前略:
意識喪失する寸前の高杉晋助の言葉「あのじゃじゃ馬とうとうやりやがった……」
迎えに来ていた河上万斉「(無言で深く頷く)」
高杉を担いでいた神威「(無言で小さく頷く)」
➤
「諱と通称を区別する文化は、もとは中華の実名忌避から来ている」
小太郎さんが紙面に指をすべらせる。利発な神童、竹刀を振る速度は年々鋭く、力強さを増し、一方でまだ児童の柔らかさを宿している。
「実名敬避俗だ。たしかにたとえば、天子様を名指しするなぞ以ての外、無礼とされる。しかしそもそも我が国の文化ではなく、昨今ではせいぜい貴人が大切にする程度のものでしかない」
わたしはそのやりとりに心当たりがあった。だいぶん前の記憶だ。十年、二十年。それくらい。〝先生〟と銀さんについて行ったそれよりもあとの話であることは、確かだ。
「俺たちは武家だ。本名というよりは、公的な場での呼び名に近い。なんなら士籍ももはやないようなもので使い所もない。第一俺はともかくとして高杉は似合わんだろう春風だぞ春風」
「黙れ孝允」
「なんと無礼なッ!」
吼えた小太郎さんに「そもそも呼んだのおまえが先だろ、しかも二回も」兄上は顔をしかめて耳に指を突っ込んだ。
「甘ったれの我儘に律儀に構うからつけ上がる」
「ひどい……」
「ほら見ろ、すぐ被害者面だ」
「兄上にはご迷惑おかけしてないじゃありませんか!」
「聞こえてきてうるせえ」
本当にひどい、の目で見上げると兄上は鼻で笑った。ほんとうにひどい!
「だってのにクソ真面目生真面目尺定規」
「まったくおまえは口を開けば憎まれ口ばかり。そんな子に育てた覚えはありませんよ」
「育てられた覚えがねえよ! 存在しない記憶生やしてんな」
「おまえの講武館における大暴れを上手いこと言いくるめ、食事を抜かれたら握り飯を差し入れてやり、縄で拘束されていたら切ってやったのに」
「……。だとしても育てたわけではねえだろ」
兄上の回答にはちょっと間が空いた。
並べられた物事がすべて実際に過去にあった事実であると、わたしでさえも知っている。
「なにヅラはヒカリだけじゃなく高杉も育てたワケ」
「話をややこしくしやがる天才が首突っ込んできやがった」
銀さんがひょこりと顔を出す。このときは成長期の妙で、彼は小太郎さんよりも背が低かった。
「そこの兄妹は性懲りもなく喧嘩してんの。まーた松陽からゲンコツ喰らいかねねえのによくやるよ」
「銀さんほどじゃあございませんもん」
「俺は悪ガキだし慣れてっからいーの。でも痛いぞーゲンコツ。おまえは絶対泣くね、ぜーったい泣く」
「慣れていらっしゃる銀さんを盾にします」
「やめてね?」
「は? 俺の方が強ェのになんでコイツが盾だ」
「今ンとこ俺が勝ち越してますが???」
「兄上いじわるなさいますもの。ヤダ」
「甘ったれのクソガキがなんかほざいてやがる」
「張り合うためだけに先生の拳骨を何度も受けたらば、さすがに死なないか……?」
小太郎さんが訝しむ。その隙に銀さんは身体をねじ込んで、小太郎さんの手から本を掠め取った。開いていた頁を眺めて「あー」とこぼす。
「アレだろ。姓は諸葛で諱が亮で字が孔明ってやつだ」
「そうですけれど、どうして孔明なんですか?」
「松陽の話も三国志はわりと面白い。でもなんでコレ?」
「……ヒカリって、直球で実名なんです」
わたしは渋々説明した。
「武士でもうちの家格程度では、おなごだとあんまり、諱だとか通称だとか区別しないもので……」
「で、駄々捏ねてるのがこの女」
「もう兄上うるさくてヤです……」
「兄貴に口答えすんのはこの口か」
「み゙ゃーッ」
「なに今の発音」
「おまえそろそろ本気で嫌われるぞ。すこしは優しくすることを覚えたらどうだ」
引っ張られた頬を手で覆って、めそめそしながら小太郎さんの後ろにへばりつく。小太郎さんはわたしを庇いながら兄上を諭した。「下心ありきの奴がなに言ったところで」「下心抜きにしても優しくはすべきだ!」「少しは下心自体を否定しろやてめえ本当に……」低く唸った兄上は、見るからに不機嫌な目つきでわたしを一瞥する。
「どうでもいいだろ名前なんて」
「……だって」
「だってがなんだよ」
本名は大切にされるべきだから、滅多に呼ぶべきではない。呼ぶならば相応の仮名を用意する。と、いうのが諱と通称を分ける意図だ。兄上にはそれがつけられた。待望の跡取り息子だったから。小太郎さんにもつけられた。早逝なさった御両親はそれでも小太郎さんをきちんと、だいじにしていたのだと思う。……わたしは、そうではない。
当時のわたしは、父母にはまるで大切にされていなかったことを、いい加減理解していた。そのような感情の機微を説明したところで、無意味なことも理解していた。
「そんなん言ったら俺苗字もなんならないけどな」
銀さんはケロッと言ってのけた。その通りではあり、孤児たる銀さんの前でわたしの親との確執を話すべきかというとそうでもない。
「吉田じゃないんですか」
わたしは小太郎さんの背後から顔を出す。銀さんは唇をとがらせた。
「エーちっと平凡過ぎね?」
「怒られるぞ銀時」
「つくづくしょうもねえ」
兄上はくだらないとばかりに平べったい目をした。
「だから俺もオトコノコだけど諱とか通称とかねえし……ア、そういう意味じゃオソロっちじゃん。俺ら名前ひとつっきり同盟」
「……同盟の誼で兄上をケチョンケチョンにしてください」
「はっはーん。銀さんに任せなさい、次の稽古でギタギタにしてやるよ。代わりにおやつ寄越しな」
「しつけが足りなかったか?」
「足りてます、足りてますもの。近づかないでッ」
「廊下を走らなッ……き、聞こえてないな……」
愕然とする小太郎さんと「新手のトムジェリ」とぼやく銀さんを取り残して、わたしは兄上の魔の手から逃げんと足掻いた。
無駄でした。
門前まで逃げ延びたところで背後からの手に捕まえられ、わたしはこめかみぐりぐりの刑に処された。
「ちょこまかと動きやがって」
「兄上がいじめるって〝先生〟に
「言ってみろよ。言えるもんならな」
「お、脅されてる……」
