【完結】春去りて、春風は未だ   作:初弦

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前略:

 こちら鬼兵隊幹部。順に、軽傷、軽傷、病み上がり、病み上がり、重傷。

 ちなみにこちらは捕虜。重傷通り越して重体。ほぼ瀕死。

 

   ➤

 

 阿伏兎さんに忠告されたこともあり、烙陽出立の準備は急ピッチで進められた——さすがにハイ即座に出ます! とまではいかない。死者や行方不明者といった欠員の把握、負傷者の確認と治療、本艦はそもそも完全破壊されているので烙陽に辿り着けた面々は、それぞれ航宙手段を自力で確保していた。我々の艦をメインに合流するにしても乗せられる人数は限られている。班員分けとひとまず不用になる船を収容・臨時配置。飲食物を主とする必要物資は積んでいたけれど、人数の増減でいろいろと変わってくる。医療設備もどうにかしなければならないし。

 一番問題なのは艦に積む空気である。宇宙空間ってそのへんから空気補給なんてできませんからね。かといって烙陽の空気をそのまま取り入れるわけにもいかない。弱毒とはいえ地球人にとっては明らかに毒だ。空気清浄と濾過を行なって。

「……」

 端末の画面を消灯させる。

「すこし出てきます。二時間くらいで戻るかと。端末は持っていくのでなにかあったらそちらにお願いしますね」

「どちらに行かれるんです」

「あら、淑女の秘密の用事を気になさるの」

「……淑女?」

「なんですかその反応は。わたくし絵に描いたかのごとく模範的な淑女にございましょう」

「ソレ黙ってればって註釈つきます? だったらわかる」

「内山さんがいじめる」

 適当に煙に巻いて、わたしは艦の外に出た。先日の、烙陽ではあまりにも珍しい晴天と、ここ連日の降雨には至らない曇天で、川辺の水位はすっかりと低下している。

 繁華街を突っ切るかたちで街中を歩く。下駄がほしいな、と店先を覗いてみたけれど、ゴム製の靴ばかりが売っていた。仕方ない。烙陽の環境で木製や植物性の靴を常用するには、素材を厳選するところから始まるだろう。

 港には艦隊が行儀よく並んで停泊している。……一艘だけ、上の方でドォンバァンと仰々しい爆発音が聞こえていた。怒号や悲鳴までもが聞こえてくる。たぶん兄弟子がひとり混じっている。

「お元気そうでなによりにございます」

「あれは元気と言わず馬鹿騒ぎと言う」

 しみじみと言ったわたしを、小太郎さんがバッサリと切り捨てた。

「アッハッハ。出すもんキッチリ耳揃えて払ってくれりゃあわしゃ文句はないぜよ」

「銀時(あのバカ)が? 踏み倒すに決まってるさ」

「いんやあ、金時でも昔のようには行かん。快援隊(ウチ)にゃあこわ〜い女がついちょるもんで」

 坂本さんの軽口に、小太郎さんが鼻を鳴らした。

 さて。

「姓は高杉、名をヒカリ、諱は本来持たないので割愛しましょう」

 わたしは背筋を伸ばして、手を揃える。そのまま頭を下げた。

「快援隊、攘夷党、万事屋銀ちゃん——御一方いらっしゃいませんけれど——皆々様に。鬼兵隊が副官、河上万斉の命を救ってくださり、また鬼兵隊が窮地、我が総督が窮地に助太刀をくださり、平に感謝申し上げます」

 腹に力を込めることで背筋が崩れぬように。ただ最敬礼の角度を為す。

「わしゃダチ公の様子をちょいと見に来て、ついでに忘れもんを届けただけじゃ。そう畏まるもんじゃあなか」

 坂本さんがちょっと困ったように言った。

「礼を言うのはおまえだけか?」

 一方で、小太郎さんの声音は若干つめたい。

「伴もつけずに単身で、まともな場を設けず、俺たちだけに頭を下げる。鬼兵隊としては公に礼を述べるつもりはない証明に等しいな」

 わたしはなにも言わなかった。

「加えておまえは、現鬼兵隊幹部の中でもっとも曖昧な立場だ。下げる頭ももっとも軽い」

 わたしはなにも言わなかった。

 いずれの指摘も事実である。

「ヅラ」

「些か礼を失した扱いだとは思わんか」

 お隣のお友達の苦言を無視して彼は言った。

 小太郎さんの指摘は、正しい言葉である。わたしは鬼兵隊幹部としてはもっとも新参で、そもそもその〝幹部〟としての立ち位置も、兄上の血縁であることを理由にねじ込まれた。縁故採用とよくわたし自身茶化すように。七年も経てばある程度、組織内でもわたし個人としての実績や信頼も積めている(と、主観的には思っている)けれど、それは未だに曖昧な立場を確定するものではない。

 わたし個人保有の部下が限られた数であるのも、良く言えば柔軟に臨機応変に対応できるということで、それは裏を返せば、未だに宙に浮いた状態を維持しているということでもある。これは兄上の判断でもあるだろう。わたしが希望すればいつでも鬼兵隊から切り離せるように、だ。

 ……甘やかされていることくらいは、わかっています。腹立たしいことに。

「……わたしの権限で出せる誠意はこれが限度になります」

 わたしは言った。顔を上げる。

 小太郎さんは厳めしい面持ちを崩すことなく、坂本さんはわたしと小太郎さんを見比べて、心底困ったように眉を下げた。

「あなたがたを軽んじる意図はこちらとしてもこざいません。一方でそのように見えることもまた否定はできません」

 たとえば兄上は絶対に、口が裂けてもこんなこと言わない。兄上がそのようになさらないなら皆様、兄上の意見を尊重する。義務的な連絡事項でもなければ使者すら寄越さないだろう。そして現在、鬼兵隊だけが握っている情報というのはごく限られている。

 そもそも快援隊はともかく、攘夷党とも万事屋とも長らく敵対し続けていた。その上で独断専行的に動けば当然怒られる。だったら組織の意思が統一されている象徴を示すため、黙っていた方がまだましまであるかもしれない。

「それはそれとして、助けていただいた事実を無視すべきではありません」

 わたしは彼らを真っ直ぐに見つめて、続けた。

「兄上を友と思ってくださり、誠に、ありがとうございました。……兄上の力になってくださったこと、本当にうれしかったの」

 〝妹の我儘〟で押し通せるのはわたしだけだ。

 坂本さんが頭を掻く。

「……ヅラァ、おまんの負けぜよ」

「やかましい」

 小太郎さんはいよいよ苦り切った面持ちである。

「あと桂だ」

「ふふ。ご心配ありがとうございます」

「おまえも笑ってるんじゃない。いいか? おまえが単独で泥を被るのは勝手だがな、高杉は確実に苦々しく思っているからな」

「そうですね、たとえば鬼兵隊に悪印象を抱き、わたしにその悪印象を投影する可能性はあります。あなたがたがそのようなことをなさるとは思いませんけれども」

「そういう問題じゃなくてな」

「単独で訪れたわたしがあなたがたの目の届かないところで害される可能性は存在しますね。もちろん承知しておりますよ。あなたがたの部下がそのような短絡的な行動に出られるとは、なかなか、考えづらいところですが」

「そういう問題でもなくてな」

「我が組織内でわたしの地位が危ぶまれることも可能性としては考えられましょう。伴を持たないのは、意図しないところから広まる懸念も加味した結果です。外出自体は伝えていますのでそう心配なさることもないものかと。兄上はわかっていらっしゃるでしょうし」

