【完結】春去りて、春風は未だ   作:初弦

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前略:

 地道なことからコツコツと、何事も積み重ねがだいじ。

 国家転覆でもだいじ。

 

   ➤

 

「ひとり、ふたり、さんにん……」

「人間版皿屋敷みたいですね」

 純粋な感想を述べただけなのに、兄上に頭を引っ叩かれた。

 引っ叩かれた後頭部をさすりながら(脳細胞が……死んでしまう……)わたしは改めて、未完成の図面を見上げる。これはあくまでも江戸城の通常勤務時の警備見取り図だ。今は——幕府要人を何人かちょろっと締めたので、そのぶん警邏は増え、警戒は厳しくなっている。

 河上さんがふと腕を組む。

「暗殺を目論むならば、できることなら、初動は悟られぬ方が良いのだが……」

「今回は趣旨が他にもあるので」

「理解しているとも」

 要人襲撃により、発見・通報の速度、異常事態に際した胆力や連携、待機所からの増援の数ないし技量、入手可能な情報は多様にわたる一方で——それって、人を殺しつつ集める必要ないですよね? と当然疑問が呈される。

 なんならわざわざ要人を狙うなぞ、今このあたりに危険人物が屯していますよ、とでも言わんばかりであろう。よほど短絡的思考をお持ちでなければ、あるいは目立つことが大好きで劇場型犯罪を目論むでもなければ、ふつうはそんなことはしない。兄上とていくら派手好きにしても、いつもならば撒き餌はもう少し穏便にする。よく使われる手口でいえば、スリ、急病人の救護、迷子、人力車観光、〝屋根の修理〟さてはて、パッと並べるだけでもこれだけ。ごくほんの一部だ。

 そして、そうはしていない。

 殺害対象は無論のこと、我々にとって都合の悪い方々を中心に袈裟斬り・斬首・背中を一突き。しかしこれらはあくまでもついでのお掃除だ。本命は——警戒され、厳戒態勢を敷かれること、そ(﹅)の(﹅)も(﹅)の(﹅)にある。

「天に坐す烏はどれだけ突き回しゃ、巣穴から出てくるだろうな」

 兄上が独り言つ。珍しく手元に煙管はなく、両腕を組み、眼差しはディスプレイをハッキリと見据えている。

「いっそ唱えてしんぜましょうか。さすれば降りてくるやもしれません」

 わたしは皮肉った。

「此の神床に仰ぎ奉る、掛けまくも畏き天照大御神——」

「——恐み恐みも白す。にしてもヒカリ殿、天照大御神にそれこそ失礼ではありませんか」

 勝手に末尾で閉じられて恐み白するべき要望の部分を全カットされた上、窘められてしまった。こういうときばかり常識的なんですから。

「いやはや。少なくとも、初めに礼を失したのは八咫烏を気取る奈落(奴ら)にあろう」

 河上さんが茶化すように肩をすくめた。

「拙者らには当然バチが当たるとして、まずその矛先は天を気取りし者共にしてほしいものよ」

「それは私としても同感でこそあるものの」

 二十数年前、この国に舞い降り、天人を導き、開国と侵略の指揮を執ったが天導衆。

 かねてよりこの国の長い歴史の裏で暗躍していた、そして今は天導衆のもとへ下り、天の遣いを自称する天照院奈落。

 ……奈落の場合は地獄の意図もあるだろうか?

「実際どこから生えてきたんスかこの奈落って」

「かつての朝廷だろうよ」

 また子さんの疑問に、兄上は気のない声で仰った。

「天は天でも八咫烏、そしてよりにもよって〝天照〟ですからね」

 わたしも首肯する。

 あながち、わたしの先程の祝詞も冗談ではない。高天原を統べし大御神こそが祖であり、ゆえにこその天子、ゆえにこその天下だ。この点、神武天皇の実在性について賛否いずれにも論じるのは的外れである。建国神話を作話と棚に上げてしまえば、千年以上続く我が国の歴史すべてが意味をなさない。物語性とは転じて畏怖であり、象徴であり、そうあれかしと定められた精神であり支柱である。真偽や正誤の論議は学者様方にお任せするべきだ。

 徳川幕府に限らず、我が国に興り潰えていった幕府は、たとい権力闘争の建前であろうとも、おしなべて天子の勅命を受けることで世の平定を許された。ふるく伝わる物語がもしかしたらば嘘であろうとも、この点だけは事実に値する。

 そして、我が国より端を発したかの組織が自らを称す名がそれなれば——暗部にて暗躍する暗殺組織がそのように名乗ることをかねて暗(﹅)黙(﹅)したのであれば、その成り立ちに誰(﹅)の勅命があったかなど明らかだ。

「始まりは、すなわちそういうことでしょう。しかし……あくまでも旧日の出来事に過ぎず、わたしも兄上と同意見とはいえ、これまた後世の憶測に過ぎません。確かめるすべがあるとも思えません。いずれにせよ、いずれかの機会に遣いはかつての〝遣い〟の役割を放棄し、主の手を離れた——そして新たな主を定めた」

「単なる主従と呼ぶよりも、取引し、利害の一致を見、最終的には共生した、というのが正しいようですがね」

 わたしの言葉を武市さんが引き取った。

「現在は幕府中枢にも深く食い込み、利潤を得ている……と、なれば。原点の疑問に辿り着く」

 武市さんのいつもののっぺりとした、深淵のような瞳は、これまたディスプレイに向けられている。天守閣より少し下がったあたりにゆっくりと点滅する光の点——徳川定々公の居場所である。

 ……いやはや、十四代目征夷大将軍の相談役にして、十三代目征夷大将軍。まったくもってお笑い種です。征夷大将軍とは遡ること八百年前、蝦夷を征伐するために制定された立場だ。その是非はさておき、蝦夷を掃討に支配下に置いた結果、名付けられたが征(﹅)夷(﹅)——既に形骸化した名称であるものの、しかし真っ先に天人という夷狄と手を組み、夷狄を攘(はら)う攘夷志士を排斥する選択を取った者に、ここまでそぐわない呼び名もそうはない。

 売国奴にして開国の英雄。天導衆が交渉役に据えた男。奈落が虚構の主と祀り上げた男。甥の徳川茂々を空の玉座に据えて、成人した男に対してなおも関白政治を気取る男。

 我々の復讐対象にして、その末端でしかない男。

「何(﹅)故(﹅)天導衆は奈落と組んだのか」

 奈落が天導衆に擦り寄るだけなら理屈はつけられなくもない。我が国の各地でも行われたことだ。その多くは一顧だにされずに跳ね除けられた。天導衆の側に奈落と組む利益は、客観的に見て存在しない。暗躍暗殺お手の物といえども、宇宙の辺境、無数の星群のなかでも遅れた文明を抱える星のたった一組織だ。

 そもそも——何故彼らは辺境くんだりまで足を運び、数多のものを奪い尽くして作り変えておきながら、しかしなにもかもを奪い去ることはなかったのか?

