TS聖女、現代に帰還しアイドルになる   作:TS聖女、いいよね

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第1話 聖女アリサ、異世界から帰還する

 

これは、私がまだ『白絃アリサ』ではなかった頃の話。

同級生たちが中学三年生だった冬の夜、私は三年ぶりに、この世界へ帰ってきた。

 

足もとで渦を巻いていた光が、ゆっくりと細くなって消えていく。

最後のひとすじが夜の闇に溶けたとき、私は自分が、固くて冷たい土の上に立っていることに気がついた。

 

「帰って……これたの……?」

 

真っ先に感じたのは、肌を刺すような冷たい空気だった。

乾いた土の匂いに混じって、どこかの家の石油ストーブの匂いが、かすかに鼻の奥をくすぐる。

遠くで踏切の警報機が鳴っていて、その向こうを電車が走り抜けていく音が、夜の空気を細かく震わせた。

 

目の前には、見覚えのある四階建ての校舎が、黒い影になってそびえていた。

壁の真ん中に取り付けられた大きな時計の針は、八時を少しだけ過ぎたところを指している。

鉄棒も、体育倉庫も、朝礼台も、三年前に最後に見たときから、何ひとつ変わっていなかった。

 

帰還先にこの中学校を選んだのは、ここが私が向こうの世界へ連れていかれた場所だったから。

あと、異世界に連れていかれた自分の記憶に残る、今も開けたであろう場所がここしかなかったからだ。

術式の座標を何百回も計算し直して、人目につかない夜の時間を選んで、ようやくたどり着いた場所だった。

 

吐き出した息が白く染まって、目の前でほどけていく。

向こうの世界の冬も寒かったけれど、この寒さには体のどこかが覚えている手触りがあった。

気がつけば、法衣の袖から出た指先が、かすかに震えていた。

 

「さむ……」

 

そのときだった。

校庭の端のほうで、砂を踏む足音がいくつも重なった。

 

次の瞬間、校庭の四隅に立つ照明が、ばちんと音を立てていっせいに灯った。

まぶしい光に目がくらんで、私は思わず顔の前に手をかざす。

その指の隙間から見えたのは、私をぐるりと取り囲むように立つ、三十人近い人影だった。

 

体が勝手に動いて、私は右手を胸の前に掲げていた。

三年間の戦いで染みついた癖は、ここが日本の中学校だということを、まるで考えてくれない。

喉の奥で結界の詠唱を組み立てながら、私は人影たちに向かって、できるだけ落ち着いた声を出した。

 

「……どちら様でしょうか? 驚かせてしまったのなら申し訳ありません。私は、決して怪しい者では――」

 

言いかけたところで、私は自分の格好を思い出した。

真っ白な聖女の法衣に、腰まで届く銀色の髪。

夜の校庭に光と一緒に現れた女の子なんて、どう考えても、怪しい者以外の何者でもなかった。

 

そんなとき人影の中から、ひときわ背の高い男子が一歩前に出た。

学校指定の紺色のコートに、ぐるぐる巻きのマフラー。

照明を背にしたその顔を、私はすぐには思い出せなかった。

 

「……優、だよな?」

 

低い声だった。

私の知っている誰の声とも違う、すっかり大人びた男の人の声。

けれど、少しだけ首をかしげて相手の顔をのぞきこむその仕草には、どこか見覚えがあった。

 

「失礼ですが、以前どこかでお会いしたことが……」

「俺だよ、俺! 颯太! 佐伯颯太!」

 

佐伯颯太。

小学校のときからずっと一緒にバカをやってきた、クラス一のお調子者だ。

三年前は私とほとんど背が変わらなかったはずのその颯太が、今は見上げないと顔が見えないくらいの高さにいた。

 

「颯太……さん? ずいぶん、背が伸びましたね」

「さん!? いや、さんって! しかも敬語!」

 

