翌朝、隣の寝台は空だった。
毛布だけが妙に丁寧に整えられている。二歳児が人前で見せてよい仕事ではない。
私は寝台を下り、廊下へ出た。階下から食器の触れ合う音が聞こえる。
ゼニスとリーリャさんは朝食の支度中。庭からは規則的に風を切る音。パウロは今日も剣を振っている。
ならば、兄はあそこだな。
二階の片隅にある書斎の扉を開けると、ルーデウスは床に腹這いになっていた。
目の前には『魔術教本』。こちらを見ようともせず、ページへ鼻先が触れそうな距離で文字を追っている。
「おはようございます、兄さま」
「うわっ!」
本が閉じられた。隠すにしても遅すぎる。
「ターニャか……。おはよう」
「ずいぶん早いですね」
「目が覚めたから」
「それで、朝食より本を?」
「絵が見たかったんだよ」
兄が押さえた表紙には杖を構えた魔術師が描かれている。
「兄さまはその絵を昨日から何度もご覧になっていますね」
「好きな絵は何度見てもいいだろ?」
「ええ。もちろん」
笑顔を向けると、ルーデウスは露骨に目を逸らした。
「告げ口する?」
「何をです?」
「俺が勝手に本を読んでること」
「本を傷つけず、元の場所へ戻すのであれば私には関係ありません」
そっぽを向いておく。兄が先に調べてくれるなら好都合だ。
ただし家の中で暴発させるのだけは勘弁してほしい。教本を取り上げられれば、私まで困る。
「ところで、何が書かれているのですか?」
「関係ないんじゃなかったの?」
「本を読むことには関係ありません。内容には興味があります」
「それ、ずるくない?」
「兄妹なのですから知識は共有すべきでしょう」
「ぐぬぬ……」
ルーデウスは目を細め、しばらく返事をしなかった。
先に折れたのは兄だった。仕方がないとでも言いたげに胸を張る。
「ハァ……じゃあ兄さまが教えてあげるよ」
「お願いします、兄さま」
兄は早速、教本をこちらへ向けた。
「魔術には大きく分けて三つあるらしいよ。攻撃、治癒、召喚」
「お母様が使ったのは治癒ですね」
「うん。これは攻撃魔術の本だから治癒はほとんど載ってない。火、水、風、土の四つが中心みたいだ」
「使用条件は?」
「魔力。自分の中にあるものか、魔力を含んだ物から取り出して使う」
「発動方法は?」
「詠唱か魔法陣」
そこまで淀みなく答えてから、ルーデウスの口が止まった。
「ターニャ」
「はい」
「質問の仕方、おかしくない?」
「そうでしょうか?」
「二歳の女の子は『まほうってなあに』とか聞くものじゃない?」
「二歳の男の子は難しい本の内容を説明できないと思います」
沈黙。
しまった。それを言えば、こちらも同じだ。
兄が聞かないなら、私も黙っておこう。
「おあいこ、ということで」
「……そうだね」
兄は本を開き直した。
「一番簡単なのは水の弾を作る魔術らしい」
「試すのですか?」
「読むだけだよ」
「そうですか」
私は立ち上がり、扉へ向かった。
「どこ行くの?」
「朝食です。読むだけなのでしょう?」
「…………」
背中へ刺さる視線を無視して扉を閉める。ただし完全には閉じない。部屋の音が聞こえる程度の隙間を残し、廊下の角へ身を寄せる。
ほどなく立ち上がる音がした。
「汝の求める所に大いなる水の加護あらん。清涼なるせせらぎの流れを今ここに――『ウォーターボール』」
空気が震えた。
昨日、ゼニスの魔術を見たときと同じ感覚がした。
直後、床で水が弾けた。
「おおっ……って、落ちた?」
扉の隙間から覗くと、ルーデウスが濡れた床と自分の掌を見比べている。魔術教本へ水が掛からなかったのは幸運だ。
初回で成功。
本のとおりに唱えただけで、水ができた。魔力の扱い方まで、あの言葉が補ってくれるのだろうか。
ルーデウスが再び手を構えた。今度は本を見ず、指先へ力を集めている。
小さな水塊が生まれた。
詠唱はなかった。
「……できた」
本人も驚いたらしい。集中が途切れ、水塊が床へ落ちる。
「今、唱えてないよな?」
兄は両手を見つめている。
一度唱えれば、声なしでも使えるのか。
これなら、声で見つかる心配もない。
兄はもう一度試すらしく、右手を上げている。
私は足音を立てないようにその場を離れた。
