前略:
なくした。
➤
タラップに砲撃が直撃する。収納されかけていたスロープは半ばから折れた。
このときには、既にほとんど引きずられるようにして、わたしの身体は船の中に放り込まれていた。だからわたしは呆然と見ている他なかった。
「マジで何ッ、命より髪のがだいじなんでそんなんあるはずないでしょ!? ェ女性はそうなんですか自信なくなってきた」
「断言するけど、あり得ません。何考えているの? 新ちゃんまで落ちていたら私一生恨んだから。ねえ。ゴリラを助けに来たのは、いいでしょう、許可しました。けれど私は私の弟と引き換えにする許可は出してないのよ」
「あの姉上僕ちゃんと無事なんで拳しまって落ち着いてなんか怒る気力が失せ……てかヒカリさんウワッ、足、草履ズタボロ、皮まで剥けてませんかコレ!? よくこんな状態であんな立ち回りを」
「新八に感謝するネ、あとトシにもな。オマエ髪切られなかったら誰も間に合わないで奈落と道連れだったアル。海まで真っ逆さまヨ」
「い、今髪の下手人の話はよくねえか」
「キョドってる? ナニ? トッシー出てきた?」
「違ェわとっくに成仏させたわ。いや。……この女そういうタマだったか……?」
「え、ええと——副長、俺この人医師の方に連れてくッス」
「……おう」
「信女さんも」
「……」
奇妙な駆動音を立てて——おそらく砲撃で一部の機構がお釈迦になったのだろう——昇降口が閉ざされる。後頭部にもう一度触れる。バラバラな髪先は相違ない。髪紐はどこにもない。
手首にかけておくべきだった。(得物を振るうにもっとも近しい場所に?)
懐深くにしまっておくべきだった。(取り落としたかもしれないのに?)
そもそもいつもならば髪を掴ませるだなんてミスは冒さなかった。わたしは不調だった。自らそれをよく理解していた。(そしてまだ動けるのだからとすべての不調を無視した。抑えていればなにかが変わっただろうか?)(抑えられる状況でもなかった!)
髪紐がない。
小太郎さんにいただいたのに。
お返ししなければならなかったのに。
「マ問題ねえだろ」
喧騒はどこか遠く、ただ茫然自失に等しく、ふとわたしは襟首を掴むようにして無理やり立ち上がらせられた。
「どうせ髪なんざ切っても生える」
「……〝切っても生える〟と思ってるやつ飛び降りやしねえだろ」
「多串クンたらクソ真面目〜てめえのせいじゃあるめえさ。あっこで骨を断つよか髪を狙うなんざ道理だ。俺だって届いてたらそうしてた。どうにせよこの甘ちゃん、髪とかどうでもよくて、ただボロ紐なくしたの気にしてるだけなんだからよ」
わたしを立ち上がらせた銀さんが平然とした口ぶりで言った。
……ボロ紐。
耳の中で言葉だけが反響した。
赤い瞳がわたしを見て、口角を上げた。せせら笑ったみたいに見えた。
「十年物の髪紐なんざもう呪物だ呪物。この際新しいのでも貰えば?」
思わず平手打ちが出た。
わたしは加減する余裕もなかったから、銀さんは特に避けなかったから、頬にくっきりと紅葉の痕がつく。突然の仕打ちにもまるで動揺していない。軌道をハッキリと目で追っていたのに、まるで避ける様子もなかった。
「なに」
突き放すような声だった。見下されている。わたしよりも兄弟子は頭ふたつぶんは高いから、見下ろす他にないだろう。
ひどく不快だった。
「……あなたは、ご存知、なのに」
声がかすれた。
「どうしてそんなこと仰るの」
「どうして? どうしてっつったか」
赤い瞳が細められる。わたしの胸倉を傷だらけの手が無造作に掴み上げた。
「そりゃこっちが聞きてェな。オマエさっきなにしやがったか自分でわかってんの」
「だから落ちて」
「てめえの命よりボロ紐がそんなに大事か。なァ」
「ぎ、銀さんちょっと言い方……」
「言い方はこれ以上ないくらい選んでンよ。これぐらい言わにゃ通らねえだろ」
諌める声を彼は一蹴した。
「たかだか薄汚れた紐一本のために、やることがダイナミック紐無しバンジージャンプ? 冗談も大概にしろよ」
白装束を掴み上げる指に力がこもる。
「新八が間に合ってなかったらてめえが死んだ。掴んだ位置だのによっちゃその新八もおまえごと落ちるかもしれなかった。つうか実際、新八だけじゃ落ちかねねえからお妙が飛び出したわけ。どころか砲撃がもうちょい早かったらこの場にいる全員お陀仏だ。おまえ引きずってくるのに俺と神楽も出て土方くんが最後まで出入口守ってたんだから片手の指埋まるな。さっきの一瞬でこんだけの人数無用な危険に晒した自覚あんのかテメエ」
視界がぐらぐらと定まらない。今の今まで脳内麻薬で誤魔化していたツケだ。脳みそが上下左右に回転しているかのように平衡感覚が狂っている。耳の裏の血流の音がざあざあとはっきりと聞こえていた。
わたしは二度三度と呼吸を繰り返した。頭に血が上ると短気な行動に走る。昔から言われていたことだ。(止められるわけがない)わたしの軽率な行動が周囲を危険に晒した。(そんなこと言われたって)わかっている。わかっている! 言われなくたってそんなこと、
けれどそもそも。
「わたしが、助けてなんて頼んだこと、一度だってありましたか」
わたしは襟元を掴む拳を上から掴んだ。指の跡が残る。
「あっそお。ンならここでいよいよ殺してやろうか」
「銀さん」