颯太が頭を抱えると、周りの人影からどっと笑い声が上がった。

よく見れば、みんな私と同じ中学の制服を着ている。

知らない人たちのように見えたのは、私の記憶の中のみんなが、まだ中学一年生のままだったからだ。

 

「すげー、夢で見たのと同じしゃべり方だ」

「本物のアリサちゃんだ……」

 

ひそひそとささやき合う声の中に、聞き捨てならない言葉が混じっていた。

夢で見た、と誰かが言った。

それに、私が向こうの世界で授かった名前を、どうしてここにいるみんなが知っているのだろう。

 

私がその場に立ち尽くしていると、颯太がくるりと後ろを振り返って、片手を高く上げた。

その背中の向こうで、たくさんの人影が、いっせいに何かの準備を始める気配がした。

 

「よーし、みんな、いくぞ! せーのっ!」

「「「おかえりー!」」」

 

三十人分の声が、冬の夜空に跳ね返った。

同時に、前のほうにいた女子たちが、大きな紙をばさりと広げてみせる。

模造紙を何枚もつなぎ合わせた横断幕には、太いマジックで『おかえり 優!』と書かれていて、その下に、小さな丸っこい字で『(アリサちゃん)』と付け足されていた。

 

胸の前に掲げていた右手が、ゆっくりと下がっていく。

組み立てかけていた結界の詠唱は、形になる前に、喉の奥でほどけて消えた。

 

横断幕の脇から、もうひとりの男子がこちらへ歩いてきた。

颯太ほど背は高くないけれど、黒いダッフルコートのポケットに両手を突っ込んで、少し眠そうな目で私を見下ろしている。

その眠そうな目には、はっきりと見覚えがあった。

 

「……湊?」

「ん」

 

久我湊。

颯太と同じく小学校からの付き合いで、三人の中で一番ゲームがうまかったやつだ。

口数が少ないところも、返事がひと文字で終わるところも、三年前とまったく変わっていない。

 

「湊さん、皆さんは、どうしてここに……私が今夜帰ってくることを、どうして知って……」

「夢で見てた。全部」

 

湊の短すぎる答えを、颯太が慌てたように引き取った。

湊のほうは、それで説明は済んだとでも言いたげな顔をしている。

 

「お前がいなくなった日から、クラスの全員、毎晩おんなじ夢を見るようになったんだよ。お前が向こうでアリサって呼ばれて、魔王軍とか邪神とかと、ガチで戦ってる夢」

「一週間前の夢でお前が言ってた。術式が完成したから七日後の夜に帰ろうって」

「時間まではわかんなかったから、みんなで六時から待ってたんだぜ。寒すぎて、マジで死ぬかと思った」

「受験前なのに、塾をサボって来た人もいるんだからね」

「それ、俺のことか?」

 

あちこちで笑い声が上がる中、私の耳には、颯太のさっきの言葉だけが残っていた。

三年間、毎晩。

私がひとりきりだと思っていたあの戦いの夜にも、この人たちは、夢の向こう側から私を見ていたのだ。

 

いちばん苦しかった戦いの夜のことが、ふいに頭をよぎった。

傷だらけで、もう一歩も動けないと思いながら、それでも歯を食いしばって立ち上がった夜のことだ。

 

「アリサちゃんが大怪我したとき、みんなで泣いたんだからね……!」

「最後の戦いのときなんて、全員寝不足で学校来てたもんな」

 

女子の何人かは、もう目元をぬぐっていた。

男子たちも、照れくさそうに鼻をこすったり、わざとらしくそっぽを向いたりしている。

 

「……ご心配を、おかけしました」

 

深く頭を下げると、足もとの白線がにじんで、いくつにも分かれて見えた。

しばらくのあいだ、私はどうしても、顔を上げることができなかった。

 

しんみりとした空気を最初に破ったのは、男子たちのほうだった。

ようやく顔を上げた私の前で、何人かの男子が、そわそわと顔を見合わせている。

 

