三歳になった。
兄との取り決めは、いちいち確かめなければ破られかねない。それでも一人で教本と格闘するより研究は進んだ。
「もう一回やってみるよ」
「待ってください。先ほどより大きくするつもりでしょう」
「少しだけだよ」
「兄さまの『少し』は信用できません」
庭の隅で、ルーデウスが不満そうに頬を膨らませた。掌の上には拳ほどの水弾が浮かんでいる。
「昨日は倒れなかっただろ?」
「桶を抱いたまま眠っていました」
「あれはちょっと休んでただけ」
「リーリャさんに運ばれた人間の台詞ではありませんね」
兄の水弾が揺れた。
こちらへ言い返すたびに、表面から水がこぼれる。
私は指先に、小さな水滴を浮かべた。
「ターニャの方がずるいよ」
「何がです?」
「そんなに小さいの、俺より難しいじゃないか」
「大きければよいというものではありません」
「でも威力は大きい方が強いだろ?」
「家の庭で誰と戦うおつもりですか」
水滴を消すと、指先にわずかな疲労が残った。
小さくするにも余計な魔力を使っているらしい。
それでも私は兄のように大きくするより、こちらの方が性に合っていた。
現時点で、総魔力量は明らかに兄の方が多い。同じ回数だけ水弾を作っても、先に疲れるのは私だ。もっとも余るとすぐ大きくしたがるのには閉口する。
「今度は速く飛ばしてみよう」
「却下です。射線の先に柵があります」
「柵まで飛ばさないよ」
「射程の制御はもうできるのですか?」
ルーデウスが黙った。
本当にこの兄は……
「まず、狙ったところへ当てられるようになってからです」
「わかってるよ。俺の方が先に無詠唱を見つけたんだからね」
言い返しかけて、やめた。また隠れて試されても困る。
ルーデウスは得意げに胸を張ったあと、水弾を上下へ動かし始めた。
兄は私が普通の幼児でないと確信している。それでも互いの素性について直接問うことはない。私も同様だ。
新しい魔術を試す相手としては使える。教本を広げ、互いにできたものを見せ合った。私が手間取る魔術を、兄はあっさり使うこともある。大きくしすぎて叱られる回数も、兄の方が多かった。
ただし治癒魔術だけは進展が遅い。
詠唱すれば小さな傷を塞げる。だが無詠唱では、相変わらず温かな光を出すだけだ。傷が治る感覚は、どうしても掴めない。
毎回、唱えねばならないとは。なんとも業腹である。
「ターニャ」
「なんです?」
「見て」
兄の頭の上に作られた水弾が、私の頭ほどに膨らんでいた。
「兄さま、あぶないですよ」
「まだ平気だよ」
「そういう問題ではありません。今すぐ小さくしてください」
「これぐらいなら――」
「ルディー!ターニャ!おやつよ!」
家からゼニスの声が飛んできた。
ルーデウスの集中が切れ、水弾が頭から落ちる。
「ぶっ!」
兄はずぶ濡れになった。
私は巻き込まれる前に二歩下がっていた。
濡れた前髪の下から、恨めしそうな目を向けられる。
「二人ともどうしたの?」
戸口まで来たゼニスが首を傾げた。
ルーデウスと目が合う。
「転びました」
「水桶に落ちました」
回答が重なった。
ゼニスの視線が庭を巡る。近くに水桶はない。
「……二人で水遊びをしていたの?」
「はい」
「そうです」
再び重なった。
ゼニスは腰へ手を当てたが怒るより先に笑った。
「風邪を引く前に着替えましょうね。リーリャにお願いしてきなさい」
「はい、母様」
「私は濡れていません」
「ターニャもよ。お兄ちゃんを置いて先に戻らないの」
わざわざ一緒に行く必要が?
