うちの美少女アバターに重い過去なんてありません! 作:もろきゅー
冒険者ギルドの受付という仕事は、傍から見えるほど楽なものではない。
依頼の受付や達成報告の確認、報酬の支払いに新規冒険者の登録。時には冒険者同士の揉め事を仲裁することもあり、私たちの仕事は多岐にわたる。
もっとも、私もこの仕事を始めてそれなりの年月が経つ。多少の騒ぎや無理な要求には慣れているし、相手がどんな冒険者であっても、丁寧な対応を心がけていた。
つい先ほども、報酬について不満を漏らしていた冒険者に内訳を説明し、何とか納得してもらったところだ。
私はその冒険者を見送ると、手元に残った書類を整理しながら小さく息をついた。次の方が来る前に片づけてしまおうと考えていた、そのときだった。
「ごきげんよう。受付はこちらでよろしいでしょうか?」
「……え?」
鈴の音を思わせる澄んだ声に顔を上げた私は、思わず言葉を失ってしまった。
そこに立っていたのは、まるで物語に登場するお姫様が、そのまま抜け出してきたかのような少女だった。
陽の光を溶かし込んだような金色の髪は、後頭部で上品なシニョンにまとめられている。澄み渡った青空を思わせる瞳に、白く滑らかな肌。整いすぎているほどの顔立ちは、熟練の人形師が丹精込めて作り上げた芸術品のようで、同性である私ですら思わず見惚れてしまうほどだった。
もっとも、一際目立つ豊かな胸元に関しては、人形師の好みがかなり反映されていそうだけれど。
年齢は十八か十九歳くらいだろうか。背筋を伸ばした立ち姿には自然な気品があり、普通の町娘とは明らかに違っていた。
ただし、その服装には少々問題があった。
少女が身につけているのは、華やかな装飾が施されたドレスのような鎧だった。細部まで丁寧に作り込まれた意匠は見事なもので、腰に下げられた剣も含め、相当な金額をかけて用意された品であることは間違いないだろう。
けれど、大きく開いた胸元と太腿を大胆に晒すほど短いスカートは、どう考えても実戦向きとは思えなかった。
……これ、本当に鎧なのかしら。
周囲の冒険者たちも、先ほどからちらちらとこちらへ視線を向けている。普段は賑やかなギルドの中で、彼女の立っている場所だけが妙に注目を集めていた。
私はそんな考えを頭の隅へ追いやると、慌てていつもの笑顔を浮かべた。
「はい、こちらで承っております。本日はご依頼でしょうか?」
「ありがとうございます。今日は依頼ではなく、冒険者の登録をお願いしたいのですけれど」
意外な申し出だったが、貴族の子女が武者修行や社会勉強を兼ねて冒険者登録することは珍しくない。私はエリナと名乗って登録用紙を差し出したものの、少女はこの国の文字を読み書きできないという。周辺諸国でも広く使われている文字なので、よほど遠い国から来たのかもしれない。
代筆を引き受けると、少女は丁寧に頭を下げ、それから、こちらが思わず聞き返してしまうほど長い名前を告げた。
「ええ。シャルロッテ・アーデルハイト・セレスティーヌ・フォン・ローゼンハルトと申します。どうぞ、シャルとお呼びくださいませ」
「シャ、シャルロッテ……」
……長い。
思わず筆記具を持つ手が止まってしまったが、それ以上に気になったのは、最後に告げられた名前だった。
フォン・ローゼンハルト。
家名持ち……やはり、貴族の娘ね。
私は仕事柄、周辺諸国の貴族についても多少は知識があるが、ローゼンハルトという家名には心当たりがなかった。
やはり、遠方の国から来た貴族の娘なのだろうか。
それ以上は詮索せず、私は登録に必要な項目を順番に確認していった。
得意な武器は剣だそうで、少女は自信ありげに腰の剣へ手を添えてみせた。立ち姿はしっかりしているものの、実際の腕前までは分からない。最初は安全な依頼から始めてもらった方がよいだろう。
