TS聖女、現代に帰還しアイドルになる 作:TS聖女、いいよね
異世界に召喚された男の子が、性転換して聖女になって異世界を救い、日本に帰ってきてアイドルになった。
そんな話を誰かから聞かされたら、たいていの人は漫画かアニメのあらすじだと思うだろう。
でも残念ながら、これは私の話だ。
私の名前は白絃(しらいと)アリサ。
高校二年生で、三人組のアイドルグループ『ステラコード』のメンバーをしている。
そして四年半前までは、白絃優(ゆう)という名前の、どこにでもいる普通の男の子だった。
中学一年生のとき、私は異世界に召喚された。
その召喚の影響で私の体は銀髪碧眼の女の子のものになり、向こうでアリサという聖女としての名前を授かった。
それから三年間、聖女として魔王軍や邪神たちと戦い抜いて、最後はこの日本に帰ってきたのだ。
向こうで身につけた力は今でも何一つ欠けることなく使えるけれど、世界の崩壊とか人類の存亡とかがかかっていない、程々に平和なこっちの世界ではあまり使わずに暮らしていける。
帰ってきてからもう一年半が経過したけど、今の私の毎日は自分でも驚くくらい普通で、そしてほんの少しだけ忙しい。
十月も終わりが近づいて、朝の空気はすっかりひんやりとしてきた。
ちょっとお気に入りのブレザーの制服に着替えて一階に下りると、キッチンからお味噌汁のいい匂いが漂ってくる。
異世界ではこの香りに3年近く飢えていたので、本当にこれだけで帰ってきたんだなあと、ほんわかとした気分になった。
「おはよう、お父さん、お母さん」
ダイニングでは、お父さんがタブレットでニュースを読みながら、コーヒーを飲んでいた。
「おはよう、アリサ」
「おはよう。もうすぐ卵焼きができるから、座って待っててね」
お父さんはタブレットから顔を上げてにこりと笑い、お母さんはフライパンを片手にこちらを振り返った。
お父さんの恭介(きょうすけ)は普通の会社員。怒ったところをほとんど見たことがないくらい穏やかな人だ。でも自分が召喚されたときは激怒したらしい。
お母さんの遥(はるか)は明るくてマイペースで、たいていのことは笑って受け止めてしまう。そんな母さんも自分がいなくなったときは泣き崩れていたと聞く。
いまでも何かの拍子に私がいなかった三年間の事を昔の思い出の一つとして語る二人を見るたびに、帰ることを諦めないでよかったと思っているのは内緒。
行方不明だった息子が、三年ぶりに銀髪の女の子になって帰ってきたときも、二人は泣きながら私を抱きしめてくれた。
そして私の話を最後まで聞いたあと、何ひとつ疑うことなく、この家の娘として迎え入れてくれたのだ。
あの日の二人の腕の強さを、私はたぶん一生忘れないと思う。
「お姉ちゃーん!」
そんな風に感慨にふけっていると、ばたばたと階段を駆け下りる足音と共に、妹の陽菜(ひな)がダイニングに飛び込んできた。
中学二年生の陽菜は、制服にこそ着替えているものの、肩まである髪があちこちに跳ねている。
どうやら、今日も寝坊したらしい。
「お姉ちゃん、髪やって! 時間ないの!」
「もう、また寝坊したの? しょうがないなぁ、そこに座って」
陽菜は櫛とヘアゴムを私に押しつけると、隣の椅子にすとんと腰を下ろした。
私は小さく息をついて、陽菜の跳ねた髪を丁寧に梳かしていく。
四年半前の私なら女の子の髪の結び方なんてひとつも知らなかったはずだけど、流石に時間の経過で慣れたものである。
「今日の髪型はどうする?」
「んー、お姉ちゃんとおそろいのやつがいい!」
「おそろいって……私、今日はハーフアップだけど」
「えへへ、じゃあそれ!」
注文の多い妹に苦笑しながら、私は手早く髪をまとめていく。
腰まで届くこの長い銀髪と四年半も付き合っていれば、このくらいは目をつぶっていてもできるようになる。
最後にリボン付きのヘアゴムで留めれば、おそろいのハーフアップの完成だ。
「はい、できた」