だが言い争って庭にいた理由を詳しく聞かれる方が面倒だ。
私はルーデウスの袖をつまんだ。
「行きますよ、兄さま」
「分かってるよ」
濡れた兄を連れて家へ戻る。
背後で、ゼニスが水に濡れた地面を眺めていた。証拠の消去まで考えるべきだったかもしれない。
だが追及はなかった。
水遊びなら着替えで済む。魔術だと分かれば、こうはいかないだろう。
リーリャさんだけは違った。
着替えを手伝いながら、濡れた服と兄の顔を交互に見る。
「庭に水桶はございませんでしたが」
「……水差しと間違えました」
「庭に水差しをお持ちになったのですか?」
「…………」
ルーデウスが助けを求めるように私を見る。
自分で処理してもらおう。
「ターニャ様はご存じですか?」
「兄さまが転んだとき、私は離れていましたので」
「そうでございますか」
嘘は言っていない。
リーリャさんはそれ以上尋ねず、兄の濡れた上着を籠へ入れた。その横顔には、納得も驚きも見えない。
ただ部屋を出る直前、私たちへ一度だけ視線を戻した。
扉が閉まってから、兄が息を吐いた。私も教本を開いたが、しばらくは廊下の物音が気になった。
---
~ルーデウス視点~
俺はターニャが少し苦手だ。
嫌いという意味じゃない。むしろ妹としては、かなり好きな方だと思う。
変に泣きわめかないし、本の内容を話せる。俺が魔術を使えることも誰にも言わない。失敗したときは嫌になるぐらい正確に原因を指摘してくれるけど、成功すれば、ほんの少しだけ口元を緩める。
あれはたぶん褒めている。本人は認めないだろうけど。
ただ実験を始める前の確認が長い。
「周囲に人はいないか」「壊れる物はないか」「失敗した場合、どちらへ逃がすか」「何回で中止するか」。一つでも答えられないと冷めた目で見られる。
正しい。正しいんだけど、面倒くさい。
だから今日だけは一人で試すことにした。
魔術教本を開き、中級水魔術の項目を指でなぞる。
『スプラッシュフロウ』。
初級の水弾より大量の水を作り、勢いよく撃ち出す魔術らしい。
もちろん家の中で撃つつもりはない。
速度をつけなければいい。大きさも最小。水を出す先には桶を置いた。床に布も敷いた。
これなら危険な実験じゃない。
ターニャに言えば、きっと屋外でやれと言う。でも外には父様がいるし、母様やリーリャさんも窓から見るかもしれない。
成功するか分からない魔術を、家族の前で試すのは恥ずかしい。
先に成功させてから、ターニャへ見せる。
中級も使えると分かれば、さすがに驚くだろう。
いつも俺ばかり注意されているけど、こういうときぐらい兄らしいところを見せたい。
俺は教本へ目を落とし、右手を桶へ向けた。
記された詠唱を、一字ずつ声に出す。
「えーっと……優柔たる水の精霊にして地を流れしせせらぎの王女よ、内に秘めたる剛力にてあらゆるものを押し流せ――『スプラッシュフロウ』」
掌の前で、水が膨れた。
大きさは1、速度は0。
いつも通り、桶に水が溜まるだけだと思っていた。
でも、止まらなかった。
「えっ」
視界が青く染まる。
次の瞬間、轟音と一緒に身体が後ろへ転がった。
水がまっすぐ走り、桶が吹き飛ぶ。正面の壁へ叩きつけられた水流は、木板をまとめて外へ持っていった。
光が差し込む。
さっきまで壁だった場所から、庭が見えた。
「…………」
俺は尻餅をついたまま、穴を見た。
穴の縁から、ポタポタと水滴が地面に落ちるのを、俺は呆然と見ていた。
まずい。
ものすごく、まずい。
「何事だ! うおっ…!」
父様が部屋へ飛び込んできた。
「今のはなんだ! 怪我はないか!?」
「だ、大丈夫です」
「本当か? どこか打ってないか?」
父様は壁より先に俺の腕や頭を確かめた。
大丈夫だと言うたび、床の教本を足で隠したくなった。今さら隠してどうする。
パウロは「魔物か? いや、しかし……」などと呟いて、注意深く周囲を警戒している。
廊下から足音がしてきた。一人ではない。