「てかさ、マジで女子になってんじゃん」

「夢で見るより、実物のほうがやばくね?」

「やばい。テレビに出てるアイドルより可愛いだろ、これ」

 

口々に好き勝手なことを言いながら、男子たちがじりじりと距離を詰めてくる。

三年前まで給食の牛乳の早飲み競争をしていた連中に、上から下までまじまじと眺められる日が来るなんて、いったい誰が想像できただろう。

その中から、颯太がひょいと手を伸ばしてきた。

 

「なあなあ優、その髪って本物? ちょっとだけ触っても――」

「佐伯くん、アウト!」

 

ぱしん、と乾いた音がして、颯太の手が横から叩き落とされた。

いつの間にか私のすぐ隣に立っていたのは、髪を肩で切りそろえた、気の強そうな女子だった。

一年のときに同じ班だった、芹沢さんだ。

 

「男子! アリサちゃんに勝手に触ったらセクハラだからね!」

「はあ!? いや、優だぞ!? 中身は男だぞ!?」

「見た目が女の子なんだから、アウトに決まってるでしょ!」

 

芹沢さんの号令で、女子たちがさっと私の周りを取り囲んだ。

あっという間に、私と男子たちのあいだに、コートとマフラーでできた分厚い壁ができあがる。

三年間、聖女として何人もの騎士に守られてきたけれど、ここまで鉄壁の守りは見たことがなかった。

 

「アリサちゃん、大丈夫? 変なことされてない?」

「その服、すっごく綺麗……でも、それで寒くないの?」

「えこひいきだ! 俺ら、小学校からのダチだぞ!」

 

壁の向こうから聞こえてくる颯太の声は、すっかり情けなくなっていた。

ほかの男子たちも、壁のすき間から、どうにかこちらをのぞきこもうと必死になっている。

 

「じゃあ握手! 握手ならセーフだろ!」

「アウト」

「じゃあ何ならいいんだよ!」

「見るだけ。半径三メートル以内には近づかないこと」

「厳しすぎるだろ!」

 

このままでは収拾がつかないと思って、私は女子の壁の内側から、なんとか顔を出した。

向こうの世界では、もっと物騒な揉め事をいくつも収めてきたのだ。

ここはひとつ、聖女らしく穏やかに場を収めなければならない。

 

「あの……皆さんどうか落ち着いてください。颯太さんに悪気はないんです……まあ、こいつ昔から、俺のゲーム機も勝手に触ってたけど」

 

言ってしまってから、しまったと思った。

けれど、一度こぼれた言葉は、もう口の中には戻ってこない。

校庭が、しんと静まり返った。

 

「……今、『俺』って言った?」

「言った」

「よっしゃああ! 優だ! 本物の優が帰ってきたぞー!」

 

湊の短い証言を合図に、男子たちが肩を組んで飛び跳ね始めた。

一方の女子たちは、この世の終わりのような顔をして、私の両肩をがっしりとつかむ。

 

「だめだめだめ! その顔で『俺』は禁止!」

「えっ、でも、俺はもともと――」

「禁止!」

 

芹沢さんの容赦のない一言に、後ろのほうの女子たちが、がっくりと肩を落とした。

どうやら女子たちの中の私は、夢で見た聖女様のイメージのままだったらしい。

 

「夢の中のアリサちゃん、あんなにかっこよかったのに……」

「だいたいさ、優は優だろ。なんで女子はアリサちゃんなんだよ」

「だって夢の中じゃ、向こうの人たちにずっとアリサ様って呼ばれてたじゃない」

「様って何だよ。じゃあ俺らも、アリサ様って呼べばいいのか?」

「佐伯くんが言うと、ふざけてるようにしか聞こえないんだけど」

 

男子は『優』で、女子は『アリサちゃん』。

横断幕の名前があんなことになっていたのは、どうやらこの言い争いの結果だったらしい。

 

