それはそれとして首都圏外郭放水路は見学ツアーやってるので埼玉県春日部市に寄ることがあったらぜひとも。
※通常の休業日の他、天気によっては休止しています。冬が狙い目。
前略:
やっぱりここは
➤
条件を整理しよう。
わたし・兄上(姉上)・また子(又兵衛)さんの最終目標は、かぶき町民の性別転換が、少なくとも命の危険がない領域まで持っていくこと。我々三人の性別転換を最低限元の性に戻すこと。デコボッコ教団が性転換ビームを撃つ手段を喪失するか、ふたたび撃たれたときの対策を持ち合わせておくこと。
兄上(姉上)ははじめ強硬に突っぱねたけれど、もっとも手っ取り早いのはそれこそ月詠(月雄)さんの提案のごとく、教団の本体を叩くことである。
「潜入・強襲・その他思いつかないでもねえが……どうにせよ教団の潜伏場所を突き止める必要がある。……真選組の動向は?」
「そーちゃんたちはひとまず教団に従うふりをして、怪しい行動の人を監視して先に止めることで地球全体がターゲットになるのを先送りにするみたい」
月詠(月雄)さんの問いにミツバ(総三)さんは端末を読み上げた。
「さっき仰っていたように、教団は実際に巡回を派遣しているようね……だから皆さんで彼らを誤魔化しつつ、併せて、道中で監視カメラを壊して回っているのですって」
「非常事態とはいえ、事件が解決したあかつきには賠償金を請求されそうですね」
「いつものことなのよねえ。揃って言い訳も下手なものだからずーっと評判悪いのよ」
しみじみとした口調である。口下手なのは理解できなくもない——として、たぶんそれは本当に不要な破壊も入っているせいじゃあございませんかね。主にバズーカ発射とか。つまりはあなたの弟(妹)さんを指すのですけれど。
「……ところで、先ほどから思っていましたがわりと機密漏洩では? なんなら半ばスパイ活動では? よろしいのですか」
我々、一応真選組の敵対組織に所属している。
わたしの指摘にミツバ(総三)さんは肩をすくめた。
「私が聞いているのではなくて、そーちゃんが送ってきていることですから。あの子、本当にまずいことは私にも言わないの」
マァあなたの外付け警戒心さんはそんな感じはしますけれど。それにしてもそういう問題なんですかね。
「そうじゃなくても、今無関係なことは私だって言わないわ」
本当にそういう問題なんですかね。
「なによりヒカリさんは
……うるさいですよ。
「……真選組側が監視カメラの破壊に回っているなら、こちらとしても監視カメラの無力化クラッキングではなく物理破壊で済ませたいですね。どちらの犯行かわからないようにしておけば教団に対する撹乱になります」
苦し紛れに話を戻せば、読まれたらしく、兄上(姉上)に頭を小突かれた。あとでお説教されそう……。
「問題は拠点の方ですが……艦の上だのであれば追いきれませんし」
「少なくとも監視体制がかぶき町内にあンのはほぼ確実だろ」
「……え? そうなんです?」
本来味方であるはずの実兄(実姉)と妹分(弟分)から揃って信じられないものを見る目を向けられた。そんなに変なこと言いましたか。
「ヒカリ様、本当に今マジでろくに頭回ってないんスね……」
さらにしみじみと言われた。普段より精悍なお顔立ちで、普段と異なる低音でもわかる、本当にしみじみとした物言いだった。
兄上(姉上)はともかく、また子(又兵衛)さんにまで虐められることある?
「かぶき町一帯が封鎖されてんのはてめーも見ただろ。だったら巡回はどっから湧いてきたんだよ。町内か、拠点自体が町内でなくとも近場に設置して最低限拠点への抜け道を町内側に確保してるとしか思えねえだろ」
「……アそっか」
これは虐められても仕方がないほどにわたしが浅はかでした。
「ポンコツ」
「いくら弱っていようがわたしだって傷つくんですからね。弱っているからこそ傷つくんですからね。繊細なんですよ」
「そうだな」
なんですか兄上(姉上)その心底気のない相槌は。
……自明の事実にまるで思い当たっていなかったのはわたしですけれども。いよいよ調子が悪いみたい。
「そうなると……巡回を尾行して特定する、みたいな感じ? になるかしら」
「尾行するのはちと
また子(又兵衛)さんが腕を組んだ。
「時間があるなら巡回に扮して潜入とかでもありなんスけど、スピード解決ってなると悠長なことしてる暇ねえし。町内全部のカメラ乗っ取られてンなら、まずカメラぶっ壊してからが良いッス。尾行なんざ瞬でバレて取り押さえられて終ェっしょ」
「それも破壊のタイミングはなるだけ合わせた方がいい、勘付かれる。真選組どもがどれだけ先走ってんのかは知ったこっちゃねえが、まァもともと隠密には向かねえ奴らが教団から市民も庇いつつ、さらに常より動きも弱ってると考えりゃあまともに破壊できた数は然程でもねえだろ。吉原の百華となりゃあ、吉原きっての自警団、鳳仙にも刃向かった実力に関しちゃこの莫迦からも聞いている。それが男衆になったンなら先回りは楽そうだ」
また莫迦って言った……。
「手分けして一斉に、てなるとカメラの配置は先に把握しとく必要があるとして……なんかさっき忍者講習がどうとか言ってた気がするけど、かぶき町でわざわざ講習だの開くんなら、ソイツはかぶき町の構造粗方把握してんじゃねッスか? 監視カメラのマッピングとかできんなら万々歳、できなくても多少の当たりくらいはつけられそう」
先程までのお二人は本当に乗り気でなかっただけらしく、ぽんぽんと話が出るわ出るわ。鬼兵隊とはもとよりテロリスト集団であり、逆に言えば、テロリストの常套手段はよくよく熟知している。我々であるならばどうするか——辿って逆手に取ればよいだけだ。
「うむ。
「いくら百華が人数いるからって町ん中無差別に見張るのは効率悪すぎでしょーね」
「……少なくとも、町内にあるというならば地下でしょうね。拠点への通路も地下にあるでしょう」
わたしはぬるく息を吐いた。
「根拠は」
「あなたはわかっていらっしゃるような気も……まあ、はい」
俺にすべて説明させる気か? とばかりに眉を上げられた。はいはい。総督殿のお手を煩わせるほどではございませんものね。
