前略:
金魂篇の戦果一覧。
謎の液体による回復効果。
江戸一番の絡繰技師の技術の一端。
真選組屯所の食堂に掲げられたメニュー内容。
➤
鬼兵隊の本艦に帰還する手段は大きく分けて二つある。ひとつは、予め待ち合わせて停泊している艦にそのまま乗船する。紅桜および河上さんの春雨交渉の件で、ターミナルに〝穴〟を開けたわたしが帰還した際の方法がこれだ。
そしてもうひとつ、各アジトに配備している小型船をのいずれかを用いて、どこかを漂っている本艦の位置まで乗り込む。
基本的に本艦が長期間停泊することは滅多にない(警察に気付かれても困りますからね)ので、帰還だけでなくそもそも出立も、個々人やグループごとに小型船経由で出航することが多い。イメージとしては空母が一番近いだろうか。本艦が不定期に発信する暗号通信を受け取って居場所を特定して発進、こちらからも信号を送って合致した場合のみ船の受け入れが行われる。紅桜でお釈迦となった前身の鬼兵隊本艦から変わらない仕様だ——今はもうちょっと大きく広くなりました。
に、しても。
わたしは指先を眺めた。先程うっかり橋のささくれに引っ掛けた指の切り傷が、未だに赤く血がにじんでいる。
「利便だったのに。切れましたね」
謎の治癒能力はもう尽きてしまったみたい。喉を通っていったのは感覚的には一滴二滴だったので、むしろ一日も持っていたのが不思議なくらいだ。
ぼやいたわたしに「……何すか?」怪訝そうに中田さんが尋ねた。視線は航空計器を睨んでいる。運転ありがとうございます。
「親切な通り魔の話です」
「ホントに何?」
マ正体不明のものにわざわざ頼り続けるのもね。
とりあえず絆創膏を取り出した。フィルムを剥いて、くるくると巻く。
「……中田さんは、念のため確認いたしますけれど、休暇はよろしかったのですか? 長期のリフレッシュとは到底いかないものでしたが」
「あのマジどなたのせいすか? いや休暇くださったのもアンタなんですけど……まあ、おれは良いんですよ。挨拶はできたし、墓は掃除したし、久々に実家の整理もできたし」
ガコンとレバーが引かれる。
日も沈んでしばらく経った。充分近づいた本艦へ信号を送れば、夜間入船用のライトが点灯された。
「てか今度休暇貰えるにしてもアンタ送り届けてからがいいですね。別れて一時間後に真選組に運ばれてるの目撃するとか二度も経験したかねえです」
「今回はわたしが悪いわけじゃあないのですけれども……」
「アンタ九割は自分の非がねえことを主張しますよね……」
「非がないときは非がないと主張せねばなりませんね」
「それは正しンだけどなんか非がじつはありそうなところが多そうっつか」
「すみません、もう一度仰ってください」
「聞き取り性能がゴミのアレクサの真似、なんでそんなに似てるんですか?」
「機械に広い心持ちで接すればいつかは聞いてくれるなど精神論による幻想ですよ。まったく何度聞き返されたものか……」
「おれはアンタに接するときも広い心持ちは捨てるべきなんすか?」
「一方で人同士のコミュニケーションにもっとも必要なものとは、すなわちお互いへの思いやりにございます」
「ああ言えばこう言う……」
くだらない会話をしている間にも、本艦の入船用ハッチが開く。基本的に現代の航空機に御大層な滑走路はほぼほぼ不要だ。管制室とのやり取りすら必要ない。
「帰還!」
中田さんが喜び勇んだ様子で降りて、扉を抑えてくださるので、わたしも「ありがとうございます」ひょいと降りる。遠くからダダダダッと足音が響いてきて、直近で止まり、自動ドアが開いた。
「ヒカリ様! おかえりなさい!」
「あらまた子さん。ただいまです」
「じゃなくてえ~とヒカリ様」
じゃなくて?
わたしがすこし首を傾げていると「ああヒカリ」言葉を探すまた子さんの上から、河上さんまでひょいとこちらを覗いた。
「怪我はないようで。そして……うむ。少し。そうだな。覚悟しておくように」
「は?」
「いやもう今度という今度は一回逃げちゃった方がよいやもしれんな?」
「はい?」
帰宅したばかりなのにどうしてわたしは逃亡を勧められているんですか?
「さ、さすがに逃げるのは失礼ッスよ……マでもウン……」
なァんだかとっても嫌な予感がいたしますね。
中田さんを見遣ると、小型船に鍵をかけたばかりの姿勢のままで(ベルトコンベアで車庫に収納されるので操縦はもう不要だ)半端にわたしたちを見比べている。
「……とりあえず鍵お貸しいただけます?」
「……おれも逃げなきゃ駄目なやつですか?」
「内容次第ですかね——」
ガン!
わたしの耳の上をかすめて、打刀が小型船のハッチに突き立てられた。……いくら扉部分に関してはある程度軽量の合金を用いられてるにしたって、鋼に鋼でヒビを入れる実力。加えていま突き立てられた打刀は、大変見覚えがある、どこぞのどなたの愛刀である。
……はい。
……なるほど。
「よォ、おかえりじゃじゃ馬」
「はいただいま帰りましたそして出ます出ます今すぐ出ます!?」
「兄貴から逃げるってのか? 悲しいね、妹にそんなに嫌われてるたァな」
「兄上のことは兄として尊敬しお慕いしております! が! 今現在のご自分の地獄の底から這い出たみたいな声色一度自覚していただいてもよろしいでしょうか!?」
「あっ兄妹喧嘩だ……ならいっか……」
ならいっか、じゃありませんけど!?
