すべてが変わったのは、あの日の夕方だった。
中学に進級してすぐの春。リビングのテーブルの上に置かれた、一枚の白い紙。
母親が片付け忘れていた戸籍謄本の控えを、何気なく目にしてしまったのだ。
そこには、私とは違う苗字から今の家に入籍した、「比企谷八幡」の名前があった。
――お兄ちゃんは、養子だった。
文字が頭の中でうまく意味を結ばない。何度も読み返して、ようやく理解した。
私と、お兄ちゃんの間には、血の繋がりなんて一ミリもなかったのだと知った。
その日、部活から帰ってきたお兄ちゃんは、いつものように面倒くさそうにリビングの椅子に倒れ込み、「疲れた、何か甘いもんないのかよ」と言った。
いつもと同じはずのその気だるげな声に、私の心臓は不自然に跳ね上がった。
「……あ、うん、プリンならあるけど」
声が裏返らなかったのは奇跡だったかもしれない。
それからだ。何かが確実に、決定的に狂い始めたのは。
「お兄ちゃん、シャツの肩のあたり、ゴミついてるよ」
「あ? ……本当だ、ありがと」
これまでなら、無造作にその場で手ではたいてやっていたはずだった。でも、そのときは指先が急にこわばって、動かなくなった。
ただの「妹」として、無遠慮に距離を詰めていたあの特権が、途方もなく重いものに感じられてしまった。
血が繋がっていない。
その事実を知った瞬間から、目の前にいる「お兄ちゃん」は、ただの「家族」ではなくなってしまった。
――私は、お兄ちゃんを「男」として意識してしまっている。
その悍ましくも甘い自覚が生まれた日から、小町は必死で仮面をかぶり続けた。
いつも通りに毒を吐き、いつものように「お兄ちゃーん」と甘えてみせる。そうしなければ、この絶妙なバランスで保たれている関係が、ガラガラと音を立てて崩れ去る気がしたからだ。
「……おい、どうしたんだよ、小町」
不意に、目の前でお兄ちゃんが首を傾げた。
いつの間にか、私はじっと彼の横顔を見つめすぎていたらしい。お兄ちゃんの視線が私を捉え、その淀んだ黒い瞳に自分が映る。
「なんでもない! ちょっと、今日のテストの順位思い出して絶望してただけ!」
慌てて作り笑いを張り付け、いつもの調子で言い返す。
けれど、その声の裏で、小さく心臓が鳴り響いていた。
血が繋がっていないと知った十三歳のあの日から、私の時間はあのリビングで止まったままだ。
お兄ちゃんはきっと、私をただの「妹」としてしか見ていない。その事実が切なくて、愛おしくて、どうしようもなく苦しかった。
父親の語る真実
「――お兄ちゃんが、養子?」
リビングに響いた自分の声が、やけに硬く冷たく聞こえた。
休日の昼下がり、洗濯物を畳んでいた私の手がピタリと止まる。リビングのソファで新聞を広げていたお父さんは、ふっと視線を上げ、小さく息をついた。
「ああ。お前がまだ物心つく前の話だからな。知らなくて無理もない」
お父さんは遠い目をして、湯呑みの緑茶をひとくち啜った。
隠すつもりなど最初からなかったように、けれどどこか懐かしむような、穏やかな声色で話し始める。
「あいつはな、俺の親友の息子だったんだよ。学生時代からの、一番気の置けない連れだった。だけど……急な事故で、あいつの両親は揃って逝っちまった。親戚も引き取り手を嫌がって、このままだと八幡は施設に入るしかなかった」
胸が締め付けられるような痛みが走った。
あのひねくれた、誰よりも世界を斜めに見て、だけど自己犠牲ばかり選ぶお兄ちゃんのルーツ。その背景に、そんな重い過去があったなんて。
「……じゃあ、お父さんが引き取ったの?」
「当たり前だろ。親友の忘れ形見であり、俺にとっては可愛いガキだったからな。すぐに戸籍上の手続きをして、俺の息子にした。血が繋がっていなかろうが、戸籍の紙切れがどうあろうが関係ない。あいつは俺の息子だ。間違いなくな」
お父さんの言葉には、一片の迷いもなかった。
実の父親ではない。だけど、八幡を育て上げたのは間違いなくこの人で、比企谷家という場所だった。
胸の奥が熱くなるのと同時に、ふと、十三歳のあの日のことが頭をよぎった。
お父さんの言葉を聞きながら、小町は恐る恐る尋ねる。
「……お兄ちゃんは、自分が養子だってこと、知ってるの?」
お父さんは新聞を畳み、テーブルに置くと、少しだけ眉尻を下げて苦笑した。
「さあな。本人には一言も話した覚えはない。隠し通せたとは思っちゃいないが……」
お父さんは少し間を置いて、ぼそりと言った。
「あいつは勘のいいやつだからな。もしかしたら、ずっと前から知っているかもしれない。……いや、知っていながら、知らないふりをしている可能性のほうが高いな」
――知っていながら、知らないふりをしている。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
だから、あんなに距離を取るような真似はしない。だから、いつだって「普通のお兄ちゃん」として振る舞い続けてくれている。私に気を使わせないように、家族という関係を壊さないように、あいつはすべてを飲み込んで、あのひねくれた仮面の下に隠しているのだ。
「……そっか」
小町は握りしめていたタオルをきゅっと胸元に引き寄せた。
切なくて、愛おしくて、どうしようもなく気まずくて、だけどやっぱり――お兄ちゃんらしい優しさに、泣きそうになる。
「どうかしたか、小町?」
「ううん、なんでもない! ちょっと、お兄ちゃんに言いたいことができただけ!」
小町は足早にリビングをあとにして、自分の部屋へと向かった。
扉を閉め、背中を預けて床にへたり込む。
血が繋がっていなかろうが、本当の兄弟じゃなかろうが。
あの日から始まったこのどうしようもない恋心も、お兄ちゃんが隠し続ける優しさも、すべてを抱えたまま、私たちは今日も「兄妹」のままで生きている。
世界で一番の妹
夕食の片付けを終えて、私はリビングのソファに座り込んでいた。
お父さんから聞いた真実――お兄ちゃんが養子だということ、そして、もしかしたらそれを知っていながら知らないふりをしているかもしれないという仮説が、頭の中でぐるぐると渦を巻いている。
ちょうどそのとき、自室から「お茶、お代わり」とマグカップを持ったお兄ちゃんがひょっこり現れた。
パジャマがわりにしているヨレヨレのスウェット姿に、ボサボサの黒髪。相変わらず隙だらけで、どこか冴えないいつもの「お兄ちゃん」だ。
でも、知ってしまった今、私の見方は少しだけ違っている。
この人は、血の繋がらない私を、本当の妹として、家族として守り続けてくれている。私に気を遣わせないように、何食わぬ顔で「兄」を演じてくれている。
――ねえ、お兄ちゃん。本当は、どう思ってるの?
胸の奥から湧き上がってきた衝動を抑えきれず、私はマグカップにお湯を注いでいる彼の背中に声をかけた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん、なんだよ」
「急になんだけどさ」
私は少しだけ息を吸い込み、できるだけいつも通りの、小悪魔っぽいトーンを作って尋ねた。
「お兄ちゃんにとって、小町ってさ、どういう存在?」
お湯を注ぐ手がピタリと止まる。
お兄ちゃんは振り返り、ジト目を私に向けた。相変わらずの、あの気だるげな「魚の死んだような目」だ。
「は? なんだよ急に。宗教の勧誘か? それともまた変なネットの心理テストでも見たのかよ」
「いいから! 真面目に答えてよ。妹として、さ」
私が少しムキになって詰め寄ると、お兄ちゃんはめんどくさそうに頭を掻いた。
そして、ポットのスイッチを切り、振り返って私を見た。
その表情には、照れ隠し特有の不自然さも、誤魔化すような軽口もなかった。ただ、いつもと同じ、けれどどこ真っ直ぐな瞳だった。
「――俺の可愛い妹だろ。世界で一番、な」
一瞬、部屋の空気が止まった気がした。
「……っ」
あまりにも自然に、あまりにもまっすぐに紡がれたその言葉は、私の予想を遥かに超えて心臓を直撃した。
「世界で一番」なんて、兄が妹に向けるには少しだけ甘すぎるその台詞が、妙にリアルな温度を持って響く。
血が繋がっていないことを知っているからこそ、その言葉の重みが胸の奥を激しく揺さぶる。
彼は「妹として」そう言った。家族としての愛情なのだと頭では分かるのに、それを聞いた瞬間、私の頬は一気に沸騰したように熱くなった。
「なっ、なに急にキザなこと言ってのよ! 気持ち悪っ!」
「はあ!? お前が聞いたんだろ! なんでそんな顔真っ赤にしてんだよ、熱でもあんのか?」
お兄ちゃんが怪訝そうに眉をひそめ、私の額に手を伸ばそうとしてくる。
その大きな手が近づいてくるだけで、心臓の音がうるさくて、息ができなくなりそうだった。
「こ、こないで! なんでもない! ただ部屋が暑いだけ!」
「はあ? エアコンついだろ……おい、小町?」
私は慌ててソファから跳ね起き、お兄ちゃんの手をぴしゃりと払い除けると、顔を両手で覆ったまま自分の部屋へと駆け込んだ。
ガチャンと乱暴にドアを閉め、そのまま背中を預けて床に滑り落ちる。
自分の両手で両頬を押さえてみたが、熱は一向に引く気配がない。
――世界で一番、だって。
ずるいよ、お兄ちゃん。
そんな顔で、そんな声で、そんなこと言われたら――血の繋がっていないただの他人になんて、戻れるわけないじゃない。
ドアの向こうから、「おい、大丈夫かよ……?」とお兄ちゃんの戸惑う声が聞こえた。
私は赤くなった顔を両手で隠したまま、小さく息を吐き出し、どうしようもなく高鳴る胸をぎゅっと抱きしめた。
朝のペダル
翌日の朝。
リビングの時計は午前八時を少し回ったところだった。
「――は? 自転車で送る?」
ダイニングテーブルの端でトーストをかじっていた俺は、目の前でリュックの肩紐を直している小町を見上げて聞き返した。
「そう。自転車。お兄ちゃん、今日学校まで自転車で行くんでしょ? 小町、駅までのバス乗り過ごしちゃったの! このままだと遅刻確定なんだもん、お願い!」
両手を合わせて拝み倒してくる小町。
やれやれ、と俺はため息をつく。普段なら「知るか、自業自得だ」と冷たく突き放すところだが、昨日の夜のあんなやり取り(お互い妙に気まずかったアレ)があったせいか、なぜか強く拒絶しづらい空気があった。
「……仕方ねぇな。のろまな足手まといを乗せる分の体力が余計にいるが、遅刻されて小言を言われるのも面倒だ。ほら、早く乗れ」
俺が玄関先で自転車のスタンドを蹴り上げると、小町は「やった! お兄ちゃん大好き!」と満面の笑みを浮かべて、後ろの荷台へとひょいと跨った。
「おい、しっかり掴まってろよ。振り落とされても知らねぇからな」
「うん、分かってる!」
ガチャン、とペダルを踏み込み、自転車がアスファルトを蹴り出す。
朝のひんやりとした空気が頬をかすめ、桜並木の葉がカサカサと音を立てて揺れた。
――いつもと変わらない、見慣れた通学路のはずだった。
「……っ」
自転車の後ろに乗る小町は、背中越しに俺のシャツの裾をギュッと掴んでいた。
本来なら、ただそれだけの、日常のワンシーンだ。兄妹なのだから当たり前の距離感のはずだった。
けれど、十三歳のあの日からすべてを知ってしまった小町にとっては、その「当たり前」があまりにも劇薬だった。
背中に伝わってくる、お兄ちゃんの背中の広さ。
漕ぐたびに筋肉がわずかに緊張する感触。
風に乗ってふわりと香る、おとなしい柔軟剤の匂い。
(近い、近すぎる……!)
