堕ちゆく光の翼――ノースフライト 作:ぬべべ
その日の帰り際、校門の近くでフライトを見かけた。
彼女はひとりではなかった。
少し年上の女性と並んで歩いている。
「お姉ちゃん、今日は来てくれてありがとう」
「近くまで用事があっただけ。フライトの顔も見たかったしね」
少し会話を聞いていたが……姉妹だろうか?
「無理してない? 最近、画面通話でも、眠たそうにしているから、心配してるんだけど」
「し、してないよ! 全然」
「本当に?」
「ほ、ほんとほんと! ほんとだって!」
フライトがワタワタと両手を胸の前で振る。
女性はその顔を見て、少し困ったように笑った。
「その顔をしてる時ほど、信用ならないんだけどなー?」
「えー……んもう、お姉ちゃんの意地悪」
フライトは頬を膨らませる。
そのやり取りは親しげだった。
同時に、女性の目は真剣で。
二人の別れ際、彼女はこちらに気づいた。
「あら、あなたは?」
「あ、トレーナーさん」
「……、ああ、もしかしてフライトの走りを見てくれていたトレーナーさん?」
女性は品定めするように、じろーっとオレを上から下まで見た。
「え、ああ。はい」
服装を見られているのか、人となりを見られているのか分からない。
「そうなんですね……、あの、少しだけ、話しても良いですか?」
フライトが不安そうにこちらを見る。
「お姉ちゃん?」
「大丈夫。変なことは言わないから」
――――――
フライトだけを残して、オレたちは近くのベンチへ移動した。
夕方の学園には、練習を終えたウマ娘たちの声が遠く響いていた。
「あの子、小さい頃からずっと走りたがってたんです」
女性はグラウンドの方を見る。
はなしを聞くと、どうやら彼女は昔、フライトが所属していた地元のクラブチームでコーチをしていた人らしい。
「身体が強い方じゃないのは、本人も分かっているんです。昔は、練習を休むたびに私へ謝っていました。誰も責めてなんかいないのに」
以前ウイニングチケットを見送ったあと、スタートの掛け声に、フライトの爪先がコースへ向いたことを思い出した。
「最近は、笑って『分かってる』『大丈夫』って言うんです。それで、何でもない顔をしてノートを開くんです」
さぁっと風が吹いた。
グラウンドの方から、誰かの掛け声が聞こえる。
「失礼を承知で、申し上げます。もしあなたが、ただ同情するだけなら……声をかけないであげてください」
彼女の声は穏やかだった。
だが、その言葉には重たい芯がある。
返す言葉に迷った。
興味本位ではない。
そう言いたかった。
だが、その時点で自信を持って言えるほど、オレはフライトのことを知らない。
だから、今は。
「……分かりました」
そう答えるしかなかった。
女性は少しだけ目を細める。
「変な人ね。普通は、もっと言い返すのに」
「言い返せるほど、あなたほど、彼女のことを、たくさん知っているわけではないので」
そう言うと、女性は小さく笑った。
「なら、ちゃんと本人に聞いてあげて。もし本当に、ふーちゃんを支えてあげられる自信があるのなら……お願いします」
その言葉だけを残して、彼女はフライトの方へ戻っていった。
◇◇◇◇
翌日。
オレはフライトを学園内のカフェへ誘った。
昼過ぎのカフェは、授業を終えた生徒たちでほどよく賑わっている。
窓際の席には柔らかい光が差し込み、テーブルの上のグラスに小さな反射を作っていた。
フライトは向かいの席で、紅茶のカップを両手で包んでいる。
「昨日、お姉ちゃんと話したんですね」
「ああ、少しだけね」
「何を言われました?」
笑顔だった。
だが、指先はカップの取っ手を少し強く握っていた。
「本人に聞いてあげて、って」
フライトが瞬きをする。
「だから聞きたい。君は、このトゥインクルシリーズで、どうなりたい?」
カフェのざわめきが少し遠くなった気がした。