刺さったばかりの刀を引き抜いて振り払う。わたしの反撃など児戯とばかりに、兄上の着流しの袖が軽くはためくだけで紙一重に空振った。草履が顔面目掛けて飛んできたので咄嗟に切り捨てる。三分割に散った草履は一瞬風圧に巻かれて空に浮き、すぐに床に落ちた。手荷物を咄嗟に投げつけたものの、兄上は軽く頭をかしげるだけで避けた。
「……まあそもそも晋助様相手に逃げるとか無理ッスよね」
「……中田はこちらに来い」
「と、止めなくていいんすかアレ」
「ンでも見たかんじ、お二人とも加減してるみたい……ッスよね?」
「そうだな。とはいえぬしの実力では巻き込まれかねん」
「ウッス……ちなみにおれホントに短期人事じゃなくてヒカリ様つきに異動なんすか」
「ウン。頑張ってネ」
「マジかよ……」
「ヒカリ様をよく見とけよ中田。あのひとわりとぬるっと無理すッからちゃんと止めなきゃいけねんスからね」
「それ止められンの逆に総督の他にいるんすか……?」
「……あー。えー。万斉先輩? とか?」
「拙者でギリ。また子はちょっと無理やも……いや泣き落としすればいけるか?」
「じゃあおれは土台無理じゃん!」
普段お借りしている脇差が、わたしが持つ打刀と鍔迫り合う。——兄上と力勝負は無茶! ほとんど即座に受け流していなそうとしたものの、読まれていたのか、返す刀の柄部分で鎖骨の下を突かれ「ケホ」むせると、その隙に腕をひねり上げられた。
振り切った刀は脇差の柄でガンと手の甲ごと引っ叩かれ、草履の残骸の上に落ちる。兄上はまず脇差を納刀し、落ちた打刀を雑に蹴り上げて、跳ねた刀の峰を掴むとこちらも納刀した。
「なっ……なぜ帰還早々こんなに手荒な真似をされているんですか!?」
さすがにわたしは全力で抗議した。
「兄から逃げることを憂いるのであればそもそもわたしは妹ですが!?」
「本当に心当たりがねえか?」
床に落下した手荷物を拾ってわたしに持たせ、兄上はわたしを見下ろす。
「ありませ」
ないよね?
「……ありませんよ」
「へえ」
片足裸足のままでもかまわず、兄上はわたしの腕をシッカリ確保したまま、半ば引きずっていく。廊下にも人はちらほらいたが、わたしたちを見て「ああ」「お疲れ様です」「お帰りなさい」何人かが挨拶していった。
誰か助けようとする素振りぐらいしてくれませんか?
というか本当になにが露見したんですか? 露見するようなことなにかあったでしょうか?
だってどこぞの金鍍金はそれこそ昨日今日の話だし、わたしはなんなら、ほとんど屯所内から出ていない。中田さんは上司のわたしがいるので上への連絡はわたしに任せっきり、兄上にチクるほどあのひとは度胸がない。銀さんはそもそも鬼兵隊への連絡先を知らない。年賀状を送ったころの拠点からはとうに離れていて、そもそも郵便の速度では間に合わない。
小太郎さんがわざわざ鬼兵隊に連絡することは……あ、あるかな。あるかもしれないけど、さすがに仲良くお話する絵面が思い浮かばない。あのひとも仮にも攘夷党の将を仰せつかっているのだから、鬼兵隊と公に対立した以上、臨時にひそかに協力することはあっても、その後のあれこれまで世話を焼くのはちょっと部下への示しがつかない。はずだ。
「今日び報道機関ってのはどうにも暇らしい」
兄上はひとつの部屋に滑り込むと、キーボードをいくつか叩いて、ホログラムディスプレイを展開した。腕をひねり上げられたままのわたしは、首をねじって、若干不自然な角度からディスプレイを見上げた……首を痛めそう。
ピッ
音とともに映像が動き出す。ニュース番組の録画だろうか、結野アナウンサーが人垣を前に実況している。最近はお天気以外も実況し始めた彼女、順調な出世なのかシンプルにテレビ局が人手不足なのか、それはそれとして何故このような——
〝大勢のかぶき町民が集まっております! 今回、真選組はいったいどのような過ちを冒したのでしょうか!?〟
——あっ。
「武装警察のお膝元で起きた暴動事件なんざを報道するんだからな」
「……はい、なるほど、よくわかりました、今から前言撤回することは可能ですか」
「時間切れ」
無情!
「わたし自らご説明いたしますのでこの映像切っても?」
「だめ」
極悪非道!
〝なんということでしょう! 真選組が総出で、一人の男に斬りかかっています! あれはまさか——あれ? 知らないひとの、ような……〟
結野アナが戸惑った表情を浮かべる、その画面端で、わたしがふらふらと進み出て金さんに話しかけるまでがばっちり映っている。あああ。そのまま抱きついて、手錠で首を絞めるまでも当然ばっちり映っている。うわあああ。
「かんべんしてください」
「聞こえねえなァ」
片手は手荷物でふさがり、もう片方は腕を掴まれたままなので目を隠すこともできやしない。兄上がわざとらしく小指で耳をほじった。このひととぼけるときに銀さんの真似事するのちょっと腹立つ!
