堕ちゆく光の翼――ノースフライト 作:ぬべべ
朝霜が降りる、4月中旬の朝。
正門をくぐると、芝の匂いが流れてくる。
まだ本格的に日が昇りきっていない時間だというのに、レース場の方からはウマ娘たちが走る足音が聞こえていた。
「おはようございま~す」
「やぁ、おはよう」
振り返ると、寮から出てきたであろう数人のウマ娘たちが、談笑して歩いてきている。
その背中を見送りながら、オレは胸元に手を当てた。
オレに担当してほしい子かと、ちょっと期待したが、そんなことはなかった。
「まぁ、いつも通りの光景だな……」
声をかけてくれるから、清潔感はあるはずなのだが……、やはりトレーナーとして、何かが足りないのだろうか?
ネクタイの結び目に手が触れる。
なんか、ズレている気がしたので、指で押し上げ結び直す。
「よし、これで良いだろう」
トレーナー室へ入ると、椅子に座って、ファイルを開いた。
デビュー前のウマ娘たちの名簿を見る。
担当できたらいいなと思う候補のプロフィールが並んでいる。
身長、脚質、過去の模擬レースの記録……もちろん、健康診断の結果もだ。
どの子も磨けば光るダイヤモンドのような素材だ。
簡単には判断できない。
ページをめくるたび、鉛筆で小さな印をつけていく。
(この子はスタートが安定している。でも終盤の伸びが足りない。うーん、この子は集中力が続かないか……)
だがこれら欠点も長所になり得るし、トレーナーの力量によって矯正することだって可能だ。
そこはトレーナーとしての腕が試される部分だろう。
考え込んでいるうちに、ノックの音がして我に返る。
「失礼します」
顔を上げると、後輩の男性トレーナーが書類を抱えて立っていた。
「この前の合同トレーニングの報告、共有しておきますね」
「おお、ありがとう」
「それから先輩、昨日のメモは助かりました。あの子、午後もフォームを見直すそうですよ」
「そうか。なら、終盤の腕の振りも――」
そこまで言って、俺は口を閉じた。
実際に見ている彼らの方が、よく分かっているはずだし。
「いや、何でもない。また何かあったら教えてくれ」
書類を受け取って、机に置く。
ドアが閉まる音が、1人残された部屋に静かに響いた。
午後になっても、ほとんどが見学だった。
グラウンド脇のフェンスに寄りかかり、走る姿を目で追う。
土を蹴る音。息遣い。フォームの癖。
ノートにメモを取りながら、何度も首を傾げる。
レース場では、別のトレーナーが担当ウマ娘に声を飛ばしていた。
「ラストもう一本いけ!」
力強い声に応えるように、そのウマ娘の脚が加速する。
(――いいな。オレも、あんなふうに声をかけてみたい)
オレは2年目のトレーナーだ……だが、まだ担当が1人も決まっていない。
すでにさきほどの後輩トレーナーは、ベテランの下について、サブとして研鑽を重ねている。
オレはというと、そういったチャンスを去年、インフルエンザや体調不良で逃してしまい、目下ひとりで担当を探しているのだ。
ノートを閉じ、もう一度グラウンドを見る。
風が吹き抜け、芝が揺れる。
トレーナーとしての実績を積めなければ、どうなるのだろうか。
考えたが……、止めた。
夕方、トレーナー室の鍵をかけ、廊下へ出る。
校門を出たところで、ポケットの中が小さく震えた。
ピロン♪
スマートフォンを取り出して、画面を点灯させる。
『ねえ、ちょっとお願いあるんだけどさ』
表示された文字を見て、息を吐いた。
(……あぁ、またか)
風が、ネクタイの先をわずかに揺らす。
親指を画面の上で止めたまま、数秒考えて――返信した。
『どうした?』
送信すると、ほとんど間を置かずに既読が付いた。
『今月ピンチでさ。少しだけ助けてくれない?』
"少しだけ"
その言葉を、オレは画面越しにゆっくり上から下まで眺めた。
前にも、同じ言い方をしていた気がする。
その前も、そのまた前も同じだった。
視線を上げると、学園の照明が背後で淡く光っていた。
グラウンドのほうから、まだ誰かが走る音がする。
