私は不要だと言った。
兄にも聞こえていたはずだ。それが知らないうちに追加契約の話へ化けている。
余計な真似をしてくれたな、この馬鹿兄。
「ターニャ。よかったな」
何がよかったのだ。
ルーデウスは私の隣で、実に満足そうな顔をしていた。母に頼み、父を説得し、妹にも家庭教師をつけさせた。本人の中では、遠慮深い妹を救った立派な兄という筋書きが完成しているのだろう。
「…………はい。兄さま」
喜んでいる兄へ合わせて返事をしただけで、今度は私も乗り気だったことになるのか。
言ってやりたいことはある。だが会ったばかりの教師まで敵に回してどうする。
「では詳しいお話は中で伺います」
ロキシーは旅鞄を持ち直し、ゼニスに促されて家へ入った。私の返事を聞き返す者はいない。
リーリャさんはすれ違いざま、私を一度見ただけだった。
彼女に助けを求めても雇用主の決めた教育方針が覆るとは思えない。
玄関に残った兄の袖を引く。
「兄さま」
「ん?」
「あとで、お話があります」
「うん。ロキシー先生に教わるの楽しみだな!」
満面の笑みである。
よろしい。善意による犯行であっても、事情聴取は必要だ。
もっともその機会は訪れなかった。
ロキシーの部屋を整え、契約条件を確認し、夕食になればゼニスが彼女へ質問を浴びせる。食後はパウロが酒を勧め、兄が横から魔術について尋ね、私は母に風呂へ連行された。
翌朝、逃亡計画を策定するより早く、初回の適性確認が始まった。
---
「二人ともこちらへ」
朝食を終えたロキシーは魔術教本と杖を持って庭へ出た。
兄が先に続き、私はゼニスに背中を押されてその後を歩く。
「頑張ってね、ターニャ」
「はい、お母様」
笑顔で返しておく。
いっそ泣きわめいてみるか。三歳児なら、それで通る。
いや、教師を嫌がるほど見張りをつけられそうだ。一人で魔術を使うことまで禁じられては困る。
出力を低く見せ、初歩の制御だけはできると示す。兄より手をかける必要がないと分かれば、自習を認めてもらえるかもしれない。
ロキシーは庭の中央で足を止めた。少し離れたところには、ゼニスが大切に育てている木がある。パウロが剣を振る際にも、近づけば母から叱責される代物だ。
「本を使う前にお二人がどこまで魔術を扱えるのか確認します」
ロキシーは杖をこちらへ見せた。
「魔術には基本的な魔術として、攻撃魔術、治癒魔術、解毒魔術といった種類があります。ほかにも種類はありますが、わたしが主に教えられるのは攻撃魔術です。まずは初級の水魔術から始めましょう」
「はい!」
兄の返事だけが妙に元気だった。
ロキシーは庭木へ向き直り、杖を構える。
「最初にわたしがお手本を見せます。詠唱と魔力が形になる感覚をよく見ていてください」
彼女が息を吸う。
「汝の求める所に大いなる水の加護あらん。清涼なるせせらぎの流れを今ここに――『ウォーターボール』」
杖の先へ水が集まり、球体を形作った。
兄の魔術とは違い、水弾は少しも揺れなかった。
水弾が放たれた。
直後、鈍い音を立てて庭木の幹が折れた。
「どうですか?」
ロキシーは小さく胸を張った。
兄が折れた木を見る。次に、家の窓を見る。
「先生」
「はい」
「その木、母様が大事に育てています」
ロキシーの得意げな表情が止まった。
「……そうなのですか?」
「前に父様が枝を折ったとき、ものすごく怒られていました」
「先に言ってください!」
「まさか折るとは思いませんでした」
ロキシーは杖を放り出し、倒れた木へ駆け寄った。細い腕で幹を抱え、顔を赤くして持ち上げる。
「ル、ルディ、こちらを支えてください!」
「はい!」
「ターニャもお願いします!」
「……はい」
なぜ授業開始早々、庭木の復旧作業へ動員されているのだろう。
兄と二人で幹を支える。三歳児の腕力など当てにはならないが、傾きを抑える程度には役立つ。
ロキシーは幹の裂け目へ手を当てた。
「神なる力は芳醇なる糧、力失いしかの者に再び立ち上がる力を与えん――『ヒーリング』」
淡い光が幹を包んだ。
裂けた木肌がゆっくりとつながっていく。人間と植物では組織が異なるはずだが、術式側が対象を判別しているのか、それとも損傷以前の状態へ一律に戻しているのか。
観察したい。
だがここで食いつけば低評価を得る計画が崩れる。
「もう離して大丈夫です。ふう……」
ロキシーが額を拭った。
兄は修復された幹を撫で、目を輝かせている。
