前略:
生身の人間に向かって背後からバズーカ撃ってくるような輩が警察組織ってマジでございますか?
➤
「ただいま戻りました」
「おかえり。暇を出した日に真選組とやり合うたァな? 俺ァ妹が言葉通りに勤勉で嬉しいよ」
「ニヤニヤしないでくださいよホント……」
これは完全に、揶揄うために待ち構えていたと言わんばかりのタイミングだ。ずいぶん楽しんでいらっしゃいますねえ兄上? 己が妹を労ろうという心はないのですか? そこになければないですか?
なさそう。
「心底大変だったのですよ。あのひとたち頭おかしいです」
「俺らとやり合うバカどもの頭がおかしくなかったことはねえだろ」
「今そういう話してません!」
「ハッ」
「あのですねえ実妹の醜態はそんなにも面白いものでしょうか!?」
「愉快な見世物だよ。暇をつぶすには最適だな」
「そろそろ怒りますよ!?」
病院内ではドンパチしないということは病院外なら問題ないということです。そうかもしれませんね。なのである程度距離を取られた瞬間にバズーカを発射します。そうはならなくない?
距離があったこともあり、咄嗟に脇差を抜いて弾いたら「おお! マジだ! すげェや」「ひとり即席サーカス」と何故か喜ばれた。どうして喜ばれたのかまるでわからない。あのひとたちこわい。本当に真選組って警察名乗ってるだけの無秩序集団だ。なんせ副長と一番隊隊長だけでも揃ってあのように、無法を突っ走っていらっしゃる。お二人には病棟には打ち返さなかったわたしの理性と跳弾コントロール力に感謝していただきましょうね。次にやり合う際にはすべての部位を余すことなく丁寧に膾切りにして差し上げたい。
銀さんと対峙した際ほど発射回数は少なかったので、刀こそ折れなかったけれど、確実にダメージは蓄積してしまっただろう。よりにもよって兄上からお借りした刀に。甘ったれ末っ子としてはもう嫌です。勘弁してくださいよ。皆様方、わたしのことを芸妓通り越して芸人だとでも思っていらっしゃる?
「まァ戯れはさておき」
「戯れ扱い?」
「監査の日取り、春雨は〝すぐにでも〟とのことだ」
話題の温度差が著しい。わたしに関わる春雨関連の監査——すなわち、吉原の件だ。わたしはわずかに目を眇めると「承りました」と声音を意図的に切り替えた。
「こちらの回答は〝いつでも〟……鬼兵隊が吉原遊郭の運用に関与するご予定はありませんよね?」
「とうに完成している春雨と幕府合同のシノギにわざわざ手ェ出したところで旨味がねえ。よっぽどとなりゃ話は別だが」
「国家転覆だとか?」
「あるいは戦争」
兄上は目をつむった。
「今はまだ、幕府の足元の小物掻っ攫って睨まれる時期じゃあねえよ」
「気の長い下準備ですね」
下準備の中でアテにしていた紅桜も海の藻屑と吹き飛んで、しかし代わりに春雨と同盟を組んだことでプラマイややプラス。三日で三歩進んで二歩下がる進捗状況だ。
「だからこそ祭りは面白ェんだろ」
煙管を片手に振るのでわたしは肩をすくめた。
「ところで破壊の前にお身体が壊れてしまっては本末転倒ですから、お煙草も多少控えるというのはいかがですか?」
「……」
「露骨に嫌そうな顔しますね」
わたしの休暇はこのようにして終わった。しばらく馬車馬労働のお時間です。
その日地球を訪れたのは、やはりと言うべきか、第七師団の方々だった。鳳仙殿の後継である以上、鳳仙殿の査定と後始末もまた彼らの役割でこそあるだろう。
「よォ姉ちゃん。……今日は番犬はいねえのか?」
「ヒカリです、阿伏兎さん。中田さんはもともとわたしの部下ではないのと……小うるさいので、置いてきました」
「下は苦労するモンだよ」
阿伏兎さんは同情の目つきである。
ところでわたしは末っ子なので上か下かでいえば〝下〟なのだが、果たして。
「あの鳳仙の旦那が常に引きこもってるわりには、地球の太陽って、そこまで強くはなくない? そりゃ素肌だとキツいのはキツいけどさあ」
神威さんは不満げに、傘越しに空を仰いだ。本日は雲ひとつない晴天、夜兎の方々は皆傘をさしている——神威さんはそれに加えて、露出している表皮すべてに包帯を巻き付けていた。何事かとは思っていたけれど、どうやら太陽光対策だったらしい。てっきり今回の地球までの道中でいろいろあって大怪我でもされたのかと。たとえば、星一個滅ぼしたりだとか。
「夜兎の方々への参考値として、ここ五年ほどの江戸での月別平均日射量をまとめた表がお渡しした資料に含まれて……ごめんなさい、抜けていましたか? であればこちらの確認漏れによる不手際ですね」
神威さんはわたしを見て、碧眼をパチパチとまたたかせた。ついでぐるりと背後を振り返る。
「阿伏兎読んだ?」
少なくとも御本人は目を通してすらいないことが判明した。
「読んだからこのカッコだな」
阿伏兎さんは心底あきれた様子で神威さんを見下ろした。
「えっ、じゃあ言ってよ」
「むしろ読んでねえのを今初めて知ったよ。なんのためだろうなと思って見てたんだよ俺ァ。読みなさいよ、さして分量もなかったろ。可哀想だろ用意した姉ちゃんが」
「ヒカリです。資料自体はわたしが作ったわけではないので、わたしは構いませんよ」
わたしはね。実際読まれなくて困るのもわたしではありませんしね。
印刷コストと郵送コストを別件に当てればよかったなとは思いましたね。
「俺のこのカッコはなんだったわけ? まるで馬鹿みたいだろ」
「もとから馬鹿だろあんたは」
「なンだよ阿伏兎、不満があるなら聞いてあげるってだから言ってみろよホラ早く」
「いーい天気だなァってよォ」
阿伏兎さんは片手で傘を差し、片手で耳の穴をほじり、ついでに目を逸らした。忙しないひとですね。
わたしは頬に手を当てて、神威さんを上から下まで眺めた。本当に包帯で完全防備しているので、ほぼミイラマンである。
「神威さんほど厳重であればそもそも傘を差す必要もなさそうですが、そういう意味では手が空いて利便なのでは?」
「地球人にはわからないんだろうけれど、包帯で肌を覆えてもけっきょく目が防げないから、俺たち傘は手放せないワケ」
「なるほど」
戦闘能力とトレードオフの種族体質とはいえ、なかなかに大変だ。文明が発展する惑星とはたいてい、相応の日射を確約する恒星とセットなので、ほとんど例外なく傘を手放すことができず日射対策が欠かせない。
「サングラスでもお貸ししましょうか」
「あ、サングラス。そういう選択肢もあったね。ゴーグルは嫌だなと思ってたんだ」
……何故ゴーグル?
