【完結】春去りて、春風は未だ   作:初弦

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仏教わからない。


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前略:

 早撃ちとマッチポンプスナイパーであれば前者の方が確実に格好いい。

 

   ➤

 

「おあ!? とと」

 吉原の一角。元妓楼たる館。土間を越えて廊下に上がったところで、いよいよずると小太郎さんの足が滑り、わたしは咄嗟に足を広げるようにして踏ん張った。

 お、重い!

「ぐ、す、すまん……」

「だ、大丈夫で……いえでもごめんなさい、ふつうに、重いですね。ちょっと足をこう……なんだかダメそうな気配ィ……あなたホントに血清打ったんですよねえ!?」

 体格差というものはじつに厄介だ、もはや小太郎さんを支えているのか押し潰されないように踏ん張っているのか自分でも判別つかない。

 わたしは半ば悲鳴をあげた。

「打ったが……他にも骨が折れたり打撲だったり刺されたりはふつうにある……」

 それはまあそうでしょうねの気持ちと、夜兎と対峙しても生き延びたらしいひとたちの身体能力ってあんまりアテになりませんねの気持ちと。

「……なにやってんだい、アンタら」

 物音に気づいて起きてきたらしい。廊下の奥から現れた遣手婆が、杖に寄りかかりながら目をひそめた。わたしは小太郎さんとほとんど共倒れしそうだった。

「どうしたそいつ。まるでボロ雑巾だね」

「あなたの依頼のせいですけれども!?」

「はーん」

「はーんて」

「おぉい、誰かいねえの。我儘娘がうるせえんだ、しゃあねえから手ェ貸してやりな」

「ありがとうございます一言二言多いのどうにかなりません?」

 どなたかが小太郎さんの肩をつかんで、車椅子に座らせてくださった。「う……助かる」「すみません」「いいよいいよ、持ちつ持たれつ。にしても、手ひどくやられたみたいだねえ。戦艦とでもやり合ったのかい、どうなのヒカリ?」「しいていえば烏、と……」てっきり百華かと思って多少会話を交わしてから、わたしはぴしりと固まった。

「……ひのわさん……?」

「ばれちゃった」

 日輪さんはぺろりと舌を出した。

「——これつまりあなたの車椅子では!? あなた足は大丈夫なんですか!」

「む、それはさすがにまずい。今すぐ立っ……」

 小太郎さんが起き上がろうとして、ぐらりと振れた。車椅子の手すりに咄嗟に手をついて、彼は脂汗をかいている。

 ……このひとはこのひとで、他人を慮ってまずいだのなんだの、言ってる場合じゃなさそう。

「はいはい、いいから座りな。私だってちゃんと杖持ってるさ。座ってばっかじゃ腰もしびれてねえ、たまにはリハビリしないと」

 日輪さんがコンと松葉杖をついた。肩を抑えるように押されて、小太郎さんは呆気なく車椅子に逆戻りだ。日輪さんの力で押し込めるのは相当である。

「それにここ、おばちゃんのために一階はバリアフリーだから安心おし」

 まあたしかに記憶よりもやたらと手すりが増えているので、そうかなとは思いましたけれども……。

「月詠がさっきようやく……けっこうやられた様子で帰ってきたんだ。晴太を誤魔化して寝かしたんだけど、マ、あの子ってば慕われてるからね。百華の子たちでつきっきりだ。ってなると、気になるのはアンタたちだろう」

「……潜伏していることに、気づいていらっしゃいましたか」

「おやぁ、忘れたの? あたしゃ日輪太夫だよ? 自分の足でろくに立てなくたって、地下吉原で私が知らないことなんざひとつもないのさ」

 彼女は上手に片目をつむってみせる。

「おつかれさま。鈴蘭さんのために、いろいろ、ありがとね。あんたの場合はおばちゃんのためかな?」

「……ため? こちらは脅されたんですよ」

「アハハ。いかにもやりそ〜」

 豪胆にも遣手婆をおばちゃんと呼んで赦されるひとを、わたしは日輪さん以外に知らない。そのようなひとにすら知れ渡っている、遣手婆の苛烈な気性がこちら。春雨と同行するような鬼兵隊幹部、指名手配の危険人物を脅迫することさえも、いかにもやりそうなんですね。勘弁してくださいよ。

 嘆息して、わたしは小太郎さんが座った車椅子を押していった。さっさと寝かせてこちらは返そう。

「不甲斐ない」

「まじめなひとだねえ」

 小太郎さんは絶不調にあっても、日輪さんにすら呆れられる生真面目さを発揮する。部屋に布団を敷いて、身を横たえさせ(今度こそ肩を貸した。運びづらかった……)今の今まで着たまんまだった見廻組の制服を脱いで畳む。わたしはようやく日輪さんに頭を下げた。

「ありがとうございました」

「いやいや」

 車椅子を器用にてのひらで回転させて、すとんと座った日輪さんは杖を畳む。やはり杖で歩くリハビリというのも口実、まだそこまで動くものでもないらしい。

「アンタもなんだかんだで、怪我してるだろ。少し休んどきな」

 ぽんぽんとてのひらがわたしの膝をたたいた。

「良くなったら、こっちにも顔出してよ」

 ニッと日輪のごとくまばゆく微笑む人に、わたしは目を細めて「……気が向いたらば」と、ちいさくつぶやいた。

 小太郎さんほど手傷は負っていないし、毒も打たれていないけれど、まあさすがに烏を数多に相手取って無傷とはいかない。わたしは天を振り仰いで、この三・四日——とくに、昨日の流れを脳内でたどった。

 敵対攘夷浪士とともにあくせくと江戸城侵入の計画を立て、見廻組として入れたはいいものの騒動のせいで追われたり潜伏したり牢に忍び込んだり。武器庫の爆破をしかけて、大筒をたくさん斬り落として、着替えのついでに連絡したらば城まで突撃、かと思えばすぐさま引き返してマッチポンプ劇場、運び屋よろしく正門まで腕を届けたあとはまたお城に逆戻り。壁登りしたあとは船に飛び乗って、烏どもを鏖。

 ……やることが、やることが多かった……。

 本ッ当に、多かった……。

「……あ、手当て」

 やることが多かったしなんならまだ多いのである。休んでもいられない。

 わたしはよいしょと立ち上がる。とりあえず今日はもう一仕事しませんと。

「……ううん……」

 救急手当のセット一式を探し出して部屋に戻ってくると、小太郎さんが布団に頭をうずめて唸っていた。

「そもそも寝苦しくありませんか。そのまま転がしておいて、なんですけれども」

 わたしは布団を雑に剥いて、小太郎さんを仰向けに転がすと、見廻組のジャケットのボタンを開けていく。

「……破廉恥」

「それそろそろ飽きません?」

「飽きるとはなんだ飽きるとは……」

 声にも覇気がない。「袖抜きますよ〜」「うん……」さすがに弱っている、と思いながら、両袖を抜いて抜け殻になったジャケットを畳んだ。シャツのボタンもゆるめる。胸から腹にかけてざっくりと斬られて血液が凝固し、それでも未だに血がにじんでいる。内臓までは損傷してなさそうだけど。

「縫った方がいいかな……」

 薬機法が適用されるならば吉原に麻薬は出回らない。であれば麻酔はあるだろうか、と探したが、さすがになかった。なんなら、救急箱に針と糸こそあったけれど、どう見ても裁縫セットのそれだ。……いろいろと大丈夫かな?

