堕ちゆく光の翼――ノースフライト 作:ぬべべ
ノースフライトと担当契約を結んで、最初の朝が来た。
「失礼します♪ おはようございます、トレーナーさん」
「おはよう、フライト。体調は?」
「ばっちりです。昨日は早く寝ましたから」
扉をガララっと開けて、ご機嫌に部屋に入ってきたフライトは胸を張って、羽のシールが貼られたノートを開いた。
短距離、マイル、中距離。これら3つの距離を制覇したいと願う彼女の夢を叶える……。
その重責を考えると、やはり身が引き締まる思いになる。
「今日は、どのようなトレーニングをしますか?」
「朝はまず一周、ゆっくり走ってもらう。そこから着実に身体を作っていく」
「一周、ですか……」
彼女の持つシャーペンが、短距離の見出しのところで止まった。
「担当していただいたからには、早く結果を出したいと思ってはいるんですが……」
「気持ちは嬉しい。でも、今日は君の呼吸とフォームを見たい。明日も同じように走れるか、そこまで確かめてから増やそう」
フライトはメニュー表を覗き込んだ。
ペン先が、休憩と書いたところをゆっくり辿る。
「分かりました。わたし、全部のレースで、理想の自分になりたいですから♪」
「ああ、そのためには、まず君の翼を痛めないことだ」
「翼、ですか?」
「君の走りは、飛んでいるみたいでさ。俺は、あの一瞬を、もっと長く見ていたい。もちろん、どのレースでも」
フライトはノートを閉じて、それを胸元でギュッと抱きしめる。
「では、まず一周。見ていてくださいね」
口元を緩ませて、扉へ向かう足取りは、さっきより少しゆっくりになっていた。
オレはメニュー表とストップウォッチを持って、その後を追った。
◇◇◇◇
朝のグラウンドは、まだ空気が冷たい。
土の匂いと芝の青い匂いが混ざり、呼吸をするたびに胸がすっとする。
フライトはトラックの内側で、軽く足首を回していた。
オレはストップウォッチを首から下げ、ノートを開く。
「では、ゆっくり走ろう。息が上がらないくらいで」
「はい♪」
フライトが走り出す。
最初の印象は、軽くふわふわとした走りだった。
足音が柔らかく、地面を強く叩くのではなくて、そっと触って、浮かんでいるように。
まるで風に合わせてスカートの裾が揺れるような、無理のない走りだ。
「フライト、少し肩の力を抜いて」
「はい!」
だがそこはやはり、ウマ娘の特性か、
返事は元気だが、すぐに直るわけではない。
彼女は頑張ろうとすると、全身が前へ前へと行きたがるらしい。
「もっと速く走ろうとしなくていい。今はリズムを見る」
「リズム……ですか」
「そう。音楽みたいなものだ」
自分で言ってから、少し雑な説明だったかと思う。
しかし次の周回で、彼女の走りがほんの少し変わった。
速度は上がっていない。
けれど、足音の間隔が整う。
トン、トン、トン、と軽く刻まれるリズム。
オレは思わずペンを止めた。
ああ、綺麗だ。
そんな風にさえ思った。
速さだけじゃない。
彼女の走りには、きちんと選んだ服を着たような調和があった。
「いいぞ、そのまま!」
「はい♪」
声をかけると、フライトの口元が少しだけ緩む。
その一瞬で肩が上がり、またリズムがわずかに乱れた。
「ああ、すみません」
「大丈夫、落ちついて」
こういう小さな彼女のクセを見抜いたり、調整を積み重ねていくのが、たぶん担当するということなのだろう。
その後も、ジョグ、流し、フォーム確認を繰り返した。
途中で休憩を挟み、水分を取らせる。
フライトはまだ走れます、と言いたげだったが、オレが時計を見ると素直にタオルを受け取った。
「よし、朝はここまで」
「えっ、もうですか?」
案の定、彼女は目を丸くした。
残念そうに眉を曲げて、口を少しとがらせている
「フォームが乱れてきた。体幹が疲れてきている証拠だ。休もう」
「で、でもでも、まだ少し余裕がありますよ? ほら!」
「むん、って力んでもダメ」
「むぅ……」
彼女はタオルを両手で持ったまま、少し考えた。
そして、ふわりと笑う。
朝日が高くなり、グラウンドの白線がはっきり見え始める。
彼女の髪に入ったピンクのメッシュが、光を受けて淡く揺れた。
この子は、きっと飛べる。
遠くまで。
遥か彼方まで。
きっと……!