そして、必要事項を記入し終えたところで、私は犯罪歴の確認について説明した。
冒険者ギルドでは、登録希望者の重大な犯罪歴を確認するため、国から貸与された記憶読取の魔道具を使用している。犯罪者が冒険者として活動したり、身分証を手に入れたりすることを防ぐためのものだ。
ただし、犯罪とは無関係な記憶まで映し出される場合があるため、使用には必ず本人の同意が必要だった。
シャル様は魔道具という言葉に興味を示したものの、説明を聞き終えても嫌がる様子はなく、見慣れない文字で同意書に署名してくれた。
……ますます、どこの国出身なのかわからなくなった。
私は署名を確認すると、カウンターの下から魔道具を取り出した。
金属製の台座に固定された透明な球体で、大きさは人間の頭ほどもある。内部には薄い霧のようなものが漂っており、使用者が手を触れると淡い光を放つ仕組みだ。
これまで何度となく使用してきたが、検査で問題が見つかることは滅多にない。目の前の少女も、おそらくそうだろう。
「それでは、シャル様。こちらに手を置いていただけますでしょうか?」
「ええ、こちらですわね?」
「はい。私は反対側から手を置きますので、そのまま動かさずにお待ちください」
シャル様が魔道具に右手を置くのを確認し、私も反対側へ手を伸ばした。
「あ、あの、すみま……」
「それでは始めますね」
ほぼ同時に声が重なったが、私が水晶玉へ手を置いた瞬間、内部に淡い光が灯り始めた。
……あら? 今、何かおっしゃったかしら?
けれど、シャル様は手を離す様子もなく、そのまま静かに待っている。特に問題はなさそうなので、私は確認を続けることにした。
「少しお時間がかかりますので、そのままお待ちくださいね」
「かしこまりましたわ」
私は静かに目を閉じ、魔道具から流れ込んでくる記憶へ意識を向けた。
さて、この子は問題ないだろうか。
そう考えた、次の瞬間だった。
最初に流れ込んできたのは、陽射しの降り注ぐ美しい中庭の光景だった。
綺麗に刈り込まれた植え込みの向こうには、白い石造りの立派な建物がそびえ立っている。壁面には細かな装飾が施され、幾つもの尖塔が青空へ向かって伸びていた。
王城か、あるいは相当な地位にある貴族の屋敷だろうか。少なくとも、一般の人間が暮らすような場所ではない。
そして、その中庭には一人の騎士が立っていた。
年齢は三十歳前後だろうか。精悍な顔立ちをした男性で、身につけた鎧には立派な紋章が刻まれている。腰には剣を佩いているものの、今は木剣を手にしており、こちらへ穏やかな笑みを向けていた。
『随分と上達されましたね、姫様。以前とは見違えるほどです』
男性がそう言うと、視界が僅かに下がった。
そこには、同じように木剣を握った細い手が見える。どうやら、剣の稽古をしていたらしい。
……姫様?
私は男性の言葉に驚いた。
シャル様の長い名前から、貴族の出身ではないかと考えていたけれど、まさか王族なのだろうか。
それにしても、随分とはっきりした記憶だ。
この魔道具は、本人の過去を断片的な映像として読み取ることができる。ただし、普段映し出されるのは輪郭のぼやけた光景ばかりで、そこから何が起きたのかを推測する必要があった。
ところが、今見ている記憶はどうだろう。
男性の表情はもちろん、鎧の細かな傷や、風に揺れる木々の葉まで鮮明に見えている。それどころか、普段は聞こえるはずのない会話まで、まるで目の前で交わされているかのように伝わってきた。
いったい、どうしてこれほど鮮明なのだろう。
そんな疑問を抱いた、そのときだった。
不意に、胸の奥へ温かな感情が流れ込んできた。
自分の努力を認めてもらえた嬉しさと、目の前の男性に褒められたことへの喜び。もっと上達したい、もっと立派な姿を見せたいという純粋な憧れが、まるで私自身の感情であるかのように伝わってくる。
……え?