「先生は治癒魔術も使えるんですね」
「ええ。中級までなら使えます」
「すごいです!」
「きちんと学べば、これぐらいは使えるようになります」
そう答えたロキシーの声から、先ほどまでの硬さが抜けた。
兄はそれを見逃さなかったらしい。
「本当にすごいです。折れたところが全然分かりません」
「そ、そうですか? では治癒魔術についても後で説明しましょう」
なるほど、チョロいな。
もう兄の方へ身を屈めて、治した箇所を見せている。私も横から覗き込みかけて、踏みとどまった。
「ではルディ。次はあなたがやってみてください」
「はい」
兄が一歩前へ出た。
ロキシーは杖を拾いながら、庭木から少し離れた地面を指す。
「今度はこちらへ。威力は必要ありません。まずは水弾を作り、前へ飛ばすところまでです」
「分かりました」
兄が右手を構えたまま動かない。
「どうしました?」
「えっと……詠唱はなんでしたっけ?」
ロキシーが目を瞬かせた。
「いま聞いたばかりでしょう」
「途中までは覚えています」
ロキシーが詠唱をもう一度、区切りながら教える。兄は何度か口の中で繰り返したが、途中で眉間にしわを寄せた。
そして、諦めた。
「汝の求める所に……――『ウォーターボール』」
詠唱は半分にも満たない。
それでも兄の掌の前には水弾が生まれた。
ロキシーのものよりわずかに小さい。兄は一度こちらを見て、得意そうに顎を上げた。
余裕を見せているつもりか。
次の瞬間、水弾は地面ではなく、その向こうの庭木へ飛んだ。
先ほど治したばかりの幹が今度は根元近くから折れた。
「…………」
ロキシーが木を見る。
兄を見る。
もう一度、木を見る。
「兄さま」
「ち、違う。少し弱くしたんだ」
小さくしたつもりなのだろう。だができた水弾を無理に縮めれば、余計に魔力を食うのではないか。
確かめたわけではないが私なら先に疲れそうだ。兄は折れた木を前にしても平然としている。
「いま、詠唱を省略しましたね?」
ロキシーの声は静かだった。
兄は返事の代わりに両手を広げた。
「はい」
「いつも省略しているのですか?」
「いつもは……何も言わずに使っています」
ロキシーの手から杖が滑りかけた。
「何も?」
「はい」
「詠唱をまったくせずに?」
「はい。駄目でしたか?」
「駄目ではありません!」
声が裏返った。
ロキシーは咳払いをし、何事もなかったように杖を握り直す。
「疲れはありますか。眩暈や吐き気は?」
「ありません」
「魔力が切れるまで使ったことは?」
「あります。でも最近はなかなか切れなくて」
ロキシーは教本を脇へ置き、兄の掌を覗き込んだ。
「もう一度水弾を出せますか。今度は飛ばさずその場へ維持してください」
「はい」
兄の掌に再び水が集まる。
今度は完全な無詠唱だった。
水弾が膨らむ。ロキシーが横から覗き込み、指先を近づけ、兄の顔色を確かめる。
「……なるほど。これは鍛えがいがありますね」
笑っている。
どうやら兄は初日にして教師の研究対象へ昇格したらしい。
本人も褒められたと受け取ったのか、得意げに胸を張った。
その背後で、玄関の扉が開く。
「二人とも少し休憩にしましょう。ロキシーさんも――」
盆を手にしたゼニスの声が止まった。
母の視線が折れた庭木へ吸い寄せられる。
盆が傾いた。上に載っていた木杯を、私は反射的に受け止めた。兄が水弾を消す。
「ああぁーっ!」
ゼニスが木へ駆け寄った。
「どうしたの、これ!」
「奥様、これは、その……」
母が振り返る。
ロキシーは一歩下がった。
「ロキシーさん! うちの木を実験台にしないで頂戴!」
「え、えっと……一度目はわたしが見本を見せるために。二度目はルディが――」
「ルディがやったとしてもやらせたのはロキシーさんでしょう!」
私も先ほどの射線を思い返した。地面を外せば、その先には同じ木があった。
「はい……申し訳ありません、奥様」
「次からは絶対に木へ撃たせないでください!」
「はい」
ロキシーは肩を落とした。
ゼニスは怒ったまま木へ手を当てる。
「神なる力は芳醇なる糧、力失いしかの者に再び立ち上がる力を与えん――『ヒーリング』」
幹が再びつながった。
母は木肌を何度も撫で、傷が残っていないことを確かめる。それから私が受け止めた木杯を盆へ戻した。
「ありがとう、ターニャ」
「いえ」
「ロキシーさん。休憩のお茶は授業が落ち着いてからにします」
「……はい」
