前略:
日輪を探して三千里(嘘)
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「構造としてはこのように」
わたしは草紙を取り出して、ざっくりと本殿の見取り図を描いた。
「規模は屋敷というよりも、ほとんど城でございますね。このあたりがおおよそ地下牢、厨房がおそらくこのあたり、この区域は遊女や芸妓の待機室で、こちらが応対用のお座敷。一応、我々がいた先程の御座敷は最高クラスのひとつ、鳳仙殿気に入りの御座敷で眺めがたいへんよろしい。ほぼ彼専用のお部屋です。休まれる部屋はべつだったのでしたっけ……?」
「厨房って言った?」
神威さんが身を乗り出した。
「オイまだ食う気か」
「冗談だよ。あっ、そういえば云業はごはん食べられなかったね。行ってくる?」
「団長は大抵、わざと言ってんだよな……」
云業さんはほとんど死んだ目である。副団長の阿伏兎さんが不在な以上、物申す立場として彼は大幅に下位。なんとも日頃の苦労が忍ばれますね。
とはいえ第七師団の方々の日頃の苦労はわたしにはわりと無関係なので、さっさと解説を進めさせていただきましょう。
「日輪太夫はこのお部屋におられるかと」
鳳仙殿が占拠する座敷からすっと何階かくだって——我々が今額を突き合わせている座敷よりも当然下——普段日輪さんが顔を出すフロア。地下街から見上げられる位置、彼女のハッとするほどの顔立ちこそ充分によく見えるものの、一方で、手を伸ばしたところで到底届かぬ位置である。
「厳重に鍵をかけられる造りとなっています。日輪太夫はご自身のお部屋と肘掛け窓を行き来するだけの生活ですね」
「楽な勤務……って言うと、あんたは怒りそうだ」
揶揄うような口調——あくまでも、ような、である。戦いの末、鳳仙に失望したと述べていたのは紛うことなく本音らしい。神威さんは口元に弧を描いているものの、碧眼は、喜色を浮かべるにしてはずいぶんと静謐な色をしている。
「八年前連れ戻された際、足の腱を切られているので、屋内とはいえ長距離の移動は日輪太夫にも負担なのです」
わたしは淡々と述べた。
「かといって介助とはいえ、彼女に長く触れることは他ならぬ鳳仙殿がお許しにはならない。効率も鑑みるとこのように」
「あーやだやだ、あのじいさんほんっと骨抜きなんだね。エロジジイめ」
「同意見ですが、それはそれとしてわたしが知る限り、鳳仙殿が日輪太夫を抱いたことはございませんね」
「……よりキモいとしか思えない情報出さないでくれる?」
「これは失礼をいたしました」
神威さんの言動はどうにも常に軽薄で、負の感情はきわめてわかりづらいが、こればかりは確実に心の底から引いていた。
云業さんもまた、気まずそうに目を逸らした。昔の上司の性事情、たしかに知りたくもありませんよね。ごめんなさいね。
「話を戻しますと、当然ながら日輪太夫のもとへ近づくにつれて百華の警備は厳重となります」
「ふーん。全員殺せばよくない? それが?」
「あなたがたにはもはやほぼ無意味だとしても、問題は晴太さんの居処ですよ」
「アそっか」
神威さん単体で日輪さんを突撃ご訪問したところで、相手にしてもらえないどころか、最悪あのひとはどうにかして自害しかねない。わたしの私情云々を抜きにしても、日輪さんと顔を合わせる目的ならば、晴太さんの確保はどのみち必須だ。
晴太さんの想定逃亡ルートを指で辿る。何度も日輪さんとお会いするために足繁く通い、彼女を見つめていたのだから、彼は、日輪さんが囚われているフロアの位置をおおよそ把握している——かもしれない。そうでなくとも、警備が厳しければ厳しいほど、そこには何かがあると勘ぐる程度の頭はあるだろう。少なくとも鳳仙殿と神威さんの怪獣大決戦の最中、隙を見て逃げ出せる程度の判断力は備わっている。
そうだとして。
「よほど運が良ければどこぞ逃げ延びていらっしゃるかもしれませんが。基本的には、誰かに見つかって捕まっているものかと思います」
「マそうだろーね」
「かといって、既に鳳仙殿に報告は上がっているかといえば、おそらく異なります。大荒れの夜王にわざわざ声をかけられるほど豪胆なものはそうはおりません」
「アンタが言うか?」
「アンガーマネジメントって大切ですよね。このように、重要な情報の伝達すら滞ってしまうだなんて」
「アンタが言うか……?」
いったい誰が怒らせたのか、覚えてないのか? そう言わんばかりの顔をなさいますね。
まあわたしですが。
「云業ったら女に夢見すぎだよ。あいつらちゃんとウンコするし俺もびっくりするぐらい口悪いし鼻くそだってほじるんだから」
「鼻は、わたしはほじりませんが」
排泄行為以降がやたらと具体的ですね。いったいどなたを想定されていらっしゃる?