兄上はべしょべしょになったわたしの頬をてのひらで拭って「春」つぶやいた。わたしは目をまたたかせて涙を落とし、兄上を見上げた。
「なんですか」
「春風から一字取って、春」
兄上は、もうわたしからは既に視線を外していて、自らよりもずいぶんと上方を見上げていた。
「そんなに欲しンなら、もうそれでいいだろ。いつも呼ばれてる方は通称で、こっちが諱。べつに後からつけちゃならないなんざ決まってもない」
このときの松下村塾は近場に桜の木があり、葉桜の緑まじりながらも花を咲かせていた。兄上はこの桜の木を気に入っていて、たびたび見に来ていた。兄上の眼差しは見事な枝振りの中にまぎれる桜の花を眺めているようだった。
「ちょうど今も春だ」
「……そんなに同盟嫌ですか? 銀さん怖いの?」
「そろそろこめかみ握りつぶしてやろうか」
「ヤ゙!!!」
兄上の手をはたいて、背中に回る。位置を特定できなければ握りつぶされはしない。着物の端を掴んで肩甲骨の間に額をこすりつけると「……邪魔」兄上は辟易した声で言った。気にせず背中に頬を寄せる。ちょっと着物の布地でのこりの涙をぬぐうと気付かれたのか後ろ蹴りが飛んできた。ぴょんぴょんと跳ねて避ける。
「ちょうどって仰いますけれど、もうすぐ夏が来ますよ」
「嫌なら夏でも秋でも冬でも梅雨でも適当につけりゃいいだろ」
「いーえ。春です。春。春だもん。あとから兄上が仰っても返しませんからね。このままですからね!」
「っとうにうるせえ勝手にしろ」
露骨に面倒そうな言い草で、兄上はしかしわたしを振り払わなかった。春の風が葉桜の合間を駆け抜けて、サワサワと葉擦れが響き渡った。
過去は遠い。あれだけ聞きなじんだ幼い時分の彼らの声でさえ、台詞自体は覚えていても、音声としては再生できない。顔の細部もあいまいだ。
なんでもない春の日の出来事を勝手に大切に抱えていたわたしでさえ、そうなのだ。二十年近くも経っていまだに本気にしていると知れたらば兄上にはさぞ驚かれるだろう。
あの桜の木はずいぶんな大木だったけれど、それはつまり老木にも等しく、翌年訪れた大きな台風でだめになって伐採されてしまった。切株は、伐採からいくらも経たずに落ちた雷で跡形もなく燃えた。
➤
ササササカサカ、チチチ。小さな物音に導かれるように意識が浮上する。懐かしい記憶を俯瞰するように見ていた。レム睡眠だ。体力回復には深い睡眠が必要なのだけれど、ここのところどうも眠りが浅かった。
牢の端をネズミがちょろちょろと動いていた。先程の物音はこれが原因らしい。たぶん食いでがある——ただ、火を通さずに生肉を食べるリスクと天秤にかけるほど、今回は、そこまで飢えているわけでもない。命拾いしましたね、と思いながら目を瞑る。疲労した神経には視覚情報すら煩わしかった。
指の爪が皆剥がされてしまった。骨折はもう慣れたもの、水責めは懐かしさすらある。石抱きは耐えられないと判断されたのか、今のところ行われていない。個人的には皮膚を刃先で丁寧に剥かれたのが地味に痛かった。いちばん慣れている背中だといろいろ助かるのだけど、拷問対象が言って聞いてくださるならば拷問官という職業にはそもそもつくはずがない。
苦痛との距離の取り方を知っている。状況を俯瞰することだ。これは視点の物理的な高さではなく、心の扱い方である。主観的に捉えるから馬鹿正直に苦しむことになる。
どのような方法で痛めつけられているのかを考える。たとえば刃はわざと切れ味がにぶったものを使われている。鋭い刃はとっても切りやすくて斬りやすくてつまるところ殺しやすい一方で、研ぎ澄まされたナイフを皮膚に入れても気づかずするりと剥けてしまうものだ。刃毀れしたものであれば粗い断面が皮膚組織に引っかかり、それを強引に押し進めるから、剥くというよりも、刮げ落とすようになる。勉強になりますね。苦痛は与えすぎてもいけないものだ。程々に心を折って、ときたま褒美のように休む時間を作り、睡眠の隙や、飲食物を与える。すなわちしつけと同じことだ。飼い慣らすには鞭と飴の塩梅こそが重要なのである。そういう点ではこのひとたちはたしかに上手かった。十年前の——まあ、わたしが知る比較対象よりは、ずっと上手かった。
そういうふうにちょっと離れたところから考え続けることで、痛い苦しいつらいと呻く〝わたし〟の部分を切り離す。箱をつくって、その中に入れる。その箱を外側から観察して、そういうものかと納得する。段階を踏むように調整すると受け止めるのは楽なわけ。あんまり距離を取りすぎてもよくない。解離を引き起こしかねず、なにより、己のコントロールを自ら手放すことこそ生存可能性を著しく下げる。
そういうことばかりは知っている。〝先生〟の朗読の声質も思い出せないのに、忘れられぬことばかり溜め込んでいる。この身はつくづく役に立たぬと冷めた気持ちだったけれど、なかなかどうして、知識とはときたま奇妙なタイミングで活用されるものだった。
無意味な話はおしまい。
ところで——わたしの体内時間はけっこう正確な方で、どこぞの血がつながっているだけのひとでなしのもとに置かれていたころも、人売りの商品だった時期も日差さぬ吉原でも、せいぜい誤差は数時間、日付レベルの誤差が生まれたことは一度もなかった。少なくともこの時点で、わたしが捕らえられて十日は経過していることは確実だった。
朧は、何故かは知らないけれど——あのひとの振る舞いは、わたしには到底理解しがたい——わたしが天導衆を謀った事実について、口外しなかったらしい。拷問官はわたしの傷が治らないことにはじめは訝しんだけれど「培養できたというのも所詮は少量か」と勝手に納得していた。それから明確に、加減された。生かさず殺さず。
加減されている。
口を封じるには殺すのがもっとも手っ取り早い。わたしだけが知っているという言を信用せず、情報の拡散先を確認したいのか——勘ぐったけれど、内容を判じるにそうではなかった。彼らは情報収集そのものではなく、わたしを飼い慣らすこと自体に目的を据えているように見えた。
少なくとも
彼らにはそういう理由があるらしい。
——何故?
