TS聖女、現代に帰還しアイドルになる   作:ブリザード

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第4話 聖女アリサ、受験勉強をする

その日は夕方になっても、私はまだ机の前から動けずにいた。

開きっぱなしの数学の教科書は、最初のページから一枚もめくられていない。

 

マイナスとマイナスを掛けると、プラスになる。

三回読み直しても五回読み直しても、どうしてそうなるのかが、私にはさっぱりわからなかった。

 

階段の下からお母さんの声が聞こえてきたのは、窓の外が暗くなり始めたころだった。

 

「アリサー、颯太くんと湊くんが来たわよー」

「……え?」

 

玄関に下りると、学校指定の紺色のコートを着た二人が、紙袋を提げて立っていた。

紙袋の中には、分厚い問題集や参考書が、ぎっしりと詰めこまれている。

 

「よっ、アリサ様。入試、受けるんだって?」

「……なんで知ってるんだよ」

「おばさんから、うちの母ちゃんに電話来た」

 

振り返ると、台所の入り口で、お母さんがにこにこと手を振っていた。

どうやら真壁さんとの電話を、最初から最後まで聞いていたらしい。

颯太と湊とは小学校からの付き合いなので、お母さん同士もすっかり顔なじみなのだ。

 

「二人とも受験生なんだから、あんまり迷惑かけちゃだめよ」

「……呼んだのはお母さんだろ」

 

二人が受験生だということくらい、私にだってわかっている。

だから、自分から二人に頼むつもりは、これっぽっちもなかったのだ。

リビングのテーブルに参考書を広げながら、私は真壁さんからの電話のことを話した。

二人と同じ高校を、二人と同じ日に受けることになったのだと。

 

「マジで!? じゃあ春から三人一緒じゃん!」

「まあ……受かれば、な」

「日は?」

「お前らと同じ日」

「ん」

 

湊はそれだけ言うと、紙袋の中から、付箋だらけの分厚い過去問題集を取り出した。

湊が自分の受験のために、毎日使っているものらしい。

 

「とりあえず、今どこまでわかるか見る」

「え、いきなりテストかよ」

「敵の強さがわからないと、作戦も立てられない」

 

湊が過去問から抜き出して作った即席の小テストが、私の前に置かれた。

五教科で、全部で二十問。

制限時間は三十分だと言われて、私はシャープペンシルを握りしめた。

 

まずは、いちばん上の名前の欄からだ。

白絃、と書いて、その続きを書こうとしたところで、私の手はぴたりと止まった。

 

気がつけば、私は『優』の字を書きはじめていた。

三年ぶりに書いた自分の名前は、どうやらもう自分の名前ではなかったらしい。

私は書きかけの字を消しゴムで消して、まだ書き慣れないカタカナの三文字を書きこんだ。

 

三十分後、返ってきた答案用紙は、見事なまでに真っ赤だった。

 

「マイナス三かけるマイナス四が、マイナス十二」

「……違うのかよ」

「そこ、中一の最初の単元だぞ」

 

英語は一行目の英文から読めず、社会は年号がひとつも出てこなかった。

理科と国語も似たようなもので、五教科を全部足した点数は、二人が思わず黙りこむような数字だった。

 

「……十二点」

「百点満点でな」

「言わなくていいだろ!」

 

颯太が頭を抱えている横で、湊は答案と過去問題集を、黙って見比べていた。

小学校のころから、湊はゲームで強い敵に負けると、相手の動きを覚えるまで何度でも挑み直すやつだった。

例の古龍の攻撃パターンを三十回やられて覚えた今の湊も、そういうところは少しも変わっていない。

 

「これは……全部は無理だな」

「え」

「流石に三年分を十八日で全部やるのは無理。だから、取れるとこだけ取る」

 

湊は過去問題集のページを、指でとんとんと叩きながら説明を続けた。

大問1の計算問題は、毎年かならず同じ形で出る。

作図も毎年一問は出るし、英語は単語と短い文の問題で点を稼げる。

 

湊の口から次々に出てくる攻撃パターンを、颯太がノートに書きとめていく。

入試の問題をボスの技のように並べていく湊の目は、ゲームで強い敵と向き合うときと、まったく同じだった。

 

「ま、なんとかなるって、たぶんさ」

「たぶんかよ」

「たぶんだよ。けど、俺らが毎日来れば、そのたぶんがちょっとずつ減ってくだろ」

 