オレは歩きながら、財布を取り出した。
中には折りたたんだレシートが数枚と、わずかな紙幣。
「今月は厳しいんだけど、仕方ないよな……困ってるんなら」
小さく呟き、銀行アプリの振込画面を開く。
口座番号は、登録済みの履歴からすぐに表示された。
金額を入力し、確認画面をスクロールする。
送金ボタンの上で、指が少しだけ止まる。
――トレーナーの仕事は、まだ軌道に乗っていない。
――でも、困っているなら。
――頼ってくれて、いるのなら。
ボタンを押した。
処理完了の表示が現れる。
すぐに通知が届く。
『ほんと助かる~!』
そのあとに続くスタンプが、画面の中で大げさに笑っていた。
スマートフォンをポケットにしまい、歩道の端で足を止める。
街灯に照らされたアスファルトを、しばらく見つめた。
「あいつと付き合って、何年目だっけ……」
――
休日の昼下がり。
都内の総合ショッピングモールは、家族連れやカップルで賑わっていた。
笑い声と足音が反響する中を、一人で歩いている男は、たぶんオレくらいのものだろう。
(……そういえば、あいつと出かけることなんて、もうずっとないな)
オレには一応、同い年の恋人がいる。
須藤まゆみ。
学生のころに知り合った相手だ。
――あたしたちさ、付き合おっか。
あのときの言葉だけは、今でも覚えている。
嬉しかったのかどうかは、正直よく覚えていない。
気づけば、付き合うと口約束しただけの関係が、いまも続いている。
会う約束はほとんどなく、仕事の話を送っても、返事は忘れた頃に来る。
それでも金を頼まれた画面にだけは、昨日もすぐに返信した。
別れようと、自分から言ったことはない。
傷つけたくない。
今は仕事で忙しい。
そんな言い訳をするうちに、何年も経っていた。
吹き抜けの天井から差し込む光が、白い床に反射してまぶしい。
どこからか甘いポップコーンの匂いが流れてきて、子どもの笑い声が遠くで弾ける。
どこかそんな、休日の空気に酔いそうだった。
(オレがここにいるのは、なんか場違いな気がする)
少し離れて、エスカレーターを降りてすぐの紳士服売り場に、なんとなく脚を運んだ。
整然と並ぶマネキンたちは、どれも姿勢が良く、自信に満ちて見えた。
その横を通り過ぎ、ハンガーに掛かったジャケットの列に目を細める。
「……うーむ、違いが分からない」
黒。紺。灰色。
似たような色がずらりと並んでいる。
タグをめくって値段を見る。
「たけぇ……」
ファッションなんて考えたこともなかった。
TPOは分かるが、それとはまた違うのだろう。
「痛々しいファッションになったら、それはそれで不味いしな」
鏡に向かって、背筋を伸ばしてみる。
顎も上げた。上げすぎた。なんだか、相手を睨んでいるみたいだ。
後輩に言いかけたことなら、ノートには最後まで書いてある。
終盤の腕の振りも、見た方がいい。
あいつの前で、その続きまで言えていたら。
鏡の中の男は、またいつもの立ち方に戻っていた。
せめて服なら、変えられるだろうか。
もう一度、ジャケットの列を見る。
……どれからだ。
ハンガーに掛かった一着を取り、鏡の前に立つ。
肩に合わせてみる。
サイズは合っている。
だが。
「……これでいいのか?」
鏡の中の自分は、特に印象は変わっていない。
服だけが浮いているようなものだ。
やっぱり、オレには難しかったか。
諦めて帰ろうと、ハンガーを戻した――その時。
「何か、お悩みですか?」
不意に、横から声がした。
反射的に振り向く。
その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先を掠める。
花のような、それでいて重すぎない香水の匂い。
「えっと……?」
「あ、急にごめんなさい」
ピンク色の、ヒラヒラがついたシックな服。
長いスカート。
背筋がすっと伸びていて、立ち方に迷いがない。
ピンク色のメッシュが入った髪が、空調の風にふわりと揺れた。
それが、オレとノースフライトの、初めての出会いだった。