「わあ、ありがとう! やっぱりお姉ちゃんは美人、かわいい、天才!」
陽菜はそう言うなり、椅子に座ったまま私の腰にぎゅっと抱きついてきた。
小さい頃から、陽菜はお兄ちゃんにべったりの甘えん坊だった。
それが今では、そのままお姉ちゃんにべったりの甘えん坊になっている。
「陽菜は本当に、昔からお兄ちゃんっ子ねえ」
「今はお姉ちゃんっ子だもん」
焼き鮭と卵焼きのお皿をテーブルに並べながら、お母さんがくすくすと笑う。
陽菜は私にくっついたまま、少しだけ頬をふくらませた。
「だって、お兄ちゃんのときより、お姉ちゃんのほうが優しいし、いい匂いするし、髪もやってくれるし」
「……お兄ちゃんだった頃の私、そんなに優しくなかった?」
「優しかったけど、髪はやってくれなかったもん。あと、ゲームで全然手加減してくれなかった」
「それは陽菜が、本気でやってって言ったからでしょ」
言い合う私たちを見て、お父さんが目を細めている。
私が帰ってきてからの陽菜は、前よりもずっと甘えん坊になった。
その理由を、私はあえて聞かないようにしている。
全員がテーブルにつくと、四人そろって手を合わせた。
白絃家の朝ごはんは、昔から和食と決まっている。
「いただきます」
焼き鮭をほぐしていると、お父さんがタブレットを脇に置いて顔を上げた。
どうやら、今日の予定の確認らしい。
「アリサ、今日は収録だったかな。帰りは何時ごろになりそうだ?」
「九時半くらいかな。篠原さんが車で送ってくれるから心配ないって」
「そうか、気をつけて帰りなさい」
「ねえねえ、今日の収録っていつ放送するの?」
「来週の金曜日。新曲をやる予定だよ」
「絶対見る! 録画もする! 三回は見る!」
陽菜の気合いの入った宣言に笑っていると、お父さんが思い出したように足元の鞄を引き寄せた。
その手つきが、なぜか妙に申し訳なさそうだ。
「そうだ、アリサ。会社の後輩の娘さんが、ステラコードの大ファンらしくてな」
「サイン? いいよ。色紙をもらえれば書いておくね」
「すまんな……実は、もう預かってる」
お父さんが鞄から取り出したのは、色紙の束だった。
ざっと数えて、五枚はある。
「一枚じゃないじゃん」
「後輩の娘さんと、部長と、取引先の担当さんの分だ。あと、部長の奥さんの分もある」
「お父さん、会社でどういう立ち位置になってるの……?」
「娘さんがステラのアリサちゃんなんですよねって、毎日のように言われてるのよね、お父さん」
「……まあ、悪い気はしないんだが」
照れくさそうに頭をかくお父さんを見て、お母さんと陽菜が声を上げて笑う。
私も笑いながら、色紙の束を受け取った。
「お母さん、ご飯おかわりしていい?」
「はいはい。ほんと、よく食べるわねえ」
「優だった頃から、そこだけは変わらないな」
お父さんのしみじみとした一言に、私は茶碗を差し出しながら小さく笑った。
見た目はすっかり変わってしまったけれど、こういうところは男の子だった頃のままだ。
「それにしても、寝癖のまま学校に行ってた子が、毎朝妹の髪を結ってあげるようになるなんてねえ」
「……お母さん、それはもう言わないで」
外では完全無欠の女の子として振る舞えるようになった私も、家族の前ではどうしても分が悪い。
なにしろこの人たちは、男の子だった頃の私を、誰よりもよく知っているのだから。
食事を終えて歯を磨き、洗面所の鏡の前で最後に身だしなみを確認する。
鏡の中には、腰まで届く銀色の髪と、澄んだ青い瞳を持った女の子が映っていた。
四年半経った今でも、ふとした瞬間に、これが自分の顔だということを不思議に思うことがある。
「お姉ちゃん、一緒に出よ!」
「途中までね。陽菜の中学、反対方向でしょ」
玄関で陽菜と並んでローファーを履いて、ドアを開ける。
ひんやりとした秋の風が、二人おそろいのハーフアップを揺らした。
「いってきまーす!」
二人分の声に、キッチンのほうから、いってらっしゃいとお母さんの声が返ってきた。