「包帯男にサングラス追加は、いよいよ不審者ルックでオジサンたち吉原行く前に通報されねえ?」
「通報されるようなルートをご案内するつもりもありませんが、しかしさすがに絵面は最悪ですね。かといって、UVカットコンタクトレンズはご用意していないんですよねえ……次は準備させておきます」
「今ないんじゃ意味ないよ。じいさんとこ行く前にドンキ寄ってこ」
ふらっと振れた神威さんの三つ編みをもうひとりの方が掴む。資料では云業さんとお聞きしている。彼もまた傘だけを差しているので、読むことは読んだのか、あるいは単に普段の服装というやつなのかもしれない。
「団長……そのカッコでドンキはさすがに通報される」
迫真だ。わたしも同意見だ。
というか皆様揃って、ドンキをご存知でいらっしゃる。
「ドンキは今回の案内に含んでいませんので、そうですね、ここはひとつ自己責任ということでこのあたりで現地解散といたしましょうか?」
「オーイ、案内役が案内放棄してどうする」
「皆様地球ではまだ指名手配されていらっしゃらないのでしょうけれど……」
「まだて。イヤまあ、まだだけどよ」
「わたし、
「よォし団長、さっさと行こうな。地下なら日差しも届かねえからすぐに脱げるさ」
「チッ」
神威さんは心底不機嫌なご様子で、とはいえ大人しくドンキを諦めてわたしの斜め後ろに戻ってきた。
「君より強い地球人ってのは? 紹介してくれるんだろ」
「わたくしどもと末永いお付き合いを確約していただけますのであれば、またの機会に」
「ええ? それはそもそも俺が決めることじゃないしな。いちおーアホ提督……違った、阿呆提督次第だね」
「マたしかに。それでは、今回紹介できる方を先んじてご案内いたしましょう。つまり〝夜王:鳳仙への交渉カード〟……かもしれない情報です」
屋根をいくつか越えて、薄暗い路地に着地する。背の高い建物に挟まれて日射はないが、代わりに傘をさせるような道幅ではない。体躯のわりに身軽に、音立てず着地した御三方は各員すでに傘を畳んでいた。
「旦那気に入りの女が、八年前、逃げ出そうとした理由ってやつ?」
神威さんが覚えていらっしゃってなにより。「はい」とわたしは首肯した。
「逃げ出そうとしたというか、実際一度は逃げたというか。当時、日輪太夫は地上まで辿り着いていました。夜王は後手に回ったのです」
「当ててやろうか。男だろ」
阿伏兎さんはしたり顔で言った。
「良い環境で囲われていた商売女が逃亡なんざ、相場は決まってんだ」
「……あの夜王鳳仙の目を欺いて?」
一方で眉をひそめたのが云業さんだ。
「実現可能か?」
「お二人とも着眼点は非常に鋭いですね。どちらにしても、当たらずといえども遠からず、と、申し上げられるでしょう。その男は日輪太夫を虜にしただけでなく、多くの遊女を夢中にさせ、ゆえにこそその逢瀬はひっそりと行われ、桃源郷の裏側にて匿われ、しばしの間を生き延びました」
「オイオイいったい何股だよ、ずいぶんなプレイボーイだな……」
若干引き気味の阿伏兎さんに「ふふ、たしかに」思わずわたしは笑いが漏れた。ここまで予想通りの反応してくださると、正直、ちょっぴり愉快ですね。
「常夜の吉原を照らす太陽を地上にまで連れ行き、しかし、ふたたび囚われの身に甘んじさせたのもまたその男です。いやはやつくづく女泣かせでいらっしゃる。彼の名は晴太——今は、八歳は超えたのでしょうか?」
「……はっさいィ?」
「阿伏兎って、酸いも甘いも噛み分ける、みたいなツラしといてまるでわかってないよな」
一方でこちらの方は、話の途中から予想していた様子だ。神威さんは包帯越しでもわかるほど、心底つまらなそうな顔をしている。
「鳳仙の旦那みたいな、地球人じゃあ絶対に勝てない相手からそれでも逃げようとするだなんて、そんなの色恋なんてちゃちな理由じゃあないだろ。それこそ、子供を守ろうとする母親以外のなにがあるっていうんだ」
「……アンタそういうこと言うタイプだったっけ?」
間髪入れずに肘鉄を入れられた阿伏兎さんが必死に嘔吐を耐える顔になってしまったので「……吉原までもう五分もかかりませんので一回休んでいきましょうか」とわたしは言った。
「気にしなくていいよあんなセンスぼろくその加齢臭プンプンな古臭い男女観しかないオッサン」
「俺が古臭い男女観ならアンタの親子観はいったいなんだってんだよ、理想論しか書いてねえガキ向け絵本の親子か……!?」
「神威さん、できればすこぉしそのお御足収めていただけますとわたしとしては業務の滞りが省けそうで大変助かるのですけれども。あっなるほど〜わたしでは力負けどころの話ではなく拘束として成立すらしませんね。云業さん少しばかりお手伝いいただけますか」
「もっと強いやつ寄越せなかったのかアンタのとこ」
「価値観の相違による夜兎同士の内輪揉めって本当に
「そ、そんな怒んなよ……」
我々はこの調子で、残り五分の道中で三十分揉め続けた。
➤
——地下。
吉原桃源郷。
「すったもんだは割愛して」
わたしは溜息混じりに髪を留め直し、縒れてしまった訪問着のしわを直した。案内役というだけのはずなのにどうして大立ち回りする羽目になっているのでしょうね。しかも本題に辿り着いていないどころかただの脱線事故で。心底無駄な時間でした。もうわたしが
「少なくとも、日輪太夫が己が命を賭してまで逃がした子どもこそが晴太さんである、という点は紛れもない事実です。夜王鳳仙は日輪太夫がどなたかに横取りされることを、おそらくこの世でもっとも恐れているので、そういう点では交渉のカードとして活用できるやもしれません。しかし……あまり、おすすめはしませんね」
「一般人のガキぐらい攫ってくのは楽そうだがね」
「現在孤児ですから、その点はあなたがたがご想像なさるよりも遥かに簡単かとは存じますよ。ただ問題は別にありまして」