自転車の揺れに体が持っていかれるたび、小町の額がお兄ちゃんの背中にコツンと軽くぶつかる。そのたびに、心臓がバクバクと暴れ出すのを必死で抑え込まなければならなかった。
前を走る高校の校門が見えてくる。もうすぐ着いてしまう。
離れたくない。でも、このままこうしていると、胸の鼓動が背中越しにお兄ちゃんに聞こえてしまうんじゃないかという恐怖すらあった。
「おい、小町。そろそろ着くぞ。降りる準備しとけ」
前を向いたまま、お兄ちゃんが少し声を張る。
「う、うん……!」
掠れそうになる声を必死に押し殺して返事をする。
自転車が校門の脇にキキッと音を立てて止まった。
小町は慌てて荷台から飛び降り、地面に足を着く。
まだ火照りが引かない赤い顔を隠すように、すぐにリュックのベルトを握りしめた。
「あ、ありがとう、お兄ちゃん! 助かった!」
「おう。道中、変に暴れるなよ。じゃあな、遅刻すんなよ」
お兄ちゃんは気だるげに片手をひらひらと振ると、そのまま自分の学校へとペダルをこぎ出していく。
遠ざかっていくその背中を見送りながら、小町は自分の胸にそっと手を当てた。
血が繋がっていないことを知っているのは、世界で私だけ。
この恋が間違いだとしても、お兄ちゃんがくれる「世界で一番の妹」という言葉の裏にある優しさを、小町は今日も胸の奥で大切に、ぎゅっと抱きしめていた。
母の言葉
その夜、お風呂上がりのリビングで、私は母と二人きりになった。
テレビの音が静かに流れる中、私はマグカップに紅茶を注ぎながら、ずっと胸の奥につかえていた疑問をそっと切り出したね。
「ねえ、お母さん」
「ん? どうしたの、小町」
「お兄ちゃんのことなんだけどさ……お父さんから聞いたんだ。お兄ちゃんが養子だってこと」
お母さんが湯呑みを傾ける手が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。
けれど、驚いた様子はすぐに消え、彼女は穏やかな笑みを浮かべて私に向き直った。
「そう……あなたのお父さん、あっさり話しちゃったのね。もう少し隠しておけばよかったのに」
「うううん、いいの。……ねえ、お母さんにとってはお兄ちゃんって、どういう存在なの?」
お父さんは「親友の息子で、俺の息子だ」と言った。
じゃあ、産みの親ではないお母さんは、お兄ちゃんをどう思っているのだろう。血の繋がらない我が子を、本当の息子として愛せているのだろうか。そんな、少し意地悪で不安な問いだった。
お母さんは少しだけ遠くを見るような目をし、やわらかく微笑んだ。
「そうねぇ……。私ね、もともと子どもができにくい身体だったの。お父さんと結婚して、何度か治療もしたけれど授からなくて。もう諦めかけていたときに、あの事故があったのよ」
静かな声で、母は昔のことを語り始めた。
「親友を亡くして絶望していたお父さんが、小さな八幡を連れて帰ってきた。まだあの子が物心もつく前の、本当にか弱い赤ん坊のときだったわ」
お母さんは湯呑みをテーブルに置き、私のほうへ体を向けた。その瞳には、嘘偽りのない深い愛情が満ちていた。
「産んだわけじゃない。私の血は一滴も流れていないわ。でもね、初めてあの小さな手を握ったとき、私は思ったの。この子は神様が私たちのところに授けてくれた、世界の宝物だって」
胸の奥がキュッと締め付けられる。
世界の宝物――お父さんだけでなく、お母さんにとっても、お兄ちゃんはそれほどまでに大切に愛されてきた存在だったのだ。
「八幡はね、物心ついた頃から妙に物分かりが良くて、甘えることもあまりしない子だった。気を使わせちゃってるのかなって、何度も胸が痛んだわ。だから、私が必死で母親になろうとしたというより、あの子の存在が、私たちを本当の家族にしてくれたのよ」
お母さんはふっと優しく目を細め、それから少しだけ声を和らげた。
「それにね、そのあと奇跡みたいにあなた(小町)が生まれた。可愛い可愛い私の娘が生まれて、毎日が本当に賑やかになった。……でもね、小町」
「……うん」
「小町が生まれてからも、八幡への気持ちが変わったことは一度もないわ。あの子はね、私にとって自慢の息子よ。間違いなく、私の誇りなの」
――小町が生まれても、八幡は自慢の息子よ。
その言葉を聞いた瞬間、私の目頭が熱くなり、視界が急にぼやけた。
血が繋がっていなかろうが、後から家族になろうが、そんな戸籍の事情なんて関係ない。
お父さんも、お母さんも、そしてもちろんお兄ちゃん本人も、この比企谷家という場所で、本物の家族としてお互いを愛し、守り合ってきたのだ。
「……そっか。なんだ、お母さんもお父さんも、お兄ちゃん大好きすぎでしょ」
私は慌てて紅茶で喉を潤し、わざと普段の小悪魔っぽいトーンを作ってみせた。
「あら、何よ。自慢の息子でしょう、あの子は。小町だってお兄ちゃんが大好きなくせに」
「なっ! なんでそんなこと言うのよ!」
「ふふ、顔に出やすいところはお父さんそっくりね」
お母さんはクスクスと笑いながら、私の頭を優しく撫でた。
その温もりは、昨日お兄ちゃんに背中を押されたときと同じくらい、心地よくて、切なくて、あたたかかった。
血の繋がりなんてなくてもいい。
私たちはちゃんと家族で、そして私は――このどうしようもないくらい優しい「お兄ちゃん」に、ずっと恋をしている。
守るべきもの
放課後の薄暗い廊下の片隅で、その光景は繰り広げられていた。
「ねえ、ちょっと聞いてるの? 小町ちゃんってばさ、いつもお兄ちゃんお兄ちゃんって、ブラコンすぎない?」
「しかもさ、親の再婚とかで血が繋がってないって本当? なんかちょっと気味悪くない?」
クラスのグループの中心にいる女子たちが、面白半分といった様子で私――小町を取り囲み、ヒソヒソと意地悪な笑い声を上げていた。
図星を突かれたような、でも全然違うという否定もできない言葉に、私の心臓はキュッと縮み上がる。言い返したいのに、喉の奥がつかえたように声が出なかった。
(どうしよう……うまく笑って、いつものように交わさなきゃ)
そう思って引きつった笑みを浮かべたとき、背後からスッと、大きな影が落ちた。
「おい」
低く、けれどどこか気だるげで、よく知っている声だった。
振り返るまでもない。あの特有の、気だるさと底知れない圧を孕んだ声の主は、間違いなく――お兄ちゃんだった。
「ひっ、比企谷くん……?」
女子たちの声がピタリと止まる。
廊下の空気が一瞬で凍りついたように静まり返った。少し離れたところで自分のクラスの用事を終えて通りかかったのだろう。お兄ちゃんは愛用のバッグを肩にかけ、トボトボとした足取りでこちらに近づいてきた。
いつもの、魚の死んだような目で相手を一瞥する。けれど、その奥にある黒い瞳は、普段の退屈そうなそれとは違っていた。
「あのさ」
お兄ちゃんはため息をつきながら、私の前に一歩踏み出し、さりげなく彼女たちと私の間に体を割り込ませた。
「女子特有の暇つぶしに付き合うのは勝手だがね……うちの大事な妹なんだわ、それ以上変なちょろちょろした絡み方すんなよ。見ててこっちが恥ずかしくなる」
責めるようなトーンではなかった。怒鳴るわけでも、冷たく突き放すわけでもない。
まるで、手のかかる駄々っ子を諭すような、どこか穏やかですらある低音だった。
「で、でも、比企谷くん、この子……」
「血の繋がりがどうとか、他人がペラペラ喋る話題じゃねぇだろ。戸籍の事情なんて外野が気にするほどドラマチックじゃねぇよ。ただの家族だ、こっちは」
そう言って、お兄ちゃんはふっと小さく息をついた。
その言葉の圧倒的な包容力と、濁りのない真っ直ぐな響きに、意地悪を言っていた女子たちは言葉を失う。
「……っ」
中心にいた女子の一人が、みるみるうちに耳まで真っ赤に染め上げていく。
学校内では、ひねくれ者だの変人だのと言われながらも、いざという時の妙な頭の良さや、無意識に人を守るその達観した立ち振る舞いから、実は女子の間で密かに一目置かれている――いわゆる「隠れ人気」のあるお兄ちゃん。そんな彼から、こんな至近距離で「うちの大事な妹」などと真剣な顔で言われれば、年頃の女子が耐えられるはずもなかった。
「……悪かったな、変な絡み方して。こいつ、これでも結構不器用だからさ。もしよかったら、これからも学校で仲良くしてやってくれ」
最後にぽつりと言い残すと、お兄ちゃんはそれ以上相手の返事も待たず、片手をヒラヒラと振った。
「ほら、小町。帰るぞ。母さんが今日の夕飯はハンバーグだってさ」
「あ、うん……お兄ちゃん!」
私は真っ赤になった顔を隠すように慌てて後を追いかけた。
背後で、女子たちが「なんか……かっこよくない?」「……ちょっと待って、ずるくない?」と慌てて顔を赤らめ合っている声が聞こえた気がしたけれど、もうどうでもよかった。
夕暮れの校門へと続く道を、少し先を歩くお兄ちゃんの背中。
その背中を追いかけながら、私は自分の胸の鼓動がうるさいほど高鳴るのを感じていた。
――大事な妹、か。
ずるいよ、お兄ちゃん。そんな顔で、そんな風に守られたら、私のこの恋は、もう絶対に止められそうにない。
知っていたから、だから
夕食後の静かなリビング。
両親が買い出しに出かけていて、部屋にはテレビのニュースの音だけがぼんやりと響いていた。
私はマグカップを両手で包み込みながら、ソファの端で小さくなっていた。
お兄ちゃんは少し離れた場所で、スマホをいじりながらダラダラとくつろいでいる。そのいつも通りの空気が、今の私にはやけに眩しくて、そして少しだけ切なかった。
――あの日の廊下の一件以来、隠し通すのが限界に近づいている気がしていた。
お父さんもお母さんも、そして何よりお兄ちゃん自身も、私のことを本当の妹として大切にしてくれている。その優しさを知れば知るほど、「血が繋がっていない」という事実が私のなかで重みを増していく。
意を決して、私は小さく息を吸い込んだ。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
スマホから目を離さず、気だるげに返事をする八幡。
「……血が繋がってないこと、知ったのって、いつ?」
その瞬間、部屋の空気がわずかにピタリと止まった。
八幡の手が止まり、ゆっくりとスマホの画面から視線を外す。その黒い瞳が、まっすぐに私を捉えた。驚きの色はなかった。どこか、来るべき時が来たと言わんばかりの、静かな眼差しだった。
「……いつからって、お前、いつ知ったんだよ」
「私は……中学のとき。お父さんの書類を見て、偶然……」
八幡は小さく息をつき、ソファの背もたれに体を預けた。
「そうか。お前は中学生のときかよ。俺はずっと前……それこそ、この家に引き取られて、もう少し物心がついた頃には知ってたけどな」
「え……?」
驚いて息を呑む私に、八幡はフッと自嘲気味に笑ってみせた。
「驚くなよ。俺には、本当の両親の記憶がうっすらと残ってる。事故の日のこととか、おぼろげだけどな。だから、この家に来たとき、苗字が違うことも、俺がどこから来たのかも、なんとなく子供心に理解してたんだよ」
八幡は天井を見上げ、どこか懐かしむような、優しい目ををした。
「あの人たちはさ、血の繋がらない俺を、自分の子供以上に大切にしてくれた。どれだけ不器用でひねくれたガキだったときも、一度だって見捨てたりしなかった。……俺にとってあの人たちは、間違いなく俺の本当の両親だ」
だからこそ、と八幡は言葉を続ける。
その視線が、再びまっすぐに私に向けられた。
「だから俺は、比企谷家の長男なんだよ。血が繋がっていようがなかろうが関係ねぇ。そして――お前は、俺の自慢で、世界で一番可愛い妹だ」
淡々と、けれど淀みない声で、八幡はそう言い切った。
知っていたのだ。
自分が養子であることも、私と血が繋がっていないことも。全部最初から知っていながら、彼は何も言わず、ただ当たり前の「お兄ちゃん」として、私に寄り添い続けてくれていたのだ。
その事実が、胸の奥を激しく揺さぶる。
隠し事なんて、最初から何もなかった。お兄ちゃんはずっと前網から、私のことを「妹」として選んで、守り続けてくれていた。
「お兄ちゃん……」
視界が急速ににじみ、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
血の繋がりなんて、本当にどうでもよかった。この人が私の「お兄ちゃん」で、私がこの人の「妹」であるという事実だけで、私の世界はもう十分に満たされていたから。
「なんだよ、急に泣くなよ……ほら、ティッシュ」
八幡は面倒くさそうにしながらも、慌ててテーブルの上のティッシュ箱を私に押し付ける。その不器用で、でも圧倒的に優しい優しさが、たまらなく愛おしかった。
私はあふれる涙を拭いながら、ぐっと唇を結び、いつもの小悪魔的な笑みを無理やり引っ張り出した。
「……泣いてないし! もう、お兄ちゃんのくせに、かっこいいこと言わないでよ!」
「はあ? なんだよそれ、せっかく真面目に語ってやったのに台無しだな」
呆れたようにため息をつく八幡の顔も、少しだけ赤く染まっているのを、私は見逃さなかった。
血の繋がらない兄妹。
隠された秘密なんて最初からなくて、あるのはただ、お互いを大切に想い合う温かい時間だけ。
私たちは今日も、このリビングで「家族」として、同じ時間を歩んでいる。
事故のあと
あれは、俺が高校に入学したばかりの春のことだった。
桜が散り始めた通学路。飛び出してきた一匹の犬を庇い、俺は車道に放り出された。
鈍い衝撃と激痛が走ったあと、視界がスッと暗くなった。