今日も、白絃家のいつもの朝だ。
家から学校までは、歩いて十五分ほどだ。
途中の交差点で陽菜と別れて、通い慣れた道をひとりで歩いていく。
近所の人たちは私の銀髪にもすっかり慣れていて、すれ違うたびに普通に挨拶をしてくれた。
表向きの私は、事情があって白絃家に引き取られ、義理の娘になった女の子ということになっている。
この銀髪と青い瞳も、海外の血が入っているからということで、一応の説明はついている。
近所の人も高校のクラスメートも、ほとんどの人はその話をそのまま信じている。
けれど役所の書類の上では、私はちゃんと、女の子になって帰ってきた白絃優本人として扱われている。
私が召喚されてから二年後に、同じような誘拐まがいの召喚がまた起こるかもしれないと、政府が秘密裏に対異世界機関を立ち上げていたのだ。
帰ってきた私を白絃優本人だと証明して、書類の手続きを済ませてくれたのも、その機関の人たちだった。
本当のことを知っているのは、家族と、あの日の中学のクラスメートたちと当時の先生、それから機関のごく一部の人たちだけ。
それでいいと、私は思っている。
校門をくぐって、二年B組の教室のドアを開ける。
その瞬間、待ち構えていたように明るい声が飛んできた。
「アリサー! おはよー!」
言うが早いか、小野寺莉子(りこ)が正面から勢いよく抱きついてきた。
ふわりと甘いシャンプーの香りがして、私は思わず体を固くする。
「おはよう、莉子。ちょっと、苦しいってば」
「だって、朝のアリサ成分を補給しないと、一日がんばれないんだもん」
莉子はクラスで一番人懐っこい子で、毎朝こうして私に抱きついてくるのが日課になっている。
三年間の聖女生活のおかげで、外では完璧に女の子として振る舞えるようになったけれど、中身の一部はまだ男子のままだ。
女の子同士のこういう距離感には、正直いまだに慣れない。
召喚された世界では聖女様だったので、なんか、こう、メイドさんとかに仕えられていたし。
「莉子、朝からくっつきすぎ。アリサが困ってるでしょ」
呆れたような声とともに、藤崎美咲(みさき)が莉子の襟首をつかんで、私から引きはがしてくれた。
クラス委員の美咲は面倒見のいいしっかり者で、私と莉子の保護者みたいな存在だ。
「ありがとう、美咲」
「どういたしまして……あ、アリサ、リボンが曲がっちゃってるよ、じっとしてて」
美咲は私の首元に手を伸ばして、手際よく制服のリボンを結び直してくれる。
その隙に、莉子は私の後ろに回りこんで、今度は髪をいじり始めた。
「アリサの髪、今日もさらっさら……ずるい……どうやったらこうなるの?」
「普通にシャンプーしてるだけだよ」
「絶対うそだー! 美咲、聞いた? この人、普通にシャンプーしてるだけでこれなんだって!」
「はいはい。莉子、せっかくのハーフアップを崩さないの」
莉子は唇をとがらせながらも、名残惜しそうに私の髪から手を離した。
かと思えば、今度はポケットから小さな箱を取り出して、にんまりと笑う。
「そうだアリサ。これ、コンビニの新作チョコ。はい、あーん」
「え、いいわよ、自分で食べられるから……」
「いいからいいから。ほら、あーんして」
差し出されたチョコレートを、私は観念して口に入れた。
周りのクラスメイトたちが、なぜかほほえましそうにこちらを眺めている。
テレビでは完全無欠のアイドルで通っている白絃アリサも、この教室では、すっかり女子たちのお世話の対象なのだった。
内心では、四年半前の私が頭を抱えて転げ回っている。
女の子にあーんをしてもらうなんて、中一の男子だった頃の私が知ったら、きっとその場で気絶していただろう。
「アリサ、今日も放課後は収録なんでしょ? ちゃんと寝てる?」
「うん、昨日は十一時には寝たよ」
「ならいいけど。無理しちゃだめだからね」
美咲はそう言ってから、ふと思い出したように眉を寄せた。
その表情を見た瞬間、私は少しだけ嫌な予感を覚える。