大混乱の喧騒ではほとんどマイクは音声を拾っていなかったけれど——金さんが機械の体を露見させたあたりで、暴徒たちもといかぶき町の住民たちは戸惑いを顕に静まり返り、高性能マイクは機能を果たしたようである。
〝もうひとつも種をまいていたが……もう、説明する必要もねえだろ。オマエが主人公の物語はここで終わる〟
映像の中では、わたしが金さんの生首を抱えたまま、屯所の屋上まで逃亡する様子までばっちりと映っていた。
〝姓は高杉、名をヒカリと申します。諱は本来持たないので割愛しましょう。普段は攘夷浪士をしておりまして、つい近年はある一大プロジェクトに携わっておりました〟
ちょっと機能を果たしすぎかもしれない。
ピピッ
兄上がパネルをタップして映像を停止させた。
「感想は?」
「……か、隠そうとして申し訳ございませんでした……」
わたしは項垂れて全面降伏した。
「顔と名前が全国報道された。てめえの手配書がコレに更新されたのがつい一時間前の話だ。ネットでも出回ってる」
ディスプレイに映った、アップで撮られたわたしの顔を、いつの間にか取り出した煙管で兄上は示す。金さんに語りかけているときのわたしは、客観的に見ても心底楽しそうだった。獲物をいたぶることを楽しんでいる、という意味で。
「よかったなァ、おかげで隠密や暗殺には他の人員をつけるべきってことがはっきりしたぜ」
裸足の方の足がたんたんと床を叩いている。お、怒っている。わたしは今怒られている。誰かどなたか助けてください。無理ですか。そうですか。そうですよね。
「マ、昔はせいぜいもって一年だと思っていた。罪状に対して遅すぎるほどだが……」
兄上はふと言葉を切って「にしてもな」ついでに舌打ちをこぼした。
「てめえは・つくづく・やらかしたンならせめて素直に白状する選択肢を知らねえのか? 存在しねえのか? 隠し通せるとまさか思ってたか? 多少考える脳はあると俺は買い被っていただけか?」
「えっとぉ……もしかしたらば、兄上に似たのかもしれませんねえ……?」
「遺言はそれでいいんだな」
「ゴメンナサイ!!!」
明らかに関節をキメる力が強くなった。本当に折られそう。
「まだ死ねないので斬首の執行はもう少しあとでお願いします!」
「ピーチクパーチクやかましいなァ喋るだけならカラスにでも出来ンだよ」
「イッイタタッイタイです! キメられた関節がけっこうみしみしいってます! あっウソこれは折れるホントに折れるバッキリいきます兄上待って待ってってば」
折れる三秒手前でわたしの腕は離された。確実に明らかに骨は軋んでいた。視線で見分すると……くっきりと手形の痣がついている。とってもとんでもない握力です。これで純正地球人なんですよね我が兄上って。
「……ドメスティックバイオレンス……」
「次やらかしたらガキの頃の俺よろしく吊るすか。甲板あたりはさぞ風が気持ちいいだろうなあ」
「や、やだァ〜なにも血が繋がってるだけのひとでなしの真似事しなくたって兄上ったら」
「あのカスと同列は心ッ底ごめんだね」
「子供の頃を引き合いに出したのはあなたでしょう」
「言って良いことと悪いことがあンだよ」
「御自分を棚に上げて……ふ、
兄上がわたしの頬を指でつまんだ。ぐっと引っ張られるので甘んじて受け入れる。比較対象が最悪だった自覚はありますよ。
「見られる服を見繕っとけ。良い縁が取り付けられてね、近日中に接待が必要になる。顔が売れたなら多少紹介の手間も省けるだろ」
「
指が離れた。
わたしは離された頬を指でなぞった。最近よくつままれる。そろそろ本当に肌が伸びてしまいそう。
「とはいえわたしのとびきりのお着物、この間の大規模処刑会場で血まみれと化したのですが。というかその仕立てのために江戸にいったん立ち寄ったのですよねえ、何故あんな目に……布を見るどころではなくなってしまいましたし……」
「日頃の行いじゃねえのか」
「だとすればわたしの日頃の行いを八割指示している兄上が原因ということになりますが」
「もう一発いっとくか」
どうどう……。
兄上の御手を上手く逸らしつつ、この後怒られるなどとは知る由もない記録映像のわたしからも、わたしは意図的に目を逸らす。不本意にひどい目に遭ったとはいえ、最後の最後ではしゃぎすぎてしまったのは事実ですね。ああ〜我ながら良い笑顔〜本当にわたしってばおろか。暴れ馬のあだ名を受け入れたわけでもないけれど、時々自分でもびっくりするほど短絡的にして直情的。また子さんの猪突猛進がもはやブーメラン。
「有り合わせじゃあ見抜かれるな。特急でもまともなところで仕立てるべきか……」
「……なんだか本物のお偉方と会わねばなりませんかもしかして」
「良い縁っつったろ」
「自販機の当たりでもう一本、も良い縁でしょう」
「安上がりな女」
「刺しますよそろそろ」
手の届くところに脇差がある。兄上はわたしを片目で見て「おお怖い怖い」鼻で笑った。
「馬鹿にされている……」
「可愛がってんだよ」
「適当仰いますよねえ」
わたしは先程逃げ惑ったときに乱れた髪を整えるべく、いったん髪紐を解いた。紐の感触を確かめる。大切にしているとはいえ、十年も経つと(その間いろいろ……本当にいろいろありましたし)さすがに、ずいぶん擦り切れた。お返しする前に破損しないように気をつけてはいるものの、うーん、最近ちょっと不安がある。普段遣いしなければいいのかな。普段遣いしたい気持ちがあるのが困る。乙女心もろとも捨てられたら一番いいのだけどそこまで吹っ切れたら苦労しないわけだった。
おあとがまったくよろしくない話は置いといて。
「それで、わたしはどこのお偉方のご機嫌取りをすればよろしいのですか」
「次期将軍」
「茂々公に御子っていらっしゃいましたっけ……?」
「一橋のお坊ちゃん」
「最初からわかりやすく仰ってくださいね」
お坊ちゃんという年齢でもないが、一橋喜々公ならばわたしにも理解が及ぶ。もとは徳川の傍系出身、公家一橋の後継に乞われて養子と収まりそのまま当主となった男。兄上が声をかけたとなれば、腹に一物あるタイプか、踊りが上手そうなお人形さんか——なんにも詳しくないけれど、お坊ちゃん呼びなら後者でしょうか。
「クーデターのおつもりで?」
「御輿は軽いがちょうどいい、ってな」
兄上は節をつけて歌った。
「茂々は傀儡には向かねえさ。操り糸で手繰るには、とっくのとうに自我が芽生えている……腹ン中真っ黒の爺さんは気づいちゃねえようだが」
「定々公もなかなか、お元気ですよね」
「悪党ほど世にのさばるもんさ、俺たちのように」
「それは道理で」
特に定々公は、甘い汁ばかり吸って肥え太ることに特化していた。好々爺の皮を被った悪辣な所業。……彼が指示した施策、寛政の大獄では我々の師も連れて行かれた。わたしたちが〝先生〟に置いていかれた一因にして、わたしが兄や兄弟子たちに置いていかれた遠因を担っている。
「喜々の話に戻すが、無知装うよりは程々に話を合わせるくらいがちょうどいい。〝優れた人材が己を評価していることを喜ぶ〟——ッフハ」
「わたしを優秀評価するたびに地味にツボに入るのやめていただけませんか。ストレートに嫌味ですからねそれ。わかってますか」
「たしかに真選組の屯所から逃亡できる程度には優秀だよなァ? ックク」
「ねえ本当……」
もういいですよ。直近に失態やらかしたのはわたしですからね。はいはいわたしがおろかおろか。
兄上が呼吸を整えている間に、わたしは無事に髪紐を結わえ直した。ついでに衿を整えて、インナーの袖を少し引いた。
「ま、承りました。せいぜい総督殿の良いように、踊ってあげましょう」
「接待に関しちゃ、ヘマしなきゃそれでいいさ。……ところで」
わたしの手首を兄上が取った。怪訝に見上げると、兄上の翠眼が細まって、わたしの手指を眺めている。
「……なんですか?」
「……この絆創膏は?」
「先程橋のへりで切りました」
「ふうん」
べりと絆創膏を(無許可で)剥かれた。躊躇とかないんですかあなたは。許可を取る素振りとか少しくらいないんですか。ないですかそうですか。
比較的新しい切り傷は、さすがに血は止まったものの、かさぶたというよりはまだ凝固した血液の様相である。
「嘘ついてませんよ」
「そうらしいな」
手を離された。重大な怪我を隠しているとでも思われたのだろうか、怪しまれ過ぎでは。よしんばあったとして、指先の重大な怪我ってなに。欠損とか?
