新着汚染するのもなんなので非公開状態で全話投稿した上で公開しに来ました。
王道欲張り詰め合わせセットです。
1
「ついてくんな」
たぶん、わたしがもっともふるく覚えている兄上の言葉は、これだった。
高杉家。それなりに歴の長い武家であり、わたしの生家でもあった。兄上とはひとつ違いで、けれど、幼い子どもにとっての一歳差は歴然だった。男女の違いはなおさらで、加えて、気質の違いというものがあった。
「兄上、どこいくの。おけいこ——」
「どこでもいいだろ」
兄上は煩わしそうにわたしを振り払い、たったか走っていった。行っちゃった。袖を掴んでいた——そして振り払われた——手を下ろすと「あいつはまったく」と横から呆れ声が落ちる。
「……あまり落ち込むな。あいつはそういう年頃なのだ」
「でも……小太郎さんも、同い年です」
「俺はあいつより大人びているからな」
む、と彼は胸を張った。そうかも、とぼんやりうなずいて、わたしは兄上が走り去った方を振り返る。神社のあたりで暇をつぶすのだろうか。街まで降りているのかも。いいなあ。わたしも行きたいなあ。
……また、父上と母上に、怒られるかなあ。
「……俺が引き止めていたことにしよう」
小太郎さんがわたしの顔を覗き込み、やわらかく言った。
「ヒカリ、おまえはあいつが出ていったところに居合わせなかった。だからおまえのせいではない」
「だいじょうぶですよ。ひとりで立ち向かってみせます」
わたしは強く首を横に振って、意気込んだ。
「わたしも、もうお姉さんですからね!」
「けれど」
「だいじょうぶです。ね。信じてください。わたしも侍の子ですから——ちょっと怒られるくらいです。なんにも問題なくて、なんでも平気です」
賢しらを嵩にかけ、貧乏人が我が子にちょっかいをかけるな——両親は以前そのように、小太郎さんに嫌味を言った。けっきょくのところ問題は依然鎮座して、矛先がすり変わるだけなのだ。だから、いい。べつにいい。小太郎さんはやさしいけれど、やさしいから、わたしのことを尊重してくれるとわたしはすでに知っていた。
小太郎さんは溜息をこぼして「髪が乱れている」わたしを手招いた。
「おなごなのだから、気にしなさい」
わたしの髪に指を通した。そうしていると、もはや兄上以上に兄のようなひとだった。
「ほら襟も、袖もまくれている。このようにきちんと引く。あんたシャンとしなさい」
「お、おかあさん……」
「俺は桂小太郎だ。高杉家のご母堂になった覚えはない」
兄上の心境は理解できる。講武館は居心地が悪い。
武家の子どもたちが通うような、いわゆる名門、格式高い藩校であったけれど——だからこそなのかもしれない——競争心を煽り、武士の誇りを繰り返し教え込んだ。程度が相応であればそれもまた良し、しかししばしば、度は過ぎるものである。
わたしや、たぶん兄上が入学した頃にもすでに、校内の空気は殺伐としていた。成績が良ければ指差して謗られ、悪ければこれまた指差して嘲られた。武士ではない身分を見下し、武家同士の格差でさえ、単なる差別の口実に用いられた。小太郎さんはその聡明さと、生真面目さと、一風変わった言動を理由に爪弾きにされていた。兄上は悪辣な集団に馴染むことを拒絶して、一時期は小太郎さんのような括りに入れられて、そういくらも経たずに講武館から繰り返し遁走することを選んだ。わたしが引き止めようとすると軽蔑をこめた目で睨まれた。小太郎さんに諭されると煩わしそうに一蹴した。
そんなことが続いて、ある日のことである。
「高杉だが」
小太郎さんがふとつぶやいた。わたしは頑張って墨を摺っているところだった。
「最近は、松下村塾に顔を出しているらしい」
「そーかそんじゅく」
わたしは繰り返した。
「なんですかそれ」
「寺子屋だな」
「てらこや」
「庶民が通う、講武館のようなものだ」
「小太郎さんはなぜご存知なのですか?」
「あやつらはどうも、自分の声が大きいことにしばしば気づいていない」
意味深な目配せを用いて、講武館の同輩たちを小太郎さんは視線で示す。彼らは今、なにがおかしいのだか、大きな声を立てて笑っている。自習時間なのになあ。
「それで……気にならないか」
「気に……」
「一処に留まってはいられないあの男がだぞ? ここのところ高杉は、毎日竹刀を担いで脱走する」
わたしは記憶を辿って、最近は兄上はわたしを振り払う手のもう一方に竹刀を持っていたことを思い出す。「そういえば」
「なんのために? 武家の子を専門に取る講武館ならまだしも、松下村塾は庶民向けのそれだ。噂では金も取らないと聞く。たいていは手習い程度、道場として質が高いとも思い難い——けれど、高杉は竹刀を持っていく。なんなら怪我をして帰ってくる」
「たしかに……」
「覗いてみないか」
わたしはパチパチとまばたきをした。
「怒られますよ」
小太郎さんは肩をすくめた。
「あいつの脱走だけでも、もう怒られている。俺たちだけが良い子にしていたところで無意味だ」
「たしかに」
じっさいに、わたしだって気になるのはそうだった。わたしはつよく頷いた。
「悪い子します」
「よし、しよう」
➤
——といっても。
しばらくは、わたしたちは遠目に様子をうかがうばかりであった。遠目に様子をうかがうだけでも、兄上が毎回、竹刀を担いでいく理由はすぐに判明した。めちゃくちゃ叩きのめされている。
「兄上……負けなしってお聞きしていました」
「高杉の剣道の実力は、たしかに講武館随一だ。袋叩きを目論まれても返り討ちにする。ただ……」
小太郎さんは興味深いというような目つきで見つめていた。
「……あの白髪の子ども、やはり、とんでもない太刀筋だな」
わたしは先程の試合模様を思い出してみた。小太郎さんが評した〝白髪〟は、わたしには、銀にきらめいていたようにも見えた。そしてその太刀筋は、どちらかというと……。
「……めちゃくちゃでしたよね?」
「めちゃくちゃだ。あんなものを師範の前で披露したら、背中を百ぺんたたかれて、千回の素振りを強要される」
「ですよね?」
「だが強い」
小太郎さんはキッパリと言った。わたしは口をつぐんで、小太郎さんの横顔をうかがった。
小太郎さんは、思ったよりも静かな顔で、真剣に思案している様子だった。
「……殺し合いであれば、きっと、もっと強い。一番強い」
わたしは、口をつぐんだままでいた。
松下村塾は寺子屋——つまり、勉学をするところと聞いていた。兄上と銀髪の子の戦いは毎回起きていて、毎回兄上の敗北で終わっていた。それはそれとして、きちんと剣を教えてもいるようだったし(剣
「面白いですね……!」
「興味深いな……!」
授業、めちゃくちゃ面白い。心底おもしろい。講師によって授業の質は全然違うって、本当だったんだ。
わたしと小太郎さんは内容を必死に聞き漏らさないようにしながら、ところどころ、地面に枝で描いてお互いの理解を照らし合わせて、見解をめいめいに述べた。といっても主には、神童とも名高い小太郎さんにわたしが半ば再度教わるようなかたちであった。小太郎さんは講釈が苦にならないたちで、学に興味がある姿勢自体に喜んでくれるので、わたしに合わせてくれた部分が大きかっただろう。
回数を重ねるごとに会話も白熱して、
「君たち、また来たんですね」
——ふつーに、見つかった。
青褪めたわたしがすかさず膝を揃えて手をつくと「ああこらこら、突然土下座とは」ひょいと脇から持ち上げられた。ぷらんと足が空に揺れる。
「怒られるようなことはなにもしていないでしょう。少し見ただけでわかりますよ、よく学んでいる。教師冥利に尽きます」