 とりあえず傷口を清水で絞ったガーゼでぬぐう。念のため小太郎さんにタオルかなにか……と思うと、本人がさっさとジャケットを手繰り寄せていた。うーん覚悟を決めた顔をなさっていらっしゃる。

「……お仲間のところの方が腕の立つ医者はいますかね?」

「エリザベスしかいない。エリザベスも専門ではないので、おまえが縫うのとあまり大差はない」

「そっかあ……」

 地上の医者を連れてくるとどちらにせよわたしたちが詰む。わたしは一度部屋から出て、湯を沸かした。裁縫セットからナイロン糸を選び出して、針とともに煮沸消毒する。針はついでにペンチでねじ曲げた。どうせ救急箱の中に入っていたなら正規の用途では使うまい。

 皮膚に針を通すと、小太郎さんが息を詰める音がした。ジャケットを自ら口に噛んでいる。歯を食いしばりすぎるとときには砕ける。人体で最も硬い部位とは伊達ではない。布を噛ませて衝撃を低減するのはよくある手法だった。

 もとの皮膚の位置を見極めて合わせるように針を通す。癒着の位置を間違えると傷痕が目立ちやすい、とは自らの傷の経過を見て知った事実でもあり、鬼兵隊にまだ医療班が成立していなかった時期に駆り出されて学んだことでもある。最近は医療班はもちろん、食堂にも専用の人員が割り振られるようになったので、わたしはめっきり離れていたけれど。できないでもないわけですね。腕を縫いつけるのはさすがに無理ですが、このくらいならば。

 ぷつと通して糸を縛り、続いてもう一針。ただただ無心に縫い付けていった。

「はい終わり」

 ぜ、と息を吐く小太郎さんを横目に、包帯を巻いていく。

「次は下です」

「くそっ、身ぐるみ剥ぐというのか……」

「剥ぎますよ〜」

 まだ軽口叩く余裕があるみたい。

 ベルトを外してスラックスを引く。治療に身ぐるみ剥ぐもなにもないけれど、すね毛剃られていらっしゃるのはふつうに気になってしまった。かまっ子倶楽部のアルバイトの服装規定だとかだろうか。

 外れていた関節の位置を整形して(……うめき声も上げない)骨も折れている様子なので、添え木に雁字搦めに固定。

「水も飲みましょうね」

 背を支えてコップを差し出せば、小太郎さんは素直に口をつけた。毒を盛られるだとか、考えている余地もなさそうだ。わたしはその隙に、整形中にとうとう引き破られてしまっていたジャケットを救出した。無惨な姿である。廃棄ですねえ。

 コップが空になったところでこちらも回収。

「これでおしまい。お布団かけますよ」

「うむ……」

 掛け布団をかけ直す。布団の端を直して、ついで、目元にかかってずいぶん邪魔っけそうな横髪を指で払う。兄上やわたしの髪質は細くて癖がつきやすいので、同じサラツヤでもこういう直毛一直線は、何度見ても不思議な気分になれる。

 ぼんやりとまばたきした小太郎さんが、不意に、わたしのてのひらをつかんだ。

「なんですか」

「……手相を見ている」

「それ、昔よく仰っていましたね」

「おまえは生命線が長い」

「ふしぎ〜……」

 こんな生活送っているのだから、絶対短そうなのに……。

「キャバクラだとかでは、手相を見ると言ってベタベタ触る手口が横行しているそうですよ」

「なんと軟派な。手相は奥が深いのだぞ。ほらここよく見なさいたとえば」

「解説が始まってしまった……」

 よく見ると瞳の焦点が若干怪しい。このひととて連続で戦闘を行い、途中毒まで打たれて、あげくに麻酔無しで傷を縫われたり関節を戻されたり骨折を固定されたりしているのだ。頭のネジの二本や三本くらい外れるだろう。……それはいつも? そうかも。

 ぺらぺらと喋り続けるかたちのよい横顔をしばらく眺めて、わたしは小太郎さんの目元にもう片方の手を乗せた。アイマスクの如く覆っておく。

「おい。見えない」

「見えませんねえ」

「これが俗に言う〝だーれだ〟とかいうやつか」

「そうかも」

「ヒカリだ」

「そうですね」

「当てたのだから、退けなさい……」

「ええ〜カンニングみたいなものでしょう?」

「……ずるなどしていない……」

 中身のない相槌を打っていると、だんだん口調がゆるやかになってきた。わたしはしばらく、益体もない話に付き合っていた。

「……松陽、先生は」

「……はい」

「罪など……」

 わたしは少し黙った。

「不届き者を……生んだが罪(とが)と、いうならば」

 小太郎さんの目元は、他ならぬわたしが手で隠しているので、見えない。

 てのひらが少し濡れる感触。

「言われたんですか?」

 返答が完全になくなって、手相などと言い出してつかまれていた手からも力が抜けたところで、わたしはようやく目を覆っていたてのひらを外す。小太郎さんの瞼は閉じていた。鼻の上に手をかざす。規則正しく呼吸が行われている。

 ……これ本当に完全に寝ましたねえ。

 睡眠薬を盛った甲斐があったというものだ。今後は小太郎さんも、たとえ意識朦朧としているとしても、人から差し出される飲み物には気をつけてほしい。

 ……わたしの経験則でいえば、このひとが睡眠中にも目を開け始めるのは、次のレム睡眠あたりである。今のところその気配はない。たいていの人間は、睡眠時にはまずはノンレム睡眠まで落ちていく。というわけで小太郎さんが目を開けるとすれば、だいたい一時間半後ぐらいが目安である。あの寝方の最中、果たして視界が見えているのかは——松下村塾永遠の謎だ。

 寝苦しいのか、熱と痛みのせいか、眉間にしわが寄っているので、指で伸ばしておく。熱がこもった体温にわたしは目を細めた。……今なら本当に、抵抗もなく殺せてしまいそう。

 日輪さんにまで潜伏場所と割れているなら、ここで事を運べば、連鎖的に下手人まで銀さんに貫通しかねない。怒れる兄弟子はとっても怖く、満身創痍に鞭打ってまでわたしを殺しに来そうだ。わたしはまだ死ねない。兄上だって勝手に小太郎さんを殺せばわたしを叱るだろう。

「……」

 それはそれとして、嫌がらせくらいはしておきたいかも。発端は鈴蘭太夫、諸悪の根源は定々公、元凶は遣手婆にしても、このひとさえ加担しなければ、わたしは変な面倒事になぞ関わらなくて済んだのに。

 手持ち無沙汰に、小太郎さんの結ばれていない髪を一房つまみ上げる。薄藍の髪紐を一度解いて、彼の髪先にくるりと絡みつけて……けっきょく、やめておいた。このひとは本当に突拍子もないので、寝ている間に勝手に返しました☆とのたまえば、認めてくださるどころか、怒髪天を衝いて突き返しに来そうである。死出の旅路の先は長い。嘆息をのみ込んで、わたしは髪を離した手を小太郎さんの頬に添えた。