母様とリーリャさん。それからターニャも来る。
母様は怖い。
けれど今、一番顔を合わせたくないのは――。
扉のところに立ったターニャが、床の教本、倒れた桶、壁の穴を順番に見た。
最後に俺を見る。
何も言わない。
何も言わないのがものすごく怖い。
---
~ターニャ視点~
轟音を聞いた瞬間、私は炊事場から走り出していた。
部屋へ入ると、水浸しの床にルーデウスが座り込んでいた。正面の壁には、人が通れるほどの穴が開いている。
「兄さま」
「ターニャ、これは……」
「怪我は?」
「え?」
「怪我はありませんか」
「な、ない。大丈夫」
腕にも顔にも外傷はない。受け答えも正常。魔力切れの兆候も見られない。
それだけ確かめて、壁へ目を戻す。隣の部屋にいたら、ただでは済まなかったぞ。
「そうですか」
聞きたいことはある。だが背後からゼニスが入ってきたので口を閉じた。
「あらあら……」
母はパウロより冷静だった。
ゼニスが穴と水溜まりを見比べた。
「何があったの?」
「僕がやりました」
ルーデウスは教本を抱え、素直に頭を下げた。
「本の魔術を試しました。ごめんなさい」
ゼニスが兄の前へしゃがみ込む。笑顔だが、目が笑っていない。
「ルディ。この本に書いてある魔術を使ったの?」
「はい」
「どの魔術?」
ルーデウスがおそるおそる、開いたページを見せた。
横から覗いたパウロが眉を上げる。
「これ、中級じゃないか!」
「中級ですって?」
ゼニスの声が一段高くなった。
「ルディが一人で中級魔術を使ったの!?」
「いや、驚くところはそこじゃないだろ。壁が――」
「きゃー! すごいわ、ルディ! あなた、聞いた?三歳で中級よ!?」
ゼニスは兄を抱き上げた。
「母様、濡れます」
「そんなこといいのよ。ルディは天才だわ!」
壁の修理費を無視すれば、確かに喜ばしい成果ではある。
パウロは穴を見て頭をかき、兄を見て、もう一度穴を見た。
「文字もまともに教えてないんだぞ。どうやって読んだんだ?」
「前から本を読んでいたでしょう?」
「絵を見てるんだと思ってたぞ」
「あなたとは違うのよ」
「どういう意味だ」
夫婦の話題が逸れ始める。
リーリャさんは無言で床の布を拾い、水を吸わせていた。
私と目が合っても彼女は手を止めなかった。水を吸った布を絞り、また床へ広げる。
「今すぐ家庭教師を雇いましょう!」
ゼニスが宣言した。
「魔術の先生よ! 今からきちんと教われば、将来はすごい魔術師になれるわよ!」
「ねえあなた、明日にもロアの街で募集を出しましょう!」
「待て。男の子には剣を教える約束だっただろ」
「魔術はもう中級を使っているのよ。才能を放っておく方がおかしいわ」
「しかしだな――」
パウロとゼニスが壁の穴の前で教育方針を巡る議論を始めた。
ルーデウスはゼニスに抱かれたまま、小さくなっている。先ほどまでの達成感は完全に消えていた。
私は巻き込まれない位置まで下がった。
家庭教師がつくのは兄だ。
これで兄の見張りは専門家に任せられる。私はようやく、自分の研究へ戻れるわけだ。
試したいことはいくらでもある。前世のように飛べるかどうかも、その一つだ。
「午前中は魔術、午後は剣術になさってはいかがでしょう」
床を拭き終えたリーリャさんが、静かに口を挟んだ。
「両方の才能を確かめてから、将来お決めになればよろしいかと」
ゼニスとパウロが抱き合う。
「あなた、子供たちの前で喧嘩はよくないわ」
「そうだな……!」
やれやれ、この親は……
とにかく合意が成立したようだ。
兄には午前中に魔術の家庭教師をつけ、午後はパウロが身体を鍛える。子供の体力を考慮すれば過密気味だが、本人は嫌がっていない。
「ルディ、頑張りましょうね!」
「は、はい、母様」
返事に力がない。
壁を壊した代償としては妥当だろう。
その日の夕方、ルーデウスが私の隣へ寄ってきた。
パウロは応急処置の板を壁へ打ちつけ、ゼニスとリーリャさんは夕食の支度をしている。槌の音に紛れるよう、兄が声を潜めた。