気がつくと、見慣れない白い天井が広がっていた。ここはどこの病院だ。全身が重く、特に右腕と肋骨のあたりがジンジンと痛む。
「――八幡っ!」
ガタッと激しい音を立てて病室のドアが開き、血相を変えた両親が飛び込んできた。
先頭にいたのはお父さんだ。いつもは冷静でどっしり構えているはずの父親が、顔を真っ青にして俺のベッドに駆け寄り、肩を激しく掴んだ。
「お前、馬鹿野郎……ッ! 無事か、どこが痛い……っ!?」
「父さん……痛ぇよ、肋が折れてる気がする……」
「しっかりしろ八幡! 生きててよかった……本当に、よかった……」
お父さんの手が震えていた。その背後から、お母さんも大粒の涙をボロボロとこぼしながら駆け寄り、俺の頭をぎゅっと抱きしめた。
「八幡……! もう、無茶ばっかりして……っ! あんたが死んじゃったら、お母さん……」
「母さん、苦しいって……」
俺にはうっすらと本当の両親の記憶がある。幼い頃に事故で亡くした、別の親の記憶が。
だから、この人たちが俺の生みの親ではないことを、物心ついた頃からずっと知っていた。
けれど、俺からこの秘密を口にしたことは一度もない。
なぜなら、この人たちは一度だって俺を「血の繋がらない他人」として扱ったことがなかったからだ。それどころか、本当の我が子だと言わんばかりに、ありったけの愛情で俺を育ててくれた。
だから俺は比企谷家の長男であり、この人たちの「実の息子」として、今までも、これからも生きていくつもりだった。
そのとき――。
病室の静かな空間に、コツコツと、よく響く上品な足音が近づいてきた。
「……お騒がせしております。比企谷様ですね」
低く、しかし凛とした、微塵の隙もない女性の声。
俺たちがそちらに視線を向けると、病室の入り口に、完璧な身なりのスーツを着こなした冷徹な気品を纏う女性が立っていた。
雪ノ下雪乃の母親――雪ノ下母だ。今回の事故を起こした車の持ち主であり、この地域の顔役とも言える人物だった。
お父さんはゆっくりと立ち上がり、俺を庇うように一歩前に出て、その女性と真っ正面から向き合った。
空気の温度が、一気に下がるのを感じる。
「……あなたが、雪ノ下さんの……」
「事故の件については、我が家の運転手の不注意、そして過失をすべて認めます。治療費、慰謝料、その他いかなる賠償も、望む通りに迅速に対応させていただきます」
雪ノ下母の声には感情の揺らぎが一切なかった。まるでビジネスの交渉のように、淡々と、しかし圧倒的な威圧感を持って告げる。
その冷たい態度に、お父さんの眉間に深い皺が寄った。
だが、怒鳴りつけるわけでも、怯むわけでもない。お父さんはじっと彼女の目を据え、静かに、しかし我が子を傷つけられた父親の怒りを孕んだ声で言った。
「賠償金の話なんてどうでもいい。……うちの息子をはねておいて、それだけか」
「……」
雪ノ下母の瞳がわずかに揺らいだ。
お父さんはさらに一歩踏み込み、血の繋がりなんて関係なく、ただ「自分の大事な息子」を傷つけられた親として、真っ直ぐに言い放った。
「この子はな、俺たちの自慢の息子だ。俺たちが命にかけて守ると決めた、大切な宝物なんだよ。その息子を傷つけたことに対して、親としてどうケジメをつけてくれる」
その言葉を聞いた瞬間、俺はベッドの上でわずかに目を伏せた。
――この人たちにとって、俺はいつだって「本当の息子」なのだ。
戸籍の事情なんて関係なく、この人たちは本気で俺を愛し、守ろうとしてくれている。
雪ノ下母はわずかに息を呑み、それから、深く――本当に深く、頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした。親として、心よりお詫び申し上げます」
病室に重い沈黙が落ちる。
ベッドの上でため息をつく俺と、その傍らで俺を庇い続ける両親。
血の繋がりを隠したまま、俺たちは今日も本物の家族として、同じ時間を歩んでいる。
白昼のカルテ
事故から数日後。
病室の静けさは、主治医の「失礼します」という声で破られた。
カルテを片手にやってきた医者は、少しだけ言いにくそうにメガネのブリッジを押し上げ、それからベッドの上にいる俺と、傍らに座る両親を交互に見渡した。
「えー、比企谷くんの術前検査と、今後のリハビリについての確認なんですが……」
医者は手元の書類から目を離し、少し慎重な口調で切り出した。
「お父さん、お母さん。少し確認しておきたいことがあるんです。実は、八幡くんの血液型ですが……両親の型からすると、遺伝学的に少し矛盾があるんですよ」
病室の空気が、ふっと凍りついた。
お父さんが怪訝そうに眉をひそめ、お母さんはハッとしたように目を見開く。
「……どういうことだ、先生」
「ええ、つまりですね。戸籍上は親子関係になっていらっしゃいますが、医学的な実子ではない可能性が高いということです。……あ、いえ、個人情報の観点から普段はあまり踏み込みませんが、今後の輸血や治療の際に関わってくるものでして」
医者は気まずそうに言葉を濁した。
病室に、重苦しい沈黙が落ちる。隠し通すつもりだったわけではないだろうが、こんな形で、しかも病院という公の場で「実子ではない」という事実が露呈してしまったのだ。
(ああ、やっぱり、こういうところでボロが出るんだよな……)
俺はベッドの上で小さく息を吐き、静かに口を開いた。
「……先生、いいよ。それ以上言わなくても」
「八幡……?」
お父さんが驚いたように振り返る。俺はベッドのシーツに視線を落としたまま、淡々と続けた。
「俺が養子だってことだろ? そんなの、ずいぶん前から知ってるよ」
医者は目を丸くし、両親は息を呑んだ。
「知って……いたのか? 八幡、お前……」
お父さんの声がわずかに震えている。母親は両手で口元を覆い、驚きと動揺の色を隠せずにいた。
「ああ。物心ついた頃からな、なんとなく分かってたさ。苗字が違う時期もあったし、自分の本当の両親の記憶もうっすらあったからな」
隠していたわけじゃない。ただ、言う必要がなかっただけだ。
この人たちがどれだけ俺を大切にしてくれているかを知っていたからこそ、いまさら「血が繋がっていない」なんて事実を口にする必要なんて一度も感じなかった。
医者は気まずそうに頭を下げると、「……失礼しました。ご家族の事情ですね」と言い残し、そっと病室から出ていった。
再び、静けさが戻った部屋。
ピリついた空気の中で、お父さんはゆっくりと立ち上がった。
気まずさからか、それとも何か別の感情からか、俺が少しだけ身構えたそのとき――。
「……そうか」
低く、けれど温かい声とともに、お父さんの大きな手が俺の頭にポンと置かれた。
乱暴ではなく、まるで幼い子供をあやすような、深い愛情を込めた手つきだった。
「だからなんだって話だけどな」
お父さんはフッと鼻で笑い、いつもの堂々とした声で言い放った。
「血が繋がっていようが、医者に何と言われようが関係ねぇよ。お前が俺の息子であることに、変わりなんかないんだからな」
その言葉に、母親もハッとしたように顔を上げ、大粒の涙を湛えながら強く、何度も頷いた。
「そうよ……! 八幡、何を今さらそんなこと言うの。あんたはね、私たちにとって間違いなく、世界で一番大切な自慢の息子よ」
胸の奥が、熱くジーンと締め付けられた。
隠し事なんて最初からいらなかった。俺たちは血の繋がりを超えて、本物の家族として、ずっとこうして結ばれていたのだから。
「……っ、んだよ、急に。病人に向かって頭撫でるなよ、鬱陶しい」
俺は照れ隠しに顔を背け、ぶっきらぼうに呟く。
そんな俺を見て、お父さんは豪快に笑い、お母さんは優しくハンカチで目元を拭った。
病室の窓から差し込む春の光は、いつもより少しだけ温かかった。
扉の向こうの境界線
医師が病室から去り、重い静けさが戻ったあとも、私はその場から一歩も動けなかった。
病室のドアは、ほんの数センチだけ開いていた。
そこから漏れ聞こえてきた会話は、私の胸を容赦なく撃ち抜いた。
――血が繋がっていなかろうが関係ない。俺の息子には変わりない。
――あんたはね、私たちにとって間違いなく、世界で一番大切な自慢の息子よ。
お父さんとお母さんの声に、嘘や迷いは微塵もなかった。
そして、それに対する八幡の、どこか照れくさそうでありながらも、確かな信頼に満ちた返事。
血の繋がりなんてない。
戸籍上のただの「他人」だ。
それでもなお、あの家族の間には、誰にも引き裂けない圧倒的な絆が存在していた。
(――ずるい、なんて……思ってしまう)
私は自分の両腕をぎゅっと抱きしめ、冷たくなった指先を震わせた。
我が家――雪ノ下家とは、あまりにも対照的だった。
私たち姉妹は、両親と血が繋がっている。同じ遺伝子を引き継ぎ、同じ血肉を分け合って生まれてきた。
それなのに、母と姉の間には冷たい溝があり、母と私の間には常に決定的な距離があった。お互いの顔色を伺い、期待されたレールの上を歩くだけの、形骸化した「家族」。血が繋がっているという事実だけが、かろうじて私たちを繋ぎ止めているだけの、脆くて冷たい関係。
血が繋がっていようと、そこには埋まらない距離がある雪ノ下家。
血が繋がっていなくても、確かな体温と絆がある比企谷家。
その決定的な「差」を目の当たりにして、私は廊下の冷たい壁に背中を預けたまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
あんな風に、誰かに真っ直ぐ「私の家族だ」と言ってもらえる場所は、私にはあるのだろうか。
胸の奥が締め付けられるような痛みに耐えながら、私は閉ざされた病室のドアからそっと目を背け、誰もいない病院の廊下を一人で歩き出した。
見上げた背中
病室のドアが、カチャリと静かに開いた。
「――あの、失礼します」
そこに立っていたのは、あの事故を起こした車の持ち主の娘、雪ノ下雪乃だった。
制服の着こなしに一切の乱れもなく、長い黒髪を揺らした彼女は、両手で小さな紙袋を抱えながら、どこか緊張した面持ちで一歩、病室へと足を踏み入れた。
ちょうど両親が買い出しと手続きで席を外していたため、病室には俺と雪ノ下しかいなかった。
「お前……雪ノ下か」
「ええ。……その、昨日は母が失礼な態度を……本当に、申し訳ありませんでした」
雪ノ下は深々と頭を下げた。その声はわずかに震えていて、誇り高い彼女がどれだけの覚悟を持ってここに来たのかが痛いほど伝わってきた。
彼女の母親の傲慢な態度を思えば、娘である彼女がここまで頭を下げる必要なんて本当はないはずなのに。
「頭上げろよ。お前が謝ることじゃねぇだろ」
俺はベッドの上で上半身を起こし、面倒くさそうに片手をひらひらと振った。
「でも、私の家が……母が、あなたに怪我を……」
「飛び出したのは俺だし、お前は車を運転してたわけでもない。だいたい、あの犬だってそのまま放置すりゃ俺の良心が痛んだしな。だから、お前が責任を感じる筋合いは一切ない」
淡々と、いつもの調子でそう告げる。
雪ノ下は驚いたように目を見張り、じっと俺の顔を見つめた。その琥珀色の瞳が、信じられないものを見るように揺れている。
「……あなたが、そんな風に言うなんて思わなかったわ」
「どんな風だよ。これでも一応、人助けしたヒーロー様のつもりなんだが?」
「……馬鹿ね。命を粗末にするヒーローなんて、どこにもいないわよ」
ふっ、と雪ノ下は小さく息をつき、それから少しだけ表情を和らげた。
その横顔は、いつも学校で見せる冷徹な「氷の女王」の仮面が剥がれ落ちていて、年相応の少女の柔らかさを帯びていた。
「……わざわざ謝りに来てくれたんだろ。それだけで充分だ。ありがとな、雪ノ下」
俺がそう言って見せると、雪ノ下はわずかに息を呑み、それからゆっくりと持っていた紙袋をサイドテーブルに置いた。
「……これ、お見舞いよ。母からではないわ。私個人からの、お詫びと……感謝のしるしだと思って受け取ってちょうだい」
「お、おう。ありがたくもらっとくわ」
直後、雪ノ下はもう一度だけ俺の顔をじっと見つめ、何かを噛みしめるように唇を引き締めた。
血が繋がっていなくても、本物の家族としてお互いを慈しみ合う比企谷家。
その中心にいる、この一見ひねくれていて、どこか達観した少年。
雪ノ下家という冷たいガラス細工のような環境で育った彼女にとって、この少年の持つ強さと優しさは、今まで触れたことのない温かさであり、同時に強烈な興味を惹きつけるものだった。
「……早く、怪我を治しなさい。学校で、あなたのそのひねくれた理屈を聞くのも、たまには悪くないかもしれないから」
皮肉めいた、けれどどこか名残惜しそうな言葉を残し、雪ノ下はくるりと背筋を伸ばして病室をあとにした。
パタンと閉まったドアの音を聞きながら、俺は「なんだよアイツ……」と小さく呟き、差し入れられた紙袋に目を向けるのだった。
白昼の訪問者
放課後の静けさが漂う病院の個室。
ベッドの上で退屈を持て余していた俺は、音もなく開いたドアのほうへ目をやった。
「……失礼するわ」
そこに立っていたのは、数日前から定期的に顔を見せるようになった雪ノ下雪乃だった。
制服姿の彼女の手には、決まって果物か、あるいは俺が好みそうな少し高そうな缶コーヒーが握られている。
「おう、また来たのか。お前、生徒会とか部活とか大丈夫なのかよ」
「余計なお世話よ。私だて、やるべきことはきちんと片付けてきているわ」
そう言いながら、雪乃は手慣れた様子でサイドテーブルに荷物を置き、パイプ椅子を引き寄せて腰掛けた。
