あの雨の日から、シルフィは時折、我が家を訪れるようになった。
「こんにちは、ターニャ」
「こんにちは、シルフィ。兄さまなら裏庭にいますよ」
「うん。ありがとう」
挨拶にももう緊張はない。
問題があるとすれば、兄の方だった。
「シルフィ、荷物は俺が持つよ」
「これくらい自分で持てるよ?」
「でも重そうだし……」
「魔術教本と蝋板だけだよ」
兄が差し出した手から、シルフィが半歩離れる。
その瞬間、兄の顔が引きつった。
「そ、そうだよな。ごめん」
「ううん……」
気まずい沈黙を残し、二人は裏庭へ向かった。
はぁ……。兄はいったい何と戦っているのだろう。
もっともシルフィも兄を完全に拒んでいるわけではない。翌日になれば、いつも通り家にやってくる。
ただ兄が不用意に距離を詰めれば肩を強張らせる。兄はその反応を見るたびに落ち込み、次は必要以上に距離を置く。
ついには書いた文字も見えないほど離れて教えるようになった。シルフィが何を書き間違えたか尋ねても、兄はそこから首を伸ばしている。
本当に何をやってるんだ、アイツは……
「あの、ターニャ。ここを見てもらってもいい?」
ある日、シルフィが蝋板を持って私のところへ来た。
刻まれているのは水弾を無詠唱で作る際の感覚を、シルフィなりに書き留めたものらしい。
「まだあんまりコントロールが上手くいかないんだよね」
「見せてください」
兄を見ると、庭の反対側で土の槍を作っている。チラチラとこちらを見てくるが、近づいてはこない。
私はシルフィの正面へ回った。
「一度、普段どおりに使ってみてください」
「うん」
シルフィが右手を差し出す。
小さな水弾が浮かび、前へ動いた。シルフィは止めようと手を引いたが、水弾は私の肩の横まで来た。私は脇へ一歩よけた。
「もう少し、小さくしてみませんか」
「これより?」
「ええ。押し固めて小さくするのではなく、使う魔力を減らして質量を小さくするんです」
「うーん……?やってみるね」
シルフィは小さく頷き、再び手を伸ばした。
先ほどより小さな水弾が浮かび、顔の前まで動かして止めた。
「できた……」
「その感覚を覚えてください。最初から大きくしない方がいいですね」
「ありがとう、ターニャ」
シルフィが笑う。
私は兄を見た。
目が合った途端、兄は慌てて土の槍へ向き直った。
まったく、何を遠慮しているのやら。
---
~ルーデウス視点~
木剣が頭のすぐ横を通り抜けた。
「遅いぞ、ルディ!」
「うわっ!」
剣を避けたところを足払いされ、背中から地面に転がった。
「一本」
「……はい」
何度やっても勝てない。
起き上がりながら、少し離れた場所を見る。
ターニャは木剣を置き、教わった動きを繰り返していた。時々失敗して、またやり直している。
父様は俺に剣を教え、ターニャには剣を使わない時の動きを教えていた。
同じ訓練場にいるのに、やっていることはかなり違う。
俺は剣を拾い、構え直した。
「もう一度お願いします」
「上の空じゃ、何度やっても同じだぞ」
父様が木剣を肩へ担ぐ。
「んぐぐ……」
「なんでさっきからため息ばっかりついてるんだ?」
「それは……」
言われてみれば、さっきから何度も息が漏れている。
剣術が上達しないのはいつものことだ。
だが最近は、それだけではない。
「さてはシルフィエットに嫌われたと思ってるな?」
父様がにやりと笑う。
図星だった。
「嫌われては……ないと思います……」
「じゃあ、避けられてる?」
「……まあ」
雨の日以来、シルフィは俺が近づくと少し身構える。
もうしないって謝ったのに。
……謝れば忘れてくれるとでも思ってるのか、俺は。
隣に座るだけでもまた怖がらせるんじゃないかと考える。女の子だと知らなかった頃は、こんなことで悩まなかった。
「剣術はうまくならないし、シルフィには避けられるし。ため息くらいつきますよ」
父様は木剣を地面へ突き立てた。
「父さんがアドバイスしてやろうか」
むっ。
なんだか上から目線だが、確かに父様はモテる。
母様は美人だし、リーリャさんとも妙に距離が近い。村の女性から声を掛けられている姿も何度か見た。
剣の説明はグッだのザンだのよく分からないが、こっちなら何か教わることはあるかもしれない。
「お願いします!」
「どうしようかなあ」
「靴でも舐めましょうか?」
「な、なんだ急に。卑屈になったな、お前」
「教えてくれないなら、父様がリーリャに色目を使ってたと報告しちゃいますよ」
「なっ⁉ 見てたのか⁉ 分かった、分かった。教えるよ」
父様は咳払いをした。
ターニャは少し離れた場所で訓練を続けている。こちらを見てはいないが、聞こえているだろう。
「いいか、ルディ。女の子ってのは強いところだけを見せればいいってもんじゃない」
「ほう!」
「お前、シルフィエットには格好いいところばかり見せようとしてきたんじゃないか?」
否定はできない。
いじめられているところを助けた。
魔術を教えた。
兄としてターニャに格好いいところを見せたいのと同じで、シルフィにも頼れるところを見せたかった。
「自分よりずっと強いやつが、欲望をむき出しにして迫ってきたら怖いだろ?」
「……怖い、でしょうね」
「だったら、弱いところも見せてやれ。お前だって悩むし、避けられれば傷つく。それが分かれば向こうも少しは安心する」
なるほど!