「そもそもすべてがそれ以前の問題だろこの女」
「あらとうとう云業さんまで……」
わたしの血の気が多いのは兄上譲りです。すなわちよく似た兄妹というわけですね。
「ともあれ、ほとぼりが冷めたタイミングを見計らってご報告なさるものかと。うっかり鉢合わせさせたくもないでしょう。夜王の機嫌を逆撫でしたが最後、死ぬのは晴太さんだけとも限りませんから。できるだけ隔離できる場所——地下牢。あるいは地下に連行するまでのルート」
見取り図の最下部を叩いた。鳳仙殿の下へ案内される道中、さりげなく確認した限りでは、わたしの記憶と大まかな構造は相違ない。
「そして各最短経路を通ると考えると」
地図の一部をざっと線で囲う。
「この一帯を中心に、日輪太夫から地下牢までの経路を辿っていくのが、晴太さん探しにはもっとも手っ取り早いものかと」
「よォし、春雨出張迷子センター出動だ。まずはカワイソーな迷子を確保して、それからお母さん探し」
神威さんはけらけらと笑って膝を伸ばした。
「ところでアンタはどうやって運ぼうか。云業がおぶれないとか言い出すし。担がせる?」
「俵抱きを想定されているのであれば、あなたのせいで折れた肋骨がさらに限界値を迎えそうなのでできればご遠慮したいところですねえ」
「ワガママだなあ」
さすがにわたしとて我儘云々は神威さんには言われたくない。実際つらいのは事実だし——説明中は耐えていた咳をこぼすと、神威さんは畳に散った血を見て「しょうがないね、なら抱っこ?」妥協案を出してくださった。くださった? 出すべきでしょう。わたしとて肋を折られなければ飛んだり跳ねたりに難色を示さなかった。
「わたしと云業さんの体格差と夜兎の腕力を考えると、腕に座る形ならいけるのでは?」
「距離が近い……」
「云業〜? そろそろいい加減にしろよ」
口調こそ軽やかだったものの、どう考えても声は本気だった。
云業さんは速やかに指示に従った。
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「銀髪の侍一行が——」
百華にしては慌ただしく、バタバタと足音が響く。どうにも皆様、焦っていらっしゃるようで。
漏れ聞こえた声に神威さんがぴょこんと跳ねた前髪を揺らした。
「なんだか騒がしいな。他にも誰か来てる?」
「招かれざる客がいらっしゃるようですね」
それにしてもあのひとって本当に元気ですね。ごく短時間とはいえ、先程夜兎の皆様にさんざか叩きのめされていらっしゃいましたよね? 月詠さんが今も参戦していらっしゃるかは不明だとして、万事屋御一行は確実にセットだろう。皆様素直にお帰りになるタイプではないでしょうし。
「まっ、いっか」
夜兎とはよく言ったもので、兎が跳ねるが如く、かろやかに手すりを乗り越えてぐんぐん階下へくだっていく。この点は神威さんだけでなく、わたしを抱えている云業さんも同様だ。いやはや、すばらしい身体能力でいらっしゃる。
「迷子を拾うついでに、厄介なやつがいるといいんだけど」
風圧で三つ編みは背後にたなびいていた。わたしはなんとなく、目の前で揺れる彼の赤毛を眺めている。
「厄介……百華を数えないならば、猿赫一味ですかね?」
「なーにソレ」
「鳳仙殿の部下のようなそうでもないような。より適切な言葉を用いるならば、ファンだとか、シンパだとか、そのあたりになるでしょうか」
「旦那にひっつく金魚のフン?」
「ンー最大限に言葉を選ばず申し上げるなら、そうですね?」
神威さんは、位置取りとしては背後になるわたしたちを振り返りながらも、廊下に着地し、ろくに眼下を確認することもなくさらに跳躍する。バランス感覚、空間把握、無造作な振る舞いに見えて空中姿勢の制御はきわめて繊細だ。夜兎の身体能力は地球人にとっては——そして、天人にとっても大部分は——異次元かつ埒外、加えて彼はその中でもやはり頭ひとつは抜けているのだろう。
「鳳仙殿は日輪太夫および吉原の運用にばかりご執心なので、翻って、吉原という特殊な閉鎖的環境を利用して行われるその他犯罪にはあまり興味を示されないのですよね。一方で吉原とは事実としてありとあらゆる犯罪の温床でもあり、つまり〝その他犯罪〟の積極的運用に大きく携わっているのが猿赫さんと彼が率いる愉快な仲間たちです」
「俺たちとどっちが愉快?」
「確実にあなたがた」
云業さんがなんとも言えぬ表情を浮かべた。目は口ほどに物を言うとはまさにこのことでございましょう。
「普段変装していらっしゃいますが明らかに地球人とは思えぬ風貌ですし、鳳仙殿とは長い付き合いのご様子ですので、もしかしたらあなたがたの先輩かもしれませんね? 少なくとも八年前にもお見かけした覚えがありますので」
「でも聞いたことないな」
夜兎の王とすら評された鳳仙殿の個人的な子飼いでも不思議ではなく、地球を訪れる天人は春雨だけでもないので、他のところで勝手にリスペクトされただけでも不思議ではない。事前に渡した資料すら読まない御方が聞いたことないだけで春雨の構成員だとしても、これまた不思議ではない。
「云業ある?」
「知らねえ」
云業さんもまた、短く答えた。彼は相変わらずこわごわとした手つきでわたしを抱えている。もう少し力込めていただけた方が安定するのですが難しいですかね。落とされることはないと信じたいですね。
「字は動物の猿に、赤色の赤を二つ並べた字の方の赫で、猿赫。実際種族特性なのかわたしは存じ上げませんが、猿赫および彼の手下の容姿は全員猿に似ています」
「へー。ホントに心当たりないからソイツら絶対弱いね」
「不幸中の幸いですね」
「ただの不幸だろ」
今回障害とは見做されない、という点では幸運——と思うならば、最初から仰らない。そうですね。
直通エレベーターよりも速く、ほとんど自由落下で吹き抜けを抜けた。晴太さんは見える範囲にはどこにもいなかった。
「さーてさて、あとは地下牢?」
こきりと神威さんが首を鳴らして歩き出す。わたしは云業さんの腕に座りなおしつつ、中央広間を眺めた。大きな兎の銅像が鎮座しており、獣は大きな傘を食んでいる。あれが外されたところをわたしは見たことがない。この八年の中では少なくとも一度もなかったはずだ。完全に咬合する形で銅像は作られているから、取り外すとなると、像ごと破壊する必要があるだろう。
こんこんと咳をしつつ、喀血のついた口元をぬぐう。脂汗はもうなかった。痛みは慣れるものだ。
——さて。
地下牢に辿り着いたわけですが。
「あり」
「……逃げたか?」
「ちょうど入れ違いですかねえ」
地下牢のうちほとんどは誰もいないか、白骨死体が転がっている程度(程度?)だったけれども、ひとつだけ、扉が破壊されている独房があった。金具が衝撃でねじ切れたのか——断面はつやめいていて、真新しい。
ささくれだった独房の扉がかすかに布地を引っ掛けていた。つまんで指先で転がす。
「晴太さんのお召し物と同じ……」
「そこまでわかるの? ちょっと気持ち悪いね」
「布は腐食しやすいので、特にこのように多湿かつ空気もよどんだ環境で放置されると、金具以上にすぐに腐りますし虫にも食われます。つまり日数は経っていない。晴太さんが本日お召しになっていたお着物は、古着を子ども服に仕立て直したものでしたし、かなり汚れも目立ったので感触が変化していてわかりやすくて」
暴言は脇に置くとして。
「扉に何度も体を当てた拍子に布地が剥がれた……ただ、全身で突進したとて、子どもの力で開くものではございませんでしょうし」
「開くならそこに積み上がってる骨はねえだろ」
云業さんの言葉に「わたしもそう思います」と、同意を示す。だとすると——なぜこの牢は開いている?