最初はただのお見舞いだったはずが、いつの間にかこうして放課後に他愛のない雑談をしていくのが、なんとなく我が家の日常のようになっていた。
「で、今日は何の差し入れだ?」
「今日はりんごよ。包丁は持っていないから、私が剥いてあげる。……じっとしていなさい」
雪乃はポケットから小さな折りたたみナイフを取り出すと、手慣れた手つきやりんごの皮をむき始めた。
シュルシュルと途切れることなく赤い皮が剥がれていく様子を、俺はぼんやりと眺める。
「……お前さ、相変わらず手先が器用だな」
「これくらい、誰でもできるわよ。……それより、あなた、少しは傷の痛みは引いたの?」
「あぁ、もう動く分には問題ねぇよ。明日には退院してもいいくらいだ」
「お医者様の許可が出るまで大人しくしていなさい。……本当に、少しは自分の体を大切にしなさいよね」
呆れたようにため息をつく雪乃の横顔は、どこか優しげだった。
その姿を見ていると、自然と頭に浮かぶ顔がある。
「なあ」
「何かしら?」
「お前さ、こうして毎日顔出して、なんか小町に似てきたな」
「……は?」
ピタリと、りんごをむく手が止まった。
雪乃は信じられないものを見るような目で俺を睨みつける。
「私を、あの小町さんと一緒にしないでちょうだい。あの子はもっと……その、あざといというか、こう……」
「いや、面倒見が良いところとか、妙に正論で突っ込んできたりするところとか、結構そっくりだぞ。んー、そうだな、小町がもう一人増えたみたいで、ぶっちゃけ可愛い妹ができた気分だわ」
ふざけた調子でそう言って笑うと、雪乃の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「なっ……! い、いま何と言ったの……?」
「ん? 可愛い妹みたいだって言ったんだけど」
「わ、私はあなたの妹などではないわよ! なにを勝手に……!」
雪乃は顔を真っ赤にし、持っていたナイフとりんごをテーブルに置くと、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
その耳たぶまで真っ赤になっているのを見て、俺は「お、案外まんざらでもねぇな」と心の中で苦笑する。血の繋がらない妹の小町とはまた違うけれど、この生意気で不器用な少女を、俺はいつの間にか本当の妹のように大切に想い始めていた。
しばらくの沈黙のあと、雪乃は小さく息をつき、ぐっと視線を落とした。
その表情から、先ほどまでの可愛らしい苛立ちは消え、いつもの冷たい仮面の奥にある影が戻っていた。
「……ねえ」
「ん?」
「……時々、思うのよ」
雪乃は自分の膝の上で、制服のスカートをぎゅっと握りしめた。
「私の家はね、外から見れば恵まれているかもしれないわ。何不自由なく育ち、母の期待通りのレールを歩んできた。でも……そこには、温もりなんて一度もなかったの」
ぽつりぽつりと零れ落ちる言葉には、計り知れない孤独が滲んでいた。
あの雪ノ下母の元で、完璧であることを強要され、愛されることよりも品位を保つことを求められてきた彼女の苦悩。
病室のドアの向こうで見た「比企谷家の絆」と、自分の家との決定的な違いに、彼女はずっと苦しんできたのだろう。
「姉とは歪み合うし、母の前では本当の自分を出せない。私は、一体何のために生きているのか、時々わからなくなるの……」
普段の強気な彼女からは想像もできないほど、か細く、震えた声だった。
俺は言葉を失い、ただ目の前に座る雪乃の背中を見つめた。
あんな風に強く気高く振る舞っている彼女が、本当はこんなにもボロボロで、温もりを飢えている。
「……雪ノ下」
「なによ……同情されたいのじゃないわ。ただ、何となく、あなたなら……愚痴くらい聞いてくれると思ったから……っ」
顔を伏せ、涙をこらえようとする雪乃の頭に、俺はそっと手を伸ばした。
自分の妹である小町によくやるように、乱暴すぎないように、優しくその黒髪を撫でる。
「っ……! あなた、なんなの急に……!」
「お前が悩んだって、世界が劇的に変わるわけじゃねぇよ。お前の家を俺がどうこうすることもできねぇ」
俺は少しだけ笑い、いつもの気だるげな声で続けた。
「だけどな。お前がここで泣き言を吐く分には、いつでも付き合ってやるよ。……悩んだときは、俺に愚痴言いに来いよ。兄貴特権ってやつだ、遠慮すんな」
雪乃は目を見張り、潤んだ琥珀色の瞳で俺をまっすぐに見つめた。
しばらくの静寂のあと、彼女はふっと、今日一番の――いや、出会ってから一番柔らかく、綺麗な笑みを浮かべた。
「……本当に、調子の狂う人ね」
雪乃はそう呟きながらも、俺の手を払いのけることはせず、むしろ少しだけその手に頭を預けた。
病室の窓の外では、夕暮れの茜色がゆっくりと空を染め始めている。血の繋がりなんてなくても、こうして誰かの温もりに救われる瞬間が、確かにここにはあった。
不器用な救い
俺の手のひらの下で、雪乃の体がわずかに強ばったのが分かった。
「……それに、だ」
俺は窓の外の夕焼けに目をやりながら、少しだけ声を落とした。
「お前の家が厳しいのは、……まあ、歪んではいるんだろうけどさ。それも一種の愛情なのかもな」
「――え?」
雪乃がハッとしたように顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
俺は自分の頭を掻きながら、照れくささを誤魔化すように続ける。
「本当に愛がなければ、親なんて最初から放っておくだろ。期待することも、厳しく律することもしねぇよ。あいつらは、お前を見てねぇようで、ちゃんと見ようとはしてるんじゃねぇの知らんけど」
無責任で、いつも通りの適当な締めくくり。
だけど、それは俺自身の経験則でもあった。比企谷家の両親がどれだけ不器用で、けれど真っ直ぐに俺たちを愛してくれたかを知っているからこそ、雪ノ下母の冷たさの裏にある歪んだ執着も、ただの「無関心」ではない気がしたのだ。
「……愛情、なのかしら。あんなに息苦しいものが」
「人によって形が歪んでりゃ、受け取る方もこじらせるもんだろ。お前も大概ひねくれてるしな」
「っ、それはあなたのほうでしょう!」
ふっと、雪乃の唇に小さな笑みが漏れた。
先ほどまでの張り詰めた空気は嘘のように消え去り、彼女の瞳には確かな熱が宿っていた。
「いつか、近づけるかもな。知らんけど」
そう付け足すと、雪乃は呆れたように息をつき、それから今日一番の透き通った声で呟いた。
「本当に、相変わらず無責任で、調子の狂う物言いだわね……でも」
雪乃はゆっくりと立ち上がり、乱れた髪をそっと直すと、少しだけ晴れやかな表情で俺を見下ろした。
「……ありがとう。少しだけ、気が楽になったわ」
その横顔は、いつもの冷徹な「雪ノ下雪乃」でありながら、どこか以前よりもずっと強くて、美しかった。
血の繋がりなんてなくてもいい。
家族の形が歪んでいようとも、ぶつかり合い、不器用に悩みながら、俺たちはそれぞれの場所で温もりを探していく。
夕暮れの病室に差し込む光の中で、俺たちは静かに、それぞれの明日へと歩き出していた。
仮面の剥ぎ取り
雪乃が帰ってからどのくらい経っただろう。
静まり返った病室のドアが、またコツコツとノックされた。
「――失礼するわね」
軽やかな、けれどどこか空気を凍らせるような鈴の音のような声。
入ってきたのは、雪ノ下雪乃の姉――雪ノ下陽乃だった。
「おや、もう帰ったかと思ったよ。妹がお世話になってるみたいだね、比企谷くん」
陽乃は完璧な笑顔を張り付け、いつもの眩しすぎるお姉さんオーラを纏いながら病室に足を踏み入れた。その整った顔立ちは隙がなく、周囲の人間を無条件に安心させる――あるいは、油断させるための「仮面」がぴったりと貼りついている。
俺はベッドの背もたれに体を預け、面倒くさそうに彼女を一瞥した。
「わざわざお見舞いどうも。……で、その完璧な笑顔、誰に向けてやってるんですか。ここには患者の俺しかいませんよ」
陽乃の足がピタリと止まった。
けれど、彼女はすぐにその笑みをさらに深め、綺麗に目を細めて見せる。
「ははっ、なに言ってるの。私はただ、妹の友達にお礼を……」
「友達じゃねぇよ、赤の他人だ。それに、そんな作り物の笑顔、ずっと貼り付けてて疲れません?」
陽乃の笑顔が、ほんのわずかに硬直した。
俺は自分の頭を掻きながら、窓の外の夕空に目を向けた。
「雪ノ下家がどういう家なのか、詳しい事情は知りませんけどさ。お前は家の中でも外でも、ずっとそうやって周りの期待に応える『いいお姉ちゃん』を演じ続けてるんだろ。誰も本当の自分を見てくれないって、どこかで諦めながらさ」
「……っ」
病室の空気が一変した。
陽乃の纏っていた軽やかな空気が霧散し、その瞳の奥から、底知れない冷たさと、微かな警戒の色が覗き見える。
「……君は、一体何を言っているのかな?」
「怒るなって。別に詮索する気はねぇよ。俺はただのよそ者だし、お前たちの利害関係の――めんどくさい人間関係の外側にいる人間だ。だからさ、俺の前でくらい、そんな張り子の仮面をつけて無理して笑わなくてもいいですよ」
俺の言葉は、陽乃にとって予想外だったのだろう。
彼女はいつも周囲を自分のペースでコントロールし、誰も本音に踏み込ませないことで自分を守ってきた。なのに、その「仮面」を、利害関係すら無いはずのひねくれた一人の高校生に、あまりにもあっさりと見破られてしまった。
陽乃の完璧な笑顔が、完全に消え失せた。
「……きみは、本当に嫌な男だね」
絞り出すような、けれどどこか震えているような声。
陽乃は一歩、二歩と後ろに下がり、自分の両腕を抱きしめた。その表情に浮かんでいたのは、驚愕でも怒りでもなく――自分の中の核心を突かれたことに対する、確かな「怯え」だった。
誰も自分を見てくれない。誰も本音を受け止めてくれない。
そんな孤独の中で仮面をかぶり続けてきた彼女にとって、八幡の「普通にしていい」という無責任で、けれどどこまでもフラットな優しさは、あまりにも劇薬だったのだ。
しばらくの沈黙のあと、陽乃は震える唇を無理やり引き上げ、いつもの調子を作ろうとした。
だが、その瞳の光は少しだけ揺らいでいた。
「……また、来るよ。お大事にね、比企谷くん」
それだけ言い残すと、陽乃は逃げるように病室のドアを閉め、足早に去っていった。
静かになった病室で、俺はふうっと大きく息をつく。
血の繋がった家族でさえ仮面をかぶり合う雪ノ下家。血の繋がりがなくても真っ直ぐに向き合う比企谷家。
その違いの重さに、俺は少しだけ頭を痛めながら、再び天井を見上げるのだった。
仮面の裏側
陽乃が再び病室に現れたのは、その数日後の夕方だった。
ノックもなしに静かに開いたドアの向こうに立っていた彼女は、いつもの完璧な笑顔を無理に張り付けていた。けれど、その足元はどこかおぼつかず、前回見せた余裕はすっかり影を潜めている。
「……やあ、比企谷くん。今日も顔を見に来たよ」
「おう。また暇人だな」
俺がベッドの上から気だるげに返すと、陽乃は作り笑いを浮かべたまま、フラフラとベッドの脇に歩み寄り、パイプ椅子に腰掛けた。
相変わらず隙のない身なりをしているのに、その指先は微かに震えている。前回の俺の言葉が、よほど彼女の心に刺さったまま抜けていないらしかった。
「……ねえ。君は本当に、人の心の裏側を引っ掻き回すのが上手いね。おかげで、ここ数日あまり眠れなかったじゃないか」
「知らねぇよ。勝手に自爆してろっての。……ほら、そんな引きつった顔してると、シワが増えるぞ」
呆れたようにため息をつく俺を見て、陽乃は自嘲気味にふっと息を漏らした。
その隙だらけの横顔を見て、俺は思わずため息をつき、ベッドの脇にダラリと垂れていた自分の右手をスッと伸ばした。
そして、震えている陽乃の手を、何の躊躇いもなく包み込むようにそっと握った。
「っ……!?」
陽乃がハッと息を呑み、ビクッと体を強ばらせる。
彼女の細い手が、俺の掌の中でわずかに跳ねた。
「な、なにをするんだい、急に……」
「別に。噛みつきませんよ、そんな怯えた顔すんなって」
からかうような、けれどどこかからかう気力もないフラットな声で、俺はそう告げた。
逃げ出さないように、かといって強く締め付けるわけでもなく、ただ体温を伝えるだけの優しい握り方。
陽乃は驚愕に目を見開き、俺の顔と、繋がれた自分たちの手を交互に見つめた。
誰も自分の本音に触れてくれなかった。誰もこの「仮面」の裏側に手を伸ばしてくれなかった。そんな彼女にとって、血の繋がらない赤の他人であるひねくれた男子高校生にこうして手を握られるのは、あまりにも予想外で、あまりにも無防備な経験だった。
「……君は、どうしてそんなに平気で人の領域に入ってくるのかな」
陽乃の声が、微かに震えていた。
無理に作っていた笑顔が完全に剥がれ落ち、その瞳から、大粒の涙が一筋、スッと頬を伝った。
「……怖いんだよ」
絞り出すような、かそけき声だった。
完璧な長女でいなければならない。雪ノ下家の看板を背負い、母の期待に応え、妹の雪乃の前でも「理想の姉」を演じ続けなければならない。
「私には、雪ノ下家の立ち位置があって、私にしか果たせない役割がある。……それを外れたら、私は私でいられなくなってしまう。誰も私を愛してなんてくれない。だから、ずっと、窮屈で仕方がなかった……」
誰にも言えなかった本音が、堰を切ったように零れ落ちる。
仮面の下に隠されていた彼女の弱さと孤独が、その震える声を通して病室の空気に溶けていく。
俺は何も言わず、ただ彼女の手をもう一度キュッと優しく握り直した。