「お、おまえは本当に、言い逃ればかり上手くなって……!」

「いやあ愉快な見世物じゃ」

「坂本ッ」

 小太郎さんはそろそろ坂本さんに掴みかかりそうだ。わたしはくすくすと笑った。

「ま、そうですね。もう少し事務的な話もしましょう」

 咳払いをして、もう一度背筋を改めて伸ばす。戯れていたお二人もわたしに釣られるように、面持ちに真面目さを戻した。

「ひとつめ、春雨側からの情報ですが、烙陽に華陀は終始不在だったそうです。確実になにか企んでいるものかと——仔細は不明ですが。鬼兵隊側でもまだ消息を掴めておりませぬ」

「春雨の現提督。厄介な女と聞いちょる」

 坂本さんが唸った。

「昔は顔を変えるにも美人さんにする可愛げもあったそうじゃがな。顔と耳を自分で焼くなんぞ並大抵の覚悟じゃあなか」

「……はは。……まあはい」

 わたしは若干視線を泳がせた。

「うん?」

「まあうんそうだな」

 小太郎さんが微妙に視線を外した。その節は大変申し訳ございませんでした。本当にこの件、どうしましょうね。

 わたしはしばらく視線を彷徨わせたのち「続けますね」気を取り直した。とりあえず佐々木さんにお任せしたので彼がどうにか策を出してくださることを期待しましょう。実際にTODOリストなんてけったいなものもいただいたわけだし。というかここのところ本当に忙しくてわたしはなんにも対策らしい対策を考えられてない。

「ふたつめ。現在天導衆の配下として活躍なさっている天照院奈落ですが、こちら鬼兵隊側で首領の身柄を確保しました」

「……朧か」

 小太郎さんの目つきが鋭くなる。彼は鈴蘭太夫の件で既に朧と出くわしている。

「ええ」

 わたしは頷いた。

「ただ彼は……現状、生きているのが奇跡のような容態です。確保までの間も、虚への忠誠心が薄れている様子は微塵も見受けられませんでした。情報を取れるとしてもあまり芳しくないものと存じます」

「そもそも生きたまま捕らえられたことが驚きだ。物理的にも、心理的にも……高杉が先生の仇を許すとは思えんが」

「そこは、そうですね。いろいろとありまして」

 佐々木さんからの要請がなければ、兄上はそのまま殺していたと思う。そもそもにして手加減のない殺し合いだ。小太郎さんからいただいた薬がなければ、どちらかが死ぬ流れは避けられなかっただろう。

 と、いうようなあたりはさっくりと端折っておいて。

「なにか収穫があった場合はお伝えするやもしれません」

 わたしは簡潔にまとめた。捕獲までの経緯は、べつに報告すべき要点でもないからだ。

「……たしかに俺としても把握しておきたいが、そもそも連絡方法があるのか?」

「というわけでこちらみっつめ、鬼兵隊の連絡端末になります」

 さながらTVショッピングの如く、わたしは袂から取り出した端末を提示した。

「盗聴・傍受対策万全。暗号化を完備。三千万光年程度であればタイムラグナノ秒未満でのリアルタイム通信が可能な逸品にございます。普段ならば鬼兵隊協力者にのみ配布している代物ですが、今ならなんと! 皆様に三機のみお渡し可能」

「髙田さん?」

「ジャパネットに就職した覚えはありませんねえ」

 佐々木さんからのTODOリスト・そのに。

【 ・万事屋、攘夷党、快援隊に連絡可能な通信端末を持たせておいてください。

   白夜叉に至っては、以前私が渡したケータイもどうやら破棄してしまったみたいで  】

 わたしとしても、あなたのメールの頻度に耐えかねて通信端末を破棄されるのは、ごく妥当かと存じますけれども。よっぽどブロックしようか悩むくらいの頻度だった。あのメールの頻度で返信を急かすあたりがことさらに悪質だ。

 とは言え少なくとも、こちらはわりと容易に遂行方法が考えついた。少なくとも朧の捕獲よりは何倍も楽である。

「本命はこっちっちゅうわけかえ」

「御明察」

 坂本さんはお渡しした通信端末をてのひらで掲げた。興味深そうに矯めつ眇めつ眺めている。サングラス越しにもわかるくらいに目が輝いていらっしゃる。

「GPSはないな。ならばよし」

「さすがに位置特定情報まで乗せると万一クラッキングされたときにこちらが危険なので……」

 小太郎さんは搭載機能を一通り確認すると、あっさりと懐にしまった。今の手持ちは、スマートフォンとハンカチとティッシュと鉤縄と鬼兵隊の通信端末、という状態かしら。たぶんここに小型爆弾数えた方がいい。先の戦場では果たしていったい何個出したものやら。

「ちなみに利用波数の関連で星間協定法通信規定法は完全に違反しておりますが、とりあえず目をつぶっていただきましょう」

「今更高杉が遵法している方がむしろ驚く」

「そりゃたしかに」

「……我々とて、無闇矢鱈と破っているわけでもございませんのよ?」

 規則の範囲内であれこれやりくりするに越したことはない。クーデターって意外と正当性がだいじだ。

 そもそも法律を論じるなら、廃刀法の問題で刀剣の携帯は禁じられているのに、拳銃やマシンガンといった世間一般的に殺傷能力の高い飛び道具はほとんど野放しの我が国はいったいなんなんですかという話になってきます。法整備が追いついていないだけともいえますけれど。

「銀さんにも機を見てお渡ししておいてください。……取っておいてくださるものか、わかりませんけれど」

「呼んだか?」

 船べりから、ぬっ、と銀髪天パが上下逆さに現れた。

「呼びましたよ。ところでタイミングとってもドンピシャでしたね、どこからどこまでお聞きしていらっしゃったのかしら?」

「ヅラがややキレてるとこから今まで」

「此奴締めていいか」

「わしが許可する」

「待ァて待て待て、銀さん満身創痍なんだよ。締めるだなんてそんな原始的な。話し合いで解決しましょッ。ねッ」

「話し合いだなんて野蛮な手段を取ってはいられん。ここは穏便に暴力で……」

「袖をまくるな、弁護士を呼べェ!」

 銀さんは冷や汗をかいて両手を挙げ(逆さなので水面に向かって指先が向いている)「アデッ」「馬鹿……」「ええ……」「ほんにおまんは愉快じゃき」「なァひとり俺をコンテンツ扱いしてるやついねえ!?」「ごく妥当な扱いかと存じます」負傷のせいか気が抜けきっていらっしゃるせいか、バランスを崩してそのまま埠頭のコンクリに頭から落ちた。

「……まァとにかく、あなたにも通信端末をお渡ししておきます」

 わたしは話を戻した。

 有言実行、涙目で頭をさすっている兄弟子の袂の隙間にも突っ込んでおく。

「といっても兄上管轄の支給品という点で拒絶なさるならば理解は示します。破壊なさる場合は、せめてわたしがいないところでお願いしますね。売り飛ばしたら祟ってでも殺しますから」

「勝てねえからって死んで化けて出る前提をやめろ。コレYouTubeとか観れんの」

「完全に内部連絡専用なので不可能です」

「シケてんな」

 銀さんは悪態をついた。袂から通信端末をなんとか取り出して、改めて、病院着のポケットに雑に突っ込み直した。

「あとは……そうねえ」

 兄弟子はとりあえず、受け取ってくださるみたいだ。表面的であろうとも。

 わたしはふと、快援隊の旗艦の外装に視線を移す。

「……本当に、いろいろとありがとうございました。一橋公まで」

 サッと船の窓から人影が消えた。もしかして、聞こえていらっしゃったのかしら?