フライトはカップへ視線を落とす。
湯気が、彼女の睫毛の前で淡く揺れる。
「走りたい、です」
短い言葉だった。
「でも、それだけじゃありません」
彼女は顔を上げる。
「私は、いろんな自分になりたいんです。短距離、マイル、中距離。三つの距離で勝つ、三階級制覇を目指したい」
「距離を、一つに決めたくない?」
フライトは頷いた。
「短い距離で軽やかに飛ぶ私も、もっと長く走って違う景色を見る私も、全部見てみたい。服だって、一着だけが私じゃありませんから」
そこで、少しだけ笑う。
「おかしいと思われても仕方がありません。無理だと思われる方も多いでしょう。デビューさえできるか分からないのに、決して身体も強くないのに……」
言葉の端が静かになった。
フライトはカップから手を離し、膝の上で指を重ねた。
「分かって、いるん、ですけど……っ」
その指先に力がこもる。
「諦めたくない……私は、諦めたくないんです」
胸の奥で、何かが動いた。
諦めたくない。
その言葉は、以前に売り場で聞いたどんな説明よりも、ウキウキとファッション選びを手伝ってくれた姿よりも。
ずっと彼女に似合っていた。
「あはは、変……ですよね?」
「変じゃないよ」
「え?」
ほとんど反射的に答えていた。
フライトが目を丸くする。
「変じゃない。オレも、諦めたくないことが何個もある」
「トレーナーさん……」
もう一度、今度は少しゆっくり言った。
その時はまだ、何ができるのか分からなかった。
担当になると決めていたわけでもない。
ただ、彼女のその言葉を、簡単に切り捨てたくはなかった。
◇◇◇◇
数日後、フライトは倒れた。
倒れたと言っても、大きな事故ではない。
自主練の途中で足を止め、近くのベンチに手をついた。顔色が悪いことに気づいた別の生徒が声をかけ、保健室へ運ばれた。
報告を聞いた時、心臓が嫌な音を立てた。
保健室へ向かう廊下が、やけに長く感じた。
「大丈夫です」
ベッドの上で、フライトはそう言った。
掛けられた白い毛布の下から、彼女の耳だけが少し見えている。
「少しだけ、立ちくらみみたいになっただけで」
「少しだけで保健室に運ばれるか」
「それは……」
フライトは言葉を探すように視線を泳がせた。
オレは椅子へ腰を下ろす。
「無理したのか」
「……少しだけ」
小さな声だった。
「チケットちゃんたちが頑張っているのを見ていたら、私も、もう少しだけ走れる気がして」
怒るべきなのかもしれない。
だが、その前に胸が痛んだ。
保健室の先生が、しばらく休めば問題ないと告げた。
水分を取らせ、今日はもう練習しないこと。
念のため、しばらく様子を見ること。
フライトは素直に頷いた。
その時、ベッド脇の鞄から一冊のノートが滑り落ちた。
床に落ち、ぱらりとページが開く。
「あ」
フライトが身体を起こそうとする。
反射的にそれを止め、オレはノートを拾い上げた。
閉じるつもりだったが、開いたページに書かれていた文字が目に入る。
短距離。
マイル。
中距離。
それぞれの項目に、走った日の体調、息の入り方、脚の残り方、疲労感が細かく記録されている。
余白には、勝負服らしいスケッチと、小さな羽のマーク。
表紙には、小さな数字が貼られていた。
12。
「……これ」
思わず声が出る。
フライトは視線を逸らした。
「……見ました?」
「すまない、開いたところだけだ」
「いえ……トレーナーさんになら構いません。そもそも、落としたのは私ですから」
彼女は少し困ったように笑う。
「十二冊目、なんですよ」
さらりと言った。
オレはノートを両手で持ったまま、言葉を失った。
「最初は、ただの練習日誌でした。でも、途中から距離ごとに分けたり、体調も書いたり、服のスケッチも混ざったりして。気づいたら、増えてて」
フライトは毛布の端を指先で撫でた。
ノートをそっと返すと、彼女はそれを受け取り、胸元に抱えた。