血の繋がりなんてなくても、家族としてぶつかり合い、お互いを愛し合ってきた比企谷家の温もりを知っている俺から見れば、彼女の生き方はあまりにも痛々しく、そしてどこか不器用すぎた。
「役割なんて、途中で放棄したって罰は当たらねぇよ」
俺は窓の外の夕空を見つめながら、ぽつりと言った。
「窮屈なら、たまには息抜きくらいしろっての。……俺みたいに、ひねくれて生きるのも案外悪くないぞ」
陽乃は息を呑み、それから、いつもの完璧なお姉さんでも、冷徹な仮面をかぶった優等生でもない、ただの傷ついた一人の少女の顔で、くしゃりと泣き笑った。
「……本当に、君は反則的な男だね」
陽乃はもう一方の手でそっと目元を拭い、ぎゅっと握り返してきた俺の手を、少しだけ強く握りしめた。
夕暮れの病室に、静かな温もりが満ちていく。仮面の裏側に隠された彼女の心に、ほんのわずかな救いの光が差し込んだ瞬間だった。
冷徹な女王の来訪
陽乃が去ったあとの静寂を切り裂くように、病室のドアが再び開いた。
今度はノックすらなかった。
そこに立っていたのは、あの圧倒的な気品と冷徹さを纏った女性――雪ノ下母だった。
背筋をピンと伸ばし、無表情のまま部屋に入ってきた彼女は、まるで値踏みするかのような鋭い眼光で俺を見据えた。その顔には、隠しきれない険しさと、警戒の色が滲み出していた。
「……長女の陽乃が、連日こちらに通っていると聞いてね」
低く、温度のない声が病室に響く。
彼女はベッドの脇に立つと、椅子に座ることもなく、冷たく俺を見下ろした。
「あの子があなたに何を話したのかは知らないが、我が家の内輪の事情に深入りするような真似は、おやめなさい。あなたたちのような一般の家庭とは、生きる世界も背負っているものも違うのですから」
相変わらずの物言いだった。
けれど、その言葉の裏にあるのは、娘たちが自分のコントロールを離れていくことへの焦りと、外部の人間に対する強い警戒心なのだろう。
俺はベッドの上でふっと息をつき、気だるげに肩をすくめた。
「そんなに警戒しなくてもいいですよ、お義母さん……じゃなかった、雪ノ下さんの母親殿」
わざとらしく言い淀んでみせると、雪ノ下母の眉間にピクリと深い皺が寄った。
「安心してください。俺は、今回の事故を盾に取って雪ノ下家を脅したり、何かを要求したりする気なんて毛頭ありませんよ。そんなめんどくさいこと、労力の無駄ですし」
ハッキリと言い放つ俺に、雪ノ下母はわずかに目を細めた。
「……それが本心だとして、あなたは何が目的なのですか。私の娘たちに、一体どんな毒を盛るつもりですか」
「毒なんて盛ってませんって。ただ、あいつらが勝手に愚痴を垂れ流しに来るだけで……まあ、強いて言うなら、」
俺は少しだけ視線を逸らし、淡々と言葉を続けた。
「あいつらに危害が及ぶような真似は、俺がしませんよ。だから、そんなに怯えた顔して……いや、怯えてはいないか。まあ、安心してください」
「――私が、怯えている……?」
雪ノ下母の瞳が怒気を含んで鋭く光った。
だが、俺は臆することなく、その冷たい目を真っ直ぐに見据えたまま言い切った。
「血が繋がっていようがなかろうが、家族ってのは、お互いを縛り付ける鎖じゃなくて、もう少しマシなもんであるべきなんじゃないですかね。……あいつらは、あんたが思ってるよりもずっと、不器用で、頑張り屋のいい娘たちですよ」
しばしの沈黙。
病室の空気が張り詰め、ピリピリとした緊張感が走る。
雪ノ下母は、まるで思いがけない言葉をぶつけられた子供のように、一瞬だけ息を呑み、言葉を失っていた。彼女の築き上げてきた完璧な防壁に、俺のひねくれた一言がわずかに亀裂を入れたのだ。
やがて、彼女はふっと息を吐き出し、冷徹な仮面をもう一度きつく貼り直した。
「……口の減らない少年ですね。……怪我の療養に専念しなさい」
それだけを言い残すと、雪ノ下母はくるりと背筋を伸ばし、足音高く病室をあとにした。
パタン、と扉が閉まる。
一人残された病室で、俺はやれやれと大きく息をつき、再び天井のシミを見上げるのだった。
血の繋がった冷たい雪ノ下家と、血の繋がらない温かい比企谷家。
その境界線の上で、俺は今日も、彼女たちの不器用な救いになれたのだろうか――そんなことを、ぼんやりと考えていた。
凍てついた城の崩壊
「――待てよ、おばさん」
背筋を伸ばして病室を去ろうとした雪ノ下母の足が、ぴたりと止まった。
彼女はゆっくりと振り返り、冷徹な双眸で俺を睨みつける。その無機質な顔には、不意打ちを食らったような不快感が隠しきれずに浮かんでいた。
「……何か言い残すことでも?」
「ああ。一つだけ、気になってたことがあってさ」
俺はベッドの上でふっと息をつき、魚の死んだような目をさらに細めて彼女を見据えた。
「あんたさ、一体何が目的で生きてるんだ? 政治家の旦那の出世か? それとも代々続く『雪ノ下』の看板と家業を守ることか? ……家を守ったところで、肝心の娘たちを守れてなけりゃ、本末転倒なんじゃねぇの」
病室の温度が、一気に氷点下まで下がった気がした。
雪ノ下母の瞳に、怒りとは違う、ガラスがひび割れるような鋭い光が走る。
「……口を慎みなさい。あなたに我が家の何がわかるというのです」
「分かんねぇよ、だから聞いてんだ。まあ、あいつらをただの家を存続させるための『道具』として見てるなら、話は別だけどな。それなら納得の効率主義だわ」
挑発、と言われればそれまでだった。
だが、あの母親の完璧な仮面の下にある歪みを見過ごすには、俺は少しばかりひねくれすぎていた。
「――っ、ふざけた口を……!」
ついに、雪ノ下母の冷徹な仮面に亀裂が入った。
彼女は一歩、また一歩とベッドに歩み寄り、怒りに震える声を荒らげた。
「道具だと……!? 私が、あの子たちを道具だと思っているとでも言うのですか……っ!」
普段の完璧な気品はどこへやら、彼女の目は一人の母親としての剥き出しの感情に満ちていた。
「どれだけ私が、あの人たちのために……この雪ノ下家を、泥を被ってでも守り抜こうとしていると思っているのです……っ! 夫を支え、世間の目に晒されながら、あの子たちが何不自由なく、誇り高く生きられるように、どれだけの覚悟で道を作ってきたか……っ! 私がどれほど、あの娘たちを……陽乃や雪乃を愛しているか、あなたに何が分かるというのです……!」
声を震わせ、必死に娘たちへの歪んだ、けれど確かな愛情を熱弁する雪ノ下母。
それは彼女にとっての「真実」であり、彼女なりの不器用すぎる愛の形だった。
病室に重い沈黙が落ちる。
ゼェゼェとわずかに息を荒らげる彼女を見つめながら、俺は面倒くさそうに頭を掻いた。
「……で、それを本人に言ったのかよ」
「……は?」
「愛してるだの、守るためだの、そんなもん、口に出さなきゃ伝わらねぇよ。あいつらはな、あんたが自分のために必死になってるなんて知らねぇで、ただ冷たく突き放されてるって思い込んで、勝手に傷ついてボロボロになってんだよ。……親の愛情の押し付けも大概にしろっての。全然伝わってねぇぞ」
雪ノ下母は言葉を失い、目を見開いたまま立ち尽くした。
彼女の築き上げてきた鉄壁の城が、俺のその一言で音を立てて崩れ去っていく。
そのとき――。
カチャリ、と。
閉ざされた病室のドアノブが、わずかに回る音がした。
(……ん?)
俺が視線を向けたその瞬間、ドアがほんの数センチだけ開いていたことに気づく。
――いや、そこには気配があった。
誰もいないと思っていた扉の向こう。そこに誰が立っていたのか、俺にはすぐに察しがついた。
おそらく、母の後を追ってきたか、あるいは見舞いに来たのであろう陽乃と雪乃が、そのやり取りのすべてを――母親が自分たちのために抱いていた歪みと、深い愛情の叫びのすべてを、聞き届けていたのだ。
だが、俺はそれをあえて指摘しなかった。
「……まあ、いいさ。俺が言いたいのはそれだけだ。これ以上、俺の患者としての平穏を乱さないでくれよ、お母さん」
わざとらしくそう言って、俺はふいとそっぽを向いた。
雪ノ下母は、ハッとしたように表情を引き締め、震える手で自身のスーツの裾を正すと、何も言わずに素早く病室を退出していった。
廊下に響く、慌ただしい足音。
その少し先で、静かに、けれど確かな足取りでその場を去っていく二つの気配があった。
きっと、陽乃と雪乃は何も言わずに、ただその事実を受け止め、それぞれの胸に刻み込みながら歩き出したのだろう。
廊下の角を曲がる気配を感じながら、俺はベッドに深く体を預け、小さく息をついた。
「……やれやれ。他人の家庭の事情に首突っ込むとか、一番めんどくさい役回りだな……」
文句をつぶやきながらも、どこか晴れやかな顔をした姉妹の背中を想像し、俺は静かに目を閉じるのだった。
退院の日の大混乱
すっきりと晴れ渡った春の青空の下、俺――比企谷八幡は、ようやく病院から解放されていた。
全治数週間と言われた怪我も、若さと気合い(と、主治医の呆れ顔)のおかげで無事に退院の日を迎え、こうしていつもの通学路を歩いている。右腕にはまだ少し重怠さが残っているものの、あの白い天井の部屋から出られるだけで、世界が何倍も輝いて見えた。
校門をくぐり、自分のクラスへと向かおうとしたそのときだった。
「――あのっ!」
スッと、目の前に影が差した。
足を止めると、そこに立っていたのは雪ノ下雪乃だった。
彼女は少しだけ頬を朱に染め、けれどまっすぐに俺の目を見据えていた。
「退院、おめでとう。……その、色々と……ありがとう」
照れくさそうに、しかしはっきりと紡がれたその言葉。
病院での一件以来、彼女の纏う空気は以前よりも少しだけ柔らかく、どこか凛とした強さを帯びていた。家族との向き合い方に悩んでいた彼女なりの、精一杯の感謝の表現なのだろう。
「おう。わざわざどうも。……って、いつまで病人扱いしてんだよ」
俺は照れ隠しに頭を掻き、いつもの気だるげなトーンで返す。
すると雪乃はふっと小さく微笑み、満足したように頷いた。
「そうね、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかないわね。これからのあなたを見るのが、少し楽しみになったわ」
よし、と心の中で小さくガッツポーズをしたその瞬間だった。
「はっけーーーい、おまーーーち!!!」
突如として、背後から猛烈な勢いで黄色い声と足音が迫ってきた。
振り返る間もない。ガバッと背中に飛びついてきたのは、見慣れたピンク色の髪を揺らす少女――由比ヶ浜結衣だった。
「ゆ、由比ヶ浜……?」
「もう! 八幡、退院するなら言ってよ! 私、ずっと心配で毎日落ち着かなかったんだから!」
由比ヶ浜は俺の背中にしがみついたまま、わんわんと大げさに泣き真似をする。
落ち着け、と肩を叩こうとしたその時、由比ヶ浜は急にぴたりと動きを止めた。
彼女はスッと顔を上げ、俺の耳元から、頬のすぐ近くへと顔を寄せる。
「あのさ、八幡。……うちの犬を助けてくれて、本当に、本当にありがとう。あのとき、八幡が飛び出してくれなかったらって思うと、怖くてたまらなかったけど……でも、助けてくれて、本当に嬉しかった。だからこれ、お礼!」
「は? おい、ちょっと――」
言うが早いか。
チュッ、と柔らかい感触が、俺の右のほっぺたに直接落とされた。
「……っ!?」
時間が、完全に止まった。
頭の中で、盛大に警告音が鳴り響く。
女子高生が、しかも由比ヶ浜が、クラスメイトの男子の頬にキスをしただと? ここは昭和の少女漫画のワンシーンか何かか?
「へへっ、驚いた? ――あ、唇は、また今度ね!」
由比ヶ浜は自分の顔を真っ赤に染め上げながら、恥ずかしさのあまり耳まで赤くして、きゃあと声を上げるとそのまま逃げるように走り去っていった。
残された俺は、自分の右頬に触れたまま、完全にフリーズしていた。
「なっ……いま……なにが……」
目の前で、もう一人の目撃者である雪乃が文字通り固まっていた。
琥珀色の瞳はこれ以上ないほど見開かれ、口をあんぐりと開けたまま、まるで世界が崩壊したかのような顔で俺と由比ヶ浜の背中を交互に見つめている。
「ゆ、由比ヶ浜さん、あなた……今、一体……公共の場でなんと破廉恥な……! え、ええっ!?」
普段の冷静沈着な「氷の女王」の面影は微塵もなく、雪乃の顔はみるみるうちに真っ赤に染まり、頭から湯気が出そうなほどのパニック状態に陥っていた。
「……」
呆然と立ち尽くす雪乃の横で、俺は自分の頬に触れながら、冷や汗を拭った。
「……あいつ、まさかナチュラルボーンのビッチか……?」
静かな朝の校門前で、俺のそんな呟きだけが、妙に虚しく響き渡るのだった。
英雄の帰還と奇妙な日常
怪我による長期の療養とリハビリを終え、俺――比企谷八幡がようやくクラスに復帰したのは、新学期が始まってから実に一月ほどが過ぎた頃だった。
「――お、比企谷じゃねぇか。生きてたのかお前」
ガラリと教室の引き戸を開けた瞬間、ガサツな声とともにクラスメイトの男子が声をかけてきた。
あれ? もっとこう、忘れ去られているか、「お、幽霊の帰還かよ」みたいな冷ややかな視線を浴びる予定だったのだが……クラスの空気が、なんだか妙に温かい。いや、気まずいほどの熱気を帯びている。
「お前、あの時犬を庇ったってマジかよ?」
「すげぇな、普通車道に飛び出せねぇって」
「ていうか、実は結構イケメン枠じゃね?」
ざわめく教室の中、俺は片手に荷物を持ったまま盛大に眉間に皺を寄せた。
……なんだこれ。俺の知っている2年F組(あ、いやクラスは違うが)の、あの冷めた空気はどこに行ったんだ?