「まず、あまりに大がかりが過ぎます。町内の監視カメラはわたしの把握している数だけ見積もっても百は下りません。要所で切り替えるにしたって、そのすべてを監視するなら相応のサイズと数のディスプレイが必要になります。その場所の確保がひとつ」
「それだけなら多少広めの雑居ビルだので事が済みそうだが……」
「それだけなら、そうですね」
一応鬼兵隊でも頭脳職寄りのポジションを仰せつかっている。先程はあまりにポカだったし、わたしは武市さんほどの読みの精度は発揮できないけれど、まァある程度絞り込むくらいなら不調だろうとなんだろうとできる。できなければ仮にも幹部としてやっていけていないし、なんならとっくに殺されている——兄上(姉上)過激派の御方々って本当に刀が出るんですよ。怖い組織ですね。上司に似たのかしら。
……今更ながら、この状態の我らが総督が仮に帰艦したとて、わたしたちの命もまとめて危ない説があります。
まるで無益な理由で殺されないためにも考えよう。かぶき町内に拠点がある、あるいは拠点までの出入口がある、と仮定するなら。
「そもそも的確にかぶき町だけにウイルスを落とすためには、かぶき町自体の厳密な計測が必須だったでしょう。しかし計測にはどうしても時間がかかります。デコボッコ教団の装束を脱いでいたとしても、地表で見慣れぬ人々がなにやら執拗に町中を練り歩いていればシンプルに怪しまれる……かぶき町は江戸でも、町内の交流が比較的密な地域なので、ひとの噂が広まるのが早いです。ただの余所者が幕府とも連携せずに計画遂行したとなれば、事前の挙動を感知されていないのが少し奇妙に思えます」
「と前置きするにつまり、ぬしはデコボッコ教団が、地下都市を作っているとでも?」
「都市ほど大層なものは必要ありませんよ、それこそ吉原でもありませんからね」
さすがに桃源郷だの常夜の国だのと呼ばれるレベルの地下都市は、一時の借宿扱いにしてはあまりに大掛かりすぎる。建設の最中に気づかれること必至、なにより非効率だ。
「しかし、水道は人間の生活圏に沿って作られています。特に雨水貯留管などは人がゆうゆう立ち入れるサイズで、なにより町中に点在しているので出入りも容易い。わざわざ新設する必要はありませんよ、既存のものを流用してしまえばいい」
江戸は舗装された道路が増えてきている。これはかんたんな理屈で、江戸は単純に人口密度が高いので走行量も多いこと、誰もが空飛ぶクルマを持っているわけでもないことに由来する。当然ながら、いくら透水性舗装を存分に活用したところでアスファルトの雨水吸収率は土塊に比べれば著しく悪い。水道の整備は当時の幕府にとって急務だった。
「この時期の関東平野なれば、普段の雨量ではまず水没はしません。せいぜいでも足元が浸水する程度でしょう。江戸とはすなわち下流にある大都市圏ですから、全国各地と比較しても雨水貯留管の内部構造はかなり広めに取られていると考えられます。昨今の天気予報はよく当たりますし、そもそも自前で人工衛星を持ち合わせているなら、気象予測もある程度の精度で自力で推論して渇水期を狙った可能性もあるでしょう。まァそのあたりを論じ始めると天人謎技術天候編の話になってくるので一旦打ち切りますけれど」
冷静に考えると性転換ってなんですかというところから始まってしまいますからね。……ウン! 自覚しない! ヨシ!
ともあれ、雨水貯留管はその性質上、人が立ち入れる程度の巨大なパイプが、普段数多の人々が行き交う地下には縦横無尽に張り巡らされている。もちろんかぶき町の地下にも、だ。
「さすがに吉原のように人が住むには不適ですし、武州北部のような首都圏外郭放水路とまでの規模でもありません。とはいえ町の計測程度ならようよう役目を果たすかと。拠点を設置する場合は、精密機器を動かす前提であれば湿気対策だけは鬼門ですが、やりようはあります」
あれぐらいのスペースなら、一部場所を占拠して好き勝手やるなぞはかんたんだろう。テレビ放映の衛星電波や監視カメラをクラッキングできる技量があることはすでに証明されている。先程わたしは吉原を引き合いに出したが、人が住む想定で作られていないのだから吉原のように人通りが多いはずもないのだ。潜むなぞわけもないだろう。むしろ百華が常駐しているわけでもないぶん、占拠はかんたんだったかもしれない。
「気にかかるのは監視カメラのクラッキングを行なっている点です。町内の監視カメラをすべて網羅して盗撮した映像をディスプレイに映し出して、となると演算・通信・放映だけで相応のエネルギー……電力を消費します。発電機ではあまりに効率が悪い上、蓄電には限界があります。どこからか盗電している可能性が高い……」
比較的短期間に電力消費が跳ね上がった区域だのがあれば、絞り込むこともできるのだけど。そのためにはまず電力会社のレポートを参照する手段がほしい。
「その貯留管って、モニタリングとかはされていないの?」
ミツバ(総三)さんが小首をかしげる。
「以前、たしかテレビ番組のドキュメンタリーだったかで、河や波浪の水位を監視するモニターを展開しているのを見たことがあるけれど」
「……それこそ水道局の方では貯留管の管理も行っているとは思います。貯留管への通路も併設されているはずですし……そういえば、施設まで乗っ取って監視システムをそっくりそのまま掌握しているなら、機器問題や電力問題も解決はしますね」
水道管理局には本来、河川の水位や雨水貯留管を監視するはずの複数のモニタが存在している。これらを監視カメラ映像のザッピングに転用すれば、まずディスプレイ問題が解決。電源も、モニタリング用に引いてある電力を流用すれば演算機器の稼働も可能だろう。多少光熱費は増えるかもしれないがそれくらいだ。もともと機器を動かす想定の部屋なら当然、湿気対策も万全だろう。
「よしんば当たっていたとして、江戸城のほぼお膝元でカルト教団に占拠されている公共施設を放っておいたという点で、幕府には驚きを隠せませんが」
「おまえが言い出したあたりの水道、俺の記憶じゃ最近民営化していた覚えがあるが」
「……それはまさか、買い取ったのがデコボッコ教団だとでも仰るおつもりで……!?」
兄上(姉上)は肩をすくめてみせた。
「かもな、の部類だ。だとしても驚くことでもねえさ」
