TS聖女、現代に帰還しアイドルになる 作:ブリザード
試験監督の先生の声で、教室じゅうの鉛筆の音が、いっせいに止まった。
最後の科目の答案用紙が、後ろの席から順番に集められていく。
机の上には、お父さんの合格祈願の鉛筆が三本並んでいた。
朝はあんなにとがっていたのに、三本とも、すっかり短くなっている。
会場の高校の門を出ると、颯太と湊も門柱の横で振り返っていたところだった。
颯太は私を見つけるなり手を振って、湊はポケットに手を突っ込んだまま小さく顎を上げてみせる。
「お、来た来た。アリサ様も、お疲れさまでした」
「……作図出たろ」
「出た。湊の言ったとおり一問だけど」
「英語も俺の語呂合わせ、出ただろ」
「ああ、確かにnecessaryが出たよな」
「よっしゃあ!」
門の前で拳を突き上げた颯太の脇腹を、湊が無言で小突く。
周りの受験生たちが、何事かとこちらを振り返っていた。
翌日の夕方、学校帰りの颯太と湊がその日の朝刊を抱えてやってきた。
新聞には、きのうの入試の問題と解答が載っていたので、勉強会のダイニングテーブルで三人で自己採点をすることになった。
作図は、満点だった。
方程式は、半分。
英語の長文は、宮下さんに一語ずつ意味をつけてもらった文とよく似ていて、思っていたよりずっと取れていた。
最後に湊が電卓を叩いて、攻略本の一枚目の分析表と見比べた。
颯太と私は、黙ってその横顔を見守る。
「うーん……五分五分ってとこか」
「五分あれば十分だろ」
颯太はいつもの調子で笑ったけれど、湊は分析表から目を離さなかった。
合格発表は、入試の一週間後だ。
週末には、芹沢さんと宮下さんと望月さんがやってきた。
三人とも中身の見えない紙袋をいくつも提げている。
「入試、お疲れさま。今日から、卒業式の準備を始めるからね」
「うん。何をすればいいかな?」
「ううん、アリサちゃんは参加禁止」
腰を浮かせかけたまま、私は固まった。
いつの間にか、颯太と湊まで女子たちの側に並んでいる。
「……なんで? 主役なのに」
「だからでしょ。主役が自分の卒業式の準備をしてどうするのよ」
「悪いなアリサ様。俺ら、準備委員なんで」
芹沢さんは、丸めた画用紙をテーブルの上に置いた。
どうやら、卒業証書の代わりということらしい。
「その代わり、これだけは練習してもらうからね。名前を呼ばれたら返事をして、前に出て礼。左手で受けて、右手を添えて、一歩下がって、もう一回礼。私たち、これを一か月も練習したんだから」
私は言われたとおりに返事をして、画用紙の前に進み出た。
差し出されたものを受け取る作法なら、向こうの三年間で体が覚えている。
聖女として立ってきた儀式の数は、たぶん、この国の卒業式の練習よりずっと多い。
礼をして、受け取って、一歩下がって、もう一度礼をする。
顔を上げると、三人がそろって黙りこんでいた。
「……私たちより、上手い」
「わたしたち、一か月も練習したのに……」
宮下さんがぽつりとこぼして、望月さんががっくりと肩を落とす。
芹沢さんは何か言いかけたけれども、結局、ぱんと手を叩いただけだった。
そしてお母さんがお茶を出してくれて、ひと休みしていたときのこと。
望月さんが湯のみを両手で包んで、ふと窓の外を見た。
「修学旅行の夜の星、きれいだったよねえ……」
「望月さん、それ、内緒のやつ」
芹沢さんの声に、望月さんが、あっ、と口を押さえた。
颯太と湊まで、気まずそうに目をそらしている。
修学旅行。
中学三年生の春に、みんなが行った旅行だ。
もちろん、そこに私はいない。
きっとみんなは、私の前でその話をしないように、気を遣ってくれているのだろう。
でもみんなの中学の三年間に、私はどこにもいないのだ。
ろくに通っていない中学校を、私は本当に、卒業していいのだろうか。
合格発表の朝は、入試の日よりもずっと早く目が覚めた。
ダイニングに下りると、スーツ姿のお父さんが、ちょうど玄関へ向かうところだった。