「どうぞお好きに。わたしのような端女の斬首に余興以外の値がつくものか知りませんけれど、それで気が済むのであれば如何様にも」
「売り言葉に買い言葉になってきやがった……」
「自分の命に価値なんかございません、どうぞ八つ当たりでもなんでもご満足するまでどうぞって? へえへえ、すっかり悲劇のヒロインぶるのが得意になりやがったよな」
「銀さんそろそろ本当に言い過ぎ」
なぜだか周囲はこぞって、銀さんを諌める側に回り始めていたが「贈った側もさぞ本望だろうよ」手の甲に指のかたちの痣が浮かび始めるのを気にもせず、彼は突き放すように言ってのけた。
「自分が贈ったモン追っかけて死なれるだなんてよ」
「——」
確実に傷つけるための言葉に他ならない。
「わかってる? わかってねえよな。わかってねえだろ。わかってたらできねえもんな」
三段活用のなり損ないみたいな口調で銀さんはわたしを責め立てた。
「自分のことなんざどうでもいいってことにしときゃ傷つかずに済んだか。やり過ごして取り合わなきゃ良いよなそうだよなァ。真剣に向き合うよか馬鹿にしてる方が楽だもんな」
「馬鹿になんかしてません」
「馬鹿にしてねえならなんなんだよ。さっきだけじゃねえだろがそもそも」
ガンとブーツが廊下の壁を蹴った。
「なあオマエ虚にあんだけまくし立てたの何? テメエが時間稼いで最悪嘘八百看破されて殺されても逃げる隙ぐらいできるとか考えてたカンジ? 傲慢だね〜立ってられるだけマシな体たらくでなにができると思ってたワケ? あげくいつまでも視界の端をうろちょろと、いったいなんのつもりだ足手まとい」
兄弟子はどう見ても苛立っていて、怒っていて、それはすべてわたしに向けられていた。今更ながら小太郎さんの言葉の意味を知る。説教を受ける覚悟——説教? これが? もう愛想も尽きたとばかりの口ぶりだ。
「前だってそうだ。勝手に命乞いなんぞ。しょうもねえ小細工とハッタリ程度でどうにかなると思ったのか。どうにかなった
「あらそう、それならなんですか? あなたならもっと上手く立ち回ったとでも仰るの?」
わたしは口角を無理やり引き上げた。
わたしが悪い。もうどう考えてもわたしが悪い。わたしが悪いことなんかとっくに知っている。殊勝ぶるにはあまりに余裕が足らなかった。
だってもうなんにもないのに。
「あなたこそ傲慢だわ。それこそ何も知らなかった分際のくせに。ましてとっくに敵に回った女の身を気遣うだなんてさぞ余裕でいらっしゃる」
「世界の敵を気取っておいて敵も味方もまとめて全員庇ったテメエが言うこっちゃねえ。救世主にでもなったつもりか? くだらねえぞ自殺願望者。厨二病拗らせんのはひとりでも面倒だってのに揃いも揃ってこのクソ兄妹は」
「わたしがどのように振る舞うかなぞわたしの勝手にございましょう。庇うもなにも、あなたがたなぞついでに決まっております。拾った命を素直に喜んではいかが」
銀さんのこめかみがハッキリと痙攣した。
両手で襟首を絞め上げるように持ち上げられて、気道が締まるまでではないにしろ、喉元が狭まる。込み上がる圧迫感と息苦しさを飲み込んだ。
「喜ぶとでも思ったか」
わたしの鼻先で彼は低く唸った。
「身内の命賭金に助かって、俺が喜ぶように見えたのか。おまえには」
船のエンジン音が響いている。
誰もなにも言わなかった。
わたしはなにも言えなかった。
「チッ」
突き飛ばされたわたしは壁に肘をついた。背中から衝突しないように横向きに突き飛ばされたのだ、と、いやに冷えた頭で気づく。……この期に及んでこのひとは。
「で? なんだっけ? 知ってんのになんでそんな言い方するとかなんとか言ったな。ヤ、するだろ。知ってるからするんだろ」
足音荒く距離を再び詰められる。
「いっつまでもそうやって悲愴なツラして周りに気ィ遣わせんの? あのバカもどうせテメエを甘やかすんだからよ。紐程度いちいち気にしやがってって俺が言わなきゃ誰が言うワケ。誰も言わねえだろうが」
黒いジャージの布地をわたしは見つめる他なかった。視線を合わせる気力はなかった。虚勢が剥がされていく。乱雑なように爪を立て、的確に一枚また一枚と。
だからこのひとのお説教が昔から一番嫌いだ。いちばんいたい。
「けれど、けど、あれしか、残ってなかったんです」
松下村塾は焼け落ちた。教本はどこかで失くしてしまった。わたしは身ごと踏みにじられて、甘ったれの泣き虫はとっくのとうにどこにもいない。兄弟子たちは方々に違う方へと去っていった。兄上だって変わってしまって、左目はもうなんにも映しやしなくて、どころかもはや生きているかもわからないのだ。
もうあれしかのこっていなかった。
「生きてんのに?」
「生きて……」
生きてるのに?
……だからなんだというのだろう? むしろ、だからこそではないのだろうか? 〝先生〟はいなくなった。このひとたちだって十年前わたしを置いていった。いつだって生きているから苦しくてつらい。形あるものが崩れ滅びゆく運命にあろうと、わたしの手元に残っていたのは、くたびれきった髪紐ただ一本だった。
過去は平等に無価値だ。現世はたしかなわたしの地獄だ。
蜘蛛の糸より頼りない縁に縋る他なく生きていた。約束のためには正気を手放すことはできなかった。約束があったから手を伸ばすことも許せていた。まるで一貫しない己の言動に言い訳をつける方法が他になにか、あっただろうか?