そもそも将軍暗殺首謀者一味・かつ殺人、強盗、詐欺、教唆、密輸密売、内乱、外患誘致、と様々な罪状を既に冒している。本来死罪待ったなしだ。加えて握っている(と、思わせた)情報が情報だ。何故悠長に移送された? 彼らは不死の能力自体は有している。鬼兵隊内部では確定に近い推測でしかなかった情報は、天導衆の反応でほとんど事実と確定した。だから彼らが知りたいのは不死の機序そのものではない。であれば破壊方法だろうか? だとしてもなんのために? せっかく手に入れた不老不死を破られぬよう、対策を立てたいとか? ……あるとは思うのだけど、本質は違う気はする。直感に根拠はない。
牢の中には月明かりも差さない。薄暗く湿った石造りの建物は、換気もろくに行われず、据えた臭いが充満している。そろそろ鼻も麻痺してきた。湯浴みどころか厠もないのでわたしも大概に不潔な生活を送っている。後ろ手に拘束された指先で、ぬめる髪をすこしにぎる。縛りっぱなしの髪紐には、触れないことにした。これ以上汚したくもない。今のわたしはひどくよごれていた。
身体を丸める。かびた石床が頬にざらと不快な感触をもたらした。気にしてもいられない。身体を休める場所があるだけ上出来だ。
天導衆と天照院奈落は、わたしからしてみれば不可解な挙動をとっている。わたしに悠長に思考の間を与える程度には不可解だ。本当ならばわたしはそれらをきちんと見極めなければならない——というのに、わたしの脳は半分くらいはまるで言うことを聞いてくれない。疲れていることもあるだろう。制御しきれない頭が鬼兵隊の今に思いを馳せる。
鬼兵隊はどうなっただろう。兄上は様々な身体能力が地球人離れしている一方で、間違いなく地球産のただの人間でもある。最後に見かけた負傷状態を思い返す。最低でも意識不明、最悪は……死んでいる。どうにせよ、兄上が指揮困難、わたしが不在となれば河上さんに指揮権が渡される。……わたしの処刑がなされていないことは、世間に伝わっているだろうか? そうでないといい。あのひとたちはわりあい情に厚いから、もしかしたら、助けに来てしまう。ただでさえ大変な時期に無用な手間を割かせるわけにはいかない。
中田さんは引き継ぎしてくださったかしら。というかそれ以前に、あのひとはちゃんと生きて船に帰れたかしら。部下というだけで庇わせてしまった。そもそもわたしの部下にわざわざ就かされたのは、兄上の指示で、隙あらばやらかすわたしの目付役たる意図が大きかっただろう。あんまり気に病んでいないといいけれど。生きているといいなと思う。気にしないでいてほしい。わたしが無茶をやらかすのはそれこそ今更だった。
春雨第七師団——神威さんや阿伏兎さんはなんだかんだ生き残っていそうだ。云業さんは……生真面目なのでふとした瞬間に危ういところがあるけれど、夜兎集団はもとより生存率は高い。問題はその後、彼らは我々に加担したことで春雨母体に銃口を向けられた。夜兎は宇宙全体では、粗暴で、存在自体が不吉な嫌われ者であるから、ただでさえ拠り所をなくした今、苦慮しているかもしれない。
華陀は明らかにわたしおよび鬼兵隊をターゲットにしていた。彼女の怒りはわたしの不用意な発言を発端として、自らを踏み台にした鬼兵隊、それらを容認するどころか剰え本格的な同盟を組んだ現行春雨体制に向けられている。好き勝手している現提督は、なまじ夜兎であるからして、力で言うことを聞かせるにも難しい対象だ。元老院はさぞ扱いに苦慮していただろう。もとより種族固有の文化として、辰羅は報酬さえ確約してしまえば動かしやすい。手を貸す機序は理解できる。
逃げていてほしい。逃げ切っていてほしい。いずれ追いつかれるだろうとしても、せめて態勢を整えて反撃ができるくらいに——
——……置いて行ったわたしが願うことでもない。置いて行かれた側の行動も運命も統制できないものだ。この身をもってよく知っていた。
さながら自らの尾を追い続ける狗のごとく、いつまで経っても前進しない思考にわたしは嘆息した。意識して呼吸を行う。眠っている方が楽だった。体力は温存しなければならない。なにより、考え続けずに済む。
「……ウワ、鼠だ。気色悪い……」
「いったいどこから潜り込んでくるんだかな」
かすかに目を開ける。先程見逃した鼠は、番兵の刀によって突き殺されていた。
➤
どうにも眠りが浅い日々が続いた。断続的に過去の記憶を見るのは、それだけでもないとわかっている。
わたしは過去なぞ無価値と切り捨てたつもりでありながら、かつての〝春〟の記憶を手放せていない。
「弱っちい」
「おまえが一番実妹に容赦なくて俺は引く」
わたしはそれまでの間に兄上に稽古で散々しばかれて、泣きながら過呼吸気味に竹刀を構えていたら「さすがに一回休憩を入れましょう……」と〝先生〟に気遣われたところだった。
「な゙、泣い゙てる゙だけで戦え゙ま゙す……!!」
「号泣べっしょべしょの顔になんなら顔面めがけて竹刀入れられんのはさすがに高杉だけだからね。俺たちそこまで外道になり切れねえからね。これ稽古。戦場で
「でぎま゙ずも゙ん゙」
「おまえができるのは良いとしてもこっちがしたくねえの。ハイハイもう良いおまえの主張はよーくわかりましたとりあえずティッシュ」
盛大に洟をかむと「きったねえこれだから泣き虫は」兄上が顔をしかめた。ダバッとまた涙が出た。
「高杉、おまえは本当に言動を改めるべきだからな。いつもその言い草だから正しい説教でも八割聞き入られていない自覚を持て」
「そもそもコイツが泣き虫なのはだいたいテメエのせいだろ桂」
「人聞きの悪い……」
わたしの背中を擦りながら、小太郎さんはぼやいた。
「〝将たるもの誰より怯え誰より恐れ、自らの弱さを知ることこそが生き残る道だ。涙を見せるのはむしろ将たる資質がある〟だのなんだのと言いくるめて」
「……ん?」
小太郎さんが眉を上げ、兄上を振り仰ぐ。
「おまえその話のとき、いたか? 講武館でヒカリが寄ってたかって虐められていたときに諭した言葉のはずだが」
兄上は何度か目をまたたかせると、視線をスッと逸らした。
「……今いいだろそれはとにかく」
「本当にこの子ったら素直じゃないんだからもォ。イタッ!? おいこちらは丸腰だぞ!?」
「ハン! 油断してる方が悪い」
「おやおや、少し席を外している間に喧嘩とは」