思わず戸惑ってしまった。
記憶を読み取る魔道具で、本人が感じていた感情まで伝わってくるなんて、聞いたことがない。
私は何が起きているのか理解できないまま、目の前の光景を見つめ続けた。
『姫様? どうかなさいましたか?』
『い、いえ! 何でもありませんわ!』
慌てたような少女の声が響き、男性が小さく笑った。
『そうですか。では、今日はここまでにしましょうか』
『いえ、騎士団長! もう一度、お相手をお願いいたしますわ!』
『おや、まだ続けられますか。では、今度は少し難しくなりますよ』
騎士団長。
なるほど、王族に剣を教える立場なのだから、それくらいの地位にある人物なのかもしれない。
けれど、私が気になったのは、そのことではなかった。
剣の稽古を続けたいという気持ちは本物なのだろう。だが、少女の胸には、それとは別の願いも秘められていた。
もう少しだけ、この人と一緒にいたい。できることなら、この穏やかな時間がいつまでも続いてほしい。そして、いつか自分がもっと成長したときには、ただ剣を教わる生徒としてではなく、一人の女性として見てもらいたい。
そんな淡い願いが、温かな感情とともに私の胸へ流れ込んできた。
……ああ、そういうこと。
この子、この騎士様のことが好きなのね。
そう気づいた途端、何だか微笑ましい気持ちになってしまった。
男性が微笑みかけるだけで嬉しくなり、褒められれば胸が高鳴る。もう少し一緒にいたいという理由だけで、疲れているはずの剣の稽古を続けようとする姿も、いじらしくて可愛らしい。
私自身、年下の同僚から恋愛相談を受けることはあるけれど、ここまで純粋な恋心を感じたのは初めてだった。
思わず、頑張って、と応援したくなってしまう。
それにしても、随分と幸せそうな記憶だ。
この魔道具は、基本的には犯罪に関係する記憶を優先して読み取るものだ。とはいえ、あまりにも強く心に刻まれた出来事が映し出されることもある。
どうやらシャル様にとって、この騎士との思い出は、それほど大切なものらしい。
ここまで確認しても犯罪に関わる記憶は見当たらないし、少なくとも彼女が何か重大な罪を犯しているようには思えなかった。
……うん。これなら問題なさそうね。
私はすっかり安心していた。
こんなにも純粋な恋心を抱く少女なのだから、きっと冒険者としても真面目に活動してくれるだろう。明日の初心者講習について説明し、最初は安全な依頼を勧めてあげよう。
そんなことを考えながら、そろそろ確認を終えようとした、その瞬間だった。
目の前の光景が、突然切り替わった。
先ほどまで陽射しに満ちていた中庭が消え、代わりに現れたのは、炎と黒煙に包まれた廊下だった。
壁に掛けられた絵画は焼け落ち、床には何人もの人々が倒れている。その中には武装した兵士だけでなく、使用人と思われる女性や老人まで混じっていた。
そして、壁に残された見覚えのある装飾に気づいたとき、私は嫌な予感を覚えた。
……ここ、もしかして。
先ほどの中庭があった建物ではないだろうか。
そう考えた途端、視界が大きく揺れた。
『歩け! さっさとしろ!』
突然、男の怒鳴り声が響き、少女の細い腕を掴んでいる大きな手が見えた。見慣れない鎧を身につけた兵士が、抵抗する彼女を乱暴に引きずっている。
『いやっ! 離してください! わたくしをどこへ連れて行くつもりですの!』
『黙れ! 余計なことを喋るな!』
兵士が腕を強く引っ張った瞬間、胸の奥から激しい恐怖が湧き上がってきた。
逃げたい。誰でもいいから助けてほしい。何が起きているのかも分からないまま、見知らぬ兵士に連れ去られようとしている少女の恐怖が、私の心へ直接流れ込んでくる。
……っ!