「それと、お昼。今日も佐伯くんたちと食べるの?」
「うん、そのつもりだけど」
「いい? 男子の言葉遣いがうつらないように、ちゃんと気をつけるのよ。この前なんか、アリサってば『マジかよ』って言ってたんだから」
「あ、あれはたまたまで……」
「アリサの『マジかよ』、あたしもちょっと聞いてみたいかも」
「莉子!」
うつされたわけじゃなくて、もともとあれが私の言葉遣いなんだけど――とは、もちろん言えない。
私は曖昧に笑ってごまかしながら、昼休みは絶対に気をつけようと、心の中で固く誓った。
その誓いが守られたことは、今のところ一度もないのだけれど。
チャイムが鳴って、担任の先生が教室に入ってきた。
午前中は数学と英語と古文で、私にとっては一日のうちで一番の難関だ。
中学の三年間をまるごと飛ばしてしまった私は、帰ってきてから必死に勉強して、ようやく授業についていけるようになったところなのだから。
勉強は聖女パワーでもどうにもならない分野なのだ。
四時間目の終わりを告げるチャイムと同時に、私は財布を持って教室を出た。
学食は今日も、お腹をすかせた生徒たちでごった返している。
すれ違う何人かが私に気づいて小声で何か言い合っているけれど、それにももうすっかり慣れてしまった。
窓際の隅のテーブルで、見慣れた二人が私に向かって手を挙げていた。
この時間、あのテーブルは私たち三人の指定席だ。
「お、来た来た。アリサ様、お席はこちらでございます」
大げさにお辞儀をしてみせたのは、佐伯颯太(そうた)。
小学校のときからのお調子者で、昔からクラスのムードメーカーだった男子だ。
「その『様』っていうの、いいかげんやめてってば」
「食券、先に買っといた。いつものでいいだろ」
ぶっきらぼうに食券を差し出してきたのは、久我湊(くがみなと)。
颯太とは対照的に口数が少なくて、小学校の頃から、三人の中で一番ゲームがうまかった。
受け取った食券には、カツカレー大盛りと印字されている。
「さすが湊、わかってる。お金、あとで払うね」
「いらない」
「だめ、払うから。毎回おごってもらうわけにはいかないでしょ」
押し問答の末に、湊はしぶしぶといった様子で、私の差し出した小銭を受け取った。
二人は、いつもこうだ。
席を取っておいてくれたり、食券を先に買っておいてくれたり、私のためにあれこれと、気を回しすぎるくらい回してくれる。
カウンターで受け取ってきたカツカレーは、大盛りの名に恥じない山盛りだった。
スプーンですくって口に運ぶと、スパイスの香りと揚げたてのカツの食感が広がって、思わず頬がゆるむ。
アイドルがカツカレーの大盛りを頬張っている光景は、周りから見るとかなり意外らしいけれど、好きなものは好きなのだから仕方がない。
「で、聞いてくれよアリサ。昨日の夜、湊と二人でモンハンやってたんだけどさ」
「えっ、ずるい。私も行きたかったのに」
「お前、昨日は帰りが遅かっただろ。……例の古龍、やっと倒した」
湊がさらりと口にした一言に、私はスプーンを持つ手を止めた。
例の古龍というのは、三人で何度挑んでも返り討ちにされてきた、因縁の相手のことだ。
「うそ、あいつ倒したの? 私、まだ一回も勝てたことないのに」
「いやー、マジでギリギリだったんだって! 三乙寸前でさ、最後に湊が罠張ってくれて、そこに俺が溜め斬りぶち込んで――」
颯太が身振り手振りを交えて、昨夜の死闘を熱く語り始める。
話を聞いているうちに、私の中の何かが、うずうずと騒ぎ出した。
「溜め斬りって、大剣で行ったの? あいつ、怒り状態だと隙なんてほとんどないじゃん」
「だから罠だって。湊の読みが神がかってたんだよ」
「……攻撃パターン、三十回やられて覚えた」
「三十回!? マジかよ、湊すげーな! じゃあもう素材揃ったってことか? ずりーぞ、俺の分も手伝ってくれよな!」
「……アリサ?」
背後から聞こえた声に、私はぴしりと固まった。