「さっき巻いたばかりだったんですけれどコレ……」
「絆創膏程度ケチるなよ。十年前ならさらなり、今は消費飽和社会だ」
「清貧を尊ばない人」
わたしは嘆息して、とりあえず久方ぶりの自室に戻るべく踵を返す。
ふと立ち止まって振り返ると、兄上はディスプレイの脇で煙管を揺らしていた。
「兄上?」
「片付けんじゃねえのか」
兄上はわたしを振り向くと、手荷物を顎で示した。わたしはあいまいに頷いた。それはそうなんですけれど。
「……ちなみにその映像消していただくことは可能ですか?」
未だアップのままの停止映像を視線だけで示すと、鼻で笑われた。
機を見てこっそり消そう。
➤
「……」
ピッ
〝——なにも考えないで済むというのは、誰かにとっては、あまりに理想的なものですよ〟
「……まあいい、今更だ。……それは今更だとしても」
ピピッ
「素手で触れてこの色になる電圧か。火傷通り越して炭化して、今後二度とは機能しそうにねえモンだが。切傷・剣ダコ・ささくれ・あかぎれ、とはいえ至って健康的な指ではあった。刀を握る様子も支障なし……」
ブツッ
「さァて、今度はいったい、何を伏せたかなあのじゃじゃ馬は」
➤
「そもそも、デート用の一張羅を選んでいたはずなのに、デートで一張羅を選ぶ醜態を晒すとは……」
やはり諸悪の根源の金鍍金は、わたし自らの手でスクラップ場に放り込むべきだったかもしれない。無用な情けなぞ不要。成り代わられた銀さん直々に処遇をつけるべきとか知りませんよ、わたしに大きめの精神ダメージが入ったのですが?
……金さん自身も意図してない?
それは本当にそう。
「ヒカリ様こちらの紫に蝶はいかがですか!」
「わあ素敵」
なおデート相手のまた子さんはあんまり気にしていない様子で、なんならわたしよりも張り切って、反物を見繕ってくださっている。
「……ただ、この齢で兄上とお揃いはちょっと……」
「ならこっちもあります! 赤地に牡丹」
それも見たことあるかも!
「ちょっといったん、濃色や鮮色から離れましょうか」
なにせ兄上の好みが派手な色や柄物なので、被りまくる。わたしは兄上のことは好きだけれど、会合で兄上と服の系統がうっかり被ると微笑ましくみられる・ついでになめられる……程度はまだましで、なにやら下衆な勘繰りまで始まることもしばしばある。再会こそ身請けする側とされる側だったけれども、わたしと兄上はあくまでも兄妹であり上司部下であり、それだけでしかないのですが。驚きの節穴といえるでしょう。
わたしにちょっかいかけてくるだけならば程々に流しておけばよいのだけど、下手すると短気な兄上が刀を出しかねない。なんなら実際に出したことがある。あのときはどうにせよ殺す予定がちょっぴり早まっただけだったので収拾つけるのは楽だったけども、今回はそうもいかない。とっても困る。
わたしがやんわりと諭すと、また子さんは反物を畳んで拗ねたようなお顔になってしまった。
「……似合うと思うんスけど……」
「ああ不貞腐れないでください。また子さんのセンスはとっても好きですよ」
ちょっと兄上の影響が色濃すぎるだけで。
「ふん。ヒカリ様ったら調子いいことしか言わないんスから」
「意地悪なこと仰らないで。ね。また子さんとのお出かけ、わたしとっても楽しみにしていたんですから。どうかかわいいお顔をわたしに見せて」
「……どっちかっていうと、ご自分がそこそこたち悪い自覚はお有りッスか?」
また子さんにじとりと睨まれて「んー……」わたしは微笑んだ。前職の影響、と言いたいところだけれど、これはどちらかというと任務で暗殺や接待が多かったせいでもある。
「でも本心ですよ?」
「もー。じゃあ淡色も見繕いますけど……でもだってヒカリ様、被り気にすンならむしろこっちッスよ」
「え?」
「白夜叉も桂も、だいたい白とか落ち着いた色とか、地味な柄とか、そのあたりでしょ」
わたしは頬に手を当てて、テレビ中継越しに見た場面、紅桜で再会した際、吉原の出来事、そしてつい先だっての金鍍金の件、それぞれの彼らの服装を思い返した。
……たしかに?
