前略:
動乱篇、あるいははじめてのおつかい篇を完了。
損害・隊士十数名死傷者。ヘリ二機。四駆数台。体調。
➤
熱を出すのはしんどいけれど、昔は——具体的には、家を出てからは——わりと、嫌いというほどでもなかった。なにせわたしの他にいらっしゃるのは、やたら丈夫な兄上、やたら丈夫な銀さん、やたら丈夫な小太郎さん、もはや風邪を引く生き物なのかわからない〝先生〟という有様だったので。そんな世帯の中で風邪を引くとどうなるかというと。
布団の周りに集まって「死なねえ?」「死なねえよ」「大丈夫だろうか」「もう少しあたたかくした方が」「汗が」「寝苦しそうですね」「手拭いを替えよう」「それより着替えを」「オイおまえら出てけ」「ア!? だァれが足手まといだって!?」「言ってねえよ!!!」「おまえたちやめろ、起きてしまう」「こら、ふたりとも。怒りますよ」「「すみませんでした」」と延々ヒソヒソされる。
しょうじきけっこう面白かった。大声出されなくたって、寝床の横でそんなに延々やり合われたらば誰だって起きますよ。
微笑ましい過日の物語である。あのときのうち三人は既に去っていった。過去の記憶は過去に薄れゆくまま、二度と再現はできない。あの頃は嫌いでもなかった。
今は。
まあふつうにしっかりつらいですね。
「……ごほ、」
季節外れの水浴びで身体が冷えたついで、なにかもらってきたのやら。三十八.九℃を表示する体温計を眺めて目をつむる。もう少し上がりそうなんですよね、この調子だと。
瞼を下ろしていてもぐーるぐると視界は回り、脳天が撹拌される感覚が続いている。医療フロアで薬はもらった(じつは鬼兵隊の医療フロアって薬も出せるのだ)のでそれを飲んでやり過ごすしかない。湯治から戻って任務ひとつこなして早速コレとは。インフルとかじゃないんですか。ないらしい。どうして。
ここ数年、寝込むまで不調を拗らせることはなかった。最後に体調を崩したのは。……まああのころは置いといて。鬼兵隊に入ってからと言うものの、多忙に駆けずり回っているばかりだったから、体調を崩している暇もなく緊張状態だったのかもしれない。緊張状態が解ける要因に心当たりがないのだけど。
……湯治によるリフレッシュ?
……リフレッシュが体調不良に繋がること、ある?
あるのかも。
ともすれば散逸する思考を掻き集めるのにもいい加減飽きてきた。もとより不調に身体が疲弊しているのだろう。意図的に思考に空白を作れば、すぐに意識は消えた。
……。
…………。
目が覚める。ゆっくりと呼吸すると、乾燥した喉に空気が通り、わたしは大きく咳き込んだ。視界がにじむ。目をまたたかせて、生理的な涙を落とし、わたしは壁にかけられた時計を仰ぎ見た。二時間しか経っていない。
わたしは布団から這い出た。
「……なにしてんだ」
「んー。……ンー? あにうえ」
声をかけられたタイミングは、水を入れようと空のコップをつかんで、三回落としたところだった。四回目のためにコップを拾い上げようとするわたしに、食堂の入口に顔を出した兄上が、心底呆れた様子で溜息をつく。音でバレたかな。
すたすたとわたしに歩み寄り、コップを拾い上げると洗い場の方に放り込んだ。
「まだのんでないです」
「一回床に落とした容器で飲もうとすんな」
「んー……」
「駄々をこねるな」
腕を掴まれて「あつ……何度だ」「えー……三十八……?」「……本当か? 本当だとしていつ計った? 上がってンだろコレ」雑に引いた椅子に座らされる。きちんと座っているのがつらくて、机に寄りかかっていると、水を半分ほど入れたコップを、かん、と目の前に置かれた。視線だけで見上げると、兄上は左手側のお誕生日席に腰を下ろしていた。
「……ごほ、けふ……」
「水飲みに来たんじゃねえのか」
「きました、ごほ、」
「飲めよ」
マスクをずらして、ちみと水をなめる。渇いた喉を潤していく。へんな味がするので確実に風邪で味覚がやられている。
「寄りかかったらどうだ」
「より……? よりかかってます」
「背もたれ。前のめりは咳が出るだろ」
もう一度水をなめる。つめたい水をあんまり一度に飲むと、それはそれで喉が痛くなる。
そうしながら、兄上に言われたことを考える。背もたれ。背もたれか。
「背中が、かくれてしまうので」
「だからなんだよ」
「傷は、なえるらしいので……」
また咳が出た。
「——は?」
がたんと音が響く。椅子の音だろうか。
「うつ伏せの方がだいたい、みんな、早く終わりますから、まし……」
みたび、水をなめたところで、コップをつかむ手を掴まれた。大きく揺れた水面を抑え込むように、硬い手がコップを取り上げ、わたしの手から離して机に置き直す。ついで、コップから離れたその手で、汗で額に張り付いた前髪を雑にかき上げられた。
「ヒカリ」
呼び声だ。兄上の呼び声。朦朧とする頭をすこし抑えて見上げると、兄上は椅子から半ば立ち上がり、長い前髪の隙間からわたしをつよく覗き込んでいた。
「ここは、鬼兵隊だ。俺の管轄」
「……はい」
「高杉の屋敷じゃあねえ」
わたしは何度かまばたきした。途中で咳が漏れる。
「それは知って……知って? 存じて、ます」
鬼兵隊。
兄上の管轄。
「……あれ?」
たしかに、そういえばそうかも? だから兄上が、ここにいるわけで。ここは、わたしの地獄の底では、ないわけで。
「そうですね? であれば、なんにも問題ない、ですね?」