おそるおそる振り返ると、飲み物を買いに来たらしい美咲と莉子が、すぐ後ろに立っている。
「今、『俺』って言ったよね。あと『マジかよ』と『ずりーぞ』も」
「言った言った〜。アリサの男子モード、生で聞いちゃった〜」
莉子はなぜか嬉しそうだけれど、美咲の目はまったく笑っていない。
美咲は小さくため息をつくと、私ではなく、向かいに座る二人のほうへ視線を向けた。
「佐伯くん、久我くん。アリサに変な言葉遣いをうつさないでって、前にも言ったよね?」
「えっ、俺ら!?」
颯太がちらりと私を見る。
私は顔の前で両手を合わせて、目だけで必死にお願いした。
「……へいへい、すんませんでした。全部、俺らが悪うございました」
「了解、気をつける」
「本当にお願いね。アリサも気を付けなよ。アイドルなんだから、テレビでうっかり出たら大変でしょ」
「はい……気をつけます」
満足したようにうなずくと、美咲は莉子の手を引いて去っていった。
去り際に莉子がこっそり手を振ってきたので、私も小さく振り返す。
二人の背中が見えなくなってから、私はテーブルにおでこがつきそうなくらい頭を下げた。
結局、今日も誓いは守れなかった。
「ごめん、二人とも。いつも私のせいで怒られて」
「いいって、いいって。これくらい安いもんだろ」
「……あの日のことに比べたらな」
湊がぽつりとこぼした言葉に、颯太も黙ってうなずいた。
あの日というのが何のことなのかは、聞かなくてもわかる。
中学一年生の、あの日。
本当なら、私たちのクラス全員が、まとめて異世界に召喚されるはずだった。
召喚した側と交渉して、一番適性の高かった私ひとりだけが行くことで、どうにか話をつけたのだ。
残されたこっちの世界では、中学生がひとり忽然と姿を消したわけで、誘拐事件だと大騒ぎになったらしい。
けれどクラスのみんなは、召喚の残滓のせいで、私がアリサとして魔王軍と命がけで戦う姿を、夢の中で見続けていたのだという。
二人がずっと私に恩を感じてくれているのも、そのためだ。
帰ってきた私のために、あの頃のクラスメートと当時の先生が、白絃優ひとりのための卒業式を開いてくれたこともある。
みんなの前で受け取った卒業証書は、今も部屋の机の引き出しにしまってある。
「その話はもういいって、何回も言ってるでしょ。私はただ、二人とまた昔みたいにバカな話ができれば、それでいいんだから」
「わかってるって。だからこうしてバカな話してんだろ」
「そういうこと」
颯太がからりと笑って、湊が小さく肩をすくめる。
その変わらない二人の顔を見ていたら、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
姿も名前も声も変わってしまったけれど、この二人の前では、私は今でも白絃優のままでいられる気がする。
湊が空になったコップを置いて、何事もなかったように話を戻した。
こういうときに空気を切り替えるのは、昔から湊の役目だ。
「で、アリサ。土曜の夜は空いてるのか?」
「レッスンが夕方までだから、夜なら大丈夫」
「よっしゃ! じゃあ土曜は古龍リベンジな! 三人でボッコボコにしてやろうぜ!」
「……颯太、声がでかい」
湊に脇腹を小突かれて、颯太が大げさに痛がってみせる。
私はそんな二人を眺めながら、残りのカツカレーを、いつもより少しだけゆっくりと味わった。
放課後、私は人目につきにくい裏門から学校を出た。
門の脇には、見慣れた白いワンボックスカーが停まっている。
運転席の窓から顔をのぞかせたのは、マネージャーの篠原さんだ。
「お疲れさま、アリサさん。乗って」
「こちらこそお疲れさまです、篠原さん。今日もよろしくお願いします」
後部座席に乗り込むと、車はすぐに都心へ向かって走り出した。
篠原さんは二十代後半のてきぱきとした女性で、デビュー前からずっと私たちを担当してくれている。
仕事には厳しいけれど面倒見がよくて、メンバーみんなから頼りにされている人だ。