「なにより……これは打掛かしら」
倒れた扉の端についた繊維を拾う。赤と白の細い糸。男性のお召し物ではなさそうだ。
「打掛ってナニ」
「それこそ遊女も身につけるような、派手な柄のお着物です」
朽ちた白骨が身につけていた、と考えるには些か新しすぎる。こっそり百華が訪れて、助けに入った——それにしたって位置が高くない? これが引っかかっていた位置が、お着物をまとうにあたってもっとも高い肩の位置だと仮定しても、大柄の男とおなじだけの背丈がありそうだ。そのような目立つ人員が百華に入れられるだろうか。
すこし考えていたけれど「まだ? 早く行こう。晴太がいないんなら、用はもう済んだろ」神威さんが急かすので、わたしは仕方なく立ち上がった。誰かわかったところで大差はない。敵ならば殺されるだけである。
「今度は登ってかなきゃ。迷子はどこかな〜?」
「……楽しんでいらっしゃいますね」
「けっこう。追いかけっこって面白いだろ? 獲物を追い詰めるのは気分がいい」
もしかして今わたしこれ狩猟本能の話されてます?
あちらこちらでばたばたと、本殿全体が奇妙にさざめいている。屋敷内を上から下へ飛び降りたかと思えば、今度は廊下を駆けるわたしたちもまたその一員だっただろう。訝しむような目で見られていたけれど、鳳仙殿の客ということは周知されているのか、特に咎められることもなく、そもそもそれ以上に誰も彼もがお忙しそうであった。
「皆様!」
の、だけど。
ひとりの遊女に声をかけられたものだから「なに?」と神威さんはニコニコ言った。黒髪を二つ結びにした遊女は、わたしを見て、神威さんと云業さんを見比べて、声をひそめた。
「申し訳ございません、先程皆様のお連れ様が」
「阿伏兎か?」
云業さんが尋ねる。「ええ、まさにその阿伏兎様です」遊女は大きく頷いた。
「御座敷の方ですこし……」
「あっれ、あいつなにしてるの? 海賊王への道を切り開くんじゃあなかったのかなあ」
「海賊王。ええとどちらかというと、全裸王にならせられて」
「マジでなにやってんだ」
「と、とにかく、疾くおいでくださいませ」
さっと踵を返しつつこちらを振り返り、手招きなさる遊女に——「ところで」と、神威さんはその場から一歩も動かぬまま、やはり笑顔で言った。
「その背中に隠してる剣、地球人はみんな持ってんの? 前にヒカリの部下も持ってただろ」
「人によりますがね」
遊女が足を止める。
黒髪を二つ結び、フリル付きのお洋服——遊女の定義が崩壊しますね。服装がなっていないのであれば、せめて口調を変えた方がよろしいかと。わたしも大概、廓詞は身につきませんでしたけれども。
「慈善事業もたまにはいいけど、やっぱり俺としちゃ、強いやつと戦いたいんだよね。おまえはどれだけやるのかな? うちの部下を理由に仕立てあげたからには、あいつぐらい強いんだろうね?」
取ってつけたような笑顔がかすかに質を変える。爛々と双眸は闘争に燃える。
「そうでもなきゃ、殺しちゃうぞ」
舌打ちの音がまずひとつ。
ほとんど同時に神威さんが跳躍し、狭い廊下でわたしと云業さんを抜いて手刀を振り切る——ヂッ! と音を立てて二つ結びの鬘が宙を舞い、半分に裂けた。
「ヤバッ」
ぱぁん!
爆音が炸裂する。廊下全体にもうもうと煙幕が広がり、わたしは思わず咳き込んだ。ほとんど片肺で煙幕は些かきつい、
「っあら?」
「は?」
襟首を引く感触。振り切ろうと咄嗟に身を捩りかけて「ッづう」左腹全体に走る痛みにわたしは息を詰めた。振りほどききれず、云業さんの腕からわたしはほとんど引きずり落とされ——勢いを殺すかたちで抱きとめられ、予想していた衝撃はこなかった。
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「あーッ、取られた! おまえのせいだよ云業」
「……いや、わざわざ乗った団長のせいだろ」
「マいいや。地図は覚えてるし、晴太はまだ見つからないし、それに、弱くもない女に血を吐かれるとつくづく調子が狂うんだ」
「なんの話だ」
「親を求める子どもなんてなおさら見れたものじゃあないって話だよ」
「本当になんの話だ」
「そういえば実際阿伏兎はどこ行ったのかなァ。まったくあいつは手間かけさせてくれるよね。上司に迷惑かけるだなんて出世できないぞ」
「阿伏兎……戻ってこい……訳してくれいろいろ……」
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ガチャン、と手錠をかけられた両手を掲げ、わたしは心底辟易をこめて嘆息した。
「こんなにもか弱い、加えて手負いの女に拘束具など。つくづくと正気を疑います」
「アンタ手負いどころか死にかけてたときの俺の顔踏み潰したよな?」
「女だろうが男だろうがバズーカ受け流すやつをか弱いとは確実に言わねえ」
「さすがにその状態じゃ曲芸できねえんだねィ。安心したぜ、俺たちゃバケモン相手取ってるわけじゃあねえらしい」
「なにを申し上げてもわたしが不利ですか、そうですか。殿方っていつもそう……」
「なんでこの状況下で被害者の顔できるの? 立場理解してる? 君攘夷浪士で俺たち真選組ね?」
