【完結】春去りて、春風は未だ   作:初弦

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建築なにもわからない。


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前略:

 現在のデバフ・肋骨骨折、外傷性血気胸、手錠←new!

 

   ➤

 

 大きくひび割れた壁。ある一点にとても強い衝撃を与えられたから放射線状に亀裂が走っているのだとすぐに当たりがつく。血痕が中央からつたって、下方に崩折れた銀さんにまで続いている。叩きつけられた、たぶん頭部が——巨大な傘を肩に担いだ鳳仙殿が、その前に立っていた。片目はつぶれている。

 兎の銅像は口元が砕けている。傘はない。

「——呼吸をしている」

 小太郎さんが口を開いた。ほとんど鋭く睨むようなまなざしで、彼は銀さんを観察していた。

「なるほど」

 わたしはつぶやく。ぱっと見ではほとんど、死体のようなありさまだったが——注意深く見ると、ごくわずかに、本当にごくごくわずかに、肩が上下しているようであった。よくお気づきになられましたね。

「……もしやあれ、起きてます?」

 無意識下に行われるものにしてはやけに浅く、小さい。ほとんど息を殺す、隠密目的の呼吸だ。わたしはそれこそ初見は本当に息が止まっているかと思った。

 独り言じみた確認に小太郎さんもまた「おそらく」と、頷いた。

「あいつの常套手段だ。一度は意識は落ちたのだろうが……ああやって死に体のふりをして少しでも回復を試みながら、一方で周囲の気配を探っている。敵の隙を探り、斬り殺す」

「味方の増援を待つ?」

「そのような場合もまれにはあったな。多くは孤立無援だったが」

 攘夷戦争終盤の戦況は、本当に悲惨だったと噂に聞いている。

「なにより、ま(﹅)だ(﹅)止められる間合いだ。鳳仙が晴太殿に襲いかかったとして、子を引き裂く直前に滑り込める。それ以上離れたらばあいつも立ち上がる」

「無理を押してまで——ええ。それは、わたしにもわかります」

 わたしはちらと周囲に視線を走らせた。

「そしてまだ……時は稼げるのでしょう。どうにも姿が見えないと思っていましたが、百華はどうやらこちらに集まっていたご様子。月詠さんが唆したのかしら」

「月詠……百華の今代頭領、死神太夫だったか?」

「かつてわたしは年若い頃の彼女を見かけたことがあります。まだ幼くとも十二分に、百華の一員として活動し、苦無さばきも上手かった。今はさらに腕を上げていらっしゃる。少し前も、銀さんと行動されていました」

 もっとも彼女はわたしを既に覚えていらっしゃらないようだった。わたしと彼女はほとんど関わりがなかったし、無事に身請けされた芸妓をいつまでも覚えているとはわたしも思わない。

「……小太郎さん、参戦されますか? であればわたしのことは捨て置いていただいて構いませんよ」

「しない」

 即答。

「というより、したとて不利だ」

 小太郎さんは眼下の鳳仙殿をひたと見据えている。

「正真正銘の屋外ならばともかく、日が昇らぬ吉原で、よりによって夜兎相手に無策で真正面から戦ったところで勝ち目はない。他の夜兎は参戦せんようだが……」

 視線の先では神威さんが兎の像に腰掛けて見物している。後ろでは云業さんが天を仰いでいた。なんだかんだで辿り着いていたご様子。

「……肝心の鳳仙が、並みの夜兎をまとめて相手取るより厄介だろう」

「さて。まァ、それこそ夜兎の王であらせられますからね」

 かといってこのひとは、戦況の不利ごときで銀さんを見捨てるようなひとではない。小太郎さんだけでなく、兄上を含めて彼ら三人はそういう関係にあった。十年前はそこに桂浜の龍も加わっていたのやもしれない——兄上の言う〝辰馬〟さんとやら。

「おまえは、銀時が鳳仙を倒すことそのものは可能だと考えていた。戦況を覆す方法に見当がついているな?」

 それにしてもわたしって本ッ当にそんなにもわかりやすいものですかねえ。

「……吉原の空は仮初」

 頭上を指差した。吹き抜けの天井ははるか遠く、吉原を覆う無骨なパイプと鉄板はそれよりもさらに先にある。

「そして今は、わたしの体内時計が狂っていなければ正午の時期に差し掛かります。太陽は中天、本日の天気予報は雲ひとつない晴れ間でしょう」

 基本的に、わたしの時間感覚はかなり正常に稼働し続けている。小太郎さんが顎に指を当てて「地上まで誘い出すのは至難の技——」つぶやいた。

「天井を破壊した方が早、いや、だとすると無辜の者が巻き込まれる。……吉原は元造船所に作られたと噂だが、であればそもそも製造した船を出すための設備があったはずだ。湾まで距離があり、しかし河に出すにはそれらしき巨大水路もなく——もしや、この天井は開閉できるのか?」

「ご明察」

 わたしは顎を引くようにして頷いた。

「天井を走るパイプや地下と地上を隔てる鉄板は、いずれも明確に、目立つ繋ぎ目がありました。あれは経年劣化による亀裂や欠陥工事ではなく、意図的に作られたものでしょう。すぐに分離できる構造になっている——あまりに開かれなかったものだから一部蜘蛛の巣がついたり固まっていたりしますけれど」

 吉原の天井は、一年という短期間だったが、わたしは何度も見てきた。はじめに気づいたときはなんだろうあれはと訝しんだものである。

「もっと言えば、そもそもにしてこの規模の地下空間が何故ほとんどは地上空間をそっくり写し取ったような街並みでしかないのか、という点を踏まえると答えは見えてきます。造船業にあたっても、柱をいくつか打ち立てて、新しく〝地面〟をいくつか作って、ある程度階層構造にした方が空間を余すところなく使えますのにね。この巨大地下空間ははっきりと目的を持って建造されていた、つまり、造船というのもただの小船や小さなクルーズではなく、空母や巨大軍艦を最終組立してすぐさま投下する目的だったのでしょう。もしかしたら……その船は海に浮かべるだけでなく、空を飛ぶ宇宙船も考えられていたのやも」

「柱を立てなかった……立てられなかったのか。下手に障害物を打ち立ててしまえば、開閉時の動作に支障が出る。おまえの言うように造船というのが宇宙船を含んでいたのであれば、もしかしたら航空能力の試験もしていたのやもしれないな。どうにせよ地下空間で柱の倒壊なぞ引き起こしたらいよいよ大惨事だ。となると、そもそも今ある〝地面〟自体が製造し完全に組み立てた船の運搬のために上下する仕組みだった?」