「……ああ」
兄上の管轄なら、わたしにとっては安全だ。安全ではなかったのは——過ぎ去った話を振り返るほど非建設的なこともなかなかない。
今わたしがいるのは兄上のお膝元。熱を出してもその隙をつかれることは早々なく、なんなら兄上手ずからお水までくださった。我ながら良い身分ですね。すっかり弱みを見せるのがイヤになってたけれど、年一くらいならやっぱり体調不良ってありなのかも。
手首からてのひらが外れる。行儀は悪いけれど、椅子に深く座り直して、背もたれに寄りかかる。机に置かれ直したコップを両手でつかんで、すこしずつ飲む。
一方で兄上はわたしの髪からもまた手を離し、椅子に座り直した。行儀悪く足を組み、口元を覆って、なにかを考えている様子だった。
「背中にしか傷がねえ。背中以外に、傷が、なかった……〝だいたい、みんな〟? ……複数人、複数回? 攘夷志士に加担した疑惑のせいか? 〝血を残す〟か? いずれにせよ、ありえねえだろあの畜生、実の娘だぞ……」
「あにうえ、お声が小さいです」
喋っていることだけはわかるものの、声が小さい上にくぐもっているので、ほとんどなんにも聞こえない。なんなら兄上ご自身が口元で覆っているものだから、読唇から当たりをつけることもできない。
幼子のごとく不満を訴えると、硬い指先がまたわたしの額に触れる。
「……なんでもねえよ。独り言だ」
頬まで伝う汗を派手な柄の袖が拭っていく。兄上はわたしから明確に眼差しを逸らした。
「先生たちについていくとき——おまえを連れて家を出たとき、ついでにあの家全員皆殺しにしときゃあよかったと思っただけさ」
ほとんど吐き捨てるような語気の強さだった。兄上の視線は、照明もつけておらず薄暗い壁を、ただじっと睨んでいる。
妙なことを仰る、と、わたしは思った。当時の兄上はさすがにそこまで強くはない。別段、生家を皆殺しにしようと決意するほど憎んでいたわけでもない。当時のわたしとてそうだ。かつてのわたしは、家に疑問を持つわけでもなく、無知で従順な子どもとしてなあなあに生きていた。
それに、そのような話は、今は既に無意味だ。
「わたしがもう、大半、殺しましたよ?」
あの場にいた者共、九割九分は区別なく、のべつまくなし誰も彼も。武士から女から果てには罪なき赤子に至るまで。深手を負わせるだけしかできなかった相手もいたけれども——その点はちょっとだけ、今でも後悔している。あれほど弱っていなければ確実に、捕まる前に全員首をはね飛ばせたのに。腹いせに売られることなどなかったのに。マ扱いは遊郭の方がまだだいぶんましでしたが。
わたしは幸いにして芸を持ち合わせており、今更身体そのものを売り物と扱うには、あまりにも傷が多すぎた。遊女としての商品価値は損なわれていた。好き者が集うお店か、夜鷹であればあるいは、といったラインだ。その点、比較的新参だったわたしに対し、舞妓ばかりの立方すっ飛ばして地方の三味線弾きにねじ込んでくださった遣手婆には、感謝している。売り飛ばされた当時、まだわりと死にかけだった人間に御粥用意してくださったりだとか。もちろんそのぶん小言も多かったけれど。身請金で賄えたと思いたい。
どちらにせよ傷痕はもはや刻まれて久しい。なかった頃には帰れない。時は遡ることもなく、我々は過去を踏みしめて今を歩く。
「遅いか、早いか、それだけです。兄上が手を下す必要は……もとより、なかったものかと」
「そうだな。おまえにとってはそうだろうよ。つくづく、ようく理解した」
言葉は思考の表層を上滑る。身体に搭載された防衛機構に脳みそは茹でられっぱなしで、ろくに意味を解さない。わたしを気遣う指先はとくに震えることもなく、わたしをとろとろと安眠へ誘う。
幕間の語り部はどこにもいない。
ゆえにこのくだりは、熱に浮かされたわたしの脈絡のない悪夢である。ふたたび目覚めるころにはきれいに忘れ去っているだろう。
➤
「完全復活です」
「しばらく春雨との折衝がメインになるってんでもう少し寝込んでてもぎりセーフらしッスよ」
「えっ、それは……悩みますね」
「ヒカリ殿、復活されたのであればOffice認証アカウントのことで少々ご相談が」
「ウーンわかりましたところでもう一回寝込んできてもよいでしょうか?」
「治られたのであれば、だめです」
「だめですか……」
➤
春雨の要求は多岐に及ぶ。幕府中央との密約が成ってからというもの、転生郷の販路を再開拓したいだの吉原の監査を行いたいだのかぶき町の賭博場を確認したいだの江戸城の内情を知りたいだの。
「あーもお! どうやら彼ら、鬼兵隊を小間使いとすこしばかり勘違いされていらっしゃいますねェ!?」
快復早々これである。折衝メインっつっても多すぎでは!?
数多に積み重なる資料を振り払って、頭をかき回したわたしに「抑えて……」武市さんがささやいた。ささやかないでほしいです。お気遣い申し訳ないがちょっとキモいため。
そもそも、もとは旧き武家育ち、あるいは単なる町娘、なんなら世俗から数年隔離されていたわたしでも、デジタル化にはとっくに適応したのですが? とうに電子に馴染んだはずの天人どもに、何故資料をFAXで送らなければならないんですか? 印刷してホチキス止めして配布しなければならないんですか? 重要文書を郵送してくるんですか? タブレット端末でデータ送信でよくないですか?