「古今東西、天に近づき過ぎた者の末路は燃され焼かれ凍てつくが定め。星になれるとしてもごく稀なこと。稀の側であるならば、それは何故(なにゆえ)か」

 未だ五里霧中にいる。社会の深淵から中枢に迫る我々とて、不透明に濁った泥の中を掻き分けるような進軍速度でいる。

 しかしいくらぬかるみに足を取られ、鈍間であろうとも、着実に進んでいた。宇宙海賊との縁は実り、警察組織の協力を取り付け、幕府の重鎮の力添えもいただいた。

「故に曰く、彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。有名な文です……彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆しと結ばれる。いくら兵どもを揃えたとて兵力差は歴然、なにも知らぬままではあっさりと負けてしまう。ゆえにまずは、知るべきです」

 武市さんは正しく、鬼兵隊の参謀である。策を張り巡らすことに於いて、鬼兵隊に彼の右に出る者はいない。

「我らが軍師殿の仰るとおりに」

「妹御、以前にも申し上げましたが」

「ハイハイ立場がないんですね。いいでしょう他に人目もないのですし」

 苦言を呈する武市さんに、わたしは先程の河上さんよろしく肩をすくめた。貢献度でいえばわたしの立場がないというのに、変なところでまじめなのだから。

「三千世界の烏を殺し——」

 兄上が歌う。

 のこった片目は鈍く光る。毒々しいみどり、花緑青の輝きだ。

 

「——その羽根捥いで、地に落とす」

 

   ➤

 

 昨今人の移動に駕籠を使うことなぞ滅多にない。人目を避けるがごとく夜を忍ぶお車は、人力で動くそれではなく、立派に電化のEV車。天人製の高級車は自動運転アシスト付き——ずいぶんお高く、お目が高いのですね。ああいうものは他害を避けるロジックで組まれている。事故防止の急ブレーキ自動アシストというやつだ。

 うまく計算して目の前に飛び込めば、勝手に車が避けて停車してくださいます。

 いわゆる当たり屋。

「危ねえな! 何考えて——」

 車を行動不能にするのはかんたんだ。タイヤを狙いましょう。一昔前のガソリン車ならば、給油タンクに砂糖を流し込めばエンジンがお釈迦になってうまく止まってくれたのだけど、あいにく昨今の複雑構造ではまず失敗すると見るべきだった。取り外せるなら外してしまった方が確実である。修理の必要もないのだし、フェンダーとタイヤの間に適当な廃材をねじ込んでしまえばそれで終わりだ。

 同様に、昨今の車の鍵は電子錠と化していて、ピッキングが得意な方でもなかなか開けない。であれば扉の付け根に刀を振るって、ず(﹅)る(﹅)り(﹅)、ずれた扉を蹴り飛ばしてしまえば、もはや鍵云々なぞ気にするのは無意味だ。

 襲撃に際して名乗るなぞどうぞ隙をついて逃げてくださいと申し上げるようなもの。そうでなくとも深夜帯は音が響く。わたしは基本、暗殺任務に於いては無口無音に行動する。

「貴様ァ鬼兵隊の゙ッ」

 言葉は末尾まで述べられることなく、最期の呼吸は半ばに消える。自らの喉元からあふれ出る血にけぽけぽと溺れる様子は、端的に言って見苦しい。眼前の人に限らず、死にかけた人間はたいてい見苦しい。

「無礼をお許しくださいませ」

 わたしは取ってつけたように付け加えた。どうせ聞いてはいまい。聞いていたところで、すぐに黄泉路をわたるだけ。不要な礼儀は単なる習慣である。

「反撃なし、致命傷、しかし声を出させてしまったので七十点といったところか。六十二点よりは高かろう」

「もしかしなくともこの間の採点、根に持っていらっしゃいます?」

「なんのことやら……」

 河上さんは刀を打ち振るって血を飛ばしつつ(周囲の護衛車両を片付けていた。わたしの方に来たならば——いやはや、手際の早いこと)露骨に誤魔化した。わたしは嘆息して刀を適当な死体のお着物でぬぐった。

 当然ながら、河上さんならこの手の任務は単独で達成できる。手数がかかる対真選組とは違うのだ。

 だのに〝たまには身体を動かしたらどうだ。具体的には拙者の手伝いなど〟〝何が目的なんですか?〟〝ふむ? むやみに人を疑うのはよくないぞ〟〝とぼけますねえ?〟——まったく、わたしが悪うございましたよ。

「ひとーりふたりさーんにん。皿屋敷の人間版なればそれは人間屋敷でしょうか?」

「そもそもここは屋外にござるが?」

「それもそうですね」

 お菊のごとく無辜の善人が手打ちにされたわけでもなし、今しがた積み上げた死体も、しっかり後ろ暗いことをなさっていたお方だ。ひとり足りないこともない。目撃者といえるような者も、どこにもいない。

 我々二人出張って逃すはずもなく、そもそも佐々木さんの手の者に事前に張っていただいている。万一漏れがあれば連絡が回される。河上さんが見ている端末がまさにそれ——首を振って懐にしまったので、やはり問題なさそうだ。

「見廻組の力添えはありがたいが、しかし、他にも人手を出してくれてもよいものを」

「交渉してはいかがです? 河上さんも、顔合わせは済んでいらっしゃいますよね……けれど、そこまでご入用ですか?」

 要人襲撃はもとより、本番も最少人数での潜入予定だ。それこそ兄上が自ら潜りに行く前提で話が進んでいる。見廻組はあくまで治安維持組織なので、我々に表立って関与する様子は見せない方が都合がいい——とはいえ河上さんが希望するならある程度融通は通るだろう。