「可能性はありますね。さすがに、もしもこの街(﹅)そのものの地盤が巨大な貨物リフトだったとしても、現状動かしたところで吉原の街並みが軒並み破損するだけですので仮説にとどまりますが」

「うむ、実行はできまい」

 〝十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば並の人〟とは諺にすら成り上がった俗説だが、少なくとも小太郎さんには当てはまらないのだろう。……これでテロリストで変人でなかったらば一世を風靡していたはずですのに。もったいないひとだ。

「もっともわたし、肝心の操作室の場所を存じ上げないのですがね。こればかりは新参や初見、お客様、いずれも知る由もありません。鳳仙殿の最大の弱点でございますから。通電しているかも怪しいやも」

 なんなら破壊されていたり、埋め立てられていてもおかしくはない。天井そのものをぶち壊すよりはましだろうけれど、その場合はもう如何にして天井開閉の絡繰仕掛けを見つけて動かすかという話になってくる。

 たいてい大掛かりな絡繰は、緊急時のためにある程度手動操作できる設備も揃っている、とは思うのだけど……。

「いや、電気は今でも通じているだろう。ついでに操作室の場所も、ある程度は絞り込めるぞ」

 一方で小太郎さんが目を光らせた。

「吉原の建造物の大半はおまえが言うとおり地上と大差ない、ふつうの町並みだ。つまりこれらはすべて元の造船業に関与しない、吉原遊郭後に造られたと見える」

「わたしの把握している範囲でもその認識で間違いないかと」

 会話の最中に戦況が動き出す——苦無が飛んだ。月詠さんのご登場だ。あちこちに傷の処置、包帯を巻いている。

「そして鳳仙、夜兎の王と謳われた男が日の差さぬ吉原に引きこもり、好いた女ひとり閉じ込めて満足している——フン、同じ夜兎でもリーダーには遥か及ばぬ器よ」

 リーダー誰?

 ……本当に誰?

「あの男、本質は慎重かつ臆病だな。石橋を叩いてわたる。……かつての造船所全体に関わる大がかりな設備となると、絡繰は機関部でも特に主要箇所に組み込まれているだろう。地下空間における主要機関は何を操作すると思う?」

「最たるものは換気設備……ああ。確かにおいそれと破壊できませんね」

「そうだ」

 夜兎と地球人の身体能力は大きくかけ離れている一方、身体構造はほとんど同じ、呼吸を行う生き物である点も共通している。酸素を取り入れ、二酸化炭素を吐き出す。

 換気が止まれば遅かれ早かれ酸欠で死ぬ。かの夜王鳳仙もあくまでも生物だ。日光に焼かれれば死にかけ、酸素がなければ到底戦えない。そのリスクをあの男は冒せない。

「操作室自体も下手に場所も移せまい。開閉動作に加え、船を地上に上げる巨大貨物リフトが存在していたと仮定すると——」

「全体を俯瞰しやすい上方に配置される」

「——それも確実に船の運搬には巻き込まれない位置だ。少なくとも壁際。鳳仙の気性を考えると、主要機関を司る操作室に続く道は虱潰しに潰す一方、なにか大きな故障や不具合があったときのために一、二本は隠された経路があるだろう」

 我々の眼差しの先、銀さんが立ち上がった。白銀(しろがね)の髪の合間から眸がひかる。普段の木刀でなく、真剣を携えて。

「行こう」

 小太郎さんが身を翻した。ちょうど話がまとまったこともあるけれど、銀さんが立ち上がるのを待っていたかのようなタイミングでもあった。

 わたしは彼の首に捕まる形で、その背後、飛びかかる白銀を最後に、視界にとらえる。あれほどの負傷でも動くのだ。まだ動く。それは諦めていないとか、強いからというだけでなくて——言葉にするだけ野暮だろう。

「……ところでなぜあのひと、夜兎の身体能力で壁に叩きつけられておいて頭蓋骨が原型を保っていらっしゃるのですか? ふつう粉々ですが? 実は合金でも入ってます?」

「……それを言い出すと十年前の俺も高杉も坂本も巻き込まれるから触れるな」

「ああ実体験ベース……」

 

   ➤

 

 屋敷の裏通路を抜けてパイプの中に飛び込む。金属製の巨大パイプはカンカンカンと甲高く音を反響させた。

「一旦この先抜けたあと、下の換気口を飛び降りてから窓を抜けて梯子登った方が全体的に俯瞰できます」

「鳳仙の屋敷も大概だがそもそも吉原、構造が複雑すぎないか!?」

「それは本当に、ええ……たぶん侵入者を惑わすためにわざとでもあるんでしょうが、このあたりは半分くらい、造船所時代から連綿と続く建増工事の成れの果てかと……作って建てて修繕してついでに諸々ねじ込んで、というやつです」

「これだから無計画は好かんのだ!」

 攘夷戦争では小太郎さん、苦労したのかな。兄上も銀さんも綿密に計画を立てるタイプでもなさそうだし、戦況が許さなかったのもあるだろうし。

 換気口を外し、音もなく着地して襖を蹴り破る。さすがに喋りすぎたのか、コンコンと咳き込んでいると気遣うように背中を撫でられた。……。

「……こ、これで寝取り趣味さえなければ本当に、婿の貰い手もそれこそ引く手数多でしょうに……」

「おい、なんだ突然。まだ先ほどの話を引きずってるのか。まったく女はネチネチと」

「あ、わかりました。ここで落としていただいて大丈夫ですよ」

「ごめんなさい」

 確実にここで放置されたとして不利なのわたしなんですけれどね。不思議ですね。

 わたしを抱えた状態で、壁に取り付けられた梯子を片腕だけでも身軽に上っていき、細い鉄板にすたんと降り立つ。かろうじてつけられた手摺は、各種メンテナンスで作業員が利用するのだと聞いている。

「アッ」

「え?」

 小太郎さんがすちゃと懐から眼鏡を取り出して、掛け直した。先程いったん外していた覚えはあるけれど、なぜ唐突に。

「あーっ、高杉ヒカリ!」

「あっ」

 一段下の通路からまっすぐこちらを指差された。揃いも揃って黒隊服——真選組の皆様である。さすがに着替えたんですね。あのままでは逆に目立ったので、正解の選択を引いたものかと。