言い合う声を聞いているうちに、冷たい風が、法衣の薄い布地を通り抜けていった。

向こうの世界の聖女の正装は、見た目こそ立派だけれど、日本の二月の夜を過ごすようにはできていない。

こらえきれずに小さくくしゃみをすると、ふいに肩がずしりと重くなった。

 

振り返ると、いつの間にか女子の壁をすり抜けてきた湊が、自分のダッフルコートを私の肩にかけてくれていた。

体を温める魔法なら、ひと呼吸のあいだに使えるはずだった。

けれど私は、組み立てかけた術式をそっと手放して、まだ湊の体温が残っているコートの前をかき合わせた。

 

「……寒そうだったから」

「サンキュ、湊」

「久我くん、ナイス! セーフ!」

「なんで湊はいいんだよ!?」

「下心がないからに決まってるでしょ」

 

そっぽを向いた湊の耳が、照明の下でもわかるくらい赤くなっていた。

颯太は何か言い返そうとしたけれど、芹沢さんにひとにらみされて、すごすごと口を閉じた。

 

騒ぎがひと段落したところで、ぱん、ぱん、と手を叩く音が響いた。

生徒たちの輪の外から、ダウンジャケットを着た男の人が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 

少し白髪が増えて、目尻のしわも深くなっていたけれど、その穏やかな顔を見間違えるはずがなかった。

一年のときの担任だった、高梨先生だ。

 

「はいはい、そのへんにしておけ。白絃が困ってるだろう」

「高梨先生……」

 

先生は私の前で立ち止まると、しばらく何も言わずに、私の顔を見つめていた。

ダウンジャケットの襟の上で、先生の喉が、一度だけ大きく上下する。

 

「……おかえり、白絃。よく、帰ってきたな」

「はい。長いあいだ学校をお休みしてしまって、すみませんでした」

「三年も欠席した生徒は、さすがに先生の教師人生でも、お前が初めてだよ」

 

先生は冗談めかしてそう言うと、眼鏡を外して、目頭を指で押さえた。

その横から、颯太がひょいと顔を出す。

 

「先生がさ、校長に頭下げて、校庭を貸してもらったんだぜ。名目は、受験生の息抜きの天体観測会」

「余計なことは言わなくていい」

「でも、星なんかより、よっぽど珍しいもんが見られたよな」

 

みんながどっと笑ったあとで、芹沢さんが、ふと思いついたように手を挙げた。

その目は、横断幕を広げていたときよりも、少しだけ真剣だった。

 

「ねえ、卒業式って三月だよね。アリサちゃんも、一緒に出られないのかな」

「さすがにそれは、難しいと思いま……いや、無理だろ。この見た目で『白絃優』って呼ばれて、壇上に上がるわけにもいかないし」

 

その場に、少しだけ沈黙が落ちた。

それを破ったのは、やっぱり颯太だった。

 

「じゃあさ、やろうぜ。俺らだけで。優ひとりのための卒業式」

「それいい! 体育館は無理でも、教室ならできるよね」

「卒業証書はどうすんだよ」

「……それは、先生がなんとかする」

 

先生がぼそりとそう言った瞬間、校庭にわっと歓声が上がった。

受験の話も、明日の小テストの話も、今だけはみんなの頭からきれいに消えてしまったらしい。

 

「あ、ちなみに卒業アルバムの集合写真、お前は右上の丸の中だからな」

「……右上の丸?」

「撮影の日に休んだやつが入るとこ。写真が一年のときのしかなかったから、ばっちり男のお前だけど」

 

卒業アルバムの集合写真の、右上の小さな丸い枠。

三年間いなかった私の居場所を、みんなはそんなところにまで、ちゃんと残しておいてくれたらしい。

男の子の私が澄ました顔で丸に収まっているところを想像したら、口元がゆるむのと同時に、鼻の奥がつんとした。

 