 わたしの問いに「ふむ……鬼兵隊として交渉するにはそぐわぬので、打診してはいないのだが」河上さんは考える素振りを見せた。

「ヒカリは、見廻組の副長とは会ったか? 一見華奢なおなごであるが」

「お会いしましたよ。たしかに細身の女性でした」

 それこそ先日、一橋公とお会いした際に佐々木さんが連れていた御方である。わたしより頭二つ分は背は高かったので、わたしが華奢と呼ぶとちょっと失礼かもしれない。一方で河上さんからすれば多くの女性が華奢の一言で片がつく。身の丈が大きいっていいなあ。わたしも上背がほしかったものです。

「とはいえ、奈落出身との噂はあながち冗談でもないのでは、と思いましたけれど」

 河上さんも頷いた。

「拙者も彼女は相当な手練れであると感じた。是非とも、一度は死合ってみたいものよな」

「……」

 河上さんの目元はサングラスで見えない(真夜中にもサングラスって見えるのかしらと思うけれど、今のところ、彼が夜間の仕事で手元を誤ったことはない)けれど、きっときらきらとしているのだろう。そういえばこのひと、わりとしっかり戦闘狂方面の人斬りだった。お仕事じゃないんですね。完全私用なんですね。私欲で交渉はしない理性をお持ちでなによりです。

 ところで鬼兵隊(われわれ)ってどうしてこんなに個性豊かなの? 現在存命の幹部だけでなく、岡田さんは脳を灼かれてわたしを殺しかけて、村田さんは刀の魅力に取り憑かれて人の話を聞かず、中田さんは侍にしては素っ頓狂にかしましい。兄上ってば変な人ばかり好んで集めているの?

 狙って集めていそう説が否定できないところが如何ともしがたい。

「ぬしもどうだ? 一手くらい」

「あなたまだ諦めていらっしゃらなかったの」

 わたしは半眼になった。もう何年前ですかそのお誘いって。

「いやでーす。そもそもとうにご存知でしょうわたしの実力くらい。わたしの刀の腕は、河上さんより確実に格下ですよ」

「いやはやしかし、ぬしは晋助や白夜叉とはまた異なるでたらめな動き方をするからな。ぬしに有利な環境を揃えればあるいは」

「い・や・で・す」

 そこまで整えなければ良い勝負にならないのだから、素直に諦めてくださいませんか。

 素気なくあしらえば「もう長年の付き合いだというのにつれないものだ」しみじみ残念そうに仰って、それから河上さんは「……ウン?」首をひねった。

「長年?」

「……まァ、七、八年の付き合いとなれば、そろそろ長年といえるのでは?」

 短い間柄、ではないと思う。確実に。

「それはそうなのだが……拙者ら、顔を合わせてまだ七、八年で済んでいたか?」

「……意図が掴めないのですが、なにを仰りたいので?」

「体感十年以上経っている気がする」

「……な、なるほど?」

 まるでなにを言っているのかという主張だが、しかしそう、いわれると……経っている、ような気もしてくる。

 ……ような気がしたけれど冷静に考えてそんなわけがなくない? 宇宙と地球の往復任務が多いせいで時差ボケしたかしら。

「年を取ると時間感覚が鈍る、とは話に聞きますけれど。我々生き急ぎすぎていますかね」

「年寄り扱いで事象を丸めないでもらえるか。こう、なんというか、アレだ。ぬしもわかるだろう。サザエさん時空というやつだ」

「河上おじいさん夜ごはんはもう食べましたよ」

「あしらうのやめてくれるか? まだ食べておらんよ今日は。食後の口臭や歯磨き臭は勘が良い人間は気づくもの、腹八分では刃が鈍るゆえ……あれ? そうだよね?」

「あら記憶力は正常なご様子」

 わたしは茶化した。

 事実として我々、夕餉はまだである。 

「肝を冷やさせないでくれ。この期に及んで認知症など洒落にもならん」

「言い出したのはあなたでは」

 雑談はそこそこに。奪い取った得物:斬り殺した凶器たる刀を眺め、ふむとわたしは顎に手を当てる。

 鬼兵隊の幹部格、わざわざ相手の得物を奪取して惨殺する悪趣味な殺し方。わたしの顔はごく最近まで知られていなかったものの、殺し方だけは、むしろ名だたる我が幹部陣の中でもとびきり目立っていた。これは世間様にも前々から知れ渡っている。鬼兵隊を特集していたドキュメンタリー番組では、まるで死人を愚弄しているようだ、と憤った物言いで語られたこともある。わたしは単に手近なもので済ませていただけです。

「どうせなら、目立つところに突き刺しておきますか。我々の仕業とわかりやすく示すにはちょうどよさそうです」

「背中に突き立ててはどうだ。持ち主本人の手ではどう足掻いても不可能だ、下手人の仕業と一目瞭然であろう」

「なるほど、採用します」

 よく研がれた業物は、上手く扱えばぶ厚い骨までするりと貫き通す。兄上や、人斬りの業に生きる方々ほどではないにしろ、わたしは刃物の扱いが上手い方だ。脊椎の関節の間をすっと入れると、ごりと鈍い手応えとともに、深々と突き刺さった。心の臓が停止した身体は血流もじきに止まる。突き刺した刀傷の縁に血はにじんだがそれだけだった。

 さあさあ、鬼が来ていますよ。あなたがたのお仕事に常々ちょっかい出していた、辺境の犯罪組織です。目障りでしょう。邪魔でしょう。早く駆除してしまいたいでしょう。天高いねぐらから、そろそろ出てくることをおすすめしますよ。

 さすればきれいに斬り殺してあげますから。

 立つ鳥跡を濁しまくり、いずれ死体は巡回に見つかるだろう。一仕事を終えた我々は帰路につく。今回は時間内に合流さえすれば、船が停泊しているので回収してもらえる。

「パーッと寿司だとか食べたいですねえ」

「たしかに最近食べていない」

 夕餉の話をしたものだから、なんだかお腹が空いていた。わたしがぼやくと河上さんも頷いた。

「巷では回転寿司なるものが流行っていると聞くが、入れたことがないのだよな。一度くらい入ってみたい」

 回転寿司に流行っているもなにもないと思いますけれど。

 なんなら最近回転しない回転寿司も増えてますけれど。

「……それは、普通に入ればよいのでは? 年中混んでいるものでもありませんよね?」

「指名手配」

「そういえばそうでした」

 河上さんは鬼兵隊入隊以前から人斬り万斉として名を馳せていた。下手にチェーン店に足を踏み入れることもできなかっただろう。鬼兵隊としてお出しされる食事はたいてい、目の前で握っていただくタイプのお寿司だ。間違ってもレールに乗って店内を巡ることはない。