「また黙んのか」
ぐいとわたしの顎を引いて、銀さんは視線を合わせてくる。明らかに燻る怒りにわたしはきつく目をつむった。
「もう、やめてください」
耳を塞ぎたかった。やっぱり目玉は乾いていて、涙腺はろくに働かない。それでも引き攣れる呼吸をなんとか抑えて首を横に振る。
「やめてくださいよ。恨み言なんか申し上げたくない!」
「うるせえよ言えよ!!!」
うるさいのはどう考えても銀さんの方だ。場違いな思考が過る。冷静なのではなく、半分くらい思考が解離している。
通路の壁に拳を当てて兄弟子はわたしを睨んでいた。
「恨み言ぐらいあんだろ! 言やいいだろ!! ンだよそれをてめえはどうせ言っても意味ないだのなんだのとウジウジして気にしてませんみてェなツラしてオイ気にしてんだろうがどう考えても!!! 無理があんだよ最ッ初からよォ!!!」
「い、いっ、言ってなんになるっていうの……!?」
「俺が謝る!!!」
……なに、を。
言われたのか。
一瞬、言葉が脳を素通りした。
「あ、やま、る?」
「なに初耳の単語聞かされたエイリアンみてーな顔してんだテメエは!!!」
「俺だって自分が悪いなと思ったらたまにはフツーに謝るけど!? てか悪いことしたら謝るもんだろうがそもそも!!!」
いよいよ呆気にとられたわたしの前で銀さんはまくしたてた。
「メンタルやべえんだろうなと思ってガラにもなく遠慮して黙ってたけどなァ! 謝ることもさせねえで勝手に打ち切ってんじゃねえ!! てかてめえもそろそろいい加減謝れ!!! テメエの勝手な行動でウチのコ危険に晒しといて挙句助けてなんて頼んでませんは失礼以前に人としてあり得ねえだろ!!!」
「何」
「銀さんあの、僕は、いいので」
「俺がよくねえって話だよぱっつぁん今黙っててくれる!?」
「はい」
志村さんが敗北した。
副長殿が労るように志村さんの肩を叩いた。
「つか助ける行いに頼むもクソもねえだろうが何!? 馬鹿じゃねえの!? 頭でっかち馬鹿娘は赤の他人だからとかどうせ理屈こねくり回すんだろーがだとしたら俺は妹分心配する権利すらねえの!? ハァ!? 意味わッかんねえんだけど!?」
「だってわたし鬼兵隊で」
「それ言い出すならそもそも鬼兵隊ンなったくせして妹分最初に持ち出してきたのテメエの方だろオイ行動がなんッも一貫してねえんだよ!!! なに!? 俺かなり我慢してきただろいい加減言ってもいいだろいろいろとよォ!?」
もう一気にいろいろあってなんにもわからなくなってきた。顎を抑えつけられたままぐるぐる目を回していると「……銀時」と、兄弟子の名前が呼ばれた。
「さすがに、少し声を抑えろ。船中に貫通している。仮眠を取っている人間もいるのだから配慮しなさい」
「アーアーハイハイスミマセンデシター母ちゃん」
「母ちゃんではない桂だ! イタッ怒鳴るんじゃなかった」
「馬鹿なの。てか何オマエ起きてきて平気なん」
「処置はした。もとより急所は避けていたし、この程度で死ぬほど弱った覚えもないさ」
「ゴキブリ並みの回復力だなオイ」
「貴様には一番言われたくはないが? 絶対一番言われたくない誰でも言う一番言われたくない」
「誰がゴキブリだ」
「誰もそこまで言ってない上に貴様その言い方をするということは俺のこと完全にゴキブリ扱いしたな? ふざけるなよ手打ちにしてくれる!!! イッ、タイ……」
「テメーには学習能力ってモンがもしかして存在しない感じ?」
脇腹を抑えて呼吸を整え、ハァ、と嘆息した小太郎さんが周囲を見回す。
「おまえたちは戻ってくれていいぞ。……イヤ本当にさぞ気まずかったろう。よりによって目の前で怒鳴り合いが起こるなぞ」
「うるせえよマジで皆さんごめんなさいね」
悪態だか謝罪だかわからない態度で、銀さんはシッシと手を振った。
「コイツあとで謝らせに行くから」
「死ぬほど要らねえ……」
「最敬礼で謝らせるから」
「マジで要らねえ。ソイツに謝られても気味悪ィだけだろ新手の嫌がらせか?」
副長殿がげんなりとつぶやいて、刀の鞘を一度鳴らすと踵を返した。子どもたちは恐る恐る顔を見合わせると、銀さんの様子をうかがった。
「いやもう……なんていうか……すべてが大丈夫ですか? すべてっていうかなにもかもが本当に大丈夫ですか?」
「……銀ちゃんあんまし、平気そうじゃなかったヨ」
「大丈夫大丈夫。銀さん疲れて眠くてあと糖分足りてなくてイライラしてるだけだからコレ片付けたらもう寝るから爆睡だから頑張ったシャッチョにいちご牛乳用意しといて」
「ンなもんあるわけないネこの船」
「あると思ってたんすか逆に」
「は? あれよ。税金泥棒のくせにいちご牛乳のストックもねえとか心底役に立たねえな。マヨネーズ箱でストックするくせにマジありえねー」
「怒られますよアンタ」
「聞こえてんだよ万事屋どもがァ! 見廻組所有の船のストックなんざ俺が知るかァ!」
「ホラ怒られた……」
「どもって怒られたのドウシテ……? 私今回変なこと言ってないアル……」
「神楽ちゃん悪くないよ……ヤ僕もだわなんで今まとめて怒られたんだ。おかしい。理不尽を感じる」
「大人ってヒドイネー……」
「ねー……」
志村さんのお姉さんは「新ちゃん、神楽ちゃん、行きましょう」と声をかけ、銀さんを真っ直ぐに見据えた。
「謝られたからといって、許すとは限りませんから」
「それが正しい」
短い返答だった。
人々が立ち去っていく。
銀さんがわたしの顎から手を離した。うろと焦点が空中を彷徨い、わたしは壁に肩をつけた。なんとなく足元までそのまま視線を下げる。
「言いたいこととかねえの」
言いたいこと。
言いたいことってなんだろう。
「痛いとか苦しいとかなんで助けに来なかったんだとかあんだろ。そもそも新八も言ってたけどその足あからさまにやべえんだわなんでずっと立ってんのいい加減座れ」
壁についた肩に体重をかけて、膝の力を抜いて、ずるずると座り込んだ。
「今……足が痛くて」
「だろうな。てかソレ痛くなくなったらいよいよ>>>終わり<<<だよ」
「背中もたぶんわりと、惨状で」
「脱がせるか?」
「下手に皮膚と服が張り付いているとまずい。医者に任せるべきだ」
「さっき首も絞められて。爪は治りかけなので良いんですけど」
「今良い要素どっかにあった?」
「目が回っているし頭も痛いしお腹が空いて喉も渇いているんですけれど。でもぜんぜん、ぜんぜん……昔よりつらくなく、て」