「これまた否定できないあたりがなんとも……」
「占拠の経緯についてはともかく」
月詠(月雄)さんが話を戻した。早急な解決を望む今回、憶測に憶測を重ねたところでまるで無意味なことは確かだ。
「雨水貯留管とやらに潜んでいる可能性が高い、という理解でいいか」
「そうですね……断言とまではできませんが。真実雨水貯留管を占拠しているのであれば、出口はほぼ確実に町内のマンホールで決まりでしょう。それも雨水のマンホールです」
「相分かった、その方向で百華に周知しよう」
「あなたがたなれば端緒さえ掴めれば、当たりをつければ追跡は容易いでしょう。なにかありましたら矢文でもご連絡を」
「さすがに矢文は百華とて誰も使わん。俺も一度も使ったことがない」
月詠(月雄)さんにまで呆れたような表情を浮かべた。忍者って矢文で会話するものではなかったんだ。偏見だったみたいですね。
「ミツバに連絡する」
「今私、総三なの」
訂正するのそこで良いんですか。
そもそも総三を名乗るわりには口調もまるで変えていないのに。
「総三に連絡する」
あなたも素直に訂正するんですか。
「ワクチン入手の連絡は要るだろう」
「それはありがとうございます」
わたしとて戻りたいのは山々なので素直にお礼を申し上げた。
「それと注意事項ですが——もしかしたら内部、臭うかもしれません」
席を立とうとした美丈夫の面持ちが少しだけ、怪訝げに歪められる。
「江戸の水道ってかなり急ピッチで整備されたので、合流管が多いのですよね。つまり雨水と下水が混じるタイプの水道なのですけれど」
「……一昔前の吉原の路地裏よりはましでは?」
「……それもそうですね?」
わたしが妓楼にいた時代は、夜鷹の死体がそこらに転がっているなどちょくちょくあった。今は頻度減ったそうですね。
たしかに、とわたしが納得する一方で「ウーン……比較対象……」ミツバさんがぼやいた。
➤
「では、吉報を期待していてくれ」
「お気をつけて」
月詠(月雄)さんは百華を率いに去っていった。
兄上(姉上)はなんとはなしといった様子で飲みかけのペットボトルをもてあそんでいたけれど、不意にわたしに押しつけて椅子から立ち上がった。
「ご用事ですか」
「便所行ってくる」
「……。えーと、できます?」
勢いよく頭をしばかれた。女性の身体なのにいつもより力がこもっているぐらいだ。
「普段からこうなの?」
「こういうコントは二日に三回くらいの頻度だったかな。まァいつもっちゃいつもか」
「私、あなたがたってもう少し殺伐としているんだと思い込んでいたわ」
「さすがにここまでゆるいのはお二方の間くらいなんで……常に殺伐してるわけでもねえのは、そう」
わたしは後頭部を抱えてまたテーブルに突っ伏した。
「そろそろ脳細胞が死滅します……」
「余計な口叩けるなら上出来だな」
兄上(姉上)はひょいと元の服が入った荷物を抱え上げた。スタスタと危なげもなく、ヒールの入ったサンダルで去っていく。
「……なんで歩き慣れてるんですかね」
「……あのひとならなんでもできるんじゃねえスか?」
そうかな。
そうかも。
紅一点(万緑叢中紅一点に則るなれば、緑一点?)が去ったことで、期せずして女子会(男子会)になってしまった。取り残された我々は、とはいえ特に共通の話題もない。どちらとも知己なわたしが気を配るべきなのだけど、ぶっちゃけそんな元気もない。話しているとまたなにかしら口が滑りそうなので、余りものの天然水をしずかに飲んでいると「又兵衛さん」と友人は穏やかに口火を切った。
「あなたは大丈夫?」
「大丈夫ってなんだよ」
また子(又兵衛)さんは少し威嚇気味に睨んだものの、ミツバ(総三)さんはとくに気にする様子もなく、小首をかしげた。
「さっき、途中から少し口数が減っていたでしょう。気疲れしてしまったのかと」
「……そういえば、そうですね」
作戦会議中の記憶を辿る。主に話していたのは積極的協力の意思を示したわたしだったけれど、兄上(姉上)と比べても途中からめっきり黙り込んでいた。
「わたしばかり気遣われていましたが、調子が悪ければ気にせず仰ってください」
「あー。べつに。てかそういうのじゃなくて」
居心地悪そうに肩を揺らしてまた子(又兵衛)さんは目を逸らす。
「……なんか、引っかかったんで」
「引っかかる?」
「今まとめるんでちょい待ってください……」
テーブルの上でいつもより太くそれでいて骨ばった指が、手持ち無沙汰そうに踊る。わたしはわたしでペットボトルの中身の余りを黙々と飲んでいた。
「……えーと、私あんまデコボッコ教は知らねえけど、ヒカリ様が言うには要するに、教団の奴らってだいたいは
「両性具有を指すならば、そうですね。中枢メンバーは男性と女性、双方の特徴を併せ持っていると」
「そいつらって、性別転換のクスリって、効くんスかね?」
いまいち話を噛み砕けてないわたしの前で、ミツバ(総三)さんが考えるように視線を彷徨わせる。
「……効かないんじゃないかしら。効かないというか、実質的には効果がないんじゃあないかしら」
「ンまァ私もそう思うっつーか。男の部分が女になって女の部分が男になるだけならそりゃ変わんねえなっつうか」
「そう、かも、しれませんね」
なにを仰りたいのかわからない。ようやく飲み干したペットボトルのキャップを閉じておく。
「ンならッスよ? ——あいつら、そもそもワクチンとか持ってねえんじゃねえかとか」
空っぽのペットボトルがわたしの手中でベコッと音を立てて凹んだ。
「……え?」
今までの話の内容を脳内でおさらいする。
両性具有のひとびとを中心に構成された過激派宗教団体。我が国なら卵精巣性性分化疾患と呼ばれるだろう。双方の性別の性器がそれぞれ機能も外観も含めて完璧に形成されることは地球人には本来まれだが、たぶんデコボッコ教団発祥の星は比較的そのような人々が生まれやすい星だったのだろう。確実に現実逃避の憶測は置いておく。
性別を転換するウイルスを吸ったとして、双方の性別の特徴を元から持ち合わせていれば、効果は無意味に等しい。だから教団はワクチンを持っていないかもしれない。というか、作っていないかもしれない。なるほど。理屈はわかります。
え?