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昼前、ゼニスは村の診療所を手伝うため、パウロは村人から持ち込まれた相談事を片づけるために、揃って家を出た。
昼食はリーリャさんと私たちだけで取ることになった。
治癒魔術は傷がなければ効いたかどうかを確かめられない。
かといって、試すために怪我を増やす気はない。機会を待つことにした。
昼食を終えると、兄は先に書斎へ戻った。
私も椅子から下りようと机の縁へ手をついたとき、指先に痛みが走った。
「あっ」
手を離すと、左の人差し指に細い木片が刺さっていた。
食器を下げていたリーリャさんが、私の手を取る。
「ささくれですね。抜く物を持ってまいりますから、触らずにお待ちください」
「はい」
彼女が台所へ向かった後、木片の先を爪でつまんだ。
浅く刺さっていただけらしく、すぐ抜ける。指先には小さな赤い点が残った。
痛みはあるが傷は浅い。
昨日見た治癒魔術を確かめるなら、今だ。
右手をかざし、ゼニスの魔術を真似てみる。
掌が淡く光った。だが傷も痛みも変わらない。
今朝の兄は声なしで水を出せていたのだが。治癒は勝手が違うらしい。
覚えている詠唱を、小声で唱えた。
「神なる力は芳醇なる糧。力を失いしかの者に、再び立ち上がる力を与えん――『ヒーリング』」
やはり傷は変わらない。
リーリャさんが戻る前に、もう一度だけ。詠唱を繰り返す。
熱が指先へ染み込んだ。
赤い点が消える。触れても先ほどの痛みはなかった。
治った。
仕組みはさっぱり分からないが、あの言葉は覚えておいてよかった。
「ターニャ様、お手を」
針と布を持って戻ったリーリャさんへ、傷のあった指を見せる。
「木が、抜けました」
「……血も止まっていますね」
「もう痛くないです」
笑ってみせたがリーリャさんは指の表と裏を確かめ続けた。
しばらくして手を離す。
「ここには手をつかないでください。旦那様に直していただきましょう」
「はい」
血を拭く必要もなくなった理由までは、尋ねられなかった。
指先を見直してから手を下ろす。リーリャさんの前で、もう一度光らせるわけにはいかなかった。
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夕方、ゼニスが診療所から戻った。夕食の支度が始まった頃、書斎でルーデウスが倒れているのを見つけたのはリーリャさんだった。
「ルーデウス様!」
声に驚いて駆けつけると、兄は床へうつ伏せになっていた。周囲には水溜まり。右手は本へ伸びたまま、顔色が悪い。
ゼニスが兄を抱き起こす。
「ルディ、起きて! ルディ!」
呼吸はある。脈も――幼児の私ではうまく測れないが、首筋は規則的に動いている。
「お医者様を呼びますか?」
「待って。熱はないわ。呼吸も落ち着いてる」
ゼニスが治癒魔術を使う。外傷はないためか、兄は目を覚まさない。
魔力切れだろうか。
前世でも許容量を超えて魔力を消費した者は意識を失った。九五式なら制御もできたが、この世界では本人の感覚だけが頼りらしい。
昨日は椅子から落ち、今日は魔力切れか。この男は、少しずつ試すということを知らないのか。
「寝かせましょう。しばらく様子を見るわ」
ゼニスとリーリャさんがルーデウスを運んでいく。私は水浸しの書斎へ残り、床を見た。
水溜まりは一つではない。小さな跡がいくつも重なり、桶の中には半分ほど水が溜まっている。
兄は何度も魔術を使った。
限界が分からないから、意識を失うまで。
訓練で自滅する兵士に勲章は出ない。明日になったら、中止の基準を決めさせよう。
私も声を出さずに水を作ってみた。
指先に小さな水滴が浮かぶ。
動かしても形を変えても消えない。治癒魔術を使ったときほど疲れもなかった。
飛ばすのは庭へ出てからにしよう。壁へ穴を開けては隠しようがない。
私は水滴を桶へ落とした。
今日はここまでだ。兄に続いて運ばれるのは御免である。
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翌朝、ルーデウスは何事もなかったように食卓へ座っていた。