〝先生〟がにこやかに述べたかと思えば、兄上と小太郎さんが双方、見る間に道場に杭打たれた。(※松下村塾では〝先生〟の拳骨で地面や床を突き抜けて埋まることを俗称的に「杭打つ」と呼んだ)
銀さんはいつものやる気のない死んだ目で、埋まったふたりを眺めた。双方完全に気絶している。どうしようかなとわたしも眺めていると「……あとで掘り起こすか」隣の兄弟子はさっさとあきらめた。
「床の補修はそんとき考えるとして……てかおまえ、家だけじゃなく、昔通ってたガッコでも虐められてたの?」
「……兄上が暴れん坊将軍どころではなかったので……」
「ああ……」
わたしはもう一度洟をかんだ。ハンカチを取り出して目元を拭く。
「もともと女が藩校に通うなど以ての外で、高杉家がどうにか押し通しただけのことでしたから。稽古のときには多数で囲まれることもしばしばあって」
「ヤバいね武家の確執」
「頑張って叩きのめし返して」
「おまえもヤバいね。囲まれたんだろ? なんなら年上とかいたんじゃねえの?」
「鍛錬を怠っている御子息なぞに負ける謂れって、ありますか……?」
「たまに高杉の地が出てくンだよなこの子。てか叩きのめし返しといてなお泣く要素ある?」
「……上位の武家の御子息の顔に泥を塗ると、お家で、その、いっぱい怒られて……」
「当時のおまえってホント全方位詰んでんね。生きててえらい」
生きている事実だけで励まされること、あるらしい。
「小太郎さんに気にかけていただけるようになってからは、頻度は減りました。小太郎さんって口が上手いのですよ。いつも助けてくださるの」
「キラキラした目で語りやがる。銀さんそういうのいいから……」
「どうして……」
「若人の青春に耳を傾けたくなるのは大人の特権ですからね」
「俺はそれ以前に身内同士の青春は普通にキツイ派です。コーヒーを寄越しな。ブラックで頼まァ」
「銀さんがコーヒーにミルクも砂糖も入れないだなんて……!?」
「麦茶ならありますよ。先程用意しました」
〝先生〟は鼻歌を歌いながら(……このメロディ、六甲おろし……?)麦茶をコップに注いだ。「しけてやがる、ガキ扱いだ」銀さんは悪態をつきつつも麦茶のコップを手にした。差し出された麦茶をわたしも大人しく受け取って、口に含む。稽古による発汗と盛大な号泣は下手をすると脱水を引き起こす。なんなら以前それで倒れた。
「実際、弱きを認められるのは良いことです。自らの弱さを自覚して、それでもなお立ち上がる。適切に人に助けを求める。なかなかできることではありませんよ」
「上手いことまとめるよねー」
「このように斜に構える銀時は典型的な悪例です」
「ンです〜ぐ俺を反面教師に仕立てる」
「君はもう少し、素直に人に助けを求めることを覚えるべきですよ」
不貞腐れた銀さんを〝先生〟は静かに諭した。
「たった一人、誰にも頼らず生きられるように強くなったところで、それは裏を返せば己の弱さを曝け出すことをただ拒んだだけに他なりません」
銀さんは居心地悪そうな顔で、道場の床にあぐらをかいた。
「そう言うけど? 先生こそさあ、誰かに助けを求めるとかしなそうじゃあないですかね。俺見たことねえもん」
「たまにはありますよ。ゴキブリ仕留めるとか」
「それはね」
「憎き巨人選手がどうか全員試合当日に腹を下すよう神頼みだとか」
「松陽てめーはマジで神に謝れ」
「阪神タイガーズはどんな小さな民草の願いをも広き心を以て叶えてくださるでしょう」
「阪
「神戸という地名はもとは神社に税を納める民戸を
さすがにだいたい神ということはなくない? とわたしは思った。
「ヘェ〜」
銀さんはさらにどうでもよさそうな相槌だけを打った。
「しかし、そうですね。……私もそういう意味では、君たちを見習わなくちゃあならない。自らの弱きを認めることを」
〝先生〟は柔らかに微笑んだ。
けれどわたしが泣き虫と謗られていた時期は遥か遠い。既に退路を断たれていれば逃げようもなく、泣いて助けが来るような環境はさらにごく少なかった。泣きすぎれば呼吸は乱れ脱水を引き起こす。そうだとしても背中を擦られて、すぐに麦茶を手に入れられて補填できる、そのような余裕を持ち得ているからこそできたことだった。
助けを求めて実際に与えられる幸運は、ごくわずかな人間にのみ与えられる。わたしはかつてはそうだった。既にその幸運を、わたしはとうに手放していた。無辜の人々を傷つけ他人の屍を踏み台に刀を振ることを選んだ。
自業自得のつけは巡る。
まだ立てる。まだ目は開く。まだ耳は聞こえる。まだ話せる。
まだ死に損なっている。まだ、息を、している。
だからわたしは大丈夫だと知っている。
蜘蛛の糸に縋る必要はない。その資格もない。
➤
ルーチンのように痛めつけられる他は、ほとんどの時間は眠ってやり過ごしていた。
「くれぐれも大人しくしていろ。余計な行動はすべて無駄だ」
その日もわたしを拷問蔵から引きずってきて牢に叩き込み、拷問官は念を押した。ガチャンと鍵をかけられる牢を眺めてわたしは口を開いた。
「ようやく待望の御方がお出ましですか?」
拷問官は立ち止まる。腕には烏の入墨が刻まれている。朧ではない。奈落首領と最後に会ったのは投降したあの時点だ。
このひとはいつもわたしの拷問を担当している。補助は何人か顔が変わっているけれど、主担当はひとりのままだ。朧の指示か——より、上の差金か。
「ずいぶんと遠出をなさっていたのですね。手を離せないご用事でもあったのでしょうか。それとも、あなたがたが用意に手間取っただけ?」
足の向き先が少しだけ変わった。
「なんの真似だ」
「なんの真似? こちらの台詞ですが。重大犯罪者をのうのうと生かしていらっしゃるのはあなたがたの方だというのに」
殺されぬ理由を考えていた。さすがにプロなだけあってずいぶん上手いけれど、しつけられるがごとく暴力を振るわれる日々は不快なくらいに懐かしい。あのときわたしへ命じられた要求は子を生むことだった——わたしには、既に生殖能力はない。だからそこではない。そもそもわたしがハッタリとして並べた手札は不死の解明とその破壊。うち解明は彼らが手中に収めているのだから、残りは一枚。ここまでは既に考えついていたことだ。
その先。
「収容されて半月以上も経って、今更わざわざ念を押される理由がそのぐらいしか思いつきませんね。天導衆にも序列があるもの? 役割分担だとか? 不死担当は別立て? それほどまでの重役の御方にわざわざご足労いただけるとは、わたくし幸せ者でございますね」
ゴシャ!