目を瞑る。
慣れ親しんだ暗闇がわたしの視界を支配した。暗闇はいい。こわくないから。彼らはわたしを嬲るとき、手元が狂うからとたいてい灯りはなにかしらつけていた。
「鞭の音もしないし。誰かに、暴かれる、わけでもないし」
不意にまぶた越しに感じる陰の位置が変わった。銀さんは、わたしの目の前にしゃがみ込んだのだと思う。
わたしはかつての記憶を想起する。語られぬ物語は存在しない。そういうふうに否定し続けていたせいか、あのときのわたしの記憶は、わたしからずいぶん遠いところにある。
「……苦しかったのかな。痛かったのかもしれません。あんまりわかりません。めいっぱい自分から遠ざけてたせいなのか、上手く思い出せなくなりました。ただ、慣れたのでどうってことなかった、ということにしておいてあります。そうでないと……」
不意に気道が狭まったような気がした。なんとなく息苦しくて、喉元を掻くようにすると「帯緩めるぞ」一声かけられて、わたしの背後に回ったひと(これはたぶん、小太郎さん)が手早く帯を解いた。ゆるめに結び直される。
呼吸を整える。わたしは唇をすこしなめた。唾液があんまり出ないのでそんなに濡れたわけでもない。
「助けてほしいとは、思っていました。思っていたと思います。けっこう何度も、ずっと、なんども……でも、助けに来られるわけないことも、わかっていました。そういうのは良いんです」
「良くない」
「良いんです、本当に、わたし、ほんとうにつらかったのそこじゃない……」
激痛はわたしを苛んだ。今でも鞭のしなる音が怖い。物のように扱われて苦しんだ。家畜の方が長く売り物にする前提のぶん、まだましな扱いだったんじゃないかとさえ思う。なにより……実の親に、本当に大事にされていなかったことを突きつけられた。わたしだって親子愛なんてくだらないものを期待していたことがあるのだ。もうそのころにはとうに名残でしかなかったけれど、名残の幼子の息の根はついに止まった。
なにもかもすべて嫌だったけれど、わたしをなによりも打ちのめしたのは、あの瓦版の文字列だった。
「あなたがたが苦しんでいるときに、なんにも、なにひとつだってできなかったから。なんにもできないものとして扱われたのがいちばんつらかった。実際になんにもできなかったのがいちばんいやだった。あのときの自分が、本当に心底、無力で無価値で、死んでしまいたいと思ったのはあれが初めてでした」
未だにまるで出やしない涙の代わりにぼろぼろと言葉が唇からこぼれゆく。役立たずでどうしようもなく、どうにもできなかった。わたしが思う置いて行かれたことへの恨みとはそういうものであり、わたしが思うあのときのわたしの罪とはすなわちそういうところに帰結した。
「思ったけれど、でも、約束が、約束をしていたから、それまでは絶対、死ねないと思って……」
指先が空振った。髪と髪紐を握ろうとしてすかしたことに、遅れて気付く。どこにもないのだ。もう手元になくなってしまった。どんなことがあろうとも歯を食いしばってでも歩き続けねばならないと思っていた理由。わたしを今まで現世に繋ぎ止めてきた、最後の未練。
正面からその手を取られる。手の甲を持ち上げられて、体温くらいの温度が指の腹に押しつけられた。くるくるとした髪質が皮膚とこすれる。銀さんの額だとわかる。
「助けられなくてごめん」
「良いんです」
「置いてってごめん」
「良いんです。いいの。もういいの、だってあなたがたが悪いわけではありませんもの、ひとつだって悪くない……わたしこそごめんなさい。傷つけてごめんなさい。蔑ろにしてごめんなさい。踏みにじってしまってごめんなさい。力になれなくてごめんなさい」
言葉を続ける必要があるのに、わたしは、一呼吸置いた。どうしても直視したくなかった。髪紐を追って飛び降りかけたのは衝動で、なにも考えていないだけの軽率な行動だった。けれど……あれを取り戻せないなら、生きていたってなんの意味もないくらいに思ったのも本当だ。
「……ごめんなさい。小太郎さん、髪紐、なくしちゃった……」
どうすればよかったんだろう。わたしどうしたらもう少し上手くやれた? どうしたら置いて行かれずに済んだだろうか。どうすればこのひとたちの力になれただろうか。どうすればこのひとたちを傷つけずにいられたのだろうか。
どうしていれば、わたしたち、こんなになにもかもなくさずにすんだのかな。
「……すまない。たぶん、おまえにとって本当にひどいことを言うから、先に謝っておく」
すっかり涼しくなってしまったうなじのあたり、細かいものでくすぐられるような感触がある。小太郎さんの前髪だろう。
「約束なんて本当はどうでもよかったんだ」
ズッ、と背後で、鼻をすするような音がした。
「おまえが生きていてくれるなら、それで、よかったんだ」
……たしかに。
もうどうしようもないほどに、いちばんひどい、言葉だった。
➤
「先ほどは大変申し訳ございませんでした……」
「ヤもういいっていうか……」
「良くないわよ」
「あ、姉上……」
「良くありません」
「あの、当事者が! いいって!」
「その点引き上げた私も当事者じゃない? ねえ新ちゃん」
「どうしようもしかしてコレ僕じゃ収拾がつかない……?」
「まァコイツが百悪ィからな……お妙の怒りはマジでただの正当だからな……俺が最終的にキレることンなったポイントもそこだし、あっ思い出したらなんかまた腹立ってきた」
「アンタらはどうにか収拾ついたんじゃないんですか? 僕が困るのでやめてください」
「新八も怒ったら良いダロ」
「僕まで怒ったらいよいよ姉上どうするんだよ誰が止めるの神楽ちゃん止めてくれるの」
「?」
「ほらあ」
「勘違いすんなヨ童貞。私も怒ってるケド銀ちゃんと姐御が全部言ってるからマいっかってなってるだけネ」
「オイ童貞まるで関係な……エ?」
「ア?」
「あ、はい、ウス……」
「本当に許しません。とりあえず市中引き回しはします」
「とりあえずで選択される市中引き回し」
「それはもう、如何様にも……」
「看板下げて歩いていただきます」
「はい……」
「すごい、天導衆相手に有り得ないほど上から交渉してたときの勢いが微塵もない……」
「テロを起こして……その他諸々ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「ああマジで俺たちにも謝罪入ンのか。マジで要らねえ。そもそも反省してんのかてめえ」