 なるほど、と頷いて——わたしは気づいた。

「もしかしてわたしももう入れない!?」

「逆に今までは入れていたのか? ずるくないか?」

「顔と名前が一致していなかったメリットを今更ながらに実感しました。うわあ……かなしい……」

 江戸は後ろ暗いところがある人のひとりやふたりや百人くらいはいるもので、顔を隠しているからといって職質されることは滅多にない——ないのだけど、さすがに食事中までそんな格好をしていたら、マナー以前にただの不審者だ。今後は鬼兵隊の息のかかったところでしか食事できないだなんて。帰りにお土産選ぶのも楽しかったんですけれど、リスクを避けるならやめるが無難だろう。もうひよこ銘菓で大論争引き起こすこともできないの? 部下に任せるんじゃあだめなんですよ、わたしが選びたいのに!

 悲しみに打ちひしがれていると「——あ」と河上さんが口にした。顔を上げれば、甲板から、兄上が片手を船べりについて見下ろしていた。

「晋助。ただいま」

「……ただいま帰りましたー」

「おかえり」

 兄上の声が風に乗って聞こえる。贅沢なお出迎えですこと。

 ひょいと下ろされた縄梯子をふたりで上った。

「わりと今更だがうつってンな」

「なにがです?」

「本当に今更であるな」

「通じていらっしゃる? 何の話ですか?」

「我々、年月を過ごしただけあるということよ」

「さてはおふたりとも説明する気がありませんね?」

 わかり合っている様子の総督殿と実質№2。まるでわかっていないわたし。……すねてもよいでしょうか。

 仲間外れにされた心地で縄梯子を巻いていく。わたしが最後尾なのでわたしの役目だ。

「皆様揃いも揃って、わたしを除け者にするのがお好きなんですから……」

「ガキかおまえは」

「いつものでござるな」

 つぶやくわたしを河上さんは微笑ましそうに(なにが微笑ましいんですか? 納得できるお答えが来るまでだる絡みしてもよいのですよわたしは)兄上は面倒そうに眺めた。

「ええもちろん、いつものことですとも。まったく殿方ってばいつもそう」

「うるせ……ああ、それならじゃじゃ馬、除け者じゃねえ案件だ」

「妹の名前をお忘れになられましたかあなたは」

「おまえ宛の手紙」

 拗ね気味に返して、それからわたしは首を傾げた。

「……手紙?」

 兄上は船べりにかけていた片手を振った。

 よく見れば、骨ばった指は白い封筒を挟んでいた。

 

   ➤

 

「……アンタねえ、巷じゃあまだ騒ぎになっちゃないがね、百華のやつらが〝百舌鳥の早贄〟って話してるよ。ありゃ本気でアンタの仕業なのかい?」

「あら、なんともかわいらしいたとえ」

 わたしは両の手の指先を合わせて声を弾ませた。

「どなたの発案かは存じませんが、幕府のまるで格好つかない名付けとは雲泥の差です。とっても気に入りました」

 無手の百人斬りとかいう本当に心底センスのないお名前と比べて、百倍ましである。今後は鬼兵隊の百舌鳥とでも名乗ろうかしら。

 笠を外しながらわたしはうきうきつぶやいたけれど「相変わらず馬鹿言ってンだねアンタ」と辛辣に吐き捨てられた。わたくし心底大真面目ですのに!

 ……まるで説得力がない?

 ……それはまあ、そうですね。自覚はあります。さすがに。

「百舌鳥はたしかにちみっこくて愛らしいと言うやつは多いが、アンタはまるで可愛げがなくて物騒だ。習性を気取るんじゃあないよ人間の分際で」

「辛辣ですねえ。その物騒な女を呼び戻したご自分について、棚に上げていらっしゃいませんか?」

 遣手婆はフンと鼻を鳴らした。見ないうちにすっかりと、足腰でも痛めたのか、関節でも壊してしまったのか、リウマチあたりを患ったのか。布団からかろうじて身を起こしているものの、畳んだ座布団を背もたれ代わりに背中をつけたまま、立ち上がる様子はなかった。

 とはいえ気の強さはまるで変わっていらっしゃらない。攘夷浪士に対して丸腰でここまで暴言吐く人、わたしが知る限りでは他にいらっしゃいませんよ。ミツバさん? 彼女はここまで口は悪くない。田舎出身と仰るけれど、やはり元は良い家の御方なのだろう。

 どうでもよいですね。

 外套をかけた腕を、なんとはなしにてのひらで撫でる。かつての時点で相応に歳を召していたが、記憶よりもさらにずいぶん小さく、やせ衰えた老女をわたしは俯瞰した。

 遣手婆と顔を合わせたのはそれこそ、たった一年きり、最後は身請けの手続きの場であった。二度と顔を見せるんじゃないと辛辣に述べられたもので、以来わたしはこのひとに連絡をとることはなかった。春雨による吉原視察の際も、けっきょくお会いしていない。

 ……二度と顔を見せるなと仰ったひとに呼び戻されている。なんとも不思議なことですね。

「本当にすっ飛んでくるとは思わないだろ。攘夷浪士の親玉様、その手元に買われて、あくせく働いておきながらね」

「あいにくと義理がある御方のご意向を無視すると、その親玉様にわたしが叱られてしまいますので」

 兄上に〝おまえ宛〟として手紙を寄越されたのが、もう一昨日(おとつい)の話である。宛名は谷梅之助(※兄上が使う偽名のひとつ)となっていたのでとうとう耄碌したかしらこのひとと勘繰ったものだが、開くと、なるほどたしかに内容物はわたし宛であった。要約——そちらに買われた〝ミツ〟に用があるので一度吉原に寄越してください、とのこと。