扉が閉まる。
ロキシーはその場にしゃがみ込んだ。杖の先で地面をつついている。
「初日から失敗してしまいました……」
「先生」
「ハハッ、明日には解雇されるかもしれませんね……」
打たれ弱い。
先ほどまで無詠唱の発見に目を輝かせていた人物とは思えない落差だ。
私がどう扱うべきか迷っていると、ルーデウスがロキシーへ近づいた。
小さな手で、彼女の肩を叩く。
「先生」
「……なんでしょう」
「先生はいま、失敗したんじゃありません」
ロキシーが顔を上げた。
「経験を積んだんです」
庭を沈黙が通り抜けた。
三歳児から教師へ向ける言葉としては、著しく不自然である。
しかしロキシーは笑わなかった。目を見開き、それから姿勢を正す。
「……そうですね。ありがとうございます、ルディ」
「はい。授業の続きをお願いします」
兄は照れたように笑った。
ロキシーは立ち上がり、ローブの土を払った。兄は一歩下がって場所を空ける。
私は口を挟まず、手を後ろへ組んで待った。
「では次はターニャですね」
忘れていてくれてもよかったのだが。
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ロキシーは桶を地面へ置き直した。今度はその先にも庭木がない。
「まず確認します。ターニャも魔術を使ったことがありますか?」
「少しだけです」
「教本を読みましたか?」
「兄さまと一緒に」
嘘ではない。
「では同じ水弾を作ってください。飛ばさなくて構いません。桶の中へ落としましょう」
「はい」
小さく、失敗せずに。使えないふりをして、付きっきりで教えられるのは避けたい。
私は桶へ右手を向けた。
「汝の求める所に大いなる水の加護あらん。清涼なるせせらぎの流れを今ここに――『ウォーターボール』」
いつものように、小さな水弾を作った。
桶の外へ飛ばさないよう、それだけ気をつける。
先ほどの二人よりはるかに小さい。
ロキシーの眉がわずかに下がる。
「そのまま、ゆっくり桶へ」
「はい」
水弾を落とす。
桶の底で、小さな音がした。
「疲れましたか?」
「少し」
実際にはほとんど消耗していない。
ロキシーは私の顔色を眺め、腕を組んだ。
「もう一度できますか?」
「はい」
同じ詠唱を繰り返す。
桶へ落ちる水音まで、ほぼ同じだった。
「もう一度」
三回目。
「もう一度お願いします」
四回目。
五回目を終えたところで、ロキシーが私の手首を取った。
「ターニャ。大きくすることはできますか?」
「分かりません」
「では小さくすることは?」
「試したことはありません」
ロキシーの視線が痛い。
完全には信じていないだろう。
彼女は桶を覗き込んだ。五つの水弾は混ざってしまったが、桶の水位は毎回ほぼ同じ幅で上がっている。
「五回ともほとんど同じでした」
「そうですか?」
「偶然では難しいことです」
「でも兄さまのように大きな魔術は使えません」
これは事実である。
「そうでしょうね」
ロキシーはあっさり認めた。
狙いどおりの返事なのに、口を挟みそうになった。こちらから大きな術を見せて、どうする。
「ルディは魔力を一度に大量に動かすことへ慣れています。その反面、必要以上に力を加える癖があるようです」
兄が心外そうな顔をした。
「弱くしたつもりです」
「つもりでは困ります。木が折れましたから」
「はい……」
「ターニャは反対です。出力は小さいですが同じ結果を繰り返せる。魔術を暴れさせないことへ慣れているように見えます」
出力が小さい。
狙いどおりの評価である。
にもかかわらず、ロキシーは魔術教本を閉じなかった。
「ロキシーさん」
「なんでしょう」
「私は兄さまと同じ授業を受ける必要はないと思います」
最後の抵抗を試みる。
「そのとおりです」
予想外の同意だった。
「ルディには出力の調整と魔術の知識が必要です。ターニャにはいま行っている制御を別の属性でも再現できるか確認する必要があります」
「それは――」
「教える内容を分けます。同じ魔術を同じように練習させるつもりはありません」
しまった。同じ授業でなくてよいなら、受けずに済むと思ったのに。
ロキシーはもう、兄と私に別々の課題を考えている。
「二人同時でも問題ありません」
ロキシーがパウロとゼニスに伝える結論を口にした。
「ただし、追加のお給金についてはあとで旦那様とお話しさせてください」