感覚で剣を教える父様にしては、分かりやすい。
「ですがどうやって見せれば?」
「簡単だ。今悩んでることを態度に出せばいい」
「態度に」
「そうだ。避けられて寂しい、仲直りしたいってな。うまくいけば、向こうから慰めてくれるかもしれないぞ」
途中から妙な方向へ進み始めた気もするが、使える助言ではある。
このまま黙って気まずい時間を重ねるよりはよい。
「で、でもそれでダメだったらどうしたらいいんですか?」
「そん時は次の手を教えてやる」
二の手、三の手があるのか。
す、すごい。モテる男ってのはそんなに策を持ってるのか!
「な、なるほど。じゃあ今すぐ行ってきます!」
「行ってこい、行ってこい」
父様が駆け出した俺の背中へひらひらと手を振る。
「お父さま。幼い息子に変なことを教えないでください……」
後ろから、ターニャの呆れた声が聞こえた。
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丘の大樹まで走った。
さすがに早く来すぎたかな。
昼食もまだだし、訓練の汗も拭いていない。当然、シルフィの姿もない。
「ど、どうしよう……」
父様の助言を頭の中で繰り返す。
寂しいと伝えればいい。父様は簡単そうに言ったけど、それで慰めてもらおうとするのは、ちょっと情けなくないか。
いや、格好をつけるなという話だった。
待っている間、木剣を振って会話の練習をする。
こう言われたら、こう返す。
怒られたら、もう一度謝る。
帰ると言われたら、追いかけない。追いかけないが、次も待っていると伝える。
何度も組み立てているうち、手が汗で滑った。
木剣がすっぽ抜け、草の上を転がる。
「うわっ」
その先に、シルフィが立っていた。
「え、あ……シルフィ……えっと……」
頭の中が真っ白になった。
「る、ルディ、どうしたの?」
シルフィが木剣を拾いながら目を丸くしてこちらを見ている。
なんだろう。どうしたの? って、なんだろう。
「え、えーっと……んー、シルフィの可愛い姿が、見れなくて、残念だなーって」
「そ、そうじゃなくて……汗、すごいよ?」
「んふぅ……ふぅ……え? 汗……何が?」
息を荒くして近づくと、おびえた顔で後ずさりされた。
最近こんなのばっかりだ。一定以内に近づかせてくれない。
俺は、どうすればいい?
父様! 俺はどうすればいい⁉
汗が滴り落ちてくる。
ふぅ、ふぅ。少し落ち着いてきた。
今、この瞬間しかない。やるんだ。
俺はおもむろに座った。
膝を折りたたんで、手はお膝。正座だ。
「……最近のシルフィ、冷たいよね…………」
「………」
「あ、あの日のことなら本当に悪かったと思ってる。もう勝手に触ったりしない。だけど前みたいに話せなくなったのは……その、寂しいよ」
シルフィがしゃがむ。
……少しわざとらしかったか?