二人は、塾のない日は学校が終わってすぐに、塾のある日はその帰りにうちに寄ってくれることになった。

 

「……悪いな」

「いいって。こっちも復習になるし」

 

そこへ、台所からお母さんが大皿を抱えてやってきた。

大皿の上には、おにぎりが山のように積み上げられている。

 

「はい、受験生の夜食。三人とも、しっかり食べなさい」

 

結局、二人が一個ずつ食べるあいだに、私は五個たいらげた。

颯太があきれたような顔で、みるみる減っていく大皿と私の顔を見比べる。

 

「……受験生の夜食の量じゃねえだろ、それ」

「頭を使うと、腹が減るんだよ」

「まだ十二点ぶんしか使ってない」

 

湊のぼそりとしたひと言に、颯太が盛大に吹き出した。

私はおにぎりをくわえたまま、湊を思いきりにらみつけた。

 

次の日から、白絃家のダイニングテーブルは、すっかり私たちの勉強机になった。

追い出されたお父さんは、文句ひとつ言わずにリビングのソファへ移って、そこで新聞を広げている。

最初の相手は、数学だった。

 

「なんでマイナスかけるマイナスが、プラスになるんだよ!」

「アリサ、声」

 

台所から飛んできたお母さんの注意に、私は慌てて口を押さえた。

けれど、わからないものはわからない。

マイナスがふたつ集まったら、もっとマイナスになるほうが、よっぽど自然な気がする。

 

湊はしばらく黙って考えこんでから、私のノートの端に、小さな数字を書きはじめた。

 

「毎秒3ずつ体力が減る毒、あるだろ」

「ハンモンの?」

「なんでもいい。毎秒マイナス3。今から3秒前、つまりマイナス3秒のところまで巻き戻したら、体力は今よりいくつ多い?」

 

私は頭の中で、毒を食らったときのことを思い浮かべた。

一秒ごとに、体力がじわじわと削られていく。

それを三秒ぶん巻き戻せば、削られた分が戻ってきて、体力は今より九だけ多かったことになる。

 

「なるほど……九、多い」

「だからマイナス3かけるマイナス3は、プラス9」

「あ」

 

頭の中で、何かがかちりと噛み合う音がした。

毒なら、向こうで何度も食らった。

体力がじわじわ削られていくあの感覚なら、体がしっかり覚えている。

 

「毒ならわかる」

「毒でわかるやつ、初めて見たわ」

 

ただし方程式のほうは、まったくの別問題だった。

エックスが何なのか、どうして両辺に同じ数を足していいのか、湊が何度説明してくれても、霧の中を歩いているような気分のままだった。

 

その代わり、思いがけない敵が思いがけないほどあっさりと倒れた。

作図の問題だ。

 

「線分ABの垂直二等分線を作図しなさい……これ、どうやるんだ?」

「コンパスで、AとBから同じ大きさの円を……」

 

湊の説明を最後まで聞く前に、私はコンパスを手に取っていた。

針を刺して、円を描いて、交わったところを定規で結ぶ。

その手順を、私の手は、なぜか最初から知っていた。

 

向こうの世界の術式には、地面や床、中空に陣を描いて組むものがいくつもあった。

円の大きさがほんの少しずれるだけで、術式は暴走するし、下手をすれば命に関わる。

三年間、何万という陣を描いてきた私にとって、まっすぐな線と正確な円は、呼吸と同じくらい当たり前のものだったのだ。

 

「……できた」

「早っ」

 

ついでに、コンパスを使わずに、指先だけでノートの余白に円を描いてみせた。

湊が黙ってコンパスを取り上げて、私の円にぴたりと重ねる。

コンパスの線と私の線は、どこまでたどっても、ずれなかった。

 

「……は?」

「なんで作図だけプロなみなんだよ!」

「向こうで陣を描いてたから」

「陣ってなんだよ。いや、なんとなくわかるけどさ」

 

湊は自分の分析表を取り出すと、作図の欄に、黙って丸をひとつ書き足した。

どうやら私にも、ひとつだけくらいは確実に倒せる敵がいたらしい。

 

英語の先生役は、颯太だった。

颯太はかばんから一冊のノートを取り出すと、得意げにテーブルの真ん中に置いた。

 

「見ろ。英単語の語呂合わせ、ゆうべ徹夜で考えてきた」

「おい徹夜って、お前も受験生だろ」

「細かいことはいいんだよ。まずは単語帳のこの見開きを覚えるとこからな」

 