地面一面の筆跡は、三分の二は小太郎さんのもので、あとの三分の一はわたしのものだった。「君は以前も会いましたね」わたしを降ろした〝先生〟の言葉に、小太郎さんは目を瞠った。
「覚えておられましたか」
お知り合いだった——と、いうには、少し縁が浅いのかもしれない。この様子だと。ふたたび地面に着地して、手を離されたわたしは〝先生〟を見上げた。草履を履き直して姿勢を正す。
「その……勝手に聞いてすみません。あの、授業、すごく面白いです。勉強って面白いんですね……」
「知識は糧になり、学びは次の学びを生み、豊かな見識を育みます。色鮮やかな世界は楽しいでしょう?」
〝先生〟は頷いた。
「君たちは……ご兄妹、というわけでもなさそうですね」
「はい。俺は桂家の小太郎と申します。この子は……」
小太郎さんはちらとわたしを見た。
「高杉ヒカリです」
わたしは答えた。
「道場破りはわたしの兄です。連日ご迷惑をおかけしています」
小太郎さんが、これはたぶんだけれど、言っちゃうんだ、と言わんばかりの顔をした。
「なるほど、晋助くんの妹さん。たしかに目元がよく似ている」
〝先生〟は得心した様子で頷いた。
「どうでしょう、ふたりとも今度は教室で聞いていきませんか?」
「それは……よろしいのですか。俺たちは部外者ですが……」
小太郎さんが慎重に尋ねたものの「部外者?」〝先生〟は首をかしげた。
「学ぶ意欲のある若人は皆同輩、しかも君たちは、私の授業を何度も聞いてくれているようですから。それはもう同門といって差し支えないでしょう」
差し支えはいっぱいある気がする。
「ね。仲間が増えるのは、良いことです」
けれど〝先生〟があんまりにも嬉しそうに笑うので、その笑みには、本当にそうなのもしれない、と思わせる力があった。
「私は吉田松陽。一緒に学んでいきましょう」
松下村塾の〝先生〟はこのようにして、小太郎さんと、そこにひっついていたわたしを招き入れた。奇しくもそれは、兄上が銀髪の子を打ち破る前日のことでもあった。
「なんでおまえもいる」
勝利の喜びにひたっていたはずの兄上は、わたしを見つけて顔をしかめた。わたしは小太郎さんからいただいたおにぎりを抱えたまま固まった。
「俺が教えて連れてきた」
小太郎さんがぺろっと自白してしまった。案の定兄上は小太郎さんの襟を掴んで締め上げ始めたので、慌てて割って入る。
「はーん、何、こいつおまえの妹ちゃんだったワケ? 怪異☆妖怪授業盗み聞きブラウニー」
「どういう和洋折衷?」
「盗み聞き……!? いつからいた?」
「あんま覚えてねーけど、道場破りが俺に二十回負けたころにはもういたんじゃね?」
銀髪の子は興味なさそうに鼻をほじっている。
兄上、いったい累計何回負けたんだろう。
「……ンなにサボってたら父上も母上も許さねえだろ。叱られんぞ良い子ちゃんが」
しかめっつらの兄上が吐き捨てる。
襟元掴まれたままの小太郎さんが、目を丸くして、兄上をまじまじと見た。
「なんだよ」
「……ヒカリ、言ってないのか」
「おいなに呼び捨てて、」
顔ごと反らしたのは確実に悪手だった。
「よ、よくわかんない……」
わたしは必死で小太郎さんに目配せした。
べつに兄上は言って聞くような人でもないのだし、講武館が嫌いなのはわたしにもよくわかるし、わたしが兄上を止められてないのは事実だし、わたしだって悪い子になったのだから両親のちょっと過度な叱責はわたしの責任に帰結する。
つまりもう本当にどうでもいい話で、どうでもいい話をわざわざ共有する意味はないしわたしも居心地が悪い。兄上が不機嫌になるだけでしかない。
わたしの必死のあいこんたくと(外つ国ではこのように言うと学んだ)が通じたのか、小太郎さんは「なるほどよくわかった」と、頷いた。
「それこそ、高杉、とうに今更の話だ。おまえが講武館で騒ぎを起こすごとにこの子は叱られている。止められなかったのかと」
「うわあああ!?」
なんにもわかってない!
「ウソですウソウソ!」
「ここのところは強く打たれるまでになったからそれも見かねて連れ出した。夕から夜にかけては、高杉、帰宅したおまえにも罰がくだるので、ヒカリにそこまで時間をさいている暇がないのだろうな。講武館から直帰するより、相対的には
「なぜご存知で、ちが、わたしそんなことされてません!?」
さすがにそこまで情報共有した覚えがない!
小太郎さんは兄上に掴まれたままの自らの襟ぐりを指差した。
「俺よりヒカリは背丈が小さいから、髪が乱れていると、襟口の背中側からしばしば痣が見える」
わたしは素早く両腕を閉じて、自らの襟を両手で守った。けれどもそれより早く強く、小太郎さんから離れた兄上が今度はわたしの襟をとらえて、帯を緩めたかと思うとすかさず背中から引いた。
まだ治っていない、鞭によるミミズ腫れが外気にさらされて痛む。ざわざわと私塾の生徒さんたちがさざめいた。
「おあー。……半分ぐらいストリップじゃね?」
銀髪の子ののんきな声が響いた。
「その傷は、手当てした方が良いでしょうね。しまった、救急箱仕舞わなければよかった……」
〝先生〟は先程、銀髪の子と兄上に使っていた救急箱を探しに行ったようだ。
「……も、もうお嫁にいけない……」
わたしはてのひらで顔を覆った。
「背中までぜんぶ……こんな大勢の前で……」
「馴染みのよしみで嫁に迎えようか」
「小太郎さん! ……今しがた裏切られたのでいやです」
「裏切ったなどと、人聞きの悪い」
指の隙間からうかがえば、小太郎さんは露骨に心外そうな顔をしている。
兄上は小太郎さんの向こう脛を蹴って(どうして!? 小太郎さんはうずくまった)わたしの背中側に回った。振り返ろうとすると「前向いてろ」冷たく言われた。兄上ってほんとうにわたしに優しくない。
「痛いのか、それ」
「えっ? うーん、慣れました。ていうか、それより兄上の頬の方が痛そうですけど……もうちょっと冷やした方がいいかも?」
「……俺の話は今してねえだろ。おまえの傷の話だ」
「そう言われましてもこれべつに昨日今日ついたものばかりでもないので。あ、残るような傷は少ないはずですよ。嫁に出すのに傷があると価値が下がると母上も」
「ちょっと黙れ」
ぴしゃんと怒られた。理不尽すぎる。
やっぱり兄上って、両親のこと、本当に嫌いだよなあ。いっそ予想通りにツンケンしている。だから知らせなかったんだけどなあ。
しずかに落ち込んでいると、銀髪の子がわたしの眼前にしゃがみこんだ。
「背中見られたくらいで嫁に行けねえとかナイナイ。怪我だってそうよ、頑張った証拠だろ。むしろ褒められるぜ」
「……ほんとですか?」
「ほんとほんとー、銀さんのお墨付き」
「テキトー吹き込みやがってこのクルパー……」
銀髪の子——銀さん?——は、わたしのてのひらを剥がしてもてあそんだ。「いいとこのお嬢ちゃんのわりには意外と指かてーな。いつもなにしてんの?」「えーと、書き取りと、三味線のお稽古と、琴の練習と、講武館の課題と、」「忙しねェ……ン? でもこのマメ刀じゃね?」「あ、素振りもしてます! 真似っこで、夜中にほんのちょっとだけですけど……」「ふーん。もしかしてそれも見つかると怒られんの? だから夜中にちっとだけ? 武家ってマジでヘンだな」「ンェ」「おい桂」「それは俺も初耳だが」ちが、ちがくて……。なんていうか、その、いっぱいちがくて……。
「泣かせない」
メソメソしているわたしを見て、救急箱を取ってきた〝先生〟は、兄上と銀さんと小太郎さんに順繰りにげんこつを落とした。三人とも床にめり込んだ。床にめり込んだ!?