「もう、ルディったら。本を読みながら寝ちゃ駄目でしょう?」
「ごめんなさい、母様」
「それに床を水浸しにして。お漏らししたのかと思ったわ」
「ち、違います!」
兄の顔が赤くなる。
「水差しを倒したんです」
「水差しなんて書斎にあったかぁ?」
パウロの余計な一言に、ルーデウスが固まった。
「とうさまは黙っててください」
「なんで俺が怒られるんだ?」
「ルディ。父様にそんな言い方をしないの」
「はい、母様……」
私はパンをちぎり、口へ運ぶ。笑ってはいけない。ここで笑えば、昨日の魔力切れを理解していると教えるようなものだ。
そんな雰囲気を感じたのか、向かいから恨めしげな視線が飛んでくる。
知らないふりをしておこう。
食後、ルーデウスは私の袖を引いた。
「ターニャ。ちょっと来て」
「どちらへ?」
「書斎」
「お断りします」
「なんで!?」
「昨日の今日で、また魔術を使うおつもりでしょう。巻き込まれたくありません」
兄の顔から表情が消えた。
「知ってるの?」
「何をですか?」
「俺が、魔術を使ったこと」
「床一面に状況証拠を残しておいて、知られていないと思う方がどうかしています」
廊下の先に人影はない。リーリャさんは炊事場、ゼニスは洗濯、パウロは庭だ。
ルーデウスは声を潜めた。
「誰かに言った?」
「いいえ」
「どうして?」
「兄さまが何をどこまでできるか、まだ判断できませんから」
「普通、危ないと思ったら言うんじゃない?」
「報告して禁止されれば、観察できなくなります」
兄が一歩下がった。
「ターニャって、たまに怖いよね」
「気のせいです」
私は袖を引く手を外し、階段へ向かう。
「待って」
ルーデウスが追ってくる。
今度はなんだ。
「一昨日の夜さ、やっぱりターニャも何かしてただろ。指が光ってた」
「月明かりです」
「だから月は反対側だって。それに今朝、リーリャさんが言ってた。昨日ターニャの指に棘が刺さったのに戻ったときには傷も消えてたって」
チッ。怪我の話まで伝わっていたのか。
「お母様に治していただきました」
「母様は出かけてたと思うけど」
「自然治癒です」
「数分で?」
「幼児は新陳代謝が活発ですから」
「そんなわけないだろ……」
声から幼さが消えていた。
私も足を止める。
「では兄さまは何だとお考えですか?」
「治癒魔術」
「根拠は?」
「一昨日母様が使うところを見てた。ターニャは魔力が動く前から母様の手を見てたよね」
あのときは兄の方を見ていなかった。こちらも観察されていたとは。
「兄さまの仮説が正しいとして、どうなさるおつもりです?」
「俺のことを黙っててくれるなら俺も黙ってる」
「取引ですか?」
「協力、かな」
協力、か。隠れて使われるより、何をしているか分かる方がよい。
ただしあの倒れるまで続けるやり方には付き合えない。
「一つ、条件があります」
「何?」
「魔力を使い切る前にやめてください」
「……見てたの?」
「見なくても分かります。意識を失うまで続けるのは訓練ではありません。ただの自滅です」
「でも限界を知らないと――」
「次に倒れたら報告します」
「おーぼーだ!」
「安全管理です」
ルーデウスは不満そうに頬を膨らませた。
「ターニャも危ないことをする時は言ってよ」
「危ないことはしません」
「じゃあ、治癒魔術を試すときも教えてよ」
「傷はごく浅いものでした」
「やっぱり、自分で治したんだな」
返答を誤った。
兄はニヤついたがすぐに顔を戻した。
「俺が倒れたときは母様たちが来てくれたけど一人だったら誰も気づかないだろ。ターニャも同じだよ」
「……知らせる必要があるときはそうします」
「ターニャだけで決めないで。黙って無理をしたら、俺も言うからね」
笑っている。
この男、先ほどの意趣返しのつもりか。
「よろしいでしょう。相互監視ということで」
「協力って言ってよ」
「安全管理です」
「絶対、言い直さないんだな……」
ルーデウスが右手を差し出した。
私はその手を握った。階下から食器の音がする。
「よろしく、ターニャ」
「ええ。よろしくお願いします、兄さま」
セリフと地の文のバランスがむずい