盛大に金属音が打ち鳴った。鉄格子が外側から強く叩かれたからだ。
彼らはいつも、武器のように錫杖を携えている。錫杖を下向きに構えて、拷問官はまるで無感情な瞳でわたしを見下ろした。
「挑発を以て情報収集を目論むとは首領に聞いていた通りだな。百舌鳥の名を冠するだけあって気が強いらしい。……立場を弁えろ。貴様は依然、天の意向ひとつで払われる小鳥に過ぎぬ」
朧は肝要なところを伏せただけで、わたしの情報は他まるで貫通しているらしい。顔を合わせるたびにやけによく喋っていらっしゃることだし、あの男、もしや口から先に生まれたタイプなのかも。無口そうななりをしておいて意外である。
「天の思惑は貴様には計り知れぬこと——しかし、貴様があまりに抗い続けるなればそれこそ」
錫杖が石床を突く。
「貴様が命を懸けて救わんとした鬼兵隊は、壊滅するだろう」
生物のカラスが黒いのは何故か。外つ国の神話においては嘘をついたために罰としてアポロンに染められた、我が国に伝わる逸話では、神が鳥たちの羽を染める際に欲張ったからとされている。現在研究されている学説では、黒色は森の中で迷彩の効果を為し、また光吸収率の高い黒色は紫外線等の有害な光波を防ぐ役割があるために生き残ったとする。
彼ら八咫烏は揃いも揃って黒く濁った目をしている。数多の外的刺激に耐え抜いた結果、何をも寄せ付けぬ装甲として身についたが如く。喋り方まで朧と似通っている。自我をも捨てる教育を受けてきたか。
「春雨から追放された兎ども、第七師団も同様だ。所詮、天が御慈悲をもって残党を見逃し、泳がせているだけに過ぎん」
わたしが牢内では拘束されているのはいつも両手のみだ。拷問蔵では柱に繋がれているし、連行されている間は複数名が取り囲む。逃げ出す隙はないことは一目でわかる。わたしひとりが逃げ出したとて、鬼兵隊が不利な状況にはまるで変わりない。
だからべつに抵抗したことはなかった。
「そうですか」
ガン!
渾身の力を以て牢の格子を蹴り飛ばす。
さすがに連日の拷問で身も弱っている。鋭く牙まで生えた鉄格子はたったの一蹴りでは折れなかったが、先程と同等には轟音が響いた。
「虎の威を借る狐でもございませんが……天が遣いを名乗り続けるがばかりに、いつしか自らをも巨大に思い上がるものでしょうか? ねえ八咫烏」
わたしはその大柄な体躯を睨み上げた。
「その首喰い破ってもわたしとしてはまるで構いませんのよ。わたしが、親切にも、我が同胞の命と引き換えにこのように大人しくして
「口の減らぬ虜囚め」
「お褒めくださるだなんてまったくご親切。百舌鳥の物真似に紛れておりますが、弁が立つことこそわたしの最たる特徴であります」
「説得力がある。その弁舌で自らの隊に災禍を齎した女が言うにはな」
奥歯を噛んだ。
わたしがもっとも愚かだったことなど、それこそとうに知っている。
「……ええ、もちろん、次はございませんよ」
「牢から出られぬ囚人に当然、次などない」
拷問官は言い捨てた。足音を立てずに去っていく。わたしは鼻を鳴らして牢の壁に背中を預けた。
とりあえずわたしを生かした理由が
漠然とした霧の中を探るような心地に舌打ちをこぼしたところで「行儀が悪いぞ」と諭す声が聞こえた。
……。
……諭す声が聞こえた、っていうか。
……そもそもふつう牢内で〝諭す声〟自体がありえないのだけど。
……気のせいかしら、なんだか、ものすごく、聞き覚えがあるような。
あるっていうか。
「——は?」
ざかと足が湿った石床をすべる。
うっかり空振った裸足を力を込めて置き直し、壁を伝って立ち上がってわたしはまじまじと左手側を見た。わたしが叩き込まれたときには空だったはずの牢は、ここ二週間とすこしで既にいくつか埋まっていたみたいだ。
左手横。空きを挟んでひとつ先の牢には、白装束に身を包み、ひとりの男が堂々とあぐらをかいている。
「高杉から確実に舌打ちがうつっている。とても良くない。昔はしなかっただろうに」
「よくないっていうかそ——ェ? ハァ!?」
「こら、声が大きい」
なに?
げ、幻覚?
「あの、わたしあなたの姿を現に見るまで正気を失った覚えはありませんけれど」
「正気を保った状態で敵にああまで噛みつくんじゃない。言いつけるぞ」
「なにもかもすべてどうにかご勘弁していただけたりなどしませんか?」
言いつけること自体も(いえ、その、言いつけるとしてまず誰に?)この場(※幕府管轄どころか奈落が簡単に出入りできる牢とくれば、おそらく死刑囚や重大な罪人のみが収容される)でよりによって説教から始まっていることも。とりあえずなんだかぜんぜん、わたしの願望による幻覚じゃなさそうということだけはわかりました。
しかし何故いらっしゃるのでしょうか小太郎さん?