「アリサ。結果がわかったらすぐ連絡しなさい……いや、待て。スマホを持ってないんだったな」
お父さんは靴べらを持ったまま、しばらく黙りこんだ。
台所から、エプロン姿のお母さんが顔を出す。
「そうね、颯太くんのを借りなさい。お母さんは電話の前で待ってるから」
「……一緒に来ないの?」
「三人で見たいんでしょう? 顔に書いてあるわよ」
図星だった。
受験の日に三人で歩いた道を、答えを見に行く日も三人で歩きたかったのだ。
高校の昇降口の前には、もう人だかりができていた。
受験生とその家族が、白い布をかけられた大きな掲示板をぐるりと囲んでいる。
九時ちょうどに先生たちが布の端をつかんだ。
布が外れた瞬間、あちこちから悲鳴とも歓声ともつかない声が上がる。
「あった! 湊、あったぞ!」
「……ん。俺のもある」
颯太と湊の番号は、近いところに並んでいてすぐに見つかった。
颯太は両手を突き上げて跳びはねて、湊は小さく長い息を吐いた。
いつも眠そうな湊が、受験票の端をしわになるほど握りしめていたことに、私はそのとき初めて気づいた。
私の番号は、出願の時期がずれたせいで、二人とは離れた端のほうにあるはずだった。
三人で人の間を抜けて、掲示板の右の端まで歩いていく。
端に近づくにつれて、番号はところどころ飛ぶようになった。
飛んだ番号の数だけここで泣く誰かがいる。
そう思うと、足が少しだけ重くなった。
いくつ目かの、飛んだ番号のあと。
私の番号が、あった。
私は受験票と掲示板を、三回見比べた。
四回目を見ようとしたところで、横から颯太の大声が飛んできた。
「あるじゃん! アリサ、あるじゃん!」
「……な」
湊はそれだけ言って、ほんの少しだけ口の端を上げた。
合格ラインに指先が届くと言ったのは、湊だ。
あの分析表は、どうやら本物だったらしい。
「ほら、おばさんに電話しろよ」
颯太が、自分のスマホを差し出した。
家の番号は、指が覚えていた。
向こうにいた三年間、一度もかけることのできなかった番号だった。
呼び出し音は、一回目の途中で途切れた。
「はい、白絃です」
「……お母さん。受かったよ」
受話器の向こうが、しんと静かになった。
それから小さく息を吸う音がして、お母さんの声が、少しだけ詰まった。
「……そう、よかった……お父さんにも、すぐ知らせるわね」
電話を切ると、颯太のスマホが私の手の中で震え続けていた。
画面の上のほうを、通知が次々に流れていく。
『どうだった!?』
『佐伯、報告まだ?』
『アリサちゃんは!?』
中学一年のときのクラスの、グループだった。
颯太がスマホを受け取って、『三人とも合格!!』と打ちこむ。
その瞬間、画面がお祝いの言葉で埋めつくされた。
おめでとう、よかった、泣いた、アリサちゃんおめでとう、優おめでとう。
滝のように流れていく言葉を、私は横からのぞきこむことしかできない。
その中に、私が書きこめる場所は、まだなかった。
合格した生徒は、その足で中学校へ報告に行くことになっているらしい。
三人で中学校まで歩いていくと、高梨先生が門の前に立っていた。
「そうか。三人とも、よくやったな」
先生は颯太と湊の背中を順番に叩いてから、私のほうを向いた。
「白絃。卒業式の日が決まったぞ。みんなの卒業式の日の、夕方だ。あの教室を借りた」
あの教室。
私は思わず、校舎の三階の、いちばん端の窓を見上げた。
三年前、私がこの世界で最後に見た景色は、あの窓の内側だった。
「……先生」
「ん?」
「俺、ろくにここに通ってないのに、卒業していいんですか」
先生は、すぐには答えなかった。
眼鏡を指で押し上げて、それから、少しだけ笑った。
「その答えは当日するよ」
家に帰ってしばらくすると、リビングの電話が鳴った。
時計の針は、ちょうど三時を指していた。
「アリサさん、真壁です。合格おめでとうございます。中学校から研究所に連絡をいただきまして」
「ありがとうございます。手続きのこととか、いろいろと本当に」