「今日は五時入りでメイクと衣装、六時からカメリハ、本番は七時半から。トークの台本は読んできた?」
「はい。休み時間に読みました」
「よろしい。それと来週だけど、月曜が雑誌の表紙撮影で、水曜がCMの打ち合わせ。金曜はオンエアに合わせて配信もあるからね」
「……来週も、お休みはなさそうですね」
「売れっ子アイドルの宿命よ。その代わり、土曜の夜だけはちゃんと空けてあるわ」
「ありがとうございます! さすが篠原さんです!」
「はいはい……ちなみに、お昼は何を食べたの?」
「カツカレーの大盛りです」
バックミラー越しに、篠原さんの眉がぴくりと動いた。
車内に、数秒の沈黙が流れる。
「……本番前にお腹がすいたって騒がないなら、それでいいわ」
「楽屋のお弁当もちゃんと食べるので、大丈夫です」
「大丈夫の意味が違う気がするんだけど」
窓の外を流れていく景色を眺めながら、私はゆっくりと深呼吸をした。
学校での白絃アリサから、アイドルの白絃アリサへ。
頭の中のスイッチを、ひとつずつ切り替えていく。
私がこの世界に入ったのは、高校に入学してすぐの春だった。
駅前でスカウトされて、あれよあれよという間に今の事務所に所属することになり、レイナとユキと三人で『ステラコード』としてデビューしたのが、ちょうど一年前のことだ。
それが今では、ゴールデンタイムの音楽番組に呼んでもらえるようになったのだから、人生は本当にわからない。
テレビ局に着いて楽屋のドアを開けた瞬間、ソファでスマホをいじっていた女の子が、ぱっと顔を輝かせて立ち上がった。
そのまま両手をぶんぶんと振りながら、楽屋中に響き渡るような声を上げる。
「アリサー! おはよー! 会いたかったよー!」
声ひとつで楽屋の空気を一気に明るくしてしまったのは、ステラコードのメンバーのユキだ。
いつでもどこでもテンションが高くて、グループのムードメーカーを一手に引き受けている。
ちなみに、この業界では夕方でも夜でも挨拶はおはようございますなので、ユキの挨拶は間違っていない。
「おはよう、ユキ。昨日の配信ぶりだね」
「昨日ぶりでも寂しかったの! あ、そうだ聞いて聞いて、昨日の配信のアーカイブ、もう再生回数がすごいことになってるんだよ! コメント欄も、新曲楽しみって声でいっぱいなの!」
「……ユキ、うるさいわよ。アリサ、おはよう」
鏡の前の椅子で台本をめくっていたもう一人のメンバー、レイナが、顔も上げずに言った。
長い黒髪をさらりと流したクールな雰囲気の美人で、グループで一番ダンスがうまい。
口数は少ないけれど、誰よりもメンバー思いなことを、私とユキはよく知っている。
「おはようレイナ。今日もよろしくね」
「ん……今日のトーク、オフの日の過ごし方を聞かれるって」
「アリサは何て答えるの? やっぱりゲーム?」
「うーん、たぶん、そうなるかな。一応そう思って準備はしてるよ」
「……狩りの話を始めると長くなるから、ほどほどにね」
レイナの冷静な指摘に、ユキがお腹を抱えて笑い出した。
二人とも、私が大のゲーム好きなことはよく知っている。
ただし、私がもともと男の子だったことも、異世界で聖女をしていたことも、二人は知らない。
メイクさんに髪を整えてもらい、新曲の衣装に着替えて、カメラリハーサルへと向かう。
白と銀を基調にした三人おそろいの衣装は、スカートがふわりと広がるところが気に入っている。
デビューしたての頃は、ひらひらした衣装にいちいち戸惑っていたのが嘘みたいだ。
リハーサルの合間に楽屋のお弁当をきれいに平らげたら、ユキに信じられないものを見るような目で見られた。
篠原さんは何も言わずに、ただ遠くを見つめていた。
本番のスタジオは、まぶしいくらいの照明に包まれていた。
観覧席には、メンバーカラーのペンライトを握りしめたファンの人たちの姿が見える。
その光の粒が目に入るたびに、自然と背筋が伸びる。
