、ありません……!」
「で、でも先輩!」
「お願い……だから……」
エリナさんは苦しそうに息を整えながら、少女の腕を掴んだ。その手はまだ震えていたが、少女を見上げる表情は真剣だった。
「……分かりました」
コレットと呼ばれた少女は、納得していない様子ながらも、それ以上俺を責めることはなかった。
……助かった。いや、別に悪いことはしてないんだけどさ。
それより、エリナさんの方が心配だ。
「エリナさん、本当に大丈夫ですの? 少しお休みになられた方が……」
「……申し訳、ございません……シャル様……」
エリナさんは何とか立ち上がろうとしたが、足元がふらついたため、コレットさんが慌てて身体を支えた。
「先輩、無理しないでください! 今日はもう休んだ方がいいですよ!」
「……大丈夫、だから……少し、驚いただけ……」
……いやいや、全然大丈夫に見えないんですけど!
何に驚いたらそんなことになるんだよ。
コレットさんは倒れた椅子を起こすと、エリナさんの身体を支えながら、ゆっくりと腰を下ろさせた。
近くの窓口にいた職員たちも何事かとこちらを見ていたが、エリナさんが小さく手を振って大丈夫だと伝えると、ひとまず自分たちの仕事へ戻っていった。
「コレット……ありがとう。もう、大丈夫だから……」
「……本当ですか?」
「ええ……登録の続きを、しないと……」
エリナさんは手元の書類を引き寄せると、筆記具を取ろうとした。
しかし、その指先はまだ小さく震えており、何度か掴もうとしても、うまく持ち上げることができない。
「……あ……」
ようやく手にした筆記具も、書類へ先端を近づけたところで指から滑り落ち、机の上を転がってしまった。
これ、やっぱり無理なんじゃないだろうか。
「先輩、もうやめてください!」
コレットさんが、堪えきれなくなったように声を上げた。
「後は私が引き継ぎますから、先輩は休んでください!」
「でも……まだ、シャル様の登録が……」
「それくらい私でもできます! 先輩は自分の身体のことを考えてください!」
強い口調で言い切られ、エリナさんは何か言い返そうとしたものの、結局は力なく肩を落とした。
「……ごめんなさい。犯罪歴は問題ないから……お願い、できるかしら……」
「はい。任せてください」
コレットさんはそう答えると、近くにいた別の職員に声をかけた。どうやら、エリナさんを奥の休憩室へ連れていってもらうらしい。
……まさか、冒険者登録をするだけでこんな大騒ぎになるとは思わなかった。
やっぱり、あの魔道具には何か問題があったんじゃないだろうか。
「シャル様……」
エリナさんが、俺の方へ顔を向けた。
「大変……申し訳、ございません……最後まで、ご案内できず……」
「いえ、そんなことはお気になさらないでくださいませ」
俺は慌てて首を振った。
「どうか、お身体をご自愛くださいませ。わたくしの登録のために、無理をなさってはいけませんわ」
「……っ」
エリナさんの表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
眼鏡の奥の瞳が揺れ、何かを言いかけるように唇が動く。だが、結局は小さく首を振ると、ぎこちない笑みを浮かべた。
「……ありがとう、ございます……シャル様……」
その声はひどく震えていた。
エリナさんは最後にもう一度頭を下げると、別の職員に支えられながら、カウンターの奥へと姿を消していった。
……本当に大丈夫かなあ。
「……それでは」
不意に声をかけられ、俺はカウンターへ視線を戻した。
そこには、エリナさんに代わって書類を手にしたコレットさんが立っていた。
「残りの登録手続きは、私が担当させていただきます」
「ええ、よろしくお願いいたしますわ」
コレットさんは小さく頷くと、書類に目を通し始めた。
先ほどまで俺を睨みつけていたのが嘘のように、今は淡々と仕事を進めている。
……とはいえ、時折こちらへ向けられる視線は、あまり友好的とは言えない。
うーん、完全に嫌われちゃったかなあ。
「……犯罪歴の確認は終了しているとのことなので、あとは初心者講習のご案内になります」
「講習、ですか?」
「はい。正式に冒険者として活動していただくためには、初心者向けの講習を受けていただく必要があります。冒険者としての基本的な決まりや、依頼の受け方、注意事項などをご説明するものです」
なるほど、新人向けの講習があるのか。
依頼の受け方も分からないまま、いきなり魔物退治に行けと言われても困るし、ギルドの規則だって覚える必要があるだろう。むしろ、きちんと教えてもらえるならありがたい。
「講習は毎朝九時から行っていますので、明日の朝、お越しください。講習を終えられましたら、冒険者証をお渡しいたします」
「冒険者証、ですか?」
「はい。身分証明としてもお使いいただけますので、大切に保管してください」
なるほど。街の門で商人や商人の護衛らしき男が見せていた金属製の札は、冒険者証だったのかもしれないな。
あれがあれば、今後は街へ入るときにも便利そうだ。それに、冒険者証を持っているというだけで、なんだか本当に冒険者になった気分になれそうじゃないか。明日が楽しみだな。
「それでは、明日の朝九時に、こちらへ伺えばよろしいのですね?」
「はい。受付で講習を受けに来たとお伝えいただければ、ご案内いたします」
「分かりましたわ。ご丁寧にありがとうございます」
「……いえ。仕事ですので」
コレットさんはそう答えると、軽く頭を下げた。
……やっぱり、ちょっと怒ってるよなあ。
まあ、目の前で先輩が倒れたんだから、心配するのも無理はないか。
「それでは、失礼いたしますわ」
「……はい。お気をつけて」
俺は最後に会釈すると、受付を離れた。
そのまま入口へ向かいながら、先ほどの出来事を思い返してみる。
……それにしても、エリナさんは一体どうしてあんなことになったんだろう。
記憶を読み取るなんて便利そうだけど、使用者があんな状態になるなら、かなり危険な代物なんじゃないだろうか。
……いや、でも、エリナさんは何も言ってなかったしなあ。
俺が異世界から来たことや、元男だったことについても、特に何かを尋ねられることはなかった。
まあ、何にせよ、何も言われなかったんだから大丈夫だろう。
俺はそう考えることにして、冒険者ギルドの大きな扉を押し開いた。
外へ出ると、昼下がりの明るい日差しが目に飛び込んでくる。
中央広場では相変わらず大勢の人々が行き交い、露店の店主たちが威勢のいい声を上げていた。そんな賑やかな広場を歩いていると、どこからともなく食欲をそそる香りが漂ってくる。
肉を焼く香ばしい匂いに、香辛料の刺激的な香りまで混じっており、思わずそちらへ視線を向けた。
そういえば、街に入ってからずっと気になっていたんだよな、あの屋台。
せっかく異世界に来たというのに、まだこの世界の料理をまともに食べていない。冒険者登録の手続きも無事に終わったことだし、今日は少しくらい贅沢してもいいだろう。
よし、決めた!
今日は異世界飯と洒落込もうじゃないか!
まずは屋台を見て回って、美味しそうなものをいくつか食べてみよう。それから良さそうな宿屋を探して、明日の講習に備えてゆっくり休むとしようか。
そう考えると、自然と足取りが軽くなってくる。
俺は思わず駆け出しそうになるのを堪え、姫騎士らしい優雅な歩き方を意識しながら、広場に並ぶ屋台へと向かった。
いやあ、異世界生活って、本当に楽しいな!
もう、ストックが尽きそう。