「薄々思ってたが、やっぱりヒカリさんだったか……喋っていないとあんまり確信が持てなくてな」
「ウワッよく見たらばゴリラさんまでいらっしゃる」
「ウソだろとうとうアンタにも俺はゴリラって言われた?」
「失礼、真選組局長殿……」
右手横の牢ではうろたえるゴリラ——いえ、ゴリラではなくて——彼も白装束に身を包んでいるけれど、顔は見間違いようもない。遥か過日には伊東さん諸共抹殺する計画を立て、金さんの件では何故だか顔を突き合わせて話すことになり、少し前にも見かけたが、その際は万事屋の方々と共闘しているのを遠目に眺めたきりである。
「……真選組局長殿!?」
「タイムラグがあったな」
「けっこう素直に驚くモンだな……」
わたしが監禁☆拷問☆リターンズされている間に世間はなにがどう変化しているのですか? 前回の累計数年の経過とは異なって、まだせいぜいが二週間ちょっとですが?
「い、意味がわかりません。わたしはどうでもいいとして、最悪小太郎さんも置くとしましょう」
「置かれた!? 俺の存在が!?」
「真選組は少なくとも名目上は茂々公暗殺を防いだ立役者では?」
牢の中で奮然と立ち上がる小太郎さん(先程声が大きいとわたしを叱りつけたばかりで、コレ)を他所に、局長殿は顔をしかめた。
「牢に収容されるに足る正当な理由が……現将軍殿はいよいよ表立って、茂々公派を排斥することを決意しましたか? 逆賊のレッテルを貼るには血筋の正当性も罪状も用意するにはあまりに準備が不足しているように思いますが?」
一橋公派の足固めはまだ今ひとつ足りないまま、公がことを起こしてしまった。だから我々も、一足飛びに暗殺なんて面倒でハイリスクな手段を取る他なかったのだ。
「……ああ、おまえさんは情報がそこで止まってんのか」
低く声が這った。
真選組局長が収容されている檻から、さらに奥。白装束でも未だ、ヤクザもかくやといった風貌の男——しかしヤクザとは正反対の職業:警察庁長官たる松平片栗虎がいた。茂々公派閥の筆頭といっていい存在だ。
「将ちゃんは死んだ」
たいていのメディア露出ではサングラスを掛けていて確認できなかった目元は、年相応に皺も寄って皮膚は老化によって弛んでいる。それ以上に——明確な疲労を宿している。
「おまえたち高杉一味の撤退以後、将ちゃんは京の天子様のところに匿われたが……長年の友人にして忠臣に毒針を刺され、死亡した。そのご友人も死んだよ。おまえたちの暗殺を退いたってのに、俺たちゃみすみす……守りきれなかった」
「……ご愁傷さまです」
わたしは端的に述べた。もとより天子の周囲には天導衆の息がかかっていらっしゃった。さもありなんと言ったところだ。
「……まあそういうことだ」
局長殿が頭を掻く。
「事態を防げなかったとっつぁんと、俺にゃ、斬首刑の命が下った。執行は三日後。警察庁長官後任は佐々木、真選組も解散だ。俺ァもう局長殿じゃあねえのさ」
以前見かけたときより一回り小さな背中をしていた。
すこし頭をかしげる。
「佐々木さんが……後任の警察庁長官?」
「……おまえら高杉一味はさっさと手を切られた一方で、佐々木はしらっと一橋に仕え続けて、なんなら重用されているんだよ」
この説明は長官殿である。心底忌々しげに、手のひらが無意識のように懐をあさって舌打ちした。たばこを探していたのだろうか。
「とにかく、手を組むべき相手を見誤ったな」
「そのような意図ではございませんが」
「あ?」
一橋公が盲目なだけかと思いきや、これは幕府周囲関係者どころか、天導衆をも欺き切っているのかしら。あのひとが幕府側に素直に加担していると皆思い込んでいる状況ほど、滑稽なものもなかなかない。
「マ、なるほど。どうやら我が国はいよいよ斜陽でいらっしゃる。日出ずる国は今は昔、竹取翁の時代になりけり」
牢の隅に座り直す。嘯いたわたしに「……」長官殿も局長殿も、なにも返さなかった。
「ともあれ小太郎さんがいらっしゃるならそういうことでしょう。脱獄なさるなればお早めをおすすめしますよ。近日中に……もしかしたら、それこそ本日やもしれませんが。どうやら面倒な御方がいらっしゃるようですよ」
「先の会話か」
そもそも牢に収容されていたなら、彼らにも聞こえていたに決まっていた。肩をすくめる。
「斜陽と述べたのは比喩ですが、文字通りに今は夕刻にございます。季節を換算して、そろそろ日も暮れたころ。早めに動き出すべきかと」
べつにわたしは、彼らが憎いわけでもない。松平が警察庁長官にまで成り上がったのは戦争後の話で、真選組の創立もまた同様だ。邪魔な障害物ぐらいには思っていたけれど、わざわざ私闘を演じたいほどでもない。腐れ縁未満の誼には、忠告を述べる程度の価値はある。
「そうだな」
小太郎さんが頷いた。彼は懐に手を探り入れて「この丸薬を口に含むと、たちまち短時間の仮死状態を作り出す。死体に扮した俺たちを仲間たちが引き取る手筈だ」なんだかぬるっとありえない危険物が登場した。経口摂取どころか飲み込む必要なく仮死になる薬:とは。仮死ということは呼吸と脈が止まるわけですよね。神経毒なのはまず間違いない。果たしてなんの毒かしら……。器用に肺と心臓の動きを止めるわけでしょう。不随意筋にのみ作用するのは確定だとして……。
「これは俺のぶん。もとより近藤は無論のこと、松平の現将軍毒殺未遂および拘束についても聞き及んでいた。収容されているならば同じ牢だと思ったさ」
丸薬を選り分けた小太郎さんが「そして」ポンと丸薬を投げた。丸薬は格子をすり抜けて、てんとひとつ跳ね、わたしの牢まで転がり込んだ。
「これはおまえのぶん」
——すこし、口元が引き攣った自覚があった。
「……なんのつもりですか」
「俺がいるならば〝そういうこと〟だと察しがついたのだろう」
小太郎さんは残り三つの丸薬をてのひらの上で弄ぶ。「鬼兵隊幹部高杉ヒカリ、将軍暗殺の首謀者高杉一派の筆頭として拘束され、そのくせ何故かまったく処刑の日取り・晒し首の情報がない。生かされていると容易に予想がついた。重罪犯の移送先はかなり絞られる。おまえ自身が積み上げた屍から幕府が推察できるだろう危険性も加味して、脱出困難な……まあこのあたりは良いか」つらつらと並べられる御託はわたしの推察ともあまり大差がない。大差がないので尚更——
「つまりそういうことだ。——助けに来た。おまえも含めて」
助けに来た。
助けに来た?