「ヒカリ様は晋助様の妹御ですし、鬼兵隊の幹部ですし、あいつらの仲間じゃあないじゃねッスか」
「そうですねえ」
「そんでもこないだも白夜叉と遊んでたみたいですし」
「……あれは、遊んでは、いませんよ?」
多少応酬はしたけども。
そこそこ周囲に呆れられたけれども。
遊んではいないというか双方いちおう大真面目というか。ちゃんと敵対しているというか。まだあちら様は微妙に諦めてないようすだけれどもわたし的にはそちらへの道とかないというか。
「なんかズルいんで」
とはいえ、小声で仰るまた子さんをわたしは少し眺めた。
「……かわいいですねえ」
「ほら! ほらそうやってまた!」
「わかってますよお。話を逸らすつもりはなくって」
つい口から出ちゃっただけで。なにせ本当にかわいいので。
出会った頃の彼女はわたしより背丈も低かった。晋助様晋助様と懐いて回る女の子と距離を詰めるのは、すこーし頑張った覚えがある。まあ八割方兄上の話で釣りましたけれども。あとは、女の子につきものの諸々の対処法だとか、反物の選び方だとか、所作の良し悪しだとか、言葉の裏の読み方だとか、ひとのことを見るとして〝何〟を見るべきかだとか。
このような組織で活用されるとすれば、もっぱら面倒な会談の場だ。武家のお嬢様の立場で行う深謀遠慮・権謀術数とじつのところ大差はなかったので、大いに役に立ったりしている。まさか我が二親もテロリストを育てているつもりなぞこれっぽっちもなかっただろうけど。我が兄上のぶんも合わせて、親不孝と子不孝で相殺していただきましょう。
たいへんどうでもよろしい思考はゴミ箱に捨てて、と。
「ではまあそうですねえ、わたしお揃いならばどちらかというと、また子さんとお揃いの方が嬉しいですね」
「ほら!!!」
「これも怒られるんですか。本心なのに」
「本心ならもうちょっと照れて!!!」
満たすべき要件がちょっと多いかもしれない。また子さんがご自分でお揃いと仰るのは良くて、わたしがお揃いと申し上げるのがだめなの? 難しいかも。
ぷりぷりと怒っていたまた子さんだったけれど「……これとか……?」やがて一巻また選んでくださった。
「あら、花桃ですね」
「……お嫌ッスか?」
「そんなまさか。かわいらしい花ですよね。また子さんとお揃い、とっても得心いたします」
「ヤ、私がこういう感じってわけじゃなくて! ただ! なんつうか、ほら着物の色だとか私が、あ゙ーッ」
「ふふふかわいい」
「ヴヴヴ子ども扱いしないでください!」
威嚇されてしまった。
わたしは心外な心持ちを全面に出して、目をまたたかせる。
「子ども扱いじゃあございませんよ。可愛いという言葉には、愛らしくて愛おしいという意味もありましてね」
「そういうの詭弁だって万斉先輩が言ってました」
「あらまあ。河上さんにはお灸を据えねばなりませんね」
世間話に花を咲かせながら、わたしはまた子さんに渡された反物を手に取った。桃がバラ科というのがよくわかるように、咲いた花桃は薔薇によく似ている。布地の上でも、定番の桃色、白から鮮やかな赤まで咲かせていた。また子さんはたしかに赤系統のお着物を好まれるので、お揃いというのは正しい。兄上のお召し物にもこのような柄のバリエーションはなかったはずだ。
けっこう良いんじゃないかしら?
「ふふ、それにしても、ふふふ」
「な、なんスか……」
「これを言うとまた怒られてしまいそうなんですけれど、嬉しいので言います」
露骨に警戒するまた子さんにまた笑みがこぼれる。
「花桃の花言葉にね、〝私はあなたのとりこ〟というのがございまして」
「ちがくて!!!」
とうとう悲鳴が上がった。
「やだ、わたしはまた子さんのとりこですのに。また子さんは違うと仰るの?」
「晋助様呼びますよ!!!」
「あ、それは本当に怒られてしまいます。武市さんも河上さんもですけれど、なにより兄上が一番また子さんのことを可愛がっていらっしゃるから」
「ちょ、ちょっと待ってなんでこれも私にダメージ入んスか? 絶対おかしい……もう違うのにしましょうよ……」
「え、これがいいです」
また子さんが反物を手繰ろうとするので、わたしは両手で抱きしめてスッと避けた。
「また子さんが選んでくださった、また子さんとのお揃いですもの」
「クソッ今武市先輩もいないからボケも振ってくれねえ。ロリコンの存在求めることがあるなんて」
「無粋なこと仰らないで。せっかくのデートなのですから、二人きりでないと」
「ヒカリ様最近なんか万斉先輩に似てきましたよ!? 若干わざと話ずらしてくるあたりとか!?」
「……なるほど。反省します」
深く深く頷いたわたしに「そうしてください……」また子さんがお着物の袖で額の汗を拭った。
「ええととにかく反物は……ウン、ハイ、いいとして、あとは、帯と……髪飾りとか、あ、簪選びますか? ここ扱ってるはずです」
「んー……そうですね。髪はどうしましょう、できれば簪が良いのですけれど」
いざというときに喉を切ったり目を突いたりできるので。
「ただ三大公家ともなると、簪程度でも取り上げられてしまいそうですし、であればわざわざ刺激する必要もないかなと」
「なら髪飾りッスね。あんま尖ってなさそうなので……帯はいちおう帯締めに根付けも合わせたやつとかにしときます?」
「そうですねえ」
紐の用途は多岐にわたる。帯飾りのように誂えたり。風呂敷の口を縛ってちょっとした小物入れにしたり。下駄の鼻緒代わりにもなるし。まああとは首も絞められる。
わたしは反物の布地を首元に当てて(うん、良さそうです)巻かれた反物をてのひらで測って、おおよその長さを確かめた。ふむ。ふむ?