その原因は、すぐに判明した。
「ほら、みんな! 八幡にそんな囲まないの、まだ怪我治りきってないんだから!」
パタパタと慌てた様子で人垣をかき分けてきたのは、由比ヶ浜結衣だった。
彼女は俺の顔を見るなり、きゅっと息を呑み、それから嬉しそうな、少し申し訳なさそうな、複雑で最高に可愛い笑顔を浮かべた。
「お、おはよう、八幡! 退院おめでと、待ってたよ!」
あの日、校門前であんな爆弾発言(しかもほっぺたキス)を残していった本人が、まるで何事もなかったかのように満面の笑みで迎えてくる。
周囲の女子たちからも、「え、由比ヶ浜ちゃんが毎日話してた『命の恩人のヒーロー』って、もしかして比企谷くんだったの……?」「なんか、意外とアリかも……」なんてひそひそ声が聞こえてくる。
どうやら、由比ヶ浜がここ一月間、「うちの犬を助けてくれたかっこいいヒーローがいるんだよ!」とあちこちで熱弁を振るい続けていたせいで、俺の不名誉な「ぼっち」のステータスが、なぜか謎の「武勇伝持ちのいぶし銀ヒーロー」に上書きされてしまっていたらしい。
「……お前な、変に変な噂をクラスで流すなよ。俺はただ、不運にも車に轢かれた間抜けな被害者だろ」
「えー! ひどいな、せっかくみんなが歓迎してくれてるのに!」
むうっと頬を膨らせる由比ヶ浜。その様子を、教壇の端から――いや、自分の席から冷ややかに、しかしどこか呆れたような、羨ましような複雑な視線で見つめる人物がいた。
窓際の席に座る、雪ノ下雪乃だ。
彼女はパタンと教科書を閉じると、優雅な足取りでこちらに近づいてきた。
周囲の生徒たちが自然と道を空けるのは、相変わらずの「高嶺の花」としての威厳なのだろう。だが、俺の目の前までやってきた雪乃の瞳には、明らかに呆れの色が浮かんでいた。
「……やっと登校してきたと思ったら、相変わらず騒がしい男ね、比企谷くん」
「こっちだって好きでこんな注目集めてんじゃねぇよ。お前のところの過失運転のせいで、こっちは散々だったんだぞ」
「ふっ……自分の不注意で飛び出したくせに、よくそんな軽口が叩けるものだわ」
雪乃はふっと綺麗に微笑み、それから周囲に聞こえないくらいの小さな声でこう付け足した。
「……でも、戻ってきてくれて、少し安心したわ。……おかえりなさい、ヒーロー様」
その声音には、病院で不器用に悩んでいた彼女とは違う、確かな日常の温もりがあった。
血の繋がりなんてなくても、家族として不器用に愛し合える場所がある。
冷たい仮面をかぶっていた姉妹が、ほんの少しだけ本当の自分を取り戻していく。
そして、学校ではなぜか「ヒーロー扱い」されながら、相変わらず面倒くさくて騒がしい日常が、こうして再び動き出していた。
「……やれやれ。静かで平穏な高校生活は、当分望めそうにねぇな」
俺は盛大にため息をつきながら自分の席へと向かう。
その後ろから、「ちょっと、待ってよ八幡!」と追いかけてくる由比ヶ浜の声と、「まったく、少しは反省しなさいよね」と呆れながらもついてくる雪乃の足音が聞こえた。
不器用で、ひねくれていて、だけど悪くない――これが、俺の新しい青春(?)のカタチらしい。
光と影の交差点
教室のざわめきが少し落ち着いた頃、不意に机をトントンと軽く叩く音がした。
顔を上げると、そこには爽やかな笑顔を浮かべた男子生徒が立っていた。
完璧な整った容姿、誰に対しても分け隔てのない優しさ、そしてクラスの中心人物としての圧倒的なオーラ――葉山隼人だ。
「やあ、比企谷くん。退院おめでとう。無事に戻ってこれて本当に良かったよ」
まばゆいばかりの笑顔でそう声をかけてくる葉山に、俺は思わずわずかに身構える。
クラスの誰もが認める「陽キャ」の頂点のような男が、あからさまにぼっちの俺なんかに話しに来る理由なんて、普通の高校生活には存在しないはずだった。
「……おう、ありがとよ、葉山くん。わざわざご丁寧にどうも」
「いや、ずっと気になってたんだ。あの事故のあと、直接お見舞いにも行けなくてごめんね」
葉山はそう言いながら、俺の前の席にスッとパイプ椅子を引き寄せて腰掛けた。
周囲の女子たちが「え、葉山くんが比企谷くんと話してる……?」と、どこかざわめき始めているのが分かる。
「……ま、お前の家や、あとあの雪ノ下家の親父さんたちも色々動いてくれたおかげで、裁判沙汰とか面倒なことにならずに済んだって聞いたしな。お互い様だろ」
俺がそう言って淡々と返すと、葉山の瞳がわずかに揺らいだ。
その整った笑顔の奥で、彼の視線が鋭く俺の観察を始める。
「……君は、本当に変わった人だね。あんな大事故に遭って、相手が雪ノ下家っていう面倒な立場だったのに、少しも怯えたり、あるいは逆にそれを盾に利用しようとしたりしない」
葉山の声のトーンが、ほんの少しだけ低くなった。
それはクラスに見せる「みんなの葉山くん」のそれではなく、一人の等身大の高校生としての、剥き出しの探究心だった。
「利用するメリットがねぇよ。面倒事はごめんだし、さっさと日常に戻りたかっただけだ」
「ふっ……そうだよね。君はいつも、自分の軸がしっかりしている。誰の顔色もうかがわず、自分の基準で立っている」
葉山は自嘲気味にふっと息をつき、自分の膝の上でしっかりと組んだ両手をギュッと握りしめた。
クラスの期待を一身に背負い、誰もが傷つかないように、誰からも嫌われないように、常に「みんなのリーダー」として笑顔を貼り付けて振る舞う葉山隼人。その内側にある終わりのないプレッシャーと、誰にも本音を見せられない孤独。
……なんとなく、あの時の雪ノ下陽乃に通じるものを、俺はこの男の背中にも感じていた。
「……ねえ、比企谷くん」
「んだよ」
「僕はね、君に少し――いや、かなり興味を惹かれているんだ。君のその、ひねくれた視線の先にあるものが、何なのかってね」
葉山は真っ直ぐに俺を見据えた。その瞳の奥には、ほんの少しの焦燥感と、隠しきれない「負けず嫌い」の色が浮かんでいた。
誰にも好かれようとせず、周囲に媚びず、なのに必要なときには誰よりも自然体で核心を突いていく比企谷八幡という存在。
完璧な仮面をかぶり続けなければならない自分とは違い、どこか飄々とした態度で自分の足で立っている俺の姿が、彼には眩しく、そして心のどこかで苛立たしく映っていたのだろう。
「勝手に興味持って泥沼にハマるなよ。こっちはお前みたいな爽やかイケメンの相手してる暇ねぇんだからさ」
「ははっ、冷たいな。……でも、譲れないものがあるんだ。君みたいに自然体で、誰かに流されない強さに、僕は……どうしても負けたくない」
葉山はそう言って、からりと爽やかに笑ってみせた。
けれど、その笑顔の裏にあった熱は、本物だった。
周囲の視線を浴びながら、葉山は椅子から立ち上がり、「それじゃ、また授業でね」と片手を挙げて自分の席へと戻っていく。
見送る俺の背中では、由比ヶ浜が「なんか、葉山くんと比企谷くんが普通に喋ってる……!」と目を丸くし、窓際の雪乃が「……やれやれ、また面倒な男に目をつけられたものね」と呆れたように紅茶の缶を傾けていた。
――やれやれ、だ。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知っている俺と、期待という名の鎖に縛られた奴ら。
俺の周りを取り巻くこの面倒くさくて愛おしい人間関係は、どうやらまだまだ収まりそうにないらしい。
短編小説:厄介な群青の舞台
放課後の買い出しの帰りのことだった。
校舎裏の、普段はあまり生徒が立ち入らない薄暗いスペースから、なにやら低い怒声と、鈍い音が聞こえてきた。
「おい、葉山……! いい気になりやがってよ!」
「……っ」
聞き覚えのある声に足を止めると、そこには見知らぬ他クラスの男子生徒――確か、以前から葉山を快く思っていなかった体育会系のグループの面々が、葉山を壁際に追い詰めているところだった。
葉山は防ぐ様子もなく、鋭い一撃をその顔面に受けて、よろめきながらアスファルトに倒れ込んだ。その端正な顔の端から、赤い血が一筋スッと伝い落ちている。
「なんなんだよお前は! いつもいい顔して、みんなの人気者気取りやがって……! 挙げ句の果てに、俺の彼女だったあいつまで狂わせやがって!」
「……僕は、別にそんなつもりじゃ……」
「とぼけんな! 『葉山くんが好き』だの何だのって、あいつは俺を振って泣きやがったんだぞ! お前のせいで俺のプライドはズタズタだ! 責任取れよ!」
どうやら、よくある私怨と逆恨みの類だった。
葉山が誰かを特別扱いしたわけでも、奪おうとしたわけでもない。ただ彼がそこに在るだけで、勝手に誰かが恋をして、勝手に期待を裏切られたと勝手に逆恨みしている――いわゆる、「葉山隼人」という偶像に巻き込まれただけの被害者だ。
殴りかかろうと再び拳を振り上げる男子生徒の背中を見て、俺は小さく息を吐いた。
……まったく、本当に救いようのない話だ。
「おい、そこの不細工な八つ当たり野郎」
気だるげな、低く冷たい声が空間を切り裂いた。
振り向いた男子生徒たちの視線の先で、俺は手元のビニール袋をシャカシャカと鳴らしながら、だるそうに一歩ずつ歩み寄った。
「な、なんだお前……比企谷か?」
「そうだ、噂の車に轢かれた間抜けな被害者だ。で、なんだその見苦しい言い訳は。『俺の彼女に手を出した』って、おいおい、お前の彼女が勝手に葉山に片思いして勝手に自爆しただけだろ。それを棚に上げて、八つ当たりで人をボコるとか、脳みそまで筋肉で出来てんのか?」
「なっ……テメェ、関係ねぇだろ!」
「大ありだよ。お前らの低脳な怒号が、俺の帰路の静寂を盛大に邪魔してんだよ。これ以上ギャーギャー騒ぐなら、今すぐスマホで生徒指導室と警備員に直通コールして、お前らの輝かしい高校生活を綺麗な更地にしてやろうか?」
低い死んだ目で淡々と告げると、相手の男はビクッと体を震わせた。
葉山の圧倒的な「光」とは違う、底知れない陰鬱さと狂気を孕んだ俺の雰囲気に気圧されたのだろう。男は「っ……覚えてろよ!」と捨て台詞を吐き捨てると、仲間を引き連れて足早にその場から逃げ去っていった。
静まり返った薄暗い空間に、残されたのは俺と、口元から血を流したまま地面に座り込んでいる葉山だけだった。
「……はは。相変わらず、登場の仕方が最悪だな、比企谷くん」
葉山は自嘲気味に笑いながら、自分の口元の血を手の甲で拭った。
その表情には、いつもの完璧な笑顔の仮面が完全に剥がれ落ちていて、ただの傷ついた一人の少年の顔があった。
俺はため息をつきながら、葉山の前に歩み寄り、ポケットからくしゃくしゃになったポケットティッシュを放り投げる。
「綺麗なお顔が台無しだぞ、みんなのアイドル様。……で、いつまでそこに這いつくばってんだよ」
「……見苦しいところを見せたね。僕は、ただ、誰も傷つけたくなかっただけなのに……いつの間にか、誰かを傷つけて、こうして憎まれている」
葉山は投げられたティッシュを握りしめ、地面を見つめたまま呟いた。
完璧でいなければならない。誰もが笑顔でいられるように、自分の役割を全うしなければならない。その呪縛に縛られ続けてきた彼の歪みが、形を変えて爆発した瞬間だった。
「当たり前だろ」
俺は葉山を見下ろしながら、バッサリと言い放った。
「全員に好かれようなんて都合のいいこと考えてるから、そういうしわ寄せが来るんだよ。お前は神様じゃねぇんだ、全員を救えるわけねぇだろ。嫌われる勇気すらないなら、最初から八方美人なんてやめちまえよ」
葉山の瞳が大きく見開かれた。
誰も言ってくれなかった真実。誰も彼にぶつけなかった、痛くて、でも真っ直ぐな言葉。
「……そうだね。君の言う通りだ」
しばらくの沈黙のあと、葉山はふっと力を抜き、それから今日一番の――どこか肩の荷が降りたような、自然な笑みを浮かべた。
「……ありがとう、比企谷くん。君って本当に、厄介で、最高の男だな」
「ありがた迷惑だ。さっさと立て、保健室行くぞ。お前のその情けない顔を雪ノ下や由比ヶ浜に見られたら、俺がまた変な誤解を受けんだよ」
俺が差し出した手を見て、葉山は少しだけ驚いたような顔をしたあと、その手をしっかりと掴んで立ち上がった。
血の繋がりなんてなくても、誰かの温もりを知っている俺と、期待という名の仮面をかぶり続けてきた彼ら。
傷だらけの夕暮れの校舎裏で、俺たちの関係は、また少しだけ面倒くさく、そして確かなものに変わっていくのだった。
背中合わせの温度
保健室の冷たい消毒液の匂いが鼻をつく。
ベッドの端に腰掛けた葉山は、鏡を見ながらガーゼで自分の頬をそっと押さえていた。
「……沁みるね」
「自業自得だ。おとなしくしてろ」
俺はパイプ椅子に浅く腰掛け、ポリポリと頭を掻きながらため息をついた。
医療用のガーゼと消毒液を片付けようとしたそのとき、葉山はふっと視線を落とし、静かな声で口を開いた。
「ねえ、比企谷くん」
「……なんだよ、まだ説教の続きか?」
「ううん、そうじゃないんだ」
葉山は顔を上げ、いつもとは違う、どこかあどけなさを残した真剣な瞳で俺を見つめた。
「……あのさ、もう『比企谷くん』って呼ぶの、やめにしないかい?」
「は? なんだよ急に。苗字で呼ぶのが一番無難だろ」
「ううん。なんだか長いし、堅苦しい気がしてさ。それに……」
葉山は少しだけ言い淀み、それから、きまり悪そうにはにかんで笑った。
「これからは、『八幡』って呼ばせてほしいんだ。……よかったら、でいいんだけど」
予想外の提案に、俺は思わず動きを止めた。
クラスの中心に君臨し、誰もが「葉山くん」と苗字で敬う彼が、わざわざ名前を呼ぶと言い出すなんて。しかも相手は、学校の隅でひねくれた青春を送っているこの比企谷八幡だ。