「……将軍様はどうやら恥ずかしがり屋のようじゃ。すまんの」

「いえいえ。公といたしましても、使い捨てた味方(てあし)と顔を合わせるなぞ決まりが悪いでしょう」

「おまえは皮肉をやめなさいってば」

 言葉とともに頬を抓まれて、わたしは小太郎さんを見上げた。痛いと訴える前にひょいと指先は外される。小太郎さんはこの点、あまり深追いをしない。

「恨み言を申し上げるつもりはありません」

 短期間で引っ張られてばかりの頬を自ら指で撫でた。伸びてない……かな?

「我々が切り捨てるか、公が裏切るか、単に遅いか早いかの違いでした。我々は彼をまるで信用しておりませんでしたし、公が裏切りを考えていらっしゃるとは思ってもいないほどには傲慢でした。身から出た錆に過ぎません」

「……」

「この反省を活かして次はもう少し上手くやります」

「オイ」

「冗談、冗談」

 兄弟子の声が途端に低く這った。

 わたしは嘯いた。正しく冗談である。なにせそもそも、都合よく動かせるような傀儡を探すところから始まってしまうので。アテがないんですね、つまり。

「同時に——いっときであろうと、運命を共にしたこともまた事実。袖擦り合う程度の縁よりも浅い絆にございましたけれど、その程度の縁はありました。……どのみち傷つけ合うしかありませんでしたけれど、あなたがたは、違ったのでしょうね。わたしは素直に喜ばしく存じますよ」

 めでたしめでたしで終わる夢物語。わたしにはすっかりと縁遠いものだけど、未だに好きだ。なんであれただ幸せに締めくくられる結末こそが、じつのところ、この世でもっとも難しい。その事実に気づくのは誰しも、少しばかり、遅くなってからだったりする。

 彼に報いが下るのか、すでに下ったのか、もしかしたらそのままなのか、わたしは知る由もないけれど——このひとたちに拾われたことは、幸運であるだろうと思う。すくなくとも、我々とともに破壊に勤しむよりはずっと。

「公には、どうせならば長生きしていただきたいところです。そうでもなければ、公のために散った同胞が報われませんもの」

 カラッと笑ったわたしを、銀さんがジトッと見つめて「……」頭を軽くかいて、首を横に振った。

「おまえやっぱ鬼兵隊向いてねえよ」

「どうして悪口仰るの。いじわるなひと」

「ああはいはい悪口悪口。お兄ちゃん大好きっ子にはこれも悪口。ハイハイ」

 兄貴分は意地悪なのでわたしを適当にあしらうのである。

「拗ねなや拗ねなや! 妹分にふられても、やっぱり最後にゃダチ公がおるき。わしはおまんを見捨てんぞ金時」

「ダチを言い張るなら人の名前間違えねえとこから始めろ! もーいーし俺には新八と神楽と定春がいるからね。所詮テロリスト集団にはデカい犬を飼う余裕なんざねえのよ」

「失敬な! 同じテロリストでも俺にはエリザベスという最高の相棒兼ペットがいる」

「そろそろ俺突っ込まねえからなマジで」

「……わんちゃんぐらい鬼兵隊だって飼おうと思えば飼えます」

「……なんで張り合ってんの?」

「は、張り合ってません。いいもの。うらやましくなんかございません」

「もしかして揺らいでる?」

「揺らいでません! そもそもわたしは猫派です」

「……そ〜いやァそうだったな」

 銀さんが何故だか小太郎さんを睨んだ。

「ハハハ。さっさと今の友のところへ行くんだな」

 小太郎さんはなんだかものすごく爽やかに笑って、シッシと手を振った。

「……ハ〜ア。俺ってなんて面倒見いいんだろ〜な。な〜んて友達甲斐があるやつだろ〜な」

「わかるぜよ銅時、おまんは素晴らしき友じゃ。わしにはおまんの気持ちがようわかる……」

「素晴らしき友扱いの相手の名前をワンランクダウンさせてくんじゃねえよテメエいい加減こっから突き落とすぞ」

 兄弟子は友人の背中をどつき、自分もまた乱雑にタラップを上がる。

「ああそれと」

 と、思い出したように銀さんは言った。ついで彼自身の肩越しにひょいと物体が放られる。こちらを見てもいないのに、お手本のような放物線を描いてわたしの手にすっぽりと収まった。

 ハンカチだ。

 投げるために丸められた拍子にか、保管方法自体が雑だったのか、だいぶんしわくちゃだ。

「神楽のことはあんがとよ」

「……さて」

 くちゃくちゃのハンカチを畳み直して、袂にしまう。通信端末をお渡ししたのでちょうど空になっていた。

「礼を仰られるようなことが、なにかありましたかね」

「さァね」

 わたしと小太郎さんだけが残ることになってしまった。気を遣われたかしら。

「……もう発つのか」

「んー。最長でも数日中には、できることなら明日にでも、といったところです」

 わたしはのんびりと言った。さすがにここまで見捨てないでくださった、なんなら兄上をお守りしてくださった同盟相手からの含蓄深いアドバイスだ。無碍にするのもね。

「そうか」

 頬に伸びた指は、今度はわたしの皮膚を引っ張ることはなかった。小太郎さんの指先がわたしの頬をつたって、鼻筋をたどる。わたしは触れる手を払うことなく、目を閉じた。

 指の腹が、下瞼に押し当てられる感触。

「俺と来てくれと言ったら……来ないだろうなあ」

「行きませんよ」

「しってる」

 やわらかな声だ。

「鬼兵隊が好きか」

「……はい」

 ちいさく首肯する。

「今ね、あのひとたちのところが、わたしの帰るところなんです」

「見ていればわかるさ」

 死んだ人も多かった。負傷者も数多いから、死人の数もこれから増えるかもしれない。後遺症がのこるかも。戦えなくなる人も少なくない。もとのかたちには戻らない。死者は蘇らない。どうやったってどうにもできない。

 指の間から取りこぼしたものの数を数える。取りこぼしかけて掴んで壊れたものの名前をなぞる。

 そうしてようやく、両手の中心にのこったかけらを、抱き寄せるように握りしめる。

「無事でよかったな」

「……うん」

 もう一度、ちいさくうなずいた。わたしはちょっと洟をすする。わたしの顔の輪郭を、てのひらが確かめるようになぞるから、その手を捕まえて自らの目元に押し当てた。小太郎さんは抵抗しなかった。

「どうしましょう。泣き虫はもう、過去に置いてきたつもりだったのですけれど、一回決壊すると、だめですね……」

 自嘲ももはや鼻声だ。困っちゃいますね。

 せめて顔を見られないようにうつむくと、てのひらはわたしの手の隙間からそっと抜け出して「これでどうだ」代わりに、小太郎さんはわたしをすっぽりと抱きしめた。わたしの後頭部をおさえて、やんわりと肩に押しつけられる。