真剣に疑問です、という顔つきだ。真選組監察方の山崎さん、無事に生き残っていらっしゃったご様子である。鬘は取れたがまだロリータを混ぜ込んだようなお着物のまま、一方で汗で化粧は半ば溶けているので、もはやすべてがちぐはぐを通り越してちょっとした化け物。彼の後ろにはどこぞで見かけたお方々二人、これまた女装の残骸じみた服装のため絶妙に締まらない。
わたしは背筋を伸ばして、澄まし顔で答えた。
「状況が最悪であればあるほど、たたらを踏んで歯を食いしばり眼前の敵をしっかりと見つめるべきです。そうは思いませんか?」
「良いこと言ったみたいなツラしやがって腹立つな」
青筋を立てた鬼の副長さんが煙草を噛み潰すので「ふふ」わたしは思わず笑った。笑った瞬間に肺に変なふうに空気が入ったらしく、思いきり咳き込んだ。これ本当に帰ったら入院沙汰ではございませんか。神威さんの喧嘩なぞ、止めなければよかった。些細な責任感はどうやら巡り巡って身を滅ぼすようですね。
「……副長、沖田隊長、なんすかどうしたんすか」
「咳しやがる女本当嫌……」
「嫌ってなんだテメェ土方コノヤロー。……まァ嫌、血を吐かれるとさらに嫌……」
こちらはこちらで勝手に弱っていらっしゃる。
「それこそあなたがたは彼女のおそばにいるべきでは? なにを遊郭でのんきに油売っていらっしゃるのでしょう、ずいぶんと良いご身分ですね? 浮気ですか? 斬り殺して差し上げましょうか?」
「浮気じゃねーよ調査だ調査ァ! どこがのんきに油売ってるように見えるってんだ!?」
「姉上も峠は越えて退院したばかりだってのつか身内よりやかましいなてめえ」
退院できたのはよかったですね。
「よしんば客として来るにしたって、遊女の変装する奴がどこにいる!?」
「あら遊女のおつもりでしたか。てっきり吉原桃源郷をユニバと勘違いなさったハロウィン先取りコスプレモンスターかと」
「コスプレモンスター呼ばわりされるほど!? ハァ、話が進まねえ」
くしゃくしゃと御自身の頭をかき回し、鬼の副長殿がずいと手を突き出した。ビニール袋に入った、粉薬のような物体だ。
「こいつの保管場所と持ち込んだ主犯を知ってんなら吐け」
わたしはしばしそれを眺めて「……ふむ」つぶやいた。
「白……ではない。かすかに色がついておりますね。結晶と言うよりは、植物を挽いたような質感に見受けられます。このあたりで出回っているお薬となると、精力剤、睡眠薬、デートドラッグ……ンー……植物由来の粉薬は基本、湿気厳禁、暗所保管。となると地下街ゆえに換気に難があり、加えて地下街のわりにはネオンサイン輝く吉原において、保管場所は限られますね」
吉原によろしくないお薬を持ち込むお馬鹿さんというのはよくいらっしゃったものだ。なんなら鬼兵隊の商売でもなくはないので、管理職としてはすっかり見慣れてしまった。これはわたしの記憶にないお薬だけれども、典型に沿うなれば、おおよそ当たりはつけられる。
「普段は人通りもほとんどない、換気機がある元作業場あたりが妥当でしょうか。連絡パイプ同士の接続口のあたりにたいてい設置されているので、わたしであれば、探すならまずはその付近からにいたします。もっとも鳳仙殿からは、このような品には一瞥すらいただけないでしょう。となると、おそらく主だって流通に携わっているのは猿赫さんたちかしら?」
ところで話せば話すほど顔をしかめられるのはいかなる理屈なのでしょうねえ。
「……よくわかった、まずそンだけぺらっぺら喋りやがるってことは
そうですね。
「しかもてめえの
大当たりですね。
「ッチせっかく体張って確保したってのに半分無駄になりやがったぜ。加えてお荷物が増えんのかよ。この調子じゃあ大道芸も見られそうにねえ」
心底イヤそうな顔で副長殿は懐に粉薬を保管した。わたしを攘夷浪士と思っていらっしゃるのか大道芸人と思っていらっしゃるのか、せめてどちらかにしていただきたい。
「なんでィ土方、体張って確保したのは俺でさァ」
「身体張って囮になったのは俺です!」
口々に文句を言い合う彼らを眺めて、わたしは頬に手を当てた。
「もしかしたらばわたしが嘘八百並べ立てているやもしれませんのに、ずいぶんと悠長であらせられる」
「最低限も調べねえで聞いてると思われてんならさすがになめられたもんだなってのと——」
つけ髪を剥ぎ取り、身軽になった様子の一番隊隊長殿が、わたしを冷めた目で見下ろした。
「そういう嘘がつけるほど器用な奴はそもそも、通りすがりに真っ当に病人介抱しねェや」
「……まるでわかったように口を利かれますね」
目を細めたわたしに、彼は鼻で笑った。
「なんせアンタ、ろくに喋りやがらねえからなァ。知ったかぶるしかねェさ」
「多少歌ってくれるなら話は別だけどね」
十人並みの、程々に人好きする顔立ちが——しかし、深淵のように目を光らせる。世間様の蓋を開けて、うっかりと底を見つめてしまったような、目。
「……琵琶でも一曲、弾いて差し上げるべきでしょうか?」
「ウンそっちじゃなくてね、アレッ、今って伝わらない!? 歌うって伝わらない!? 自白させるって意味! ワカル!?」
「諦めろ三十路」
「やーいオジサン」
「そうじゃなくない!? せめてあんたらは、てか副長は同じアラサーなんだから俺の味方であるべきだろ!?」
ゴンッ!