 ついでのように構えられるバズーカに小太郎さんの腕に力が籠る。そういえばあなたしょっちゅう彼らに追われて撃たれていらっしゃるそうですね、そうじゃなくてね。

「さすがにここでバズーカ砲(そんなもの)なぞ撃ったらば、生き埋めになりかねないと理解できる頭は備えていらっしゃいますよね?」

「土方が死ねば一石二鳥」

「てめーも死ぬわボケ」

「その男はさっきの……」

 山崎さんが小太郎さんを見据える。

 小太郎さんはまるで恥じることなく、目を逸らすこともなく、真っ直ぐに彼らを見返して。

「貴様らは、先程の……婦女暴行犯ども!」

 言った。

 そういえば誤解解いてませんでした。

「違う違う違うからね? 違うんだってマジ冤罪」「むしろ誰があんな素っ頓狂大道芸人怪我させられたのかこっちが知りてェっての」「今わたしのこと、素っ頓狂大道芸人と仰いました?」「つかホント誰なんだよアンタ。高杉ヒカリに味方してんなら攘夷浪士?」「勉三さんだ!」「……マジで誰?」「……善意の一般通過市民です。以前お世話になったことが」「へえ〜まるで興味ねえがテロ幇助犯で逮捕でいいか?」「あらまァあなたがたが尋ねてきたというのに」

 ……それにしても眼鏡って、変装効果あるんだあ……。わたしにはどう見ても小太郎さんが眼鏡かけただけにしか見えませんけれども。

「ふん、おまえたちを相手にしている暇はない! こちらは忙しいのだ」

「悪巧みで?」

「鳳仙殿に百華全体と万事屋御一行で謀反を引き起こしましてね」

 わたしは簡潔に言った。

 わりと現状、ふざけて時間を浪費している場合でもない。

「さすがに百華と銀さんだけで本気の夜王と真正面衝突では、全滅しかねませんので。すこーしお手伝いを」

「……何が目的だ?」

「ちょっとした寄り道です。ところでお探しのお薬とやらは見つかりましたか? もしも見つかっていないのであれば、あなたがたが今渡る通路先曲がって降りてパイプの中に入って少し行った場所も探すとよろしいかと」

 死ぬほど嫌そうな顔を向けられた。

「……借りとは思わねえからな」

「まさか。かの高名な真選組に、この程度を借りと考えられるとはわたしとしてもまったくもって」

 わたしは口角を上げる。口元を訪問着の袖で隠——すのはまあ手錠があるので無理だとして。この手錠外してくださいませんかね。ともあれわたしは彼らを見下ろした。

「お仕事って大変ですものねえ、どうぞ本分をお勤めくださいな。一方で手配書発布もまだできていない、証拠も揃っていない、現在進行形で悪さを働くわけでもない攘夷浪士を捕まえて、あなたがたが得られる益とはいかほどにございましょう? はじめの目的を粛々と果たすべきかと存じますよ」

「クソアマ……」

「ああついでに、無辜の市民を守るが義務の警察諸君の皆様。鳳仙殿に逆らってとある子どもを逃がした遊女がいらっしゃるそうです。見かけた際には是非とも保護していただけますと、あなたがたへの市井の好感度が底辺から多少は上がるかもしれませんね?」

「こいつ今底辺っつった?」

 もしかしたら地下にめり込んでいらっしゃいますかねえ。吉原だけに。

「お名前はめす・ごりらさんと仰るそうですよ。見た目については……勉三さんが詳しいですね?」

「うむ。俺よりも背の高い、大柄な御方で、きらびやかな朱の衣装をまとっていた。気立てのいい御方であり、俺と一緒に晴太殿に手を貸して、共に牢を打ち破る共同作業を成し遂げたのだ」

 小太郎さんは説明して——小太郎さんよりも背の高い遊女って、成長ホルモン異常だとか?——彼もまた、真選組をジトリと見下ろす。

「……彼女を此奴らに任せるのは心底癪だが……」

「人員保護という点では、今の選択肢ではもっともましかと。銀さんたちにはさすがに余裕はありませんでしょう。わたしの方は、兄上に受け入れていただけないでしょうし、そもそも組織だっての保護には確実に向いていません」

「わかっている。しかし……身のこなしも素晴らしかったのだ。攘夷党に勧誘したかった」

「遊女を? やめて差し上げて」

 わたしたちが真選組に聞こえぬようにボソボソと会話する一方、彼らも彼らで、突然顔を見合わせ、額を突き合わせた。保護方法を相談しているのかもしれない。

「男以上に大柄の遊女、めす・ごりら……メスゴリラ? ンで赤い服……」

「俺めっちゃ嫌な予感がするんですけど」

「近藤さんじゃね?」

「言うな言うな言うなバカ」

「あの人なにやってんですかホント。てかセータ? セイタ? っていよいよ誰?」

「知らねーよ俺が聞きてェよ……」

「マあの御人が鳳仙に逆らったってこたァ、あいつらの鳳仙潰しも邪魔立てするもんじゃなさそうでェ」

「それはそう」

「話合わせますかとりあえず……」

 ごほんと咳払いひとつ、こちらに向き直った山崎さんが「あー、わかった、わかった! どっちみち、一般人の保護は警察の仕事だし」と、こちらに向かって叫ぶ。

「良いお返事でいらっしゃる。それではお頼み申し上げます——ごほ」

「あのさあマジでその咳止めてくんねィ?」

「わたしには咳をする権利すらも与えられない、なるほど……」

「真選組、ついに落ちるところまで落ちたか……」

「オイ今だけは見逃してやるけどな、てめえ絶ッ対ェソレは弁解しとけよ」

 本気で凄まれた。わたしは目を逸らした。

 お時間あって、気が向いたら、もしかしたらば。

「ところであなたがた、手錠の鍵くださいません?」

「やーだねッ、だァれが攘夷浪士なんざわざわざ解放するってんだ」

「ッチ……」

「こら、舌打ちしない。行儀が悪い」

「知りません。ふん」

 真選組とのわずかな邂逅はこのように。

 吉原を取り囲む壁に取り付けられた狭い通路や、張り出した梁、パイプを飛び移り、よじ登り、ぐんぐんと上部へと駆けていく。小太郎さんの背中にしがみつきながら、わたしは溜息をついた。

「本件が終わったあとに真選組を捕まえられなかったら、最悪叩き壊すしかありませんかねえ」

「危なくないか? ヘアピンで開けられるやもしれん」

「あるんですかヘアピン。開けられるんですか鍵」

「ワンパークのナミができるのだから俺でもできる。ヘアピンは、ほら、簪だとかそのあたりで代用を」

「き、期待薄……」

「失敬な。……あれか」

 吉原にはそぐわぬ、コンクリート製のコンパクトな施設、外観はプレハブ小屋に近いだろう。吉原全体の照明も届かぬ壁際に梯子がひっそりと取り付けられている。

 小太郎さんはやはり身軽にひょいひょいと登って、鉄板の張った上部に着地した。室内は薄暗く、窓は湿気と埃とカビで薄汚れている。長らく掃除もされていないのだろう。十年、二十年。造船所が廃れ、跡地に吉原が建築されて、その間ずっと。