「! シルフィ……」
膝の上で握りしめていた手に、シルフィの手が重なる。
「だって……最近のルディ、変なんだもん」
「そう、かな……」
「そうだよ。前は隣に座って教えてくれたのに今はずっと遠くにいる。ボクが近づいたら、ルディも離れるし……」
あれ? 待て。俺が離れているように見えていたのか。怖がらせないようにしていたつもりなのに。
でも、今まで通りってのは無理だ。
こんなに可愛い女の子と一緒にいると緊張してしまう。
無職童貞のヒキニートだった俺は、最後に会話した女の子はディスプレイの中だ。
お、俺は、どうすれば……
そこまで父様に聞いておけばよかった……
「ごめんね……でも、ボク、ルディのこと嫌いじゃないよ」
「シルフィ……」
半べそかいていると、シルフィが撫でてくれた。
どう考えても俺が悪いのに、シルフィは謝ってくれた。
「だから普通にしてて?」
「……分かった。努力する」
「努力しないと駄目なの?」
「いや。今のは言葉の綾というか」
シルフィが笑った。
久しぶりに、俺の前で声を立てて笑った。
父様のアドバイスはほとんど役に立たなかったけど、結果を見るとうまくいった。
やっぱりこういう時は、きちんと話し合って解決していかなければならないのだと、俺は学んだ。
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~ターニャ視点~
それからは兄がシルフィを家へ連れてくる回数も増えた。
肩が触れそうになって兄が飛び退くことはある。そのたびにシルフィが何か言い、兄は元の位置へ戻っていた。
庭では兄が魔術を見せ、シルフィが真似をする。私も横で練習をしながら、時々口を出した。
「次は土を混ぜてみようか」
「待ってください、兄さま。いきなり混合魔術ですか?」
「シルフィならできるって」
「自分の調子で進めないでください」
シルフィが私たちを見比べた。
「二人とも教え方が全然違うよね」
「ターニャは細かすぎるんだよ」
「兄さまが大雑把すぎるんですよ」
「あはは……でも二人に教えてもらえると分かりやすいよ」
屈託のない言葉に、反論の機会を失う。
兄は得意げに胸を張った。
なぜ兄が誇るのだ。
魔術の練習が終わる頃には三人で後片づけをするようになった。
兄が魔術教本を抱え、シルフィが蝋板を集める。私は使った水を庭へ流し、湿った土を均す。
ある日、兄が父に呼ばれて先に家へ戻った。
私とシルフィだけが庭に残った。
「ターニャ」
「何でしょう」
「この前教えてくれたところ、もう一度やってもいい?」
「構いませんよ」
シルフィが掌に水弾を浮かべる。私はしまいかけていた短杖を、もう一度手に取った。
今度は手元が見えるよう、彼女の隣へ回った。
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その日の夕食は普段より少し豪華だった。
焼いた肉に、野菜の煮込み。白いパンまで並んでいる。
何かの記念日ではない。
父は理由を聞こうとして、母に笑顔で止められた。
「全員そろってから話すわ」
やがてリーリャさんが最後の皿を置き、母の隣へ立った。
母が私たちの顔を順番に見る。
「みんなに大事なお話があります」
父の背筋が伸びた。
兄も食事へ伸ばしかけた手を止める。
母は自分の腹部へ手を当てた。
「赤ちゃんができました」
一瞬、食卓が静まり返る。
すぐに父が椅子を吹っ飛ばしながら立ち上がった。
「本当か!?」
「ええ。診療所でも診てもらったから、間違いないと思うわ」
父が母を抱きしめる。
兄も椅子から立ち上がった。
「弟ですか? 妹ですか?」
「まだ分からないわよ」
「僕は妹がいいです!」
即答だった。
何やら個人的な事情を感じるが、今は追及すまい。
「ターニャはどちらがいい?」
母に尋ねられる。
「健康であれば、どちらでも」
「もう。そういうことじゃなくて」
笑われたが、ほかに何と答えればいいのか。無事に生まれてくれれば、それでいいと思うが。
母の手がまだ平らな腹部を撫でている。
そこに新しい命があると言われても、外からは何も分からない。
手を伸ばしてから、自分が何をしているのかに気づいた。
「楽しみなのね、ターニャ」
母の声に、我に返る。
全員が温かい目でこちらを見ていた。
「……家族が増えることは、喜ばしいことですから」
口から出たのはどこにでもある言葉だった。
手を離す機会を失う。
母の手が私の手を包んだ。
「ええ。お母さんもとても楽しみ」
父が私の頭へ手を伸ばしかけた。
私は先に睨む。
五歳の誕生日に髪を滅茶苦茶にされた恨みを忘れたわけではない。
父は咳払いをして、手を引っ込めた。
「ご、ゴホン。よし、今日は祝いだ! 食べよう!」
「あなた、お酒は少しだけよ」
「分かってるって!」
信用ならない返事だった。
食事が始まってからも兄は名前をどうするか、部屋はどこを使うかと話し続けた。
父は男でも女でも剣を教えると言い、母に気が早いと笑われる。
リーリャさんはいつもどおり静かに給仕をしていた。
ただ煮込みへほとんど手をつけていない。
「リーリャさん、食欲がないのですか?」
「少し、胃が重いだけです。お気遣いなく」
顔色も悪い。働き過ぎだろうか。母の仕事を減らした分まで、彼女一人へ回すわけにはいかない。
食器運びや洗濯物を畳むくらいなら私にもできるだろう。明日リーリャさんに言ってみよう。
母と兄はまだ名前の話を続けていた。
私は食べ終えた皿を手元へ寄せた。重ねすぎると運べないので、まずは自分の分だけ。