 差出人はかつてわたしが身を置いた妓楼だった。送り主の名前までは書いていなかったが、遣手婆の筆跡はわたしが知っていた。そもそも鬼兵隊が馬鹿正直に現在の居所を住所として書くことはそうはない。一処指定する必要がある場合、流出経路を特定しやすいよう、時々に応じて指定場所は異なる。候補はかなり絞られた。

 遣手婆——正確には、遣手も引退したから元(﹅)なのだけど、わたしはこの呼び名が馴染み深かった。

「言うことひとつも聞きゃしない身で義理だのなんだの、よくもまあほざくね。……いや本ッ当、アンタろくに話聞かなかったものね。鳳仙もあいつ嫌がらせのつもりかと勘ぐったもんだよ」

「うふふご迷惑をおかけして」

 わたしは口元に手を当てて笑った。

「けれども、ちゃんと貰われましたよ?」

「身内同士の身請けなんざ〝貰われた〟じゃなく〝帰った〟でしかないよ。ウチの妓楼に支払われた代金だってもう単なる宿泊費と世話代みたいなもんだろ」

 一言えば百返ってくる。もともと口達者な人だったけれど、今も健在——むしろ昔より切れ味が鋭い。

「それにあたしゃあん時〝まともな男に貰われろ〟と言ったんだよ、それがなんだい攘夷浪士に引き取られて挙句の果てに指名手配犯って、真逆じゃないかッたくまともの意味わかってないだろ」

「お言葉ですが、まともな男は言うことひとつも聞きゃしない女なぞ、ふつうは貰わないものです」

「屁理屈ばっか捏ねるね。毒にも薬にもならないようなやつ、だまくらかして丸め込めばよかったじゃあないか」

「無茶言わないでくださいよぉ」

 適当にはぐらかすわたしに、遣手婆は長々と嘆息した——ぐ、と顔をしかめる様子。

「……お身体が痛みますか」

「……うるさい。アンタに気遣われるほどあたしゃ落ちぶれちゃいない」

「わたしが屁理屈ばかりなれば、あなたはつくづく、強情っぱりですがね」

 そのへんから座布団を引いてきて、わたしはその上に膝を畳んだ。

「それで何用ですか。真選組や幕府に出頭しろなぞは、当然お断りいたしますからね」

 天井裏に気配がひとり。攘夷浪士と会うからには警戒も必要だ。しかし捕獲を目論むには人員が少なすぎる——揶揄混じりに言葉を投げると、遣手婆は目を細めた。

「吉原を長らく放置しやがった官僚がなんだって?」

 このひとは前吉原の時代から遊女として働いていたと聞いている。つまり、天人襲来の際に起こった吉原大火を経て、新生吉原に再度身を置いた。……置かざるを得なかった。

 もとより前吉原のころより遊女になる人間とは、身寄りのない者か、拐かされた子どもか、実親に売り飛ばされたか、そのあたりに類する。なるというかならざるを得ない境遇だ。芸妓は多少ましな場合もあれど——あくまで、多少。目くそと鼻くそを比べる程度には、多少。

 憎悪のこもった物言いにわたしは「それではなんでしょう」茶化して逸らした。

「死にかけた身で最期に呼び出すのが犯罪者だなんて。我ながら、死に水を取るにこれほど不向きな者もおりませんのよ」

「バカタレ。あたしみたいなのはまだ死にかけとは言わねえのよ」

 蓮っ葉に言い放って「それこそ——」なにかを続けようとしたところで、遣手婆はふと言葉を止めた。

「……煙管とってくれ」

「え、いやです。わたし自殺幇助はごめんですから」

「ホント何言ってんだいこの小娘。普通に吸うんだよ」

「そのお身体でお煙草は黄泉路一直線ですよ」

「肺は患ってねえよ!」

「とはいえ煙にうっかりむせて唾でも誤飲して窒息死、だとか。実はあり得るお話ですから」

 わたしはにこやかに語りかける。口調こそ冗談じみているとしても本心だ。ありますからねそういう事故。

 第一、煙草は百害あって一利なし。肺がんに始まり呼吸器疾患リスクを大幅に高め、ニコチン中毒はしばしばひとを短気にさせる。せいぜい空きっ腹をごまかす効能があるくらいだ。

「さすがに予定外の死体処理は困りますので、回避させていただきますね」

「チッ……」

 遣手婆はふてたように目を瞑った。

 わたしが知る限り、このひとが禁煙に成功していたのは、晴太さんが生まれて地上に送り出されるまでのごくわずかな時期だった。なんなら晴太さんが匿われていた部屋から出るや否やパカスカ吸っていた。

「……鈴蘭太夫を知ってるか」

「鈴蘭太夫? ……傾国太夫と同一の源氏名でいらっしゃいますね」

 かつて日輪太夫のごとく、吉原に咲く大輪と誇られた女。

 定々公のお手付きと名高かった女。

 あるいは彼が暗殺の道具に用いた女。

 鈴蘭と聞いて、まず思い浮かべるとすれば花のスズランだろう。名前とかたちばかりは可愛らしく、花言葉も素敵なものが数多い。——が、花、茎、葉、根、すべてがアルカロイド性有毒物質:コンバラトキシンを含んでいる。皮膚接触ならば問題ないものの、経口摂取は厳禁だ。山菜と間違えて直接的に食するなどの死亡事故の他、スズランを生けた水に口をつけただけで、命を落とした例もある。

 コンバラトキシンの致死量は体重一kgあたり〇・三㎎と、青酸カリのおよそ五百分の一に相当する。成人男性ひとりにつき二十㎎ほど盛れば殺せる。魂の千分の一の重さ。

 綺麗な薔薇には棘がある?