「反省しているかどうかでいうとテロに関してはあんまりしてないんですけど」
「は↓あ↑!?」
「一番反省しろ!?」
「謝って済む問題ですらないけど反省しねえのは
「というかそういう点でいうとむしろわたしだけ謝るのは理不尽ではございませんか?」
「とうとう反論し始めたぞ有り得ねえこの女」
「完全に形だけの謝罪過ぎる」
「旦那なんでコイツに謝らせたの? ヤバいってガチで謝る気ないって」
「ウン」
「ウンじゃないウンではないせめてウン以外の反応であれよ」
「だって小太郎さんも謝るべきでしょう」
「ああまあうん」
「それはそうね」
「俺が!?」
「驚かれることある?」
「大使館爆破テロ以後過激なことなど松平のご家庭に潜入したり江戸城に入り込んだり真選組をアフロで崩壊させかけることくらいしかしていないぞ!?」
「あるんじゃねえか」
「それも複数あるんじゃねえか」
「そうなんだよコイツもまあまあやべーことしてんだよ」
「〝俺が!?〟に今一ミリでも正当性あった?」
「コレ本当に攘夷穏健派代表?」
「てか穏健派に転身してなおコレなのおかしくねえか世界の摂理が」
「ついでだこの際オメーも謝れや」
「何故……?」
「嘘だろ今何故って言った……?」
「あ、それで言うと俺からひとつありやす。姉上への数々の暴言はフツーに謝れ。てめーちょくちょくライン超えしてっからな。友達だからとか照れ隠しだからとかで許されねえ域の暴言なんで」
「お、沖田隊長がまともなことを言っている……!?」
「なんか総悟、ミツバが奔放になってから急速に真人間の側面が出てきたな……」
「黙れ土方目と耳と鼻を塞いでそっから飛び降りろ」
「マ真人間の側面は所詮側面に過ぎねえんだがそっくりそのまま叩き返してやるわ腕足縛って突き落とされてえのか」
「今横でマジのライン越え罵倒が繰り広げられた気がすんのは俺の気のせい?」
「たいへん申し訳ありませんでした」
「ねえこっちの方がテロの件よりよっぽど真摯な謝罪なんだけどどうかしてない?」
「あら素直。いいのよ。今度激辛せんべえ一緒に食べましょうね」
「罰ゲーム?」
「嫌がらせ?」
「やっぱミツバの姐御めっちゃ怒ってたりする?」
「……えっ……?」
「えっ、ではなくない? 本当に心当たりないですか? 本当になんにも一切心当たりがないって言うんですか? 是非とも胸に手を当てて考えてほしいや」
「……オマエそろそろ味音痴の自覚しとけよ」
「そんな、十四郎さんが仰るの?」
「どっちもどっちだろくだんねー」
「ここまで上からマヨ中・激辛娘・甘党極」
「味音痴最底辺最終決戦」
「誰勝ってもシンプルに嫌」
➤
船中謝罪行脚もそこそこに、わたしは医務室に叩き込まれた。
「ええ……ウワ……おお……コレでガンガンに動いてた? 攘夷浪士ってもしかして頭がおかしい? なんで早く連れてこないんですかぶっちゃけありえない」
「すごい言われよう」
わたしの怪我を検めた医者の開口一番の言葉である。
「コレ痛い? 大丈夫ですか? 痛みありますか?」
「痛覚はあるので痛いことはわかります。過去一くらいの激痛です」
「逆に怖いんですよねそれは。過去一の激痛を感じているっぽい顔をしてほしい」
「背中はちょっと……別件で既に痛覚がなくなってしまっているので、わたしとしてもどうなっているのか確認したくありません」
「あーまあ……まあ……そっか……そうですね……限りなくポジティブに解釈するなら、今後背中全面深度Ⅲ火傷でもしない限りこれ以上悪化することはないと思われる……?」
限りなくポジティブに解釈されない場合はいったいどういう説明が行われたのだろう……?
「この状態で普通に喋っていることもなんだか怖くなってきました。どうして気絶してないんだろう。治療する側としてはリスクの問題で気絶してない方がありがたいんだけどヤホントになんで起きてる? なんかもうちょっと弱っている感じ出してくれたりとかどうですか?」
「思考回路が鈍っている自覚はありますよ」
「さては雑談の最中に突然死するタイプか!」
「本当にすごい言われよう」
わたしなにかした?
……しました。
心当たりしかありません。
わたしにできることはなにもないので、診療台(折り畳みベッドに適当に清潔な布をかけただけの代物)に横たわったまま、ぼんやりしていた。一通りの治療を済ませた後「たしかに麻酔のリスクと痛みに極度に鈍感そうな現状を鑑みて麻酔かけなかったのはこっちだけど、なんで悲鳴も上げないんですか? 怖い。ホントに怖い。気持ち悪くなってきた」「あの本当にそろそろ失礼な扱いを受けている気がしてきました」「とりあえず船の上じゃもうできることないんで、鎮静剤だけ入れたから大人しくしていてください。本当に大人しくしていてください。あと寝返り打てないように拘束していくんで拘束大丈夫ですか? 大丈夫じゃなくてもしていくけど」「そんなに?」「そんなに」めちゃくちゃ貶された上にやたらと念を押され、なんなら診療台に手際よくベルトで縛り付けられ(厠に行きたくなった場合はどうすればよろしいのでしょうか……)わたしはそのまま、放置されることになった。海原さんぐらいの勢いでズケズケ言われた気がする。
先程のお医者様は、見廻組お抱えの方らしい。きっと同じぐらいの勢いで佐々木さんにもズケズケ仰っているのが、どうしてだろう、目に見える。
「……あら?」
いつの間にか視界に入ってきた黒髪に、またばきをして焦点を合わせる。今井さんが診療台の横にちょこんとしゃがみ込んでいた。
「佐々木さんの方はよろしいの」
「今意識ない」
まあ船に辿り着くまで意識を保っていられたこと自体が奇跡だ。
「どのみち背中縫い合わせたばかりだから、麻酔で起きていられなかったと思う。私は、生かす方法はわからないから……弟さんもいるみたいだし、迷惑かと思って、出てきた」
「そうですか」
果たして縫い合わせたのは背中のみであろうか。わたしは森の中でパッと見た程度だけれど、太刀が入った角度と深さを踏まえて、内臓や血管も縫い合わせる必要がありそうな怪我でした。
「良ければ、椅子に座ったらどうです」
「これが一番落ち着く」
「左様でいらっしゃる」
「……邪魔?」
「いいえ。お話相手になってくださるのは、むしろ素直にうれしく存じます」