「ヒカリさん、手を緩めて。ペットボトルが爆発しそうよ」
「えっだっ——いやだってそんな」
「まるで聞こえてなさそうね。失礼します」
わたしの手中のペットボトル(残骸)が回収されていった。
「ンでなんかしッ……えーと……中田サン、めちゃくちゃ最初っから当然ワクチンがある、みたいな前提で話してたっしょ。まァヒカリ様は今ろくに頭回ってねえから気づかなくてもわかんスけどあのひとが気づかねえとかある?」
「ちょっと待ってください話を進めないでくださいあの
「ヤ、戻れねえって言いたいワケじゃねッス。てかそんなんしんッ……中田サンがまず許さねえっしょ。ただなんか、だからこそ、そのわりにはマジでなんも言わねえンで……」
〝マジでなにも言わない〟というか、よくよく思い返すと兄上(姉上)にしては、あのひとにとってまるで他人に対して些か口数が多
普段はそうでもない。というのも兄上は基本的に警戒心の強い猫のような生態をしているため、銀さんや小太郎さんのように日頃やかましい相手に引き摺られて多弁になったり、わたしやまた子さんなどよく喋るタイプの身内のペースに合わせることはあっても、自ら積極的に話す方ではない。
「……で、便所って仰ってましたけど、私いるからってこんな弱ってるヒカリ様残してくのが変だし」
なにか弁解したいのだけど、わたしが弱っているのは本当に事実なのでなにも弁解できない。それ以上に——言われてみればなるほど、一連の兄上(姉上)の行動はよくよく思い返す必要もないほど胡乱すぎる。
「そんな切羽詰まるほど水分摂ってもなかったし、なら実際どこ行ったんだろーな、とか……」
「……
「ヒカリさん、呼び方」
「呼び方と仰る時点でもともと確信あったでしょう……!」
「そうなのだけども」
ミツバ(総三)さんが困り眉になったのとほぼ同タイミングで——ブーッブーッとバイブレーション特有の籠もった音が響いた。ミツバ(総三)さんがペットボトルを持つ手とは反対の手、つい先程からひっきりなしに弟(妹)さんから連絡が来ていた携帯端末だ。メッセージの短い通知音ではなく、アラームのごとく長音が鳴動する。
「月雄さんからだわ」
ミツバさんが端末のディスプレイをタップする。
「もしもし、なにかありました?」
『良い報せと悪い報せ、どちらから聞きたい?』
「どうします?」
「……どれも聞きたくはないですね」
「なら私が決めてしまうわね。やっぱり良い報せからが定番かしら」
駄々を捏ねるわたしの主張をミツバ(総三)さんはさっさと丸めてしまった。
『良い報せとしては、実際にかぶき町地下にはデコボッコ教団が地球に作った拠点があった』
「それは、良いことね」
『ここまではな。悪い報せ第一弾、ワクチンらしきものがどこにもない』
また子(又兵衛)さんが「……当たっちゃった……」とぼやいた。
「……というか、第一弾ってなんですか?」
「第二弾があるのかしら」
『第二弾』
あるみたい。
『デコボッコ教の教祖の姿がない。そもそも、拠点にいたのは巡回要員同様、すべて下っ端だ——切り捨てたところで問題のない、蜥蜴の尻尾』
月詠(月雄)さんの言葉は通話越しでもわかるほどに苦々しげだ。
『そして今し方入った第三弾』
「今し方???」
『道中で万事屋および
月詠(月雄)さんが頑なにこちらの名前を呼ばない理由は理解した。律儀に兄上(姉上)との約束を守ってくださっているらしい。
約束を守ってくださっているのはとってもありがたいのだけどぜんぜんそれどころではなくって。
「……動向が筒抜けでは?」
『黒幕からそのように話しかけられているのが現在進行形』
それってつまり、詰んでませんか?
『進展があったらまた連絡する』
月詠(月雄)さんは心なし焦った口調で言うと通話を切った。ティロン、とLINEアプリ特有の終話音がのんきに響いた。
「……困ったわね……」
数十秒の通話時間だけを記録したディスプレイを前にして、ミツバ(総三)さんですら途方に暮れたようすでつぶやいた。
「せっかくできた力こぶが消えたままになってしまうわ」
「さすがにもうちょっと他に感想あっただろ! あちょっと待っててかヒカリ様、ヒカリ様?」
「……」
「へ、返事がない、ただの屍はマズイッス……! しっかりしてください、なにか手はあるは——」
——まばゆい閃光
「——ず?」
本当に真剣に打ちのめされてテーブルにみたび突っ伏したわたし、の肩を揺さぶっていたまた子(又兵衛)さんがふと動きを止めた。
「……ヒカリ様」
「……今ちょっとお返事する気力がございません」
「気力出して。ヒカリ様顔上げて見てください! 戻ってますよ!」
「慰めはいいので……」
「慰めじゃなくて本当に戻ってるわ。目を開けて。ついでに今度こそ、私の力こぶも見て……あら? できない」
……。
もしかして、お二人の声がいつも通りの高さ?
