「卒業試験は村の外で行います」
ロキシーさんがそう告げた瞬間、兄の手から尖筆が落ち、蝋板の縁へ当たって乾いた音を立てた。
「外ですか?」
「はい。二人とも水聖級魔術へ挑戦してもらいます。村や農地へ被害を出すわけにはいきませんから、十分に離れた草原まで行きます」
「家の庭ではだめですか?」
「だめです」
ロキシーさんの返答に迷いはない。
兄は魔物の危険性や、移動に掛かる時間を口にした。どれも間違いではないが、フィットア地方の魔物については既に学んでいる。ロキシーさんが同行し、街道から外れなければ、五歳児を連れて移動する危険も許容範囲だ。
にもかかわらず、兄の指は膝の上で固く握られている。
「あ、そういえばルディは村の外へ出たことがないんでしたね」
「……はい」
「村の外へ出るのが、不安なんですか?」
「違います。念のため危険がないか確認しているだけですよ?」
兄の返答は早かった。
何を恐れているのか。聞こうとしたが、兄はもう目を伏せていた。
私も蝋板へ目を戻した。
「出発は明日の朝です。パウロさんにはカラヴァッジョをお借りする許可をいただきました。今日は早く休んでください」
講義はそこで終わった。
兄は落とした尖筆を拾い、何事もなかったように蝋板を片づける。
だがその晩は何度も寝返りを打っていた。
---
~ルーデウス視点~
門の前に立った途端、足が動かなくなった。
目の前にはいつも窓から見ていた道がある。
土の道。畑。遠くに並ぶ家。どこにでもある、のどかな農村だ。
怖いものなんて何もない。
分かってる。
脇腹が痛む。知らない誰かの声が聞こえる。地面に転がった俺を、誰も助けてはくれない。
違う。
ここはあの場所じゃない。
この五年間、何度もそう言い聞かせてきた。
庭までは出られる。窓から外も見られる。パウロやロキシー先生と剣や魔術の訓練だってできる。
でも俺の足は動かなかった。
一歩進めば、この生活が夢だったと気づいてしまいそうだった。
父様も、母様も、ターニャもいなくなって、あの部屋へ戻される。そんなはずないのに、身体が信じてくれない。
「どうしました、ルディ?」
「その……やっぱり、外は危ないんじゃないかと……思って……」
カラヴァッジョの鞍には既にターニャが座っていた。
俺を見下ろしているが何も言わない。
余計なことを言わないでくれるのは助かる。
兄として格好の悪い姿を見せたくない相手の筆頭が妹なのだ。
「大丈夫ですよ。何かあっても私がいます」
「……三人も乗ったら、カラヴァッジョが疲れるんじゃないでしょうか」
「五歳児二人とわたしを乗せた程度で疲れる馬ではありませんよ」
ロキシー先生が腰へ手を当てた。
「仕方ありませんね」
「え?」
身体が浮いた。
「わっ!」
肩へ担がれ、そのまま鞍へ放り上げられる。
前にはターニャ。後ろには飛び乗ったロキシー先生。逃げ場はない。
「乗ってしまえば、すぐに怖くなくなりますよ」
「だから怖くないですって!」
「はいはい。では行きましょうか」
ロキシー先生が手綱を打つ。
カラヴァッジョが歩き出した。
門が近づく。
止まれ。
声が出ない。
手綱を取っているのは俺じゃない。
門柱が視界の横を流れた。
俺はあっさりと家の外へ出た。
何も起きなかった。
目が覚めることも罵声を浴びせられることもない。カラヴァッジョの蹄が土を踏み、一定の揺れが身体へ伝わるだけだ。
ターニャの背中越しに、村人の姿が見えた。
こちらを見ている。
胸が縮む。
何を見てるんだ。
こっち見るなよ……。
一人の農夫が帽子を取り、軽く頭を下げた。