 綺麗な花には毒がある、の間違いでしょう。

 源氏名をつけられたのが定々公に見初められる前か、あとなのか、わたしは知らない。あとだったとして——つまり、傾国の宿命づけられたあとだったとして——意図した名付けなのかも、知る由もない。偶然だとして、ずいぶんと因果な名前だと思うだけだ。意味を込めていたとしたら、それはそれは、とっても良い趣味でいらっしゃいますね。わたしは理解できませんけれど。悪趣味なので。

「同一人物だよ」

 わたしの愚にもつかないくだらない思考を、遣手婆はバッサリと打ち切った。

「なんならまだ遊女やってる」

 わたしはちょっと計算した。

 定々公がお座敷遊びと政略を並行していたのは、天人襲来以前から襲来直後の時期だ。政敵を排斥し、徐々に将軍職に近づいていたところを、先代将軍がやけにタイミングよく身罷り、将軍職に滑り込んだ。吉原が焼け落ちたこともありお座敷遊びもぱったりとやめた。

 つまり、傾城太夫は確実にそれ以前の時代だ。

「……失礼ですが、鈴蘭太夫はおいくつでいらっしゃる?」

「あたしと同年代。マあたし自分の生まれた年なんざ知らねえけど」

 いろいろ待ってほしい。

 同年代と宣う遣手婆が芸妓を引退して遣手に回ったのが、これまた二十年は前の話だ。吉原焼失と再建のタイミングで、遊女や芸妓の育成に知見のある人間が著しく不足していたのだとか。元遊女たる彼女が、芸妓中心の妓楼で遣手を務めていた所以はここに当たる。

 そうではなくて。

 そうではなくてどころではなくて?

 それほどにお年を召した方が、現役遊女?

「……本気で仰ってます?」

「あァそうさ」

 遣手婆は皮肉げに笑った。

「あの女、一丁前に心中立てなんぞとすかしてね。あのひとが迎えに来てくださるからと誰が貰われても誰に身請けの話を寄越されてもあたしがとっくに遣手に降りても、遊女の座にしがみついてたんだよ」

 遣手婆のてのひらがぎりと布団を握った。肉の落ちた細腕だ。動かさなくなれば筋肉は落ちる。脂肪も落ちているから、ほとんどは骨と皮——老化を差し引いても、食事量も減っている。

「足おぼつかなくなって鳳仙の取り締まりが厳しくなったって日輪太夫に土下座して頼み込んでまで。吉原に日が差すようになってもあいつはまだ夢に浸ってる。男は天国、女は地獄、中でもあいつは地獄の底見といて——呆れたやつだ」

 心からの侮蔑のこもった声だった。

 細腕は、力を込めているだけにしては、感情を殺しているだけにしては、大きく震えていた。神経も患っていることが見て取れる。

「たかだか男ひとり、そんなに惜しむモンかね。馬鹿馬鹿しいったらありゃしないだろ」

 罵倒している相手は鈴蘭太夫だ。けれど——憎悪と侮蔑の矛先は、太夫本人ではなく、その向こうにある。

 わたしは遣手婆の横顔を眺める。なにかを耐えるように顔をしかめ、彼女は少し呼吸して「……くだらない」と、言った。

「挙句に今や死にかけたババアさ」

「あなたのように?」

「あたしゃまだ死なねえよ」

 遣手婆はわたしの茶々をさらっと跳ねつけた。

 まあお医者様の余命宣告を気力で覆したどこぞのびっくり友人を考えると、遣手婆もなるほど、もう少ししぶとく生き延びそうな勢いではある。

「鈴蘭さ。そもそも遊女ってのは長生きする職でもねえし、あの女はなおさらだ。若い頃はなまじ美人だったせいでさんざっぱらろくでもねえ目に遭わされて、待てども待てども来ない男のため小指大事に守って神経すり減らして待ち続けてしがみついてたんだから、あたりめえだろ。太夫時代に稼いだ金は吉原に居続けるうちに消えてった。あのバカはつくづく隠すんで、医者にかかるのも遅くてね」

「……お友達が心配ですか」

「だァれがあんなうすらバカが友達だって」

 言うに事欠いてうすらバカ。

 わたしが無言で眺めていると「単なる同世代、同期ってだけだ」遣手婆は再度念押しした。

「そうですかあ、そうなんですねえ」

「その目をやめな」

 あらわたし、ごく普通に見ているだけですけれども?

「単なる同期だ。なんならあんな認知入ったババア、もう関わりたくもないね」

 同年代のお方がババアであるならばあなたもおばあさまですけれど。ゆえにこその遣手婆でしたね。わたしが愚問でした。

「同じぐらいのやつなんて、あいつの他だと、貰われてったか、死んだか」

 遣手婆の目がまたたく。

「……あいつももうすぐ死ぬのか。なら、あたしひとりになるだろうね」

 特にどうとも、感情のこもっていない口振りだった。意図的に感情を排したという様子でもなく、ただ、興味関心ばかりが消え去っていた。

 当然だろう。性産業に携わる人間は得てして平均寿命が若い。皮膚接触でも粘膜同士の接触は得てして病気をうつされやすい。身体を売る場所で売り物にならなくなるのを恐れて隠す遊女は少なくない。サービス業の店員をなんでも言うことを聞く道具だと思い込んでいる人間は実はそこそこいるものだが、特に身体を売る場所では殊更、割合が増える。酒で酔っ払い、気が大きくなって、力加減を間違えるお客様もいる。病・怪我——無論、堕胎の影響で母体も死ぬ場合だってあった。たとえば晴太さんの生みの親はそうだった。

 死は身近にあふれている。吉原の日常は、もう少しだけ、死に近い。

 日常には慣れるものだ。痛みには慣れるものだ。身体の傷は生きていればいずれ癒える。心の傷は、たとい空いた穴が塞がらずとも、人は生きていける。

 わたしはすこし身じろぎして、姿勢を正した。

「ともあれ。聞くも涙、語るも涙なお話でしたが」

「あたしゃ泣いてないけど? というか、アンタも乾いた目玉でよくほざくね」

 遣手婆の表情にはふたたび呆れがにじみ、先程の、茫洋とした様子はどこにもなかった。

「聞くも涙、語るも涙なお話でしたが」

「ああゴリ押すんだね。好きにしな」

 わたしは澄ました顔を繕って、言葉を続ける。

「けっきょくのところ、わたしは何故、こちらに呼ばれる羽目になったのでしょう?」

 思うところはないでもない。けれどわたしは鈴蘭太夫とは面識がない——わたしが所属していた館は芸妓を集めたものである。それも一年しかいなかった。遊女の大先輩ではあろうものの、それだけだ。