誘拐実行難易度自体は本当に、赤子の手を捻るがごとく、というやつだ。なんならわたしひとりでも楽勝。
「日輪太夫の大脱走は既に八年前の話で——夜兎の皆様と地球人の成長速度はさして大差がない、と注釈に加えた上で——当然ながら、赤子の顔は八年の歳月で大きく変化します。そして日輪太夫と晴太さんはこの八年で一度も顔を合わせたことなどございません」
「ンなるほど。そりゃ同一人物と思うかもわかんねェな」
阿伏兎さんは渋い顔で顎をさすり、検討している様子である。そのようにしている間にも、さすがに目立つ集団だ、通りすがりに「ちょいとそこのお兄さんたち」と声をかけられる。いろいろサクッとすませるべく、わたしはするりと云業さんの腕に擦り寄って、微笑んだ。
「ごめんなさい。先約がございまして」
「アラ残念。飽きたらこちらにいらっしゃいな!」
からからと手を振って彼女たちは去っていった。わたしはニコニコと振り返した。
「……ウンとりあえずな姉ちゃん、愛想よく応対してないで、まず云業を離してやってくれ。キョドってっから」
「ヒカリです」
わたしは云業さんを見上げて、明らかに目がうろついているのを確認し、少し考えてから、もうちょっと密着してみた。
完全に硬直された。
「遊ぶな」
「意外と初心でいらっしゃる……」
腕を離す。
「鳳仙の旦那みてェな好色は、夜兎でも例外中の例外なんだよ。俺たちゃ闘争本能が上位に来るんでね。おかげでバカスカ減り続けるクセ、ろくに増えやしねえ」
「知見ですね」
「云業ぐらいたじろぐのも珍しいがな……団長クラスになるとそれこそ、無関心きわめて逆になんにも反応しねえからよ」
阿伏兎さんが頭を掻いた。傘を引っ提げたもう片方の手で、云業さんの襟を引き、わたしから距離を取らせる。
「夜兎同士ならたいていは、食い殺し合うのが先だ。夜兎じゃねえ女に物怖じされねえこと自体が珍しい。媚びられるのは尚更な」
わたしはことんと首をかしげた。
「同族で、同じ言葉を使えども、まったく話の通じない者はいます。一方で、真っ当に意思疎通ができるなれば怯える道理はございません」
「はン。物分かりのいいこったな」
阿伏兎さんは鼻を鳴らした。眼差しがちらと吉原の本殿を見上げる。
「しかし、どうするか……」
「マァひとまずその晴太ってやつ、捕まえてから考えよう。役に立たなければ適当に放逐しちゃえばいい」
神威さんはあっけらかんと言ってのける。傘を肩にかけて、包帯の隙間で碧眼が光った。
「日輪に効くかは知らないけど、少なくとも旦那には効くはずだよ。こんな穴蔵引きこもるほど大事な女のお宝……無視一辺倒ってわけにもいかないさ。孤児ってわかってるなら、居処は知ってるんだろ?」
「……ええ。まあ」
わたしは少し息を吐いて「それでは少しばかり、お散歩と洒落込みましょう」足の向きを変えた。説明がてら向かいましょう。どうせさして遠くもない。
「あの子、どうやら日輪太夫を買おうとコツコツとお金を貯めているようでして……そしてまるごと着服されているようでして。着服している者どもは、今の時間帯なら団子屋に入り浸っていらっしゃるはずなのでサクッと一時的に交代していただくなど——あら?」
団子屋、お客さんは誰もいなかった。男がふたり伸びている。
なんなら店子も伸びている。
ひっくり返った長椅子と、地面に突き刺さる苦無は、明らかに戦闘の痕跡を示していた。
「……ふむ」
「こりゃよくあることか?」
「不届者が蹴倒されていること自体はさして珍しくはありませんが」
「珍しくねえのかよ」
まあ、わりとよくある。わりとよくある程度には珍しくはないのだけど——店子が伸びているのが一番気にかかる。
吉原における店子はたいてい、諜報として潜む百華のはずだ。彼女たちはいずれも、たったひとりでも不届者をかんたんに屠れる実力を持ち合わせている——顎に鋭い打撃の痕跡。そう、たとえるなら鞘入りの刀や、木刀で打たれたような。報道ならば〝バールのようなもの〟と呼ばれるアレである。苦無こそ地面に突き刺さっているけれど、血痕がない。つまり、少なくとも彼女らがよく用いる苦無は完全に避けきったわけだ。
「……」
まず男どもを倒したのは百華ではない。彼女らが手を出すときはふつうに刃物が出る。首筋への強烈な打撲痕が横一線。凶器は、長物の鈍器。おそらく百華への攻撃と同一。
倒れた男どもの着物をざっと手のひらでなでるように触れる。かすかに砂ぼこり、砂利のような感触が引っかかった。苦無が砕いた地面の破片だ。つまり時系列としては、男どもを倒したあと、店子に扮した百華と交戦した——交戦する理由が、あった。
さて。
廃刀令を発布された江戸で、今もなお木刀を操り、傷ひとつ負うことなく百華を一撃で難なく倒せる程度の人間。
……ウーン。
なんだか心当たりがあるような気がしますが。
マお察しの人でしたら夜兎くらいじゃ死なないでしょうし、巻き込んだところでわたしの心はなんにも痛くないですね。だいじょうぶだいじょうぶ。いけるいける。
「どうやら先客のご様子」
地面についた膝を引き上げ、わたしはパッパと砂ぼこりを払った。
「回り込みましょうか」
吉原遊郭は基本的に出入り自由である。基本的に、というからには当然例外があり、まず遊女と書いて商品と読む者たちは出られない。加えて、夜王の怒りを買った者や、百華に喧嘩を売った者もまた出られない。
それはそれとして——脱出経路は存在する。たとえば八年前に日輪さんが一度逃げたように。かの名高き夜王が後手に回る、その理由があったように。
「……えー? ホントにいらっしゃったんですか? 江戸で騒ぎあるところにあなたあり?」
「てめ」
銀さんは阿伏兎さんを明らかに警戒しつつ、わたしをにらむ。どうやら動乱の際に顔を合わせたお連れ様もご一緒している。あとは、月詠さん——いやはや、晴太さんにはやはりお優しいことだ。あるいは、日輪さん?