傍受の危険がある? 不具合が出たときに対応しきれない? 物理媒体はやっぱり最強? あのですね駄々こねてるときに正論で話さないでください。理屈の話してないんです精神論の話なんです為せば成るでしょう為さねば成らぬ。
「ほらあヒカリ様でも怒るに決まってるッス! ほら!」
我が意を得たりとまた子さんがわたしの腕をとって掲げた。
「私ら天人の奴隷になるために破壊やってんじゃねんスから!」
「まあまあ。ネッ。三百円あげるからまた子さんも」
「三百円じゃあ最近はジャンプも買えねーよ!」
物価高に加えて税率も十%の時代ですからね。
「指示であるからにはやりますが。だとしてもいくぶん、非効率ではございませんか? 助力のために天人と同盟を組んで増えた仕事に追われるのはなにかがおかしい。こちらのメリットが消え去っていません?」
「資金源」
「……」
「技術。武力。コネ。手数。一方こちらの頭脳部まで彼らに委託してはいよいよ鬼兵隊も食い漁られる。そこは自力で揃える必要があることはヒカリ殿にはご理解いただけるかと……そして業務が増える以上、それらを交渉し選別し割り振り管理する側には往々にして相応の負荷がかかるもの」
「……ぐう」
「ぐうの音が出ることで抗われても」
困った顔をする武市さんの横で「いやいやまだイケる! ヒカリ様の底力はこんなものじゃあない!」また子さんが力んでいる。わたしの底力って果たしてなんでしょうね。ド根性の話されてる? 現代っ子にしては根性はある方だと思います。たぶんね。
「頑張ってください! 先輩を論破して!」
「論破したいのは山々ですができそうになく、たとえ論破しても仕事が減らなそうな気配なのでェ……」
「相互理解は貴重ですね」
「そんなあ……」
馬鹿言ってばかりでもいられない。おふざけもそろそろ、終わりにいたしましょうか。
ディスプレイに向き直り、参考資料とにらめっこしつつ、ホログラムキーをぺたぺた打つ——横から、参考資料をかっさらっていくひと約一名。
「暗記しているので読むなら構いませんけれどそのあたりに放置しないでくださいね。なくすとさすがにまずいので」
「暗記はしているのか。ふむ、とはいえこれらは拙者にも覚えがある」
「……ちなみに河上さんは諸々、完治でしょうか?」
「いンや全然、見ての通りでござる」
こちら、松葉杖付きの河上さん。銀さんに骨を折られ鋼線で肉を断たれなんなら突きで内臓も破裂していたので生死の境をうっかり覗いたとの噂だ。腹の包帯はたしかコルセット処置だったはず。だいぶん重傷ですよね本当に。
一方わたしはもう完治している。騒ぎの中心部には基本的にいなかったこともあり、風邪を引いた他は、砲弾を逸らした手首が若干筋肉痛だったこと、一番隊隊長の刀が皮一枚かすった首、あとは橋から落下時の打撲程度しかなかった。なんなら風邪が一番重かった。今更ながらあれ打撲の発熱も含んでたのかな。
「デスクワークに飽きたなれば、代わるか? 任務。拙者さすがにしばらく大立ち回りはできぬゆえ」
「まァそうでしょうねとは思いますが。代わるって、なにかわたしが代打できるような案件でしたか?」
「春雨行」
「……次の春雨との折衝って要するにまたもやおつかい受諾の旅ですよね? つまりお話し合いですよね? その間も大立ち回りしていらっしゃるんですか……?」
「たまに」
さすが名高い宇宙海賊、治安が最悪である。お話し合いの現場だというなら大人しくお話し合いしてほしい。仮にも同盟を組んでいるのに。
「第一、わたしでは春雨への交渉には外見の圧が足りなかったのでは?」
「同盟締結にはさすがに足らぬな。ただまァ同盟自体は結ばれたので圧をかける必要はそもそももはやそこまでないというのがひとつと」
それはそう。
「拙者、今の負傷状態ではおそらくぬしよりなめられるというのがひとつと」
それもそう。
「変平太を送るなら確実に腕の立つ護衛を、春雨相手なら追加で何人かつける必要がある。その点ヒカリは最悪単独でも送り込めるので」
「けっきょくコスパなんですよねえ……」
単体でそこそこ戦えて、交渉ができる程度の最低限の学があって、と諸々条件を揃えていくと当たり前だが人員はかなり限られる。わたしが受けずとも、負傷状態の河上さんでも、今立って歩いているあたり最低限のラインはクリアしているはず——けれども、前回わたしがもうちょっとやる気あれば負傷は減ったかもしれませんしね。そうかな。
あと単純にそろそろ、河上さんにしらっと負担がかかりすぎていて本当に可哀想、というのがあります。
「よろしい、承りましょう。対価の業務処理はよろしくお願いしますね」
「うむ」
河上さんは力強く頷いた。
「無論、最悪の想定なので基本的には拙者のもとから見繕って誰かつけよう」
「ありがとうございます。人員配備はまた詰めるとして、手始めに、今回の議題については?」
「今見せる。というかこれもあるのだよな」
これもある、とは。
河上さんがホログラムキーボードに手をかざすと、新たにウィンドウが表示された——わたしは、思わず眉を上げた。
「春雨から、吉原に監査を送り込みたいとのことなのだが。ぬしならば多少内部を把握しているであろう」
「……わたしは吉原の現状にそこまで詳しいわけでもありませんが、たしかに、そうですね?」
そういえば河上さんとの初対面も遊郭でしたね。
➤
もとより我が国の吉原遊郭という場所は、遡れば二百年は前、江戸幕府が開かれてからさして年も経たずに幕府公認で運用され始めたものである。ただ天人の襲来によっていっぺん壊滅した。
この体制と、放棄された巨大造船所に目をつけたのが、当時の宇宙海賊春雨第七師団の師団長だ——夜兎の王とも名高い、通称〝夜王〟鳳仙。
吉原の再建は鳳仙によって主導され、造船所を作り変えた地下街として建設された。再建中もかなり熱心に見回っていたとは噂に聞いている。幕府黙認の実質的な春雨支配下の
数年前に鳳仙はいよいよ吉原にかかりきりになり、やがて師団長の座も後継に譲った、というのがざっとした経緯だ。
「数年前……?」
「具体的には八年前になりますか」
中田さん(河上さんからお借りした部下、Spotify三ヶ月無料付きの刀が手に入ったこともあり、最近はわたしにわりと従順)の訝しげな確認に、わたしは応じた。ちょうどわたしが遊郭に叩き込まれた前後の話なので、じつはけっこう詳しかったりする。
「お気に入りの遊女が脱走しかけたものだから、それからすっかりと、彼は吉原から目を離せなくなってしまったのです。夜の王と謳われるまでの男が、まァどうにも、籠の鳥一匹なんとか収めておきたいと奮闘なさる……おじいさまがずいぶんと、おかわいらしいですね?」