「……この長さなら、二着仕立てられるのでは……?」
「……ヒカリ様?」
「本当にお揃いにしましょうか」
「ヒカリ様の服選びに来たんスよ今日!?」
後退るまた子さんの目をわたしはじっと見つめた。
「お揃い、嫌ですか? お嫌であれば諦めます……」
また子さんは助けを求めるがごとくうろうろと視線を彷徨わせていた。けれどそもそも、ここは鬼兵隊の息のかかった呉服屋で、我々の訪問にあたって実質の貸切でお客様は他にいない。なんならお店の方も気を利かせて呼ばなければ邪魔することはない。
やがて彼女はがっくりと肩を落とした。
「ひ、卑怯」
「褒めますねえ」
我々の大先輩、西郷特盛は良いことを仰いました。すなわち——勝てば官軍。
巻かれた反物をすこし解いて、また子さんにも布当てしてみる。お揃い、をもとに選んでいただいただけあって、やっぱり似合う。もうわたしよりも高い頭の位置、視線を合わせるには少し仰視する必要がある。
「大きくなりましたね」
わたしは言った。
かつて新参の余所者だったわたしのことを、彼女はずいぶんと警戒していて、しばらくは見張りとばかりにわたしのあとをつけ回していたものだ。兄上に目をかけてやれと言われたときは、果たして末っ子扱いしかされてこなかったわたしに、世話役などできるものかと思いましたけれど。
歳月は愛着を生むことがある。ときには。
「わたし、あなたのこと、本当にかわいいと思っているのですよ。馬鹿にしているだとか、子ども扱いではなくて、本心から思っているのです」
「……知ってますよ」
若干目を逸らしていたまた子さんは「ヒカリ様だって……」と、言ったところで、ふとわたしに視線を戻し、まじまじと見た。
「……あんま変わんないッスね」
「あら」
「若さの秘訣はなんスか。私も使います。目指せ美魔女」
意気込んだまた子さんにウーンとうなる。わたしもとはいえまだ二十代なので、そんなにアンチエイジングに力を入れた覚えはないのですよね。
「好き嫌いなく、食べられるものを食べることでしょうか」
「あ、それ私得意ッスよ。ギリ食えるものならわかります。山菜見分けたりとかもやれます」
「もしも食糧難に陥ったら、鬼兵隊はまた子さんのお力をお借りするべきですね」
わたしはまた子さんの手を取って、今度は帯を選ぶことにした。
➤
「見てください。かわいい子です」
「ヒカリ様ってば!!!」
「また子か。普段と異なる装いであるが、似合っているのではないか? 新鮮味を感じる」
「無難ですね」
「ふむ、まあ、馬子にも衣装と言いますから」
「論外ですね」
「すんません着飾っていただいたところ申し訳ないんスけど武市先輩殺してきていッスか」
「着替えてからであれば存分に。ちなみに、今のところ河上さんが六十二点で武市さんが赤点です」
「採点システムが導入されている、ですと。先に言ってください。ならば私も言葉を選びましたよ」
「普段から言葉を選んでいただきたいかも」
「拙者はなぜそこまで半端な数に……? 基準はなんだ。加点式か? 減点式か?」
「食い下がりますねえ。うーんしいていえば……」
「ほお、こりゃあ華がある。いったいどこの姫君が迷い込んだかと思ったよ」
「しっ晋助様」
「たとえばこういうものはたちが悪いので零点です。出直していただきましょう」
「オイテメエ」
➤
「——おや。有名人ではありませんか」
パチンッ、と目の前のてのひらが二つ折りのケータイを閉じる音。黒い塗装のケータイを懐にしまった男が「初めまして、ヒカリさん。兄君にはお世話になっています」ペコと頭を下げるので、わたしも彼に頭を下げる。
「お初にお目にかかります、局長殿」
兄上の〝白黒対決〟とやら。真選組が口を揃えて〝見廻組の件〟と言ったこと。つまり、見廻組と兄上はちゃっかり手を組んだのだとか。まずはじめのちょっかいの結果として、真選組は追い込まれ、なんならうっかり銀さんも巻き込まれていた、という経緯だとかなんとか。
さあてうっかり。うっかり巻き込んだんですね。まあそういうことにしておきましょう——と、思っていたら口に出してもいないのに頬を引っ張られたのが数時間前の話です。餅でも伸ばしておいてくださいよ。
「真選組局長と同じ呼び方なぞ畏れ多い。どうか佐々木と」
局長殿、もしくは佐々木さんは片眼鏡をくと指ではめ直した。
「では佐々木さ……畏れ多い?」
「私、ファンなので。真選組の」
「……あら。そうなんですね」
まあわたしは真選組とはまるで性が合わないものの、一部の奇妙なファン層を抱えていそう、という点では理解は及ぶ。……はて。ところでわたしが真選組局長を局長殿と呼んだのは金さんの件のみである。何故ならわたしとかの局長殿は、そこでしか顔を合わせていないため。どこぞのテレビ局が厄介してくださりやがった全国生中継でも、当然載っていないやりとりだ。
いったいどこから知ったんだろう。
考えないようにした方がいいものだろうか。
「……ちなみに有名人とは?」
「爆発物解体、お見事でした」
「……。はい」
歌のセンスはございませんが、今ならわたしでも辞世の句を詠めるかもしれません。羞恥心で殺されそう。
「二進も三進も行かなくなって取っ組み合って食い違って泥まみれでもなお足掻く、芋侍たる彼らの愉快なところです。良さみを引き出してくださり、命が助かります」
「なるほど……なるほど?」
褒めているのだか貶しているのだかイマイチわからない。
「彼ら本人たちにも、言っても本気にされないものだから。こちらとしては本心なのですが」
未だに無表情なのでわたしとしても本気で言っているのか冗談なのかもやっぱりイマイチわからない。
「ドーナツある?」
にゅ、とわたしの背後から飛び出た頭を、佐々木さんはやはり無表情に見返した。
「これから会食ですよ、信女さん」
「ドーナツひとつふたつでお腹いっぱいになんて、ならない」
「まあアナタはそうでしょうけれどね。若いっていいなア……」
見廻組の局長さんの懐からポンデリングが出現するとは、なかなか愉快な珍百景。わたしの肩越しに差し出されたポンデリングはさくりと半分消失して、もう半分はわたしの肩越しに(これは背中側から)伸びた手のひらがさらっていく。見廻組副長:今井信女が餌付けされる光景もこれまた不思議な珍百景。
「んむ」
「しかし……アナタはもしや信女さんをうっかり刺してしまうかと危惧しましたが」
やはり佐々木さんは無表情だ。ポンデリングは今井さんに与えども、眼差しはわたしから一度も剥がれない。
「アナタはどうも、背後から近づかれることを嫌うようですし。杞憂でしたがね」
真選組の方々は諜報がザルなのかしら? これは奥まで入り込まれていますね。わたしが気にする道理はないけれど。
「同志の方をわざわざ攻撃などいたしませんよ。そもそも、一橋公にお目にかかるのですもの。今は無手です」