あまりの感情の強さに、私は思わず身を竦ませた。
次の瞬間、光景が切り替わった。
今度は、炎に包まれた街並みだった。
見渡す限りの建物から黒煙が立ち上り、大通りでは大勢の人々が逃げ惑っている。武装した兵士たちが街を行き交い、あちこちから悲鳴が響いていた。
見慣れた街が壊されていく悲しみと、そこに暮らす人々への心配が、息苦しいほどに伝わってくる。
これは、ただの襲撃ではない。王城にまで敵兵が入り込んでいるのだから、国そのものが敗北したのかもしれない。
……どうして、急にこんな記憶が。
私が困惑している間にも、光景は目まぐるしく切り替わっていく。
次に映し出されたのは、豪華な装飾が施された大広間だった。
高い天井には大きな燭台が吊り下げられ、壁には見事な装飾が施されている。けれど、その広間には大勢の武装した兵士が集まっており、中央には後ろ手に縛られた二人の男女が跪かされていた。
男性は立派な衣装を身につけ、頭には王冠を戴いている。隣にいる女性も豪華な衣装を纏っており、その整った顔立ちはどことなくシャル様に似ていた。
……王様と、お妃様?
その二人を見た瞬間、少女の胸に強烈な安堵が広がった。
ああ、よかった。
二人とも、まだ生きている。
そんな感情が流れ込んできて、私まで思わず胸を撫で下ろしそうになった。
けれど、次の瞬間、その安堵は恐怖へと変わった。
二人の背後には、大きな斧を構えた兵士が立っていたからだ。
『やめて! お願いです! お父様とお母様を離してください!』
少女の悲痛な叫び声が響く。
やはり、二人は彼女の両親なのだ。
そう理解した私は、目の前で何が起きようとしているのかに気づき、思わず息を呑んだ。
『シャルロッテ!』
男性がこちらへ顔を向けた。
『生きるのだ! 何があっても、生き延びなさい!』
『お父様!』
その声に応えるように少女が叫んだ瞬間、背後の兵士が斧を振り上げた。
……やめて。
私は思わずそう願った。
けれど、その願いが届くはずもなかった。
振り下ろされる刃が見えた次の瞬間、映像が途切れた。
そして、代わりに流れ込んできたのは、胸を引き裂かれるような悲しみだった。
助かったと思ったのに。
二人とも生きていてくれたのに。
もう二度と会えない。名前を呼んでもらうことも、優しく抱き締めてもらうこともない。
そんな絶望が、容赦なく私の心を押し潰そうとしていた。
先ほどまで、あんなにも幸せそうに剣の稽古をしていた少女が、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。
その答えを考える間もなく、再び景色が切り替わった。
次に映し出されたのは、薄暗い石造りの部屋だった。
窓には鉄格子が嵌められ、分厚い扉には外側から鍵が掛けられている。部屋にはまともな家具もなく、床に粗末な寝具が敷かれているだけだった。
視界を下げると、そこには細い手首が見えた。かつて美しい衣装を身につけていた少女の腕には、拘束されていたことを思わせる赤い跡が残っている。
……捕まってしまったのね。
どうやら、国が滅ぼされた後、シャル様は敵国の捕虜となってしまったらしい。
けれど、少なくとも命だけは助かったのだ。
私はそう考えて、ほんの僅かに安堵していた。
しかし、その安堵も長くは続かなかった。