 彼の左頬を覆うガーゼは、先程青痣を保護するためにわたしがつけたものだ。ガーゼを避けて、小太郎さんの頬骨の感触を指の腹で確かめる。鼻筋から唇までを撫でて、わたしはそっと身を寄せた。

 彼の唇は乾燥してかさついていた。ケアを怠っていらっしゃるのかも。きちんと保湿しておくと良いですよ。攘夷志士にそんな暇はないのかしら、と思うものの、でもこのひとたちってクリスマスパーティしてるみたいだし。

「ふふ、奪っちゃった」

 こんな女にいいようにされて、あげく寝込みを襲われて、このひとってばまったく可哀想。

「お大事に」

 救急箱に諸々しまい直して、わたしはお部屋を辞することにした。おやすみなさい。良い夢を。……あの調子で、安眠を得られるものかどうかは、知りませんが。

 自らの手首を撫でさする。わたしも自分の手当てをしないといけない。奈落との戦闘のせいもあるのだけど、さっき小太郎さんを支えるついでにうっかり手首ひねったんですよね。手当てが終わったらお借りしたお着物を洗濯して、干して……そうしたらわたしもいよいよ寝たい。一昼夜働き通しは疲れてしまう。もうそろそろわたしとてアラサーなんですよ。徹夜はあんまりしたくないの。

 一眠りしたら——そのあとは。

 ちょっと用事がございまして。

 

   ➤

 

 依頼を引き受けたからには報告義務がある。たとい依頼を受ける経緯自体が素っ頓狂七転八倒クアドラブルアクセルよろしく何回転かかけた意味不明状況にあろうとも、その点だけは変わらない。

「——というわけで、鈴蘭太夫ご執心の情夫は現在絶賛入院中。茂々公が征夷大将軍のお立場について辞意を表明し、定々公の身柄は最終的には江戸城地下牢に収容されました」

 後回しにしていたご報告だ。わたしは歌うように並べ立て、階段を降りていく。

「どこぞの吉原の救世主もあなたの脅迫共犯者も、血清を打ったといえども、奈落一群およびかの首領と対峙し、まァ散々ぱらボロボロですね」

『……月詠が似たようなこと言ってたね。あの娘もずいぶんやられたようだ』

「マそれこそ前線に残られていらっしゃいましたからねえ」

 ワイヤレスイヤホンを押さえてわたしは応えた。

『逆にアンタはずいぶん軽傷なようだったけどねえ? なにしてたんだい』

「わたくし、要領いいのです」

『ハッ』

 鼻で笑われた。

 実際わたしが奈落と対峙したのは、定々公と対面したほんの一瞬と、船内大乱闘くらいである。強敵を相手取る必要はなかった。経験の浅い雑兵ほどわたしをなめてかかるのだから倒せない道理はない。奈落の手口をよく知っている今井さんまでいらっしゃったのだし。展開によっては、もしかしたらば六転さんの城外脱出でも大多数を相手取る戦闘なぞ必要だったかもしれないが、そよ姫の胸を打つ名演説(と、ちょっとした演出)によって大幅にコストカットされていた。いやはや助かりましたね。

 ……二、三年後だったら、あるいはそもそもあのお姫様が大事に宝石箱に仕舞われた姫君として扱われるのではなく、きちんと帝王学を受けていたら、そよ姫は本当に鬼兵隊の要注意人物として台頭していたかもしれない。ただでさえ将軍殿がうっかり覚醒してしまったのが事の顛末だったのだし。

 いろいろと、運が良かったですね、我々。

『そんで。……今どこにいるんだい、アンタ』

 遣手婆は仰った。彼女はきっと今、部屋に展開されたホログラムディスプレイ越しにわたしの話を聞いていて、わたしの衿元につけられたカメラレンズを介して薄暗い石造りの廊下を見つめている。

「そうですねえ。あなたの要求が、なんでしたっけ。鈴蘭太夫に情夫を引き合わせて、定々公を土下座させて靴舐めさせて、吉原引き回し? 吉原引き回しは月詠さんに怒られてしまったので、できれば城中引き回しでご勘弁いただきたいのですが」

『……あたしゃ、アンタが今どこにいるのかって聞いたんだよ』

「薄々お察しじゃあございませんか?」

 声が少し弾んだ自覚があった。

「さすがにあれだけの惨事です。我々の計画にも修正が行われました。おおよそ一週間の繰り上がりです。とはいえわたし、隊でもけっこう甘やかされていますので」

「自覚があってなによりだ」

「あら兄上」

 とある鉄牢を前にして、兄上はわたしを振り返った。兄上を上から下まで眺めて、わたしはしみじみと言った。

「あなた、僧衣がまるで似合いませんねえ」

「似合うやつのが少ねえだろ」

 兄上は鼻を鳴らした。

「拙者はどうだ」

 河上さんが両手を広げた。こちらも奈落の僧衣だが、サングラスをかけていて、三味線を背負っているので半分くらいはいつも通り。

 で。

「……に、似合いませんねえ。えっ、うそ、ちょっとびっくりするくらい似合わないかも……」

「くっ……」

 そんなに悔しがることあります?