「ヒカリ様、目が笑ってません」
「これは失敬」
無関係な部下を怯えさせるのは本意ではない。誤魔化しがてら、咳払いをひとつ。
「わたしとしてもそういうの、しょうじきあんまり好きではないので」
「遊郭にいたンならそうです……かね?」
わたしにとっての論点はそこではないが「自由ってだいじですから」とわたしはテキトーに流した。不必要な物語である。語り部は、いません。
「吉原への出入口は、基本的には地上階からあるエレベーターを用いた昇降になります。とはいえこれはどうでもいいですね」
「どうでもいいんだ……」
「外部の行き交い自体はほぼザルなんですよ。男は基本誰でも出入り自由ですし、女も商品でなければ同様。検問どころか入場料すらありません」
「アそういえば確かに……なんで入場料取らないんですかね? 設定してもみんな払うでしょ」
「搾り取るのが目的ですからねえ。入場料程度のはした金で客に正気に返られるより、お気軽に夢の世界に足を踏み入れていただいてお酒が十万お酌に二十万三味線と踊りで百万円、と積み重ねてもらった方が実入りがよろしいのかと」
「怖い話」
震える中田さんを一瞥して「男性であればお財布が素寒貧になる程度ですよ」わたしは足取り軽く宇宙船を歩く。動物頭の天人たちが我々をちらちらとうかがっている——あれが鬼兵隊? いつものヘッドホン侍はどうした? どうやら人員不足らしい……と、諸々。おおむねそういう囁きだ。なめられてはいますね。そのぐらいがわたしにとっては、楽ではある。
「せいぜいあっても腎臓がひとつ消えるとか、そのぐらいです」
「そのぐらい扱いですかねえ!?」
「とはいえ陰間も顔と器量が必要ですから」
「アレ? 暗におれ、顔と器量が悪いとけなされてます?」
「これはあなただけとも限らないので責める目的ではございませんが、若干、吉原に夢を見過ぎですねえ——内側に囚われることなく内臓ひとつふたつで済むのであれば、その方がずっと素晴らしい世界ですよ。あれは」
中田さんはわたしの斜め後方で三秒ほど沈黙し、やがて「……すみませんでした」と言った。わたしは軽く手を振った。
「お気になさらず。わたしも勤めた期間はずいぶんと短く、館でも丁寧に扱われた方でしたので、これらは知ったかに近いのです」
「いえ。それでも」
「強情でいらっしゃる。構いませんがねえ」
廊下の最奥、扉の前には守衛らしき天人がふたり立っていた。彼らはわたしを一瞥し、じゃっかん鼻で笑う仕草をする。
「開けていただけますか」
「開けられないのか?」
ウーン、とわたしは一瞬、考えた。明らかになめられている。正規の来客に対するのだからもてなすのが筋だろう。少なくとも彼らは、守衛のほかにドアマンの意図を以て置かれているはずだ。
「……おれが開けますよ」
「いえ」
中田さんを手で制して、「ところでいつまでSpotifyは無料なんですっけ、それ」とわたしは言った。
「残り二ヶ月半?」
「……えーと……」
中田さんがぎくりと体を強張らせたのが見なくてもわかった。
「探すの大変だったんですよね」
「……言わんとすることはわからなくもないんですけど……なんですか?」
「お借りできません?」
「……そこの奴らから借りるのは?」
「今回、敵対意思を示すつもりはないので」
わたしが味方以外から得物をお借りするとは、それすなわち、借用対象の殺害と同義である。
「さすがに折りませんよ? 今回はバズーカを受け流すこともないので」
「ああそれで折れたんすかアンタかわいい顔してヤベーですよね……」
「ふふふ、かわいいって。うれしいです。ありがとうございますね」
「都合のいいとこだけ聞き取る……。ホント折らないでください」
「ハァイ、それは無論ですとも」
実質的な許可が出たので、わたしたちは扉に歩み寄り、わたしは拳を軽くあげて「ごめんください」こんこんこん、とノックした。もう片方の手で中田さんの刀の柄を無造作に掴み——振る。
「……ア?」
納刀。
四等分に切断された扉が、そのまま崩れ落ちた。
守衛ふたりがバッとわたしたちを振り返った。室内には、師団長や副団長と思わしきメンバーがずらりと十数名。全員の視線が扉(残骸)にくぎ付けだ。最後部の上座には、ぽかんと間抜けた顔の阿呆提督。彼はわたしを見て、中田さんを見て、守衛ふたりを見比べて、もう一度わたしを見る。
「いつもあなたに破壊をデリバリー、鬼兵隊です」
わたしは微笑んだ。守衛の方々を手で示す。
「こちらの方々が扉が開けられないとのことでしたので、僭越ながら、我々で用意可能なタイプのマスターキーを利用させていただきました。修理代についてはのちほど書面でお送りいたしますね」
唖然とした空気の会議室で、パチパチパチと三つ編みの青年だけが拍手した。ありがとうございます。
➤
会合はたいへん和やかに進んだ。
わたしは扉の
わたし個人は、なめられるのは構わないんですけれどもね。それだけ暗殺もやりやすくなりますので。
ただ今回、兄上の率いる隊の名代として来ている以上は、なめられているだけでは少々不足なのだ。兄上がなめられているに同義なので。ついでにちょっと最近、調子乗られすぎなので、ここらで少々お灸をひとつ。
「さっきの技良かったよ。大道芸?」
「ありがとうございます。どうしてだかわたしの剣術は皆様、揃いも揃ってそのように評されがちですねえ」
会合が終わって、廊下に出たあたりで、神威さんはニコニコとわたしに寄ってきた。
「その、申し訳ありませんがヒカリ様に対して少し距離が——ぐえ」
「パフォーマンスとしての大道芸といえば、その通りです。ちょっとした個人的な特技ですね」
わたしは答えつつ、割って入ろうとする中田さんの襟を引いて横に置いた。あなたはわたしより弱いのだから、わざわざ健気に肉盾を務めんとするのはやめなさい。
幸いにして神威さんはさして気にしていないようで(たぶん興味がない)「なるほどねー」と相槌を打った。
「その調子で人も斬ってるんだ?」
「たまに。まァその点、わたしの実力はあくまでも末席ですよ」
中田さんは信じられないものを見る目もやめなさい。見えますよ横では、さすがに。
「地球人って意外と強いんだね。さくっと支配されたって聞くし、脆弱なやつしかいないのかと思ってた」
神威さんはまるで気にしておらず、わたしの周りをちょこちょこと跳ね回る。わたしよりも背が高いけれど、このような振る舞いはたしかに少し兎に似ている。