……長官殿や、局長殿だけでなく、わたしをも?
「あなたまさかとは思いますがお忘れではありませんよね」
わたしはごっそりと声から感情を削ぎ落とした。
「攘夷党党主殿・桂一派の顔役、あなたを殺しにかかったのは我々鬼兵隊の兵です。それから先、桂一派と高杉一派は敵対し続けました。幕吏を殺しました。重臣を殺しました。無辜の市民を殺しました。けっきょく将軍暗殺にまでは至りませんでしたがそもそもその隙を作らんと暗躍し外敵たる天人の犯罪集団と手を結び勢力を拡大してきたのは我らにございます」
紅桜で高杉一派と桂一派の断絶は決定的となった。吉原での戦い、金さんとの件、定々公に対したとき、いずれも小太郎さんは攘夷党を率いるというよりは、個人として単独で動いていた。
だからわたしはこのひとの手を取った。取らざるを得なかったともいえる。
……そう言い訳したとも言える。
「そこの御二方はたしかに攘夷党の敵対者とはいえ、我々宇宙の嫌われ者と手を組んだテロリストほどの悪事はなさらなかったでしょう。それで? 助けに来た? ……
口角が勝手に上がる。笑顔でありながら、このひとには今まで、向けたことのない表情だったと思う。
わたしは実のところ——たとえば、兄貴分たる兄弟子とは違って——このひととの真正面からの敵対を、今の今まで避け続けていた。
「あんまり不誠実なことなさらないで。失望します」
威嚇の笑顔は見せたことがない。
「不誠実と思われるのは心外だ」
小太郎さんは特段、動じた様子もない。わたしがこのような態度を取るとわかりきっていたとばかりだ。
「仲間内には既に同意を得ている」
「説得でもなさったの。それは私情でしょうか」
「私情で動ける立場であったら私情をもとに説得しただろうが、この点は合理で説明した。体の良い重罪犯を処して現政府の手柄とせず、生かす意味を見出している
小太郎さんは長官殿と局長殿に順繰りに目配せした。
「……おまえさんが天導衆を落とした口説き文句は、将ちゃんはもちろん、ウチの悪ガキたちも余さず聞いちゃいた」
「つまり、御庭番衆や、増援の
長官殿の言葉に局長殿が付け加えて、続けた。
「奈落や天導衆が不死の能力を持っていて、それの打開策があんなら、そらあ喉から手が出るほどほしい」
「……ああ、なるほど、それをお求めで」
嘘はかんたんにつくものではない。時と場合によっては非常に役立つものの、反面このように、面倒な期待まで呼び寄せる。
「あいにくですけれども」
「ヒカリが天導衆に持ちかけた交渉の内容は、俺も新八くんから又聞きしている。あれはハッタリだな?」
「……」
視界の端では、長官殿が小太郎さんへ華麗な二度見をかましていた。伝えられていなかったらしい。協力関係を組んだ様子ならせめて言うべきではありませんか。確証がありませんでしたか。
「おまえが高杉を飛び越えてそのような研究を進めるとは思えん。進めるとしてもおまえはひとりでは行わず、必ず保険をかける。第一専門家ほどは医療にさして詳しくないと言ったのは他ならぬおまえだ。細胞培養となるとつまり細胞生物学だが、そもおまえが紅桜計画に深く関与していたから、専門分野があるとしても工学方面。単独での研究は土台不可能だ。奈落の毒を解くだけなら俺も銀時にも心当たりがあった。おまえは毒の血清を持っていただろう」
これ確実に辿り着く前から全部ばれてるし。
全部ばれていてなお言っていなかったみたいだし。
「俺はそのあたりはじめから終わりまでわかっていて無論仲間にはそこまで含めて伝えた」
露骨に聞いてなさそうな長官殿が「エッ、オイ……目論見が……」などとつぶやいていらっしゃいますけれども。
「その上でなお言っている。敵に露見していない事実自体に価値がある。おまえに敵が注目している事実こそに意味がある」
「そのためにお荷物を増やすおつもりだと?」
わたしは少し座位の姿勢を変えて、後ろ手をつなぐ拘束具を示した。彼らとは異なる。わたしは明確に逃れないように対策を打たれている。
「わたしには、あなたの判断は到底、賢い選択とは思えません」
「今はとかくに手札がないのでな。と、まで実際に説明して了承を得た」
小太郎さんはまるで正しいことを言っているような目をする。
「了承を得たということを前提に聞いてほしいが普通にすべてが建前だ」
「本当に何言い出していらっしゃるんでしょうねあなたってば」
「
……それを。あなたは。
あなたはそれを持ち出すのか。
今。
「……過去は」
わたしは声を絞り出した。
「過去は、変わりません。類似行為で代替を行なったところで所詮本質は不変のまま」
「そうだな」
「わかっていらっしゃるなら、いよいよ、なんのつもりですか。わたしは——わたしは大丈夫です。処刑の日取りが間近に迫るあなたがたとは異なり、わたしの嘘が破られぬ間は、命が保証されています。あなたが詭弁を弄して、これ以上のリスクを冒して、あなたのお仲間まで言いくるめて危険に晒してまで救う必要はありません。あなたたちとは違います」
早口にまくし立てている自覚があった。
わたしに自覚があるのだから小太郎さんには尚更、すべて理解できただろう。
「その嘘さえ破られれば、あるいはそうでなくとも用済みと判断されれば、おまえもまた大差はない。処刑の期日が決まっていないだけに過ぎない」
淡々とした反論が並べられる。射干玉の瞳がまっすぐにわたしを見据えている。目を閉じる。見たくなかった。
「なんなら今日、問題の人物が訪れるとすれば、下手するとおまえの死期は俺たちより早い。おまえが懸念しているだろう、鬼兵隊の無事も当然に保証されない」
「そういう意図じゃありません……ねえ、これ以上言いたくない。わたしに、よりによってあなたに対して、ひどいこと言わせないで。お願いですから……」
「……おまえは無自覚だったかもしれないが、ひどいことは既に、けっこう言われているぞ。俺は」
だから——だからそういう問題じゃなくて、
「だってあなたあのとき来られなかったのに今更、」
咄嗟に唇を噛んだ。血の味が口内ににじむ。唾液とともに無理やりに飲み込む。
小刻みに首を振ってわたしは身体を丸めた。
「……恨み言なんか、申し上げたって……」
今更、今更救わないで。助けないで。手を触れようとしないで。このひとに檻の中から連れ出されるのは下手をすると身を切るよりもつらい。
だったらどうしてあのとき置いていったの。だったらどうしてあのとき来なかったの。助けてくれると思ってたのに。いつもわたしを振り返って手を差し伸べるとしたらあなただった。味方でいてくれると思っていた。あのときまでずっとそう思っていた。けれどあなたはわたしの私情よりはそのときの〝すべきこと〟を優先した。わたしは、理由があったからと腹落ちさせた。だっていうのにどうして今になって、あのときよりも〝すべきこと〟はたくさんあるのに——ああわかっている。わたしこそが待っていられなかった、弱かった、どうしようもなくばかで愚かだった。
こんな言葉をぶつけること自体、あんまりにも理不尽だってとっくにわかっている!