盛り上がるみんなの顔を眺めながら、私はさっきの言い争いのことを思い出していた。

優と、アリサ。

どちらで呼ばれても私が私であることに変わりはないけれど、これから先、この姿で生きていくのなら、いつかは決めなければいけないことだった。

 

「あの……呼び方のことなんだけど」

 

私が声をかけると、言い争っていた男子と女子が、そろってこちらを振り向いた。

照明の光の中で、三十人近い視線が、まっすぐに私へと集まる。

 

「アリサでいいよ。向こうで三年間、ずっとそう呼ばれてきたし……この顔で『優』って呼ばれたら、周りの人がびっくりするでしょ」

 

男子たちから、ええーっ、と不満そうな声が上がる。

私は湊のコートの襟をきゅっと握りしめて、もうひとつだけ付け加えた。

 

「その代わり、卒業証書の名前は『白絃優』で頼む……俺が、ちゃんとこの中学を卒業したって、証拠にしたいから」

 

今度は、誰も『俺』を禁止しなかった。

芹沢さんは何か言いかけて口を閉じると、私の背中を、ぽん、とひとつ叩いただけだった。

 

「了解。じゃあ今日からアリサ様だな」

「様はいらない」

「よし、今日はここまで! 受験生はさっさと帰って寝ろ。この時期に風邪ひいたら洒落にならんぞ」

 

先生の号令で、みんながぞろぞろと校門のほうへ歩き出す。

先生は最後に私のほうを振り返ると、少しだけ声を落として言った。

 

「白絃。早く、ご家族に顔を見せてあげなさい」

 

その言葉を聞いた瞬間、コートの襟を握っていた指先からすっと力が抜けていった。

家族、という言葉が、胸のいちばん深いところにすとんと落ちてきた。

 

みんなが手を振りながら帰っていくのを、私はぼんやりと見送った。

先生が職員室へ鍵を返しに行ってしまうと、静かになった校庭には颯太と湊と私の三人だけが残された。

 

私は、校舎の三階の端にある窓を見上げた。

あの日、黒板の前に浮かび上がった光の陣と、悲鳴を上げるクラスメートたちの顔が、一瞬だけ目の前をよぎる。

三年前、私がこの世界で最後に見た景色は、あの窓の内側だった。

 

それから、自分の手のひらに視線を落とした。

コートの袖からのぞいているのは、白くて、細くて、小さな女の子の手だ。

あの頃、この校庭で無邪気にサッカーボールを追いかけていた手とは、似ても似つかなかった。

 

「……どんな顔して、帰ればいいんだろうな」

 

ぽつりとこぼれた声は、夜の空気に吸いこまれて、すぐに消えた。

颯太も湊も、すぐには何も言わなかった。

 

「父さんも母さんも、三年間ずっと待ってたのは白絃優なんだよな。玄関を開けたら、知らない銀髪の女の子が立ってるんだぞ。そんなの、どう説明すれば……」

「知ってるよ」

「え?」

「おばさんたちは知ってる。お前が女の子になったことも、聖女やってたことも、全部な」

「俺らが話しに行ってた。夢を見るたびに」

 

颯太と湊が、顔を見合わせてうなずき合う。

私の知らないところで、二人はずっと、私の家に通い続けていたらしい。

 

「最初に話しに行ったとき、おじさんすげー怒ってさ。俺らにじゃなくてお前を勝手に連れてったやつらにだぞ。あんなに怒ったおじさん、俺、初めて見た」

「おばさんは毎回泣いてた。それで最後に必ず聞くんだ。優は元気だった?、って」

「陽菜ちゃんなんか、俺らが行く日はいっつも玄関で待っててさ。お兄ちゃんの話してってせがむんだよ」

 

見てもいないはずの光景が、まぶたの裏に浮かんだ。

台所のテーブルに颯太と湊が並んで座っていて、その向かいで、お母さんがエプロンの端をぎゅっと握りしめている。

その隣では、小さな陽菜が身を乗り出して、二人の話に耳を澄ませているのだ。

 