「そもそも我々では武市さんが似合うかどうかでは。……そういえば武市さんは?」

「てめえがここ数日放置しきりの事務仕事を巻き取らせた」

「あら〜ほ、ほんとにスミマセン……」

「おまえは……」

 兄上は言葉を切って、先程のわたしのごとく、わたしを上から下まで眺めた。

「おまえの背丈じゃ、小僧でも通用しそうだな」

 わたしはにこりと微笑んで「ッテ」兄上の肩を平手でしばいた。錫杖を使わなかったのは温情である。

「それに武市まで来たらいよいよ幹部総掛かりになっちまう」

 兄上は、しばかれた肩をわざとらしくさすりつつ、話を戻した。

「なんせてめえがまた子まで駆り出しやがったんでね」

「ばれてる〜」

「ばれねえとでも考えてたなら躾け直す必要があるな……」

「躾け直すもなにも、あなたに躾けられた覚え自体が本当にないんですよねえ……また子さんを叱らないでくださいね」

「そう思ンならあいつが艦にたんまり乗せた江戸土産は責任持って弁別しろよ」

「なにそれ聞いてない」

「中田が山と運ばされてたぜ。確実におまえが毎回土産買ってくるのがうつってやがる」

「ぬ、濡れ衣……」

 とぼけた会話を交わしながら、牢の前まで歩み寄る。べべん、と三味が鳴った。

 ご立派な恰幅はそのままに、罪人らしくただ沙汰を待つばかりの白装束。髷は切られていない。

 定々公は鋼線に吊り上げられている。

「お手数おかけしています、河上さん」

「ヒカリが頭が上がらぬと噂の御仁の頼みであれば、興味も湧くさ」

「ねえそれやめてください……」

「いやはやずいぶんしおらしい。ぬしにしては珍しいことに」

 河上さんが揶揄うように口角を上げて、定々公に視線を移した。

「さて——まずは土下座だったか」

 べべん、と音が鳴る。定々公は勝手に膝を畳まれて、てのひらを冷たい石につけた。手の甲に鋼線が食い込んで血をにじませる。

 元将軍が唸り声をあげた。

「き、貴様ら……」

「土下座にしちゃあ頭が高ェな」

「たしかに。ほれ、下げてもらおうか」

 兄上と河上さんの会話とともに、べべん! とまた三味がかき鳴らされる。人の骨まで断てる鋼線がゴリゴリと後頭部に食い込んだ。

「人々を操り喜怒哀楽すら愉悦の肴と高みの見物をしていた御方が、糸に操られてさながら傀儡。ある意味では応報にございましょう」

 わたしは講評した。ある種の前衛芸術——と言ったら専門の方々に怒られてしまいそうだ。今のは、なしで。

「お次は靴をなめさせる……うーんとはいえ、わたしちょっとこのおじいさまになめさせる草履がもったいないやも……」

「俺はごめんだね」

「拙者もさすがに勘弁してほしいものだな」

「であればこちらはいったん保留として。このまま城中歩かせることも可能ですか?」

「頑張ればいける」

「だ、そうです。いかがいたしましょうか」

 わたしは問いかける。お夕飯の献立を尋ねる気分だ。襟につけたカメラを掲げて、牢の中で土下座の姿勢をとった男を、よく見えるようにする。

 ずいぶん長い沈黙があった。

『……いらねえよ』

 やがて遣手婆は言った。

『情けねえツラだ。もう見るのも飽きた』

「アラそう」

 気の抜けた声を上げたわたしに、河上さんも話の行く末を悟ったようだ。鋼線が解かれる。

「それではまあ、あとはあなたは、このひとにご用事はありませんね」

『アンタは用事が済んだら一旦戻ってきなよ』

「ええ〜わたしそろそろ艦(おうち)に帰りたァい……」

『写真のデータ消すんだろ。目の前がいいんじゃねえのかい』

「やだ冗談♡」

 わたしは声を半オクターブ跳ね上げた。

「何様誰様あなた様の仰る通りにええもちろん原本とコピー全部ですよ複製とかなしですからね本当アッウソでしょ切ったこのひと! ひどい!!!」

「つくづく姦しい」

「切られるのもさもありなん」

 そしてこのひとたちはうるさい。ハァと溜息をこぼしてわたしはワイヤレスイヤホンを耳から抜いた。もう用はない。ケースに放り込んでパチンと閉じて、定々公に視線を戻す。この状況でなおも我々を睨み上げる肝の太さだけは評価してあげてもいい。

「私をなんと心得る。売国奴と蔑まれながらもこの国を護ってきた、私こそが国家の父徳川定々——」

「〝不届き者を生んだが罪(とが)〟」

 よく回る舌を半分ほど聞き流しつつ、わたしは先だって知った言葉を復唱した。

「あの烏が言う話とも思えませんしねえ?」

「……へえ? 主語は」

「〝先生〟でしょう」

 牢の格子をなぞる。たとえばこの地下牢のどこかに、あのひとはいたのだろうか。芒色の髪のひと。おだやかな春の笑みを浮かべていたひと。春雷のごとく突拍子もないひと。我々の幼年期を象徴した御方。

 春の記憶は、火の海に包まれて終わる。あのひとはわたしたちを置いて行った。わたしたち生者は、故人を過去に置いていく他にはない。

「小太郎さんがこぼしてましたよ。あいにくわたしは居合わせませんでしたが……銀さんと一緒にでも言われたのかしら」

「あの生真面目電波でも弱るモンか、てめえの前で吐くなんざ」

「まあ手ひどくやられたうえにわたしなんなら薬も盛りましたしね。思考回路が鈍っていらっしゃったのでしょう」

「怖ェ女」

 兄上は無感情につぶやいた。

 もうちょっと心こめていただいてもいいですかね。

「ところで、国家の父が生んだものとは果たしてなにかしら? はい河上さん早かった」

「拙者、手を挙げてもおらんのに。……しかしそれは無論、国の現状にして、全国民ではないか?」

「ですよね〜。つまるところ、よくお考えなさって定々公。あなたが仰る生み出した罪(とが)とは、本質的にどこに帰結するものなのか」

 生み出したことに罪を求めるならば、師よりもなによりもまずはじめに、親(﹅)こそが問われるべきではございませんか?

 ……所詮は単なる言葉遊びに過ぎない。我々鬼兵隊が為す所業は、あくまで我らが鬼兵隊に基づく罪業だ。定々公に科せられる咎ではない。同様に——〝先生〟に科せられる道理もない。

「ともあれお勤め、今までご苦労様でした! 素敵な我が国父殿」

 この世は因果応報とはいかず、勧善懲悪ともならない。善は面白半分に手折られて、悪はよりひどい悪に踏み躙られるだけに過ぎない。

 わたしたちの所業は定々公にとっての因果応報ではない。彼の死はただ単に、我々が罪業の果てに至るまで、最初の狼煙になっていただくだけのこと。

「六道輪廻をはじめから、どうぞ地獄道よりやり直していただきましょう」

「なぁに、嘆くこたァねえよ。すぐに世界の首も引っ提げて、地獄(そっち)に行くからよ」

 兄上が刀を抜いた。つやめく鋼を手に、ゆるやかに頬を上げる。

「同じ咎なれば同じ地獄に堕ちるらしいぜ? だったらてめえもすぐに会えるだろうさ」

   ——斬、

「先生によろしくな」

 

   ➤

 

「これにて手打ちも一段落。となると、暇するか、そろそろ」

「そうだな。牢は開けたまんまの方が見つかりやすいか……」

「あ、わたし吉原に寄らねばならないのもそうですけれど、お着物ご返却して靴拾ってきますのでお二人ともお先にどうぞ」

「靴……?」

「うっかり落としっぱなしでした」

「灰被りかおめーは」

「サンドリヨンに関しては、わたしは隼が薔薇のサンダルを持ち去っていく方が好きですけれども……」

「ロドピスはだいぶ内容違ェだろ」

「でも類型でしょう」

「ぬしらの教養の振れ幅がいつまで経ってもよくわからん」

「兄上の教本が破れていなかったら多少解説できたのですけど……あ、ちなみに、兄上いります?」

「は? なにが」

「シークレットブーツです、男物で十五㎝くらい盛れるので銀さんも悠々越せッイダダダ兄上首はヤです指めり込んでます爪刺さってます貫通します!!」

「おぬしら、緊張感というものはござらんのか」

「この愚妹にねェだけだろ」

「ふーん」

「万斉てめえなんだその目は」

「いやいやそんな」

「ね゙え゙離してくださいってば!!!」

 

   ➤

 

 畳んだお着物をそっと混ぜて(お貸しくださりありがとうございました……)御所のお庭に足を向ける。たしかこのあたり、人が隠れられる程度の茂みの横にもうひとつ小さな茂みがあって……。