「いることにはいますよ。夜兎基準で如何か、という点は疑問が残りますけれども」
「へえ、俺が夜兎ってわかンだね? 詳しいじゃん」
「取引相手の情報くらいは礼儀として把握しておりますとも。あなたは特に——今回は議題も議題ですので」
「ああ〜、それはそうだ。鳳仙の旦那が面倒かけてごめんねえ」
ぱん、と両手を合わせて、神威さんは小首をかしげた。口元は相変わらず弧を描いている。
「あのじーさん、吉原にマジで手ェ出されたくないみたいでさァ。うちの師団も、まアもともと書類作成とか馬鹿馬鹿しいって思う奴らばっかだけど俺も含めて。ンでも吉原に限っては、内部資料とか昔の設計図に至るまで、まァじでなァンにも残ってねえの。やんなっちゃうよね」
「支部であろうとも閉じた世界のガラパゴス進化については、現地民の方がいくぶん詳しいのはその通りでしょうね」
「がらぱごす?」
「失敬。独自の方針で発展を遂げた、というような意味を指します。吉原はその点些か……我々の目から見ても、かなり閉鎖的ですけれど」
完全地下街の超法規的空間だ、尋常ではない。太陽を嫌う夜兎の種族特性を差し引いても——基本的に天人のやり口というのは現地民を都合よく顎で使うものであり、自ら積極的にアレコレ指示を出している時点でかなりおかしいのだ。加えて常駐。ふつうにありえないである。敗走した結果が辺境の星地球、とかそういう話でもなさそうだ。少なくとも鳳仙に関しては。
「ふーん」
神威さんはきゅっと目を細めた。
「さっき話に一瞬出てたけどさ、日輪? だっけ? 鳳仙の旦那のお気に入りとやら」
「日輪太夫であればその通りです」
「そいつ、吉原にはいつからいるの?」
「禿の頃を含めて十年以上ではあるでしょう」
わたしは記憶を想起する。日輪さんはたしか、幼少の砌に人売りに攫われたクチだ。人生の大半を吉原に閉じ込められて過ごしている。加えて八年前の時点で既に鳳仙の〝お気に入り〟で、しかも相応に売り上げていた。
「おそらく吉原最古参と目してよろしいかと」
「へえ。てなると、鳳仙の旦那が吉原に介入するところを——造り上げるところを、ずっと見てきてんだろうね」
「おそらくは」
「だったらさ、そいつ、八年前はなんで
わたしはぱちりとまばたきをした。
「とうに完成した地下街から逃亡するなんざ、遅すぎる。逃げられるタイミングはもっと昔の方があったはずだ。アンタさっき……話を省いたよな?」
神威さんはニコニコと笑みを浮かべたままだ。
中田さんの視線がそろそろあちこちそちらからまたこちら、と忙しなくなっている。
「……はて。かの名高き夜王に直接関与しない蛇足は当然、端折りましたが。ご入用ですか?」
「鳳仙の旦那への交渉のカードになるかと思ってネ」
ウーン。
わたしは頬に手を当てて、しばし思案した。
「オイいつまでやってんだこのスットコドッコイ」
「あーあ、面倒なのきちゃった」
神威さんの中華服に似た背中ごとつまみ上げ、夜兎の男がため息をついた。じろりとわたしを目だけで見下ろす。
「ウチの団長が絡んで悪かったな。なんか無茶ぶりでもされたか? 悪いがクレームは提督宛に言ってくれよ、俺ァただの部下なんでね」
「いえいえ、こちらこそ。春雨の雷槍と名高い師団を率いる御方とお話し合いの機会など、なかなかございませんからね。先程もお世話になりましたし」
「……てめえの小間使いの顔色見てから言ってやンな」
彼は雑に顎でしゃくった。
中田さんに紬を引かれて早く距離を取れと圧をかけられているのはわかっている。それにしてもこのひと小心者ですね本当に。
「しかし、この程度で潰れるヤワな者は、あなたがたのお膝元になど連れてこられませんので」
「ヒカリ様、ヒカリ様、信頼はありがたいんすけど、その信頼でわりと潰れそうっす」
「捨て置きますか」
「見捨てないでェ」
「冗談ですよ」
わたしは一笑に付した。
「また我々が一触即発と思われたのであれば、すこし早計かと。わたしのような端女を叩き殺したところであなたがたには利がありませんからね」
「害もねえがな」
脅迫というよりは、警告だ。夜兎にしては穏便な男に「いいえ」とわたしもあくまでも穏やかに言った。眼差しを神威さんに戻す。ぷらんと大人しく拘束されている青年が、その碧眼が、わたしをふたたび捉える。
「最短距離での闘争を望まれるのであれば——ええ。わたしは事実として末席です。わが故郷には、わたしには到底、遥か及ばぬ方々がいらっしゃる……こちらは、冗談ではありませんよ」
神威さんは捕獲されたままに片手を上げて、ひらひらと手を振った。
「地球に行ったら案内してネ」
「機会がございましたら、是非とも」
「さっきの話も教えて」
「そちらもまた、機会がございましたら」
わたしは最後まで口角を引き上げていた。師団長さんの軽々しい態度に深々と溜息をこぼして、副団長の阿伏兎さんもまた「じゃーな」とさっさと踵を返した。
背中を見送りながら、てのひらで頬をちょっとほぐす。頑張って笑顔を固定していたので、じゃっかん、筋肉が強張っている。
「……では中田さん、我々も戻りましょうか」
「……アンタの肝はバケモンなんすか?」
この短時間で精神が削られたのか、中田さんは心底げっそりしている。
「彼らは本気で怒っている様子はなく、鬼兵隊の使者を殺害する利もなく、あくまでも威嚇と品定めの言動でした。であるからしてこれはお話し合いの域を脱しません」
わたしが扉斬り倒したせいもあるだろう。侮辱には威嚇で返すだけで、別段、事を荒立てようという意思はない。
「頭では分かっててもアレ怖ェっすよ無理ですよ」
「大荒れの兄上よりだいぶんましでしょう?」
「ああハイよくわかりました、比較対象がバケモンなだけだった」
中田さんは肩を落とした。ようやくわたしの紬から手も外れた。ところで生地が伸びてませんか? 兄上からの支給なので、こちら、けっこうお高いはずですけれども。
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「万斉様だ……! やっとおれは帰ってこられた……!」
「なにをしたヒカリ」
「信用がありませんね。あなたの部下を危険になど晒していませんよ」
「ああ……既になんとなくわかった」
「万斉様ぁ、あのひと付きおれもぉ嫌ですよぉ、陣に全幅の信頼を置いて背水の陣に両足から突っ込むんですよぉ」
「なんと軟弱。あなたそれでも侍ですか?」
「ホラこのパワハラ上司ィ! Spotify無料期間だけじゃ割に合わねえ! 雑に地雷原突っ切るのを安全圏で眺めるしかない身にもなっていただけません!?」