「いえ。合格したのは、アリサさんですから」
受話器の向こうで、かさかさと紙を開くような音がした。
真壁さんは毎日三時になるとどら焼きを食べるのだと、初めて会った日に、日比野さんがばらしていた。
「……真壁さん。もしかして今、どら焼き食べてます?」
「……お祝いです」
その日の夕ごはんは、お赤飯だった。
お母さんいわく、合格の日のお祝いは、昔からこれと決まっているらしい。
私が二杯目のお茶碗を差し出したところで、玄関のドアが開く音がした。
いつもより一時間も早く帰ってきたお父さんは、スーツのまま、小さな紙袋をテーブルの上に置いた。
「合格祝いだ」
紙袋の中に入っていたのは、白くて薄い、スマホの箱だった。
隣の椅子の陽菜が、身を乗り出して歓声を上げる。
「お父さんね、お昼休みに会社を抜け出して、買ってきたのよ」
「……朝、連絡しろって言っただろう。言ってから気づいたんだ」
お父さんは、箱を私のほうへ押しやった。
それから少しだけ視線を落として、ぽつりと言った。
「もう、連絡がつかないのは、ごめんだからな」
お母さんが、箱の上に小さな紙を一枚のせた。
そこに書かれていた十一桁の数字に、私は見覚えがあった。
「番号は前のままよ。お父さんはね、解約できなかったの。三年間、毎月ちゃんと払ってたのよ」
お父さんは何も言わずに、お赤飯を口に運んだ。
三年間、誰がこの番号にかけても、電話はつながらなかったはずだ。
おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません。
きっとそんな声を、お父さんは何度も聞いたのだろう。
三年前のあの日、私のスマホは制服のポケットに入ったまま、一緒に向こうへ連れていかれた。
電池は数日で切れて、いつの間にか旅のどこかでなくしてしまった。
電波の届かない場所にあって、電源も入っていない。
あの声は、ふたつとも本当のことを言っていたのだ。
「いいなあ、お姉ちゃん。陽菜は中学生になってからって言われてるのに」
「陽菜も、四月からな」
「ほんと!? 約束だよ、お父さん!」
さっそく設定を始めたものの、三年分の差はここにもちゃんと積もっていた。
画面の動かし方、ボタンの場所も、三年前のスマホとはだいぶ違う。
「お姉ちゃん、そこ押すの」
「……そこってなんだよ」
「えへへ。陽菜先生だよ」
最後に、顔認証の登録をした。
画面に映った私の顔を、スマホは一秒もかからずに、本人だと認めた。
鏡を見るたびにまだ少しだけ不思議な気持ちになる顔なのに、スマホのほうがよっぽど話が早いらしい。
最初に届いたメッセージは、同じ家の中からだった。
三メートル先の台所にいるお母さんからの『おめでとう』と、向かいに座っているお父さんからの、なぜか『了解しました』と頭を下げる猫のスタンプ。
「……お父さん、これ、意味わかって送ってる?」
「かわいいだろう」
その直後、テーブルの上でスマホが震えた。
『は!? 優の番号から通知きたんだけど!?』
颯太の電話帳には、この番号が、三年前のまま『優』で残っていたらしい。
それから三分もしないうちに、颯太が三人のグループを作った。
『アリサ様、ようこそ』
『ん』
湊からの最初のメッセージは、いかにも湊らしい、ひと文字だった。
続けて颯太から、もうひとつ招待が届く。
中学一年のときのクラスの、あのグループだった。
参加のボタンを押したとたん、画面がものすごい勢いで流れ出した。
アリサちゃんだ、本物?、既読ついた、優おかえり、合格おめでとう。
その夜、ベッドの中で、私はグループの書きこみを、いちばん最初までさかのぼった。
たどり着いたのは、三年前の、私がいなくなった日の翌朝の日付だった。
『ゆうべ、変な夢見た人いる?』
書きこんだのは、芹沢さんだった。
その下に、返事がずらりと並んでいる。
見た、白絃が出てきた、知らない場所にいた、女の子になってなかった?、なってた、え、全員?