視界の下には細い手が見え、身につけていた豪華な衣装は、いつの間にか粗末な服に替わっていた。
そして、胸の奥へ流れ込んできた感情に、私は息を呑んだ。
恐怖と屈辱。
それ以上に、自分という存在を何一つ尊重されなかったことへの、耐え難い絶望だった。
次々と現れる記憶の断片は、少女がどれほど過酷な日々を過ごしてきたのかを物語っていた。
兵士たちから嘲笑を浴びせられ、床に跪くことを強要されている光景。
次に現れたのは、薄暗い部屋で見知らぬ男がこちらへ迫ってくる光景だった。逃げようとしても後ろには冷たい石壁があり、どうすることもできない。強烈な恐怖が流れ込んできたかと思うと、記憶は再び途切れてしまった。
次に視界へ映ったのは、乱れた衣服と、膝を抱え込む細い腕だった。背中には冷たい石壁の感触が残っている。
何があったのか、そのすべてを見たわけではない。
けれど、流れ込んでくる恐怖と屈辱が、少女の身にどれほど酷いことが起きたのかを、嫌というほど物語っていた。
かつて王女として大切に育てられてきた少女が、今は人としての尊厳すら守られない場所に閉じ込められている。
そして、誰にも助けてもらえないまま、いつ終わるとも知れない日々を過ごしているのだ。
私はもう、見ていられなかった。
こんな記憶を、これ以上読み取るべきではない。そもそも、犯罪歴の確認とは関係のない、本人が誰にも見せたくないはずの記憶なのだ。
私は魔道具から手を離そうとした。
けれど、動かない。
指先を動かそうと意識を集中させても、まるで自分の身体ではなくなってしまったかのように、何の反応も返ってこなかった。
……どうして?
これまで、こんなことは一度もなかった。
次々と流れ込んでくる鮮明な光景と感情が、私の意識を掴んで離さない。私は自分が冒険者ギルドの受付にいることさえ忘れそうになりながら、必死に現実へ戻ろうともがいていた。
それでも、目の前の光景が消えることはなかった。
少女の恐怖や悲しみが、まるで私自身のものになってしまったかのようだった。
もう、やめて。
これ以上、この子の苦しみを見たくない。
そんな願いも虚しく、目の前には再び別の光景が映し出された。
今度は、豪華な調度品が並ぶ部屋だった。
磨き上げられた床には高価そうな絨毯が敷かれ、壁には見事な絵画が飾られている。先ほどまでの薄暗い牢獄とは、まるで別世界のようだった。
そして、目の前には一人の男が立っていた。
立派な衣装を身につけた壮年の男性で、その周囲には何人もの兵士が控えている。男が視線を向けるだけで、兵士たちは恭しく頭を下げていた。
王族か、あるいはそれに近い立場の人物なのだろうか。
けれど、その男の顔を見た瞬間、少女の胸から激しい憎しみが湧き上がった。
怖い。逃げ出したい。それでも、この男だけは絶対に許せない。
そんな感情が流れ込んできて、私は思わず身を震わせた。
おそらく、この男が彼女の国を滅ぼした張本人なのだろう。
男は少女を見下ろすと、何かを愉快そうに話し始めた。しかし、先ほどの中庭の記憶とは違い、声は途切れ途切れで、何を言っているのかまでは分からなかった。
ただ、その表情に浮かぶ嘲笑だけは、嫌というほどはっきりと見えていた。
やがて男が傍らの兵士へ何かを命じると、しばらくして、黒い布に包まれたものが運ばれてきた。
……何?