言われるままに、私は単語帳の見開きを開いて、並んだ英単語を小声で読み上げていった。

意味はひとまず置いておいて、音だけを、頭の中に順番に流しこんでいく。

向こうで、長い詠唱を覚えたときと同じやり方だ。

 

十分後、私は単語帳を閉じて、見開きの単語を頭から最後まで、ひとつも間違えずに暗唱してみせた。

颯太は語呂合わせのノートを開いたまま、ぽかんと口を開けている。

 

「ちょ……俺の徹夜は」

「で、意味は?」

「知らない。音だけ覚えた」

「詠唱かよ!」

 

結局、颯太の語呂合わせは、音と意味をつなぐために使われることになった。

音はもう覚えているのだから、あとは意味のほうを、颯太のくだらない語呂合わせでくっつけていけばいい。

 

「いいか、『necessary』は『寝させりゃ必要』で覚えろ」

「くだらない」

「でも覚えただろ」

「……覚えた」

 

同じテーブルの端では、学校から帰ってきた陽菜が、小学校の宿題を広げていた。

社会の年号を丸暗記していく私の声を、陽菜は鉛筆を止めて、じっと聞いている。

 

「千六百年、関ヶ原の戦い。千六百三年、江戸幕府……」

「ねえ、お姉ちゃん。関ヶ原の戦いって、誰と誰が戦ったの?」

「……え」

 

答えられずに固まった私を見て、陽菜の目がきらりと光った。

 

「徳川家康と、石田三成だよ。陽菜、今ちょうど学校でやってるもん」

 

小学六年生の社会では、ちょうど日本の歴史を習っているらしい。

陽菜はそれから、聞いてもいないのに、関ヶ原の戦いのあらましを身振り手振りで話してくれた。

年号と出来事しか入っていなかった私の頭の中で、ようやく人の顔が動きはじめる。

 

「……ありがと、陽菜先生」

「えへへ。お姉ちゃんに勉強教えるの、陽菜、初めて」

 

毎晩九時を過ぎると、お母さんが夜食のおにぎりを大皿で運んでくる。

そのたびに、山の半分以上が私のお腹に消えていくのも、すっかりいつもの光景になった。

 

ただひとつだけ、日を追うごとに変わっていくものがあった。

 

颯太のあくびの回数と、湊の目の下の影だ。

颯太の語呂合わせのノートは毎日少しずつ厚くなり、湊の分析表には、来るたびに新しい書きこみが増えていた。

 

「お前ら、ちゃんと寝てるのか?」

「平気平気」

「別に」

 

二人がそう言うので、私もそれ以上は聞かなかった。

聞かずにいるほうが、ずっと楽だったからだ。

 

でも金曜日の夕方、二人はいつものように塾のかばんを提げてやってきた。

けれど、玄関でコートを脱いだ二人の顔を見た瞬間、私は思わず足を止めた。

 

二人の目の下に、はっきりとわかるほど濃いくまができていた。

颯太の目は赤く充血していて、湊はいつも以上に、まぶたが重そうだった。

 

ダイニングで問題を解きはじめても、颯太は何度もあくびをかみ殺していた。

湊にいたっては、私のノートをのぞきこんだまま、シャープペンシルを握ってこくりと舟をこいでいる。

 

「……お前ら、ゆうべ何時に寝た?」

「平気平気。ちょっと遅かっただけだって」

「別に」

 

前にも聞いたのと、同じ答えだった。

けれど今度は、私も聞かなかったことにはできなかった。

 

颯太の語呂合わせは、毎晩、家に帰ってから考えてきたものだ。

湊の分析表の書きこみも、夜中までかかって増やしたものだろう。

二人とも、私に教える準備のために、自分が眠る時間と、自分が勉強する時間を削っていたのだ。

 

入試まで、あと二週間しかない。

二人にとっても、いちばん大事な時期のはずだった。

 

私は椅子から立ち上がると、二人に向けて、右の手のひらをかざした。

短い詠唱を口の中で転がすと、手のひらにやわらかな光が灯る。

光はふわりと広がって、二人の体に吸いこまれていった。

 

「うおっ……肩、かっる!」

「……眠気が、消えた」

 

颯太は何度も自分の肩を回して、湊は目をぱちぱちとさせている。

夢の中では三年間見続けてきたはずの私の魔法を、二人が自分の体で受けるのは、これが初めてだった。

 