➤
「ヒカリ」
「ン。なん……ェすか。ぁ……?」
強く揺さぶられて、わたしは目を開ける。見上げた顔は真っ暗闇で、そもそもわたしは寝起きでとても眠く、ほとんどろくに見えなかった。
「……はあ」
「んん……」
「預かっとけ」
押し付けられた紙束を指先でさぐる。なんだろう。足袋がい草の畳を踏んで去っていく音。わたしは半ば寝ぼけたまま、紙束をたぐり寄せて、顔の前まで持ってきた。半紙を紐で留め、表紙をつけた、いたってふつうの製本方法。左上には流麗な草書体で【お教科書】と記されて——
「えっ?」
目が覚めた。
つまり、これは——〝先生〟の教本だ。穏やかに微笑み、諭す、春のようなひと。それでいて突拍子もない春雷のようなひと。松下村塾に通い、わたしもまた、そのひとの言葉を聞いてきた。そのひと手ずからの教本をいただいた。もちろん兄上も——それで、これはわたしのではなく(両親に見つかるとよくないので、都度隠している)兄上のものだ。
「……どうして?」
なにも聞いていない。わたしは——たしかに、松下村塾におおっぴらに出向くようになったわたしもまた、両親そろって叱られた。
両親には、単に講武館を抜け出しているからというだけでもなく、松下村塾には行くなと言われた。倒幕的な思想を説く危険因子、とかいう、だいぶん嘘八百の評判をもとに。
けれどそれだけだ。さすがに幕吏が赴くならもっと確実な情報が必要になる——はずだ。まだ市井の噂程度。せいぜい居づらくなるぐらいで。
……寝間着から着替えてしまった。草履をつっかけて庭に出て、木の根の裏に埋めた箱を掘り出すと、やっぱりわたしの教本はそこに埋めたままだ。兄のものと二冊、見比べて……戻す気にもなれない。とりあえず、両方とも腕で抱える。
夜はひとに、つめたい。吐息は白く染まった。
「ここの樹からいつも……」
「松陽ならジャンプ一発じゃねえの」
「目立ちますね」
「たしかに……」
「俺が行こう。すべっ、アイタッ」
「おまえらとろっちいな。もう俺先行くわ」
「ァ?」
声が聞こえた気がして振り返ると、すたん、と着地した銀さんがパッパと裾を払って、ふうと息を吐いて、前を向いた。
つまりわたしを見た。
「アレッ、起きてら」
「……こんばんは……?」
「まァ合ってる。こんばんは」
銀さんはうなずくと、すたすたとわたしに歩み寄った。
「しかもちゃんと服着てる。寝てたって聞いてたけど?」
「さっきまでは、そうでした」
わたしの腕が抱えている教本に目を止めて「おっラッキー、パジャマじゃねえならそれだけ持ってりゃいいだろ」銀さんはわたしの手をとった。
「ヒカリちゃん門開け方知ってる? もっかい登んのめんどいわ、門から出よーぜ」
「知っています。門はこちらの方……」
「おーよかった。高杉のやつ外から開けらんねえとかほざきやがって。あいつマジなに言ってんの? 自宅の門だろ? 普段帰ってきたときとかどうすんだよ」
「外からは開けられないですね。いつも帰宅時はお手伝いさんに開けていただきます」
「アそういう話なんだ。いいとこの家コワ〜」
怖ポイント何。
「おまえ、かんたんに誘拐されそうだよな」
叩き起こされたぶりの兄上のコメントがこちら。
兄上ってほんとう、わたしのこと、なんだと思ってる?
「言い方というものをな……」
泣きついたわたしの頭を撫でながら、小太郎さんは兄上を非難の目でにらんだ。兄上は鼻を鳴らして「さっさと返せ」わたしの腕から自分の教本だけを的確に強奪した。
「さっき渡してきたの兄上……そもそもなんでこれを……?」
「死んだときに取られちゃかなわねえからな。おまえが持ってりゃそうはならねえだろ」
わたしは凍りついた。——し、死んだとき? それはいったい、なんの話?
「もう一発げんこつといきましょうか」
〝先生〟が腕まくりをした瞬間「「「すみませんでした」」」声がそろった。兄上、となぜか小太郎さんと銀さんも。
「たぶん、俺は明日にでも勘当される」
兄上は〝先生〟の様子をちらちらとうかがいながらも、簡潔に述べた。先程の不穏な発言といい、経緯がまるで見えない。
「反乱分子を育成する私塾に手ェ貸しちまったからな」
銀さんがヤレヤレと肩をすくめた。小太郎さんを見ると、微笑んで、腰に提げていた刀を両手で掲げた。
あっ、なるほど、武力……。
そしてあなたも助力したんですね……。
「だから先に出て行ってやる」
話の流れで視線を向けられた〝先生〟もまた微笑んだ。
「……これ、別れの挨拶ですか?」
「好きな方を選べよ」
たしかめるように尋ねると、兄上は投げやりに言った。好きな方、というのは、具体的にはなにを指しているのだろう。
「おまえが残りたいなら好きにすりゃいい。一方で、勘当するやつが勝手に連れていくぶんには、あいつら、おまえにだって文句も言えねえだろ」
つまり……兄上的には、両親への嫌がらせがしたい?