 つまり一連のお話、わたしにはすべてが無関係でしたね。

「幕府要人を殺して回ってんのはアンタのとこだろ」

「そうかもしれませんねえ」

「百舌鳥呼ばわりに喜んどいて今更とぼけんのかい」

「わたしだと思われている、という点に喜んだのであって肯定したわけではございません。お好きにご想像くださいね、というやつです」

「最後の標的は徳川定々か」

 わたしは小首を傾げた。

「どのような回答を望んでいらっしゃいます?」

「……止めろとは言わねえよ。アンタのやることなすこと口出すのは一年こっきりにしたってとっくに散々やったんだ。もう二度とやりたかないね」

 いろいろと口うるさく言われた記憶はある。覚えている限りで遡れば、毒なんざ入れてないんだから素直に飯を食えと怒鳴られたことが十何回。三味線ができると口を滑らせてからは指が切れるんじゃないかと勘ぐるほど練習させられ、所作ひとつひとつに口を出され、殺気を出すなとしばかれたことは何十回——殺気ってそもそもわかるものなんですか。脅されて晴太さんの誕生から育成までちょこっと手を出す羽目になったことも含むだろうか。

 遣手婆が震える手で布団を剥いだ。上体をゆっくりと起こし、覚束ない動作でわたしに向き直る。震える膝を立てて、布団の上で膝をそろえた。

 そうして彼女は背を曲げた。畳に指先をつける。頭を低くして、こちらも畳につけた。

「……」

 土下座だ。

「少し待ってくれ」

 わたしは正座を崩さぬまま、遣手婆を見下ろした。

「あいつが……鈴蘭が死ぬまでだ。死んだら煮るなり焼くなり好きにしてくれていい」

「ねえ。すこし、笑えませんよ」

「あたしゃ徳川定々が鈴蘭のトコ通ってた頃に会ったことがあってね、たしかにあいつは死んだ方がましなクソ野郎だ。鈴蘭を良いようにしていた大罪人だ」

 畳のいぐさと髪がこすれる。

「けど、あのバカ女が待ってるってンなら……」

「あなたにはお世話になったのでわたしとしても一度は見逃しますね。あまり滅多なことは言うものではありません」

 わたしは座布団から立ち上がろうとした。

 てのひらがわたしの膝を抑える。わたしのものではない。枯れ木のような老女の手だ。

「……百歩譲って」

 わたしはいよいよ、冷淡な声色を隠すことができなかった。

「我々としても目的があり、そのために計画があります。あなたがたとえばその計画を少しでも遅滞させるとして、それがあなたの私情でしかないとして」

 なにか——このひとは誤解していないだろうか? 遣手婆とわたしが別れて、七年以上は経っている。わたしは鬼兵隊の幹部として活動してきて、名も知れた。顔と名前が一致した手配書が出たタイミングこそ少し前でしかないけれど、それまでの間に殺した人数は三桁を超えている。

 既にわたしは、生意気な芸妓ですらないのだ。そもそも当時ですらわたしは既に数多の人を殺していた。このひとが知らない話で、だからあの物言いだったのだろうけれど——同じ態度で接せると思うならばそれは些か楽観的すぎる。

「たかだか吉原の元遣手でしかないあなたに、なにが差し出せると仰るのです」

 わたしは縋るてのひらを跳ね除けて、襟を掴んだ。腕力だけで引き上げる。

「わたしはあなたを縊り殺すことも造作ないというのに」

「この命ひとつで賄えるのかい」

 声はかすかに掠れていたが、はっきりとした言葉だった。

 遣手婆はわたしを見返していた。我が国にありがちな黒茶の瞳が真っ直ぐにわたしを見ていた。

 彼女の虹彩には、間近にあるわたしの顔がそっくりそのまま、映り込んでいる。かつて世話になった義理のある人を縊り殺すべきであるならば——わたしはこのまま殺せる。なにも感じちゃあいない無表情だ。

「この命ひとつで待ってくれるのかい」

 ……。

 冗談じゃない。

 掴んだままの襟首を引きずって布団に押し込める。掛け布団を上に乱雑に重ねて、わたしは大きく嘆息した。なんだか寿命を削られた気分だ。

「……わたし、あまり、そのような冗談は好きではありません」 

「本気に決まってんだろ」

 布団越しに、くぐもった声が返答する。やかましいこと。

「なお悪いというものです」

 わたしは跳ねつけた。座っていた座布団を退かして元の位置に戻す。

「聞かなかったことにいたしましょう。わたしこれでも、忙しいので」

「ミツ」

「申し上げておりませんでしたね。今は、ヒカリです」

「……アンタはあたしの言うことなんざ、昔っからろくに聞かなかったね。そもそも、素直に来たことに驚いたくらいだ」

 自分に重なった布団を震えの取れない腕でなんとか引き剥がして、遣手婆はふたたび起き上がった。わたしは彼女を一瞥して、それから踵を返す。まったく時間を無駄に費やさせてくれたものだ。

「今もかんたんに頷いてくれるとは思っちゃいなかったよ」

「よくご存知で」

 独り言なのか恨み言なのか小言なのかまるでわからない。ともあれ、わたしは素っ気なく言った。耳を貸していられるか。わたしは帰ります。

 襖に手をかけて「無駄なことはすべきではございません」と、最後に忠言じみた言葉を投げる。

「ああそうだね。だから——あたしもちゃんと準備したんだよ」

 わたしはちょうど、襖を開けたところだった。

 襖の前には人がいた。ちょっと気まずそうに首をかしげて、視線も若干ずらして、彼はピースサインを見せた。

「……ずっとスタンバってました」

 わたしはたっぷりと間を取って——取らざるを得なかった。絶句していたからである。

 それから、尋ねた。

「な、にをして、いらっしゃるんですか……?」

 あまりに動揺しすぎて声がひっくり返った自覚があった。

「そいつとはちょっと縁があってねえ。具体的には、吉原で勝手に商売してやがる着ぐるみペンギンもどきをとっ捕まえて、話し合いして、しゃあなしに店先貸してからの仲なんだが」

 情報量がありすぎて、三周回ってないに等しい説明なんですけれど。

 もう一度遣手婆を振り返る。

 いったい先程の悲壮な様相はなんだったのか、わたしの幻覚だったのか、今はニヤニヤと笑みを浮かべていた。してやったりとばかりの、悪童じみた笑みだ。遣手婆の隣に人影が降り立った——百華のひとりだろう、知らない顔だが格好はそれである。天井裏に潜んでいた気配と同一だ。