「すげー、これが聖女の回復……」

「疲れは取った」

 

私は手を下ろして、二人の顔をまっすぐに見た。

 

「だから今夜は、自分の勉強をしろ。俺のためにお前たちの受験を潰したら意味がない」

「は? いや、俺らは別に……」

「明日から、もう来なくていい」

「待てよ、アリサ。まだ方程式だって――」

「いいから」

 

言いかけた颯太の肩を、横から湊がつかんで止めた。

湊はしばらくのあいだ、何も言わずに私の顔を見ていた。

それから颯太のコートを取って押しつけると、黙って玄関のほうへ歩き出した。

 

玄関のドアが閉まる直前、颯太が一度だけ振り返った。

私は、それに気づかないふりをした。

 

あのとき、自分がどんな選び方をしていたのか。

私がそれに気づくのは、もう少しあとになってからのことだ。

 

その夜、私はひとりで、自分の部屋の机に向かった。

湊の小テストの計算問題と、作図の問題だけは、どうにか手が動く。

けれど方程式のページに入ったとたん、シャープペンシルの先は、ぴたりと止まってしまった。

 

時計の針が、十二時を回った。

まぶたが重くなってきたので、私は自分の胸に手を当てて、さっきと同じ短い詠唱を唱えた。

眠気がすっと引いて、頭の奥がしんと冴えていく。

 

二人の疲れを取れたように、自分の疲れも取れる。

これなら、朝まででも机に向かっていられる。

……そう思っていたのに。

 

二時になっても、三時になっても、方程式は一問も解けなかった。

疲れはいくらでも消せるのに、わからないものは、わからないままだった。

できないことは『勉強』だと、研究所で真壁さんに答えたのは、ほかでもない私自身だ。

 

ドアがかすかにきしむ音がして振り返ると、隙間から陽菜がのぞいていた。

パジャマ姿のまま、眠そうに目をこすっている。

 

「……お姉ちゃん、まだ起きてるの?」

「陽菜、先に寝てろ」

 

陽菜は何か言いたそうにしていたけれど、やがて小さくうなずいて、ドアを閉めた。

ひとりきりになった部屋で、私はもう一度、ノートに向き直る。

 

向こうの世界でも、最後に立ち上がるのは、いつも私ひとりだった。

傷だらけで、もう一歩も動けないと思った夜も、私は自分の足で立ち上がってきたのだ。

だから今度も、ひとりでなんとかできるはずだった。

 

でも窓の外が白みはじめても、ノートの方程式は一行も進んでいなかった。

 

 

 

土曜日の朝、私は一睡もしないまま、机に突っ伏していた。

眠気は魔法で消せても、真っ白なままのノートだけは、どうにもならない。

 

そんな中インターホンが鳴ったのは、九時を少し過ぎたころだった。

 

「アリサー、お客さんよー」

 

お母さんの声に呼ばれて、私は重い足を引きずるように玄関へ下りた。

ドアを開けると、門の前に、颯太と湊が立っていた。

 

そして二人の後ろには、女の子が三人並んでいる。

肩で切りそろえた髪の、気の強そうな子には、すぐに見覚えがあった。

帰ってきた夜、校庭で男子たちに『アウト』を言い渡していた、芹沢さんだ。

 

その隣にいる、眼鏡をかけた物静かな子が宮下さんで、ふわふわした髪を二つに結んだ子が望月さん。

顔つきは三年前よりずいぶん大人びていたけれど、二人とも中学一年のときのクラスメートで、あの夜、校庭にもいた顔だった。

 

「……もう来なくていいって、言っただろ」

「だから、俺らだけじゃ来てねえ」

 

颯太はにやりと笑うと、スマホの画面を私の目の前に突き出した。

映っていたのは、中学一年のときのクラスの、メッセージアプリのグループだった。

三年間、みんなで夢の報告をするのに使ってきたグループなのだと、颯太は言った。

 

その一番新しいところに、ゆうべの颯太の書きこみがあった。

 

『アリサ様がピンチ。推薦組、単願組、手の空いてるやつ集合』

 

すぐ下には、湊が上げた分析表の写真が続いている。

さらにその下には、数分のうちに、返事がずらりと並んでいた。

画面をどれだけ下へ送っても、行く、暇してる、任せて、という返事は途切れなかった。

 