今井さんは子どものように膝を抱えていた。小さなスペースにまとまって、急所すべてを隠すような姿勢である。彼女の幼少期の足跡をすこしだけ垣間見たような、気がする。
「……あなたに犠牲になってほしいなんて思ってなかった」
ぽつりとつぶやかれて、わたしは目をまたたかせた。
「わたしの怪我は九割九分、わたしの自業自得ですよ」
いや盛りすぎた、九割くらいかな。一割は拷問官殿のせいです。というかよく考えなくてもだいたい天導衆と奈落のせいなので、もっと増やしてもいいかもしれない。そうですね。保険診療の自己負担額よろしくわたしのせいなのは残り三割ってことで、ひとつどうでしょう。
「言わなきゃあのとき、飛び出そうとはしなかったんじゃないの」
「んん……」
もとより佐々木さんが生還してくださるとわたしが助かるのは事実だ。そして不要な死人の数はあんまり増えてほしくない、という、個人的な気持ちがある。それらとはべつに、彼女と交わした口約束のため、佐々木さんを特別注視していたのはたしかだ。
つまり、言わなきゃ飛び出さなかった、という点では正しくなく、言われていたから間に合った、が正しい。最後まで身構えていたから間に合った。髪紐を守り切るには足りなかっただけのことである。
と、いう話をまあだいたい全部端折ると。
「……結果良ければすべて良し」
こうなります。
「どうかと思う」
本気で温度のない返答だった。
わたしは苦笑した。
「……私に頼まれたことも言えばよかったのに」
「そのようなことを言い出せば、いよいよ人のせいにするのかと火に油です」
なんだかんだでやさしい銀さんとて、わたし相手に手も出たと思う。なんならさっきも出かけてましたからね、手。実際頼まれていようといなかろうと、わたしが自らの限界を理解した上でめちゃくちゃな無茶をするのはただの事実である。今に始まったことでもない。そしてわたしが怒られた根本的な要因も、そこに帰結する。……ずっと気遣いや温情を蔑ろにしてきた。大切にされるべきではないと否定してきた。その方が楽だったからだ。かつて蔑ろにされた己を直視せずに済んだからだ。
髪紐はなくなってしまった。約束は果たせなくなってしまった。
それでもまだ、息をしている。
彼岸はどうしてなかなか遠い。いつになったら辿り着けるのか、まったく先も見通せない。人生というものは、どうにも上手くいかないのだった。
手を伸ばして眼前の黒髪を撫でる。今井さんはびくりと身体を震わせたけれど、わたしの手を振り払うことはなかった。
「そう気落ちしないで。あなたがたってこれからの方が大変ですから、あんまり落ち込んでもいられませんよ」
解散したはずの真選組は幕府管轄の牢獄に乗り込んで大暴れ。逆賊である。
見廻組は倒幕の実質的先導者かつ最終的に真選組に与した。これまた逆賊である。
結果だけを見ると、なんなら結果大コケした鬼兵隊よりしっかり国賊している。
「わたしのことはお気になさらず。やりたいようにしたまでですから。諸々の対価は助かった張本人の佐々木さんに返していただきますし」
「あれも本当にどうかと思う」
「こちらもさすがに、タダでは動けませんのでね。怒られてしまいます」
今井さんはしばらく黙っていた。こつりとこめかみを診療台に押し当てる。
「……あなたはどうするの?」
「どうしましょうねえ……」
わたしは一度ぼやいてから「……ほ、本当にどうしましょうねえ……」己が状況を振り返って、しみじみとぼやいた。
「できれば鬼兵隊と合流したいのですが、そう上手くも行かなそうですし……」
まずはこの足も背中も治しておかないと(まあ背中はできうる限り、だとして)動くこともできない。物理的な意味である。治療の最中どのくらいで歩けますかと聞いたところ、治らないうちに無理すると本当に切り落とすことになるよと真顔で言われてしまった。この船が本土に到着したあとはどこかの闇医者のところにでも放り込まれるだろうか。兄弟子たちが問答無用で行いそうな気がしており、わたしの意思を差し挟む余地がなさそうである。
二週間そこらで治ってくれないかな……。
無理かな……。
無理かも……。
「連絡がついたら回せばいい?」
「ありがとうございます。そうしていただけると助かりますね」
鎮静剤が効いてきたのか、だんだんと眠たくなってきた。今井さんの頭部に頬を寄せて、わたしはすうと目を閉じる。
眠ったところで改善されるものなど体調以外のなにひとつなく、目覚めたところで状況は限りなく詰んでいて、なにも解決していやしない。鬼兵隊は行方知れず、兄上どころか幹部陣の安否もろくにわからない。中田さんは生きて船に戻れたのだろうか。引き継ぎはしてくださっただろうか。鬼兵隊もそうだが春雨第七師団はけっきょく大丈夫なのだろうか。華陀は第八師団の団長どころか提督にまで成り上がったみたいだ。天照院奈落に我が師が関わっていたことが確定したばかりか、天導衆にまで関与していたことが判明した。虚と名乗るあのひと。吉田松陽ではないと明示に否定したそのひと。確認すべきことは数多にあり、不安なことは山積みだ。
それでも今日は夢を見ないでいられる気がした。
あたたかいだけの夢に縋る必要が、とりあえず、今日だけはない。
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夢の話をする。
「将来? えー。駄菓子屋」
「自分で在庫食い尽くす気か?」
「早々に倒産して家ごと失っていそうだ」
「ねえてめえらなに!? 夢の話なのに夢見なくてどうすんの!? 一年ぐらい持つし!!」
「一年なんですね」
「一年ちょっとは持つし!!!」
「なんで今若干伸ばした?」
夢といっても、たとえば眠る際に見るソレではなく、将来の夢というやつである。大人になったらなにになりたいとか、ごくありふれたものだ。
「和菓子ではないのですか。塩大福とか」
「それオマエが好きなだけだろ」
「せんべいとか」
「それもオマエが好きなだけだろ。マお子ちゃまにはわからねえか〜! チープな味をこそ好むのがオツってもんよ」
「むしろヒカリよりおまえの方がよっぽど女子供が好みそうな菓子を好んで食うだろう。羊羹だの団子だの甘い物ばかり」
「つか駄菓子屋こそお子ちゃまが好むもの筆頭だろ」
「うっせボケ、いーんだなンなこと言っていーんだな、俺が成功しても値引きとかしねえからオマエらだけ値段十倍だから」
「駄菓子の値段十倍ってみみっちいな」