「なあに、子どものひとりやふたりや百人くらい、育てるのに違いはありません」
「百人はさすがにあれよ、違いがよ」
〝先生〟のいつもの穏やかな物言いに銀さんからツッコミが飛んだ。
「高杉が去ったとなれば彼らの罰は苛烈さを増すだろう」
と、口を開いたのは小太郎さんである。両手で掲げていた刀を肩に預けて、わたしをまっすぐに見た。
「けれど、ヒカリ、おまえがそれを受ける義務は本来ない。高杉の責任は高杉にあり、おまえの責任はおまえのものでしかないのだ」
そうだろうか。わたしは首を傾げた。
講武館で学んだ儒教曰く、兄姉を敬い、弟妹は従うことが尊重される。弟妹が兄姉を助けるのはごく当たり前の価値観で、なれば責任を弟妹が取ることも当然のことであるとは〝名門〟の講師の教えだった。松下村塾で学んだことはもう少し違うけれど——今のところ、まだ、わたしは講武館で学んだ月日の方が長い。両親も同じようなことを繰り返しわたしに説いた。記憶は色濃く、強く、刻まれている。
「ちなみに、俺も行く」
「小太郎さんも? なら行きます!」
「ヅラが決め手はおかしいだろ」
「桂だ!」
「実の兄貴より尻尾振ってね?」
「心を正しく口にしたところで三分の一も伝わらないのが世の常ですけれども、そうだとしても、口にしなければ伝わる可能性すらありませんからね」
「松陽はそれナニ、純情の話してんの?」
「世の中の真理の話ですよ。それにしてもSHADEはいいことを言いました」
いつにも増して不機嫌な兄上に、かかとのあたりを何度か蹴られた。わたしはいつものように小太郎さんの後ろに隠れて、少し考えてから、さらに〝先生〟の後ろに回った。ぎりぎりと歯ぎしりの音を立てる兄上を指差して銀さんが膝を叩いて笑っている。
「俺が……ヒカリにフラれた……!?」
「〝先生〟には兄上、絶対に手出しをしないし、できないので」
「それは正しい」
「覚えてろよヒカリてめえ」
「ピッ……」
「いいですね。喧嘩するほど仲良きかな」
先生、もしかして……めちゃめちゃ視力悪いんですか?
➤
枕草子曰く。
冬は
冬場はいつも目が覚めるのは、朝日が昇って、半刻したくらい。ぐっと伸びをして、わたしはまず布団を畳む。
「さむい……!」
枕元に用意していた小紋に手早く着替えて、さらに羽織に腕を通す。廊下をぺたぺたぺた! 足袋で走る。明かりがついている部屋の襖を開けると「おはようございます」台所に立っていた〝先生〟が動じることなくわたしを見て、目をゆるめた。
「おはよう、ございます……なんだか今日、寒くありませんか」
「そうですね、今日はとびっきりに寒いです」
〝先生〟は微笑んだ。
「朝ごはんがもうすぐできますから、ねぼすけさんたちを起こしてください」
はいこれ、と渡されるのはいつもフライパンとお玉である。きわめて定番で原始的で、一方で最先端にも用いられる起こし方。
すなわち騒音。
「朝ですよー朝です朝朝」
カンカンカンカン!
「朝餉です!」
「ンっでおまえさん朝っぱらからいつも元気なの……」
銀髪の上から枕をかぶってしまったので、代わりに布団を引き剥がす。悲鳴をあげて部屋の隅まで転がっていった。丸まって震えている……さっさと起きればいいのに……。
兄上はあくびをこぼしながらも意外なほどにさくっと起きて、布団を畳み始めた。ふと、怪訝な顔で横を一瞥する。
「ヅラはこれ……ンな目ェカッ開いて本当に起きてねえのか」
「zZzz……」
「寝ていらっしゃいますね。起きてー」
小太郎さんが直立姿勢で目を開けて寝ているのは、講武館でもごくたまに見かけた光景だけど、それにしてももはや休めているのか毎回至極不思議だ。そもそも寝るときはいつも仰臥位だと思うんだけど……。
ともあれ、てのひらを引いて身体ごと揺らすと、「んが」といびき未満のような声を漏らして小太郎さんが頭をぷるぷる振った。
「うむ? うむ。おはよう」
「おはようございます!」
わたしの返答に小太郎さんは満足そうに「元気があってよろしい」と、言った。
「そーですね元気ですね、元気があってよろしい……というわけで俺は二度寝を……」
「えぇ〜! 起きてください」
銀さんの方に寄って両手で背中を揺らす。「起きてくれないと……泣きます!」と言うと銀髪頭が小刻みに振動した。
「な、な、泣いたら言うこと聞いてくれるとでも思ってんのか!?」
「えっ、きいてくれないんですか……?」
「この甘えたちゃんが! 誰だこの女こんなに甘やかしたの!」
「松陽先生と高杉とおまえ」
「先生とヅラとおま……は?」
「ああうん。そうね。ハイハイ。俺たち連帯責任だよコンチクショー」
「俺は甘やかしてねえ」
「そんなことを言うなら俺も甘やかしてなどいない」
「起きてくださいってば!」
「わかったわかった駄々っ子。ああもう……さようなら俺のデラックスパフェ……」
「それ夢の話か? 夢で何食ったところで残るは虚無だろ」
「黙れ夢なき短小」
兄上が銀さんの脇腹を蹴りつけた。銀さんはそれよりも一瞬早く横にころんごろんと転がって、ようやく、肩を震わせながらも顔を上げる。
すかさず兄上は今度はわたしの肩を掴んで「ご苦労さん。出てけ」襖をすたかーん! と開けて、わたしを放り出した。
「……兄上っていつもそう! 用済みになったら捨てるんですね!」
「人聞き悪ィなてめえは! なら男の着替えでも見てェってのか痴女!」
「い、いじめる!!!」
「いじめてねえよ!」
「これは高杉が正しい。そろそろおまえも年頃だろうに、よくないぞヒカリ」
「もう銀さんもマジで起きるから松陽ンとこ行って構ってもらえよ」
味方がいなくなったわたしはとぼとぼと〝先生〟のところに帰った。食卓にはあたたかい食事がすでに配膳されている。
「こちらまで聞こえてきましたよ。元気がいいですねえ」
「仲間はずれにされました」
「うん、聞いていました。そしてこればかりは晋助が正しいでしょうね」
そんな……。
しょもしょもとしながら引き出しから箸を集めていると、三人とも現れた。ひっきりなしにあくびをこぼす銀さんと、シャキッとした小太郎さんと、こっそりと目元をこする兄上である。自分の箸は自分で持ちましょう。わたしはみんなに箸を配って、〝先生〟のぶんだけはきちんと席に配布した。朝ごはんを作っていただいたので。
「いただきます」
「いただきまーす」
いつもはてんでバラバラな我々の声がひとつに揃う。あたたかい汁を口に含んでいると、「さて、今日の授業ですが——」〝先生〟は言った。
「休講にします」
「え」
わたしも含め、みんな目を丸くした。〝先生〟はいたずらっぽく笑って、襖を引いて、ガラス窓にかけた簾をくるくると引き上げた。
——一面の銀世界。
「この様子では、我々はともかく、塾生のみんなが全員無事に怪我なくこられるかは怪しいので」
「雪!」
「雪合戦でもしますか。私はとっても強いですよ」
「します!」
わたしは即答した。
「マジで甘やかすなって松陽……」
「おや、銀時は負けるのが怖い。なるほど……」
「よーし来た今度こそ吠え面かかせてやらァ」
銀さんが苛立ち混じりに腕まくりをした。
「単純バカはいいねェ」
「私に挑めるチャンスですよ晋助」
「後悔しねェでくださいね」
兄上はすかさず手のひらを返した。
「でも雪合戦ってどうやるんですか」
「握り方はにぎりめしに似ている。俺と作ろうか。戦では後方補給がきわめて重要な役目を担う」
小太郎さんが手つきで例示してくれた。
わたしたちは庭に出て、陣を引き、まずは塹壕と防壁としてのかまくらを建設した。合戦を開始——かまくらは粉々に砕け、塹壕ごと弾き飛ばされ、わたしたちの連合軍は惨敗した。
「シンプルに腕力が卑怯!!!」
「大砲ですか!?」
「雪どころか土ごとえぐれる威力」
「これ片付けどう……?」
「戦争において手段に選択肢はありません……」
〝先生〟は物悲しげに語った。「片付けはみんなでしましょうね」「えっでも、松陽、散らかしたの八割おまえ……」「しましょうね」「ウス」銀さんは敗北した。敗北者たちに人権はなく、わたしたちは庭の穴を埋める作業に没頭した。
シャベルに足と体重をかけながら、わたしはふと、頬に張り付いた雪をぺろりとなめた。つめたい。かまくらが砕けた拍子に散ったのだろう。
「食うな馬鹿……」
兄上がわたしの頬を乱雑にこする。雪はとれたけれど、こすられた箇所がちょっとヒリヒリした。ヒリヒリした頬に雪玉作りで冷えた指を当てるとちょうどいい。
穴も埋まり、冬の寒さを身体の芯から実感しながら(冷える……)わたしは指折り数える。雪といえばやりたいことチェックリスト。雪合戦は今クリア。かまくらもさっき作った。だとすると……。
「わたし、雪だるま作ったことないです。作りたいです」
「ああもう面倒なこと言い出しやがる」
「三段作ろうぜ、三段。いい感じの木の枝どこだ」
「にんじんをとってきましょうね」
「ンで揃って乗りやがる」
「ヒカリ、こちらに来なさい。襟巻きが解けかかっている。まったくもうアンタって子は」
「お、おかあさん……」
「お母さんではありません」
小太郎さんはいつものように大きな声で反駁して、わたしの襟巻きを直した。わたしはおとなしく襟巻きを巻かれ直されながら、雪だるまにつけるべき釦と目玉の素材について考えていた。やっぱり定番に、石?