嫌な予感がした。
これまでの記憶を見てきた私は、この男が少女のために何か良いものを用意したとは到底思えなかった。
男は愉快そうに笑いながら、兵士に命じ、黒い布を少女の目の前へ差し出させた。
そして、兵士はゆっくりと布を取り払った。
そこにあったのは、一人の男性の首だった。
固く閉じられた瞳。二度と動くことのない表情。
私は、思わず息を呑んだ。
……知っている。
この人を、私は知っている。
あの陽射しの降り注ぐ中庭で、少女に剣を教えていた騎士だった。
穏やかに微笑み、彼女が上達したことを自分のことのように喜んでいた男性。その人が、今は変わり果てた姿となって、少女の目の前に突きつけられている。
そして、その光景を目にした瞬間、胸の奥へ流れ込んできた感情に、私は耐えられなくなった。
最初に感じたのは、信じられないという戸惑いだった。
あの人が、どうして。
つい先ほどまで、あんなにも優しく笑っていたのに。
もう一度会いたい。もう一度名前を呼んでほしい。いつかもっと立派な女性になって、自分の想いを伝えたかった。
そんな少女の願いが、次々と胸の奥へ流れ込んでくる。
けれど、そのどれ一つとして叶うことはない。
その事実を理解した瞬間、強烈な悲しみと絶望が私の心を押し潰そうとした。
あれほど純粋に誰かを想っていた少女から、最後に残されていた大切な人までもが奪われてしまったのだ。
……もう、やめて。
これ以上、この子から何を奪おうというのだろう。
私は必死に意識を現実へ戻そうとしたが、身体は動かなかった。目の前では男がなおも笑っていたが、その声は遠ざかり、少女の絶望だけが私の心を満たしていった。
もう何も期待したくない。
何も信じたくない。
これ以上、何かを失うことに耐えられない。
そんな感情が私の心を埋め尽くし、もはや自分がどこにいるのかさえ分からなくなっていた。
そして、とうとう耐えきれなくなった、そのときだった。
目の前の光景が、唐突に途切れた。
「あの、エリナさん……?」
遠くから聞こえた声に、私は我に返った。
気がつけば、私は冒険者ギルドの受付に戻っていた。
目の前には魔道具の透明な球体があり、その向こうには金髪碧眼の美しい少女が、不思議そうな表情でこちらを見つめている。
先ほどまで、私はこの少女の記憶を読み取っていたのだ。
あの燃える王城も、薄暗い牢獄も、すでに過ぎ去った出来事なのだろう。そう理解しているはずなのに、両親を奪われた悲しみも、捕虜として味わった恐怖も、あの騎士を失った絶望も、すべてが私自身の感情であったかのように胸の奥へ残っていた。
頬を伝う温かな感触に気づき、私はようやく自分が涙を流していることを知った。
目の前の少女は、先ほどまでと何も変わらない。
穏やかな表情を浮かべ、こちらを心配そうに見つめている。その姿からは、あれほど凄惨な過去を経験してきたことなど、想像もできなかった。
……この子が。
あんな目に、遭っていたなんて。
そう考えた途端、さらに視界が滲んだ。
私は慌てて涙を拭おうとしたが、指先が小刻みに震えており、うまく動かすことができない。
それどころか、記憶の中で感じた恐怖や嫌悪感が、今も身体の奥に残っているようだった。
胃が締めつけられ、呼吸が浅くなる。
そして、目の前の少女が心配そうにこちらを覗き込んだ瞬間、とうとう耐えきれなくなった。
「……っ、あぁ……!」
魔道具から手が離れ、身体が大きく傾いた。
何とか姿勢を立て直そうとしたが、足元にまったく力が入らない。
「きゃっ!?」
「えっ!?」
椅子が大きな音を立てて後ろへ倒れ、私はそのまま床に崩れ落ちた。
頭の中には、先ほどまで見ていた光景が繰り返し浮かんでいる。何度目を閉じても、あの中庭で穏やかに微笑んでいた騎士の姿が、最後に見た光景へと変わってしまう。
「はぁっ……はぁっ……う、ぅ……おえっ……!」
胃の奥から激しい吐き気が込み上げ、私は床に膝をついたまま口元を押さえた。
「だ、大丈夫ですの!?」
「エリナ先輩!? どうしたんですか!?」
聞き慣れた声とともに、誰かが駆け寄ってきた。