「……
「あ、いえ。そこは従来のご理解通りかと」
慎重な問いかけに、わたしはヒラと手を振った。
「わたしは単なる現地案内人、本件はあくまでもお得意様のご要望にお応えしたまでのこと。兄上御本人は吉原の手入れにはまるで興味がないようです。なんだかホントに全然なんにも、わたしもしょうじき、拍子抜けするほどですね」
「ソッカァ」
銀さんはなにもかも悟ったような顔でひとつ相槌を打った。木刀はいまだ手放されない。
「ちなみにさあ、馴染みの縁で俺のご要望にもお応えしてくれるとか……どう?」
「あらァ銀さんってば見ないうちにすっかりと、かわいい妹弟子を顎で使うような御方になってしまわれたんですね。わたしとっても悲しい……」
「頭バグりそうになるからせめて敵対するか茶化すかどっちかにしてくんねえかなあ!? 真選組ンときといいマジでいい加減にしろよおまえ!?」
「おそらくあなたはその点、わたしのことなぞまるで指摘できる立場ではございませんよ」
銀さんの後ろにいらっしゃる子どもたちがこっそり揃って頷いた。なんなら月詠さんまでもが頷いた。仲良くなられたんですね。
「知り合いか?」
阿伏兎さんの問いかけに「そうですね」わたしは肯定した。
「地球人にしては活きがいい方かと。旧知の敵ですので、煮るなり焼くなり思いのまま、どうぞお好きにご料理ください」
「かわいい妹弟子要素がどこにもねンだよ今の台詞になにひとつよォ」
「いやァ俺たちもガキが手に入ンならそれでいいんだがねえ……」
阿伏兎さんの辟易の混じった返答に——明らかに、わずかな姿勢のブレだったが、彼らは全員晴太さんを守りに入った。
ふ、と夜兎の瞳が細められる。
「……大人しく渡してもらえるワケでもねえらしいな?」
読めていたことではある。わたしは肩をすくめた。
「ご健闘を祈ります。それではわたしの方は一旦下がらせていただいて」
「こ、このクソアマッ」
ヒュッ、カカッ!
足元・胸元・頭を撃ち抜かんとした苦無を、跳んで・掴んで・弾く。
「判断がお速い。さすが死神太夫」
多対多の戦闘において、もっとも弱いと思しき者を狙うのは定石のひとつ。わたしが彼女の立場であってもそうする。実際に、夜兎三人いずれとも比較して最たる弱者は、わたしだ。
狙われるとわかっているならば、受けることはとても容易い。
「よく存じておりますとも」
「よく存じ——?」
「……姉ちゃん、その曲芸で俺らの手間省くとかは、ねえの」
「ヒカリです。本日わたしの役目は案内人ですので、案内以外のことはいたしません。お邪魔もしませんので、どうぞご随意に」
わたしはにっこりと笑んで、パイプと屋根をつたって裏路地まで飛び降りた。
そのまま、巨大なパイプが崩壊する惨状までのんびりと眺めていた。
「——鳳仙の旦那に楯突くような真似してたわけだし、実際、少しはやれるみたいだったけど」
すたん、と神威さんが降り立った。続いて阿伏兎さん、云業さん。云業さんは涙目でガチガチと震える晴太さんを小脇に抱えている。縄で拘束されている様子は完全に誘拐だ。
実際やってることは紛うことなく誘拐だ。
「案外呆気なかったね。地球人ってやっぱこんなもの?」
「基本的には戦闘能力は
わたしはパイプから眼差しを外し、神威さんに向ける。パイプの残骸の隙間から不自然に伸びた縄が、ちょうど跳ね上がった——まるで、なにか重いものが離れた反動かのように——タイミングだった。
あのひとって要所要所でツキがついてきますよね。
「マ、いいや。晴太? は捕獲できたしね。ちょっと跳ねたからあつーいもう脱いじゃお」
「そういやずっとそのまんまだったな、包帯……」
「地下なんだしもう意味ないの、忘れてたや」
そもそももともと意味はなかったのでは?