「……じゃあ、今夜のことも?」

「今夜のことは、言ってない」

「先生とも相談したんだけどさ。もし術式が失敗してお前が帰ってこなかったら、おばさんたちにあの日とおんなじ思いをもう一回させることになるだろ。だから、ちゃんと帰ってきたのを確かめてから、俺らで連れていこうって決めてたんだ」

 

私は、すぐには言葉を返せなかった。

二人だって毎晩あんな夢を見せられて、怖くなかったはずがない。

それなのにこの二人は、三年間、私の家族のところへ夢の話を運び続けてくれていたのだ。

 

それでも私の足は地面に縫いとめられたように動かなかった。

すると、左手がぐいと強く引っぱられた。

 

「知らない女の子じゃなだろ!」

「え……?」

「優だろう……おばさんたちが待ってるのも、お前だ!!」

 

私の手をつかんだまま、颯太はまっすぐに私の目を見ていた。

反対側の右手を、今度は湊が、大きな手でがしっとつかむ。

 

「ほら、行くぞ。ほらアリサ様、ご帰宅のお時間でございますよ」

「だから、様はいらないってば……」

 

文句を言いながらも、私の足は二人に引っぱられるまま、一歩、また一歩と校門のほうへ動き出していた。

冬の夜空の下で、三人分の白い息が、街灯の光の中にふわりと浮かんでは消えていった。

 

 

 

中学校から私の家までは、歩いて十分ほどの道のりだ。

見慣れたはずの通学路は、ところどころ知らない景色に変わっていた。

 

角の駄菓子屋はシャッターが下りたままで、その向かいには見たことのないコンビニが明るい光をこぼしている。

自動販売機に並んでいるジュースも、半分くらいは知らない名前のものだった。

三年という時間は、こういう小さなところにも、ちゃんと積もっていたらしい。

 

「……ハンモンの新作、出てる」

「マジで!?」

 

思わず大きな声を出してしまってから、私は慌てて口を押さえた。

ここに芹沢さんがいたら、間違いなく禁止を言い渡されていただろう。

 

「俺と湊でお前の分も予約して買ってあるんだぜ。三人でやろうぜ」

 

私は何も言わずに、つないだままの颯太と湊の手を、少しだけ強く握り返した。

やがて、見覚えのある屋根が見えてきた。

門柱の表札には三年前と同じ字で『白絃』と書かれていて、リビングの窓にはオレンジ色の明かりが灯っている。

 

門の前で、私の足はぴたりと止まった。

インターホンに伸ばした指先が、ボタンに触れる寸前で動かなくなる。

魔王軍の大軍を前にしても震えなかった指が、たったこれだけのことで情けないくらいに震えていた。

 

「ほら」

 

颯太が、私の指の上からそっとボタンを押しこんだ。

家の中で呼び出し音が鳴って、ぱたぱたとスリッパの音が近づいてくる。

三年間、一日だって忘れたことのない足音だった。

 

「はーい、どちらさま……あら、颯太くんに湊くん。こんな時間にどうしたの?」

 

ドアを開けた母さんは、二人の顔を見てから、その間に立つ私に目を移した。

三年ぶりに見る母さんは、記憶の中よりも少し痩せていて、前髪には白いものが混じっていた。

エプロンの裾を握ったまま、母さんはその場で動かなくなった。

 

真っ白な法衣の上に、男物のダッフルコート。

腰まで届く銀色の髪と、青い瞳。

颯太と湊が何度も話して聞かせたはずの姿が、今、お母さんの目の前に立っていた。

 

「……優、なの?」

「……ただいま、母さん」

 

声がひどくかすれた。

向こうの世界で、何度も何度も口の中で転がしてきたはずの言葉なのに、それだけを言うのがやっとだった。

次の瞬間、私はお母さんの腕の中にいた。

エプロンからは、お味噌汁とほんの少しだけ洗剤の匂いがした。

 