「おはようございます、ロキシーさん」
「おはようございます」
俺ではない。
ロキシー先生を見ていたのだ。
別の家の前でも女の人が先生へ手を振った。小さな子供が、水色の髪を見つけて駆け寄ろうとし、母親に止められている。
ロキシー先生はこの村へ来て二年になる。
魔族だからと警戒されたこともあったはずだ。それでも今は、村人から名前を呼ばれ、会釈を返されている。
道を知っている。
人を知っている。
俺に何かあれば、きっと何とかしてくれる。
後ろにいる小さな先生が急に大きく感じられた。
「兄さま、力を入れすぎです」
ターニャが前を向いたまま言った。
「え?」
「私の服、掴んでますよ」
「あ、ごめん」
いつの間にか、ターニャの上着を握り締めていた。
指を離す。
「離さなくてもいいですよ。落ちると危ないですから」
「分かった」
今度は少しだけ力を抜いて掴んだ。
村を抜ける頃には呼吸が戻っていた。
周囲には畑が広がっている。主にアスラン麦を作り、バティルスの花は王都で香料へ加工されるらしい。水車小屋も見えた。
ターニャは作物の収量や、水路の管理について質問している。
卒業試験へ向かう五歳児の質問ではないと思う。
「兄さまは何か聞かないんですか?」
「ええと……先生。あそこにあるのはピーマンですか?」
「……そうですよ」
「先生が苦手な?」
「た、食べられないわけではありません。ちょっと苦手なだけです」
何が違うんだろう。
ロキシー先生の声が少し低くなった。
ターニャが肩を揺らしている。
偉大なるロキシー師匠を笑うんじゃねぇ。
この村はブエナ村といい、三十世帯ほどが農業をして暮らしている。父様は村の見回りや揉め事の仲裁、魔物への対処を任された騎士だ。
毎日見回りに出ていた父様が、どの道を歩くのかも知らなかった。次にあの水車へ来るときは、歩いて見てみたい。
畑が途切れ、何もない草原へ入る。
もう村人の視線はない。
それでも家へ戻りたいとは思わなかった。
「このあたりでいいでしょう」
一本だけ立つ木の側で、ロキシー先生が馬を止めた。
---
~ターニャ視点~
馬から降りると、ロキシー先生は私たちを少し離れた場所へ立たせた。
「これから、水聖級攻撃魔術『キュムロニンバス』を使います。広い範囲に雷を伴う豪雨を降らせる魔術です」
水聖級。
ロキシーさんが扱える最大の魔術であり、私たちへ教える最後の術でもある。
「わたしの実演は一分ほどで終わらせます。二人には一時間、魔術を維持してもらいます。先にルディ、その後にターニャです」
兄が手を挙げた。
「ここまで人里から離れるのは秘伝の魔術だからですか?」
「違います。人や農作物へ被害が出る可能性が高いからです」
ごくり、と兄が生唾を飲み込む。
そんなに大規模な魔術なのか。私も少しだけ緊張してきた。
ロキシーさんは杖を掲げ、長い詠唱を始めた。
「雄大なる水の精霊にして、天に上がりし雷帝の王子よ!
我が願いを叶え、凶暴なる恵みをもたらし、矮小なる存在に力を見せつけよ!
神なる金槌を金床に打ち付けて畏怖を示し、大地を水で埋め尽くせ!
ああ、雨よ!全てを押し流し、あらゆるものを駆逐せよ!――『キュムロニンバス』!」
一つ一つの単語を、噛み締めるようにゆっくりと詠唱する。
次第に空が暗くなった。
雲が渦を巻き、冷たい雨が一気に落ちてくる。風が草原を薙ぎ、稲光が黒雲の奥を走った。
轟音。
白い光が木へ落ちた。
繋がれていたカラヴァッジョが、煙を上げて倒れる。
「あっ!」
ロキシーさんが術を解き、馬へ駆け寄った。
「カラヴァッジョ!」
兄も走る。