山崎さんはなすすべなく蹲ってしまった。深淵の瞳はどうやら幻だったらしい。脳天に拳を落とされる深淵なぞ、なかなかありませんしね。
「……お可哀想に。パワーハラスメントだなんて」
「違いますぅ。コミュニケーションってやつぅ」
「パワハラの加害者は皆様口を揃えてそのように仰るのですよ」
「指導方法に口出すんじゃねえ」
これはいよいよパワーハラスメントの典型的発言。
「まァ良いんじゃねえですか、ハラ方さん」
「人の名前を魔改造ドッキングしないでくれる!?」
「どの道心当たりがあるってンなら、この女、カーナビに使えまさァ」
「せめて人扱いしていただけません?」
「攘夷浪士に人権なんざねえ」
「もしや憲法をご存知でない?」
一応基本的人権は我が全国民平等に、テロリストにも当然定義されている。無視されることが多いだけで。こちらも無視することが多いだけで。
一番隊隊長はやけに手慣れた様子で、わたしの手錠についた紐を引いた。
「ついでに鬼兵隊幹部を検挙できて一石二鳥——」
「ごほ」
「——ところでその咳マジで止めてくんない?」
「無茶を仰る……」
わたしとて、止められるものなら止めている。気胸やらかしているわりには頑張って喋っている方かと存じます。
「……もし、そこのお方々」
ぎゃあぎゃあと騒がしくしていたからだろう。控えめに声をかけられた。
「SMプレイは専用の店に行くべきで、間違っても人前で強要するものではないぞ」
「SMプレイではねえが? どこの何をどう見ッ……」
言葉に詰まらないでいただきたかったかもしれません。
「……いや絵面はそうかもしれねえけどぉ!?」
絵面に関しても認めないでいただきたかったですね。
「俺だってワンともニャンともろくに鳴けねえ女とSMプレイはゴメンだね、選ぶ権利があるってもんでィ」
「反論にしても方向性がエクストリームすぎやしませんか」
「沖田隊長って本当……自由人で……」
まるで苦労人のようなお顔をされていらっしゃいますけれども、それにしてもここまで自由にのびのび育ててしまった時点で、あなたがた全員同罪かと存じますが。
……であるとして責任の所在は主にミツバさん?
……この話一旦、なかったことにいたしましょうね。
「まして弱っている女性に……ハッ、まさか、犯罪者だからといって婦女暴行など」
「いやいやいやこいつ怪我してたの前から元から俺たち無実、エッてか今更だけどおまえなんで怪我してんだよ。病気ではねえよな? ないと言え」
「わたし、嫌だと申し上げましたのに……」
「嘘だろここぞとばかりに乗りやがったこのアマ」
「真選組ども、やはり公僕の風上にも置けぬ……!」
「……ン? ちょっと待て」
山崎さんがふと眉をひそめた。
「まだ俺たちでも手配書発布できてないのに、どうして犯罪者だとわかって……?」
「問答無用!」
ぱぁん!
爆音炸裂、ふたたび。
袖を口元に当てて咳き込んでいると、かすかな風切り音とともに縄の張力が消える。足を掬うようにひょいと抱え上げられて、わたしはこのようにして、二度目の誘拐を食らいましたとさ。
「……ところで小太郎さん、そのお眼鏡はいかなる理由で?」
「小太郎ではない、勉三さんだ」
「乗って差し上げるべきなのですかわたしは」
「まずは逃げるぞ」
小太郎さん(勉三さん)はわたしを抱え込んだまま、ちらと背後を振り返った。煙に巻かれて咳き込む真選組の皆様——は、いいとして。そのさらに向こうからも、複数の足音が聞こえてくる。
「今は追われているのだ」
……あなたが追われていらっしゃるのはべつに今だけでもなくいつもでは?
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「この粉に見覚えは?」
「先程真選組の皆様にも見せられましたねえ。それらしい場所に見当はつきますので、ご案内はできますが、いかがしましょうか」
「つまり、本件に高杉の関与はないのだな……」
わたしってそんなにもわかりやすいのですか。
埃っぽい物置にはさすがに人気はない。わたしの回答に、小太郎さんは残念半分、安堵半分の様子で粉を懐にしまった。
「真選組がこの件で動いているならば多少寄り道してもよさそうだ。あれらは税金泥棒だが、仕事自体はするのだし」
奇妙な信頼関係である。とはいえわたしとしても同意見でもあったので「左様でございますか」と申し上げるに留めた。
「それでは、晴太という名前に心当たりはあるか?」
わたしの沈黙になにを察したのか「先程牢で会ったのだ」と、小太郎さんは付け加えた。
「彼は母に会いに来ていて——犯罪者一味に一度誘拐されたらしい。その中には女もいたとか。おまえだろう?」
なるほど、脱獄を手助けしたうち少なくともひとりはあなたでいらっしゃる。
「どうなさるおつもりで」
「母に会いたいと泣く子どもに手を貸すなぞ、当然の話だ」
時としてこの人は、眩しいぐらいに真っ直ぐである。
「……会うことは会えると思います」
この屋敷には銀さん御一行が既にいらっしゃる。加えて何故だか、神威さんは晴太さんと日輪さんを会わせようと熱心だった。わたしの離脱で多少道草食っていらっしゃるやもしれないけれど、誤差の範疇だろう。云業さんはまあ、わざわざ邪魔立てするほど興味もないだろう。阿伏兎さんは若干気にかかるが……全裸王はけっきょく、真選組が咄嗟に口にしたでたらめのはずで、ただ本当にどこにいるんだろう……とはいえ、彼は彼で、夜兎同士の諍いさえ起きなければ静観しそうである。
「その後が問題なだけで」
「鳳仙の気に入り?」
「そこまでお話されていましたか」
わたしは嘆息した。
「鳳仙殿が日輪太夫を手放すことなどございませんよ。少なくとも多少の血は流れるものかと」
「なるほどここも知り合いか。なにか世話になったのか?」
「わたしってばそんなにもわかりやすいものでしょうか?」
「わかりやすいが、昔ほどには……かつてはもう少し、おまえのことならばなんでもわかると思っていた」
頬をてのひらでこすられた。「煤がついてる」指先が耳をつたって髪をすくい、髪をくくる薄藍の髪紐まで這った。ふ、と彼は眉尻を下げる。
「お返ししますよ」
「まだその時ではない」
小太郎さんは頑なだった。
「……もう! それにしてもアンタって子はまったく、目を離すとすぐに死にかけたり怪我したり! 心配させないでちょうだい!」
「切替の緩急もう少しどうにかなりませんでしたか」
「一応敵なのだからかんたんに触れさせないの!」
「そもそも抵抗しようにも負傷している上になんなら手錠かけられたままなのですよね、わたし」
もしかしたら今回わたしは非戦闘員でいろという神の思し召しなのかもしれない。それっていったいどんな神?