ともあれさっさか包帯を取り払った神威さんが、ぐうっと伸びをしてみせる。
「すっかり腹ペコだよ。旦那、なにかご飯奢ってくれたりしないかな〜なんかつまめるのほしいや。もう作ってる時間も待てない」
「あちら側に歓迎の意図があれば、ごはんはすぐにいただけると思いますよ。こちらの訪問はとうに割れておりますし」
「あり? 伝えてたんだっけ? 一応上の指示だと抜き打ちなんだけど」
「いえそれは存じていますのでこちらも触れは出しておりませんが」
が、ほぼ確実に、たぶん九割九分伝わっていると思われる。
「先程皆様にお声掛けをしていた女性陣——」
「いつの誰」
「伝わるかな……云業さんがわたしに抱きつかれて硬直する直前ですね」
「ああ」
周囲全てにあんまり興味なさそうな神威さんですら、これは思い当たるらしい。云業さんが顔をてのひらで覆った。阿伏兎さんはなだめるように云業さんの背中を叩く。
まあ殿方の羞恥心なぞわたしは心底興味ないのでさっさと肝心な情報を提示すると。
「あれは本物の遊女ではなく、百華です」
身のこなし、足運びが違うので一発でわかる。とはいえ戦闘力が高すぎる彼らにとっては誤差のようなものなので、気づかなかったのだろう。
「ご訪問自体は伝わっています。晴太さんを捕獲したことも、もしかしたら」
「そりゃあ、いろいろと手間が省けるみたいだね」
わたしのあとについて、神威さんは跳ねるように歩く。その後ろに阿伏兎さん、云業さん、縄に繋がれた晴太さん。
いざ征かん、夜王の根城へ。
勇者一行には程遠い。
➤
豪華酒宴に三味の音。数多のご馳走が並ぶ卓に「旦那は気が利くゥ」神威さんはご機嫌にありついた。夜兎用の御膳はずいぶんと大きい。
かの夜王は鼻を鳴らし、酒を注がれているようだった。
「俺たちの分は……まァ、ねえな」
「格差社会ですね」
残念そうに嘆息した阿伏兎さんに適当に相槌を打つと、じろっと見下された。
「姉ちゃんのぶんもねえだろうが」
「ヒカリです。わたしはもとよりただの案内役ですので」
「ケッ」
「それにしても——」
わたしは首をかしげて、襖の隙間越しに見える鳳仙殿の様子をうかがう。
「ずいぶんとご機嫌斜めでいらっしゃる」
云業さんがわたしの頭上から襖の向こうを若干覗き、首をひねった。
「そうか?」
「隠しちゃあいるが、そうだな、あの旦那にしちゃあ珍しい」
阿伏兎さんが同意を示した。
「なにかあったか……」
会話の隙に、晴太さんがじりと後ずさろうとするのでその頭をてのひらで抑えた。途端に腕まで振動しそうな震えが伝わってきて、嘆息したわたしは、そのまま屈み込む。
「ご安心を。無為に殺すことはございません」
「……し、信用できるか」
晴太さんはつばを飲み、震え声で、なんなら涙目のまま、しかし言い返した。
「あんたらは銀さんを……」
「あのひと本当に、大概人たらしですね。まァ懐いた相手のことは信じてあげてください。すべて、じきにわかることでしょう」
わたしはパッと彼の頭を離して、二歩ぶんの距離をとった。襖が開く。神威さんによる〝手土産〟のお披露目だ。
くだらない。くだらない。本当に、心底、飽き飽きするほどくだらない。手に入らないと閉じ込める。己よりも優先されるものすべてを妬み、嫉み、排斥する。挑発程度でかんたんに手が出て、こきりとかろやかに手折られる花——さて、手折られるだけで捨てられる花のことを、いったい幾人がまともに考えてくださるものだろう?
「単なる案内役じゃあ、なかった?」
神威さんがにこりとわたしに微笑みかけた。
「……目に余ったので?」
突き飛ばされて、鳳仙殿の拳の餌食になりかけた芸妓を畳に下ろす。今まさに死にかけたことを彼女はまるで理解していないようで、ただ刹那のやりとりの証左、風圧だけで切り裂かれた彼女の頬が、間一髪の様相を示していた。
廊下を晴太さんが走り抜けていくのを尻目にとらえる。誰ももはや、彼には注意を払っちゃいなかった。
「喧嘩をなさるならば、どうぞ、お好きなように。わたしはあなたがたの闘争には、関与はいたしません」
「オイ、止めろ。関与しねえならせめて止めろ。煽るな」
「引き際は弁えておりますので」
「微塵も引けてねえんだよ。引くなら全体的に引け」
鳳仙殿はまるで意識を払っていなかったわたしを——夜兎三人に対して地球人の女一人だ、注意分散としてはきわめて正しい——さも今しがた見つけたかのような目で、見据えた。
ふいに彼は眉を上げる。
「ぬし、さては〝ミツ〟か。晴太を使おうというのも、貴様の差し金か?」
「……わたしのような木っ端を覚えていらっしゃったので? たかが一年の芸妓ですよ」
わたしもまた眉を上げた。
「吉原に入れられる女はすべてわしの管轄——」
だからといって全員顔も名前も覚えていらっしゃるのは、ちょっといろいろな点がキモいですね。
「——それはそれとして、なァにが木っ端だ、一族郎党滅ぼしかけた暴れ馬が」
「アラ有名」
わたしは茶化した。
水を差されて露骨に不機嫌だった神威さんが、きょとんと目をまたたかせる。
「相応の身分に生まれた娘が実親手ずから遊郭に売られることは、吉原とて早々ない。その生涯に泥を塗らねばなるまいと思われなければな」
「かの家に生まれたことこそがわたしの生涯揺るぎない最大の汚点ですのにね。あの男はまことご親切」
「ハ」
鳳仙殿が短く笑った。彼の瞳が憎悪にきらめく。
「……貴様が余計なことをせずにいれば、日輪も吉原の中で大人しくしていたであろうものを」
「相変わらず、貴方様はなんとも単純な世界で生きていらっしゃる」
わたしは両腕を組んだ。このひととわたしはもとより、相性が悪い。主にわたしが一方的に嫌っている——しかしどうやら一方通行でもございませんでしたね、この様子では。