➤
枕草子曰く。
夏は夜、月のころはさらなり——
「死にかねねえほど暑ィから昼間なんざ動けねえってだけのことを、あの女はよくもまァあんだけ御託を並べたモンだよ」
ぼんやりと暗唱した一節に、兄上は語気強く吐き捨てた。扇ぐのも疲れてきたのか、兄上が独占しているうちわの動きもぱた……ぱた……と断続的だ。
「温暖化現象に思いを馳せてしまう……」
「あッぢぃ……」
小太郎さんはぐたりと畳に腰を下ろしているし、銀さんに至っては板張りの廊下の方まで這ってうつ伏せに転がっていた。ひんやりしているだろうけれどもさすがにどうなんでしょうか。
ところで、わたしは兄上をちょっと見た。兄上はわたしの眼差しを左目だけで捉えて「なんだよ」と冷たく言った。
「……清少納言のなにが悪いんですか」
「うるせえ」
素足で蹴飛ばされた。
「ひ、ひどい……!」
「可哀想に。あんな子になってはいけませんよ」
小太郎さんの方に逃げると、気だるげながらも起きあがった彼はよしよしとわたしの頭を撫でた。兄上を親指でさす。
「この程度で泣きつくな弱虫」
兄上は鼻を鳴らした。本当にひどい。
夏の盛りはこのように、皆の余裕を奪ってしまうわけでして。それにしても八月下旬となるとあまりに暑いのは同意できる。汗で張り付いた横髪を払いながら思う。
「わたしも髪を結ぼうかな……」
「きっと似合うだろう。俺の髪紐で明るい色もあったはず……」
「もしかして、くださるんですか」
「良いとも」
小太郎さんは力強く頷いた。無事に亜麻色の麻紐が発掘されて「結ぼうか」「至れり尽くせり! ありがとうございます!」わたしは小太郎さんの前に膝を合わせて座った。
「おまえはずいぶん大きくなったな」
「本当ですか。この調子で兄上も越せますかね」
「越せねえよ調子乗んな」
「ひ、ひ、ひどい……!」
「やりとりはまるで変わらないが。まったく」
わたしの髪をまとめながら小太郎さんが嘆息する。
「とはいえ、成長したのは事実だろう。身の丈はもちろん、骨格も……」
小太郎さんの言葉は中途に切れた。うなじをするりと指が這い、耳からすべり落ちた髪をつまむ。わたしは若干くすぐったくて肩をすくめた。
こちらに向けて寝返りを打った銀さんが、ぼんやりと室内を見渡して……不意に身を起こす。わたしと、わたしの後方——たぶん小太郎さん——を、まんまるになった瞳で何度か見比べたあと、兄上の方に勢いよく顔を向けた。
「おい、おい高杉」
「なんだよ」
「あの、なんですか? わたしも気になりま、」
「そのまま」
身を乗り出そうとすると、頭を後ろから固定された。小太郎さんの手だろう。
「でも」
「……結びづらいからな」
「あ、はい。たしかに……」
お任せしてしまっているのに動くのはよくない。反省。わたしがおとなしくなったからか、こめかみからてのひらは外れる。紐と髪を手繰られている気配がする。
「マジでちょい待て!? 高杉、高杉おまアレいいの!?」
「ンだよアレって具体的に言……ああ。わりと今更だろ。あいつそもそも隠してねえんだから」
「い、今更なんだ〜。知らなかったなァ……マジで知らなかったな!?」
「テメエが気づかねえのが悪ィだろ。あンなあからさまなんだからよ」
「イヤ当の本人は未だに気づいてなさそうだけど?」
「知るか。俺が気ィ配る義理ねえだろ」
「おまえにはあんだろそれこそ義理の兄貴が」
「誰と誰が義理の兄弟だ吐き気がする二度と戯言叩くな」
「ああウンそりゃそうか……なんかごめんな……」
「突然気遣うな気色悪ィ殺すぞ」
「ンだとやれるもんならやってみやがれ」
「そこ、騒がしい!」
小太郎さんがピシャリと言った。わたしの髪をまとめる手は止めない。兄上と銀さんの謎の諍いも止まることはなく(兄上と銀さんはありとあらゆることでいがみ合い、日に片手の指の数ぐらいは喧嘩するので、もはや原因の追及さえ無意味だ)じきに取っ組み合いが始まった。もの壊さないでくださいね。
髪を何度か——痛くない程度に——引っ張られたあと、手鏡を持たされた。散らばっていた黒髪はきれいにまとめられて、頭の上の方で団子になっている。
「ありがとうございます!」
「自信作だ」
小太郎さんは言葉通りに自信満々に述べて「一部はどうしても結べなかったが……」後頭部下部、生え際に細かくのこったわたしの髪をすくい上げた。
「これもまたチャームポイントというやつだな」
「なるほど……なるほど? つまりかわいいということですか」
「かわいいということだな」
頬に拳のあとをつくった兄上が大袈裟に足音を鳴らしてやってきて「イタッ」「ど、どうして……!?」小太郎さんをひっぱたいた。
「自重しろ」
「はは」
混沌の室内。
〝先生〟は襖から覗き込んで、愉快げに喉で笑うと、「スイカでも食べますか、子どもたち」声をかけた。わたしたちはすぐさま彼を振り返って「食べます!」と声をそろえた。
➤
枕草子曰く。
秋は夕暮れ、夕日のさして山の端いと近うなりたるに——
「おまえ、それ好きな」
大あくびをこぼした銀さんがつぶやくので「そりゃあ」わたしは視線をあげた。
「〝先生〟の授業を初めて見たとき、ちょうど、その話をしていたのです」
小太郎さんに連れられて、わたしがはじめに耳を傾けた〝先生〟の授業は枕草子だった。我々は、文字を介して幾星霜の年月を飛び越えて、海よりも
「あの人が語ると、文字は踊り、文節はかろやかに——物を語り、法を説くに、あれほどまでに納得したことはありませんでした」
銀さんは、ふうん、としずかに相槌を打った。
西日に畳はあかく照らされて、開け放たれた縁側からは涼やかな風が吹き込む。長い陰の裏から涼やかに虫が鳴く。リリリ。リリリ。リリリ……。
「鈴虫はあんま食いでがねえんだよな」
「なんてことを」
「コオロギはまァ、わりとイケる」
「なんてことを……」
今しがたの風情、ゼロ。
慄いたわたしに「いいとこのお嬢ちゃんにはわかんねーでしょうけどォ」銀さんは茶化した。
「わたしは……たしかに、イナゴしか食べたことがありません」
「イナゴはあんのかよ」
「佃煮が非常に美味でした」
「お腹空いちゃうだろ!」
高杉の家は相応の所領を持っていて、その一部ではイナゴの佃煮を作っていた。両親は嫌がったそれを兄上とふたりで興味本位につまんで、思ったよりいける、と顔を見合わせたことを思い出す。
「でもしょうじき、お肉の方がおいしいですね」
「虫の佃煮が肉より美味いとか言い出すやつ、それこそ蓼食う虫だろ」
あっけらかんと述べて、銀さんは畳に転がった。太陽の端が山峰にかかっている。日差しを背に、陰を抱える山々。
「……おまえらみたいにさァ」