追加の仕事には追加の給金。その話なら理解できる。
課題が別なら、先に終えて抜け出せないだろうか。
「よかったな、ターニャ」
兄が私の肩を叩いた。
「……はい。兄さま」
あとで必ず事情聴取を行う。
---
昼食後、パウロは庭へ二本の棒を持ってきた。
一本を兄へ渡し、もう一本を私へ差し出す。
「ルディの剣術は今日から始めるとして、ターニャはどうする?」
「私もお願いします」
今度は迷わず答えた。
パウロが目を丸くする。隣で兄まで意外そうな顔をした。
「魔術の先生はいらないって言ってたのに?」
「それとこれとは別です、兄さま」
魔術は既に独力で研究できる。だがこの身体をどう鍛えるべきかについては資料がない。
前世と同じつもりで鍛えれば、骨か関節を傷めそうだ。その点は、パウロに見てもらいたい。
「よし!二人まとめて見てやる」
パウロは棒を振ってみせた。
私の腕より少し長い。木剣と呼ぶには細く、枝を削っただけに近い。
「まずは構えてみろ」
兄は見よう見まねで棒を握り、私も構えた。
「お、ターニャは様になってるな」
様になっているだけだ。
銃剣術や格闘訓練の経験はあるが、剣を主兵装として扱ったことはない。まして、今の短い腕と軽い身体では、前世の間合いも重心も役に立たない。
「それで、どう振るのですか?」
「こうだ。前へ出ながら、思い切り振り下ろす」
パウロの棒が風を切った。
「足から行け。グッと踏み込んで、腰を入れて、ガッと振る」
「お父様」
「なんだ?」
「踏み込む際、重心は前足と後ろ足のどちらへ置くのでしょう」
「そりゃ、前だ」
「最初からですか。接地してからですか?」
パウロが黙った。
自分の足元を見て、同じ動きをゆっくり繰り返す。
「……グッと行く途中だ」
まるで説明になっていない。
「ターニャ、難しく考えすぎじゃないか?」
兄が横から口を出す。
「兄さまは考えなさすぎです」
「まずやってみりゃ分かる。ほら、ルディからだ」
兄が棒を振ると、その勢いにつられて前へよろめいた。
「悪くないぞ。今度はもっと強く踏み込め」
悪い点を先に指摘すべきではないか。
私の番が来る。
私も棒を振った。
軽い。いや、武器ではない。身体が軽すぎる。
思うように力が乗らず、棒の先が土へ触れた。
「形はいい。でももっと思い切っていいぞ」
「もう一度お願いします」
何度か試したがどれもぎこちなかった。
四度目を終えたところで、パウロが棒を取り上げた。
「今日はそこまで!」
「まだできますよ?」
「駄目だ。手を見ろ」
掌が赤くなっていた。
痛みはある。だが訓練を中止するほどではない。
「今日は初日だからな。最初から無理をすると明日できなくなるぞ」
明日できなくなると言われると反論しづらい。私は赤くなった掌を下ろした。
パウロは棒を庭の端へ置いた。
「二人とも剣を振るのは少しずつだ。しばらくは走って、転んで、起き上がる。まず自分の身体を思ったとおりに動かせるようになれ」
「転ぶのも練習するの?」
兄が嫌そうに聞く。
「転ばない奴はいない。転んだあとにすぐ立てる奴が強いんだ」
受け身なら、剣を持たずに襲われたときにも使える。先ほどの擬音より、よほど分かりやすい説明だった。
魔術だけに依存するのも愚策だ。魔力切れ、負傷、至近距離、味方との混戦。術式を使えない状況はいくらでも想定できる。
それに魔力で身体を強くできるなら――。
「ターニャ?」
兄の声で思考を切る。
「なんです?」
「変な顔してる」
「兄さまよりは普通です」
「なんでだよ」
魔導演算宝珠はない。
前世でできたことがこの世界でもできるとは限らない。
それでも試す価値はある。午後の訓練にも、少しは楽しみができた。
私は赤くなった掌を握り、開く。
「お父様。明日も同じ訓練ですか?」
「嫌になったか?」
「いいえ。確認しただけです」
パウロが嬉しそうに笑い、私の頭を乱暴に撫でた。
「明日は庭を走るぞ。二人とも今日はよく食べて早く寝ろ」
まだ聞きたいことはある。頭を撫で回す手は、ひとまず我慢しておこう。
隣では兄が棒を拾い、先ほどの振り下ろしをこっそり繰り返していた。
「ルディ。今日は終わりだと言っただろ」
「あと一回だけ!」
「兄さま。明日できなくなりますよー」
「分かってるよ」
返事をしながら、また棒を振り上げている。
私は兄の手から棒を取り上げ、庭の端へ戻した。赤くなった掌に柄が擦れて、今度は自分も顔をしかめた。