ほらほら見てみて、とガシャガシャ手錠を揺らすと、小太郎さんは「それはわかっている」と頷いた。
「それを外す方法も考えねばな……しかし、なんならこのまま我々の根城まで連れ去ってしまえそうだ」
「しますか?」
「魅力的で、実行したいのは山々だが、怒るだろうからしない」
「まあ怒りますね」
わたしはやんわり笑った。理解のある方でたいへんけっこう——その程度の覚悟と思われ、蔑ろにされるのは、すこし、嫌ですからね。
「一生、金輪際口利きません」
「だろうとも。いや本当にたいへん魅力的だが」
「念を押してきますねえ」
「駆け落ちは寝取りジャンルの醍醐味のひとつだぞ」
「ああ人妻もの」
「俺が言うのもなんだがオカズの好みまでなにもかも貫通しているのどうにかならないか。イヤ侍である以上は恥ずべきことなどなにもないがそれにしてもどうにかならないか。というか誰だおまえに暴露したのは。高杉か。銀時か」
「〝先生〟ですね」
「よりによって?」
男同士の話、とハブられているときに気を遣って教えてくださったのである。それにしてもこのときだけでなくどうにも常々気の遣い方が致命的に間違っているとは、当時のわたしもさすがに思いましたよ。
小太郎さんはやれやれと首を横に振って、天を見上げた。つられてわたしもなんとなく上を見上げる。空模様なぞなにひとつわからない、蜘蛛の巣の張った薄暗い天井。物置の外も大差はない。ここに囚われた商品は、下手をすると物心つかない頃に売られてきて、青天を知らぬことまである。
「あ、聞かねばならぬことをもうひとつ思い出した。めす・ごりらさんという方を知らないか? お世話になった御人なのだ、おそらく遊女なのだが」
「……存じ上げませんね。……小太郎さん、ひとつ申し上げますと、好い仲の方をメスゴリラ呼ばわりするのはさすがにいかがなものかと」
「違う! 彼女はめす・ごりらというお名前なのだ!」
そのような名前の方が本当にいらっしゃるならば是非とも名付けた御方にお目にかかりたいものですが。意図を問い詰めたく存じます。
……まさか本気で仰ってます?
「それに好い仲でもない! 晴太殿を助けた同志であり……」
……もしかして牢にあった打掛の痕跡は、そのひと?
「かつて人妻雑誌の表紙を飾って俺の寝取りフェチを作り上げた御方なのだ!」
「わたしはいったい何を聞かされているのでしょうねえ」
開き直るにも限度があり、限度が天井突破している。なかなかにあり得ない話されていますよ。お世話になったって下の世話を含めてということ? とてもやかましくていらっしゃる。
「……第一遊女が人妻とは、いかなる理屈です? 兼任できるものではございませんよね」
「たしかあのときのシチュは金払いの良い馴染みの旦那に身請けされる直前に一時の逢瀬を」
「お聞きしてしまったわたしが悪かったことだけは心底から実感いたしましたが、それにしても本当にいったい何を聞かされているのでしょうねえ」
というか、小太郎さんのフェチはわたしの記憶が正しければ十代前半には完成していたはずで、つまり十年以上は前の話で、その人と、同一人物……? 遊女なぞ、ふつうはとっくに引退している年齢では?
「まァ……わかりました」
肋は痛いのだが肋以上になんだか何故だか頭が痛い。何故もなにもない。こめかみを抑えつつわたしは頷いた。
「わたしは現状、その……めすさん? めすごりら? さん? ……なに? ええと、とにかく……は存じ上げません。しかし、吉原に生きる身でありながら鳳仙殿に逆らった以上、その方も本件への関与が露見次第処断される可能性は高いでしょう。気にかけるに越したことはないかと」
「うむ。ありがとう、ヒカリ」
端々の礼儀は本当に大変素晴らしいのですよね……。
「肋骨が折れている状態では歩くのもつらいだろう。背中に乗り……いや、それはそれで自重で負荷がかかるか。抱えてあげよう」
気遣いもできるのですよね……。
「……お願いします」
「うん」
躊躇なく横抱きに抱えられて思わずまじまじと小太郎さんを見ると「……」彼も何かを考え込んでいる様子であった。
「ヒカリ」
「はい」
「……本当に連れ帰ってはダメか?」
「はい、だめですね」
「そうか。誠に残念だ」
心の底から惜しいとばかりに仰るので、わたしはすこし笑ってしまった。
「どうぞあなたは、素敵な人妻でも捕まえてください。それにしても素敵な人妻ってなんでしょうね」
「そこが問題だな。寝取りであるなら人妻でも未亡人でも遊女でも良いのだが……」
「真に問題なのはあなたの拗らせたフェチかと存じますが」
「恥じることなどなにもない」
「正直、少しは恥じていただきたいところですねえ」
手枷がついたままの両手を、上から被せるように小太郎さんの首に回すと安定感が増した。ベストポジション。満足。ちょうど長い髪に触れられる位置でもある。紅桜から月日は経ち、斬られた髪はすっかり伸びたらしい。さらさらとした髪は触れ心地がいい。
小太郎さんは私の一連の行動を咎めることなく、しばらく好きにさせていたけれど、やがて「おまえは……」と、しみじみとした様子で言った。
「俺が自分の願望よりおまえの希望を優先していることに、つくづく心底、感謝してほしい」
「ありがとうございま〜す」
「軽い」
「わかってますよぉ」
わかっていますよ。
ちゃんとわかっています。
➤
「ちなみに晴太さんはどうやらどこぞの万事屋さんを雇っていらっしゃるようですね」
「銀時が来ているのか? ならばもう何もしなくても良い気がしてきたな。イヤ手は貸すけれども。何もしなくても良さそうな気がする」
「そうですねえ。日輪太夫と晴太さんを引き合わせ、邪魔となる鳳仙殿を倒すにあたっては、心配はなくもないのですがなんとかなるかなあという気分ではあります」
「……ふむ。……ヒカリ、おまえ鳳仙になにか思うところでもあるのか?」