わたしは手習いの教本を閉じた。数年も経てば表紙はすり切れて、何度も綴じ直した背表紙はとうに傷んでいる。表紙をなでると、さり、とかすかに紙がこすれた。
「……銀さんって、けっこう、みんなのこと好きですよね」
「気色悪ィこと言ってんなバーカ」
銀さんはごろんと寝返りを打ってわたしに背を向けた。真っ赤なお耳がよく見えますね、と指摘する代わりに「いいんですか。そんなこと仰って」わたしは揶揄った。
「覚悟はあるんですね?」
「なんの覚悟だよ。言っとくけどおまえの兄貴ンだって俺こないだから五連勝してっからね。ヅラ連れてきたって楽勝だかんね。ましてやおまえなんざピッピロピーって片手で鼻ほじりながらでも」
「身も世もなく泣いちゃいますよ」
「あのマジ躊躇なく最終兵器出してくんのやめて?」
銀さんはごろんともう一度寝返りを打って、肘をつき、呆れた目でわたしを見上げた。
「なんだかんだ松陽のげんこつ食らったことねえから威力軽視してるだろおまえ、あれホント痛いからね。杭打ちみたくなるだけあるからね。おまえ泣かせると確実に降ってくるからね」
「男女差別と申し立てたら〝先生〟も聞き入れてくださいますかねえ」
「やめとけよそのたまに出てくるビックリ蛮勇何」
「兄上に似たのかも」
「あのチビ的にもさすがに風評被害だろ」
ハーどっこいせと起き上がった銀さんは、てのひらを伸ばし、くちゃくちゃとわたしの頭をかき回した。
「バカどもがすっかり甘やかしちゃって。会ったころに背中見られた程度でお嫁にいけないっつって泣いてたカワイーガキどこ?」
「銀さんも泣いてる女の子慌てて慰めてて、可愛げがありましたねえ。あのとき握った手、だいぶ手汗出てましたもんね」
「このアマ何言っても無敵なンか」
「あ、今ので髪紐解けました。結び直してください」
「ヅラに頼めよ……」
「帰ってきませんし……なんなら兄上もまだ戻ってきませんし……」
「そね。あいつらどこまで油売ってんだろな。そろぼち日ィ暮れんだけど」
渡した髪紐を銀さんは手首にかけて、わたしの後ろに回った。髪をまとめる前に手櫛でとかす仕草が何度か。
「松陽のこと好きか?」
「そうですねえ」
わたしは目を閉じた。
「あのひとのようなお父さん、ほしかったですよね」
銀さんはわたしの髪をまとめて一本、紐でくくった。
「背中の傷、治ったな」
昔は、わたしよりも背の高い人がわたしの後ろに立つと、傷痕はすぐ見える状態だったらしい。兄上はたびたび顔をしかめたし、小太郎さんには口酸っぱく襟元を正すようにと念押しされた。
「跡が残らないって本当でしたね。ああいう加減って、どうやって身につけるのでしょう」
結び直された髪を確かめつつ振り仰ぐと、このひともまた心底苦々しげな顔をするので、わたしはとぼけた顔で「銀時さんのえっち! だとか申し上げて引っ叩いた方がよかったですか?」茶化した。
「誰がのび太くんだ、そもそもおまえがしずかちゃんなんざ百年早——」
銀さんが口を閉ざす。視線はわたしの後ろを見ている。
わたしは振り返った。半眼の兄上が胸の前で腕を組んでいて、その後ろからひょこりと小太郎さんが顔を出した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「……で、おまえら何の話をしてた?」
「タイミングが悪ィんだよテメエらよぉ〜!!!」
➤
枕草子曰く。
春は——
「燃えてる」
燃え盛る炎。焦げた匂い。
わたしが春のようなひとだと思っていた師は、ある春の日のあけぼのには、既に、奪い去られて跡形もなく。あとには、焼け落ちた邸と、灰と、我々だけが残された。
子どもの齢を脱しつつ、けれど、まだおとなにもなりきれないままに。
➤
「麓で話をつけてきた」
現在地、仮宿。ドカとわたしの眼前にあぐらをかいて、兄上は広げた地図を指先で叩いた。
「ここの旅館、宴の一環として、歌舞伎座の真似事じみた演し物をしている。三味線できる語り部がほしかったらしい。給金は相応、贅沢しなけりゃ貯金もできるだろ」
「兄上」
「長屋の角部屋を抑えた。このあたりでも防犯がまともだから、女一人でも相応の暮らしができる」
「兄上。お尋ねしてもよろしいですか」
兄上はちらりとわたしを見た。
「連れて行かねえぞ」
わたしは少し笑った。
「仰るとは思いました」
「弱い。足手まとい。ンなもんはいらねえ」
「一応、松下村塾でも実力は五指には入ったのですけれども」
いちばん上はもちろん〝先生〟で、銀さん、兄上、小太郎さん、とついでわたしだ。
「ヅラより弱いんじゃお話にもならねえな」
兄上は冷徹にはねつけた。
「先生はなすすべなく連れて行かれた」
「その基準であれば、兄上も、もしかしたら銀さんも、弱くて足手まといに組み込まれてしまうのでは?」
「ヒカリ」
睨みつけるような眼光は昔からなんにも変わっちゃいない。兄上はあの頃から刺々しく、見るものすべてに苛立ちを振りまいていた。少しやわらいだのは〝先生〟に出会って、しばらく——それだけだった。たったそれだけだった。
「駄々をこねるな」
「……あのときは連れて行ってくださったのに」
「〝好きに選べ〟っつっただけだろ。それに、今は状況が違う」
兄上はそれから、淡々とわたしの今後の身の振り方を述べた。それはつまりただの決定事項で、単なる通告でしかなく、わたしの意思を挟ませる気はないという意思表示でもあった。
「兄上にいじめられました」
「あいつは素直ではないからな」
小太郎さんはうんうんと相槌を打ちながら、いつものようにわたしの頭を撫でた。もはや兄上よりもわたしの頭を撫でるのが上手だ。ちなみに、一番下手なのは銀さんだ。〝先生〟は、兄上と銀さんのあいだ、兄上寄り。
「こっそりついていっちゃいましょうか」
わたしはぼやいた。連れて行ってくれないなら手段はもうそれしかない。
「やめておきなさい」
頭を撫でたてのひらが、横髪をつたって、今度はわたしの髪と頬の隙間に差し込まれる。見上げた小太郎さんは、かつての幼い時分よりも、背丈がずいぶんと伸びている。首に少し角度をつけて見る必要がある。
「何年ぶりかの悪い子。とか。……だめですかね」
たとえばあの日、幼いわたしたちが講武館を抜け出して〝悪い子〟になったように。
指先でわたしの髪束を持ち上げて、小太郎さんはわたしを見下ろした。
「良い子だよ、おまえは」
彼はほのかに口元に笑みを浮かべている。
「ずっと良い子だった。……待っていなさい。そうかからないから」
俺の髪紐も預けていく、と薄藍の紐を渡された。解いた髪は癖のないつややかな髪だ。わたしは少し八つ当たりのように、小太郎さんの髪の端に三つ編みをつくった。髪紐で結んでいないのですぐに解けた。