書きこみは、それから三年間、ほとんど毎朝のように続いていた。
私が大怪我をした朝は、泣いている顔文字が、画面を埋めつくしていた。
颯太の『今日も優んち行ってきた』は、数えるのをやめたくなるくらい、何十回も出てきた。
その中に、修学旅行の夜の日付があった。
時刻は、夜中の三時を少し過ぎたところだった。
『起きてる人いる?』
『起きてる』
『アリサちゃん、星見てた』
『日本の方角、探してたよね』
『こっちの空にも、あの星あるのかな』
『ないよ』
『高梨先生に見つかった』
『先生も、一緒に空見てる』
指が、止まった。
その夜のことなら、私も覚えている。
野営の火の番をしながら、私は知らない星ばかりの空を見上げていた。
どれかひとつでも、日本で見たことのある星はないかと探して、ひとつも見つけられなかった。
見つけられないまま、朝が来るのを待っていたのだ。
あの夜、遠い日本の旅館の窓からも、三十人近いみんなが、同じように空を見上げていた。
望月さんが言いかけた修学旅行の夜の星は、私の空のことだったのだ。
最後の戦いの日の明け方には、『勝った』という書きこみが、ひと晩じゅう起きていたみんなの数だけ並んでいた。
それからしばらくして『七日後の夜に帰るって』があって、横断幕の材料の相談があって、芹沢さんの『六時に校庭』があった。
そしてその夜遅くに、『おかえりって言えた』。
空っぽだと思っていた。
ろくに通えなかった私の中学の三年間は、どこにもないのだと思っていた。
でも、それはここにあった。
みんなが三年間、ずっと持っていてくれたのだ。
私は、入力欄に指を置いた。
何を書けばいいのかは、もうわかっていた。
あの夜の校庭で、私はみんなに、ご心配をおかけしましたと頭を下げただけだった。
攻略本の最後のページの『いってらっしゃい、アリサちゃん』にも、まだ返事をしていない。
『ただいま』
送信したのは、夜中の二時を過ぎたころだった。
それなのに、既読の数字は、みるみるうちに増えていった。
『おかえり』
『おかえり!!』
『おかえり、アリサちゃん』
『おかえり優』
湊からは、いつものひと文字ではなく、四文字の『おかえり』が届いた。
画面は、あっという間に、おかえりで埋まっていった。
陽菜の中学の制服が届いたのは、合格発表の四日後のことだった。
その日の夕ごはんのとき、お母さんが、卒業式の話を切り出した。
「お母さんたちは、卒業式には行かないことにしたわ」
「……なんで?」
「あの教室は、あの子たちとあなたの場所だもの。お母さんたちの分のお祝いは、帰ってきてからね」
お母さんはいつもの調子でそう言ったけれど、私には、その意味がわかった。
三年前、あの教室で悲鳴を上げたのは、クラスのみんなだ。
あの場所をもう一度塗り替えられるのは、たぶん、あの日あそこにいた人たちだけなのだ。
すると陽菜が、がたんと椅子を鳴らして、階段を駆け上がっていった。
戻ってきた陽菜の腕には、届いたばかりの制服の箱が抱えられていた。
「お姉ちゃん、卒業式、これ着ていって」
「これ、陽菜の制服だろ。新品じゃん」
「陽菜は行けないけど、制服は行けるでしょ」
陽菜は箱を私に押しつけて、少しだけ唇をとがらせた。
「最初の一回は、お姉ちゃんにあげる」
卒業式の日の朝、私はいつものように、登校前の陽菜の髪を結んだ。
髪をまとめて、ゴムを二重にかけて、最後に毛先を少し引っぱって形を整える。
鏡の中で、陽菜が目を丸くした。
「……まっすぐだ」
どこも、傾いていなかった。
帰ってきて最初の月曜日から、毎朝結び続けて、ようやくだった。
「お姉ちゃん、卒業の日に、やっと?」
「うるさい」
陽菜は笑いながら、ランドセルを背負って駆けていった。
十時になると、歩いて十分の距離の向こうで、みんなの卒業式が始まった。