おそるおそる顔を上げて、自らのてのひらをまじまじと見る。相変わらず剣だこやらあかぎれにまみれているけれど、先程までのひと回り大きな角ばったてのひらではなく、生命線が長いと小太郎さんに評価された手それそのものだった。
周囲を見回す。
また子さんは「あーよかった」と一息ついてだぼついたジャケットを肩に掛け直し、ミツバさんは捲った袖から覗く己の細腕を見つめて首をかしげていた。
「デコボッコ教団のウイルス、もしかして、筋力を減らす効果もあるんじゃないかしら」
「ねえっしょ。現実を見ろ」
また子さんがとうとうすべてを諦めてツッコミに回った。
わたしはとりあえず、サイズが一回り合わなくなったパーカーの首回りを手繰り寄せる。
「でもなんで急に……?」
「てめーらも戻ったか」
どん、と頭に慣れた重量が乗った。またもやテーブルに突っ伏しかけたところ全力で耐えて「ッ潰す気ですか!」わたしは叫んだ。愉快げに喉を鳴らす笑い方は聞き慣れた低音である。
「いつもだろ愚妹」
「そうですね我が愚兄、いつもの自覚があるならばこれを機に直してはいかが」
「検討はするさ」
「せめて善処までして!」
「さあなァ」
「しッ……中田サンも元に戻ったんスね。てか服も戻って……?」
「俺ァあいにくどっかのバカ二人の如く女装趣味はねンでね」
おそらく対象のバカ二人も女装趣味は特にないと思う。
「アンタも、世話ンなったな」
「楽しくお話ししていただけですよ」
ミツバさんはわたしの頭上のあたりに目を合わせて、肩をすくめてみせた。
「ところで、二度目のウイルス砲から十分くらいしか経っていませんけれど。お着替えして移動する時間なんて、ずいぶん余裕……あなたの差金?」
「……人を無闇に疑うもんじゃあねえさ」
わたしの頭にさらに体重が乗った。重い。確実に潰す気で来ています、この愚兄。
「そして疑うってンなら無闇に首突っ込むもんじゃあねえ。長生きのコツだぜ、オネエサン」
「ええ、今後は気をつけようかしら」
ミツバさんは飄々と微笑んでいる。
「ちなみに、先程も名乗ったと思うのだけど、私はミツバですからね。
「……次こそ名乗る機会がねえことを祈りな、
わたしの頭上から兄上の体重が退いた。「出るぞ」「りょーかいッス」「はァい」わたしは椅子をもとの位置に戻し、手荷物と、吐瀉物が入ったままの袋を回収。臨時休業中の団子屋のテラス席、縁石代わりの植え込みを行儀も悪く飛び越える。手荷物に入れたままの元の服にはどこかのタイミングで着替えるにしても、吐瀉物は本当にどうしましょうね。
「ソイツはそのへんにでも放っておけ」
兄上はわたしの手から手荷物だけを掻っ攫った。わたしは見事、己の吐瀉物だけを抱えるひとになりましたとさ。
「たしかに環境汚染も破壊ではありましょうが、しかし破壊って、なんというかもうちょっと美学持つべきでは?」
「持ったことあるか?」
「ありませんけどどちらかといえば人としての礼儀の問題な気はします」
「艦まで持って帰るわけにもいきませんし、テキトーにゴミ箱見つけて突っ込んどきましょ。てか、晋助様実際なにしてらっしゃったんスか?」
また子さんがパッパと捌いて兄上に水を向けた。
「第二案の下準備。無駄足になったが」
いつもの着流しに笠を深く被り直して、兄上はぼやいた。
「そもそも、ウイルス自体は人工衛星から撒いたってんなら、そりゃつまり遠隔操作できるってことだ。だってのに馬鹿正直に犯行現場に留まり続けんのは馬鹿か酔狂の仕業、教団がどちらでもねえならとっくに地球からとんずらこいてると思った——まァそっちが当たれンならそれに越したことはねえんで外注したがな」
このひとつまり拠点調査を月詠さんにそっくりそのまま押し付けて、自分はより確実な方を捜索したって話してます?