隣の窓口を担当していた後輩のコレットだ。彼女は慌てて私の肩を支えると、心配そうに顔を覗き込んできた。
「先輩! しっかりしてください!」
「うぅ……げほっ、げほっ……こ、こんな……こんなことって……!」
私は何とか言葉を紡ごうとしたが、何を言えばよいのか分からなかった。
あれほど悲惨な過去を持つ少女が、今は倒れた私を心配してくれている。そのことが、どうしようもなく胸を締めつけた。
すると、不意にコレットの声が鋭くなった。
「……あ、あなた!」
「は、はい?」
「一体、何をしたんですか!?」
「えっ!?」
私は慌てて顔を上げた。
コレットが、シャル様を睨みつけている。
「先輩がこんなふうになるなんて、今まで一度もなかったのに! あなた、一体何をしたんですか!」
「い、いえ、わたくしは何も……」
シャル様は突然責められたことに驚いたのか、困惑した表情を浮かべていた。
その姿を見た瞬間、私は必死に声を絞り出した。
「コ、コレット……!」
違う。
違うの、コレット。
その子は、何も悪くない。
何も悪いことなどしていないのに、あんなにも多くのものを奪われてきたのだ。
ようやく地獄のような場所から逃げ延びてきた少女に、これ以上、理不尽な言葉を向けないでほしい。
「やめ……なさい……その方は、何も……悪く、ありません……!」
「で、でも先輩!」
「お願い……だから……」
震える手を伸ばし、コレットの腕を掴んだ。
事情を説明したかったが、魔道具で読み取った記憶を勝手に話すわけにはいかなかった。
私たち職員には厳格な守秘義務があり、本人が語っていない過去を、私の判断で明かすことなどできないのだ。
「……分かりました」
コレットは納得できない様子だったが、何とか引き下がってくれた。
私は安堵したものの、まだ自分の力で立ち上がることさえ難しかった。
「エリナさん、本当に大丈夫ですの? 少しお休みになられた方が……」
「……申し訳、ございません……シャル様……」
コレットに支えられながら椅子へ戻ると、私は何とか登録用紙を引き寄せた。
せめて、この子が冒険者として踏み出す最初の一歩くらい、きちんと見届けてあげたい。
「先輩、無理しないでください! 今日はもう休んだ方がいいですよ!」
「……大丈夫、だから……少し、驚いただけ……」
自分でもひどい嘘だと思った。
私は筆記具を取ろうとしたが、指先の震えが止まらない。何度か掴もうとしても持ち上げることができず、ようやく手にした筆記具も、書類へ近づけたところで指から滑り落ちてしまった。
「……あ……」
何をしているのだろう、私は。
何年も続けてきた仕事なのに、今は文字を一つ書くことさえできない。
「先輩、もうやめてください!」
コレットが、堪えきれなくなったように声を上げた。
「後は私が引き継ぎますから、先輩は休んでください!」
「でも……まだ、シャル様の登録が……」
「それくらい私でもできます! 先輩は自分の身体のことを考えてください!」
私は何か言い返そうとしたが、結局、言葉が出てこなかった。
今の私が無理をしても、かえって迷惑をかけるだけだろう。少なくとも、読み取った記憶の中に犯罪を示すものはなかったし、登録を断る理由も見当たらない。
あとは初心者講習の案内をすれば、手続きは終わる。
「……ごめんなさい。犯罪歴は問題ないから……お願い、できるかしら……」
「はい。任せてください」
コレットが頷くのを見て、私はほっと息をついた。
すると、シャル様が心配そうな表情でこちらを見つめていることに気がついた。
「シャル様……」
私は何とか笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。
「大変……申し訳、ございません……最後まで、ご案内できず……」
「いえ、そんなことはお気になさらないでくださいませ」
シャル様は慌てたように首を振った。
あれほどの仕打ちを受けてきたというのに、この子は今も他人を気遣うことができるのだ。
私はその姿を見つめながら、何も言うことができなかった。
「どうか、お身体をご自愛くださいませ。わたくしの登録のために、無理をなさってはいけませんわ」