「あーあァ。甘ったれの末っ子ちゃんが案の定拗ねてんよ」
「……銀さんは」
「俺も同意見。おまえは来ンなよ」
三人揃いも揃って。三者三様とかあれ絶対嘘なんだと思う。
拗ねて長屋備え付けの押し入れに潜り込むと「にしても何歳児の拗ね方?」銀さんが呆れた気配がした。
「マジであいつらこぞって甘やかしやがって」
「……かまいやしませんけれど。おとなしくお留守番していればご満足でしょうとも。ええまったく、皆さまわたしのことを未だに年端もいかない子どもと思っていらっしゃいますもの」
「全然一ミリも良くない口振りィ」
「素直に従順に納得したとっても良い子だとでもお思いですからね。女に幻想を抱いていらっしゃる」
「おまえそれホント、ヅラと高杉に言って。俺じゃなくて。マジでめんどくさい」
わたしが少しだけ押し入れから顔を出すと、銀さんは室内をしげしげと眺めて「高杉の趣味がプンプンしやがる……」と、つぶやいていた。家具は兄上が揃えたらしいのでその勘はどんぴしゃりド真ん中、だと思う。
「……あんまり無茶しないでくださいね」
わたしを振り返ってその人は、皮肉げに頬を吊り上げた。
「それこそ無茶言うな」
そうして、彼らは旅立った。わたしはひとり取り残された。新しく充てがわれた慎ましい部屋で、それなりに生きるしかないのだろう、と、ほのかに思う。
春風はこのように過ぎ去った。春雷は矢よりも疾く、それこそ、光の速さで駆け抜ける。
歌舞伎座の真似事は各地で行われていたけれど、それにしても女が弾き語りとは物珍しいらしく(大抵、三味線の腕が上手い女なんて、そもそも一般諸氏の前に姿を現すことはない)客入りはそこそこ。久々に引き出した三味線の弾き方をなんとか手になじませる。戦況を伝え聞くたびに、今からでも押取り刀で、戦地へと駆けていくべきでないかと、思う。
思うだけである。
〝ついてくんな〟
かつて兄上は口癖のごとく繰り返した。わたしはあのとき、小太郎さんに連れ出されなければ、銀さんに手を引かれなければ、選択肢を提示されなければ——あのまま、言いつけを守り、おとなしく講武館にいただろう。高杉の家にいただろう。兄上を止める素振りだけを見せるだけで、鞭の痛みに耐えるだけで、その他、なにもなし。
ある日のことだった。
弾き語りでは喉が枯れ、撥を手繰る手がしばしば腱鞘炎になる。わたしがこっそり手を振って痛みを紛らわせていると——その手を無遠慮に捕まれた。ろくでもない酔客がたまにいるのだ。化粧もしていない女に、まったく、それこそ蓼食う虫も好き好き。軽く当て身して昏倒させてやろうか、
「このようなところでなにをやっている」
弾かれたように面を上げる。
しかめつらの男は、記憶よりも老けていたけれど、たしかに見覚えがあった。
「……ち、ちうえ……」
ああ、これは——けっこう、まずい。
振られた腕がわたしの頬を張る。普段ならば避けられるそれを凍りついた身体は許さない。現在はかくも足を止めることはなく、一方で過去はいつまでもへばりついたままでいる。
➤
鞭は適切な手加減を用いれば痛みを与える一方、跡すら残さない。動物のしつけにおいては、音と痛みを紐づけることで、鞭のしなりだけでも恐怖心による教育を刷り込む効能も利用されている。
転じて、拷問にも利用される。
「晋助は本当にあのくだらない集団にいるのか」
「さあ」
「攘夷浪士どもはどこにいる?」
「町娘が把握していたらば、それは、とても驚きですね」
連れ戻せる——と、まさか本気で思っているわけでもないだろう。要するに八つ当たりだ。家唯一の長男坊が見切りをつけて出奔してしまったものだから。ついでに、おまけの娘も連れて行ってしまったから。くだらない集団と述べるくせ、本当、同等にくだらない。
鞭が床を叩く音。背中を叩く音。もはや痛覚は遠くにあり、わたしはふと、過去の記憶を想起する。
既に兄上を作っていた両親は、念のための予備を求めて次の子を作ったのだろう。あいにくと生まれたわたしは女であったので、物心ついたときには、両親の口癖が〝残念だ〟であることを理解していた。男ならばよかったのに。頭がよくても女では意味がない。刀ができても女では意味がない。政略結婚には使えるかもしれないけれど、基本的には輿入れになるから、大した利益にはならない。まったく残念だ。まったくもって残念だ。
ふつう男子を入学させる講武館にわたしが放り込まれたのだって、期待している、とかではなく、兄上を止める以外の役割を求めていなかったからだ。だから役割を果たせないわたしは毎回折檻されていて、その度合いは苛烈さを増していった。
あれを疑問に思わなかったかつてのわたしも、呆れているくせに今更なくらいの過去の恐怖に囚われて、連れ戻されてしまったわたしも、やはり同等にくだらない。
冷水を浴びて目を覚ます。腐ったような臭気だ。どこから汲んできたものやら、あるいは厠から取ってきた可能性もあるかもしれない。ご苦労なことですね。
「すでに養子も取った。家督はあれに継がせる」
「それはそれは」
兄上は特に気にしないと思われる。なんなら鼻で笑うだろう。
「おまえはあれと番って子を産め。高杉の血を残すのだ」
「……それはそれは」
ずっと思っていたけれど——もしかして、ばかなのかも、このひと。
冷え冷えとした心境を隠すことなく見上げると、頭を踏みにじられた。下駄の歯が耳に食い込み、痛い。痛いけれど、痛いだけだ。とうの昔に慣れてしまったから。
「身なりを整えれば見れた姿にもなろう。もとより女に学など要らん。刀も要らん。子を生むだけなら猿にもできる。おまえにできない道理はない」
くずなのかもこのひと。
「わたしが素直に従うとお思いですか? 些か耄碌されましたね」
投げやりにわたしは言った。
父上はしばらく無言だった。やがて、ばさりと紙束が投げられる。足を退けられ、汚水がついた髪をふるって、怪訝に一瞥する——わたしは目を見開いた。
「おまえたちが盲目に信仰した男は死んだ」
なんてことのない瓦版だ。号外ですらない。
瓦版の隅ではあるひとりの斬首刑を報じている。
「抗う理由がどこにある?」
それよりも大々的に、攘夷志士の投降と敗北を綴っていた。
➤
【 幕間の語り部はどこにもいない 】
➤
白粉で肌を彩っていると「いつまでかかってんだい! 早くしな、本ッ当にとろいんだから」遣手婆から檄を飛ばされた。だって化粧なんて、ずいぶん昔に小太郎さんに紅をもらって以後、再開したのがつい一年前で……とか、言い訳したところで無意味だ。一年経っても遅いのは、そうですね。