「あ、った」

 小さな茂みの中に無造作に押し込まれた靴が一足。手を伸ばして抜き取り、はりかけられていた蜘蛛の巣を払う。

 そんな悠長なことをしていたからだろう。

 わたしの首筋には抜き身の刀が突きつけられた。

「御所侵入で現行犯逮捕ね」

「……ドーナツで買収できません?」

「いいよ」

 いいんだ。

「どのみち今は、鬼兵隊の幹部は逮捕できないもの」

 それでは先程の現行犯逮捕発言はなんだったのかしら。

 ともあれ、チン、と納刀してくださったので、こちらもようやく動くことができた。靴を揃えて風呂敷に包んで、わたしは立ち上がる。

「今井さんは、警邏ですか?」

「ううん。ちょっと野暮用……」

 今井さんはゆるりと首を横に振ると、不意に目をまたたかせ、それからわたしを見据えた。

「あなたも来る?」

 わたしもまた、目をまたたかせる羽目になった。

「来るなら、今はやりあっちゃだめ。あとドーナツ上乗せ」

 複数件の要求にわたしは少し考える。やりあっちゃだめ、ということは彼女の野暮用は明確な敵対勢力人員との対面か。茂々公が擁する戦力であれば、見廻組を除くと厄介なのは真選組……今井さんと密談ねえ。なさそう。元御庭番衆、は明確な敵対勢力とは限らない。

 と、なればあとは……。

「ドーナツ、なにがお好きですか」

「ポンデリング」

「一箱分?」

「朝方の約束と、さっき見逃した分と、上乗せ分で、三箱」

 今井さんは真顔で言い切った。よく食べるなあ、このコ。

 十六夜月は満月よりもすこしだけ細い。満月こそを望月と呼ぶわけだけれども、十二分に風情はある。月見酒と洒落込むには、手元にお酒がなかった。

「——おまえのような人間が奈落にいた覚えはないな」

「……あら。もしかして、いよいよ不死身でいらっしゃいますか?」

 早贄のごとく串刺しにされて消えた死骸。一羽の烏。船縁から覗いたすがたはかろうじて、白髪の男であることが確認できた。彼の素顔をわたしは初めて見た。顔には斜めに古傷が刻まれている。目元にはきわめて不健康そうな隈を飼っていらっしゃった。

 奈落首領:朧。

 風呂敷包みを片手に、頬に手を当てたわたしに彼は目を細め「何故連れてきた」と今井さんに尋ねた。今井さんはいつもの深淵の瞳で見返した。

「気にしてたでしょ」

 ……おや?

「していない」

 ウン?

「吉田松陽の弟子がそんなにも気にかかりますか。わたしは兄弟子たちと比べると、実力も所業も本当に末席中の末席なのですけれども」

 そもそも〝吉田松陽の弟子〟という点だけで論じるならば、同門はもっと数多い。なにせあのひと、ふつうにタダで手習いを教えていましたからね。ありえない無欲さにございます。

 その中でも、もともと先生が連れていた子どもであった銀さんと、両親に確実に勘当された兄上とわたし・有力士族に逆らったので実質留まる選択肢が消えた小太郎さん、が揃って転がり込んだものだから、結びつきが一際強かった、というだけである。……しかもわたしはその中でも弱かったせいで、置いていかれた。

 若干やさぐれ気味に述べると「……」奈落首領殿は沈黙を保ったまま、わたしを俯瞰的に眺めた。無愛想なひとである。敵に撒く愛想がないだけかもしれない。

「ま、あなたの個人的感情は、わたしにはひとつたりとも無関係ですけれども」

 わたしは話を戻した。

「あなたの思惑がどうあれ——以前は、どうもお世話になりました。ところでアレはなんですか? あなたが蘇られたのもじつのところ、あの液体の効能だったり?」

「覚えているのか」

「覚えておりますよぉ、わたしさすがに初対面の方に壁に叩きつけられて得体の知れないもの飲まされるのは初めてでしたからね。おかげで助かりこそしたものの、いつか膾切りにしようと心に固く誓いましたもの」

 かすかに動いた朧の口元にわたしは眉をひそめた。o・i・a・a——かすかに見えた舌の動きを合わせて、〝そちらか〟?

「初対面じゃなければ他にもあるみたいな言い方ね」

「奈落ではふつうにありそう、という印象ですけれども?」

「あったけど。……武家でもあるの?」

「ご安心ください。ふつうはございません」

「松陽なら嫌がるでしょうしね」

 返答の代わりに肩をすくめてみせる。

 朧はまだわたしを注意深く見ていた。わたしは少し足を引いた。今殺しにかかってこられるとさすがに応戦できない——今井さんとお約束したこともあるけれど、実力で敵わないことぐらい、わかる。

「おまえは」

「はい? はい」

「子はいるのか」

 わたしはすこし首をかしげた。

「いませんよ。いるように見えますか?」

「まるで、まったく」

 まるでとまで言い切られるほどには母親に向かなそうに見えますか、そうですか。自覚はありますけれど。

 ちょっと納得いかない気持ちで首をさする。わたしの様子に朧は「そうか」目を細めた。

「であれば、やはり流れたか」

 思考の空白。

 わたしは既に瓦を蹴っていた。勢い任せに錫杖を振るう——高く錫の音——杖先は、到底朧の首には届かぬ位置で空振った。

 ぐんッと僧衣の背を強く掴まれ、足がすべる。たたらを踏んで再度跳ぼうとすれば背後から足を払われた。

「やりあっちゃだめって、言ったでしょう」

「——」

 今井さんの腕がわたしの肩まで拘束する。「……朧、あなた、本当になにをしたの?」わたしを止めたものの、とはいえ彼女は心底困惑した様子で、今度は朧に水を差し向けた。

「詮無い縁に過ぎない」

 わたしは声を絞り出した。

「なぜ知っている」

「……おまえが知覚していないのであればその程度の邂逅だ」

 足袋が音もなく冠瓦を歩く。今井さんが一歩下がろうとした動きを朧は視線だけで制した。わたしを拘束したままに、見廻組副長殿はわずかに身を固くする。身に刻まれた経験則から来る本能的な恐怖をあるいはトラウマと呼ぶ。

「血の気が多い。奈落の軍勢と定々を前にしてもやすやすと挑発したな。あの場では、白夜叉と狂乱の貴公子を囮とし、隙に乗じた撤退こそが最適解だった。上手く行ったのは偶然に過ぎん。そもそも馬鹿正直に全軍勢で乗り込むことが最たる愚かさだ。実力に対してあまりに迂闊な下策、そのままではいずれ身を滅ぼすだろう」

「うるさい」

「奴隷商の片隅で、死体同然に転がっていた女を覚えている人間はそうはいない。その女本人も目を逸らしたがっていた事実を知る人間は、より少ない。だが全員口封じできたと思うには、些か慢心が過ぎる」

「あなたに、なにが、わかるっていうの……!?」

「地獄に突き落とされ、餓鬼や畜生のごとき過程を経て、常世(常夜)より現世に這い出た修羅。しかし未だ我を捨てきれぬ人間。松陽の弟子。他に理解すべきことが、なにか必要か?」

 朧はわたしたちの眼前で足を止めた。

「死にきれぬというなれば。置いて行かれたくないと嘆くならば。蹲るな。足を止めるな。思考停止など以ての外よ。現世(ここ)は未だ、おまえが歩むと決めた人間道の半ば」

 烏の足は、わたしの顎を蹴るように上げる。もとよりわたしは彼を睨みつけたままだ。しゃがみ込んだ朧がささやいた。

「天遣いたる八咫烏に、仏の慈悲はない——斯様な迂闊な真似、次こそ殺すぞ」

 背が空に浮く。今井さんがわたしごと抱えて跳躍した。みるみる遠ざかる朧は、まるでわたしたちを追う素振りもなく、十六夜月を背にこちらを眺めているようだった。

「……ドーナツ。四箱」

「……はい」

 わたしはきりきりと鳴る歯ぎしりを意図的に止めて、了承の返答だけをした。

 今井さんは深く溜息をつく。

「松陽に聞いてた話と、ようやく一致したかも」

「……なんと仰っていました?」

「お兄さん譲りに負けず嫌い」

「それはとてもわたしですねえ……」

 故人の軌跡をなぞるが如く。あのひとは牢の中でもわたしたちの話をしていたのだろうか。「もう降ろしていただいても良いですよ」とわたしが言うと、今井さんは端的に告げた。