「日輪さんが憎い。彼女の客が憎い。晴太さんが憎い。そしてお次は、産婆が憎い? 責任転嫁を繰り返し、己が本質から目を逸らすのはさぞかし楽でしょう」
「よく喋るな。虚勢を張る狗ほどよく吠える」
「これはこれは、もしや鏡でもご用意すべきでしたか? マたしかに、虚勢を張る兎はなんだか……お可愛らしいですね?」
飛んできた手刀はわたしが避けるまでもなく「やり合うなら俺とやるべきだ。ずるいよ」神威さんが飛び込んでいった。すかさず、わたしの訪問着を背中側から引っ掴んで引いたのは云業さんだ。
阿伏兎さんが冷や汗混じりにわたしを見遣る。
「一応アンタは同盟相手の使者だ、死なせちゃなんねェンだよ」
「ご親切に」
「……鳳仙とはもとから顔見知りか? ずいぶん恨み買ってんな。というか、道理で事情諸々、あれだけ詳しい」
「わたしとしても、まさかあちらが覚えているとまでは」
わたしは肩をすくめた。
「あくまでもわたしはたかだか一年、吉原にいた身です。その間にたまたま——ええ、鉢合わせることはありましたね。それ以上でもそれ以下でもございませんよ」
「ああそうかよ」
露骨に信用していない反応である。構いませんが、厳然たる事実ですよ。
「……ちなみに一族郎党滅ぼしかけたって、ナニ?」
「頑張って殺しました」
「夜兎でもしねえぞ」
「数少なくていらっしゃいますものね」
茶化すと、睨まれた。
「あんだけ煽りやがって。あのふたりの殺し合いなんざ、それこそ夜兎でも手に負えねえ」
「神威さんが煽るかわたしが煽るかに、果たしてそこまで大きな違いがございましょうか?」
阿伏兎さんは大きく溜息をついた。
「ないからいま困ってんだろ」
それは。まあ。そうですね。
➤
「……案内役だろ?」
「煽ったので」
云業さんからお借りした傘で神威さんの腕を逸らし——つまりバズーカ弾の要領——若干逸らしきれずに現在、拳がかすめただけのはずのわたしの左肋が、かすめただけでもバッキバキなわけですけれども。
「責任があると、阿伏兎さんが」
「はン」
無事な右手で示すと、阿伏兎さんは取れた片腕の根元を抑えて鼻を鳴らした。
「曲芸披露してもらった甲斐があるな。夜王と団長の喧嘩が、腕一本と地球人の肋で済むとは。こりゃあずいぶん安上がりだ」
「はあそれはようございました。ところでこちら治療費請求してもよろしいでしょうか」
おそらく折れたアバラのどれかが肺に刺さったらしく、若干血混じりの痰を吐くと「ハイハイ」神威さんは飽きた様子で拳を引いた。
「払えばいいんだろ。アホ提督に宛てといてよ」
「……大丈夫か?」
云業さんに傘(ひしゃげてしまった)をお返しすると、そのまま腕を掴まれて肩を貸された。彼の方がわたしよりもかなり背が高いので、窮屈そうだ。
「阿伏兎さんよりマシですよ」
「地球人の負傷と比較されてもな……云業、そいつもう背負った方が早くねえか」
阿伏兎さんの指摘とほぼ同じことをわたしも思っていた。ぐっ、と押し黙ったおとこがひとり。訝しく横顔を眺めていると、やがて彼はボソボソと言った。
「……背中に、当たるだろ……」
当たる。
ああうん。はい。なにがとは聞きませんが。
わたしと阿伏兎さんはふたりで顔を見合わせて、これまたふたり同時に、云業さんを見た。
「……耐性、つけさせるべきでは? いずれ支障が出ますよこれは」
「ちと考えたね。なんなら今まさに出てやがる」
「余計な気を遣うな!」
云業さんが吼える。
「フン。それこそ座敷遊びでも覚えさせてやろうか」
すっかりとやる気も失せ、服を着直した鳳仙殿が我々を振り返って、鼻でせせら笑った。
「まァたしかに、貴方様はそれこそ、お座敷遊びしか知らぬ身ですものね」
「アンタ怖いモン知らずも大概にしろよ」
阿伏兎さんは片腕を抑えたまま、心底引いた目でわたしを見下ろした。わたしはまったく気にせず、云業さんに肩を支えられたまま(ちょっと格好がつかない)鳳仙殿を見据えた。
「老若男女、誰であろうと——やさしくして、徐々に距離を詰めて、ものでも贈って、一緒にお出かけでもして、好意を伝えて。すべてはそれからではございませんか?」
「若人にわかるものか。貴様のような、生き急いでばかりの女には、特に」
鳳仙殿はすうとわたしを見据えた。
「くだらない線引きですね」
隠すつもりもなく鼻で笑ったわたしにいよいよ焦ったのか「ああ腕が痛ェ、もう団長もいねえし云業行くぞ」阿伏兎さんは早口に喋って、片腕なくしたばかりにしては俊敏に廊下に出た。
云業さんはわたしと鳳仙殿を素早く見比べて、阿伏兎さんに続いた。種族的な力の差に加えて体格差もあり、わたしもほとんど引きずられるかたちで廊下に出る。
「あなたが欲しい人はあんなにもあなたに近いところにいて、それで閉じ込めるだけ閉じ込めておきながら、なんにもしないで足踏みばかり。あのころから、まったく、なにひとつ、一切合切変わっていないだなんて心底驚きましたとも」
わたしはなおも身を捩って振り返り(おい、と云業さんには焦った声を上げられた。ご迷惑をおかけしますね)さらに大きく声を上げた。
「なにかひとつでも踏み出してから駄々をこねてはいかがでしょうか。ひとは誰しも失ってから嘆くものですが、失っていないくせに勝手にのたうち回っているあなたは、つくづく心底滑稽ですよ。日輪さんと正面から向き合う意気地もないだけのくせして!」
轟音が響いた。
神威さんが放置していった御膳が、ちょうど通り過ぎたばかりの廊下の壁に叩きつけられて、粉々に砕け散っていた。箸など衝撃で五つ折りだ。
怒りをぶつけるお暇があるなら愛のひとつでも囁いてみたらいかがでしょう?