「ハァよくさえずりますね」
「ね゙え゙も゙お゙ヤ゙だ」
「いじめてやるな。軟弱であろうと大切な同志であろう」
「そうだそ——あのチョットさーせん万斉様、今おれのこと軟弱って仰いました?」
「シマッタ」
「シマッタではなくて」
➤
くだらない密談なぞさておいて。
わたしはこのようにお仕事として春雨の艦隊と地球の鬼兵隊本艦を行き来しつつ、粛々と本分に努めていた。
「アホ提督が最近大人しいな」
「あまりになめられたので初手ちょろっと威嚇したのですが。そのせいでしょうか」
「ああ扉四ツ切」
途端興味をなくした様子で、どうでもよさそうに相槌を打つ兄上。あなたが振った話ですよ。
「どうせならもう少し安く修理できるように斬ってくれりゃあと勘定方が嘆いていたぜ」
「無茶を仰る。金具から上手く切断できればよかったのでしょうけれども、兄上や河上さんなればさておき、わたし程度では細かい切り口にまで構っていられません」
兄上は黙って肩をすくめた。
その目がふと、注意深くわたしを眺める。
「……なにか?」
「吉原の件、担当を差し替えることは可能だが」
わたしは軽く嘆息した。
「お気遣いありがとうございます。しかし実際問題、客として詳しい者は数多にいらっしゃるでしょうけれども、内部事情という点では殿方に任せるのはかなりの不安が残りますね」
「そのへんの遊女たらし込めばいンだろ」
「ふふふ。いい加減にしましょうね色男」
馬鹿である。馬鹿兄上である。実現可能なところが最悪ともいえる。さすがに老若男女、数多の人材をたらし込んできた逸材だ。
「吉原内部の遊女に言動の自由などございません。物理的に。百華に嗅ぎつけられれば、花はさながら椿の如くぽとりと落ちます。無論ながら、手折ろうとした花泥棒ごとにございますよ。ついでに諸々、漏れた事情は
わたしとて、諸々そろそろ八年近く前の記憶をもとに話しているわけなので。しかも勤務期間は一年程度のことだった。当然変更点の方が多く、暗部深部まで把握できているというほどでもない。
が、本質はそこではない。
「どうしてもたいていの殿方って、特にお遊びにおいては、
隻眼がわたしの様子をなおも見極めようとするので「……ご安心ください」と付け加えた。まったく過保護なことである。
「遊郭では皆様、良くしてくださいました。あなたはなかなか信じようとはいたしませんが、これは厳然たる事実です。吉原桃源郷は女の地獄と評されるものの、すくなくとも、わたしの地獄の底とはかけ離れていました」
「……そうだろうよ」
「はい?」
「ハイハイわかった理解した。ンだけ言い張るなら任せる。泣きついたら指さして笑ってやらァ」
シッシと兄上は手を振った。なぜでしょうか。わたしに対して途端に雑で、なんだか反発したくなりますね。
「泣きつくことはございませんけれども……ところで御心遣いをいただけるのであれば、ひとつお頼みしたいことが」
「途端に足元見てきやがる」
死ぬほど面倒そうな顔をされた。
まだ頼み事の内容なぞ、なんにも申しておりませんよ。
ともあれわたしはいそいそと兄上の横に侍る。「寄るな侍るなせめて姿勢を崩せ」間髪入れずにぴしゃりと言われた。相変わらず叱り方が独特だ。姿勢を崩せってなんですか。仰るならば崩しますけれど。
「一日お
「またか?」
「ええ〜身体を張ってキリキリ勤勉に働く妹に休暇くらいいただけますよねえお給金ばかりが高かったところで福利厚生も充実していなければ金なぞ邪魔な置物ですよ河上さんではありませんがブラックカンパニーでもございませんでしょう、ねえ?」
「やかましいなこのアマ……」
うんざりとした様子でわたしを片目だけで見下ろした兄上だったが、とはいえ、最終的には許可が出た。やはり持つべきものは妹にやたらと甘い兄というわけでありまして。ね。存分に活用していきましょう。
にしても最近はとみに押しに弱い。ぎりぎり宇宙船までならねだりきれそうでわたしは兄上が心配です。
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Q・上様より安全な場所とは?
A・江戸最先端の病院の集中治療室。
まあいろいろとなるほどね、という感じだ。元気ではない。が、生きている。
今は病室も移されたのか、人工呼吸器も外されて、とはいえ個室で四六時中モニターチェックをされているような有様だ。血色も悪く、前に見たときよりもさらに痩せて——やつれている。短い髪は栄養が行き届かずにパサパサ、瞼の下には隈がある。昏睡状態で睡眠は十二分に足りていようとも、体調が歴然として悪い場合は色濃く隈を飼うことになる。主に血行不良だとか、血管が透けて見えるほどやつれている場合がそれに値する。誰がどこからどう見ても、死にかけているとしか思えないだろう。実際カルテをちょいと覗き見たところ、どうやら死んでいないのが不思議な状態らしい。
ベッドの横に勝手に椅子を持ってきてわたしは、苦しそうに眉を寄せる姿を俯瞰した。
いくらかそうしていただろう。不意に、まぶたがわずかに痙攣した。ミツバさんの目が開く。焦点が彷徨った瞳がわたしを捉えて、何度かまばたきして、彼女はやんわりと笑んだ。
「……お見舞いに、来てくださったの?」
「……あなたもう少し、こう、いろいろと危機感持ったらどうですか? これは冗談ではなく本当に」
わたしはうんざりと言った。
「真選組の身内が、入院中に、攘夷浪士に枕元にまで接近されていることの意味をよくお考えなさい」
「ふふ」
「ふふではなくて」
「でも私たち、もう、お友達でしょう?」
奥歯を噛んだ。仏頂面で見下ろしたわたしに「否定しないのね」と、ミツバさんは言った。
「病院ってねえ、先生たちはとても、ご親切なのだけれど……退屈なの」
「さいでしょうねえ」
「食べるものも止められて……次のお土産は、激辛せんべいで、お願いね」
「喋っている間にも死にそうな人間に激辛せんべい渡すようなお馬鹿さん、どこにもいませんよ」
「そう、かしら。万事屋さんは、買ってきて、くださったのだけど」
「それはそれは、いったいどこの腐れ
「ッフフ、ゴホッ」
ミツバさんは笑っていたけれど、ふいに何度か咳き込んだ。痰が絡むような音の咳だ。……血かもしれない。
上体を起こそうとする彼女に嘆息して、背中を補助する。姿勢を引き上げた拍子に、また変なところに入ったようで、コンコンコンと咳の音が止まらない。とくにナースコールを押すこともなく横目に眺めているだけなのに、ミツバさんはわたしを見て、面白がるようにまた口角をあげた。なにも面白くありませんがね?