「十円を十倍にしたところで百円だが?」
「正論は人を救わねえ!!!」
揃って言葉で袋叩きにされた銀さんは涙目で吼えた。
わたしは銀さんのくるくるした頭をよしよしと撫でた。わたしが涙目になると銀さんはいつもそうしてくるので、わたしもそうしていた。
「俺は、官僚になりたい。ゆくゆくは征夷大将軍とも対等に語り合う立場になり、この国の未来を導けるようになりたい」
「キラキラした目だけどなんかスッゲーヤバいこと言ってない? 将軍裏から操って傀儡政治するって話?」
「俺本人が征夷大将軍になれるというならば是非ともそのようにするのだが……」
「しょぼくれた顔で言うこっちゃねえぞ」
銀さんと兄上は常々反発しあうくせ、ここぞとばかりに団結してドン引きの態度である。小太郎さんはふくれた様子で自らの両腕を胸の前で組んだ。
「なにを揃いも揃ってそのように、立派な夢ではないか。なっヒカリもそう思うだろ」
「爆速で味方につけに行くのやめろ」
「……西欧や亜米利加のような民主政権を樹立したいという話なら理解は示せるのですけれど、君主制を維持したままという前提はわたしもあんまりよくないと思います」
「なんかそういう論点じゃねえ気がするな」
「ム……ではまず民主政権の地盤を作らねばならんな。短期的な民主化を成功させている国はいずれも中央集権だ。一方我が国は大名による地方分権を行なっている。単に民主化を提案したところで大名たちから猛反発に遭うだろう。まずは各地に分散している権力を幕府に集約させる必要がある」
「独裁政治家の思考だろ」
「テロリストと革命家は紙一重」
「さてはファシズムでエゴをくるむタイプだな」
「これだから頭でっかち石頭は」
「やーいやーいオマエの頭ヅラ〜」
「フンッ!」
「オイきたねえぞ
「言い負かせねえからって肉体言語に逃げやがって!」
「貴様らのそれは議論ではなく難癖と言う!!!」
兄弟子たちが争い合う間、わたしは醤油せんべいをちまちま食べていた。
「だいたい高杉そう言うおまえはなんなんだ一人だけ勿体ぶって」
「そーだそーだ照れてんのか照れ杉くんなのかヤダカワイイネ照れてますよー! ここにいっちょまえに照れてる人がいますよー! イッタァ!? なにすんだテメエ」
「埋める」
「松陽のゲンコツじゃねンだぞ!?」
「……教師じゃないんですか?」
わたしは醜い争いを眺めてつぶやいた。
「兄上いつも、どう教えたらばわかりやすいかという観点でも、先生のお話を書き留めていらっしゃるでしょう。教える側に回るつもりがお有りなのか、と……」
マウントポジションを取って銀さんに殴りかかっていた兄上は、さっと立ち上がると、早足でわたしに近づいてきた。わたしは不穏を感じてこれまたささっと立ち上がり、小太郎さんの後ろに逃げた。
「コラコラコラ」
「てめえも埋める」
「ヤッ!」
「埋める」
「ヤダ!!」
「前々から俺のことナメてんなこいつと思ってたんだよ」
「本当にやめなさい。うわ目が回る」
小太郎さんを挟んで飛んだり跳ねたり攻防戦。
「こ、小太郎さん竹刀貸してください貸して」
「爆速で〝暴〟に走るよこのコ」
「仕方ないな……」
「貸すんかい」
「甘えたの泣き虫が得物持ったところで兄貴に勝てる道理があるとでも?」
「な、なんにもできないで泣かされるの癪です!!!」
「こういうところなんつーか✝抗えねえ血筋✝ってやつを感じる」
「それは俺も思う」
竹刀で立ち向かっても容赦なくしばかれ、わたしは最終的に得物を叩き落とされ一本背負いされた。痛む背中にえぐえぐと泣きながらせんべいを頬張る羽目になった。
兄上は仏頂面で手首を振っていた。
「地味ィに痛そーな小手だったな〜高杉くん」
「うっせえ」
「なまったんじゃないのか」
「この調子だと俺どころじゃなく妹ちゃんに追い越されるかもな〜」
「うるせえ黙れ俺が常に勝つ」
「もうヤダ兄上いじめます」
「敗者は勝者にせんべい寄越しな」
「ア゙ーッいじめるッ」
「素直に献上はするんかい」
「従わなくていいんだぞヒカリ」
「しゃあねえ俺のあげるよ。ンで高杉寄越しな」
「てめ」
「無意味に一周回ったな……」
貰ったせんべいをモソモソと食べていると「人のばらしといててめえは言わねえのか」兄上は不機嫌に言った。
「えー。……えー」
「兄貴に逆らうのかよ。偉くなったもんだな」
「そもそも兄上はべつにえらくないですし……」
「は?」
「べつに元からえらくないですし……」
「ハッキリ目を見て繰り返したな」
「たまの蛮勇」
「あと賭けてもいいですけど兄上絶対〝つまんな〟って仰る……」
「言わねえ」
「絶対仰います」
「言わねえから早く言え」
「仰ったら負けですからね兄上」
「こう……血筋……」
「わかりたくないが、わかる……」
わたしは緑茶をちょっと口に含んだ。かぶせ茶に氷を入れたものなので冷えていて、それでいて鼻に抜ける涼やかさがあった。
「ふつうに生きたいです」
「……ふつう?」
「定食屋だとかで働いて、程々に貯金して、週末には美味しいもの食べて、たまにお出かけするの」
「つっ、」
「確実に言いかけたな」
「言ったようなモンだったな」
「言ってねえ」
「兄上負けです」
「言ってねえ!」
兄上が吼えた。
「あと子ども産めるので産んでみたいです」
「まあウン言わんとすることはわかるのだか言い方を考えなさいアンタは」
「お、お母さん……?」
「桂だ!!!」
「なら俺伯父さんやる。毎日通う。パパママより先に俺の名前呼ばせる」
「食いつき方ヤベェ」
「ガキとか間近で見たことねえもん! 気になる」
「今もガキだろ」
「ンだよチビガキ」
「できれば好きな人とがいいですねー」
ふたたび取っ組み合いかけていた兄上と銀さんが不意に沈黙し、顔を見合わせて、同時に小太郎さんを見た。
「無論、夫婦となるなら、好き合った者同士が一番だ」
小太郎さんは頷いた。
「……伯父さんはやりてーけど、さすがに、さすがに悩ましすぎるな……」
「……テメーは選択肢あるだけマシだろ。こっちは万一実現すりゃ強制伯父だぞ」
「カワイソ……」
「本気の同情を今すぐやめろッ」
「それに、好きな人との子どもなら、要らない子って絶対に思わなそうですよね。そんなの思われるの嫌ですもん。自分がやらないように気をつけなきゃ」
パタパタと足を揺らしていると「……」「重い重い重いつぶされますたすけて」兄上が背中から体重をかけて寄りかかってきた。