小太郎さんは、男所帯で化粧っ気もないわたしを不憫にでも思われたのだろう。子どもの戯れである。少し懐かしい。なんだかんだで使い切った容器だけでも持ち歩いていたけれど、松下村塾の全焼とともに溶け落ちてしまった。
「今回のお客は攘夷浪士だ。気ぃつけておもてなしすんだよ。粗相をしたら、終いにゃあんたらの首が飛ぶからね!」
遣手婆は芸者たちをひとりひとり睨んで脅した。わたしは蒼くなっている新参にこそっと耳打ちする。
「大丈夫ですよ、そのときになったら遣手婆の首もまとめて飛びますから。みんなで一蓮托生地獄行きです」
「減らず口が多いんだよアンタは!!!」
怒られちゃった。
小言を右から左に受け流しつつ、三味線の弦を確かめる。高杉の家では兄上のお目付け役扱い半分、花嫁修業がてら半分で習わされていたものだが、旅館勤務時には主な収入源となり、今もこのように活きている。人生なにが起こるかわかりませんね。
それにしても攘夷志士というのも数多にいて、たとえばわたしはうち三人としか面識がない。いちおう今は、桂派と高杉派で大きく二分されるらしい。銀さんどこ行ったんだろう。ともあれ、兄上は血の気が多いのでその部下も血の気が多いのかもしれないけれど、さすがに小太郎さんの同調者ならば、すぐに斬りかかることはないだろう。さすがに。問題は今回のお客はそのどちらなのかという話だけども。
つらつらと考えながらも、日常動作に支障はない。御座にて三味を左手で傾けて、右手で撥を持ち、かけた手首で以て支点とする。一息ついて顔を上げ、
——目が合った。
わたしはとりあえず、無意味に深呼吸をした。気のせいかも。気のせい。きっと。よし。
「右端の三味を持った女」
ああ〜……。
「少し来い。他は捌けてくれ」
煙管でわたしを示したそのひとは、派手な着流しをまとい、左目を包帯で巻いていたけれど、間違いなく兄上だった。額に青筋が浮いている。
これは怒られる。
もう確実に怒られる。
「旅館はどうした。顔を出したら急に失踪しただのなんだのと」
「その……」
「義理を果たせねえ奴にしつけた覚えはねえが」
わたしさすがに兄上にしつけられた覚えはなくて……。
「挙句なんだそのザマは」
こんこんと説教される横で「その娘は?」色眼鏡をかけた人が興味深げに問いかけた。
「妹」
兄上は短く答えた。「そもそもおまえ」まだ続くんですかお説教。勘弁してくださいよ。わたしこれでももう十九ですよ。
小さくなっていると兄上が残った片目を細めた。
「——背中のそれはどうした?」
わたしは両手で襟を抑えた。
兄上は、かつてのように無理に身ぐるみ剥がそうとはしなかった。ただ煙管の灰を落とす仕草がだいぶん怖かった。
「
「……皆様は、よくしてくださいます」
「おまえの〝よくしてくださいます〟は昔っからまるで信用できねえ、が。幕吏が俺の身内を捕らえたとかいう戯言はどこからも聞いてねえな。……クソ親父に会ったのか」
わたしは目をまたたかせた。
「血がつながっているだけのひとでなしをわたしは父と呼ぶ気には、もはやなれませんが。兄上はどのようなご意見をお持ちでしょうか」
「違いねえな。悪かったよ」
兄上の口元から煙がこぼれる。
「旅館でお会いしました。知るわけもないお話をいろいろとお尋ねになられて……そう、あのひと養子を取っていらしたそうですよ。ご存知でしたか?」
「ヘェ。あいつの養子になるだとか、そりゃあ大層な物好きもいたもんで」
「高杉の血を残すだのなんだので結婚させられそうになったので、あのひと本当に気持ち悪いですね。ともあれ、どうせならと式で思いきり暴れたらいつの間にかここでした」
「よくやった」
「でしょうとも」
猫目のひとと色眼鏡のひとが目を見交わして「兄妹再会の感動の絵面では……」「どうも、なさそうでござるな」ふたたび酒を呑みはじめた。わたしの身の上話が酒の肴にされている。
「そのとき〝先生〟の教本をなくしてしまいました」
わたしはぼんやりとつぶやいた。
「あのひとに回収されるくらいなら、いっそどこぞで燃え尽きていてほしいですね」
兄上はしばらく、黙っていた。煙管をまた咥えるので「それ美味しいですか」と尋ねると、面倒そうに額をてのひらで抑えつけて遠ざけられた。猫の子扱いである。
「芸妓にはお触り禁止ですよ」
「相変わらずうるせえなおまえは本当に。妙なバカ真面目さだけヅラに似やがって」
「兄上より兄らしく構っていただきましたから」
なんですかその心底バカを見る目は。
溜息をついた兄上がぐしゃぐしゃと自分の髪をかき回す。幼少の頃にも見ない姿に思わずまじまじと見ると、片目がわたしを捉えた。
「恨み言はねえのか」
「兄上がまるでしおらしい」
わたしは口元に手を当てた。
この期に及んでふざけるなと目で威嚇されたので、手を外した。
「兄上は覚えていらっしゃらないのかもしれませんけれど。わたし、小さな頃からずっと、あなたには置いていかれてばかりでしたよ。わりと慣れています」
それが兄上なりに、悪事に巻き込まないようにだとか、危ない目に遭わないようにだとか、そういう気遣いを含んでいたことはとうに知っている。あいにくと結果的には空回りだったとしても、わたしはその点、結果主義者ではなかった。
「一緒にいきたかったのは事実ですけれどもね」
兄上は長考しているようだった。
わたしとしてはたいへん暇なので、お酌しますかとお連れの方々に尋ねると「座敷で斬り殺される気は……」「私としても命は惜しく」果たしてどこから斬撃が飛んでくる想定なのやら、執拗に固辞された。そんなことあるんだ。
「まだ刀は振れるか」
不意に兄上が尋ねる。わたしは首を少し回すと「そうですねえ」と、つぶやいた。
「式で不意をついたにしても、武士の家をひとりで半壊させる程度の腕は、まだありますよ」
「辰馬より弱ェな。まァいい」
辰馬誰?
「ついて来るか。そのときゃ、死出の旅になるだろうが」
兄上の瞳がきらめいている。真剣のそれだ。人の生き血を吸ってかがやくように。自らの命を燃してほむらを灯す。
わたしの答えは決まっていた。
「お給金弾んでくださいね」
額を指で弾かれた。わりと痛い。
➤
「とりあえずいちおう芸妓なので、身請金からいただきましょう」
「攫っちまえば終いだろ面倒くせえ」
「え、義理は通してください。兄上がさっき仰ったのに」
「俺ァなにがかなしくて吉原まで来て妹を買わにゃならねンだよ」
「人生ですかね」
「やかましい」
旅館で歌舞伎座の真似事:
この話を執筆する少し前に国宝を観たため、オマージュるか(動詞)……と思った結果、原型が消えた覚えがあります。