私は部屋のベッドに腰かけて、ハンガーに掛けた陽菜の制服を、ぼんやりと眺めていた。
午後になって、私はその制服に袖を通した。
同じ中学の制服なのに、三年前の私の制服には、スカートなんてついていなかった。
鏡の中には、あの中学の制服を着た、銀髪の女の子が立っていた。
学校から帰ってきた陽菜が、部屋の入り口で足を止める。
「……陽菜の制服、陽菜より先に卒業しちゃうね」
四時を少し過ぎたころ、玄関のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、颯太と湊が並んで立っていた。
二人とも胸にコサージュをつけて、手には卒業証書の筒を持っている。
「卒業生のお迎えに参りました、アリサ様」
「……ん」
帰ってきた夜、校庭から家まで私を連れて帰ってくれたのは、この二人だった。
今日は、家から学校へ、迎えに来てくれたのだ。
「いってらっしゃい、アリサ」
「いってらっしゃい、お姉ちゃん!」
入試の朝と同じ言葉に送り出されて、私たちは三人で家を出た。
中学校までの道は、中学一年生の春に、三人で通った通学路だ。
あのころと同じ学校の制服で、私たちはその道を、もう一度だけ三人で歩いた。
どこかの家の庭から、花の甘い匂いが流れてくる。
帰ってきた夜も、入試の朝も、白い息が並んでいたのに、今日の息はもう白くならなかった。
校舎の三階の、いちばん端の教室の前で、私の足は止まった。
引き戸の向こうは、三年前、私がこの世界で最後に見た景色だ。
黒板の前に浮かび上がった、光の陣。
悲鳴を上げるクラスのみんなの顔。
もう終わったことだと頭ではわかっているのに、足が、床に縫いとめられたように動かない。
「……三年、遅刻」
ぼそりとつぶやいたのは、湊だった。
颯太がぶはっと吹き出して、その勢いのまま、引き戸をがらりと開けた。
教室の中には、三十人近いクラスのみんなが座っていた。
みんな胸にコサージュをつけて、机の上には、卒業証書の筒が置かれている。
座っているのは、中学一年生のときの席順だった。
窓際の、後ろから二番目の席だけが空いていた。
三年前、私が座っていた席だった。
そして、黒板。
光の陣が浮かんだあの黒板いっぱいに、チョークで星空が描かれていた。
白い星が、黒板の端から端まで散らばっている。
その並び方に、私は見覚えがあった。
修学旅行の夜にみんなが夢で見た、向こうの空の星だった。
星空の真ん中には、男子の太い字で『卒業おめでとう 優!』と書かれていた。
その下に、小さな丸っこい字で、『(アリサちゃん)』と付け足されている。
「……横断幕と、同じじゃない」
思わずこぼした私の声に、教室のあちこちから笑い声が上がった。
私が空いていた窓際の席に座ると、教卓の横に立った芹沢さんが背筋を伸ばした。
「ただいまより、白絃優さんの卒業式を始めます」
芹沢さんはそこで一度言葉を切って、教室をぐるりと見回した。
「それと、今日だけは、アウトなしです」
一瞬の沈黙のあと、男子たちが、机を叩いて沸いた。
『俺』の禁止も、半径三メートルも、今日だけはなし、ということらしい。
教卓の前に、高梨先生が立った。
先生の手には、表紙の角がすり切れた、古い出席簿があった。
「出席をとる」
先生が出席簿を開いて、名簿の順に名前を呼び始めた。
呼ばれたみんなが、ひとりずつ返事をしていく。
「久我湊」
「はい」
「佐伯颯太」
「はい!」
颯太の返事は、無駄に元気だった。
それから何人かの名前が呼ばれたあとで、先生は出席簿に目を落としたまま、ほんの少しだけ間を置いた。
「白絃優」
教室が、しんと静まり返った。
三年間、この名前のあとには、ずっと返事がなかったのだ。
「……はい」