スマホを失った私は、そんなことになっているなんて、何ひとつ知らなかった。

 

「お前の回復呪文のおかげでさ、ゆうべは塾の課題も全部終わったんだよ。書きこんだのは、そのあと」

「……言われたとおり、自分の勉強もしてきたぞ」

 

二人の目の下のくまは、すっかり消えていた。

私の魔法が取ったのは、二人の体の疲れだけだったはずだ。

二人はその体で、一晩のうちに、こんなものまで用意してきたのだ。

 

「でも……みんなだって、自分のことがあるだろ。迷惑かけるわけには……」

 

言いかけた私の前に、湊が一歩、踏み出した。

 

「俺たちのためにお前が犠牲になったら、あの日の繰り返しなんだよ」

 

ふだんはひと文字で返事を済ませてしまうような湊。

その湊が、私の目をまっすぐに見たまま、一度も言葉を切らずにそう言った。

 

「あの日、白絃さんは一人で行っちゃったでしょ。今度は一人で行かせないし、させないよ」

 

芹沢さんの声は、校庭で男子たちを叱りつけていたときと同じくらい、きっぱりとしていた。

その隣で、望月さんがもう目元をぬぐっている。

 

「わたし、夢の中じゃ、見てることしかできなかったから……」

 

宮下さんは何も言わずに、けれど、しっかりとうなずいた。

 

真っ白なままのノートが、頭に浮かんだ。

疲れなら、いくらでも消せた。

それなのに私は、朝まで机に向かっても、一行も前に進めなかったのだ。

 

あの日の私には、ひとりで行く以外の道がなかった。

けれど今の私の前には、こうして門の前に並んでくれる人たちがいる。

 

私は五人に向かって、深く頭を下げた。

 

「……頼む。俺ひとりじゃ、どうにもならなかった。勉強を教えてください」

 

聖女と呼ばれていた三年間、私はいつも、頼まれる側だった。

自分から誰かに助けを求めたのは、これが初めてだった。

 

頭を下げたままの私の耳に、芹沢さんの小さなため息が聞こえた。

 

「……今の『俺』は、セーフにしといてあげる」

 

顔を上げると、芹沢さんは照れ隠しのように、ぱんと手を叩いた。

 

「はい、それじゃ始めるよ。数学は私、英語は宮下さん、社会と国語は望月さん。佐伯くんと久我くんは、先生役禁止。自分の勉強をすること」

「えっ、俺らも?」

「当たり前でしょ。二人とも受験生なんだから」

 

ダイニングのテーブルを女子四人で囲むと、芹沢さんはリビングのローテーブルを指さした。

 

「佐伯くんは半径三メートル。あっち」

「出た、三メートル!」

「久我くんも、今日はアウト」

「湊もアウトなら許す」

 

湊は何も言わずに、参考書を抱えてリビングへ移っていった。

その口もとが、ほんの少しだけゆるんでいるように見えた。

 

望月さんが紙袋から取り出したのは、何冊ものノートを綴じ紐でまとめた、分厚い一冊だった。

表紙には、丸っこい字で『アリサちゃん専用 攻略本』と書かれている。

 

その字に、見覚えがあった。

帰ってきた夜、校庭で広げられた横断幕の、『(アリサちゃん)』と同じ字だ。

 

「あの横断幕……」

「あ、あれ書いたの、私なの」

 

望月さんは照れくさそうに笑って、攻略本をめくってみせた。

一枚目には、ゆうべ湊がグループに上げた分析表が貼られていて、その後ろには、教科ごとに違う字のノートが続いている。

後ろのほうには、高梨先生が職員室で集めてくれたという、三年分の授業のプリントまで挟まっていた。

 

「みんな、お昼はおにぎりでいいかしら」

 

お母さんが運んできた大皿の山を、私は十分もしないうちに半分にした。

芹沢さんと宮下さんと望月さんは、おにぎりを手にしたまま、そろって固まっていた。

 

昼過ぎ、ダイニングとリビングに、いくつもの鉛筆の音が重なった。

私はふと顔を上げて、鉛筆を動かしている人数を数えた。

 

私を入れて、六人。

ゆうべは、ひとりだった。

 

私はシャープペンシルを握り直して、方程式のページを開いた。

 

次の日から、白絃家の冷蔵庫には、一枚のシフト表が貼られるようになった。

望月さんの丸っこい字で書かれたその表には、誰がいつ来るのかが、日替わりでびっしりと書きこまれている。

 