 わたしは目をこらして室内を見た。

「……電源はついていますね。スイッチ脇の光が点灯している。あれは、人感センサー?」

「操作方法に見当はつくか?」

「中身を見たらばもしかしたらとは思うものの、断言はできません。鍵がかかっている……封鎖されているようですねえ。おそらく大当たり、とはいえまずこじ開ける方法かしら」

「であれば——ちょっと待て。一旦下ろすぞヒカリ」

「はい? はい」

 首から両腕を外して、すとんとその場に落とされた。小太郎さんはほとんど跳躍するが如く、踏み切って、駆けた。

 振り返る。わたしたちが登ってきた梯子とはまた別ルート、操作室に続くパイプを駆けてくる子どもが三人——銀さんのお連れさんの子たちと、晴太さん——そして、赤毛をなびかせ飛び込んでくる青年がひとり。

 神威さんは衝突直前に目を丸くしていた。

「あ、生きてた」

「失礼な御人ですね」

 晴太さんは小太郎さんの背後に回って、わたしを見て、顔をひきつらせた。

「なッ、なんでアンタが」

「こちらも失礼。まァわたしにその態度は正しいかと。見た目に気取られて、わざわざ油断する方が愚かなもの——」

 神威さんがわたしを一瞥したのはまさに一瞬のみのこと。万事屋の方々や、加勢に入った小太郎さんの相手の方がそれはもう魅力的でしょうとも。パイプの上では戦闘が繰り広げられ、砂埃が舞い散る。思わず咳き込むとまた血が散った。

「……大丈夫か?」

「……訂正しましょう。あなたも愚かです」

 さすが日輪さんの息子、とでも申し上げればよろしいのかしら。

 嘆息して身を起こす。

「操作室にご用事でしょうか。さて、面倒ですが……」

「じゃ、邪魔すんのか」

「いいえ。……なにか細くて、丈夫そうなものありません? そのへんに。殿方は揃いも揃ってお忙しいようですし」

 晴太さんはチラと背後を振り返ると、周囲を見回して、パッと走るとじきに廃材と思しき細いパイプを引きずってきた。このあたり本当にパイプだらけですね。

「それにしても、なんだかやけに素直ですね。先程はもう少し反抗的ではございませんでしたか?」

「アンタの言う通り、銀さんが生きてたから……」

「あなた孤児ですよね警戒心どこに落として来られた?」

「それにアンタと一緒にいた勉三さんはさっきおいらを助けてくれた。……勉三さん? 勉三さんじゃないのか? えっ、誰?」

「ああ……まあそのあたりは諸々、あのひとが悪いですね。あとで御本人に説明してもらいなさい」

 わたしはパイプを受け取ると、扉の前に立った。まあこの程度なら——手錠をかけられているので身動きは取りづらいにしても。

 振り下ろしたパイプは的確に扉の金具を叩く。ガタン、と音を立てて戸枠から外れた扉を蹴り飛ばす。

「……アンタすごいひとなの?」

「このようなことは銀さんも小太郎さんもできますよ。小太郎さんとは、先程の勉三さんのことですが」

「あの人誰なの……?」

 春雨で披露した通称曲芸、の縮小版だ。あのひとたちは必要ないからやらないだけで、なんなら兄上もできる。

 それにしてもこういうことばかりしているからわたしは大道芸人だの言われるわけですね。やかましいですよ。

「操作方法はわかりますか」

「母ちゃんから聞いた!」

「であれば……お任せします」

 わたしは口元を押さえて咳をすると、操作室の壁を伝って外に出た。本日ふたたび、音を立てて崩壊する巨大パイプ。そして——

「云業さん。けっきょく阿伏兎さんは見つかっていないのですか」

「……見つけてたら二人でどうにか団長止めてる」

 辟易とした顔で云業さんが操作室前に降り立った。そうですね。彼の視線が一瞬、操作室の中で必死に機械と睨めっこする晴太さんに向けられた。

「鳳仙の旦那に歯向かうなんざ。……アンタに言っても無駄か」

「どうしてわたしは今諦められたんですか?」

「本当に心当たりがないか?」

「おかしなことにたくさんありますねえ……あら云業さん、傘を開いた方がよろしいかと」

 先だっての地響きよりも大きく、確実に、音がする。吉原全体に広がる震動。我々は発生源に程近いので尚更ということもあるだろう。わたしは己の額の上に手をかざした。

「本日の天気予報は雲ひとつない晴れ模様。日傘が必要になりますね」

 かつて何度も見上げた天井、あの頃は何ひとつ変わらなかった空——音を立てて、隙間から、光が差し込んでいく。

 侍の国と呼ばれた時期は既に去りし過日の話。ここは吉原桃源郷。異邦人が住み着いて作り上げた幻想の国。

 しかし、ええ、日出ずる国は未だ健在です。

 どうぞこんにちは、ようこそ皆様、おいでくださいました。美しい国を照らすには、やはり、ネオンサインでは少しばかり物足りないというものでしょう。

 

   ➤

 

「まずい傘が曲がって開かねえ」

「少しお貸しください。えい」

   ガァン!

「直りました」

「曲芸っつうよりもはやテレビ斜め四五度で叩くやつだろ。……ひ、開く……」

「仰いますねえ。さて、云業さん。わたし今親切だったと思うのですよね」

「……」

「誤解しないでください。少しですよ、ほんのすこし。なにも神威さんのように屋敷を縦横無尽に駆けろとまでは強要いたしません。まして鳳仙殿に歯向かえだなんてとてもとても」

「……聞くだけ聞いてやる」

 

「鳳仙殿のところまで、連れて行っていただけますか」

 

   ➤

 

 短時間陽を浴びただけでも乾涸びて萎びた体躯は、なにもしなければじきに死ぬことが予測できた。

 とはいえたぶんこのまま日に焼かれていても、動けないだけで、死ぬまで半時間程度は持つのだ。日差しへの耐性が著しく下がっているから鳳仙殿はこうなっているだけで、短時間だけならば夜兎とて太陽の元でも動ける。そして著しく耐性が下がった状態でも、夜王鳳仙はさすがに夜王、夜兎の王であった。並みの夜兎ならばあれだけ陽光を避けて生活したらば、普通一分日差しの下に出ただけでも、死ぬ。

 ト、と云業さんに降ろされたわたしに、鳳仙殿がちらりと目を向ける。「は」と彼は笑ったようであった。

「わしの醜態を見物に来たか、暴れ馬——」

 日輪さんがわたしに視線を移し「ちょっ」目を見開く。慌てず構わずワンステップで振り切って——振り抜いた足が鳳仙殿の体躯を吹き飛ばした。素晴らしいクリーンヒット!