「……勝手にしろよ。呼びやすいように呼べばいいだろ」
「ありがとう、八幡」
葉山は嬉しそうに目を細め、それから窓の外の夕空に視線を投げた。
「僕にはね、兄がいないんだ。……ずっと、長男としてしっかりしなきゃいけないって、そればかり考えて生きてきた。甘えることも、弱音を吐くことも許されない場所で、ずっと道を踏み外さないようにプレッシャーを抱えてさ」
ぽつりぽつりと零れ落ちる言葉は、かつて病院のベッドで聞いた雪ノ下陽乃の独白に似ていた。
誰もが彼に「理想の葉山隼人」を求め、彼はそれに応え続けることで自分の居場所を保ってきた。その孤独と窮屈さは、想像以上のものだったのだろう。
「だけど……君を見ていると、時々思うんだ」
葉山はちらりと俺の背中を見つめ、少しだけ声のトーンを落とした。
「血が繋がっていなくても、誰かを守るために真っ直ぐに立ち上がって、不器用でも自分なりの優しさを持っている。……君のその背中は、まるで、頼れる本物の『兄貴』みたいだなって」
――頼れる兄貴。
その言葉に、俺は少しだけ気恥ずかしくなり、そっぽを向いた。
「ふざけんな。俺は妹の世話だけで手一杯だ。お前の兄貴面する気なんてサラサラねぇよ」
「知ってるさ。でも、だからこそ救われるんだよ。君は僕に、期待なんて求めないから」
葉山はそう言って、椅子からゆっくりと立ち上がった。
その顔に貼りついていた「完璧な仮面」は、もうどこにもなかった。傷だらけではあるけれど、それは確かに、一人の等身大の高校生としての、軽やかな笑顔だった。
「さてと、そろそろ帰らないと心配されるかな。……一緒に帰るかい、八幡?」
「やだね。男二人で夕暮れの通学路を並んで歩くとか、どんな罰ゲームだよ。勝手に先に帰れ」
「冷たいなあ。まあ、いいさ。また明日ね、八幡」
葉山は軽く手を上げ、軽やかな足取りで保健室を後にした。
パタンと閉まった扉の音を聞きながら、俺は一人、静かな部屋に残された。
血の繋がりがなくても家族になれる奴らがいて、期待という鎖に縛られていた奴らが、ほんの少しずつその重荷を降ろしていく。
俺の周りを取り巻くこの面倒くさくて愛おしい人間関係は、これからもきっと、俺の平穏を容赦なくかき乱していくのだろう。
「……やれやれだ本当に」
俺は小さく呟きながら立ち上がり、夕暮れに染まり始めた廊下へと歩き出すのだった。
短編小説:波紋の広がる教室(一年生編・修正版)
「……で、なんでお前がわざわざ一年二組の教室にまで来て、俺の名前を呼んでるわけだ、葉山くん」
昼休みの喧騒に包まれた教室の片隅。
俺――比企谷八幡は、自分の席の横に涼しげな顔で立っている同級生をジト目で睨みつけた。
俺たちはまだ「二年生」ではなく、高校生活の第一歩を踏み出したばかりの「一年生」だ。入学してまだ数ヶ月しか経っていないというのに、すでに学年のカースト頂点に君臨しているこの男――葉山隼人が、よりによってぼっち気味の俺の席にやってきて「八幡」などと馴れ馴れしく呼んでいるのだから、周囲がざわつかないわけがなかった。
「おい、あれって隣のクラスの葉山くんじゃね……?」
「なんであんな一軍のトップが、比企谷となんか話してんだよ」
「しかも下の名前で呼んでなかったか……?」
教室中の視線が、一斉に俺たちの背中に突き刺さる。
窓際や通路のあちこちから聞こえてくるひそひそ声が、耳に痛いほどだった。
原因は、他でもない。さっきから葉山が平然と放っている「今日の放課後、一緒に購買行こうよ、八幡」という発言のせいだ。
俺は持っていたパックの麦茶をストローで一口飲み、うんざりしたようにため息をついた。
「おい、葉山。高校デビューどころか、俺の細々としたスクールライフを盛大に更地にする気かよ。変な誤解を生むような真似はやめてくれ。第一、俺たちはまだ入学したばかりだろ」
「ははっ、いいじゃないか。事実なんだから」
葉山はどこ吹風とばかりに爽やかに微笑み、一切動じない。
その様子を、数席離れた場所から――パタパタと慌てた様子で近づいてきたピンク色のツインテールが、丸い目をさらに丸くして見つめていた。由比ヶ浜結衣だ。
「ちょ、ちょっと待ってよ葉山くん! なんでハッチーのことを下の名前で呼んでるのさ……!? 私だってまだそんな風に呼んでないのに!」
結衣の不満げな抗議に、クラスの空気がさらに一瞬ピクリと揺れた。
――「ハッチー」。由比ヶ浜がいつの間にか俺をそう呼んでいることも、周囲にとってはなかなかの爆弾発言だったらしい。
葉山は少しだけ困ったような、けれどどこか楽しげに目を細めた。
「ん? 別に、変な意味じゃないよ。ただ……」
葉山は視線を少しだけ俺に向け、それから教室の空気が引き締まるような、はっきりとした声で続けた。
「八幡は、思っている以上にいいやつだからね。いつまでも苗字で他人行儀に呼び合うのは、なんだか違うなって思ったんだ。だから、これからはそう呼ぶことにしたんだよ」
「……っ!」
教室が、一瞬で静まり返った。
入学して間もないこの時期に、学年で一番目立つ葉山が「いいやつ」と太鼓判を押し、さらに下の名前で呼ぶ。それがどれほどの衝撃か、一年二組の生徒たちには十分に伝わっていた。
由比ヶ浜は「え……?」と驚いたようにまじまじと俺の顔を見つめ、少し離れた窓際の席に座る雪ノ下雪乃は、教科書からふっと顔を上げると、紅茶のペットボトルを握りしめたまま、呆れたような、しかしどこか見定めるような冷ややかな視線を向けてきた。
俺は頭をかきむしり、盛大に首を振る。
「……勝手に人の好感度を上げるなよ。お前が勝手にそう呼んでいるだけだろ。そもそも、お前とはそこまで深い仲になった覚えはねぇよ、保健室の貸し借り以外でな」
「ふふ、照れなくてもいいさ。じゃあ、今日の放課後ね、八幡」
葉山は満足したように微笑むと、周囲の好奇の視線を軽くいなしながら、自分のクラスへと優雅に戻っていった。
取り残された俺の背中には、「なんだあいつ……」「いつの間にそんな関係に……」というクラスメイトたちのざわめきがいつまでもまとわりついている。
「もう……ハッチー、また入学早々変なところで目立つんだから……!」
由比ヶ浜が頬を膨らませ、不満そうに俺の机をトントンと叩く。
窓際からは、雪乃の「……やれやれ、入学してまだ数ヶ月だというのに、相変わらず厄介な男を全方位に引き寄せる才能だけは一級品ね」という呆れ声が聞こえてくる気がした。
血の繋がりがなくても家族のように繋がる温もりを知り、期待という鎖から解き放たれようとする者たちが、高校一年生という青い季節の中で、それぞれの関係を紡ぎ始めている。
……俺の平穏な高校生活は、どうやら入学直後から完全に詰んでいるらしい。
「……やれやれだ、本当に」
俺は小さく呟きながら再び麦茶に口を付け、遠い目をして窓の外の青空を眺めるのだった。
短編小説:放課後の強制執行
葉山が去ったあとの教室のざわめきが、まだ収まりきらない昼休みの一コマ。
俺が「やれやれ」と溜息をつきながら麦茶のパックを机に置いたその瞬間、目の前にピンク色の髪の毛がふわりと揺れた。
由比ヶ浜結衣が、両手を机につけ、至近距離でぐっと顔を覗き込んできている。
「ねえ、ハッチー」
「んだよ、由比ヶ浜。さっきから勝手に人のあだ名を定着させるな」
「それよりさ――いつデートする?」
「……は?」
あまりにも直球すぎる爆弾発言に、俺は思わず持っていたストローを落としそうになった。
周囲で聞き耳を立てていたクラスメイトたちが、一斉に「い、今なんて……!? デート……!?」とざわめきを再燃させる。
「いつって、何がだ。いつそんな約束をした覚えがあるんだよ」
「今したの! ほら、デート!」
「お前が勝手にスケジュールを秒速で決定すんな。そんな覚えは一切ない」
俺が呆れ果てて首を振ると、由比ヶ浜はふうっと息を吐き出し、ちょっと得意げな、けれど少しだけ頬を赤らめた笑顔を浮かべた。
「じゃあ、今誘ってるの! これで解決!」
「強引すぎるだろ、それじゃただのジャイアンの脅しと変わんねぇよ」
「もう、細かいことはいいの! はい、決定ね!」
由比ヶ浜は俺の返事を待つ気など端からなかったらしい。
「じゃ、放課後サイゼねー!」と軽やかに声を弾ませると、パタパタと小走りで自分の席へと戻っていき、自分のカバンを片付け始めた。
――放課後、サイゼ。
それは高校生の放課後における最も安価で、最もカオスな低コスト空間。
俺は遠い目をして、数席離れた窓際を見た。
そこでは、雪ノ下雪乃が「……まったく、人の話を聞かない女ね。呆れてものも言えないわ」とでも言いたげな冷ややかな視線をこちらに向けながら、優雅に紅茶の缶に口をつけていた。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知った奴や、仮面を脱ぎ捨てて俺を「八幡」と呼ぶ奴がいたり、そして目の前で勝手にデートの約束をブチ上げる奴がいたり。
俺の平穏な高校生活は、一年生という一番青臭い季節の真ん中で、今日も盛大に音を立てて脱線し続けているのだった。
「……やれやれ、ドリンクバーだけで三時間コースかよ」
俺は小さく呟きながら、諦めたように自分のカバンを引き寄せるのだった。
短編小説:放課後のサイゼリヤにて
放課後のチャイムが鳴ってから、どれくらい経っただろう。
学校から少し歩いたところにあるファミレス「サイゼリヤ」の窓際席で、俺――比企谷八幡は、冷めかけたドリンクバーの烏龍茶をストローでチビチビと吸っていた。
「……本当に来ちゃったよ、俺」
あんな強引な誘い方をされて、その場でバックレるという選択肢も一応脳裏をかすめたが、あのピンク色の爆弾娘のことだ、翌日以降の学校生活で何を言われるか分かったもんじゃない。何より、変なところで律儀な自分の性格が恨めしい。
窓の外の夕暮れを眺めながらそんなことを考えていると、自動ドアがシャラランと軽快な音を立てて開いた。
「はぁ、はぁ……お待たせ、ハッチー!」
息を切らせてパタパタと小走りでやってきたのは、由比ヶ浜結衣だった。
彼女は俺の姿を見つけると、パッと顔を輝かせ、嬉しそうにドカッと向かいの席に腰を下ろす。
「……本当によく来たね、お前は」
「えへへ、来てくれるって信じてたもん!」
「断るスキが1ミリもなかったからな。あれは誘いじゃなくて、もはや事後報告だろ」
俺がジト目で呆れ返ると、由比ヶ浜は「細かいことは気にしない!」と言わばかりに、へへっとお茶目に笑ってみせた。その表情があまりにも嬉しそうだったので、不思議と嫌な気はしないのが我ながらチョロいというか、なんというか。
「とりあえず、メニュー決めるか。……ほら、お前はいつものミラノ風ドリアか?」
「おっ、さすがハッチー、よく分かってるじゃん! じゃあ私はそれと、小エビのサラダね!」
由比ヶ浜は嬉しそうにメニュー表を開き、ルンルンとした調子で注文票にシャープペンシルを走らせる。
窓の外では夕日が沈みかけ、店内の温かい照明がテーブルを優しく照らしている。
血の繋がりなんてなくても温かい家族の形を知り、完璧な仮面を脱ぎ捨てた奴らがそれぞれの明日へ歩き出す中、こうして放課後のファミレスでくだらないやり取りをしているこの時間も、案外悪くないのかもしれない。
「……ほら、早く書けよ。ドリンクバー行ってこい、おごってやるから」
「ほんと!? やった、ハッチー太っ腹!」
嬉しそうに席を立つ由比ヶ浜の背中を見送りながら、俺は小さく息をつき、再びグラスの烏龍茶を口に含むのだった。
短編小説:ファミレスの乱入者と最大級の爆弾
「――お待たせ! ドリンクバー、烏龍茶とメロンソーダ混ぜてみたんだけど、意外と美味いよ!」
由比ヶ浜が嬉しそうにグラスを二つ抱えて戻ってきたその時だった。
俺たちのテーブルのすぐ脇に、ピタリと影が落ちた。
「……こんなところで、一体何をしているのかしら?」
涼しげで、けれどどこか棘のある澄んだ声。
顔を上げると、そこには制服姿のまま、綺麗に整えられた長い黒髪を揺らす雪ノ下雪乃が立っていた。手にはなぜか、高級そうなペーパーバッグが提げられている。
「えっ!? ゆきのん……!? なんでここに……?」
由比ヶ浜が目を丸くして声を上げる。
雪乃はふっと優雅に息を吐き、俺たちを冷ややかに見下ろした。
「通りがかっただけよ。まさか、校外のファミレスで、学校の生徒がこのような俗世にまみれた時間を過ごしているとは思いもしなかったけれど」
「いや、通りがかるにはピンポイントすぎるだろ」
俺がジト目でツッコミを入れると、雪乃はわずかに頬を赤らめつつも、すっと強引に俺の隣の席――ソファの空いたスペースに腰を下ろした。……おい、勝手に相席するな。
「それで? 一体何の相談かしら。まさか、昼間の教室での不穏なやり取りの続きというわけではないでしょうね」
雪乃の琥珀色の瞳が、ギロリと由比ヶ浜を捉える。
由比ヶ浜は少しだけ気まずそうに頬を掻きながらも、まっすぐに雪乃を見返した。
「別に、相談とかじゃないよ。……デート、してるの!」
「デ……!?」
雪乃の美しい眉が、盛大にピクリと跳ね上がった。
「デート、ですって……? あなたたち、放課後にわざわざファミレスで何を……。そもそも、比企谷くんとあなたが二人で出かけるような共通の目的がどこにあるというのかしら!」
「え? だって、普通に――ハッチーのことが好きだから誘ったんだよ。それだけ!」
「っ……!?」
俺は喉まで出かかっていた烏龍茶を、盛大にブーッと吹き出しそうになった。
慌てて口を押さえ、テーブルを拭くために紙ナプキンを引っ掴む。な、なんだって……? 今、こいつサラッととんでもねぇ爆弾を投下しなかったか?