「これで俺にも見えない」

「……ふふ。……足きつくないですか」

 身長差のせいで若干、小太郎さんが中腰。

「侍なので鍛えている。そうそう潰れはせんよ」

「あなたってほんとう……」

 わたしはそこで口をつぐんだ。すこし黙って、やがて小太郎さんの肩口に額を押し当てる。こぼれ落ちる涙を着流しが吸い取っていく。漏れる嗚咽を喉の奥で押し殺した。

 こうして大人しくしてしまうと、次々に、走馬灯のように記憶が過る。華陀に出くわしたあのときの、ああしくじったという絶望感。手元の手札を数えて揃えて、どうにか足掻くための覚悟を決めたこと。道中で見かけた兄上の惨憺たる姿。拷問はつらくなかった。わたしを置き去りにして逃げ切ってくれと願い続けることの方がつらかった。

 抱きしめたまた子さんが腕の中で泣きながら謝ったこと。武市さんの疲弊でほつれた表情がわたしを見てわずかにほころんだこと。わたしだけでも生きて戻ったことに、間違いなく安堵されていた。わたしはあのとき最善手を打ったつもりだったけれど、やっぱり、どこかしくじっていたのだと痛感した。文面越しに確認した河上さんの無事。けれどもあのときだって合流できていなかった。同胞は既に数多に欠けていた。兄上は、もはや死んでいる可能性の方が高かった。わたしは死に目にすら会えないことをこっそりと覚悟していた。

 あの状況で、わたしが折れるわけにはいかなかった。たとえ罵倒されようが謝られようが、わたしは、正しく幹部として動くべきだと知っていた。私情はすべて捨て置いて。ただひとり大切だった肉親の生死よりも。

 胸板に頬をこすりつける。

 兄上は、まるで三ヶ月眠っていたとは思えない、獅子奮迅の活躍をなさった。分断されたという兄弟子たちもけっきょくそこに集合した。戦場とは思えない馬鹿みたいな軽口を叩いて、本当、どうしようもないくらい身勝手なひとたちだ。

 どう言い表しようもないくらいに安心できた。

 たくさんの想いがこころの裡にのこって、ただ口にできた言葉はこれだけだ。

「……よかった……」

 噛みしめるようにつぶやく。すっかり短くなったわたしの髪の生え際を、さり、とてのひらが撫でる。

 小太郎さんの背中は大きくて、わたしの腕を回すのは難しい。さっさとわたしは諦めた。内側の襟をつかむようにして、身を寄せる。重力に従って流れ落ちる長髪に頬を寄せる。紅桜の時にバッサリ切られたとは思えないほど、きれいに伸びた髪。昔より変わらぬ髪質。

 このひとに抱きしめられると、余程の姿勢でもなければどうしても上から抱き込まれかたちになる。結んでいない髪が落ちてきて、庇に収められた錯覚を得る。

「……ごめんなさいね。慰めてもらっちゃって」

 これ以上しゃくり上げないよう、横隔膜への刺激を避けて、わたしは慎重に言葉を述べた。

「役得だよ」

「あのね」

 強めに反論しかけた瞬間、ひゃく! と喉が鳴った。ねえもうだいなし。

 口元を抑えたわたしに小太郎さんがこっそりと肩を震わせる。抱きしめられているからまるでこっそりではなく、むしろダイレクトに伝わってくるのだけど。笑わないでくださいよ。

「もお……」

「ふは。いや。どちらにせよ、もとよりおまえを慰めるのは俺の担当だっただろう」

「……いつの話を引き合いになさるの、あなたは……」

「高杉は泣かせ担当」

「本当にね。銀さんは仲裁担当」

「途中まで野次を飛ばしてばかりだったがな。まったく、ろくに変わりやしないさ」

 わたしが軽口を叩き始めたあたりで、もう良いと考えたのか。小太郎さんは身体を離そうとした——から「小太郎さん」わたしはすこしだけ追い縋った。襟を握る手に力を込める。

「兄上にも教えてないことをお伝えします。秘密よ」

「……なんだ」

「あなたは、まだ、待っててくださると仰ったから。これを申し上げねば公平ではないと思って」

 小太郎さんは、なにを悟ったのだろう。かすかに息を詰めた様子だった。「あのね」わたしは一呼吸入れた。

 朧が生き残った今——さて、彼が如何様にしてか知っていたわたしの過去は、もはやどこから流出するかもわからない。

 ならばいっそ自分で告げるべきだ。

「わたし、もう子どもが産めないの」

 わたしを抱きしめる腕に力がこもった。

「これはメンタルの問題ではなく、物理的な話です。卵巣は、あるのだけど。生理はもう何年も来ておりません。今後も来ません。胎児を育むにはまるきりだめな身体になりました。わたしの主治医はとっても口が固いので、本当に、兄上もご存知ないと思います。……小太郎さん、あなた、桂家の再興を願っていらっしゃったでしょう」

「聞かない」

 小太郎さんが言葉を遮るように強く言った。

「お聞きください」

「それは理由にはならない。養子でも取ればいい。どこでも、それこそ徳川公でもしていたことだ。育てることも難しいと言うなら他にも手段の検討はあろう」

「……聞いて、くださいよ。わたしのこと、まだ、嫌いでないと仰るなら」

 間近で深呼吸の音がする。副交感神経を強制的に優位にすることで精神安定を図るしぐさ。

 わたしは未だに抱きしめられているから、小太郎さんが今、どのようなお顔をなさっているのかは確認できなかった。

「客観的に見て、わたしはあまりに事故物件な女です。まず犯罪者でしょ。指名手配犯という点ではあなたも同じですけれど、あなたの罪状よりよほどひどいことをいくらでもしてます。実の親にもあんまり、良くない扱いを受けました。わたしってそのぐらい無価値でした。まァそれはいいんですけど」

 小太郎さんの腕はすこし痙攣した。わたしを潰さず痛みを与えぬように筋肉の統制を図り、それでいて強く抱きしめんとする、矛盾の狭間に置かれたからだと悟る。

 抱きしめ返すことはできなかった。昔ならかんたんに、無邪気に慕ったかもしれない。なんなら飛びついたりしたかも。背中が大きいことなんて言い訳に過ぎない。もうわたしにその資格があるなんて思えない。

「あなたはご存知ではないかもしれないけれど、高杉家は、我々兄妹がいなくなった以外の理由でも、とっくに滅びかけてるの。わたしが一族郎党ほとんど殺しましたので。顔を合わせたこともない親戚なんてたくさんいました。年端もいかない子どもや、元服くらいの年若い少年少女だっていました。皆さんまとめて殺しました。それと、以前少し余計にお話してしまいましたけれど……わたし処女でないどころか、けっきょく、どなたに開かれたのか自分でもよく把握できてないんです。性病を持っていないことだけは診断されましたけれど、保証できるのはそのくらい。ついでに自分でも自覚しておりますが正直あんまり情緒が安定しておりません。いわゆるメンヘラに当たりましょう」

「どこまで聞いていればいい」

「もうすこし」

「好いた女を扱き下ろす言葉を大人しく聞けというわけか」

「扱き下ろしているのではなく、ただの事実です」

 わたしは告げる。

「見合い相手に持ってこられたとして、釣書に最後まで目を通す価値すらありません」

 髪がわたしの側頭部にこすれる。首を、横に振る動きだった。

 本当にやさしいひとだ。

「女は子を産むことこそ価値と述べる人もおりましょう。わたしは現実に、面と向かってそのように言われたことがあります。さすがに真に受けるつもりもありませんが、わたしはその点、資産価値もマイナスです。……あんなところで、あんな月で、産まれてしまえばきっと死んでしまうとわかっていて、わたしは牢番への嘆願どころか、産まれた子の救命すら試みませんでした。むしろ、見つからないように……ひどい女ですよ。泣いたりもできなかった」