 彼女はなんとも妙な顔で、片手を掲げてみせた。普段苦無を握っているはずの手に、今は端末が握られている。いわゆるスマートフォンといわれるタイプの通信端末だ。わたしも持っている。わたしも持っているのは置いといて。

 まるで場面にそぐわないけれど、だからこそ嫌な予感しかしない。

「アンタの兄貴、攘夷党のお頭さんと敵対してんだってねえ? 密会してたって話を写真付きで流したらちょっと面倒くさいことになるんじゃないのかい」

 まずい。

 まずいまずい。

 だいぶまずい。

 岡田さんの襲撃は独断専行だったといえ——なんだかんだで小太郎さんは、あのときしっかり死にかけていた。少なくとも岡田さんがきっちり殺せたと誤解する程度にはダメージを受けていた。部下の方々も、桂小太郎が殺されたと誤解なさったからこそ乗り込んできたのである。発端自体は誤解にしても、よりによって鬼兵隊の一員が攘夷党党首を殺しかけた結果だけは事実だ。

 加えて、兄上は一応しっかり銀さんと小太郎さんを春雨に売り飛ばしたのだ。身柄は確保できなかったけれど、それだけだ。わたしたちは間違いなく敵対していて——中田さんみたいなそのへんに信念とか置いてない侍モドキならばともかく、大々的に発表されるとまずい。わたしが死ぬんじゃないかと思うほど怒られるのは確定しているとしてそれだけではない。

 まず、部下で幹部でそれ以上に妹たるわたしの行いが直結する、兄上のお立場と評判がまずい。

 そしてさらにわたしの命がまずい。

 岡田さんは兄上と銀さんに脳と共感覚的な視界を灼かれていたけれど、岡田さんほどじゃないにしたって、兄上狂信者の部下っていなくもないのである。わたしはわりと把握している。何故ならそのような人々は兄上との血縁だけで取り立てられたわたしに対して、過剰な敵意か、過剰な信頼か、どちらかを向けてくるので。そしてそんな方々の前で粗相をやらかすと、わたしが死ぬので。さながら鬼兵隊の船から突き落とされた際のごとく。全部岡田さんを引き合いに出してますね。アレは本当にインパクト大きかったので。

 攘夷党党首と密会?

 絶対暗殺者何人か出ますね?

 大抵の人ならいなせる自信があるけれど、罷り間違って殺してしまいかねない。今のタイミングでバカみたいな理由でうちの隊員を減らせるわけがない。人生大一番の花火がため、我々なんとか、定々公を殺して、烏を引き摺り出そうとしているのに。

 端末を破壊——百華はともかく、さすがに小太郎さんを相手とって負傷者なしは無茶。

 そもそも全員斬り殺せば——わたし今、無手。というより端末から送信、ないしクラウドにアップロードされていたらいよいよわたしは打つ手がない。

 第一なんで攘夷党も詰むようなこと——ええそうですねえ、兄上のお立場を追い込むような振る舞いをわたしができるはずありませんものね。できるはずがないということはつまり詰むはずがないということですね。ハイハイわかりました。ふざけないでほしい。

「アッハハハ、アンタそんな顔できたんだねえ!」

 わたしの顔を肴に大爆笑されるといよいよやり場のない感情が腹のうちで暴れますねえ!

「何年も前の義理ごときですっ飛んできてくれるなんてねえ、ありがたいこったよ。なァにアンタらの計画を止めろとまでは言わねえさ。ただ殺す前に——」

 遣手婆の手は未だ震えている。これは単に彼女の持病によるものなのか、それともうまくはめられてたいそう上機嫌な大爆笑の間隙のせいなのか、まるで判別はつかない。ありえない。

 とはいえそれでもたしかに、彼女の指はわたしを指し示した。

「鈴蘭のとこまであいつの想い人引き摺り出して会わしてやってくれ。ついでに土下座で謝らせて靴舐めさせて市中引き回せ」

 要求増えてませんか。

「オババさん、市中引き回すには俺たちが市中引き回される側だ。少し無茶だな」

 なに普通に話してるんですかあなたは。

「アじゃあ市中引き回しはいいよ。吉原くらいで」

 あなたもなに妥協したかんじになってるんですか。

「安心しな。人手はつけるからさ」

 遣手婆の指先がわたしから逸れて——わたしの、少し向こうに向けられる。

「よく働く男だよォ、そいつは」

 わたしは指先を視線で辿った。振り返れば、小太郎さんはやはり微妙に顔を逸らしていた。目も逸らしたままだった。

「まあ。なんだ。ウン」

 彼はもごもごと言った。

「乗りかかった船というやつだな」

 なんだかわたしまで遣手婆のごとく手が震え出した。

 これは……もしや……激怒と呼ばれるものでは……? 腹の底から怒りが湧き上がってくると身体も震え出すようです。わたしはひとつ学びました。ろくな学びではない。

 一説には、感情を抑え込むには深呼吸が効くという。副交感神経を無理やり優位にすることで身体から脳みそを誤魔化す機序だ。わたしはしばし、吸うには腹まで息を溜め込むように、吐くには肺すべて絞り出すように、何度か呼吸を繰り返した。

「……す、」

 そして声を絞り出した。

「末永く、苦しんで、長生きしてほしい……」

「解説すると、ヒカリにとって最上級一歩手前の罵倒だ」

 そして小太郎さんは一旦黙ってほしい。

「どうだろうねえ、もう充分長生きしたからなァ」

 遣手婆は心底から興味なさげに適当ほざいた。末永く苦しんで長生きしてほしい。本当に。

 苦しみに満ちた生が無為に続くことよりつらいこともなかなかございませんがところでわたしはそのぐらい呪ってもよいのでは? お世話になった方といえども何故進退窮して実質一択系の罠にがっつり嵌められているんですか? おかしくないですか? わたしがなにをしたっていうんですか?

 幕臣暗殺?

 わたしのせいなんですけれどそれにしてもわたしのせいかなあ!? よしんばわたしのせいだとしてそうだとすれば河上さんも巻き込まれるべきでは!?

 

   ➤

 

【 すみません帰宅が遅れます。 】

【 なにかあったか 】

 

【 なにやらかした? 】

 

「……こ、今回ばかりはわたし悪くない……」

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