「ターニャはいいの?」
「何がです?」
「魔術の先生。ターニャも魔術を使いたいんだろ?」
「私には必要ありませんよ」
即答すると、兄が目を瞬かせた。
「でも一人で治癒魔術を練習してたじゃないか」
「私は自分で調べます。その方が性に合っていますので」
「ちゃんとした先生なら知らないことも教えてくれるよ」
「知識には興味があります。ですが指導は不要です」
家庭教師なんて冗談じゃない。私は自由に研究がしたいんだ。
何時から何時まで、今日は初級、次は詠唱、勝手な実験は禁止。そんな毎日は御免だ。
知らないことは授業が終わった兄に聞けばよい。
何より監視されていては飛行術式の研究ができない。
「兄さまはご自分の勉強に集中してください」
「……分かった」
ルーデウスはまだ何か言いたそうだったが、やがて頷いた。これで話は済んだと思い、私は槌の音の方へ顔を戻した。
兄の授業中なら、飛行術式の検証も邪魔されずに済むだろう。
---
~ルーデウス視点~
ターニャは遠慮している。
たぶん、そうだ。
あいつは魔術が嫌いじゃない。俺が本を読むと必ず内容を聞きに来るし、俺が新しい魔術を使えば、どこをどう変えたのかしつこいぐらい確認する。
治癒魔術だって、指の傷を自分で治してしまった。
そんなターニャが先生はいらないと言う。
理由は一つしかない。
俺だけのために雇う家庭教師だからだ。
同じ年なのに、自分も教えてほしいとは言いにくいのだろう。ターニャは変なところで大人ぶる。食べたいお菓子があっても先に取らないし、父様に抱き上げられると嫌そうな顔をするくせに、自分から下ろしてとは言わない。
あれもきっと遠慮だ。
兄として、妹に我慢させるわけにはいかない。
夕食のあと、俺は父様と母様を呼び止めた。
「お願いがあります」
「どうした、ルディ。改まって」
「壁のことならもう怒ってないわよ」
「違います。先生のことです」
母様が嬉しそうに顔を寄せる。
「何か希望があるの?」
「ターニャも一緒に教えてもらえませんか?」
二人が顔を見合わせた。
「ターニャがそう言ったのか?」
「いいえ。でもターニャも魔術を勉強しています」
「まあ。あの子も?」
「僕が教本を読んでるといつも一緒に見ています。本当は先生に教わりたいと思うんです」
嘘ではない。
本人は必要ないと言ったけど、あれは俺に気を遣ったからだ。
父様が腕を組む。
「だが、もう一人を教える条件で募集を出しちまったぞ?」
「二人だと駄目なんですか?」
「教師次第だな。時間も手間も増える。給金だって同じとはいかないだろう」
「あなた、少しぐらい増えてもいいでしょう?」
「少しならな。まず来た先生に話を聞いてからだ」
母様はすっかり乗り気だった。
「女の子には魔術を教える約束だったものね。ターニャも一緒ならきっと楽しいわ」
やった。
これならターニャも喜ぶ。
先に伝えようかとも思ったけれど、まだ決まったわけじゃない。先生に断られたら、余計にがっかりさせる。
決まってから教えた方がいい。
驚くかもしれないけれど、俺が頼んだと知れば、少しは兄として見直してくれるだろう。
「ターニャにはまだ内緒にしてください」
「まあ。驚かせるのね?」
「はい」
母様は楽しそうに笑い、父様も仕方がないという顔で頷いた。
俺は満足して部屋へ戻った。
---
~ターニャ視点~
家庭教師は思いのほか早く見つかった。
募集を出してからしばらく、パウロとゼニスは訪れる人物について好き勝手な予想をしていた。
辺境の村まで住み込みで来る以上、引退した冒険者ではないか。上級以上の魔術師なら相応の経験があるはずだ。長い髭を生やした老人か、厳格な老女かもしれない。
兄は黙って聞いていたがなぜか妙に期待した顔をしていた。
私は関心を持たなかった。
誰が来ようと兄の教師だ。利用できる知識があれば、後で兄から聞けばいい。
訪問の日、玄関先に現れたのは、予想のどれにも当てはまらない人物だった。