平日は、放課後になると、誰かしらが白絃家のインターホンを鳴らした。

週末になれば、三人そろって朝からやってくる。

 

方程式は、芹沢さんの天秤のたとえで、ようやく解けるようになった。

 

「エックスは、天秤のお皿に乗ってる、重さのわからない箱なの。両方のお皿から同じものを取っても、天秤は釣り合ったままでしょ?」

「……あ」

「その『あ』が出たら、もう大丈夫」

 

英語は、宮下さんの担当だった。

宮下さんは、私が詠唱のように丸暗記した英文を一行ずつ取り出して、その一語一語に、静かな声で意味をつけていってくれた。

 

「この文、もう全部覚えてるんだよね。じゃあ、意味は一個ずつ足していこう」

 

音だけだった詠唱に、少しずつ、意味が通っていく。

長い文がひとつ読めるようになるたびに、宮下さんは眼鏡の奥で、小さく笑ってくれた。

 

社会と国語の時間には、望月さんと陽菜が、競うように一問一答を出してきた。

学校から帰ってくるなり宿題を放り出して参戦する陽菜は、すっかり先生の顔になっている。

 

「お姉ちゃん、関ヶ原の戦いで勝ったのは?」

「徳川家康」

「正解! 陽菜のほうが先輩なんだから、これくらいは覚えてもらわないと」

 

ある日の夕方、リビングで自分の勉強をしていた颯太が、うなり声を上げて手を止めた。

のぞきこむと、作図の問題だった。

 

私はダイニングの椅子から立ち上がって、リビングのローテーブルへ向かった。

背中に芹沢さんの視線を感じたけれど、何も言われなかった。

どうやら、私のほうから近づくぶんには、セーフらしい。

 

「貸して」

 

陽菜の髪を初めて結んだ朝と、同じ言葉だった。

私は颯太の手からコンパスを受け取って、交わる二つの円の描き方を、一から説明していった。

 

「……先生」

「やめろ」

 

過去問の点数は、日を追うごとに、少しずつ上がっていった。

最初に解いた五教科の過去問は、五百点満点で八十点にも届かなかった。

それが一週間後には二百点を超えて、入試の前の週には、湊の言う合格ラインに、指先が届くところまで来ていた。

 

クラスのノートも、毎日のように増えていった。

グループに新しいページの写真が届くたびに、颯太がコンビニで印刷して持ってきて、攻略本はどんどん分厚くなっていく。

 

入試まで一週間を切ったある日、玄関のインターホンが鳴った。

門の前に立っていたのは、着古したコートの真壁さんだった。

 

「アリサさん、受験票です。研究所と中学校で、出願の手続きを済ませておきました」

 

真壁さんは、駅前の栗まんじゅうの箱と一緒に、一枚の紙を差し出した。

受け取った受験票には、印刷された文字で、『白絃アリサ』と書かれていた。

 

私はしばらく、その五文字から目を離せなかった。

ふとした瞬間に、鏡の中の顔が自分だということを不思議に思うときと、どこか似ていた。

 

真壁さんは、ダイニングを埋めつくす中学生たちを見て、目を細めた。

 

「……にぎやかですね」

 

ほんの短いひと言だったけれど、真壁さんの声は、どこかうれしそうだった。

研究所の帰りの車で、平穏に暮らしてくださいと言ったときと、同じ声だった。

 

その日の帰りぎわ、芹沢さんは玄関で靴を履きながら言った。

 

「入試が終わったら、次は卒業式の準備だからね。主役はアリサちゃん」

 

白絃優ひとりのための卒業式のことを、みんなはちゃんと覚えていてくれたのだ。

 

入試の前の晩、勉強会は、芹沢さんの言いつけで早めにお開きになった。

前の日は早く寝ること、というのが、ひと足先に受験を終えた芹沢さんの教えらしい。

 

夕ごはんは、お母さんが作ってくれたカツカレーだった。

試験に『勝つ』ための、験担ぎなのだそうだ。

私は三杯おかわりして、陽菜に笑われた。

 

「お姉ちゃん、勝ちすぎ」

 

部屋に戻ると、机の上に、見覚えのない鉛筆が三本、きちんと並べて置かれていた。

五角形の、合格祈願の鉛筆だ。

誰が置いてくれたのかは、聞かなくてもわかった。

 