「さあ、続いては今年大ブレイク中の三人組、ステラコードの皆さんです!」
司会のベテラン芸人さんの声に合わせて、私たちはそろって頭を下げた。
トークコーナーでは、台本どおりに新曲の紹介をして、そのままオフの日の話題へと移っていく。
「アリサちゃんは、お休みの日は何してるの?」
「ゲームをしてることが多いです。友達とオンラインで、よく一緒に狩りに行ってて」
「狩り!? その顔で!?」
スタジオに笑いが起きて、私は慌てて顔の前で手を振った。
もちろん、本物の狩りの話ではない。
「あ、ゲームの中の話です! この前なんて、マジで三時間くらい同じモンスターと……」
言いかけたところで、自分の口から飛び出した言葉に気づいて、私は一瞬だけ固まった。
頭の中で、美咲の声がものすごい剣幕で響いた気がする。
「……じゃなくて、本当に、三時間くらい戦ってたんです」
隣のユキがぶはっと吹き出して、すかさずフォローに入ってくれた。
こういうときのユキの反射神経は、本当に頼りになる。
「アリサって、ゲームの話になると目の色が変わるんですよー!」
「……この話、本当に長くなるので、このへんで」
レイナの淡々とした一言に、スタジオがまたどっと沸いた。
司会の芸人さんもお腹を抱えて笑っていて、どうやら今のやりとりは、うまくトークのオチとして収まってくれたらしい。
私は笑顔を保ったまま、心の中で美咲に全力で謝った。
トークが終わって曲の準備が進むあいだ、私はそっとスタジオを見渡した。
観覧席のファンの人たちの顔には、さすがに少し疲れの色が浮かんでいる。
観覧の収録は始まるまでに何時間も待つことが珍しくないし、カメラの後ろを動き回っているスタッフさんたちも、朝からずっと働き詰めのはずだ。
「それでは歌っていただきましょう。ステラコードで、新曲『スターダストスコア』です!」
照明が落ちて、立ち位置についた私たちを、一筋のスポットライトが照らし出す。
イントロが流れ始めた瞬間、スタジオのざわめきが遠のいて、余計なことはすべて頭から消えていった。
ただひとつだけ、歌い出しに合わせて、私は胸の奥にある小さなスイッチを入れた。
『癒しの聖歌』。
聖女だった頃に身につけたスキルのひとつで、私の歌声を聞いた人の心と体を、そっと癒してくれる力だ。
歌う曲は何でもいいし、オンとオフも私の意思ひとつで切り替えられる。
こっちの世界では基本的に使わないと決めている力だけれど、ステージの上でだけはこの小さな例外を自分に許していた。
私の歌を聞きに来てくれた人たちが、少しでも軽い足取りで帰れるように。
ユキの元気な歌い出しに、レイナの伸びやかな高音が重なって、そこに私の声が溶けていく。
歌声が届いたところから、観覧席の人たちの肩の力が、ふっと抜けていくのがわかった。
カメラを担いだスタッフさんの眉間のしわが、いつの間にかほどけているのが視界の端に映る。
三人の立ち位置が入れ替わるたびに、観覧席のペンライトが波のように揺れた。
大勢の人の視線を浴びることには、昔から慣れている。
けれど、気づけば口元が勝手にゆるんでいるのは、きっとこの二人と一緒だからだ。
サビのターンで目が合うと、ユキがにっと笑って、レイナがほんの少しだけ目を細めた。
私も二人に負けないくらいの笑顔で、最後のフレーズを歌い切った。
最後の音が消えるのと同時に、私は『癒しの聖歌』のスイッチをそっと切った。
ステージを下りると、カメラの横にいたスタッフさんたちが、首をかしげながら肩を回していた。
「いやあ、不思議だなあ。ステラさんの収録のあとって、なんか体が軽いんだよね」
「わかります。朝からずっと立ちっぱなしなのに、全然疲れてないんですよ」
スタッフさんたちの会話を背中で聞きながら、私は何食わぬ顔でスタジオをあとにした。
この秘密だけは、レイナとユキにも内緒にしている。
本番を終えて楽屋に戻るなり、さっそくユキのおしゃべりが始まった。