 なかった、ことに、してきた過去だった。ついぞなかったことにはできなかった歳月だった。

 かつて平凡で困難な夢を語った無垢な時分。いつも心のどこかでうずくまって泣いている愚か者。わたしはそのとき、もう泣けなかったから、黙殺することで存在しないことにしてきた。

「わたし、自分がもうどうしようもないことくらいわかってるの。前にも申し上げた通りです。どうしたってあなたのこと幸せにできると思えない。あなたのこと、いちばんに思うこともできない。あなたにはほかに、もっとあなたに寄り添ってくださる方が、ちゃんとあなたと歩んでくださる方が、きっと、きっとぜったいに、いて……」

 泥まみれでも前を向いて走ってきたひとに、合わせる顔がない。清濁併せ呑んで飲み下して、なおも顔を上げて歩いてきたひと。一方でわたしはまるで臆病者だ。昔っから上手く変われないまま、上手く向き合えないまま、罪業ばかりを背負ってきた。

 わたしは——甘ったれの末っ子は、けれども運良く同胞に恵まれて、兄上の後を追いかけることができて、兄弟子たちにも再会できた。髪紐をなくしたのに許してくださった。置いていったことをずっと気になさっていたことまで、ちゃんとわかった。もう充分だった。もう充分すぎるくらいに報われた。甘ったれてなんにもできなかった人間には過ぎるほどの報酬だ。

 このひとには似合わない。

 似合わないから、何度もかたちを変えてお伝えしてきたように、振ってほしかった。

 こんな女なんかさっさと忘れて、どなたか、素晴らしいひとを見つけてほしかった。男でも女でも、そのくくりに当てはまらないどなたかでも、小太郎さんが選んだひとならきっとこのひとを幸せにしてくれると思っていた。一緒に幸せになってくれると信じていた。そうしてひとり、安心したかった。

 そうしてわたしは、わたしの最後の未練を、きっぱり諦めたかった。

「それでも」

 声が、すこしだけ震える。

「それでも、あなたが、許してくださるなら」

 歯を食いしばって、目をつむって、目頭から絞り落ちた涙を知覚する。

「それでも、わがままを、言っても、いいなら」

 わたしたぶんこのひとの運命じゃない。こんなにひどい女よりいいひとが絶対にいる。このひとに相応しい、このひとに釣り合う方がいる。わたしなんかに構わせている場合じゃないことを、他ならぬわたしがいちばんよく知っている。

 ……そうやって、物分かりのいいふりを、してみたけれど。

 抱きしめ返す勇気もないくせに、未だに手放すことを惜しんでいるのは、やっぱりわたしの方だった。

 

「わたし、ほんとはね……あなたがいいな……」

 

 どうか振ってください。今ならまだ手放せる。髪紐という言い訳も効かなくなって。待ってくださるというあなたのこたえを踏みにじって。

 ……それでも、これでも、ここまでしても振ってくださらないというなら。

 わたしもあきらめる。このひとを諦めることをあきらめる。未練がましい己をあきらめて、手放さないための覚悟を決めるから。

 

 祈りのように、ただ願う。

 

 ふー、と、わたしの耳もとで声のように吐息がこぼされた。両腕にわたしを閉じ込めたまま、小太郎さんは先程のわたしのように、わたしの肩に額を押しつけた。布地越しに、鎖骨のあたりが濡れる感触。

「それはわがままとは言わない」

 小太郎さんもちょっと鼻声だった。

「おまえがいい。ずっと」

 ——安堵だったのか、諦観だったのか、自らでも判然としない。賭けに負けたのか、勝ったのかも、よくわからない。目元にまたひとつ涙がにじむ。

 小太郎さんの襟をきつく握りしめ、彼の首筋に片耳をぺたりとつける。脈拍の音までよく聞こえた。速いくらいの拍動だ。

「物好きなひと」

「おまえに言われたくはないさ」

「……そうかしら。あなたは本当に良い男ですよ。ちょっと天然さんなところと、見る目がないことを除けば」

「俺は侍の中の侍にして攘夷党党首キャプテンカツーラだが?」

「ですからそういうところでして」

 噂のキャプテンカツーラ、気に入っていらっしゃったのかしら。場違いにも笑ってしまう。こぼれた涙が彼の黒髪を伝って落ちていく。

「俺が良い男のように、おまえは本当に良い女だ」

 ……だから、そういうところが、心底見る目がないと申し上げているのに。

「ひどい女なことを除けばな」

「……ふふ。ごめんなさいね」

「ひどい女であることも含めておまえだよ」

 わたしの髪を指が梳く。

「平和だったらこれで祝言でも挙げてゴールインなのに、太平の世には程遠いところが惜しまれる」

「あなたけっこう形式を重視しますよね……そして太平の世だったとしても、我々に当てはめるとなかなかに難しいことを仰っていますねえ。そもそも祝言ってどなたを呼ぶの?」

「そこは問題といえる。大規模にしたらば乱闘だろう」

「間違いありませんが小規模でも乱闘かと」

「エリザベスと……銀時は呼ばねばさすがに怒られるとして……」

「わたしの方の幹部の方々は、大丈夫かしら」

「まあおまえの祝言に高杉を呼ばぬわけにもいかぬし、あいつと銀時が揃う時点で乱闘だからすべてが誤差だったな」

「……お友達って呼んでもへいきなんでしょうか」

「ミツバ殿か」

「そんなにわかりやすい?」

 所詮は仮定の話である。夢を語るが如き曖昧さに等しい。祝言で結ばれる物語だなんて、古典的な上に陳腐で、そろそろ時代遅れなくらいだろう。わたしたちに、その明日は決して保証されるわけではない。

「もしも生き残ったら——そういうのもいいかも」

 わたしはつぶやいた。

「でもね。死んでしまったらどうしようもありませんから」

 襟からようやく手を離す。身も離そうとしたものの、今度は小太郎さんが抱きしめているので身動きが取れなかった。

「今から死後の話をしてもどうしようもない」

「そうですけれど。あなたが仰るように、実際に、現在まるで太平の世ではございません。わたしはあなたがいいけど、あなたを縛りたくはないの」

「私を忘れないでくらい言えないのか?」

「わたしたしかに未練がましい女ですけれども、そこまで未練がましくはございませんよ……いえ、ただそうですね、すっぱり切り替えられてもそれはそれで、ちょっと、いやですけれど」

「いやなんじゃないか」

「揚げ足を取らないで。ちょっとって申し上げたでしょ」

 先の小太郎さんのようにわたしは細く息を吐いた。「わたしが死んでしまったら……」ぼんやりとつぶやく。脳裏を過るのは、先程返却されたわたしのハンカチ。神楽陛下がどなたかを思ってはるばる地球まで大事に持ってこられた、生花の花束。

「そうね、良いこと思いつきました。わたしが死んでしまったら、花でも活けて弔ってください」

「……」

「それで、枯れた頃には忘れてくださいね」

 もはや呆れ返ったような溜息がこぼされた。

「……おまえは本当に、そういうところがひどい女だよ」

「聞き入れてくださるでしょ? 小太郎さん、わたしに甘いもの」

「……いいだろう。好いた女の我儘を聞かずしてなにが侍か」

 小太郎さんの指先がわたしの耳の裏をくすぐった。

「ただ活けるのは盆栽にする」

「ねえ……」

 抱きしめられていなかったら頭を抱えていたかもしれない。

「もちろん、枯れた頃には忘れるさ。絶対に枯らさぬようになんなら大きく育ったら庭に植えて桂家子々孫々まで家宝にしてやるが。フハハハハ永劫に語り継がれるがいい」

「末代まで恥を語り継ぐ前提本当にやめましょうね」

「死んだら本気でやるぞ」

「そこまで来るともう脅しです」

「脅しているとも。俺はおまえの言う通り良い男だが、しかし悪い男だ。テロリストなものでな」

「テロリストを大義名分に使わないでください」

 鬼兵隊(わたしたち)さすがに、自分たちの身分を恋路のダシにはしない!