「いじめ! いじめます!! 小太郎さん!!! 先生!!!」
「チワワが吠えてやがる」
「チワワ同士でなんか言ってる……」
「ハ?」
「やめてやったらー?」
「オマエはもう少しヒカリから素直な感情表現というものを学んだらどうだ」
「よォ講武館の神童殿。コイツの素直な感情表現を学ぶと、さっきみたいな発言が出るわけだが?」
「ウンまあそれもそうなんだが」
「たすけてェ……」
メソメソしているわたしを見て銀さんが眉を上げ、溜息をついて起き上がる。
「高杉、高杉オマエが下敷きにしてる妹ちゃん泣いてるよ。ヒカリのやつホントにマジ泣きしてるよ。冗談じゃなくやめてやれよいい加減」
「そうですねえ。素直ではない振る舞いは褒められたものではありません」
「ゲッせっ先生コレは違待っ」
「天誅」
「因果応報」
➤
「ヒカリ」
わたしは不意に目を開けた。
「魘されていたようだが」
覗き込む顔をぼんやりと見つめ返す。
わたしは二、三度まばたきをして、「いえ」と言った。
「悪夢を見ていただけです」
我が脳味噌ながらとんだ悪趣味でわたし本人がビックリした。よりによってピックアップがそこ。最悪である。ありえない。寝入りのなんとなく穏やかな気分を返してほしいけれど、原因を考えても自分の顔しか浮かばない。夢を見ないでいられる気がしたのは、所詮は気の所為でしかなかったらしい。
「その傷だ。さもありなん」
小太郎さんが頷いて、診療台脇の椅子を持ってきて腰を下ろす。壁にかかった時計は、黒縄島脱出から二時間弱の経過を示している。
ふと寝入り端の記憶を思い返して視線を下げると、今井さんは診療台に寄りかかったまま目を閉じていた。……呼吸を確認。……本当に寝ていらっしゃる。
わたしが彼女の頭部を確保していたから、起こさないように動けなかったのだろうか。それでそのまま寝てしまう他なかったのかもしれない。ちょっと申し訳ない。
「良いんですか、起きていらっしゃって」
「包帯が大袈裟なのだ」
「そうかなあ……?」
銃創ってけっこう大事ですけれど……?
「ところで……いろいろ差し置いて聞きたいのだが、そのベルトはなんだ」
わたしの身体は寝入る前と変わらず、診療台にベルトで括り付けられている。
「あなたの包帯のように大袈裟なんですって申し上げたら信じてくださいます?」
「悪いがまるで信じられない」
「ですよね。寝返りを打ってはいけないそうです」
「ああ……うん……」
「……そんなにひどい状態に見えましたか。服の上からわかるほど」
さすがに尋ねると、微妙に目を逸らされた。「あの、口ごもられるとむしろ絶望します。いっそとどめを刺してください」「う、ウーン」さらに顔を逸らされた。もう嫌な予感しかしない。
「……白装束だろう」
小太郎さんと局長殿に限らず、わたしとて扱いは死刑囚だった。当然そうなる。
「布地が白いから目立つのもあるのか……全体的に、染み出しているように、見えた」
「さ、さ、最悪……」
わたしはてのひらで顔を覆った。なにが染み出していたのだろう。血液か浸出液か膿かその他か。背中側は痛覚とともに汗腺も死んでいるので確実に汗ではない。なんであれ背中から染み出すべきではない液体だ。好きな人になんか尚更見られたくないに決まっている。わたしにだって羞恥心はあるのだ。
「あ、安心しろ。汗や血に混じって臭いだとかはわからなかったから」
「あなたたまにデリカシーありませんよね」
「おまえが言えと言ったのだろうが」
小太郎さんが困った顔をなさった。
わたしは今度は白装束の袖で顔を覆った。
「牢でも少し言った通り……先の件の顛末は、主に新八くんから粗方聞いたわけだが」
布地の向こうから聞こえてくる声は、白装束の袖が耳までかぶさっているせいで少しくぐもっていた。
「……怒りますか」
「……まあ怒らなかったといえば嘘になる。……ただそれ以上に、銀時が激怒していたのでその暇はないと悟るのも早かった」
「ウウン」
「此奴まずいなと思ったのは久々だ。自軍の誰かが敵方に情報を流していることが確定して士気が最悪だったときぐらいにまずかった」
「ウウン……」
「反省しなさい」
「してます……」
「高杉がいたら確実に手が出ていたぞ」
「兄上、普段だってしょっちゅう足蹴にしてくるのに……」
「未だに子どもみたいなやり取りをしているのかおまえたちは……」
小太郎さんが溜息をついた。
「まあそれは……それとして」
「……はい」
「……虚という単語は、その中でも聞いた覚えがないのだが」
ちょっと考えてから、布地をめくる。
小太郎さんは椅子に横向きに座って背もたれに肘を預けていた。普段はこのような礼儀のなっていない座り方はしないから、ふつうに身体がつらいのだと思う。
そのような状態でも、気にかかりますか。
そうですね。
「……銀さんに聞きませんでした?」
「有言実行とばかりに寝ているぞあやつ。熟睡。新八くんとリーダー確保して完全に爆睡。昔を思い出す間抜けた寝顔だった」
「お疲れ様です……」
ちいさく労った。あのひとは昔から、それこそ先生と出会う前からの癖なのか、本当に疲れているときは手元に手近なものを手繰り寄せてから寝る傾向がある。たいていは刀を確保していた。たまに先生や、我々が揃って巻き込まれた。
……手近なもの、というか。まあそういうことだろうと思うけれど。言ったことはない。言われたこともないので。
「おまえも寝ていたから、後回しにするかと思ったのだが。話を続けるあたり二度寝が嫌なようだし」
「……そうですね」
あの夢のあとにもう一度寝られる気はしない。童心由来の無邪気はいっそ残酷に傷に沁みる。
烏の面に隠れたあの面差しを思い返す。
「とはいえわたしも、詳しいことは把握していません」
わたしはつぶやいた。
「……少なくとも、虚という単語が天照院奈落の先代首領の名前であることは確かです。それで……わたしたちは虚に遭遇しました」
「虚は、今や天導衆になった」
わたしの説明に補足が入る。眠っていらっしゃったはずの今井さんは、既に目を開けていた。わたしと小太郎さんを順に見る。
「地球由来のアルタナによって、不死の身体を齎された男。五百年——十三代もの間、天照院奈落の首領を務め続けた男。かつて吉田松陽であって、既に吉田松陽ではない男。それが虚」
今井さんはふと目を伏せて、付け加えた。
「……あなたたちの師、吉田松陽を殺した男でもある」