「……あー、まあ、そうですね。鳳仙殿のことは個人的に嫌いでして」
「先ほどは勘だったが今ので確信した。おまえは憎い人間を〝嫌い〟と評するような人間ではない」
「ウーン言わなきゃよかったな〜!」
➤
かつて、鳳仙殿と顔を合わせたのは、ただの一度きりであった。覚えられていたことにわたしが驚いたのはそのためでもある。
畳の部屋に乱雑に放り出されたことだけはわかっていた。接地面と肌がこすれる感触から推察できただけだ。当時わたしはろくに視界も利いていなかった。長らくの栄養失調と体調不良で、視力も一時的に低下していたほどだ。
「新しく売られた娘です。仕入れ元からは夜鷹にでも回せと指示が来ていますが」
「ハ。夜鷹?」
鼻で笑う音。
「ずいぶん痛めつけられている、ろくに客も取れんだろうにな。人売りが拐かしたとて早々ここまではいくまい。敵藩の娘だとか?」
「高杉家をご存知ですか」
「知らんな。江戸や京の者ではなかろう」
「京よりさらに西の方の藩の武家で、この娘の生家なのですが。先々月に一族の九割が殺されたそうで」
「その下手人がコレを攫った?」
「いえ、それらすべて——この女が殺したのだと」
一拍の間。
呵々と哄笑が響き渡る。ばしばしとなにかを(膝?)手で叩く音。反響を踏まえると部屋はそれなりに広い。酒の匂いもする。高級な品だ。
当時のわたしはこれまでにない絶不調というものを随時更新し続けながら、それでもなお、すべてを探るべく神経を尖らせていた。
「場末の星と思うていたが、どうしてなかなか、狂犬が生まれおる! なるほどおかげでこのザマ——いや、それより前からか、弱りようから察するに。しかして牙を剥いたか!」
「鳳仙様、我々が回収した際もその女隙あらば暴れておりました。縄を解くのは些か——」
「わしに傷がつくとでも?」
不意に声の温度が落ちる。面白がる響きだけを残して、凍てつき吹きすさぶようであった。
「まさか、殺されるとでも? この夜王をずいぶんと見くびったものだな、猿赫」
「……失礼をいたしました」
一振りで縄が解かれる感触——わたしはその端を掴んだ。鞭のしなりは縄でも代用できる。疾く打ち振るえば刀より硬く。
風を切り、しなる音。
「フン。たしかに暴れ馬」
ぼやけた視界が明滅する。渾身の一撃をあっさりと受け止めて、なおおとこはわたしを見て嗤う。捕らえられた手首はぎしぎし軋み、細かな骨が砕ける音が響いていた。カルシウムの欠乏は骨格形成に影響する。我ながらさぞかし脆い骨だろう。
未だ諦めないわたしを薄い色の瞳が睥睨したことを理解した。すべての認識ははるか遠く、他人事の如く受け止められる。
「身のこなしはまとも。剣ダコ——の他にもあるな。撥かこれは。琴、三味、琵琶……はてどれであろうな」
彼が片手を打ち振るうだけでわたしは宙に吹き飛ばされた。わたしはただでさえ小柄で、そのときは体重がすっかり軽くなっていたこともあるけれど、なによりその膂力は明らかに地球人のそれではなかった。あっけなく畳に落ちて、激痛と発熱で——しばし思考が阻害される。ぐるりと回って空を振れた視界を一度瞑り、わたしはなんとか身を起こし、鳳仙と呼ばれたそれがいた方をふたたび見据えた。無理が祟って、輪郭はにじみ、ほとんど人影のように見えていた。
「まだ抗わんとするか! クカカ」
わたしの心底無様な姿を、酒の肴にされていたことだけは確かである。
「近年は立て続けに活きのいいやつが釣れる」
ひとしきり爆笑して「おい猿赫」と、彼は言った。顔のあたりがぶれたので、眼差しごと向けていたのだと思う。
「此奴を夜鷹に落とすなぞ些かもったいない。この有様ではむしろ夜鷹の方が取れる客も取れぬわ。しかし快復すれば化けるだろうよ。手が空いている妓楼にでも放り込んでおけ。どこぞに、前吉原から勤め続けた遊女の遣手がいただろう。ちょうどよさそうだ」
「こいつは鳳仙様にも歯向かい」
「良い良い、所詮は地球人、わしの首を取るには到底届かん。せいぜい踊らせておけ」
本当に、実際に、わたしが鳳仙殿と顔を合わせたのはそのたった一度きりだった。たかだか一度だけ。わたしが放り込まれた妓楼に現れることもついぞなかった。遣手婆はわたしの状態に心底辟易した様子であったけれど、わたしの看病には文句は言わなかった。快復したわたしには文句も叱責も山程浴びせてきたけれども。
「猿赫? ……ああ~、もしかして猿顔のやつかい?」
「ご存知ですか」
あの場にいた部下が具体的に誰でどういう立場の者だったのか、教えてくださったのは、日輪さんだった。晴太さんがまだ生まれたばかりで、わたしたちが業務の裏で赤子の世話に奔走していた時期のことだ。
日輪さんは新参のわたしには到底及ばぬ額を稼いでおきながら、驕らず、お高く留まることもなく、彼女はさながら長らく付き合った友人のごとく自然体だった。遊女たちばかりの空間では誰かしら暗い雰囲気になりがちだったけれど、日輪さんはそういう点でもきわめて気配り上手で、笑いのある空間を作り出すことに長けていた。どんなときにでも、誰に対しても、そのように振る舞っていた。
「知ってはいるねえ。天人だろ。いっつも鳳仙の腰巾着やってる……いやあにしても顔合わせなんて大変だったろ、鳳仙おじちゃんってばいつも悪ぶってるもんだからさ」
「鳳仙おじちゃん」
「おじちゃんだよおじちゃん」
そういうひとだと思っていたから——わたしはそのとき面食らった。うっかり復唱してしまったほどだ。
「鳳仙様なんてすっかり気取っちゃってさ、あいつはただのおじちゃんだからね」
言葉ばかりは若干悪口のようにも聞こえたけれど、日輪さんの口ぶりは、親しいひとを相手にしているものとほとんど同一だった。たとえばわたしが兄上や、小太郎さんや銀さんを指すときの口調は、鳳仙殿を評する彼女のように聞こえるだろう。