わたしは両のてのひらを示してみせた。
「異三郎の刀、ずっと見てたのに?」
「それこそ、見ていただけとも。良い業物ですね」
ドーナツをもしゃもしゃと食べる合間に喋る、器用な今井さんをちらりと目端で捉えて「わたしは奪える実力のひとからしか奪いませんし、奪えませんので」わたしは言った。
「このような御仁はとても、とても。あなたも然り」
今井さんはドーナツを飲み込んで「……そう」つぶやいた。
「もう少し、人斬りの業に生きているかと思っていたのに」
「それはウーン。わたし担当ではございませんね」
紅桜の頃であれば岡田さんがいらっしゃった。河上さんは……人斬りの地ならば、といったところか。普段はとぼけた音楽プロデューサーですけれども。
「今日は女子会ができるって異三郎が」
「あら」
「違いますよ。メル友です」
「あらあら。わたしスマホ派なんですよ」
今どきガラケーは絶滅危惧種だ。メル友という言葉も死語になってずいぶん経つ。
「大丈夫、5G端末対応機種です」
なにが大丈夫なのかはさておき、佐々木さんは力強く頷いた。
業務用ケータイのメルアドを教えたところで「皆様」と一橋の家臣が囁く。来客は三人きりみたい。
華美な装飾の施された廊下だ。響く、というほどでもないが、立てられる足音はみっつ。案内役の御方と、わたしと、佐々木さん。今井さんは、同じように歩いていると見せかけてじつのところ足音の一つもない。完全に殺しきっていた。ふむ。さて。噂に聞く、見廻組副長殿は奈落出身とは——もしや真実なりや?
「豪胆な方ですね。我々見廻組でも二人で来ているというのに」
佐々木さんがつぶやく。
「まさか兄妹どちらも、伴の一人も連れずに来られるとは」
兄上も単独で謁見したみたい。でしょうね、とわたしは思う。今回はわざわざ大勢で威圧する意味はなく、であれば、部下をいたずらに危険に晒す必要はない。
「英傑ばかりが集う見廻組の方々とは異なり、我々は仮にも浪士出身ばかりです。次期将軍殿にお目通りなぞ、皆様緊張してしまって、粗相がないかと気もそぞろになってしまいますから」
「アナタは異なると」
「わたしは末席ですけれども、いちおう、幹部を仰せつかる程度のお仕事はしますよ。一橋公ほどの御方はお初ですけれど、お偉方のお話相手はしばしば務めさせていただいております。今しがたの佐々木さんとのお話のように」
佐々木さんの反応は目を眇めるに留められた。ボケは拾っていただけないと空中分解するしかない。わたしはひっそりと悲しみにくれた。
「ご苦労」
一橋公は我々を視線だけで一瞥し、わたしを少しだけ長めに見たのち、佐々木さんに眼差しを戻した。
「あの男はどうした?」
「今は定々の件に備えて諸々、進めているとのこと」
佐々木さんは平坦に回答した。
「こちらはヒカリさん」
「ヒカリです。ご紹介に預かりまして」
「代役に実妹を寄越すあたりは、あちらの誠意でしょう」
おや、援護射撃をしてくださる。
「どうだか」
一橋公は嘆息した。
「虫も殺せなさそうな顔をした女じゃないか。先の騒ぎも死者はいないと聞いている」
さて、さて。確かに金さんの件に死者はおらず、吉原の件は幕府的には表沙汰になることなく、真選組の動乱における要人の被害はせいぜいが伊東さん、紅桜は当初想定の夥しい死傷者を出す前に幕を閉じた。しかし——たとえば幕吏をさっくり斬り殺したり、武市さんの護衛がてらにおいたをした人々を捕らえたり、そういうことはしばしば行なっている。たしかにわたしの顔が割れたのはつい先日だとしても、各事件の下手人がわたしであることは、情報を突き合わせれば見えてくる程度には隠していない。
情報把握は速いようだが、表面上の物事だけを理解するに留まっている。腹心は何をしているのかしら。都合の良い情報だけを吹き込んで、そのまま? なんともまあ。ひどいことをしますね。
「ご安心くださいませ。これでもけっこう、やりますので」
わたしは口元に笑みを刷き直す。
「総督は現在、一橋公の躍進のため、日々力を尽くしております。我々は一丸となって貴君の覇道を切り拓く所存にございますよ」
え? もちろん本当ですよ。わたしたちってば本心から、ぜひともあなたに将軍になっていただきたいのです。
着飾る理由を我々は知っている。戰場において刀を振るうが手段であるならば、所作ひとつひとつに気を配り、装飾にて己の目利きや価値を示すのは、交渉の席の単なる手段だ。傷ひとつないふりをして、動かざることで転じてその重要性を示す。
指先ひとつ動かす必要なく、将軍の座へと連れて行きましょう。もしかしたらばその次の行先は、処刑台かもしれませんが。
それはまあ、我々の保証範囲外ということでひとつ。
➤
「次の会食はドーナツが良い」
「無茶を言わないでください」
「会食のメインが甘味は、わたしもちょっと……」
「少なくともドーナツにカトラリーは必要ないもの。異三郎、この女の前に箸やフォーク、スプーンを出すだなんて、一橋はなにを考えているの? あなたも隣に座るだなんてなにを考えているの? なにも起きなかったからよかったものを、なにか起きてからでは遅いと言わざるを得ないわ」
「そこまで。……そこまで?」
「そこまで」
「過分な評価をいただいております。けっこううれしいですね」
「信女さん、ひとを指差すのはやめましょう」
「こんな物騒な女と女子会だなんて本当になにを考えているの?」
「このコまさか自分が物騒な自覚がない? 育て方を間違えましたかね」
「まあまあ。中年男性といういきものは得てして、何歳も違う人同士でもまったく異なる趣味嗜好のひとでも〝女の子〟で雑に括ってしまうものですから」
「たしかに。ジェネレーションギャップや性格の不一致をなにも考えずに一緒くたにしてしまうものね」
「そんなかんじです」
「文句をつけるわりに意気投合するんだからこれだから女子といういきものは……」
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【 最近ノブたすが冷たくて 反抗期かな 】
「愉快なひとですね」
顔文字どころか絵文字まで打ち込んでくる佐々木さんにわたしは無難な感想を述べた。ひとは見かけによらぬもの、外見だけで判別することは以ての外だけれど——それはそれとしてあの顔とのギャップがすごい。
「早めにフォルダ分けることをお勧めします。日に百件くるので」
「わあ」
武市さんのアドバイスに従って、送信主のメルアドでフォルダを分けておいた。まさかそんなとは思うけれど。いやはやまさかメルアド交換した全員に百件送信していたら、それだけで一日が潰れてしまうじゃあございませんか。そんなことはまさか。
まさか。
えっもう五十件来てる?