「で、そうなってくると必要なのは、人工衛星を操作する方法だろ。ヒカリが提案したカメラ無力化の如く、衛星をこっちで乗っ取るぐらいしか現実的な方法がねえ」
「……クラッキングです?」
「たぶんそれ」
たぶんじゃなくてそれだと思う。
通りがかった公園にゴミ箱が設置されていたので、袋ごと突っ込んで(近頃、外に設置されたゴミ箱の数ってめっきりと減りましたね……)身軽な姿へと早変わり。ゴミ回収の担当者には深く陳謝の気持ちを捧げよう。
「ヒカリがまともに動くならさておき、さっきまでのコイツはろくに使い物になりゃしねえ」
「ご迷惑をおかけしたことについては深く反省しておりますけれど、そもそもわたしってべつに技術者ではないんですよ」
「たぶん今の鬼兵隊の八割は、ヒカリ様のことエンジニア兼任幹部って思ってますよ」
「ちがうのに!」
「イヤそうなんスけど紅桜総責任者の時期がだいぶ長かったんで……あとなんやかんやでヒカリ様も律儀にいろいろ覚えちゃうから……」
「てめえの自己認識は置いといて、使い物にならねえなら別のアテを当たる他ねえ。ところで——」
ほとんど競歩の速歩は止めぬまま、兄上がわたしを一瞥した。
「おまえ、平賀になんか言ったか?」
わたしは思わず目をまたたかせた。
「……別のアテって、まさか平賀さんでいらっしゃったの? あなたデリカシーどこに置いてこられたんですか」
「臍の緒」
「うーん今からでは取ってこれやしませんね、であれば仕方ありませんか……」
「いくら御二人ったってツッコミ不在やめてください。私には過ぎた重荷ッスよ」
「また子さんにはそれだけのポテンシャルがありますとも」
「武器は磨いていくべきさ。期待してるぜ」
「良い感じに煙に巻こうとしないで!」
吠えられてしまったので揶揄うのもこのあたりにして、と。
平賀さんとお会いしたのは、傍迷惑金鍍金こと金さんの件が今のところ最初で最後だ。わたしは当時の会話を掘り起こせるだけ思い返して、首を横に振る。
「……たしかに以前顔を合わせる機会がございましたけれど、大層なことはなにも。せいぜいがあなたがご迷惑をおかけしましたねという世間話ぐらいかしら」
「へェ? それにしちゃあ……マ、そういうことにしといてやるか」
「どういうことかしら」
本当なのに。
「とにかく婆さんと化した爺さんと……まァ話をつけて、人工衛星の指揮権奪取を目論んだ。単に性別が転換するだけならそれ撃ち込みゃ元に戻るんじゃねえかとな」
「な、なるほど……その結果がさっきの二撃目ッスか?」
「言ったろ、無駄足になったって」
兄上はまた子さんの尊敬に満ちた視線に手を振った。
「乗っ取る前になんだか知らねえが、あいつらもっぺんかぶき町を狙って撃ってきやがった。しゃあねえから爺さんにはそのままシステム乗っ取ってもらって、用済みの人工衛星を自爆してもらったよ」
「自爆」
「あんなんに頭上陣取られて他人の気が向いた程度でコロッコロ性別変わるなんざ、どっちにしろごめんなんでね」
細い路地の先にアーチが見える。通行を防いでいたバリケードがガシャガシャと音を立てて畳まれていく。電柱に設置されたスピーカーが『町内の皆様にお知らせします』と喋った。
『地球に狙いを定めていた攻撃型人工衛星は無事破壊されました。これより特別戒厳令は解除されます』
「ア! 幕府のやつ晋助様の手柄取りやがった!」
「どうでもいいだろ。それよりさっさと……なんだよ」
わたしは兄上の着物の袖を引いて、右手側の大通りを指差した。歓声に包まれる町中に——言葉もなく、絶望を浮かべて立ち尽くしている複数名。その中には銀髪の華奢な女性まで混じっている。
「……銀さんでは?」
「……エあの女? でもさっきウイルスが——」
また子さんは首をひねって、あ、とつぶやいた。
「百華の頭が万事屋一行と合流したっつってましたね。てことは、光ったときはもしかしたら、あいつらみんな地下にいたわけで」
「二度目のウイルスに感染しなかったものだから、性別は再転換しないまま……」
それでもって人工衛星は、兄上と平賀さんがこれ幸いとサクッと自爆させてしまった。おかげで彼らは、元の性別に戻る手段を失ったわけだ。
なるほど。
うっかり大惨事じゃない?
「ッフ、アハハハ! 傑・作・だ!!!」
「大爆笑なんですかあなたは」
ここがたとえば一番街アーチの真ん前などであれば、指名手配犯の麗人が膝叩いて笑う姿はさぞ人目についただろう。我々がまだ路地裏から出ていないことに加えて、周囲は喜びを分かち合う人々が大勢いらっしゃるので、笑い声すら喧騒に紛れてぜんぜん目立っていないけれど。
「あの野郎、かァわいいツラしてンじゃねえか、斬るだのなんだのほざいてたわりには無理そうだなこりゃ! フハハハ」
「ツラが良いだけの女に惑わされないでください!!!」
「また子さんが一番かわいいですよ」
「ヒカリ様ありがとうそうじゃねえ!!!」
「というか先程の兄上も大概かわいらしかったですけれども」
「やかましい」
「突然スンとしないで」
我々も言ってられる立場じゃなかったんですよ。わかってますか。
ハーと溜息をついた兄上が「笑ってる場合でもねえ」目元の涙をぬぐう。このひと涙出るほど爆笑してる。
「さっさとずらかるぞ——ふ、ククッ」
「まだツボってません?」
「この調子だとしばらくツボってそうッスけど」
「オイ、なんなら真選組もいねえかアレ。何枚か撮ってから行くか。しばらく笑える。ネタにしてやろうぜ」
「兄上ってふつうに性格悪いですよね……」
助けないのかって?
あのまま諦めて生きていくひとはわたしたちの敵じゃないかな。
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最終的には、大爆笑の兄上をまた子さんと二人で引きずっていくことになった。本艦に辿り着くと「おかえり」「ただいまでーす……」顔を出した河上さんが仰って、すこし首をかしげた。
「……また子共々、見慣れぬ服装だな。丈が合っておらん……というより、男物では?」
「あなたってけっこうファッションの目利きができますよね」
常日頃サングラス・ロングコート・三味線装備のわりに、意外と。
「まァ音楽プロデューサーはMVも作るので。拙者は知識を入れた上で無視している」
「知見です」
「先輩ナイス! それで思い出した着替えンの忘れてた。着替えまーす! もうミニスカもOK!」
「何の話?」
また子さんは嬉々として艦内に向かってしまった(自室に戻るのだろう)ので、河上さんの言葉はただ宙に浮いた。
「わたしはあまり思い出したくないので兄上にでも聞いてください」
「当の晋助が転がっているように見えるのは拙者の幻覚か?」
傍らを見れば、兄上は思い出し笑いで身体をくの字に曲げて力尽きていた。今回の銀さんと兄上の勝負は——銀さん側には勝負していた自覚もなく、なんならこちらの自爆でしかないのだけど——兄上の負けみたいだ。二百と何敗目でしたっけ?