私は動脈のありそうなところに指を当てた。脈はあるな。呼吸も止まってはいない。
「生きています!早く治療を」
「はい!」
ロキシーさんが震える手を馬へ当てる。
「母なる慈愛の神よ、彼の者の傷を塞ぎ、健やかなる体を取り戻さん――『エクスヒーリング』!」
淡い光が馬体を包む。
カラヴァッジョの脚が動く。止めていた息を吐いてからも、私は馬体に添えた手を離せなかった。
ロキシーさんはその場へ座り込み、額を拭った。
「あ、危ないところでした……」
「父様が知ったら、たぶん泣きますね」
兄の指摘に、彼女の顔がさらに青くなる。
「このことはパウロさんには内緒でお願いします」
「安心してください。僕は言いません」
二人の視線が私へ向いた。
「……治療は完了していますし、次はきちんと対策をお願いしますね」
「ありがとうございます、ターニャ」
ロキシーさんは涙目で頷き、杖を握り直した。
「さ、さぁ、やってみなさい。カラヴァッジョはわたしが守っておきますから」
ロキシーさんはカラヴァッジョを少し移動させ、土の上級魔術『アースフォートレス』でカマクラを作った。
「ではルディ。始めてください」
兄は空へ両手を向ける。
一度聞いただけの長い詠唱を、途中で詰まることなく繰り返す。
再び雲が生まれる。
兄は雷雲を維持するだけではなく、周囲の空気まで動かし始めた。地表を温め、上空を冷やし、風を斜めに巻き上げる。雲が縦へ膨らみ、先ほどより巨大な黒い塊へ育っていく。
「すごい……」
つい声が漏れた。雨の音で聞かれてはいないだろう。
混合魔術。
午前の授業で学んだ技術と、兄が持つ何らかの知識を組み合わせている。
「――『キュムロニンバス』!」
詠唱が終わり、雨脚が強くなる。
ロキシーさんは目を見開き、カマクラから飛び出した。
「………そうか!斜めに上がっていく竜巻が雲を押し上げて……!」
「ルディ。もう合格です」
「まだ一時間経っていませんよ?」
「必要ありません。それよりあれ、消せますか?」
「あ、はい。ちょっと待ってくださいね」
兄は地表と上空の温度を入れ替え、風の流れを力ずくで崩していく。
巨大な雲はしばらく抵抗するように渦を巻き、やがて千切れて散った。
草原へ日が戻る。
全員、頭から水を被ったように濡れていた。
「おめでとうございます。ルディ。これであなたは水聖級魔術師です」
「おめでとうございます!兄さま」
「ありがとうございます。先生、ターニャ!」
兄が笑った。
ロキシーさんも笑っているが、その目は消えた雷雲の跡から離れない。
混合魔術を組み込むあの手順は、私も教わっていない。兄に聞こうとしたところで、ロキシーさんに呼ばれた。
「次はターニャです」
ロキシーさんが私へ向き直る。
「今のルディと同じことをする必要はありません。まずは詠唱どおりに発動し、雲へ魔力を送り続けてください」
「はい」
杖を掲げる。
先ほど聞いた詠唱を、順番どおりに唱える。
長い。聞き覚えはあるのに、いざ自分で唱えると、なかなか終わらない。
「雄大なる水の精霊にして、天に上がりし雷帝の王子よ!
我が願いを叶え、凶暴なる恵みをもたらし、矮小なる存在に力を見せつけよ!
神なる金槌を金床に打ち付けて畏怖を示し、大地を水で埋め尽くせ!
ああ、雨よ、全てを押し流し、あらゆるものを駆逐せよ!――『キュムロニンバス』」
頭上へ雲が集まった。
雨が草原の一角を濡らし、人と馬から離れた地面へ雷が落ちた。
発動は成功。
このまま魔力を送り続ければ合格。
一時間の維持もおそらく可能だ。
だが水聖級という資格を得る利点は何だ?