寝る前に、私は攻略本の最後のページを開いた。

そこには、クラスのみんなの一言が、三十人近くの違う字で並んでいた。

 

がんばれ、という字があった。

アリサちゃんなら大丈夫、という字もあった。

受かったら握手な、ただし半径三メートルの外から、という、ふざけた男子の字もあった。

 

そして、いちばん下には、横断幕と同じ丸っこい字で、こう書かれていた。

 

『いってらっしゃい、アリサちゃん』

 

帰ってきた夜、みんなは私に、おかえりと言ってくれた。

今度は、こうして送り出してくれるのだ。

私は攻略本をそっと閉じて、芹沢さんの言いつけどおり、早めに布団にもぐりこんだ。

 

 

 

入試の朝、目覚ましが鳴るより早く、部屋のドアがノックされた。

 

「お姉ちゃん、起きてる?」

 

ドアの向こうに立っていたのは、パジャマの上にカーディガンを羽織った陽菜だった。

いつも寝坊ばかりしている陽菜が、私より早く起きているなんて、帰ってきてから初めてのことだ。

 

「目覚まし、三つかけたんだよ」

「……三つも」

「今日は、陽菜がやるんだ」

 

陽菜は私の手を引いて、洗面所の鏡の前に座らせた。

櫛を持つ小さな手が、私の長い銀髪を、ひと房ずつ丁寧に梳かしていく。

 

髪をまとめて、ゴムを二重にかけて、最後に毛先を少し引っぱって形を整える。

帰ってきてから最初の数日、毎朝私の髪を結んでくれていたのと、同じ手つきだった。

 

「はい、できた。お姉ちゃんが勝てるおまじない」

 

鏡の中のポニーテールは、どこも傾いていなかった。

私が毎朝結んでいる陽菜の髪は、まだときどき傾くというのに。

 

玄関では、いつもは一番に家を出るお父さんが、靴も履かずに待っていた。

その隣で、お母さんが、いつもの倍はありそうなお弁当の包みを抱えている。

 

「アリサ、受験票は持った?」

「持った」

「鉛筆も、持ったか」

「……三本とも」

 

お父さんは小さくうなずくと、大きな手で、私の頭をぽんとなでた。

とたんに、陽菜が悲鳴を上げる。

 

「お父さん、お姉ちゃんの髪崩れる!」

 

慌てて手を引っこめるお父さんを見て、お母さんがくすくすと笑った。

それから三人は、玄関に並んで、私の顔を見た。

 

「「いってらっしゃい、アリサ」」

「いってらっしゃい、お姉ちゃん!」

「……いってきます」

 

角を曲がると、電柱の横で、颯太と湊が待っていた。

三人で並んで、会場の高校までの道を歩いていく。

 

「アリサ様、受験票は」

「持ってるって。お母さんにも聞かれた」

「……作図、一問は出るぞ」

「わかってる」

 

朝の空気は、まだ冬の冷たさだった。

三人分の白い息が、朝日の中にふわりと浮かんでは消えていく。

 

会場の高校の門の前には、受験生を見送る中学校の先生たちが、何人も立っていた。

その中に、眼鏡をかけた、見覚えのある顔がある。

 

「高梨先生……」

「おう。佐伯、久我、しっかりな」

 

先生は二人の背中を順番に叩いてから、私のほうに向き直った。

眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなる。

 

「白絃……終わったら、卒業式の相談だ」

「……はい」

 

出願の時期がずれたせいで、私の受験番号は、颯太とも湊とも離れていた。

昇降口で二人と別れて、私はひとりで、知らない教室へ向かった。

 

ひとりで、知らない場所へ向かう。

三年前のあの日と、同じだった。

けれど今の私の髪は陽菜が結んでくれたもので、筆箱の中にはお父さんの鉛筆が三本並んでいて、頭の中にはクラスのみんなの攻略本が詰まっている。

 

自分の席について、配られた答案用紙を表に返す。

教室の前で、試験監督の先生が時計を見上げた。

 

「はじめ」

 

いっせいに、鉛筆の音が鳴りはじめる。

私はまず、いちばん上の名前の欄に、お父さんの鉛筆の先を置いた。

 

十八日前、湊の小テストで、私の手は『優』の字を書きかけて止まった。

今の私の手は、もう止まらなかった。

 

白絃アリサ。

 

魔王軍より、邪神よりも手強い相手は、今日も私の机の上にいる。

でも今度はひとりで挑むわけじゃない。

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