「は!?」

 経路上にいた銀さんが飛び退いて、その先、廊下の襖におじいさまが激突。

「あなた程の御方であれども、そこまで弱るとわたし如きの蹴りを避けられませんか。いやはや気分が良いですね、ッごほ」

 わたしの蹴りは、というより蹴りに限らず全体的な戦闘動作を含むが、あくまで全身を利用するから威力が出るのであって、当然、肋骨骨折血気胸状態でやらかすものではない。さっきより深く刺さった感じする。わたしってば愚かなり。

「や、やりやがった……」

 背後で絶句されている気配がしますね。

「な——なにしてんだァ!? トドメ刺しにきた!? 恨んでんの!? 死体蹴りするほど!? おまえもおまえで鳳仙となにかあったワケ!?」

「まさか」

 喚いた銀さんにさらりと返す。

「そのまま太陽に晒されていたら、じきに死ぬでしょう。まあもう上身は夜兎であろうと長期治療が必要な状態ですが……わたしは親切で行なっているのですよ」

 訪問時に脱いでそれきりだった上衣を顔面めがけて放る。鳳仙殿の動作はほとんどのろく、手指は震え、なんとか顔から上衣を引き剥がして彼はわたしを睨んだ。わたしは唇を結んで微笑んでみせる。

 まるで八年前、かつての立場をそっくりそのまま返したようですね。ここにお酒があったらよかったのに。

「……なんの真似だ?」

「お喋りに興じている体力なぞあるのかしら。けれどもそうですね。……借りを返しにきました」

 わたしは小首を傾げた。

「八年前、あなたの意図は所詮たかだか地球人の木っ端がどこまで踊るものか、見物する心算でしかなかったのでしょう——事実としてわたしは、あなたの気まぐれによって命を繋ぎました」

 夜鷹に落とされればさすがに、当時のわたしの体調では死んでいただろう。吉原の遊女でも最下層、顧みてくださる人なぞろくにいない。遣手婆の甲斐甲斐しい世話焼きは、吉原の中でもずいぶん希少な部類に入った。わたしは運が良かったのだ。

 もっとも大きく寄与した運は、夜王の気まぐれだった。

「そもそも、太陽の下で、好きな女の膝でお昼寝して、それで生涯終わり? なんとも素敵な最期ですねえ。……ああおかしい。本気でそのような夢が望めるとでも? あなたが作り出した常(﹅)世(﹅)が夢幻の桃源郷なれば、現世こそ真の地獄、三千大千世界に閉じ込められて解脱に届かぬ我々が未だ踏みしめる人間道にございます。なにを一足先に終わった気でいらっしゃるのかしら」

 瓦礫を乗り越えて、行儀は悪いけれど土足でわたしは廊下に踏み入った。

「先にも申し上げたでしょう。老若男女、誰であろうと——やさしくして、徐々に距離を詰めて、ものでも贈って、一緒にお出かけでもして、好意を伝えて。すべてはそれからではございませんか? この八年、彼女を閉じ込めて独り占めしたぶんのお返しは当然、なさいますよね? このまま愛のひとつも囁かずして立ち去るおつもりですか甲斐性なし。あなたの大好きなお天道様が許しても、わたしは——わたしは、許さない」

 咳き込むと血が垂れる。そもそもこれもよく考えれば、わたし程度の挑発に乗った短気な鳳仙殿のせいである。思い出したら腹が立ってきましたね。

「正面から向き合う意気地を発揮してから、なお死にたいならそのときは死ねばよろしいじゃありませんか。わたしが・知らない・ところで・せいぜい勝手にどうぞ」

 上衣を手のひらで引いて、鳳仙殿の上体を覆った。これで直射日光は当たるまい。おじいちゃんが触れた衣なぞどの道捨てるつもりでしたしね。ハイハイさよなら永遠に。心底癪に障るので、もうわたしの人生に顔を出さないでいただきたいですね。

「アンタ、もしかして」

 振り返ると、日輪さんが立てぬ足をなお伸ばして、わたしをまじまじと見ていた。

「〝ミツ〟かい?」

「ヒカリです。以後そのように」

 わたしは素っ気なく言った。顎を上げて、しゃがんでいらっしゃるぶん——当然、足の腱が切断されていればしゃがむしかない——少し低い位置の日輪さんを見下ろす。

「そもそもあなたもあなたですよ日輪さん」

「オイオイ飛び火させんのおまえこの期に及んで全方位に」

「この期に及んではこちらの台詞です。というか銀さん、少しお黙りくださいません? あなた先程から些か小うるさいですよ」

「あのな今回銀さん確実にMVPだからな乱入したのおまえの方な。甘ったれの末っ子がいい加減にしろよホントよォ……」

 心底ドン引きした様子の銀さんがそれでも口をつぐんだ。よろしい。

「釘を刺すんじゃあございませんでしたか。それを八年経ってもこの期に及んで未だに甘やかしてあなた、けっきょく言いたいことのひとつでも言えたのですか」

 日輪さんはわたしを見上げたまま、少し苦笑した様子だった。

「言いたいこと……マ、半分くらいは言えたよ。それで充分だろう」

「は? 足りません」

 なにをほざかれているのかまったくわからない。ふざけてるんじゃあありませんよ。こちらはまじめにお話ししているのですが?

 わたしは足音荒く踵を返した。どうせもう死にかけたおじいさんなぞに用はない。

「あなたは置かれた場所で咲くのを得意とし、鳳仙殿を理解するがあまりに、すべてを受容している。晴太さんと共にいたいならばいればいいじゃあありませんか。あのひとと共にいたかったならばそれを伝えればよろしいじゃありませんか。あのひとのくっだらない矜持なんざ粉々に打ち砕いてしまえばよろしかったじゃあございませんか。馬鹿な男に尽くす女は駄目な女と仰いましたけれどね、あなたがもっとも駄目なのは他でもなくそういうところです。充分、じゅうぶん? そんなはずない! わたし相手以外に惚気もろくに言えない有様で、なにが充分だと仰るのですか!?」

 動いて怒鳴ると肺が痛む。本当にそろそろだいぶ痛い。痛いだけなので無視をした。

 はしたないが、ふたたび廊下を大股で越えて、瓦を踏みつけて日輪さんの襟首を掴んで引き上げた。

「わたしはなんのために晴太さんを取り上げたのでしょう。なんのためにあなたがたの子育てを手伝ったのでしょう。なんのためにあなたが語る、あなたしか知らない鳳仙殿のお話を、延々聞かされ続けたのでしょう」