「ね。万事屋さんと、お知り合い?」
「知りませんよ。ふん。わたしのこと置いてったようなひとなんかなーんにも知りません」
「あら、もしかして、噂の、お兄様のお友達……」
「知りませんってば。どうせもうとっくに隠居した、遠山の金さんもどきでしょう。わたしとはまるで無関係です」
「あらまあ。拗ねちゃって。好きな人だったり、した?」
「わたしの好みは黒髪ストレートロングです〜あんな若白髪縮れ毛クルクルパーじゃありませんもん」
「まったくもう、そんなこと言わな、」
彼女は上体を丸めて、また何度か咳き込んだ。ヒュウヒュウと呼吸音にしてはまるで奇妙な音を立てている。
「死にますか?」
「……そんなに、私、死にそう? みんな仰るのよ」
「ええ」
わたしは素気なく言った。
お出かけついで、兄上の傘立てからまた掻っ払ってきた脇差を腰から取り外し、鞘入りのままに床をつく。
「介錯を検討する程度には」
ミツバさんは、上体を丸めたまま、何度か息を吐いた。笑っているようにも聞こえた。この状況で笑える要素、ゼロでしょうが。なにが面白いの。
「この間は、本当に、死にそうだったの。ICUにも、入ることに、なってね」
切れ切れの喋り方である。本当につらいのだろう。言葉に対して一呼吸がまったく持たないのだ。
「苦しくて、苦しくて、いっそ死んでしまいたいほど、だったけど。……あなた、来るかと、思って」
「……は?」
「私が、生きるのを、諦めて、今より、幸せになることを、諦めたら——殺しに、来るかと、思って」
わたしは黙り込んだ。
実際に——わたしが彼女の病状どころか、病室を突き止めてお休みまでいただいて、珍しく帯刀で乗り込んできたのは。……殺すべきかと思ったからである。
「どうせ、死ぬなら、苦しまないようにって、あなた、そういうひとでしょう」
「……なんだか言動を全体的に好意的に解釈してくださいますね」
そろそろいろいろ呆れてきた。既に呆れていたけれど、なんというか全体的に。
わたしは捨鉢に言い放った。
「真選組がこの間大荒れだったのご存知ですか? あれはうちの隊の仕業ですが」
「知ってるわ。なんなら、ヒカリさん、いらっしゃった、のでしょう?」
「振ったのはこちらですが、何故ご存知なんでしょうね……?」
「そーちゃんがね、姉上を、人質に取ろうと目論む、女性の浪士が、いたって。元気か、と脅してきたって」
「あなたの危機感、もしかして弟さんというかたちで外付けされていらっしゃる?」
「ふふ、おもしろいこと、言うわね」
「面白いかなあ?」
「それを聞いて、私、ヒカリさんが、心配してくださったのかな、って」
「斜め上解釈ですねえ。弟さんの苦労が忍ばれますよ本当に」
存在自体が台風だ。あのとき見て見ぬふりしておけばわたしも巻き込まれずに済んだのかも。わたしはこっそり心底後悔した。
こんこんと咳をする拍子に掛け布団に喀血が飛んだ。サイドボードに上がっていたティッシュを箱ごと差し出すと、なにがツボに入ったのか、ミツバさんは身体を捩って笑った。笑ってんじゃないですよホントに。面白いことなんにもないでしょう。死にかけてる自覚おありですよね?
「まだ生きるわ、私」
いつ死んだとしてもおかしくないような風体で、彼女はそのように断じる。さながら幽鬼のごとく血の気は失せて、美人さんの面影こそあるもののどちらかといえば痩せ細ってやつれた様相はさながら骸骨である。
「生きるの。生きるから、あなたに、殺されることは、ありません。勝手に、見切りを、つけないでね。もしかしたら昔なら、もう、満足していたかもしれないけれど……まだ、もっと、幸せになるつもりは、あるから。馬鹿に、しないで、ちょうだい?」
わたしはなんとなく、脇差の下緒を指でもてあそんだ。
「……マ、お好きなように」
いろいろと言葉に迷って、吐き出せたのはこの一言だ。ミツバさんはやんわりと笑う。
「それでね、ヒカリさん」
「ハイハイなんですか」
「あなたも、諦めないでね」
わたしは目を細めた。
ミツバさんはわたしの、刀にかけていない方の手をとった。顔立ち同様、あまりにもやつれていて、まるで骨のような指である。病院着から覗く手首の細さが痛々しい。あのとき見かけたあかぎれが未だ居座っている。自己治癒力まで落ちていると見た。
しかし彼女はまだ生きている。まだ生きる意思がある。
「あなたも、諦めないで、生きてね。幸せを、掴んでね」
「……」
「私に、些細な幸せじゃあ、満足、させなかったのだから。責任を、取りましょう、ね?」
「ウーン。まるで知らない責任が生えましたねえ」
「——これは私の我儘よ。あなたが、寂しいと我儘を言ったように」
紅茶色のひとみがわたしを射抜いた。
ミツバさんとは対照的に、わたしの手はまるで健康的だ。剣ダコとペンだこと三味線のタコとあと諸々。まァ淑女の手という様相ではない。
「勝手に仰いなさいな」
わたしはミツバさんの手を布団の上に戻して、己の手をさっさと引っ込めた。脇差をつかんで立ち上がる。
「ともあれ、仰ったからには実現してくださいね。そしてやっぱり諦めたらば、いつでもご連絡を。今度こそその首取りますので。無機質な機械に囲まれてさみしく死ぬより、我々と真選組の戦火として打ち上がる方が、いくぶん有効活用でしょう?」
「ふふ。ぜったい、いや」
「ハァ強情な御人。もう知りませんからね、お邪魔しましたあ」
「今度は、激辛せんべい、持ってきて」
「さっそくご自身で寿命縮めようとするの本当にやめましょうねえ」
ガラガラ、ピシャッ
お見舞いってこんなに疲れるものだっけ。わたしはやれやれと首を横に振った。
まだ正規の面会時間には遠く、看護師の巡回時間とも外れている。人気のない、非常灯だけが照らし出す通路を一足飛びで歩く。
「——ところで、いい加減、出てこられないんですか?」
充分病室から距離をとってから、わたしは尋ねた。いくぶん間があって、溜息のような音がひとつ。
「病院でドンパチやるつもりはねえよ」
「まァやり合うにはこのあたり、些か狭いですからねえ。あなたがたの間合いではなにかとたいへんでしょう」
病棟で殺し合いされる想定は、病院側もしていないだろう。
「それにしても、今は見逃してやる、ってやつですか? いいですね。格好つけだ。わたしもいつか使います」
「いやいつかもなにもそれこそさっき使ってたじゃねえか」
「やーん盗み聞きとかむっつり」
「誰がむっつりだボケェ!」
「うるせえぞ土方ァ乗せられてんじゃねえや」
「く、くそっ……」
何?