「信用ならない」

 なにも反論できない。

 わたしは抱えられたまま、悠然と空に浮かぶ月を見上げた。屋根の上にはいつの間にか朧の姿はない。

 

   ➤

 

「よかったな」

 

   ➤

 

「……なにがあったか知らねえけど、露骨に不機嫌なツラ晒してんじゃないよ」

「あら。そんなふうに見えましたか」

「他にどう見えるってんだ」

 遣手婆が訝しむので、わたしは笑顔のままに小首をかしげた。

「上機嫌な顔」

「どこが?」

 笑顔なところですけれど……?

「ね、それより、消してくださるんでしょう」

 わたしが膝でにじり寄ると「ほらよ」遣手婆は、相変わらず震える手ながらも機敏に端末を操作して、扉を開けたまま固まっているわたしと目を逸らしてVサインする小太郎さんの写真を消去した。

「これにて一段落……ようやく御暇できます!」

「置いてくのか、アレ」

 遣手婆が視線で示した。小太郎さんは部屋二つ挟んだ先で療養している。

「一日出てきてねえけど死んでねえよな。うちで死体出すんじゃないよ」

「殺してませんよ。いずれ自力で這い出てくるものかと」

 さすがにわたしとて、怪我人相手ならば薬を盛るにも加減する。眠りが浅いときに少し揺り起こして水分は小まめに取らせていたし、なんなら粥も食べさせた。脂汗や身の回復に還元されているので、催してはいないようだが。

「そもそも置いていくもなにも、敵対派閥ですからね?」

「そのわりにはずいぶん仲良かったようだけどね。兄貴は同門だって話だが、昔馴染以上か」

「……んー。えーと。つつきます?」

「ありゃずいぶんな変人だが、よく働く男だ」

 遣手婆は顔をしかめながらも布団から身を起こした。つらそうに呼吸するので仕方なく、座布団をたたんで背もたれにして差し上げる。

「攘夷浪士じゃなけりゃ、まあ、まともな男とでも言えたんじゃあねえの」

「攘夷志士らしいですよ」

「……志士でも浪士でもあたしにはどうでもいいけど。貰われるならまだアッチのがマシだろうね」

「あはは。ヤです」

「〝置いて行った〟から?」

 今日はなんだか、予想もしない人間ばかりからわたしの過去を指摘される。

「——どなたから聞きました?」

「八年前のアンタの寝言」

 ……本当にどうしようもないところから情報が漏れている。頭を抱えるか、しょうじき、かなり迷った。わたしってば本当にとっても迂闊!

「置いて行かれたから酷い目に遭った? それで恨んでんのかい」

「……そこまでわたしは寝言で申し上げましたか」

「ンなもん寝言なくたって様子で察する。死に体のくせして飲み物を飲まされるときは特に暴れただろアンタ。初めの頃は男に対して露骨に殺気出してたし」

「殺気ってわかるものかなあ……」

 人殺しの目つきや呼吸衣擦れによる気配ぐらいはわかるけれど、殺気という概念自体はちょっと知らない……。

「そもそも手っ取り早く稼げる遊女じゃなく、芸妓に回されてる時点でな」

 遣手婆が煙管を取ろうとするのでやんわりと制する。布団の上で吸わないでください。

 めちゃくちゃ睨まれてしまった。

「まァ言わんとすることはわかるけれどね」

「……酷い目、のあたりは違いますよ。ふつうにお門違いじゃないですか。あんなの人間としてやる方がおかしいですからね」

「……なんだわかってんのかい」

 やる方がおかしい。そして本来逃げられたはずなのに(逃げられたはずだった。そうでもなければあのときだって、全員斬り殺せまい)無意味な過去に足を取られたわたしが愚かだっただけのことだ。

「わたしはただ……」

「……なに」

 わたしは唇を舐めて湿らせた。

「……言うことじゃありませんでした」

「ここまできたら大差ねえよ」

「聞きたいですかこんな話」

「病人よりひでェなりして散々暴れる女の面倒見たの誰だと思ってんだ。原因くらい知ろうとしたってなんもおかしかねえだろ」

 世話になった時点でわたしの方が圧倒的に不利なんですよねえ。

 細く息を吐いてわたしは、遣手婆の胸のあたりに額を押しつける。顔は見られたくなかった。

「……そもそも、置いて行かれた理由って、兄と兄弟子が戦争に行くからだったんですけれども」

「置いて行かれたのは百正しいね」

「うるさいですよ。……そんなのわかってます」

 あの戦争に当時のわたしが参戦していたところで、たぶん死んでいた。唯々諾々と良い子の返事ばかりの素直な女の子。まったく可愛げばかりで、笑えてしまう。

「守るためだったことくらいわかってます。わたしが弱かったこともわかっています。……あのね、兄上とわたしの年の差って、ひとつきりなんですよ。銀さんと小太郎さんも、まあ銀さんは〝先生〟の目測に過ぎないんですけれど、揃いも揃って兄上と同年齢でわたしと大差がなくて」

 額をぐりぐりと押し付けたけれど遣手婆はなにも言わなかった。

「……たったひとつですよ。ひとつ下でしかないのに。あのときあのひとたちだって、子どもといえる齢だったのに」

 なんなら、今の志村さんや神楽陛下と大して違わない。あのひとたちも大概に守られるべき子どもだった。

 いくら子どもであればあるほど一年差が大きいにしたって、当時は我々全員、十代にはさしかかっていた。第二次性徴期でこそあるがそれ以上に成長期でもある。わたしは当時、松下村塾でも五指の実力に入っていた。先生はもちろん、兄上や銀さん、小太郎さんには勝てなかったけれど、逆に言えば他の子はのしたくらいには強かった。性差と年齢差は理由にできるほど大きいものではなかった。

 それなのに。

「わたしのことずっと、なにもできない甘ったれとでも、あのひとたちは思っていたわけですよ」

「……そりゃアンタ」

「なにがひどいって、それは実際に事実だったことです」

 未だに甘えたの特徴はのこっている。わたしはその自覚がある。染み付いた性はなかなか直らない。兄上がじつのところ気にしているのも知っているので、あえて残している部分もあるけれど。

「わたしは甘やかされることに慣れていて、それを良いことに当時は本当に甘えてかまけて……表面的な言動だけでなく、心技体、すべての話です。教えられたことを知識として知っていても、ろくに実践できなかった。道場剣術じゃない剣を身につけていても、それを人に向けられるような覚悟もなかった。わたしは事実として、なにか出来るような身じゃなかった」