 なんのため? そんなの自分のために決まっている。当時のわたしに自身の生殺与奪の権はなかったからだ。見捨てると寝覚めが悪かったからだ。ご高名な日輪太夫と仲良くしているとちょっと得があったからだ。その延長線でしかない。たった一年、一年だけだ。なんなら日輪さんと接していたのはうち半年にも満たない。ほとんどの人は〝ミツ〟なんて芸妓が一時期いたことなぞ、とっくに忘れ去っている。

 こんなの誰がどう見ても、八つ当たり以外の何物でもない。

「あなたの献身がちょっとくらい報われてほしいと思ってしまったわたしが、まるで、馬鹿みたいじゃないですか」

 自覚をした上でなお、彼女を自分本位に責め立てるわたしを——日輪さんは、呆気に取られたように見ていた。

「アンタ」

「なんですか」

「泣いているのかい」

 わたしはパッと日輪さんから手を離し、目尻に触れた。……濡れる感触はない。そもそも瞳もふつうに乾いている。泣いているはずがなかった。まつ毛が目に入ったわけでもなし。なにを見間違えたんですかこのひと。

 まァ、妙な横槍で頭は冷えた。首を振って横髪をかき上げる。

「……これだから余計なことなんてするものじゃあないのですよね。向いてない向いてない」

 はーあとひとつ嘆息して、日輪さんから一歩引き、勝手に即席聴衆に仕立て上げてしまった皆様をぐるりと一瞥する。

「どうぞあとはご勝手に。もうわたしの用事は済みました。ああ、そのおじいちゃん今度こそ殺すならわたしが立ち去った後にしていただけると助かります。よく考えなくても実質的な悪の親玉でございますからね。なんならもう一度蹴り飛ばしたらいよいよトドメ刺しそうな死に体ですしね」

「ヒカリ」

「少しお黙りなさいと申し上げませんでしたかわたし」

「実際少しは黙ったろ、ンで話続けるけど」

 鳳仙殿との死闘できらめいた双眸はいったいどこへやら。いつもの死んだ目に戻った銀さんは、とん、と己の肩を木刀で叩いた。

「さっきヅラといなかった」

 死にかけていた有様でよくもまあ周囲を見ているものだ。鳥の巣かくやのクルクルパーの頭にはもしかして、眼球が何十個か隠れ潜んでいらっしゃいますか。

「ええ偶然鉢合わせましたね。それが」

「なんにも言わずに帰っていいの」

「用もございませんからね」

「俺はさあ。昔馴染がもーちょっとマシなツラしてくれてねえと今日の酒がまずくなるわけ。おまえもおまえなんだけどあっちもあっちなんだわな。なんッで揃いも揃って物分かりのいいようなツラすンだか、さっきの大暴走自分にそっくりそのまま返した方がいいぜ」

「え? その満身創痍でお酒を入れるおつもりでいらっしゃる? あなたってばつくづくと寿命縮めるのがお好きですねえ」

「俺ァ今とんでもなく疲れてるからね。話題軽くしてェの察しても乗ってやるほど優しかねえよ。品切れしてンの。そこになければないです。……逃げるのか」

 奥歯を噛む。そもそも人前でする話ですかこれ。ふたりきりなどどうにかしてセッティングされた暁には確実に逃げますが。

「……しません」

「わかってんだろ」

「わかっています。しません。話すことはなにもありません。本日は特殊な立場でしたから。それももうおしまいです——桃源郷にも朝が来ました。ここは既に常夜ではなく、であれば常(﹅)世(﹅)でもございません。ただの現世です」

 我々が踏みしめるは未だ人間道。人の欲には果てがなく、そこに悟りはなく、ゆえに解脱はなく、三千大千世界の片隅で隣り合わせの世を知ることなく息をしている。

「意地張るな」

「張ってません」

「あのなあヒカリ、」

「単なる知人であろうと、友人であろうと、幼馴染みであろうと、師であろうと、兄であろうと、わたしは——すこしでもすきだと思ったひとには、どうか、報われてほしいので」

 呼吸の間隙に口元を拭う。

「話すことは、なにも」

「……報われる、の定義を辞書で引くべきかもな。お勉強できたくせに頭でっかちになりやがって……」

「そもそもなにを話すというのですか」

 わたしは思わず笑った。

「わたしを置いて行ったのはあなたがたの方でしょう」

 銀さんの頬がわずかにこわばった。

「もう待つのはとうに飽きました。わたしもわたしで、好きなように、好きなことをしていたいです。けれどまだ死ねない。まだ死ねないから壊すしかないじゃあございませんか。それで、そんなこと、話したところでなんになるんです? わたしだってあなたがたにそんな顔をさせたいわけじゃあないのです。無意味な話をしたってなんにもならない、苦しませたくない、どうか幸せになってほしい……」

 どうか、どうか、しあわせになってほしい。好きな人でも作ってそのひとと添い遂げてほしい。新しい仲間がいるなら新たな日常を穏やかに続けてほしい。ときには美味しいものでも食べてほしい。旅行に行ってもいいだろう。イベントごとでは馬鹿騒ぎをしていてほしい。日常でバカなことやらかしていたってそれでもいい。

 もっともそれだけとはいかないからこそ彼らだ。兄上はそもそも全部壊すつもりだからどのみち平穏は程遠いだろうけれども。

 兄上が最初に迎えに来てくれたから、手段が破壊になっただけ——そうだろうか。そうかもしれない。けれど性に合っているのは確かだ。あそこは居心地がいい。兄上はわたしを気遣うけれど、それ以上にわたしの意思を尊重して、使い倒してくださるので。それでいい。それがいい。

 薄々自覚があるのだ。真正面から向き合ったら、今度こそわたしは耐えきれない。

「……でも、どうせ置いていくならはやく忘れてくれればいいのに、とか、言ったらそれこそ傷つけるでしょ……」

 置いていくなら、どうか、到底手の届かないところまで走っていってほしかった。置き去りにしたもののことをなにもかもさっぱり忘れ去ってしまってほしかった。そうしたらばわたしとて、心底から傷ついてそれっきりで済んだのに。