十二冊。
たった一言の夢のためではない。
さっき考えたような思いつきでもない。
彼女はずっと、夢のために準備をしている。
飛び立つ前の滑走路で、飛び立つための身体を整備し、どのように飛ぶか、どんな航路を行くか、何度も何度もシミュレーションを重ねていた。
諦めそうになりながらも、それでも"諦めきれず"に。
◇◇◇◇
その夜、トレーナー室に残って、オレは資料を広げていた。
フライトの過去の走行データに、医務室の注意事項を書き足していく
机の端には、フライトと共に選んだジャケットが掛けてある。
鉛筆を置きかけ、もう一度、PCへ目を戻した。
あの日まで、彼女は何度ノートを開いたのだろう。
オレはメニュー表を引き寄せる
一番上に、短距離、マイル、中距離と書いて。
休養日を先に書き、その前後へ、短いジョグと、体調を確かめる欄を作って。
日付が変わっても、椅子の背へ手をかけ、立ち上がりかけて、また座る。
「俺は、……あの子のトレーナーになりたい」
◇◇◇◇
翌日の夕方。
グラウンドには、練習後の静けさが戻り始めていた。
遠くで片付けをする生徒の声が聞こえ、芝の上を夕風が渡っていく。
フライトはフェンスのそばに立っていた。
昨日より顔色は良い。
だが、少しだけ気まずそうだった。
「昨日は、ご心配をおかけしました」
先に頭を下げられる。
「体調は?」
「大丈夫です。保健室の先生にも、今日は軽く歩くだけなら良いと言われました」
「そうか」
そこで会話が途切れる。
フライトは視線をグラウンドへ向けた。
走っているウマ娘たちを見ている。
羨ましそうに。
でも、羨ましいと言わずに。
「フライト」
彼女がこちらを向く。
オレは少しだけ息を吸った。
格好いい言葉は出てこない。
だが、オレはオレの……無理に"着飾った言葉"ではない、オレの言葉で、オレの想いを伝える。
「君の全部を叶えられるなんて、今は言えない」
フライトの耳が小さく揺れる。
「君の身体のことも、まだ全部分かっていない。短距離も、マイルも、中距離も、全部挑ませてやれるって軽く約束することもできない」
彼女は黙って聞いていた。
夕陽が、彼女の髪に淡い色を落としている。
「でも、君が諦めたくないなら」
言葉が喉で少し引っかかった。
だがそれを無視して、力を込める。
「オレも、諦めたくない」
フライトの目がわずかに見開かれた。
「君が走れる日を、一緒に増やしていきたい。遠回りになっても、君の身体と、君のやりたいことを見ながら」
服を選ぶ時の彼女を思い出す。
似合う形を探すのだ。
無理に別人になるのではなく、その人に合うものを見つける。
「フライト」
彼女の名前を呼ぶ。
「俺に、君を支えさせてほしい」
風が止まったような気がした。
フライトは何も言わなかった。
ただ、手に持っていたノートを胸元へ抱え直す。
「……私で、いいんですか?」
それは、小さな声だった。
「身体も強くありません。時間もかかると思います。きっと、他の子より面倒ですよ」
フライトの唇が小さく震えた。
「面倒だなんて思わないよ。時間がかかることも、身体に不安があることも、分かってる。それでも、君と一緒に走りたいと思ったんだ」
オレは、彼女が抱えたノートへ目をやった。
「だから、急がなくていい。レースごとに着る服を選ぶみたいに、君に合う走り方を一緒に探していこう」
「……っ」
しばらく、彼女は俯いていた。
夕方のグラウンドを、誰かの足音が遠く通り過ぎていく。
やがて、フライトは顔を上げた。
目元を赤くして、身体を小さく震わせて。
しかし、きゅっと結んだ唇と、潤んだ瞳から、笑みがこぼれた。
「……はい♪」
胸元のノートをぎゅっと抱える。
「よろしくお願いします、トレーナーさん♪」
「こちらこそ。よろしく、フライト」
夕陽の下で、彼女の髪がふわりと揺れた。