◇◇◇◇
キーンコーンカーンコーン
と、午前の授業が終わったようで、トレーナー室で記録をまとめていると、フライトが入ってきた。
「じーっ」
「どうした?」
「この前のジャケット、着てくださっているんですね」
「ああ。あれから何度も着てるよ。自分で選ぶより安心するし」
「ふふ♪ では、今日のネクタイは?」
オレは首元へ手をやった。
ジャケットと同じ紺なら失敗しないだろうと、昔に買ったものをつけているだけだ。
「これなら間違いないかと思って」
「悪くありません。でも、トレーナーさんはどう見せたいですか?」
「どう、か……。もう少し頼もしく見られたいかな。それと、恋人と出かける服も、自分で選べるようになりたい」
するとフライトは目を丸くして、上体を起こした。
まるで一歩引くように、そこから一歩、踏み込まないように。
「あ、恋人さんがいらっしゃるんですね?」
「ああ、言ってなかったっけ? まぁ最近は全然会ってもいないんだがな」
「そうだったんですか……。ではそのためにもまた、コーデを考えないといけませんね」
「ああ、ファッションをちゃんとしようと思ったのも、そいつと出かけたいと思っているのもあるんだよ」
「なるほど、それは素敵です♪」
フライトは少し考え、机に置いたメニュー表を見た。
「ではこうしましょう。トレーナーさんが私をトレーニングしてくれるお返しに、私もトレーナーさんのファッションチェックや勉強をお教えします!」
「いいのか?」
「もちろんです! だって、なりたい自分になりたい、着たいものを着こなしたい。そう考えていた私を、担当してくれたのはトレーナーさんですから」
彼女は椅子を寄せ、ノートの余白に、ジャケットとネクタイの簡単な絵を描く。
走った時の記録の隣へ、淡い色が足されていった。
声が少し静かになる。
「『わたし』を嘆かないこと。生まれ持った『わたし』を愛すること。『わたし』が最も輝くやり方で、『わたし』を着飾ってあげること」
彼女はノートをこちらへ向けた。
三つの距離の見出しと、描きかけの服が、同じページに並んでいる。
「それが、わたしの美学です。服も、走ることも。似合うものを見つけるまで、たくさん考えてみたいんです」
オレは、消しゴムの跡だらけのメニュー表を見た。
「そんな私を助けてくれている、トレーナーさんの助けになれるなら、私は頑張りますよ♪」
「フライト……ありがとう、恩に着る」
「ふふ♪ いえいえ」
彼女が人差し指を立てる。
「題して、ノースフライト先生直伝、イケてる男子ファッション講座です」
「男子なんて年齢じゃないよ」
「二十代なんて、まだまだ男子って言いますよ。安心してください」
思わず笑ってしまうと、フライトもつられて笑った。
「でも、いいのか? トレーニングで疲れてるだろ」
「好きなことを話すのは、楽しいんです。それに……」
フライトはノートの角を押さえた。
「わたしばかり支えていただくのは、落ち着かなくて。わたしにもできることがありますから」
オレはペンを置き、少し椅子を引いた。
「なら、お願いしてもいいか。フライト先生」
「はい♪ お任せください」
新しい見出しが書き込まれる。
トレーナーさん改造計画。
「ちょっと待って」
「大丈夫です。きっと素敵にしますから♪」
「いや、見出しが不穏なんだが……」
「ふふふ♪」
フライトはくすくす笑いながら、次の休日の欄に丸をつけた。
机の上には、トレーニングメニューと、ファッション講座のメモが並んでいる。
オレは彼女の記録へ今日の足音のリズムを書き足した。
その隣で、フライトがオレに似合いそうなネクタイの色を、楽しそうに選んでいた。