「ツボってるみたいです」
「ウム……それは当然、見ればわかる……何故ここまでツボっているのかはまるでわからぬが……」
「わたしもこの際着替えてきますね。兄上、復活したら昔の戦装束の件お願いしますよ……聞こえてます?」
「拙者に説明する気がないな?」
「ですから、思い出したくないのです」
わたしはさっさと話を打ち切って「ではよろしくお願いします。赤ん坊でもないので窒息死はしないでしょう」「窒息死を視野に入れるほどの爆笑なぞ拙者の手に負えぬよ。え? 本当に任されるの?」困惑十割の河上さんに兄上を任せてしまうことにした。自室に戻って、元の服……は、そういえば吐いたせいでちょっと汚れていた。お洗濯に回すとして、いつものインナーと、この際新しく下ろした小紋を身にまとう。気分転換だ。
「こんにちはー」
「ちわ……ってヒカリ様か。こないだ中田に古文書の解読振ったらしいな」
「あら海原さんお久しぶりです。古文書解読はあのひと、まるで役に立たなかったので振ってはいません」
「カワイソー」
海原さんはまるで可哀想とも思っていない口調で相槌を打った。わたしよりも古株かつわたしよりも年上なので、出会いから今に至るまで取って付けたような様付けの他は、まるでタメ口だ。人手不足のころの医療班はわたしと彼で回していた。
「でなんのご用事。また怪我したの。骨折るくらいだと君来ないしな。今度は内臓破裂させた?」
「怪我はしてません」
それにしても信用なさすぎるでしょ。
「医療班ってDNA鑑定やってましたっけ?」
「研究の方で手ェつけてはいる……なんか確認したいの」
「とりあえずはこちらを。できればゲノム解析そのものもほしいのですが……もしかしたら、追って照合用に毛髪か血液をお渡しするかもしれません」
「ンまハイりょーかい、優先レベルってどんくらい」
「急ぎではないものの、兄上のご意思でもある、のラインです」
「そりゃ喫緊ではないだけの最重要タスクだね……」
チャック付きポリ袋に入れた毛髪をお渡しすると、海原さんは包装越しにまじまじと薄色の毛髪を見つめた。
「あ毛根は一応ついてんな。つっても一本ってなると、鑑定はちっと心許ないかも」
「ま、いわゆるダメ元です。成果がないならないで、別の手だてを考えなければね」
「ふうん……? とりま回すだけ回しとくよ。ところでヒカリ様ねー最近艦離れてたって聞いてっけどな。飯食ってんの? 顔色悪化してんよ」
「た、食べてますが……?」
チャック付きポリ袋を収納し、ついでのような素振りでわたしの下瞼を指で引かれた。眼瞼結膜を見られて「貧血ではなさそうだな……」ナチュラルに健診されていてまるで信用されていない。
「なけなしの威厳が消えます」
「総督にちょくちょくしばかれてる人間にもとより威厳なんてものは存在しない」
「正論ってとっても心に痛い……」
「こないだ艦内引き回されてたのあれ結局なに」
「全国放送デジタルタトゥーの件かしら……」
「ア手配書更新か。そら怒られるわ」
下瞼から指を離されたわたしは頭を抱えた。現在医療班統括として、艦内に常駐せざるを得ないひとにさえ把握されている。相当だ。
「君ったら昔は大人しかったけど、いろいろやらかすようになったなー。立派に問題児だ」
「な、なにも嬉しくない」
「まァ中田曰く〝戦時中の総督も大概やらかしてたんでどっちもどっち〟って話だがね。よく似た兄妹なんだろうさ」
「本当になにも嬉しくありませんね。……あら? 中田さんって第二次参戦していらしたんですか?」
「ン? ウンそうらしいよ、あのちゃらんぽらん小心者、一応初代鬼兵隊の生き残りだって。人に歴史ありだ」
「へえ……」
あのひといつもふざけた言動してるわり、ちょくちょく伝え聞く過去が若干重いのですよね……。
「マとにかくよろしくお願いします」
「あーいよ——あ、総督」
海原さんがわたしの背後に視線を移す。振り返ると、兄上は薄汚れた装束を小脇に抱えて、片手でチャック付きポリ袋を振った。色の薄い毛髪が複数本、収まっている。
「コレも頼む」
「見つかったんですか」
そして爆笑は収まったんですか。
「鑑定とまでいけるかわからねえがな」
「……イヤまあハイ。追加の毛髪コレか……」
海原さんは片手で鼻を覆って、もう片方の手でチャック付きポリ袋をつまむように受け取った。
「……ところでやたらすごーく臭いますが、ナニ? いくら総督とはいえ不潔なものを医療フロアに持ち込まんでくれ」
「悪かったな。昔の俺の戦装束だ」
「たいへん申し訳ございません今すぐ切腹いたします」
チャック付きポリ袋を二つまとめてデスクに置き、海原さんは瞬時に土下座の姿勢に入った。
「兄上、意地悪しませんよ……」
わたしは溜息混じりに苦言を呈して「海原さんはお立ちになって。失言についてはお仕事で挽回してください……失言? ただの事実では?」「ヒカリ様、本当に伝説への敬意がないな」「あのこれ本当に怒られるべきはわたしですか?」茶番はさておき、兄上の御手から鬼兵隊制服を取り上げる。伝説だろうがなんだろうが過去の苦い記憶だろうが、洗ってないものは臭うのだ。本当に呪物が乗っていたことが現物で証明されてしまった。できれば証明されてほしくなかった。
「この際、洗いに出してしまいますがよろしいですか」
念の為に確認を取ると兄上は、取り上げるついでに畳み直した戦装束を片目だけで見下ろして「……マそうだな」頷いた。
「綺麗にしてなんの意味があると思っていたが。今見ると……それ以前に心底汚ねえ」
「よくお気づきになられましたね……」
皮肉です。
もちろん、当時の精神状態からしてどうしようもなかったのでしょうけれど。それにしてもでしょ。
「ちなみにこちらどこに死蔵されていたんですか。同じところにしまっていたものまで大惨事な気がいたしますけれど」
「さっきついでにまとめて捨てたから安心しろ」