「ああやだやだ。ああやってみんなで祀り上げて、あのひともあのひとで自分は特別だって錯覚しちまうから、欲しいものもちゃんと見えてないんだよ」
「日輪さんは……鳳仙殿とは、付き合いが長いのですか」
「もうずーっと昔っからだねえ。……あんた鳳仙のこと、あんまり怖くないのかい? 私がこういうこと言い出すとさ、みんなすっかり怯えちまって、話変えてくれないかっていつも言うんだ。悪いとは思ってんだけど」
「夜王鳳仙が怖いと評価されることは、客観的には、正しいと思います。しかし、わたしにはより怖いものが他にいくらでもありました」
わたしの回答は、ただの飾りけのない事実だった。怖いことを数多に企んで、実行しているひとだ。一方で、わたしは夜王と呼ばれる男よりも怖いものを既に知っていた。その恐怖が刷り込みである自覚はあれど、刷り込まれた事実は本能に等しかった。
日輪さんが眉を下げて「そうだね」と言った。
「……じゃ、もうちょっと話して良い?」
「構いませんよ。わたしは彼のことはあまり存じ上げていないので、相槌を打つことしかできませんが」
「いいよ、それで。私が鳳仙に会ったのは、もうだいぶん昔のことなんだけど……」
日輪さんは軽快に喋った。もともと花魁になるだけあって、話上手な方だ。わたしは聞き手に徹していた。三時間間隔でおしめかごはんかで晴太さんは大泣きする。かの夜王に関わるすべてのやり取りは、晴太さんが眠っている間かつ、わたしたちぐらいしかいないときの、ほんの短時間で行われた。
「あのひとねえホント、最初に酌しに行ったときからずーっと私に喋らせるばかりでね。滅多にこないし。そのくせ私が客取ると、あんな男に身請けされる気かだのおまえは誰のものだかわかっているのかだの」
「気持ち悪いですね」
これはシンプルにわたしの本心だった。
「つくづく感情表現が子どもだろう?」
日輪さんの感想は確実にずれていた。
「太陽がほしいだけのおじちゃんの頃からなんにも変わっちゃあないんだよ。おてんとさんに嫌われちまって、すっかりふてて引きこもり始めた頃からね」
夜王より怖いものが他にいくらでもあったわたしですら、そう思ってるのたぶんあなただけですよ、という気分だった。さすがになにかが致命的に間違っていると思う。さすがに。
日輪さんが本心からそのように語っているのはわかっていた。わたしは夜王鳳仙のことをなにも知らず、すべての評判はただ一度きりの邂逅と、あとは他の遊女や芸妓、遣手婆から伝え聞いている程度であった。日輪さんの感想を正確に判断するだけの情報を、わたし個人としては持ち合わせていなかった。口をつぐんでいたのはただそれだけの理由だ。
「あのひとは真正面から聞いたって、自分の心を自分自身にすら誤魔化して、蓋をするだけなのさ。わかってたんだけど……」
日輪さんは嘆息した。絶望を知らぬ眼差しが、ふと、そのときだけは遠くを見つめる。
「……潮時かねえ」
胸に抱かれた晴太さんは無垢に眠っている。二人に血縁関係はなく、しかし、傍から見るだけでは親子と見紛う光景であったろう。
「周りのことさんざっぱら言ったけど、私も甘やかしちまって、釘も刺さなかったつけがあるんだ」
「……お次は夜王の母親ですか?」
わたしは少しばかり皮肉るつもりで言った。
「アッハハ!」
まさか爆笑されるとは。
「違うよ。ただ。そんなんじゃないんだ。馬鹿な男に尽くす女は、駄目な女って相場が決まってるもんでね」
わたしと然程年も変わらぬひとが——まるですべてを悟ったかのごとく、微笑む。
「日輪さんが駄目な女ということはありませんでしょう」
「ふふ。ありがとう。でもさあ、やっぱり、そういうのはあるんだよ」
けっきょくのところ、八年前の騒動は、日輪さんの帰還と監禁で幕を閉じた。わたしは日輪さんの脱走にはなにひとつ関わっていない。日輪さんが口を噤んでいたのは、彼女以外の誰が関わったところで、夜王が出張ることもなく、ただ百華に首をはねられて終わるだけだと知っていたからだろう。
日輪さんだけが、夜王鳳仙直々に捕らえるに足る相手だった。たとえ殺されるとしても、それまでの猶予があると確信していた。
その意味を、考えたことは——あの男はあるのだろうか。
そして日輪さんは。
……彼女は、事ここに及んでなお、かの夜王鳳仙を叱れないでいる。暗い部屋で、素直に黙って閉じ込められて、鳳仙殿の言う通りに過ごして、あれだけ可愛がっていた晴太さんと会えないことも良しとしている。
たしかに——駄目な女ですね。あなた。
➤
「そこ左です」
「よし」
けっきょく吉原遊郭においてわたしは徹頭徹尾余所者としてあり続けた。当時のわたしは新環境に心を置けるほど余裕がなかったこと、なじめるほど長い期間はいなかったこともある。少しだけやりとりをした日輪さんは常人には手の届かないところに行ってしまったし。遣手婆は事あるごとにお小言ばかりでしたし。
「……待ち構えているとしたらば、死角が多いこのあたりなのですが。……百華の気配がひとりもございませんね」
「……全員殺された?」
「可能性がないとは申しませんが、なにしろ人数が多いので物理的に難しいかと、」
わたしは口を噤んだ。轟くが如き地響き、天井から埃が落ちる——地震ではない。
「なんだ今のは」
小太郎さんが顔をしかめる。
「方向わかりましたか」
「北西、階下」
「……中央広間方面ですね。この廊下を下って左に曲がってさらに真っすぐ行って右の座敷を越えた先です」
「……この屋敷はなぜこんなに入り組んでいるんだ?」
「刺客対策……?」
ぶつくさ言いながらも小太郎さんが飛ぶように廊下を走る——見ないうちに脚力が増している、このひと夜兎とふつうに渡り合えるんじゃないの——遥か眼下に広がる光景に、わたしたちは目を瞠った。
「……銀さん?」
白い着流しに黒ジャージの男が、大きくひび割れた壁の前、無惨に横たわっている。