「ロキシーです。よろしくおねがいします」
水色の髪を三つ編みにした、眠そうな目つきをした年若い少女である。
茶色のローブに小柄な身体を包み、荷物は旅鞄一つ。もう片方の手にはいかにも魔術師が持っていそうな杖を持っている。見た目だけなら十代半ばだろう。ちんまりという表現がよく似合う。
しかし長旅を終えたばかりとは思えないほど姿勢がよく、私たちを見る目にも浮ついたところがない。
パウロとゼニスは揃って言葉を失っていた。
その後ろではリーリャさんだけが普段どおり一礼している。
「あ、ああ。君が、その……家庭教師の?」
「その、ずいぶんと……」
パウロもゼニスも続きを口にできない。
「小さいんですね!」
両親が避けた言葉を、ルーデウスがあっさり口にした。
ロキシーの目が兄へ向く。
「あなたに言われたくありません」
間髪を入れない切り返しだった。
ルーデウスは怒るどころか、ますます機嫌をよくした。青い髪から顔へ、顔からローブへと視線を動かし、最後にもう一度顔を見上げる。
魔術を見せてもいないのに、この喜びようは何だ。兄の顔は見なかったことにしておこう。
ロキシーは私たちを順に見てから、姿勢を正した。
「はぁ。それで、わたしが教える生徒はどちらに?」
「あ、それはこの子です」
ゼニスがルーデウスの肩へ手を置き、前へ出す。
兄は片目を閉じ、わざとらしく笑ってみせた。
ロキシーの目がわずかに見開かれる。次いで、本日二度目のため息が落ちた。
「ハァ……ちょっと成長が早いだけで自分の子供に才能があると思い込んじゃうバカ親ですか……今回はハズレですかね……」
聞こえないよう呟いたつもりだろうが、丸聞こえだ。
ルーデウスまで同意するように頷きかけ、慌てて顔を戻した。
「何か?」
「い、いえ。ただこれほど幼いお子様に魔術の理論が理解できるとは思えませんが」
「大丈夫です。うちのルディはとても優秀なんです!」
ゼニスは胸を張った。
疑いようのない親馬鹿である。
ロキシーはしばらくゼニスを見つめ、反論を諦めたらしい。
「……分かりました。やれるだけのことはやってみましょう」
両親の評価をそのまま信じるつもりはないらしい。小柄な教師の目が、兄の手元から私の立ち方へ移る。
見た目だけでこの仕事を得た人間ではなさそうだ。
「ありがとうございます。それとロキシーさん。もう一つお願いがあるんです」
ゼニスが私の背後へ回った。
嫌な予感がした。
「なんでしょうか」
「契約について、追加でお願いしたいことがあるんです」
肩に手を置かれる。
なぜ私に触れる。
「追加のお給金はお支払いします。もう一人、この子も一緒に教えていただけませんか?」
ロキシーの視線が私へ移った。
「……もう一人?」
「ルディの双子の妹で、ターニャです。この子も魔術に興味があるんですよ」
待て待て。そんなこと聞かされていない。
私はゼニスを見上げた。満面の笑みである。パウロは追加費用を計算しているのか、少々渋い顔をしていた。リーリャさんは玄関脇に立ち、いつもどおり表情を動かさない。
そしてルーデウスは――誇らしげに胸を張っていた。
「に、兄さま?」
「大丈夫。俺から頼んでおいたから!」
何一つ大丈夫ではない。
私が遠慮したことになっているのか? ここで否定しても、母は笑って背中を押してきそうだ。
「ターニャも本当は先生に教わりたかったんだろ?」
家庭教師なんて冗談じゃない。
私は自由に研究がしたいんだ。
そう説明したはずだ。言葉を濁した覚えもない。必要ないと明言した。そのうえで、なぜ善行を成し遂げた顔をしている、この兄は!!!!
「お二人を同時にですか」
ロキシーは私とルーデウスを交互に見た。
「まずお二人がどこまで理解しているか確認させてください。そのうえで同時に指導できるか判断します」
「もちろんです!」
ゼニスが私の肩を抱き寄せる。
兄は笑っている。
逃げ道が、閉じていく。
どうして!!!こうなった!!!!!!