 たとえば昔のわたしなら、人の傷を縫う方法は知っていても、それを実践することはできなかっただろう。錫杖で人の首を刎ねる方法は知っていても、すぐさま振るうことはできなかっただろう。

 汚水に落ちた瓦版、水に溶けかけた印字が今でも脳裏で鮮明にちらつく。

 わたしはなにもできなかった。なにもしなかったからだ。なにもしなかったからわたしはあんな目に遭った。なにもできなかったから、わたしの手は到底届かぬところで戦争は終結し、先生は処刑され、兄弟子たちは散り散りとなった。

「……わたしがもう少しだけでも強ければ。もう少しだけでも兄上たちに信頼されていたら。無理やりにでも戦争についていって、たとえそこで死んだとしても。もしかしたら、なにか、なにかすこしでも、変わったんじゃ、ないかって」

 たらればの話である。

 無意味な仮定である。

 もはやどこにも存在しようのない、ifの話だ。

 目をまたたかせる。やはり乾いていた。かつて泣き虫と揶揄されるほど緩かったわたしの涙腺は、もう何年も前から時が止まったかのごとく、感情的な涙を流さない。

 泣いたって誰も助けに来ないことをわたしはあのときようやく知った。

 わたしが慕った彼らこそ——本当は泣きたい日だってあったんじゃないかと、思う。

「わたしだって、守りたかったんですよ……」

 仲間に入れてください。苦しみを教えてください。悲しみから遠ざけないで。一緒に立ち向かいましょう。ともに分かち合いましょう。

 ……過去はとうに遠く、現在は歩みを止めやしない。傷を抉ると知っていてなお言えることなどなにもない。語らせた言葉は所詮は伝聞だ。かつて血を流した鮮烈な苦しみは、当事者にしか理解できぬことである。わたしが身を以てすこしだけ知ったこと。もうなにもかも手遅れだった。

 置いていかれたことを恨んでいる。

 線引きされたことを恨んでいる。

 守られていたことを知っている。

 ……守らせてくれなかったことを知っている。

 良い子なだけの愚かな子ども。泣いたら誰かが来てくれると無邪気に信じていた甘ったれな子。二度と戻れない春のきざし。あなた(わたし)があのときもう少しだけ強ければ——なにかが変わっていただろうか。たとい変わっていなかったとしても。たとえば、あのひとたちの荷物をすこしだけ分かって、一緒に背負うことは、できたんじゃあないだろうか。

 ……ゆえに。

 すべての過去は無意味である。おしなべて平等に無価値である。楽しい思い出もつらい思い出も、みんなまとめて一緒くた。このようなものにひかりを見出すから、怖い記憶も蘇って、二進も三進も行かなくなるのだ。

 ふつふつと焦がす自己嫌悪を焔に転換して、ようやく歩き出す。

「……あのひとは、こんなにどうしようもないわたしを、まだどうにか守ろうと、するから……」

 わたしは目をつむった。

「もう守られなくていいんです。兄上は、わたしに手を貸してくれることはあっても、わたしを守ろうとは、もうしない」

 わたしの髪に指が触れる。しわくちゃの老婆の手である。神経を患っているから小刻みに震えていて、髪が振動してわたしはちょっとくすぐったかった。

「昔っから思ってたけど、っとうにガキだねえ。アンタは」

 呆れ混じりの声だった。

「人間、そう簡単には割り切れねえもんだよ」

 わたしは返事をしなかった。

 それは当然に自明の話だったので。

 

   ➤

 

「帰る前に日輪太夫のところに寄ってきな」

「……まだおつかいあるんですか。もういいですよね写真も消えたし」

「顔出してけって言われてたろ。反故にすんの」

「……わたしそろそろあなたのこときらいになりそう……」

「はよ行きな」

 

「……あんたに約束してた謝礼はこんなモンでいいだろ」

「……。感謝する。オババさん」

「感謝の顔ではないね。つってもさすがにこれ以上はねえ、いくら非人間のあたしにも多少は情ってのがあンだよ」

「オババさんはわりと情に厚い方だが」

「ハァ〜???」

「お、怒らないでくれ」

「戯言言ってないで寝たらどうだ、あの娘のことだから自分が出てくときに鉢合わせねえように絶対薬盛ってるよ。今更だけどなんで起きられてんだい? 分量誤るとも思えねえんだが」

「侍なので気合でなんとかなる」

「突然バケモノと一緒に括られた侍に謝っとけよ」

 

   ➤

 

 渋々ご訪問したわたしに、日輪さんはぱぁっと顔を輝かせた。

「よかった、あんたのことだから絶対! なんにも言わずにいなくなると思ってたから」

「……いえそんな、」

 ばれてる……。

「あんたに見せたいもんがあってね。ほら晴太が最近寺子屋に通い出してさあ。これ授業参観の時の写真なんだけど」

 昔は惚気。今度は親馬鹿。わたしは思わず眉間を揉んだ。

 日輪さんは気にしていない様子で、車椅子をくるくると回してわたしの周りを回った。

「ああもう……はしゃがないでください。車椅子倒れかねませんよ」

「うふふ、ごめんねえ」

 ごめんねの顔ではない。もうニッコニコだ。

 彼女はわたしの手を取った。

「なんだかんだで、晴太の命の恩人みたいなもんだろ。共有したくってね」

「……わたしがいなくとも生きていた気もしますけれどね、あの子は」

 本当にわたしには、出産の知識は知識程度しかなかったのだ。上手く行ったのは、単にあの環境にしては奇跡的なほどの安産だっただけともいえる。わたしがいなくとも赤子は育ったか、せいぜい日輪太夫の脱出劇が繰り上がっただけであろう。

「あんたがいるのにいない話してなんになるんだい」

「ああはいはい……」

 たらればを語っても無意味なことは確かだ。わたしは両手を上げて降参を示した。

 しばらく早口に晴太さんの現状を語られた。元気なのはもうよくわかりました。最近仲良しの女の子もいるらしい。そうなんだ。

「……鈴蘭太夫の容態はどうですか」

 話が切れたタイミングで、不意に思い出して、わたしは尋ねた。

「んー。あんまり、しょうじき良くはないねえ」

 日輪太夫はやんわりと言った。

「もう起きてる時間もそんなに長かァない……会ってくかい?」

「……まあ。そうですね」

 ここ数日、散々振り回された元凶のおばあさまだ。わたしは頷いた。

「顔を見るくらいはしますか。傾城太夫さん」

 本当にしわくちゃのおばあさんだった。これを死にかけと定義するのであれば、遣手婆はなるほどまだまだ断然、生きるだろう。傾城太夫の面影は正直、まるで見えない。

「……日輪ちゃん? と……」

 開いているのかもわからない目元だけれど起きていたらしく、日輪さんに声をかけて、彼女はわたしに目を移した。

「……おやぁ。お久しぶりだねえ」

 は?