「俺に捕まったがおまえの運の尽きさ」

 隙間なく触れていた体温が、ようやく離れる。小太郎さんは少しだけ目元を赤くなさっていた。わたしってこのひとのこと苦しめてばかりだ。

 わたしの耳から辿って、てのひらはわたしの両頬を覆った。

「だから死ぬなよ」

「……保証はできませんけれど」

 わたしは苦笑した。

「未練にはなりそう」

 

 不幸になってもいいからあなたがいい、なんて、それはそれで陳腐な夢物語でしょうか?

 

 外出時間を長めに申告しておいてよかったかもしれない。それでも、これ以上長居はすべきではなかった。いよいよ離れがたくなりそうだ。

 洟をかんで目元を拭ってハイ原状回復。

「お気をつけてくださいね」

「軽挙妄動命懸けスーパーボールに言われるとは……」

「銀さん一回殴っておくべきだったかしら」

「さすがにこればかりは銀時の形容が正しいからな。だいたいおまえの自業自得だ」

「ハイ……」

 お説教も程々に、わたしは小太郎さんに背を向けた。振り返りはしない。連絡事項は滞りなく終えた。もう充分なくらい話した。

 髪紐の代わりに言葉をもらった。すこし死ねなくなってしまった。

 生き延びられるといいな、とか、ちょっと思ってしまった。

 我ながら都合の良いことである。

 本当にどうしましょうね。

「イタッ、」

 埠頭を出るところでうっかり足をつっかけて、前のめりに躓きかける。わたしの襟首は無造作に掴まれて宙に浮いた。

「注意力散漫」

「ご、ご自分で引っ掛けておいて……?」

 わたしの襟首を掴んだ兄上がわたしを見下ろしている。思い出したように、兄上は突き出していた足を引っ込めた。

「……海原さんは?」

「まあ散歩くらいならむしろリハビリとしてちょうどいい、とな」

「……えー、と、ちなみに」

「冒頭から」

 言葉を先回りするかのごとく告げられた。

 わたしは黙った。

「ヅラは気づいてた。銀時や辰馬もじゃねえか」

 わたしはそのまま三秒ほど黙った。

 それからおもむろに、己の顔を両手で覆った。

「ころして……」

 あのやり取りを兄上に見られるほど恥ずかしいことも、そうそう、ないかも……。

「ていうかもしかしてもしかしなくても〝兄上にも秘密〟もなにもなく全部ばれたんですか」

「……。いや聞いてねえ」

「それ聞いている方の反応でしょ……」

「聞いてねえ」

「もおやだ」

「信じやしねえな甘ったれ」

 わたしを地面に下ろし、掴んでいた襟首を放して、兄上はわたしのてのひらを剥がして頬をぐいと親指でぬぐった。先程流した涙は(丸められてくしゃくしゃの)ハンカチで拭いたけれど、拭くまでに時間があったから、表皮は地味にカピカピしている。

「降りるか」

 温度のない無表情がわたしを見下ろしている。

 わたしはひとつ呼吸を挟んで、兄上を振り仰いだ。まっすぐに見つめると、わたしと同じ色の翠眼は、一度だけまばたきを為した。

「……あなたって本当、本ッ当に、わかっていらっしゃるのにひどいことばかり仰いますよね」

 さっきも散々泣いておいてなんですけれど、わたしたぶんこの場でもう一回くらい大泣きしても許されますよ。

 兄上の片目がもう一度またたいて、若干視線の先がずれる。

「……冗談だよ」

 うそだ今の絶対本気だった。ぜったい絶対本気だった。

 わたしの頬から手が離れ、そのまま兄上は、ふらりと先に埠頭を出ようとする。相変わらず妹のことを置いていくのが大得意な背中を捕まえる。振り払われなかったのをいいことに、わたしは額をすりつけて不満を主張した。

「猫……」

 ぼやかれる。先だっての銀さんと同じ思考回路である。指摘しないけど。一度始まるとうるさいのだから。

「降りても、どうともなりません」

 背中に額をつけたまま、わたしはつぶやいた。

「降りたところで、いちばんがあなたがたなのは、なんにも変わりませんもの」

 最優先は兄上と、兄上が率いる鬼兵隊だ。曖昧でフラフラした立ち位置のままだったとしても、年月が経てば責任が付随する。組織そのものに情も湧く。今更なにもかも放り出して恋路に走るには、いまだに兄上離れができていない。所詮はわたしは甘ったれの末っ子だ。

「強情女」

「誰に似たのかしら」

 兄上は羽織ごとわたしを引き剥がして、わたしの頭を小突いた。わたしが側頭部をさすっている間に羽織に腕を通し直す。

「帰るぞ」

「はい」

 ちょっと小走りに、兄上の隣に並んだ。

 兄上はわたしを見ることなく、腕を伸ばしてわたしの頭を雑にかき回した。相変わらず兄上の撫で方は、銀さんよりは多少上手なものの、小太郎さんよりへたっぴのまんまだ。

 

   ➤

 

「まあ兄妹仲良しは良しとして、ところでちなみにそこの野次馬はいったいなんなんだおまえたち本当にさも去ったような顔をしておいて」

「帰ったふりしてずっとスタンバってました」

「俺の台詞をパクるな。突然標準語に成り下がりおって貴様にはアイデンティティというものがないのか」

「わしゃ常々実感しちゅうがじゃが、武州弁を標準語と言うのは江戸の傲慢が出ちょると思わんか?」

「突然方言話者のネガティブな自我出してこないでくれ。念のため断っておくが、一応俺もべつに江戸生まれでもないからな。……そして銀時に至ってはいったいなにしてるんだ、それ」

「身内の色恋沙汰ほど気まずいもんもそうはねえよな」

「めちゃくちゃ鼻声」

「途中から若干泣き始めてうずくまっちょった」

「うるせー! そろそろ俺ァテメエをチクリ魔呼ばわりしよっかなァ!? ……え? てかヅラはまあとして辰馬オマエこそダッバダバじゃねえか」

「うむ。下手するとこの間のヒカリより勢いよく泣く……を通り越してほぼ洪水なものだから、さすがの俺とて触れづらかったぐらいだ」

「つい釣られてもうた。最近涙もろくて歳かもしれん……ウッおりょうちゃん」

「噂のおりょうちゃんにはテメー袖にされてンだろナニ同列にしてんだ。ズビ」

「アンタら揃いも揃ってハンカチ持ちなさいよ」

「ンな高尚なモン俺が持ってるわけあるかバーカ」

「開き直られることある?」

「グスッ、あっそいで思い出した。わしの手拭い返しちゃくれんか」

 

「……しょうじき返すのが癪なので新しいものを弁償する形でも良いか?」

「……ヤまあわしゃべつに構わんけどもォ……」

「余韻ってこんな一瞬で消し飛ぶことあるんだァ……」

 