振ったわたしも悪いのでしょうけれど、出来の悪いコントでも見せられてます?
「副長殿と一番隊隊長殿が揃ってお暇とは」
「暇じゃあねえよ、それこそてめーらのせいでな」
「……おや? そんなことが? 末端のわたしにはなんのことやら……」
「しらこいのは置いといて、うちの監察方は諜報やるだけの働きはするんだよなァ。てめえ、人斬り万斉といたって? 声が同じだっつって泡食った連絡が来たぞ」
どうやらわたしはあのとき、こめかみを踏みつけるだけでなく、まずは彼の鼓膜を潰してから喋るべきだったらしい。
「〝兄上〟殿は最近音沙汰ねえようだが、またぞろ悪巧みか? 高杉ヒカリ」
これもはや真選組には素性が全部貫通してますね。情報突き合わせれば見えるものはあるでしょう。手配書が発布されていないのは——それこそ、監察方に顔だけは割れていなかったから、かな。
「ご安心を。あなたがたのお手を煩わせることはございませんよ」
わたしはあくまでも和やかに言った。
「せいぜい鋭意努力して、真選組の立て直しに集中なさいな」
「下手人がよォ……」
「しかも土方さん、コイツあん時マジでやる気ありませんでしたからねィ。俺に避難勧告しやがる悠長さでさァ」
「それはまあ、はい、やる気はありませんでしたね。めんどくさいし」
「めんどくさいで殺られそうになるウチの気持ち考えたことねえのか!?」
ないかも〜。
「姉上は昔っから人の世話ばっかかかりきりでなァ。はじめは俺でこのクソ野郎だの」
「クソ野郎っつったなオイてめえ」
「友達なんて言い出したの、それこそ初めてなんでィ」
わたしは真逆——兄上は講武館では遠巻きにされていて、そもそも武士を育成する講武館には女子はふつう通わない。わたしは兄上のおまけとしてつけられていただけだ。そのような生活では、同階級の女の子と会う機会があっても、話が噛み合うことはなかった。松下村塾時代も、兄上たちのあとにひっついていたから、あるとして他愛もない世間話とか、皆様にお近づきになるために趣味を聞かれるとか、そういう実情である。
「医者曰く、あんだけ悪化していて命繋いでんのが奇跡らしい」
「でしょうねえ。死人の顔色ですよ、あんなの」
「あァ同意見だね。ンで、ああなってくると、生きる意思ってやつも重要なんだとさ。なんだっけ? プラセーボ? みてえなもんだと。気力の域だねィ」
ふーん。
「俺ァあのひとに心労かけたくねえンだ。あんたがテロやめてくれたらばこっちとしちゃ大助かりなんだがね」
「……ずいぶんくだらないことを仰いますね。まさか、その程度で鈍る刃ですか? あのとき温情をかけたのは些か早計だったのやも」
鯉口を切る音。「総悟」短い、しかし確実な制止の声。「……はあ。ウス」矛を収められた。
この間五秒。
「何故ミツバに近づいた?」
「そうですねえ。偶然?」
「……どう足掻いても正直に答えるつもりはねえ、と」
とっても正直ですがね。
「あくまでも破壊に邁進しやがると」
「ええ」
これは素直に肯定。
「だとして——どうしてあいつにやさしい?」
やさしいかなあ。瀕死の病人に対して、ふつうというか、むしろかなり冷たい方では? わたしはこっそり首をひねった。
まあ、わたしの態度がやさしいと仮定するなれば、回答はただひとつだ。
「夢物語ははるか遠く、ゆえにこそ、それでも光る星は一等美しい」
かららと廊下のちいさな窓を開け、わたしはようやく振り返る。
階段の角から、黒隊服の男がふたり、わたしを油断なく見ていた。ひとりは腕を吊っていて、ひとりは頭に包帯を巻いている。動乱の傷がまだ祟っている様子だ。勤務には復帰しているのだろうけど。
「そうは思いませんか?」
応えはなかった。
「それでは皆様お元気で。ご縁があればまた
窓枠に手をかけてひょいと飛び越える。五階の高さはとくに苦もなく、雨樋と木々をつたってわたしは着地した。砂埃を払う手間を惜しんでさっさと駆けていく。手負いとはいえ真選組の主戦力二人がかりなんて、やっていられないですからね。三十六計逃げるにしかず。
「……伊東の件でも思ったが、あいつ、曲芸師か?」
「バズーカ刀だけで受け流して逸らしたってあれマジなんですかィ」
「すごかった〜」
「ヘェ〜見てみたかったなァ〜」
「……ン? 今撃ったら見られるんじゃあねえか?」
「ア確かに」
ガチャッ、ドガァン!
「は↓あ↑!?」