 日輪さんがわたしを見た。わたしは無言で首を横に振った。本当に初対面だ。

 少し首を傾げた日輪さんが「鈴蘭さん」と声をかける。

「ヒカリと、会ったことあるのかい?」

「ヒカリ? ヒカリっていうのかい?」

 鈴蘭太夫はただでさえ垂れ下がった眉をさらに下げた。

「……ああ、よく見たら違う人だ。ごめんねえ。すっかり……私、頭が空っぽになっちまってねえ」

「空っぽだなんて鈴蘭さん、卑下しないの。よくないよぉ」

「気は害していないので、お気になさらず。……わたしにそっくりな御方でもご存知で?」

「いんや、顔は似てないんだけど。声も似てない」

 それは本当に、なんで間違えられたんだろう。

「……昔ねえ。もうずーっと昔さねえ。一緒に働いてた娘がいたんだ」

 鈴蘭太夫はぼんやりと天井を見上げる。……おそらく見上げていると思う。まぶたがほとんど降りたようなので目をつむっているのと違いがわからない。

「気が強くって優しい子でね。私が長屋で泣いてれば、次はその客これで殺しなとか言って簪渡してくれる子だった」

 ……。

 やさしい……?

「そりゃたしかに、ヒカリにそっくりだ」

「わたしそこまで短慮じゃあございませんけれど?」

 日輪さんの相槌は、さすがに風評被害が過ぎてわたしは抗議した。渡すならば簪よりも遅効性の毒だ。吉原の外で死んでしまえば足がつかない。

「……ああ、そう、あの子は、私が怒らせちゃったんだよ」

 のんびりとしたしゃがれ声が不意に寂寥をにじませる。

「待つのをやめなって……ずっと言われてて、それでも聞かないから、呆れちゃったみたいでね。それっきりなんだ。もう遣手もやめたとか、聞いたね。若い子なわけがなかったね……」

 わたしはふと、先程まで顔を合わせていたまるで素直ではなく強気な元遣手たる老婆を思い返す。ふーん。なるほど。あなたは果たして、わたしに日輪さんと会えと急かせる分際だったのか、わたしとっても気になります。

「仲良かったんだね」

 日輪さんはやさしく語りかけた。

「……私は、仲良かったと、思ってるよ。あの子がどう思ってくれてるか、わかんないけどね」

 鈴蘭太夫はつぶやいた。

「鈴蘭ってのも、あの子の提案だったのさ。鈴蘭は可憐な花だけど、意外と球根がしぶといから、あんたにぴったりだとか言われてねえ。私はうれしくってそのままつけたら、褒めてると思ってんのかって言われたんだよ」

「あはは。そりゃもう仲良し以外のなんだっていうの」

 日輪さんが若干苦笑した。わたしは肩をすくめてみせた。素直じゃあないおばあさまなので、本当に、とっても仲良しなお友達だったのでしょう。

 鈴蘭。鈴蘭ねえ。毒花と邪推したのは、それこそ、邪推だったみたいだ。

「……鈴蘭さん、お手を拝借しても?」

「うん? うん……」

 わたしは老婆の手をとった。しわくちゃの右手には数多の線が刻まれていて、それらを指で辿る。

「わたしもつい先日知ったのですが、どうやら手相には影響線というのがあるそうで」

 たとえばいわゆる生命線は、親指の付け根辺りから丸く縁取るしわを指す。中指から一直線に下に降りるしわを運命線と呼ぶ。運命線の周囲に刻まれたしわを影響線と呼んで、人生の転機に関わる出会いを示すそうだ。

 このあたりはぜんぶ小太郎さんからの受け売りです。

「鈴蘭さんの手にある影響線は……ちょっと困難が多いみたいですけれど、それでも、やがて結ばれることを示しています。これは恋愛に限らず、友人付き合いもね」

 しわくちゃの手をそっと指で撫でる。

「……どうやらもうすぐ、待ち人は来られるようですよ」

「本当に?」

「わたしの手相占いはよく当たると評判なんです。ねえ日輪さん?」

 ちなみにわたしはこれが初めての手相占いです。

 なんならだいぶでたらめ混ぜてます。

「そうそう、昔なんか、占い待ちの遊女が行列をなしてたくらいなんだから」

 しれっと日輪さんに振ると、さすがに百戦錬磨の花魁殿、さらっと答えて補強してくださった。

「そうかい。そりゃあ、良い夢だ……」

 鈴蘭太夫はやわらかく目を細めた。たぶん笑ったようだった。

「……安心しな。おばちゃんのことは、明日にでも引きずってくるよ」

「ええ。渋ったらしばいてあげてください」

 これくらいバチは当たらないでしょう。きっと日輪さんのことですから、車椅子を提供してくださいますよ。

 予想外の共通標的にちょっと連帯感を養って、眠ってしまった鈴蘭太夫を横にお茶を嗜んだところで、わたしはようやく御暇することにした。病人の横にあんまり長居しても酷だ。

「じゃ、気をつけて」

「……指名手配犯に言うもんじゃあないですよ」

「じつはね、夜王が未だに住んでる街で指名手配云々はあんま効果ないんだよ」

 それは本当にそうですね。

 わたしはすこし会釈して、くるりと日輪さんに背を向けた。

「それでは——」

「——これは、これは。珍しい顔だ。それで、わしには挨拶もなく去るつもりか?」

 低い声が、わたしの言葉を遮った。

 誰の声かはわかる。

 わからなければよかった。

「……あら〜」

 日輪さんがとぼけた声を上げている。

「……幻聴が聞こえますね」

「ヒカリごめんね、私これでも顔合わせさせないように立ち回ったつもりなんだけど」

「フン、こまっしゃくれたガキがわしを欺こうなどと千年早い」

 そのこまっしゃくれたガキに心ッ底気持ち悪いかたちの執着をしていたのは、いったい、どこのどなた?

 即座に打ち返したい気持ちをグッとこらえる。

「帰りますね」

「まァ待て、暴れ馬」

 含み笑う声音を無視してさっさと歩を進める。せっかく少々良い気分だったのに、まるで台無しです。

「ほぉ? このような死に損ないに未だに意地を張るとは、多少は可愛げもあるようだな」

「あのねえおじちゃん……」

「……どこの・誰が・可愛げ?」

「耳はついていてなによりだ。用がなければわしとて、声もかけん。戻ってこい」

 長々と息を吐き、ついでに舌打ちして、わたしは仕方なく踵を返した。

 ぱちんと両手を合わせて頭を下げる日輪さんは、まあいい。問題は増えたもうひとりの方。

 ケロイドで頬は引き攣れ、なんならあちこちに日焼けのひび割れを縫った形跡があった。まるでフランケンシュタインのごときつぎはぎだ。車椅子に腰掛けていて、背中と背もたれの間に傘の柄をねじ込んでいる。

 鳳仙殿は車椅子上から、わたしを愉快がるように見上げた。単なる身体補助の一環なのだろうけれど、日輪さんとお揃いのつもりならうっかり殺したくなってしまうかもしれない。

「高い借りの返却だ。お互いに生きていてよかったな」

 厭味ったらしいな〜この男。

「……はァ。要りませんけど」

 ファイリングされた資料を腕に叩きつけられた。問答無用で受け取れと言わんばかりだ。夜兎の馬鹿力は健在で、わたしはヒリヒリする腕をさすりながら、鳳仙の手から資料を取り上げた。

 病院のカルテのようだった。

 記された名前にわたしは目を眇める。

「おまえの父親、どうやらそろそろ死にかけらしい」

 鳳仙殿は、思いの外静かな口調であった。

「燃やしてなかったことにするにも。行ってケリをつけるにも。好きにしろ」

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