「優……っ、優……!」

 

母さんは何度も私の名前を呼びながら、背中に回した腕にありったけの力をこめた。

私の頭は、母さんの肩のあたりにすっぽりと収まってしまう。

三年前はもうすぐ母さんの背を追い越せそうだったのに。

 

「遥、どうした――」

 

リビングから顔を出した父さんが、玄関の光景を見て、言葉を失った。

次の瞬間、父さんは靴下のまま玄関に飛び下りて、母さんごと私を抱きしめていた。

父さんの腕は、痛いくらいに強かった。

その腕が小刻みに震えていることに気づいて、私は父さんの胸に、黙って額を押しつけた。

 

「……おかえり。おかえり、優」

 

泣きじゃくる母さんの肩越しに、私は階段のほうへ目を向けた。

とん、とん、と小さな足音が、二階から下りてくるところだった。

 

「お母さん、誰か来たの……?」

 

パジャマ姿の女の子が、階段の途中で立ち止まって、こちらを見下ろしていた。

最後に見たときは小学四年生だった陽菜は、髪が肩まで伸びて、顔つきもずいぶんお姉さんらしくなっている。

 

「……お兄、ちゃん?」

 

陽菜は、残りの階段を転がるように駆け下りてきた。

そのままお父さんとお母さんの間に体をねじこんで、私の法衣にしがみつく。

 

「お兄ちゃん、お兄ちゃん……! ほんとに、お兄ちゃんだぁ……!」

 

しゃくりあげる陽菜の頭を、私はそっとなでた。

颯太と湊から話は聞いていたはずなのに、陽菜は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、ぽかんと口を開けて私を見つめた。

 

「……お兄ちゃん、ほんとに女の子になってる」

「……うん。ごめんな、陽菜」

「なんで謝るのよ……おかえり、お兄ちゃん」

 

陽菜はそう言うと、もう一度私の胸元にぎゅっと顔をうずめた。

それから、すん、と小さく鼻を鳴らして不思議そうに首をかしげる。

 

「……お兄ちゃん、なんか、いい匂いする」

「たぶん、向こうの石けんの匂いだと思う」

 

ふと振り返ると、門の外で颯太と湊が並んでこちらを見ていた。

颯太はしきりに鼻をすすりながら夜空を見上げていて、湊はいつもの眠そうな顔で小さく片手を上げる。

 

「じゃ、俺らはこれで……また明日な、アリサ様!」

「明日、ゲーム持ってく」

 

そう言い残して、二人は夜道を並んで帰っていった。

湊のコートを着たままだったことに気づいたけれど、私は呼び止めるのをやめておいた。

明日も会えるのだから、今度こそ。

 

「……アリサ様って、なに?」

 

涙をぬぐいながら、お母さんがきょとんと目をまたたかせる。

説明しようと口を開きかけたそのとき、私のお腹が、ぐぅ、と盛大な音を立てた。

 

玄関に一瞬だけ沈黙が落ちて、それから陽菜がぷっと吹き出した。

つられたように、お父さんとお母さんも、泣き笑いの顔で肩を震わせ始める。

 

「……母さん。味噌汁、ある?」

「あるわよ。ご飯もまだ炊飯器に残ってる」

 

靴を脱いで上がろうとしたとき、玄関の隅に見覚えのあるスニーカーが並んでいるのが目に入った。

三年前に私が履いていた、いつも泥だらけだったはずのスニーカーは、きれいに洗われて今もそこに置かれていた。

今の私の足には、きっともう大きすぎるだろう。

 

三年ぶりに座ったダイニングの椅子は、記憶の中よりもほんの少しだけ高く感じた。

隣の椅子に座った陽菜は、私の袖をつかんだまま片時も離そうとしない。

 