痛みには慣れている。苦しみにも慣れている。置いていかれることにも慣れている。慣れていることに助けを求める必要はない。ないと言い聞かせてきたのに今更なにを仰るの。助けてほしいなんて絶対に言いたくない。わたしの変えがたい過去だけでもない。桂一派と切り合って散った隊員たちはどうなる。わたしが置いていくしかない屍人たちをせめて名前だけでも覚えている他ないのに。その死の意味まで覆したくない。兄上が決意して訣別したその覚悟さえ、よりによってわたしが踏み荒らすのか。なんにもできなかったのに。なんにもできなかったから——今度こそ、お役に立ちたかった。
……牢に囚われるだけで役に立てると思い込んでいるのだから滑稽だろう。刻一刻と彼らは死に近づいているのやもしれないのに、どうにか納得させて精神を保とうとしている。なにも変わらない。昔から。わかっているのに変えられない。真正面から見つめたくなんかない。幕間なぞなかったのだ。ない話をあるものとして認めたくない。傷ついていたことを知りたくない。認めたくない。直視したくなんかない。
「お願いですから捨て置いて。置いて行って。振り返らないで。これ以上、わたしを、」
みじめにさせないで。
「——あー、クソ!」
長官殿が突如呻いたので、わたしは思わず肩をはねさせた。
「本当なら将ちゃん追い詰めやがった高杉一派なぞ利益もなけりゃ俺にゃ助ける義理がねえんだ。わかるか? 桂。オイわかっててやったろてめえこの大悪党が」
「たしかにわかっていてやりましたがそれはそれとして俺は今普通に傷ついています」
「男が落ち込んでんじゃねえ顔上げてシャンとしろ三角座りでいじけんなよそもそもなんで敬語だ」
すこしだけ顔を上げて、目を開けると、たしかに小太郎さんは三角座りをして床にのの字を書いていた。
自らの斜め前の牢、いじける攘夷志士を指さして「だってのに。えェ? オイ」長官殿はまくし立てる。
「もとより迷子を送り届けんのは警察組織の仕事なんだよチクショウが。それをおめえ。てめえ。卑怯だろうが」
迷子は何。
「……桂おまえ、何やるのかと思いきや本ッ当に荒療治で俺ァけっこう引いてるからな……」
局長殿はドン引きなさっていらっしゃるし。
「傷ついています」
「繊細アピールをやめろオトコノコだろがなんもかも狙ったくせして被害者ヅラしやがって」
「ヅラじゃない桂だ」
「この野郎」
ぎろりと小太郎さんを睨む長官殿の隣の牢で「ン゙ンッ、仕切り直して」局長殿は咳払いをした。仕切り直すような空気があったかどうかでいうとたぶんない。
「まァ昔馴染同士の確執についちゃ俺たちがつつくことじゃあねえんだが、ヒカリさん、アンタはひとつ忘れてるぜ」
「……御大層に講義のおつもりで? 是非とも聞かせていただきたいですね」
「単純な事実さ——アンタの命乞いが実ったから、俺たちゃ、天導衆との全面戦争を一回回避している」
それは。
それは?
いやでもそれって天導衆と華陀のせいで。
元を辿ればなんならわたしたち鬼兵隊がけしかけたせいで。
「つまり俺たちゃアンタに貸しがある。警察組織が、攘夷浪士に、身を張られて命を救われたわけだ」
わたしが目を白黒させているのをよそに、ウンウンと局長殿は頷いた。
「めちゃくちゃ不祥事だな。これは返さねばならん!」
「……ええ……」
「本気でドン引きするのやめてね」
「わたしが申し上げるのもなんですけれど、あなたがた、だいぶん頭おかしいですよ……」
「やめてね」
「ゴリラだからなの……?」
「ゴリラはそういう理由にもなるの!? 莫迦やってるの代名詞か!?」
「はい」
「ハイ!?」
それにしても打てば響きますねこのひと。
「ああもうとにかく、桂に助けられるのがダメなんだろ!? なら俺たちに借りを返させてくれ」
局長殿はブンブンと頭を振ったのち、親指で自らの胸を突いた。
「アンタには、俺や、とっつぁんや、ダチや仲間や部下が命を救われている」
「さすがに——」
あまりにヒドイ建前だった。物申し上げようとしたところ——わたしは不意に口をつぐむ。視線を松平の長官殿の牢よりさらに向こう、牢の入口の方へと投げる。
物音がする。番兵の足音だった。ザッザッザッと規則正しい。わたしが口を閉ざしたものだから、彼らも遅れて気づいたようだった。
「次の見回りは夜更けになります。闇に紛れるなら間に合いませんよ」
「オイ早く丸薬を寄越せ」
長官殿に急かされた小太郎さんは、丸薬を握りしめ、腕を振りかぶった。いわゆるオーバースローのフォームで素早く投げられた丸薬は。
檻の端で跳ね返り。
小太郎さんの口元に飛び込んだ。
小太郎さん は 倒れた !
「——桂ァ!?」
「……一応お尋ねしますが、これはなにかの作戦で?」
「違いますけどォ!?」
収拾、つかなくなってきちゃったな……。