自分の口から出たのは、三年前とは似ても似つかない、高くて細い女の子の声だった。
それでも先生は、確かめるように一度うなずいて、出席簿の欄に丸をひとつ書きこんだ。
「三年ぶりの出席だな」
先生は眼鏡を押し上げて、少しだけ笑った。
「三年分の欠席は、公欠にしておいた。世界を救いに行ってたんだからな」
泣き出しかけていた教室に、どっと笑いが起きた。
笑いながら泣いているやつも、泣きながら笑っているやつもいた。
芹沢さんの番になると、司会のはずの芹沢さんは、返事の途中で声を詰まらせてしまった。
出席をとり終えると、先生は教卓の上から、一枚の紙を取り上げた。
「卒業証書、授与。白絃優」
「はい」
今度の返事は、震えなかった。
私は席を立って、教室の前へ歩いていった。
黒板の前に立つのは、三年ぶりだった。
光の陣が浮かんでいた場所には、今は、チョークの星空がある。
先生が、卒業証書を両手で広げた。
本物の卒業証書の用紙に、先生の字で、白絃優と書かれている。
「卒業証書。白絃優。右の者は、本校の課程を修了したことを証する」
先生の声は、最後のところで、少しだけかすれた。
校長先生の名前が入るはずの欄には、一年生のときの担任として、先生の名前が書かれていた。
「学校の卒業は、書類の上で、もう済んでいる。これは、このクラスからの卒業証書だ」
礼をして、左手で受けて、右手を添えて、一歩下がって、もう一度礼。
芹沢さんたちに教わった作法を、私の体は、ひとつも間違えなかった。
それなのに、卒業証書を持つ両手だけが、どうしても震えて止まらなかった。
「卒業生、答辞」
芹沢さんの声に、私は黒板を背にして、みんなのほうへ向き直った。
三十人近い目が、まっすぐにこちらを見ている。
大勢の前で話すことには、慣れているつもりだった。
向こうでは聖女として、数えきれないほどの人の前で、言葉を述べてきたのだ。
「皆さん。本日は、私のために、このような式を開いていただき、本当にありがとうございます」
聖女だった頃の丁寧な言葉が、すらすらと口から出てくる。
けれど、ちらりと振り返った黒板の星空が目に入った瞬間、用意していた言葉は、どこかへ消えてしまった。
「……ごめん。やっぱ、こういうのは無理だ」
教室のあちこちで、誰かが小さく吹き出した。
私は、卒業証書を握り直した。
「俺さ、ずっと思ってたんだ。ろくに通ってない学校を、卒業していいのかって」
誰も、何も言わなかった。
私は息を吸って、言葉を続けた。
「でも、グループの三年分、全部読んだ。修学旅行の夜のことも知らなかった。俺、あの夜、向こうで日本の方角を探してたんだ。なにひとつ見つからなかったけど」
望月さんが、両手で顔を覆った。
芹沢さんは唇をかんで、まっすぐに私を見ていた。
「みんなは、こっちから同じ空を見ててくれたんだな……俺の中学の三年間は、みんなが持っててくれたんだ」
だから、と言いかけて、喉の奥がつかえた。
颯太が鼻をすすりながら、早く言えよ、というように顎をしゃくる。
「一緒に卒業させてくれて、ありがとな」
「優ーっ!」
男子の誰かが叫んで、机に突っ伏した。
それをきっかけに、教室じゅうの涙腺が、いっせいに決壊した。
「……最後に、卒業の歌。朝と、同じやつね」
涙声の芹沢さんがそう言うと、誰かが最初の音を、小さく口ずさんだ。
伴奏はなかった。
それでも、三十人近い声が、ひとつ、またひとつと重なっていく。
小学校の卒業式でも歌った曲だった。
三年前の三月、颯太と湊と並んで歌ったその歌を、私も、みんなと一緒に歌った。
こっちの世界で、みんなの前で歌うのは、これが初めてだった。
私の声が重なったとたん、何人かが、歌うのを忘れたようにこちらを振り向いた。
それからまた歌いながら、みんな、ぼろぼろと泣いていた。