「……っ」
胸が、締めつけられた。
私はたった一度、彼女の記憶を読み取っただけでこの有様なのに、当の本人は初めて会った私のことを心配してくれている。
いったい、どれほどの苦しみを乗り越えれば、そんなふうに笑えるのだろう。
私は込み上げてくる涙を必死に堪えながら、何とか笑顔を作った。
「……ありがとう、ございます……シャル様……」
それ以上は、何も言えなかった。
本当なら、もっと伝えたいことがあった。
これまで、どれほど辛い思いをしてきたのでしょうか。
あの国から、どうやって逃げ延びたのでしょうか。
今は、安心して暮らせているのでしょうか。
そんな言葉が、次々と頭に浮かんでくる。
けれど、どれも口にすることはできなかった。
彼女は自分の過去について、何一つ話していない。私が知ってしまったのは、あくまで魔道具を通じて読み取った記憶なのだ。
本人が望んでいない以上、それを勝手に持ち出すべきではないだろう。
私は最後にもう一度頭を下げると、コレットが呼んでくれた別の職員に支えられながら、カウンターの奥へと向かった。
最後に一度だけ振り返ると、シャル様はまだ心配そうな表情でこちらを見ていた。
……そんな顔をしないで。
あなたは、何も悪くないのだから。
休憩室へ辿り着いた私は、椅子に腰を下ろすと、両手で顔を覆った。
静かな部屋の中で一人になると、先ほどまで見ていた記憶が再び脳裏に蘇ってくる。
陽射しの降り注ぐ中庭で、騎士に淡い恋心を抱いていた少女。あのとき感じた幸福が今も胸の奥に残っているからこそ、その後に見せられた光景が忘れられなかった。
私は深く息を吐き、まだ震えの残る手を握り締めた。
思い返せば、最初から不思議な少女だった。立派な鎧を身につけた美しい貴族令嬢でありながら、こちらの文字を読むこともできず、出身地さえ分からない。
けれど、あの記憶を見た今なら、その理由も分かる気がした。
おそらく、シャル様は滅ぼされた王国の王女なのだ。
故郷を失い、両親を奪われ、敵国の捕虜となって尊厳まで踏みにじられた。そして、心から慕っていた騎士さえ失ってしまった。
それでも、彼女は生き延びた。
いったい、どうやってあの場所から逃げ出したのだろう。誰かに助けられたのか、それとも自分の力で脱出したのか。私が見た記憶の中には、その答えはなかった。
そもそも、あの王国がどこにあったのかさえ分からない。
ローゼンハルトという家名にも心当たりはないし、記憶に映し出された建物や兵士たちの装備にも、見覚えがなかった。
けれど、それ以上に気になったのは、彼女が今も安全なのかということだった。
もし敵国の人間が生き延びた王女を探しているのだとしたら、シャル様は今も何者かに追われているのかもしれない。
そう考えると、胸の奥に新たな不安が広がった。
私はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと顔を上げた。
まずは、ギルド長に相談しなくては。
もちろん、魔道具で読み取った記憶を、本人の許可なく話すわけにはいかない。けれど、今回のような異常な反応があったことについては、報告しておく必要があるだろう。
それに、もしシャル様が今も何者かに追われているのだとしたら、ギルドとして何か力になれることがあるかもしれない。
もっとも、本人が望んでもいない手助けを押しつけるつもりはなかった。彼女が一人の冒険者として生きていきたいのなら、その意思を尊重したいと思う。
私はもう一度、先ほどの少女の姿を思い浮かべた。
美しい金髪を揺らし、優雅に頭を下げながら、穏やかな笑顔を向けてくれた少女。
シャルロッテ・アーデルハイト・セレスティーヌ・フォン・ローゼンハルト。
あの少女が、いったいどれほど重い過去を背負っているのか。
それを知ってしまった以上、もう何も知らなかった頃には戻れない。
だからせめて、これから先の彼女には、少しでも穏やかな日々を過ごしてほしい。
私は心の底から、そう願わずにはいられなかった。
裏なので分割するのはちょっと……と思ってたら、長くなりすぎて反省してます。