大半はスパム判定されて、迷惑メールフォルダに入れられていたみたいだ。気づいていなかった。最近のメールアプリって高性能ですよね。はい。
……ええ……。
「……このメール量送信しておいて見廻組を回して我々や一橋公と提携して暗躍まで手を伸ばしていらっしゃるの、過剰労働を通り越して身体が足りないように思えてしまうのですが? 分身の術でも習得されているのかしら」
「さながらテニスコート上のプリンスたちの如く」
あの作品で分身習得しているのって、複数人だったっけ。わたしあんまり詳しくないのでよくわからない。
「さすがに筆を執れば天神の怪物というわけでしょう。いやはや」
武市さんはしみじみと仰った。
「幕府に勤めていた頃にも見かけましたが、当時から文武両道として名高かったものです」
「あら。同期ですか?」
「近い年代というだけで、同期というほどではありません。それにあちらはエリート中のエリートコース、晋助殿の光にうっかり惑わされて職場を辞めてしまってそれきりの私とはまるで別物」
我らが軍師様は自虐しつつ物語るものの、おそらく彼もまた、幕府に居続ければ順調に出世していたタイプだろう。
「なんならある時期からは将来有望な女の子を連れておりそれはもう私としてはハンカチを噛みしめ今もなお補佐官に置いているとはあまりに許しがたくそれにしても紫の上ってロマンがある……」
「武市さん、そろそろ大概にした方がよろしいかと。いくらわたしとて仲間を手打ちにするなど少しくらいは残念な心持ちがございますのよ。もちろん刃が鈍るなど以ての外のため、苦しめることこそありませんけれども」
「ハイ」
ちょこっと釘を差したわたしに、武市さんはすっかり小声になってしまった。
佐々木さんと今井さんのご関係にはわたしは詳しくありませんが、マ確かに幕府に居続けたとて、武市さんの場合、昇進コースの只中でいずれ性犯罪者としてお縄についていたやもしれません。わたしの目が黒いうちは、我が隊の幹部からそのような恥部は輩出しませんが。
「と、ともあれ。佐々木殿は置くとして——どうでしたか、一橋公は」
「……そうですね。役者としてはまだ、伊東さんが上かしら……」
伊東さんは他者肯定にひどく飢えていたこともあり、地べたから己が力だけで這い上がらんとするハングリー精神に満ちていた。結果として、我々に良いように利用されたというのが事の顛末だけれども……なるほど、伊東さんがたとえば承認欲求と自己評価を拗らせた果て:自らの矜持だけに縋っていたお坊ちゃまであれば、一橋公は、ほとんどなんでも手が届く成育環境の末路:甘やかされたお坊ちゃまである。
過剰供給は不足を知らず、それすなわち足るをも知らず、器に対してあまりに誇大な万能感を養った。
「だからこそ、尚更警戒すべきやもしれませんね」
わたしはのんびりと言った。
「失敗を知らない、恐れを知らない、であれば軽率な行動に躊躇もありません。勝手な行動を謹んでくださると思い込むのは些か、過剰な期待に分類されてしまうでしょう」
子どもの責任感や注意力に過度に期待してはいけないのと同じことだ。子育てでは期待せずに万策打っておくことが必要な一方、子の成長のためには適度に期待する姿勢を見せることもまた重要と聞いている——はて、とうに元服を終えた御方に、幼子相手と同じ対応をとるべきとはなかなか。
「それに彼は、周囲の奉仕を、先々の道すべて舗装されていることを、なにもかも当然と思い込んでいらっしゃいます。己が失敗したとて、挽回を図ることを少しでも怠れば、ちょっとでも期待を埋められなければ……もしかしたら、それだけでも裏切られたと邪推されるかも?」
もっとも、わたしの感想もまた邪推に属する。鬼兵隊側も当然想定には組んでいるので、順当に行けば問題ないはずだ。
問題ないはず、ではあるのだけれど。
「よほどのことでもない限りは手のひらで転がせるかとは思いますが、幕府転覆ってふつうによほどのことですからねえ」
「それも、たしかに」
武市さんは真面目くさった顔で頷いた。
「命大事に、気を引き締めて参りましょう」
今更瑣末事で落命するほど愚かなこともない。我々死出の旅路にも、そろそろ、具体的な目処が立ち始めた。
ホログラムディスプレイに広げられた見取り図を眺める。佐々木さんから提供された江戸城内の地図である。江戸城の構造は国の重要機密、一般に触れられることはまずなく、警察組織とて全体像の把握はできていない——ので佐々木さんは地道に歩いて諸々情報、収集してくださった。ありがたいことですね。
これに警備の配置・巡回経路・交代のシフトも加えて、はい。
「我らが満願のひとつ、幕府相談役の殺害。もしや兄上が失敗するとも思えませんが、とはいえ、念には念をと申しますから」
徳川定々公暗殺専用の図面にございます。
……じつはまだ作りかけ!