目の前に置かれたお椀から白い湯気がふわりと立ちのぼって、ほんのりと出汁の香りがした。

ひと口すすった瞬間、私はお椀を両手で抱えこんで、そのまま夢中で飲み続けていた。

最後の一滴まで飲み干して、気がついたときには、空っぽのお椀をお母さんに差し出していた。

 

「……おかわり」

「はいはい。ご飯は?」

「大盛りで」

 

テーブルの向かいで、お父さんが目元をゆるめた。

まだ赤いままのその目が、空っぽのお椀と私の顔とを、ゆっくりと見比べる。

 

「……そういうところは、変わってないな」

「でも、颯太くんたちから聞いてたより、ずっと美人さんねえ」

「……母さん、それ今言う?」

 

その夜、私は三年分の話を、全部した。

向こうの世界に呼ばれた日のことも、アリサという名前をもらった日のことも、戦って戦って、帰り道を探し続けた日々のことも。

陽菜は途中から私の腕にしがみついたまま眠ってしまったけれど、お父さんとお母さんは一度も口を挟まずに、最後まで私の話を聞いてくれた。

 

話し終えると、お父さんは長いあいだ黙りこんで、それから小さく息をついた。

テーブルの上で組まれた大きな手に、ぐっと力がこもるのが見えた。

 

「……息子でも娘でも、お前がうちの子だってことに、変わりはない」

 

お父さんはそこで言葉を切ると、銀色になった私の髪を不器用な手つきでくしゃりとなでた。

小さい頃に何度もなでてもらったのと、同じ手つきだった。

 

「そうか。今日からは、娘か」

 

お母さんが、目元をぬぐいながら、くすくすと笑った。

私もつられて笑って、それから、ずっと言いたかった言葉を、もう一度だけ口にした。

 

「……ただいま」

「おかえりなさい、優」

 

この家で私が『アリサ』と呼ばれるようになるのは、それからもう少しだけ先の話だ。

けれど、あの夜にもらったおかえりの温かさは、今も私の中で、少しも冷めずに残っている。

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ムツキは気がつけば触れたら破滅しそうな闇属性うすほそになっていた。▼しかし中身はただの社畜のオタク、変なことは起こらないだろう。▼そうたかを括って始まった異世界生活。▼しかし見た目は妖艶とすら言える美貌を誇り、内面は善良かつ生きることに全力、当然チートも持っている。▼あるものはそんなムツキの笑顔に初恋を破滅させされ、あるものはムツキに黄金の精神を見出し脳を焼…


総合評価:399/評価:8.08/連載:3話/更新日時:2026年09月16日(水) 00:05 小説情報

おせいそうすほそ系TSヒーラーは、生きているだけで偉いと思う(作者:うすひら)(オリジナル:ファンタジー/冒険・バトル)

TS転生者のクリスはおせいそうすほそヒーラーだ。▼冒険者としての実力は確かで、他にも色々と特技を持っている。▼しかし本人は冒険者らしいことをほとんどせず、ギルドでだらけたり教師をしたり、運び込まれた急患を治癒したりして過ごしていた。▼全ては彼女の信条が「生きているだけで偉い」の一言に尽きるがために。▼そんな彼女に性癖を破壊されたり、実力に惹かれるものは数しれ…


総合評価:11016/評価:8.78/連載:11話/更新日時:2026年09月26日(土) 18:15 小説情報

TS少女は演じたい(作者:息抜き)(オリジナル:現代/日常)

男性として生きた朧げな前世の記憶を持つ女子高校生、白瀬真琴。▼友人に誘われた短編映像の撮影をきっかけに、彼女は二度の人生で初めて、自分の「才能」を認められる。▼芸能界への憧れはない。ただ、本当に自分に才能があるなら、確かめてみたかった。▼そんな気持ちから始まった体験レッスンは、やがて人気アイドルグループに加わるという、思いもよらない道につながっていく。▼話数…


総合評価:4008/評価:8.49/連載:51話/更新日時:2026年10月31日(土) 17:45 小説情報


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