胸の奥に、小さなスイッチがあるのがわかった。
『癒しの聖歌』。
歌声を聞いた人の心と体を、そっと癒してしまう力だ。
今ここでそれを入れれば、みんなの涙は、きっとすぐに止まるだろう。
けれど私は、そのスイッチに、指一本触れなかった。
この涙は、癒すためのものじゃない。
歌が終わって、芹沢さんが閉式を告げると、高梨先生が分厚いアルバムを差し出した。
「お前の分だ」
卒業アルバムだった。
クラスの集合写真のページを開くと、右上の小さな丸の中で、中学一年生の男の子が、澄ました顔をしていた。
三年前の、白絃優だった。
みんなが三年間を過ごした写真の中で、私の場所は、この丸ひとつ分だけだったのだ。
「撮り直そうぜ。今度は、丸の外な」
横からアルバムをのぞきこんだ颯太が、にやりと笑った。
集合写真は、黒板の星空の前で撮ることになった。
女子たちに両腕を引っぱられて、私はあっという間に、みんなの真ん中に立たされていた。
「……先生も」
湊が短く言って、私の新しいスマホを教卓に立てかけ、タイマーをかけた。
画面の中で、数字がひとつずつ減っていく。
「いくぞ、せーのっ!」
「「「卒業おめでとう!」」」
颯太の掛け声と、三十人分の声と、シャッターの音が重なった。
それが、私の新しいスマホの、最初の一枚になった。
撮り終わると、男子のひとりが、照れくさそうに私の前に進み出た。
給食の牛乳の早飲み競争で、いつも二位だったやつだ。
「合格したんだよな、優。じゃあ、握手な」
攻略本の最後のページに、受かったら握手な、と書いたのは、こいつだったらしい。
差し出された手を見て、芹沢さんが、小さくため息をついた。
「……今日はアウトなしって、言ったからね」
男子たちの歓声とともに、私の前には、あっという間に握手の列ができた。
「手、ちっちぇ……」
「優、ほんとに女子なんだな……」
「おかえり、優……」
握手のたびに、誰かが泣いて、誰かが笑った。
列のいちばん最後には、颯太と湊が並んでいた。
「卒業おめでとう、優」
「……おめでと」
二人とも、小学校のころより、ずっと大きな手になっていた。
ぱん、ぱん、と手を叩く音がした。
「はい、そこまで。卒業生は、そろそろ帰る時間だ」
先生の声に、みんなが筒を抱えて立ち上がる。
教室の明かりを消す前に、私はもう一度だけ、黒板の星空を振り返った。
家に帰ると、リビングの明かりの下で、家族が待っていた。
お父さんも、会社から早めに帰ってきている。
「ただいま」
「おかえり、アリサ」
私が卒業証書を広げると、お母さんは名前の欄を指でなぞったまま、しばらく黙っていた。
「……優の卒業式、ちゃんとあったのね」
お母さんはそれだけ言って、目尻を下げて笑った。
お父さんは卒業証書から目をそらさずに、短くうなずいた。
「いい卒業証書だな」
陽菜は、私から返してもらった制服を、大事そうにハンガーに掛けた。
「四月からは、陽菜がこれで、あの学校に行くんだよ」
部屋に戻ると、スマホが震え続けていた。
クラスのグループに、今日の写真が次々に届いている。
写真フォルダを開くと、いちばん最初に、黒板の星空の前の一枚があった。
三十人近いみんなと、高梨先生と、その真ん中で泣き笑いをしている、銀髪の女の子。
卒業アルバムの右上の丸の中で澄ましている男の子も、写真の真ん中の女の子も、どちらも私だった。
私は、卒業証書を机の引き出しにしまった。
入試まで十八日と知ったあの日、魔王軍よりも邪神よりも手強い相手が待っていた、あの机の引き出しだ。
あの日の卒業証書は、今も、私の部屋の机の引き出しにしまってある。
名前の欄には、白絃優。
私……いや、俺があの中学をちゃんと卒業したという、何よりの証拠だ。
これにて一章の帰還編は終わり
次から本番の予定