「……ヒカリ、アンタ、本当、怖いモン知らずも大概にしろよ」
阿伏兎さんはもはや恐れ入ったような声音だ。
「ヒカリです。……ヒカリですね? 姉ちゃん呼びはおやめになられる」
「こんなバカの暴れ馬姉ちゃん呼びできるか」
廊下を早足に進みながら阿伏兎さんは吐き捨てた。なるべく早く鳳仙殿の部屋から離れようと努めているご様子である。
「このような淑女の典型に向かって暴れ馬だなんて……」
「もしかして地球で淑女って単語にゃ無鉄砲とかの意味も含むのか?」
蹴りを放ったらば、さすが夜兎、あっさりと避けられた。
「一階挟んでも聞こえてたよ。アンタってば、あんだけ怒るんだね。もっといつでも飄々としてるのかと」
窓から飛び降りたので、お帰りになったのかと思っていたけれど——神威さんはパチパチと拍手した。
「……ええ、醜態を晒しました。申し訳ございません」
わたしは大きく溜息をついた。拍子に左腹がうっかりとずきずきと痛んで、顔をしかめる。
「俺は鳳仙の旦那の面白いところが見られたからいーや」
「ったく、あり得ねえってのこの女……」
阿伏兎さんは云業さんに左腕の包帯を巻かれながら(利き腕が無事とはいえ、さすがに誰かに手伝ってもらった方がましなのだとか。なお神威さんは最初から手伝うつもりのない笑顔だった)いまだブツブツとぼやいている。
「せっかく〝興が醒めた〟だの言わせた直後だってのに、どれだけ地雷踏むんだよ。最後まァたキレてたぜありゃあ。ああまで怒らせるのはもはや才能だ」
「お褒めくださいますね」
「耳ついてる?」
「わたしはとってもあの方に親切ですのに」
「頭沸いてる?」
わたしはわたしで、一旦解いた帯をコルセット代わりに締めなおしていた。
「勝負をしないうちから玉砕気取って悪の親玉ぶっていらっしゃるなぞ、ちゃんちゃらおかしいと思うでしょう」
「地球人ってまさかみんなこんなか? この女だけだよな。そうであれよ」
「他の選択肢を排斥された状態で消去法で共にいるだけなぞ、いったいなにが楽しいのですか? なにも楽しくなさそうですが。八年前からまったく変わっていない有様を見せつけられたこちらの身にもなっていただきたい」
「鬼兵隊はなんだって案内役と宣ってこんな劇物寄越してきた?」
散々な言われようである。
肺に負荷をかけないように、息を吸って、吐いて、吸って、吐いて……たぶん左肺がしぼみ始めているのは、一旦置いて……帯を絞る手は止めない。
「……わたしは、なにも難しいことなぞなにひとつ申していませんよ。単に向き合うべきだという話です」
「あのな……それができねえのが大人ってもんだろ」
「それができないせいで取り返しのつかないことになって、今度こそ後悔するのが大人というものです」
阿伏兎さんは呆れた様子で手を振った。
「もうわかった、わかった。暴れ馬は大人しくしてろ」
「ヒカリです。……マ、この負傷で戦うことなどございませんでしょう。案内自体も済みましたし」
わたしはころりと畳に寝転ぶ。「云業、見張ってろ」「なんにも信用がない」「あると思ったか?」阿伏兎さんは吐き捨てて、処置した片腕のままにふらふらと歩いていってしまった。鳳仙殿に貸しを作ってばかりではいられないのですって。真面目でいらっしゃる。
「ヒカリさあ」
我々のやり取りをニコニコとただ眺めていた神威さんが、不意に喋った。
「はい」
「日輪の居場所ってわかる?」
わたしは視線だけで神威さんを見上げる。ぱちりと彼はウィンクした。
「夜王があれだけ骨抜きになった女、独占して手放さない女——気になるよね」
「……団長、さっき阿伏兎に」
「見張ってろ、デショ。一緒に来て見張ればいいさ。ついでに日輪探しだ。一石二鳥!」
云業さんが絶句した。
わたしも気持ちはとてもわかる。
「〝案内役〟だろ?」
「……吉原を抜け、夜王への案内役としてはわたしの役目は終いを迎えております。あなたがたの諍いを止めたこととてサービス残業」
「晴太のことずっと気にしてた」
神威さんは笑顔で、わたしの言葉を遮った。先ほど閉じた片目をふたたび開いて、両眼でわたしを見据える。
「最初の情報提供を渋った。先回りしてデメリットを言った。俺が〝役に立たなかったら放逐〟——殺さない、と言ったら誘拐の許可をした。〝あの子〟呼び。きわめつけは晴太をなだめた。アンタけっこうわかりやすいね。自覚ある? 産婆って、情も移る?」
「……」
「安心しなよ、殺さない。あいつをついでに見つけ出して、日輪に会わせてやってもいい。どう?」
「……歩くのヤです」
「云業、背負ってやりな」
云業さんが完全に硬直したので、わたしは先程の阿伏兎さんと同じように、神威さんと顔を合わせる羽目になった。
「本当にこの方、大丈夫ですか?」
「
「勘弁してくれよ」
➤
ところで。
これは幕間にすら満たない物語だ。
「妓楼に新しく入った子だって?」
きらびやかな衣装を身にまとい、白粉をはたいた肌は日焼けを知らないながらもきめ細やかで艶がある。それでいてきらきらと目は輝いていた。常夜の世界であまねく泥濘を見てきたはずだというのに、まるで、絶望を知らぬ顔をしていた。
思わず気後れしてわたしが視線を逸らすと「挨拶おし」遣手婆にぴしゃりと叱られた。挨拶。すっかりと忘れ去りかけていた礼儀を記憶から掘り起こす。
「……ミツです」
「ミッちゃんだね。私は日輪」
源氏名を名乗ると、ぱ、と日輪さんは笑顔を浮かべた。
「いやあ、今吉原にいるのって、たいていは子守りも知らない頃に攫われてきてばかりだったからね。まして妊婦の世話なんざどうすりゃあいいのか」
「遊女がこっそり産み落とした子どもの世話だなんて、夜王に見つかったら殺されるのではございませんか。しかも日輪太夫まで関わっていらっしゃるとか。第一わたしとて知識として学んだだけで実際に出産の面倒を見たことなど。経験豊富そうな御方にお任せした方がたとえばこちらの御姉様」
ノンブレスでまくし立てて遣手婆を手で示すと、心底嫌そうな顔を向けられた。
「御生憎様、あたしゃ水子殺したことしかないよ」
「殺し方がわかるならば生かし方もわかりますよ。世の中の摂理とはそういうものでしょう?」
「それだけつべこべ言う元気があンなら夜鷹にでもなれンだろうね」