兄一人なら、類いまれな才能を持つ子供で済む。双子がそろって五歳で水聖級となれば、偶然では片づけられない。家系を調べる者、両親へ接触する者、二人まとめて利用しようとする者が現れる可能性は上がる。
また優秀だと褒められ、その期待どおりに働かされるのか。
もう、たくさんだ。
維持へ回すはずの魔力をゆっくりと止めた。
やがて雲の端がほどける。
雨脚が弱まり、黒かった雲は風に流されて消えていった。
「……すみません。維持できませんでした」
ロキシーさんは空を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「発動には成功しています。雷の位置も雨の範囲も制御できていました。五歳でそこまでできれば、十分すぎる成果です」
これで終わりだ。
それなのに、杖を上げかけた。維持しなかったのはわざとなのに、失敗したまま終えるのが妙に癪だった。
何を張り合っている、私は。
「魔力が戻ってから、もう一度試しますか?」
「いいえ。今の私にはまだ早いようです」
ロキシーさんが私を見る。
私も目を逸らさなかった。
兄は気づいていないだろうが、ロキシーさん程にもなると、あの魔術の不自然さには気づくだろう。
だが、彼女ならわかってくれる気がした。
「……そうですか」
それ以上は聞かれなかった。
「では必要になったときにもう一度挑戦してください」
「はい。ご指導、ありがとうございました」
予定どおり、上級のままで済んだ。
杖をしまう間、ロキシーさんの方は見れなかった。
---
帰り道、兄はよく喋った。
朝の硬い顔はもう残っていない。
家の門へ着くと、兄は馬から降りた後もその場に立っていた。
「兄さま?」
「先に入ってて」
門の内側から外を見ている。
やがて右足を前へ出した。
門を越え、道の上へ立つ。
ほかには何も起きなかった。
兄は足元を見下ろし、靴の裏で土を踏んだ。それから泣きそうな顔で笑った。
私は理由を聞かなかった。
「夕食に遅れますよ、兄さま」
「うん。今行く」
並んで家へ戻る。
兄は一度だけ振り返ったが、足は止まらなかった。
---
翌朝。
ロキシーさんは二年前にこの家へ来たときと同じ色のローブをまとい、玄関に立っていた。
足元には鞄が一つ。手には杖。
本当に、それだけで出ていくらしい。
「ロキシーちゃん、まだいてもいいのよ? 教えていない料理もたくさんあるわ」
「そうだぞ。去年の干ばつでも助けてもらった。ロキシーちゃんが残るならみんな歓迎すると思うぞ」
ゼニスとパウロが引き留める。
「ありがとうございます。でも今回のことで自分の未熟さが分かりました。しばらく世界を旅して、もっと魔術を学びたいと思います」
「そうか……」
「さみしくなるわね…」
兄の魔術を見たことが決断を早めたのだろう。
自分より優秀な者に師と呼ばれることを嫌がっていた彼女らしい選択である。
「ルディ」
ロキシーさんは兄の前へ屈み、頭へ手を置いた。
「わたしなりに精一杯教えたつもりですが、もうあなたへ教えられることはありません」
「そんなことありません。先生にはいろんなことを教えてもらいました……」
兄の声が震えている。
ロキシーさんはローブの内側から、革紐のついたペンダントを取り出した。緑の光沢を持つ金属で作られ、三本の槍を組み合わせたような形をしている。
「卒業祝いです。これはミグルド族のお守りです。気難しい魔族と出会ったとき、これを見せてわたしの名前を出せば少しくらい融通してくれるかもしれません」
「……大切にします」
「かもですから過信はしないでくださいね」
兄が両手でお守りを受け取る。
ロキシーさんは次に、私の前へ来た。
「ターニャ」
「はい」
「次に会うときにはあれを消さずに見せてください」
やはり気づいていたのだろうか。
表情からは読めない。
「必要があれば」
「そこは、はい、と答えるところです」
「善処します」
ロキシーさんは困った顔をして、私の頭へ手を置いた。
「あなたには教えたことをそのまま覚えるより、自分で考えることを多く教えられた気がします」
「私も、質問へ分からないと答えられる教師がいることを学びました」
「褒めていますか?」
「もちろんです」
本心だった。質問のたびに教本を開いてくれた手が、今は私の頭に載っている。
「今まで、ありがとうございました。ロキシーさん」
頭を下げる。
顔を上げると、彼女は少し困ったように笑っていた。
「どういたしまして」
ロキシーさんが歩き出す。
ゼニスが目元を拭い、パウロが大きく手を振った。リーリャさんは玄関脇で静かに頭を下げている。
兄は泣いていた。
「ありがとうございました、師匠!」
ロキシーさんは振り返らず、杖を持った手だけを上げた。
私も短杖を握り、遠ざかる背中を見送る。
門の外に立つ兄の足はもう震えていなかった。
ロキシーさんの姿が道の向こうへ消える。
明日から剣術は午前、午後は自由に使える。
記録帳を開くと、試験の雲について尋ねたいことが出てきた。書きつけてから、顔を上げる。
壁際にはもう杖がなかった。
---
その日の夜、ルーデウスがごそごそしているところを発見した。
何をしているのかと扉の隙間から見ていると、おもむろに女物のパンツを取り出した。
サイズからして母やリーリャのものではない。
私はあのようなパンツは持っていないので、ロキシーから盗んだのだろうか。
この、変態が!!!
問い詰めようかとも思ったが、詳しい事情を聞かされるのは御免である。
私は音を立てずに扉を閉めた。
何も見なかったことにしよう。
うん。そうしよう。