 一方で、その程度の人々であったなら、そもそもわたしの記憶に焼きついて離れないこともないだろう。どうしてなかなか儘ならない。

 現世の地獄を歩く中、蜘蛛の糸より頼りないものを掴んで、いまだに正気を保っている。

「……それにしても兄上も今まで、ここまでつついてきやしませんでしたよ。本当あなたってば昔っからお節介ですね」

「……ハー。クソ」

 銀さんがぐしゃぐしゃと己の髪を掻き回す。イテッと呻いた。傷に障ったんでしょうね、まったく可哀想に。

「そもそもあいつらが甘やかすからいつも俺がこうやって貧乏くじ引いてんだよ。マジでいつもだ。いい加減にしろ」

「まあ久しぶりのお説教はなかなかに耳に痛いものでした。気には留めましょう、気が向いたらの話になりますけれど」

「こ、こいつ本当頑固……兄貴が兄貴なら妹も妹ってかボケ……」

「修羅場終わった?」

「はい、終わりました」

「こいつマジで……」

 ひょいと背中をつままれて、後ろに放られる。云業さんに受け止められた——さすがに慣れてきたのかと思いきや、途端にガチンと硬直するので、わたしは一度降りてから腕に乗り上げてあげた。耐性つけてくださいね。

 神威さんはすたすたと屋根に上がり込み、瓦の残骸を雑に足先で掃いた。

「旦那はここまでやられといてうっかり生き延びちゃうし。あ、旦那ァ。夜王の座は譲ってくださいます?」

 鳳仙殿の回答はない。

「もともと殺す気失せてたけど、瀕死のじいさんトドメ刺してもいよいよ面白くないしな……」

 神威さんが顎に手を当てて独りごつ。きらりと青い目がひかった。

「云業、そいつつけるから先に阿伏兎探してきてよ。レーダーぐらいにはなるでしょ」

 わたしって便利道具だと思われてます?

「俺もう暴れたりしないからさあ」

「……いや」

「阿伏兎にソイツ見張ってろって言われてたよなー。でも途中まんまと取られてたよなー。信用失っちゃうかもなー。俺ってばうっかり口滑っちゃうかもー」

「もとはといえば途中取られたのは団長の。……行けばいいんだろ行けば」

「お可哀想に」

 嘆息した云業さんが屋根から飛び降りる——直前。

「暴れ馬」

「……ヒカリですが」

 わたしは、破損した襖のさらに奥を見やる。この角度からでは、倒れ伏した鳳仙殿の様子はまるでわからなかった。

「余計な、ことを」

「……はは」

 唸るような物言いに、口角が上がる。八年前、ほとんど捨て置かれて、ゆえに命拾いしたかつてのわたしからしてみれば、到底考えられないような状況だ。

「この借りは、高く、つくぞ」

「あらまあ。わたしは今回、それこそかつての借りを返しただけですけれども」

 もっともわたしが八年根に持っていたように、鳳仙殿の執着は並大抵ではないのかも。

 ひとまず鼻で笑っておく。

「返せるころにまだ生きていると良いですね、お互いに」

 銀さんが明確に顔をしかめた。

 今度こそ云業さんはわたしを抱えて、さっさと飛び降りた。本殿の様子を俯瞰する。小太郎さんに運ばれている最中にも思っていたが——外装が一部、妙に破損している。銀さんと鳳仙殿の戦い、にしては位置がおかしい。

「……道中、本殿の外壁を破壊した覚えはございますか?」

「は? いや……」

「……あそこの破損箇所まで寄ってください。それから下方に降りるようにしていただけると助かります」

 云業さんは頷いた。それにしてもこのひと素直で助かりますねえ。女慣れしていないことを除いたらそれこそ部下にほしいですねえ。春雨のひとだしだめですかねえ。だめですよねえ。

 

   ➤

 

「団長、こっちだ」

「あ、いたいた云業。なーんだ、阿伏兎もいるじゃん。負けたやつに興味ないんだけど」

「はン、手厳しいねえ」

「……これご指摘するのは野暮なんですかねえ」

「なに?」

「野暮らしいですねえ。ちなみに云業さん、この手錠って壊せそうですか?」

「……壊せなくもねえがアンタまた暴れねえだろうな」

「わたしって信用ゼロなんですか?」

「どうして信用なんぞがあると思った?」

「え゙、なんかやらかしたのかアンタら」

「面白かったよ〜阿伏兎も見ればよかっ。……ウン? アンタら(﹅)? 俺さすがにこいつほど暴れてないから濡れ衣だよ」

「さすがにンなわけねえだろ」

「ホントだからね?」

 

   ➤

 

「満身創痍だな銀時。月見酒と洒落込んでないで寝たらどうだ、その身で酒なぞ毒だろう」

「うるせ。アッ勝手に注ぎやがって、おまえも大概怪我してるくせによぉ!」

「おまえよりマシ」

「いやいやいやおまえも大概大概」

「おまえより確実にマシ! ふっ、残念だな、取り返そうにももう飲んだ。口つけちゃいました〜吐かねば出てきません〜」

「ロン毛くんいっぺんぶん殴っていい? マジふざけんなよその直毛刈り取ってカツラにしてやろうか」

「桂だ桂。アレカツラ? まあまあまあアンタもほら」

「まあまあまあじゃねえのよ男に酌されてもなにも楽しかねンだわ。ハァもう。……で、ずっとスタンバってたてめーはどうなの」

「まあ。……うん。知っている。今日など何度も、わりと直球に他の女を勧められたからな」

「あいつマジでひどいねー!?」

「いや本当に心底ひどい。なにがひどいって、俺の前では笑っているのが一番ひどい」

「……うわー、ないわー……」

「昔は俺の前ではよく泣いたのに。おまえたちが泣かして泣きついてくるから」

「……っぱこの期に及んで惚気てくるおまえが一番ないわー……」

「あんなにちっちゃかった子がまあ……」

「うん指で示されてもな、一寸法師のサイズだよねソレは」

 

「あのよォ。……ヅラさあ、おまえもう諦めちまえば?」

 

「……桂だ」

「……おまえだってわかってんだろ。なにがあったか知らねえけど。なんかあったんだろアレ。でもなきゃなんであんな——とにかく。変わってねえけど、変わっちまってるよ。高杉が見てて手ェ貸してようやっとなんだろ。そんなんさあ、」

「確かに、おまえの言葉は今回ばかりは正しいだろう。だが銀時」

 

「寝取りは諦めたらそこで試合終了だと安西先生も言っている」

「オイ安西先生の名言を穢すな末代の恥が」

 

「わかった。好きにやってろ。もう俺は知らねえ。ホントに知らん。言ったからな。言いましたからね銀さん。ケッ独り身の前でさんざっぱらイチャついて挙句の果てに惚気かよやってらんねえゼッテーもう首突っ込まねえ勝手に火傷してろバーカ」