「良かったねとは思うけど不思議なくらいにまるで一ミリも羨ましいとは思えねえ」

「フン、なにか文句でもあるのか。両想いでちゃんと振られずに祝言の約束までした。恋愛映画ならここでエンダァを流している。桂さん大勝利だ」

「両想いなのに振られてた今までが常人には理解不能なレベルで異常なことを除けばそうかもな」

「およ? エンダァはアレ元ネタ別れちょるき、おんしらボディーガード観ちょらんのか?」

「エッそうなの」

「俺そもそもエンダァはタイタニックだと思ってたんだけど違ェの」

「おまんわしに名前のことで擦っといてセリーヌとホイットニーの区別はついちょらんのか」

「悪かったっすねえボンボンにゃ常識レベルの教養もなくて。どーせ俺は川の下から拾われてきた子。マ拾われたの川の下じゃなくて戦場だけど」

「新八くんでも突っ込むか迷ってギリ流しそうな高難度自虐ネタをかますでない……そういえば、松陽先生は洋画はあまり話題になさらなかったな」

「ほーか、ほんならこれも知らんか? エンダァ自体も歌詞通しで聴いたら別れの曲やき。タイトルと、やったら有名なサビ部分だけじゃと〝ずっとあなたを思っちょる〟になるけども、全体ざっくり訳しゃあ〝ずっとあなたを思っちょるけど、私はあなたの邪魔になるき、ここで別れましょ〟になるぜよ」

「オイこいつらがずっと揉めてた理由踏まえてさすがに不吉過ぎね?」

「や、やっぱりエンダァはキャンセルしておこう。お手元のBボタンを連打してくれ」

「てめーらはポケモンなの? つか話聞いてるときから思ってたけど〝俺、帰ったら結婚するんだ……〟はむしろマジの死亡フラグなんだよ。おまえコレで死んだら俺高杉一旦置いてでもまずおまえを殺すから。なんなら高杉が確実に殺しに来るから」

「死んだ上でなお二重に殺されるのか、俺は……」

「奪衣婆と渡し船の船頭を丸め込むがはわしに任せちょれ」

「団結しよるわ。死なんよ」

「気合ではどうとでも言えるよな」

 

「高杉はもちろんだが、俺でもおまえでも、死んでしまったら今度こそ泣かなくなるだろ」

「……それはホンットーに、そうなんだよなァ……」

 

   ➤

 

   ガラガラ、とん

 無菌室なんて大層なものはまだこの艦の中にはない。本艦にはありましたが、吹き飛びましたね。

 医務室備え付けの隔離部屋には、拘束具で全身を巻かれて、点滴と呼吸器を繋がれて、ひとりの男が横たわっている。目を瞑り、眉間にしわを寄せている。色濃い隈は未だどす黒く、下瞼の直下に居座っている。

 わたしは手近な折り畳み式の丸椅子を開くと、ベッドの隣に置いて、その上に腰を下ろした。

「調子はどうですか」

「最悪だ」

「あら起きていらっしゃったの? かもしれないとは思っておりましたけれども」

 舌打ちが響く。

「あまりカッカしていらっしゃるとお体に障りますよ」

「そっくりそのままおまえに返す」

「誰が短気で血の気ばかりの暴れ馬ですか」

「……そこまで言ってない」

 あら、遠慮なさる。

「不死の血の副作用ですか」

 わたしは尋ねた。

 朧は目を閉じたままだ。たぶん無視されているだけなのだと思うので「あなたに指摘されたように、わたしが天導衆に向かって打った手の大半はハッタリでした」勝手に話し続けることにする。

「とはいえすべてが嘘というわけでもなくてね、実際に、先生の遺髪の細胞分析まではできておりました。これを為したのは鬼兵隊(うち)でもっとも凄腕の医者なのですけれど……」

 ちなみに話題の海原さんは現在、隣室のデスクに突っ伏して爆睡している。負傷者たちを順に見て行ってなんとか片付けたのち、先程までは目下の大問題・捕虜の身体状況調査結果とにらめっこして頭を抱えていた。気持ちはわからないでもない。もはやあんなにすべての項目で最悪数値を叩き出されるとただの不健康診断である。健康診断ではなく不健康診断。

「理屈付けをするならそう、と申しておりました。過剰回復による細胞の酷使が超短期間で繰り返し行われた、と結論付ける他ないと」

 朧はすこしだけ目を開けた。

「単なる己が愚行の対価に過ぎん。欲をかかねばこうはならん」

「欲?」

「与えられた血を良いことに何度も死に瀕する。あるいは、俺以上に多量の血を欲し、与えられ続ける」

「素直に教えてくださるのね」

「知りたかったのではないのか」

 わたしは首をかしげた。

「あなたの容態を今後最低限にも保たせるためには、病状の適切な把握は必要でこそございます」

 けれど今の口ぶりはなんだか、わたしが個人的に知りたがっていたとでも言うような表現だ。

「薄々気づいていよう。あのとき〝何〟を与えられたのか」

「まあ、ゆえにこそ打てたハッタリではありました」

 わたしは言いながらも、自らの頬をてのひらで撫でる。この様子ではどうやら、わたしが飲まされた血について、己にも副作用が機能するのか、気にしているように見えたらしい。

 なるほど。

「……あなたとお会いするたび、不可思議な振る舞いをなさる、とわたしは常々感じておりました。今もそうです。もしかしたら自分の身に同じことが起きるかもしれないから——わたしがそういうことを気にして、あなたに尋ねたと思ったの?」

 朧がまた目を閉じる。

「あなたは今、そのように推察して、わたしを慮ろうとしましたか」

「……余計な世話であるならそのように言えばいい」

「違います」

 わたしは言葉で否定した。加えて首を横に振った。目を瞑った朧には仕草までは到底見えやしないとわかった上でそうした。

「わたしが尋ねたい要点は、あなたの矛盾した振る舞いそのものです。敵なのですから、正直に答えなくともよろしいじゃございませんか。何故気遣うような真似をなさるの」

 沈黙。

「わたしだけでもありません。あなたは、定々や、その背後の天導衆にじつに忠実に仕えていらっしゃいました。配下の方々もそのように見えます。一方で……今井さんは、奈落出身者だというのに存外自由に振る舞っていらっしゃいましたね」

 沈黙。

「佐々木さんの部下に就くこと自体、ほとんど足抜けと差し支えない経緯だったと聞きました。何故許されたのか——当代首領のあなたが、その許可を出しましたか? 天照院奈落および天導衆といった、所属組織や利害関係者に対して、弁明できる理屈を用意なさったとか?」

 沈黙。

「あなたが、今井さんが自由に動ける環境を作ったと、仮に定義しましょう」

 無視されているだけだとわかっているので、わたしはそのまま話を続けた。

「わたしと今井さんは、性格も、生育環境も、かなり異なります。今井さんは昔は髪を伸ばしていらっしゃらなかったそうですから、容姿も違いましたよね。共通点といえばせいぜいが、物騒な女であることと……」

 これは佐々木さんの指摘。

「……自らを〝吉田松陽の弟子〟と認識していること、くらいかしら」

 〝先生〟を処刑台まで導いた男。兄弟子たちに業を背負わせた男。松陽の弟子である兄弟子たちを屠らんとした男。それでいて多勢で徒党を組むことなく、最期の一騎打ちを試みた男。わたしを助けたバイオレンス親切通り魔。今井さんの先輩。