遣手婆が明確に脅した。
わたしは屈した。わたしの生殺与奪権は当時、わたしの手元にはなかった。
日輪さんはわたしの手を引いて、ひとりの遊女のもとまで案内した。妊婦——臨月が近い。腹もすっかりと膨れ、一方で劣悪な栄養状態で胎児に栄養を吸われてやせ細っていた。彼女はぎらぎらとした目でわたしを見上げた。やつれているせいで眼窩もすっかりと落ち窪んでいる。
「……この衛生環境・栄養環境では母子ともに健康出産、は端から諦めた方がよろしいかと。あえてお尋ねしますね。もしもどちらかの生存を選べるならば、あなたは、御自身のお身体を優先しますか? それとも御子?」
「子ども」
ほとんど即答だった。
「それでは、そのように」
わたしは言葉少なに答えた。
最悪の想定は母子ともに死亡すること。片方だけでも生き延びれば御の字であった。すくなくともわたしは知識しかないなりに手を尽くした方で、彼女はさいごに子どもを腕に抱いた。
「男の子ですね」
「名前は?」
「日輪がつけて。アタシたちの太陽。アンタがいなけりゃ、みんなに声をかけてくれなきゃ、アタシこのコを生むこともできなかった」
「……なら、晴太。あんたは晴太だ」
名もなき彼女は、微笑んで、数日と経たずに亡くなった。
遊女は源氏名を与えられるものだが、そもそも遊女とは違法な人買いの他に単に親に売られた子どもも少なくはない。本名が存在する人間はだいぶん限られる。彼女の墓標に刻む名前はなく、そも、彼女は墓すら建てられなかった。遊女の多くはそのように朽ち果てる。骸は焼却炉へと放り込まれてまとめて引き潰されるのだ。
髪束と、赤子だけが、この現世に取り残されている。現世ながらに常夜の国、桃源郷の裏っかわ。
「お乳が出る子いるかい? 私が踏ん張ればいいの!?」
「無茶言うな」
「出たら病気だよアンタ」
「ウーンそもそも理論上は栄養が取れたらばそれでよく、つまりお乳である必要自体はありませんが……」
「朗報だ! 赤ちゃんプレイ用の哺乳瓶とミルクがあったよ」
「……まあこの際構っていられませんね。実物見せてください。内包成分とサイズ次第では哺乳瓶を消毒すればあるいは」
「消毒ってあれだろ、アルコール。菊正宗あるよ」
「ふふふ着眼点は素晴らしいですねえ赤子が口に含むので煮沸消毒一択ですよ菊正宗に限らずお酒で消毒は絶対にやめましょうはい復唱」
「「「お酒で消毒は絶対にやめましょう」」」
「あっ素直」
赤子を育てるのにここまで向かない環境もそうはない。地下街:吉原遊郭で入手可能なものと、実際赤子に必要なものを比較してすり合わせて——正直三味線を弾いて客の相手をする方が万倍楽だった。
「鼻筋があの子に似てるよ」
「額はちっちゃいねえ、将来禿げないよこりゃ。良いことだ」
「髪色薄いなあ、コイツの種は異人だったのかね?」
「誰だってどうでもいいさ。何十人も母親いンだから」
「ああ笑ったよ。日輪の笑顔にそっくりだ」
「まだしわくちゃの顔してなァにが似てるだい。マでもあの子が一番面倒みてっからね、そりゃあ似もするよ」
晴太を取り囲んで好き勝手喋る遊女・百華たちを横目に、遣手婆がスパーッと煙管の煙を吐いた。
「お煙草おやめください。赤子の前ですよ」
「はン」
指摘すると、苛立ち混じりに盆の上に火種ごとぶちまけられた。危ないですね。わたしは煙草盆の前に膝をつき、さっさか灰を被せて、火種を消した。
火の消えた煙管を手持ち無沙汰な様子で揺らしながら、遣手婆はわたしを視線だけで見下ろした。
「アンタは行かねえのかい」
「皆様、困っていらっしゃらないと思うので」
彼女たちは晴太に夢中だ。もとより遊女としての技以外をろくに学ぶ機会がないだけで、わたしが一度教えたことは皆様さっさと習得した。
「そもそもあいつら、困ってなくてもガキをもちゃもちゃ触ってやがるがね」
「ずいぶんとかわいがっていらっしゃいますねえ。幼子のみぎりであれほど人気とは、将来さぞ色男になられるでしょう」
わたしは適当言った。
「ほざくね」
「面白きこともなき世を面白く——これは受け売りですが」
「ははあ。そいつぁさぞ遊び人だろうさ」
これを述べたのは我が兄上なので、遊び人という評価はまあだいたい合ってますね。
「……泣く泣く水子を殺したやつも多いモンさ」
遣手婆は静かな声で言った。
「鬼灯を飲んだりなんざ、今更だ。人気にもなるだろう。こんなところでまともに赤子が生まれるなんざ、それこそ、奇跡でも起きなきゃありえない」
鬼灯の実には堕胎作用があり、妊婦の服用は原則として禁忌だ。翻って、吉原ではきわめてよく手近で利用される堕胎薬でもあった。
「ガキが怖いかい」
「……晴太が嫌いということはありませんよ。子どもはすべからく、健やかに育つべきだと考えております。一般論として」
わたしは目を瞑る。
「しかしわたしはどうにも、ともすればうっかりと縊り殺してしまいそうです。用事がなければ近寄らぬが吉でしょう」
「〝殺し方がわかるならば生かし方もわかる〟ってのが世の中の摂理なンだろ」
「あらまさか、我が妓楼の主、百戦錬磨の貴方様ともあろう御方が方便をご存知でない?」
「口達者」
溜息をこぼされて、ぐしゃぐしゃと頭を掻き回される。あんまりにも雑な手つきなものだから、わたしの頭部は前後左右に揺れた。
「アンタはつくづく手に余るよ。さっさと真っ当な男捕まえて貰われるんだね」
「一生居着いてやりましょうか?」
「座敷童みたく幸福連れてくンならまだしも、そうでないならただのバケモンだよ」
「ええ? わたし稼ぎ頭でしょう? お金という名の幸福をご提供、あなたのそばに這い寄る座敷童です。今後ともご贔屓に」
「最初の二月寝込んでばっかでろくに実入りもなかったのアンタまさか忘れちゃないだろうね。病人の世話にかかった金と今ようやくトントンの身でなァにが稼ぎ頭だ生意気言ってんじゃないよ」
「そ・そんな……」
この一月後に日輪さんは常夜の牢獄を抜け出して、ふたたび閉じ込められた。
この半年後にわたしは身請けされた。
情ではない。情と呼べるものなぞなにひとつ。
ぬるい体温を、あたたかい笑顔を、ただわたしが忘れられないだけである。
つまりはこれまた、甘ったれなわけですね。