「はっはっは。まったくー、ほっとけないくせにー」

「全体的にうるせえからなマジで!」

 

   ➤

 

 ちなみに肋骨骨折はしっかり肋骨骨折だったし、血気胸は血気胸だったし、なんなら帰還したその足で手術室に叩き込まれた。血気胸って悪化しすぎると開胸手術コースなのですよ。血を抜いて患部塞いで肺を膨らませ直す必要がありましてね。

 ところで全身麻酔って初めて受けましたけれど、本当にスコーンと消えるんですね、意識。またひとつ賢くなったなあ。

 怪我に関しては、やっぱり夜兎の拳は非常に重く、加えてほとんど抱えられていたとはいえ飛んだり跳ねたり、大道芸をやったり、諸々の間に悪化したらしい。なにが効いたのだろう。最後に蹴り飛ばしたり胸ぐら掴んだりしていたのがいけなかったのかしら。であればほとんどは鳳仙殿のせいでは? まったく傍迷惑なおじいさんでいらっしゃいますね。

「おまえいったい、なに仕出かしたら、案内役として派遣されといてここまで怪我してこれンだろうな?」

「ほふ(頬)ァ〜!」

「ア゙? オイ弁明もねえのか」

「また怒られてる」

「子どもの叱られ方でござる」

「実際なにをすればこうなるのでしょうねえ」

「骨折れてもそのへん飛び回ったとか?」

「アホであるなあ」

「ンッで紅桜だの真選組相手取ってた件だのの方がまだましな容態なんだよ。前回そのやる気があったンなら真選組潰せただろ。配分狂ってんのか? そろそろ大概にしねえとその首首輪繋ぐぞ」

「やでふ(す)」

 駄々をこねると、つままれたままの頬をぐいーっと引っ張られた。いたーい!

 離された頬を押さえてまるで被害者のような顔で兄上を見上げると、パシンと頭を叩かれた。暴君ですよこのひと。ハラスメントだ。ドメスティック・バイオレンスだ。どちらにせよ鬼兵隊に相談窓口なぞなくあったとしてワンマン兄上の暴力など握り潰される、それはそう。

 それ以前にわたしの自業自得、それは本当に間違いなくそう。

「吉原は春雨第七師団の支配下に置かれるそうだな」

「そうですね、そういう話になったとか」

「鳳仙は再起不能だと」

「ハッ」

 うっかり喜んでしまい「……あ、申し訳ありません。失敬」わたしは慌てて口元を隠した。

「今、夜王を鼻で笑いましたね……」

「原因のひとつは鳳仙、と……」

「誘導尋問ひどいですね」

「てめえが勝手に躓いてンのも俺のせいか? なァ」

 頬をまたつままれてぐりぐりと回されるので「ねえ、伸びます、ホント……あの!? シワになったらどうしてくださるのですか!?」「は? どうもしねえが。勝手に伸びてろ」「ひどい……」訴えたものの、まるで効果はなかった。

「……銀髪の侍が関わったって?」

 空気がわずかに変わる。河上さんの顔から笑みが抜け、武市さんが姿勢を正し、また子さんが少し眉をひそめた。

 わたしは痛む頬を指で宥めながら、記憶を想起する。紅桜、動乱、我々は銀さんと顔を合わせることになった。皆様もその強さを既に——知っている。

「……兄上も夜兎の力で壁に叩きつけられてなお頭蓋骨が割れない化け物だったりします?」

「おまえはつくづく、心底、相ッ変わらず懲りねえなあヒカリチャンよォ」

「イッイタタッ顎割れちゃいます」

 わたしを〝ちゃん〟呼びするときは、少なくとも兄上はいずれもめちゃくちゃ怒っているときだった。許してください!

 ゴリゴリとひとの顎を指圧するだけして(ほ、本当に痛い……)ぱっと指が離れた。わたしは宥める箇所が頬から顎に変わった。

「いたひ……まァ実際、本件のお騒がせマンにしてMVP賞でしょうね。今回の騒動の発端ともいえますし、鳳仙殿に歯向かって食らいついて最終的にトドメを刺したのもあのひとでした」

「春雨の内部抗争はあくまで体か」

「鳳仙殿が実際もう春雨所属でいいのかどうか怪しいので、内部抗争、という表現自体が些か妙ではございますが……少なくとも、それすら表向きです。鳳仙殿は春雨の要求はまるまる通すつもりで、談合は固まっておりましたので」

 本当に、吉原以外——日輪さん以外に鳳仙殿はまるきり心底興味がなかった。問題になったのはすべて晴太さんと日輪さんにまつわる悲喜交交、そうしてお節介に首突っ込んできた万事屋御一行と巻き込まれて巻き込みに行った愉快な仲間たちである。

 その一部に、神威さんもまた加わった。

「春雨の雷槍、その団長殿はどうやら地球の侍がお気に召したご様子。……兄上と河上さんは狙われるやもしれませんね?」

 茶化すと、ふたりは顔を見合わせて、片方は鼻を鳴らし、片方は肩をすくめた。

「つっても同盟相手ッスよね、さすがにそこまで……」

「この骨折ったの団長の神威さんなのでぜんぜんあり得るかなって」

「ヒカリ様もう春雨案件に噛むのやめません? なンかあったら私行きますよ。全員蹴倒してくるッス。この来島また子に任せて」

「ん、ンー?」

 わたしがやらかし過ぎたせいかしら、とうとう年下の女の子に真面目に心配され始めた。そんなに情けない格好ですか今のわたしは。まあ骨を折ったのは神威さんと鳳仙殿のせいだけども、発端はわたしの挑発で、悪化したのもわたしの日頃の行いといえばそうなので。なんというか。なんとも。

 不意に、髪に触れられる感触に目をまたたく。兄上がわたしの髪の尻尾を持ち上げて、先を結んだ髪紐を一瞥した。

「懲りねえやつ」

 独りごちて手を離す。

「多少は懲りてます。……たぶん」

「たぶんじゃねンだよてめえはいい加減多少じゃなくまともに懲りろ。……まァ今のはおまえの話じゃあねえ」

「左様にございますか〜」

 わたしのこめかみを拳で小突いたあと、「さっさと治せ」兄上はヒラヒラと手を振って退室した。幹部陣揃って取り残されましたね。

「……今のはなんだ?」

「マ懲りないのは皆様お互い様ってお話ですね」

 これにて本件はおしまい。真選組動乱の際の河上さんには及ばないにしろ、しばらくわたしは事務仕事でカンヅメですかね。社畜ってたいへんで、それは破壊活動組織でもあんまり変わらないのだった。めでたしめでたし。

 ……めでたし?

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