「ええ……もう……あなたが良いならいいんですけれどもいえやはり良くないですねどこに捨てたの。隔離しておきましょう十年熟成はさすがになにか湧いてそう。しまっていた場所についても確認いたしますよほらほら」
「ゴミ部屋だと思ってねえか」
「普段は思っていませんでしたがこれとまとめて保管していたのでは正直大差ありません。お仕事の邪魔してすみません、依頼した件については成果に関わらずご報告いただけると助かります」
「ハイヨ……」
海原さんは疲れた表情で了承の一言をくださった。
医療フロアをさっさと退室し、洗濯と掃除と消毒のおおよその算段を立てる。兄上の袖を引っ張れば特に振り払われることもなく、無抵抗についてきた。
「すっかり元気だな」
「はいはい、ご心配をおかけしました」
わたしは片手で持ち直した戦装束をてのひらで撫でた。布地は擦り切れ、こびりついた泥土と血が粘土状に固まっている。さっきちらっと虫の卵のようなものまで見かけて見なかったことにした。本当に心底汚い。
皆が持ち上げる伝説の記録。わたしが知らない戦いの痕跡。……兄上たちが傷つき続けた過去の証。
「……まあデコボッコ教団には本当に二度と関わりたくもないのですが」
わたしはつぶやいた。
「ただ……わたしがもしも、はじめから男だったのなら」
もしも、から続く想定が実現可能性のないのであれば、もはやその語りに意味はない。仮定法を唱えたところで目の前の現実に連なる過去がすり替わることはない。そんなことはわかっている。
もしもわたしが男であったなら。語り部のいない幕間なぞ、存在しなかっただろうか。
もしもわたしが男であった、なら。
「あなたがた、あのときわたしを連れて行きましたか」
このひとたちの傷跡の末席に、わたしは加わっていただろうか。
兄上はやはり大人しくわたしに袖を引かれている。かつてのように振り払われることはない。
間違いなく過去と今は異なり、しかし地続きの延長線に成り立っている。
「かもな」
兄上は言った。わたしの方が歩く速度をゆるめないので、振り返らなければ顔は見えない。
「だがおまえが男だったら……まともにいようと努める後継が他にいたなら、高杉の家は俺が松下村塾に加担するまでもなく、さっさと俺を見限って勘当していただろうな」
「……」
「男ならおまえは講武館でも上手くやったかもな。上手くやっていたなら、上手くやっていると思い込んでいたなら、俺はあんときおまえを家から連れ出したかもわからねえよ。桂も銀時も、接し方は違ったろうさ」
袖を掴んだままの手を解かない程度に腕を引いて、兄上はわたしの手の甲を親指でなぞった。
「つまり、そもそも——先生が連れ去られたあの日の時点で、おまえは、そこにいなかっただろう」
ある春のあけぼのにはすでに焼け落ちていた松下村塾。生徒たちの手習いの紙束を〝先生〟はだいじに取っておいていたから、すべてがとってもよく燃えた。薪木に事欠かぬ屋敷は盛大な炎をあげて燃え尽きた。なにもできない子どもの耳の奥では兄弟子の慟哭ばかりが残響をともして、溶け落ちた紅はもはや見つかったとて使えるものでもなかったろう。あのときも肌身離さず持っていたから免れた教本だって、もはやとうに失くしてしまった。身ひとつさえも踏み躙られて、のこされたものはごくわずかだ。
「そういう話か」
「……マ、そうですね。そういう話になりましょう」
わたしは首を横に振った。まったくもって戯言だ。人生はいくつもの変数によって枝分かれし、それらは相互に複雑に絡み合う。わたしの性別はたかだか一因子に過ぎず、それひとつが変わればたしかに大きく違っていただろうけれど、一方で何事もすべてが上手くいくわけでもない。
それでも口にしたのは、先だっての経験をまだ引きずっていたのと——単に、ちょっとした気の迷いだった。
「さて、洗濯ですが……ンーそれにしても本当に汚れていますね。洗濯機に入れると洗濯機の方が壊れるんじゃないかしら、とりあえず延々水洗いするのがなんだかんだで一番まし……?」
「ほぼボロ雑巾だろ、捨てたって構わねえよ。どうせ手がかりになりそうなモンは海原に渡した分で最後だ。血のあたりはもう完全に混じって誰のか判別つかねえ」
「捨てたいんですか? あなたが積極的に捨てたいと決断したならば、わたしはその言葉に従いましょう」
「洗濯の方が手間だろ」
「ふふ。わたしを理由にするのはすこーし、いかがなものかと存じます」
わたしはあくまでも軽やかな声を心がけた。
勝手にこちらの手の甲ばかりをなぞっておいて、離れようとする指をこちらから掴む。
「兄上、あなたはわたしを大概に心配しますけれどね。あなたはあなたで、自らの傷から目を背け続けている自覚くらいは持つべきですよ」
「……一丁前の口ばかり叩きやがる」
「誰に似たのかしらね」
「責任は俺ってか」
「いいえ。わたしにはわたしの選択があったように、あなたにはあなたの選択があるでしょう、という話です」
指から辿って、てのひらを握りしめる。兄上はやはり振りほどかなかった。
「先ほどは意地悪を申し上げました。以前にも述べた通り、置いて行かれることには慣れています。あなたたちはたしかにわたしを置いていく選択をしましたが、その言いつけを振り切ってでもついて行かなかったのは、わたしの選択です。そして、あなたが仰る〝ボロ雑巾〟を十年にわたって捨てられなかったのは、これまたあなた自身の選択でしょう」
それが目を逸らし続けた結果だとしても、たった十数人から再建した鬼兵隊は何度も拠点を変えている。艦だって直近でも紅桜の件で一回総取替があった。移し替えて持ち替えて一緒に抱え込んできたそこに意図がないとは言わせない。
「わたしを理由にしたら捨てられますか? そうでしょうね。他人に理由を委ねるのは、楽だもの」
てのひらが少しだけわたしの手を握り返した。
「……育て方間違えたと思っていたが。……ったく、勝手に育ったな」
「あのわたしあなたに育てられた覚えはありませんからね本当に」