ステージの興奮がまだ冷めないのか、いつもよりさらに早口で、声も一段と大きい。
「アリサ、さっきの『マジで』、めちゃくちゃ危なかったね! 隣で聞いてて、私の心臓まで止まるかと思ったんだから!」
「うう……お願いだから言わないで……」
「……でも、ウケてたからいいんじゃない」
着替えを終えたレイナが、ペットボトルの水を差し出しながら言った。
クールな表情のまま、ほんの少しだけ口の端が上がっている。
「次からは気をつけて……今日のサビのターン、よかった」
「レイナがアリサのこと褒めた! ねえアリサ、今レイナが褒めたよ!」
「ユキ、うるさい」
いつもどおりの二人のやりとりに、私は声を上げて笑った。
今日のステージも、きっと悪くない出来だった。
篠原さんの車で家まで送ってもらう頃には、時計の針は夜の九時を回っていた。
まだ高校生の私は、夜の十時より前には仕事を終えなければならない決まりになっていて、収録の日はだいたいいつもこのくらいの時間になる。
後部座席でスマホを開くと、メッセージアプリにいくつも通知が届いていた。
颯太と湊とのグループには、収録おつかれ、土曜忘れるなよ、という短いメッセージ。
メンバー三人のグループでは、ユキがスタンプを二十個くらい連打していて、その一番最後に、レイナからのおやすみがひとつだけぽつんと置かれていた。
家に着いて玄関のドアを開けると、リビングにはまだ明かりがついていた。
靴を脱ぎながら、私はリビングに向かって声をかける。
「ただいまー」
「おかえりアリサ。お疲れさま」
「おかえり。夕飯は温め直せばすぐ食べられるぞ」
お母さんとお父さんに迎えられてリビングに入ると、ソファの上で陽菜がクッションを抱えたままうとうとと舟をこいでいた。
お風呂上がりのパジャマ姿で、朝に結ってあげた髪はもうほどかれている。
「陽菜ったら、アリサが帰ってくるまで待ってるって聞かなくて。部屋で寝なさいって言ったのにねえ」
私はソファの前にしゃがみこんで、陽菜の肩をそっと揺らした。
起こすのはかわいそうだけれど、このままでは風邪をひいてしまう。
「陽菜、こんなところで寝たら風邪ひくよ」
「……ん……お姉ちゃん……? おかえりぃ……」
「うん、ただいま」
寝ぼけまなこの陽菜が、私の制服の袖をきゅっとつかんだ。
帰りが遅い日は、陽菜はいつもこうして私が帰ってくるまで起きて待っている。
私がいなかった三年間のことを思えば、その理由は聞かなくてもわかった。
「ほら、部屋まで一緒に行こう」
「……お姉ちゃん……明日も髪やってくれる……?」
「うん。明日も、明後日も、ちゃんとやってあげる」
陽菜はふにゃりと笑うと、私の腕にしがみついたまま、ようやく立ち上がった。
陽菜を部屋まで送り届けてから、お母さんが温め直してくれた肉じゃがを食べて、お風呂に入る。
楽屋でお弁当を食べたはずなのに、肉じゃがはしっかりおかわりした。
自分の部屋のベッドに倒れこむと、心地よい疲れが全身に広がっていく。
天井を見上げながら、私は今日一日のことを思い返した。
家族とにぎやかな朝ごはんを食べて、学校で美咲と莉子にかまわれて、昼休みには颯太と湊とゲームの話で盛り上がって、夜はレイナとユキと一緒にステージに立った。
聖女だった頃の私が聞いたら、きっと半分も信じないような一日。
けれど、そのどれもが、今の私にとっては二度とは手放せない宝物なのだ。
聖女として過ごした三年間のことを、今ではときどき、遠い夢のように思い出す。
あの頃の私がずっと帰りたいと願っていたのは、きっと、こういう何でもない一日だったのだと思う。
異世界帰りの元聖女で、元男の子で、今は女子高生アイドル。
肩書きが少し多すぎる気もするけれど、それが今の私だ。
スマホのアラームをセットして、部屋の明かりを消す。
明日もきっと、にぎやかで忙しい一日になるだろう。
だって元聖女の私、白絃アリサは――明日もアイドル活動中なのだから。