 朧は答えない。瞼を閉ざしている。

 目を閉じた人間の前で所作に気をつけたところで、気づかれることはない。同様に、気をつけなかったところで気づかれることもないだろう。

 わたしは改めて姿勢を正した。

「あなたは誰ですか」

「天照院奈落首領。あの方の忠実なるしもべ」

 朧は言った。

「その他の理解が、なにか必要か」

「必要です」

 わたしは即時に切り返す。

「たとえば、あなたが呼ぶ〝あの方〟とはどなたのことを指しているのか」

「ただひとりだ」

「それは虚? それとも〝先生〟?」

「いずれもあの方、ただひとりを指す呼称だ」

「あなたが初めにお会いしたのは、どちら? まったくべつのひと?」

 朧は答えない。

「わたしずっと気になってるの。あなたって、今まで一度も自ら〝朧〟とは名乗っていらっしゃいませんね。わたしが知らないだけ? それとも、常に?」

 朧は答えない。

「朧の名は、あ(﹅)な(﹅)た(﹅)ではなく、天照院奈落首領に与えられた号(な)ですか」

 朧は——彼(﹅)は、こたえない。

 わたしは、再度問うた。

「あなたは誰ですか」

「俺はその答えを持たない」

 彼(﹅)は言った。

「売り物の童(わらべ)にもとより名前はない。あのひとはただの小姓に名をつけなかった。もとより人殺し集団の奈落に童が身を置き続けることを厭っていたから、いよいよ、離れがたくなると考えたのだろう」

 彼(﹅)は目を閉じたままだ。言葉の間に挟まる息継ぎには、喘鳴のような雑音が混じる。肺も腐りかけているのだという。海原さんがカルテにまとめた仔細な病状の一部に、かろうじて読み取れる程度の、走り書きの字体で記載されていた。

「あのひとは、俺に命を与え、生きる意味を与え、なにひとつ教えなかった。あの松の木の下の火の元に〝松下村塾〟の字を綴った以外のなにひとつ。……その夜が明けぬうちに、俺はあのひとの元を離れた」

 松下村塾。村人の子弟を教育する塾、という意味で〝村塾〟だ。我が住まいの近くに松がつく地名はいくつかあったが、どれも松下村塾の位置からは離れていた。

 〝先生〟は我々にとって、奇妙ななりの子どもを連れて突如現れた流れ者だ。より以前に松のつく地名の場所のいたのか、それとも単なる思いつきか、しばしば兄弟子たちと話したものである。最古参たる銀さんでさえ由来を知らなかった。銀さんが〝先生〟に拾われた時点で、既に松下村塾の名前はあったからだ。

 〝先生〟はついぞ答えなかった。我々をもっともらしい由来で納得させることすらなかった。〝いずれ、きっと紹介しますね〟と答えを先延ばしにした。

 はじめに、松の木の下にて開かれた教え。

 松下村塾。

「俺はあのひとの夢を守り、安寧を守り、そのように徹するつもりでいた。そのすべてをたかだか己が身勝手な私情で奪い去った」

 彼(﹅)の語り口は淡々としている。コフと咳き込む口元から酸化した血液がこぼれた。血液とはすなわち主要な感染媒体である。素手で触れるべきではない。清潔な布で拭う。

「いくら誰何されたところで、おまえが得心する答えを俺は持たない」

「では質問を変えましょう」

 わたしもまた、あくまでも淡々と尋ねた。

「あなたは——もしも、望むなら。望んだ通りの名前や肩書が得られるならば、どのように名乗りますか」

 彼(﹅)は目を閉じている。「望むなら」と、唇がほとんど動くことなく繰り返す。

「望んでも良いと、言うならば」

 彼(﹅)の口元が笑みを刷いた。喜色や安堵、というよりは……自嘲の笑みに見えた。

「……しかし、あのひとのすべてを奪い去り、あの方の血の契りさえ果たせなかった俺に、既にその資格はない」

「夢見る資格も?」

「同様に」

 彼(﹅)はそれ以上、言葉を続けなかった。……わたしは、これ以上の譲歩を引き出せる気がしなかった。

 同じ男から羽をもらったという言。〝あのひと〟と〝あの方〟の、わずかながらも決定的な呼び方の違い。松下村塾の名を松の木の下で聞いたこと。〝先生〟が天照院奈落にいた時代を知る者は今まで誰ひとりいなかった。今井さんでさえ、先代首領を語る言葉は他人事のようで、実際に彼女は又聞きしただけに過ぎなかったのだろう。

 わたしが知る事実と、彼(﹅)が断片的に語った言葉を継ぎ接いで、推測で繋げば、おおよその仮説を得られる。もっともらしく披露することもできるだろう。

「そうですか」

 わたしは言った。

 望まぬ暴露が引き出す真実はきっと疵だらけだ。賢しらにひけらかした仮説はたとい限りなく核心に近くとも、相似は決して同一ではない。もちろん、彼(﹅)が口にしなかった言葉を、推察の中で取りこぼされるだろう言葉を、顧みず、踏みにじることはできる。あまりにかんたんに——だからこそ、わたしは選択しないことを決めた。

 伏せられた断片に含まれる意味とはなんであるか。触れられることを拒んだ傷口か。誰の目にも届かないところに仕舞って守った宝玉か。

 わたしが不用意に触れるべきではない。

 たしかな事実はそれだけだ。

「……ちなみにバイオレンス親切通り魔ってお呼びしてもいいですか?」

 彼(﹅)はすこしだけ目を開けて、落ち窪んだ眼窩の底からわたしを睨んだ。

「先日から思っていたが、おまえその件、高杉にまるで報告を上げていないな?」

「……そういえば、機会を逃し続けておりましたね」

「つくづくと愚かな」

 彼(﹅)は短くののしった。

「単なる巡り合わせですよ」

 わたしは軽く流した。

 たしかに、バイオレンス親切通り魔ではいったい何事かと思うだろう。連鎖的にわたしの報連相の欠如が露見してしまう。なにか別の呼び名を考えておかないと。

「ヒカリ」

「ハァイ、なんですか」

「ハァイなんですか・じゃ・ねえだろ帰って早々にやることが伴もつけずに捕虜と同室に引きこもりとはなァ恐れ入ったよ。この頭なァにが詰まってんだカラかテメエ」

「頬!!!」

 考える間もなく、怒り心頭の兄上がズカズカと踏み入ってわたしの頬をつまんだ。横の捕虜兼病人がどういう表情をしているかはもはや見なくてもわかる。もう確実に馬鹿を見る目をされている。

「無闇に近づくほど馬鹿じゃねえと思っていたのは買いかぶりか? 挙げ句によりによって昨日の今日で朧」

「らって」

「ア?」

「ごえんらはい……」

 わたしは全面降伏した。

 

   ➤

 

「……先程の話の続きだが。鬼兵隊入隊後の接触であろうとも、報告をしていないならば上げておけ」

「は?」

「待っ」

「そも不審人物に近づかれ薬を盛られた失態をしかも隠蔽まで為出かす有様で、よくもまあ今まで五体満足を保ってこられたな。さぞ甘やかされてきたのだろう。奈落ならばとうに処分されているほどの体たらくだ」

「な、なんでわたしってば行く先々で言いつけられてるんですかとうとうあなたにまで」

 

「——ヒカリ」

 

「すみません今すぐ説明いたします」

「首輪何がいい」

「ごめんなさい後生ですから首輪繋ぐ前提やめてください」

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