雪乃は文字通りフリーズしていた。
美しい顔面をこれでもかというほど歪め、言葉を失ったようにパクパクと口を開閉させている。
「す、すき……? 今、あなた、なんと……」
「あ、れ? ちょっと待って、言葉の勢いが強すぎたかも……!」
自分の発言の破壊力に今さら気づいたのか、由比ヶ浜はパタパタと両手で自分の真っ赤な顔をあおぎ、しどろもどろになりながら弁解を始めた。
「い、いや! その、恋愛的な意味とか、そういうのとはまたちょっと違うっていうか……! ううん、違うこともない、かな?」
「どっちなんだよ」と突っ込みたい俺をよそに、由比ヶ浜はさらに顔を赤くして言い淀む。
「ええっと……その、私の彼氏にしたい候補ナンバーワンが、ハッチー、かな……って!」
――ズキューン。
そんな音圧が聞こえそうなほどの直球ストレートが、ファミレスの空間を突き抜けた。
「なっ……ななな……っ!」
隣に座っていた雪乃の顔が、一瞬でトマトのように真っ赤に染め上がった。
彼女はバッッと立ち上がりそうになり、慌てて背筋をピンと伸ばしたまま、震える指で由比ヶ浜を指さす。
「な、なんて破廉恥な……! 女子高生たる者が、公共の場で、そんな赤裸々な好意を……! しかも、よりによってこの、ひねくれた魚の死んだ目をした男を彼氏候補の筆頭になど……! あなた、頭でも打ったのかしら由比ヶ浜さんっ!」
「だって、ゆきのんも絶対気になってるくせにー!」
「わ、私はそんな不埒な感情など一切――!!」
真っ赤になって言い争う二人を眺めながら、俺は遠い目で自分のグラスを見つめた。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知った奴や、仮面を脱ぎ捨てて俺に歩み寄ってくる奴らがいる一方で、この放課後のサイゼリヤは、なぜこうも次から次へと面倒くさい爆弾が投下されるのか。
「……おい、お前ら、周りの客の目が痛いから少し声量を落とせ」
俺がやれやれと頭を抱えると、雪乃はバッと俺に視線を向け、顔を真っ赤にしたままキッと睨みつけてきた。
「比企谷くん! あなたも何か言いなさいよ!」
「いや、俺はただの被害者兼ドリンクバーのスポンサーですが何か」
静かなはずの夕暮れのファミレスは、今日も今日とて、俺の平穏を容赦なく踏みにじっていくのだった。
短編小説:去り際の爆撃と残された沈黙
真っ赤な顔で言い争っていた雪乃は、しかし、ふと周囲の客たちの好奇の視線に気づいたのか、ハッと息を呑んで急に姿勢を正した。
彼女は震える手でペーパーバッグの持ち手をギュッと握り締め、言い訳するようにプイッと顔をそむける。
「……そ、その、私はね、ただ世間知らずな友人が変な男に騙されていないか、見張りに来ただけよ。勘違いしないでちょうだい!」
「はいはい、お疲れ様ですー」
「っ……! もう行くわよ、こんな俗世の匂いが充満した場所!」
雪乃はそう吐き捨てると、バッと踵を返し、早足で出口の自動ドアへと向かって歩き出した。
その背中はなぜか、どこか逃げ出すように慌ただしい。
――だが、彼女がちょうど自動ドアをくぐり、シャラランと軽快な音が鳴り響いた、まさにその瞬間だった。
店内を通り抜ける冷房の風に乗って、周囲の喧騒にかき消されそうなほど小さな、けれどやけにクリアな呟きが、俺たちの耳に届いた。
「……私も、よ」
「……は?」
俺と思わず声を揃えた由比ヶ浜が、同時に目をパチクリとさせる。
今の、聞こえたか?
雪乃が、まるで自分の影に向かって言い残すような、聞き捨てならない独り言を吐いていかなかったか?
自動ドアはすっかり閉まり、そこにはもう雪ノ下雪乃の姿はない。
ただ、残された俺と由比ヶ浜の間だけが、奇妙な沈黙に包まれていた。
「……いまの、聞こえた?」
由比ヶ浜が、ぽかんと口を開けたまま俺の顔を覗き込む。
「あぁ、はっきりと鮮明に耳の鼓膜を直撃しやがったな……」
俺は額に手を当て、深い深い溜息をついた。
あの氷の女王と称される雪ノ下雪乃が、あんな恥ずかしい捨て台詞を残して去っていくなんて、いよいよこの世界線も終末が近づいているのかもしれない。
「ねえ、ハッチー」
由比ヶ浜が、トントンとテーブルの上で指先を合わせながら、少しだけ小首をかしげた。
「ん?」
「ゆきのんのさ……『私も、よ』って、どういう意味だと思う?」
「知るか。宇宙の神秘でも語ってたんだろ。もしくは耳の幻聴か、俺の精神がいにしえの疲労でいよいよおかしくなったかだ」
「絶対違うし! 聞き逃さなかったもん!」
由比ヶ浜はむうっと頬を膨らませ、それから悪戯っぽく、けれどどこか探るような眼差しで俺を見つめた。
「……ねえ。もしかしてだけどさ、ゆきのんも、私のこと言えないくらい――」
「ストップ。それ以上口を開くな、由比ヶ浜」
俺は慌てて両手を突き出して遮った。
「これ以上その話題を掘り下げると、俺の平穏な学校生活が物理的に爆破される予感がする。命がいくつあっても足りねぇよ」
「えー? チキンだな、ハッチー」
由比ヶ浜はくすくすと楽しそうに笑い、それからストローで自分のジュースをチュッと吸った。
「……でもさ」
彼女は急にふっと表情を和らげ、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「さっき私が言ったこと、本当だからね」
「……あぁ?」
「彼氏にしたい候補、ね。……ナンバーワンかどうかは、まあ、これから決めていけばいいか、って思ってるけどさ」
トプン、と。
自分の胸の奥で、小さく波紋が広がる音がした気がした。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知った奴がいて、完璧な仮面を脱ぎ捨てて俺を「八幡」と呼ぶ奴がいて、そしてこうして真っ直ぐな好意をぶつけてくる奴らがいる。
俺の知っていた冷めきったぼっちライフは、いつの間にか、とんでもなく面倒くさくて、とんでもなく温かい日常へと形を変えてしまっていたらしい。
「……勝手に候補に入れんな。書類選考の時点で落第だろ、俺は」
「えー、不合格通知は受け付けません! はい、ミラノ風ドリア来たよ、冷めちゃうから早く食べよ、ハッチー!」
運ばれてきた熱々のドリアから立ち上る湯気の中に、由比ヶ浜の眩しすぎる笑顔が溶けていく。
――やれやれ、と心の中で呟きながら、俺は仕方なくフォークを手に取るのだった。
短編小説:クラスのざわめきと、宣戦布告
翌日の昼休み。
俺――比企谷八幡が自分の席でぼんやりとスマホをいじっていたその時だった。
「よお、比企谷じゃねぇか」
突然、ガシガシと雑に机を叩く音が響いた。
顔を上げると、そこに立っていたのはクラスでも目立つ一軍グループの一角――大和と大岡の二人だった。どちらも面白半分といった軽薄な笑みを貼り付け、見下すような視線を向けてきている。
「なんだ、用件がないなら他所でやってくれ。電波の邪魔だ」
「冷てぇこと言うなよ。なぁ、最近お前さ、由比ヶ浜とやけに仲良くね?」
「……は?」
大和がニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら、俺の肩を軽く小突いてくる。
「おいおい、分かってるだろうな。お前みたいなのが調子こいて由比ヶ浜にベタベタすんの、周りから見てて結構痛いぜ? 彼女に余計なちょっかい出すんじゃねぇよ」
「……」
言葉が出なかった。
いや、呆れて言葉を失ったというのが正しい。交際しているわけでもなければ、こちらから積極的にベタベタしているわけでもない(むしろ向こうから勝手に突撃してきている被害者なのだが)、それをわざわざ他人にネチネチと言われる筋合いは一切ない。
だが、「いや、俺は被害者でして」などと弁解するのも、なんだかプライドが許さないというか、最高にみみっちい気気がして、俺はただジト目で二人を睨み返すことしかできなかった。
「なんだよ、図星だからって黙り込んでんじゃねぇよ。なぁ?」
大和がさらに調子に乗り、腕を掴もうと手を伸ばしてきた、その時だった。
「――ねえ、何やってるの?」
凛とした、けれどどこか冷ややかな声が、教室の空気を一瞬で凍りつかせた。
振り返ると、そこにはいつの間にか席を立った由比ヶ浜結衣が立っていた。
彼女の顔には、いつものふんわりとした笑顔は微塵もなく、琥珀色の瞳にはハッキリとした怒りと冷たさが宿っている。
「ゆ、由比ヶ浜……?」
大和たちが気まずそうに声を裏返らせる。
由比ヶ浜はスタスタと俺の隣まで歩み寄ると、堂々と俺の前に立ちふさがるようにして、大和たちをまっすぐに見据えた。
「ハッチーに絡まないでよ。それに、勘違いしないで」
「え……?」
「私がハッチーに近づいてるのは、私の方なんだから。ハッチーは私の『彼氏にしたい候補筆頭』なんだからね。……だから、勝手に被害者面して邪魔しないでくれる?」
――シーン。
教室のざわめきが、文字通り一瞬にして消え失せた。
クラス中の視線が、驚愕に見開かれたまま由比ヶ浜と俺に集中する。
「……は? 今、由比ヶ浜なんて言った……? 彼氏候補の筆頭……?」
「嘘だろ……あの比企谷が……?」
大和と大岡は顔を真っ青にし、気まずさを通り越して完全にフリーズしていた。女子たちからも「えっ、マジで……?」というどよめきが漏れ漏れである。
そんな静まり返った教室の隅で、別の意味で注目を集めている一角があった。
「へぇ……やるじゃん、結衣」
腕を組んで面白そうにその様子を眺めていた三浦優美子は、ふっと不敵な笑みを浮かべ、隣にいる海老名姫菜を小突く。
「ねー! いいねぇ、青春だねぇ! 私、こういう直球ストレート大好きだよ、すごく栄養価が高い!」と、海老名がなぜか両手を握りしめて興奮している。
そして、その少し離れた席から、葉山隼人はすべてを察したような爽やかな苦笑を浮かべ、小さく頭を振っていた。
(……やるね、八幡。君は相変わらず、とんでもない台風の目だ)――そんな声が聞こえてきそうな目をしていた。
「なっ……! 別に、俺はべつに何も……!」
ようやく頭が回転し始めた俺は、あまりの気恥ずかしさと周囲の視線の痛さに、顔を真っ赤にしてしどろもどろになる。弁解しようにも、当事者である由比ヶ浜が仁王立ちで俺の前に陣取っているせいで、説得力はゼロだった。
「ほら、用事ないならあっち行って!」
由比ヶ浜に凄まれた大和と大岡は、気まずそうに顔を見合わせると、「わり、なんでもねぇから……!」と逃げるようにすごすごと退散していった。
喧騒が去ったあと、教室には奇妙な静寂が残る。
由比ヶ浜はふうっと息を吐き出すと、パッと振り返り、俺に向かって悪戯っぽく、けれど真っ赤に染まった顔でぺろっと舌をを出した。
「……助け舟、ね。お前なぁ、教室の真ん中で何爆弾投下してんだよ……」
頭を抱えて机に突っ伏す俺をよそに、由比ヶ浜は「えへへ、これで文句言う奴いなくなるでしょ!」と満足そうに胸を張るのだった。
――やれやれ。
俺の平穏な高校生活は、今日も今日とて、盛大に音を立てて崩れ去っていくのだった。
短編小説:厄介なガールズ・トークの嵐
大和たちがすごすごと退散していった後も、教室のざわめきは収まるどころか、むしろ熱を帯びて広がっていた。
「ちょっと、結衣……! あんた、さっき教室の真ん中で何言い放ってくれてるわけ!?」
パタパタと足音を立ててやってきたのは、三浦優美子だった。その背後には、腕を組んだ川崎沙希も呆れたような、けれどどこか面白がるような目を光らせて控えている。
三浦はジト目で由比ヶ浜を睨みつけ、信じられないものを見るような声を上げた。
「あんな……ほら、普段から死んだ魚の目をしてて、ジメジメした変なことばっか言ってる比企谷のどこが良いのよ! どこにそんな価値があるわけ?」
三浦の辛辣なツッコミに、教室の端で話を聞いていた女子たちからも「たしかに……」「顔だけならまだしも、中身がねぇ……」という同調のひそひそ声が漏れる。
だが、当の由比ヶ浜は一歩も引かなかった。
彼女は胸を張り、フンと誇らしげに鼻を鳴らす。
「優美子、それはおこちゃまだなぁ! ハッチーの本当の格好良さや優しさが分からないなんて、まだまだ見る目がないね!」
「はあ!? お子様って、私を生意気扱いしないでよ!」
「それにね――」
由比ヶ浜はふっとイタズラっぽい笑みを浮かべ、クラスの少し離れた席に視線を投げた。
「あの葉山くんだって、最近はハッチーのことに夢中なんだからね。男から見ても一目置くような魅力が、ハッチーにはあるの!」
「なっ……! 隼人が……?」
三浦が驚愕に目を剥く。その名前を出されたことで、クラスの女子たちの間にさらなる動揺が走った。学年カーストの頂点にいる葉山が、あの比企谷を特別視しているという事実――それが、由比ヶ浜の言葉によってさらに補強されてしまったのだから無理もない。
「ふふふ……っ、ほうほうほう……!」
そのやり取りの最中、最前列付近の席から、海老名姫菜が両手を顔の前で固く組み、全身をぶるぶる震わせて悶え始めていた。
「な、なに海老名ちゃん、そんなに興奮して……」とドン引きする三浦を無視して、海老名は潤んだ目で熱っぽく語り出す。
「いいよ、すごくいいよ……! 普段は距離を置いてるツンデレ気質な幼なじみ(?)が、ここぞという時に正妻の貫禄で周囲を黙らせ、さらにイケメンのモテ男をも巻き込んでいくこの構造……! 供給過多で私、鼻血が出そう……!」
「誰が正妻よ、もう!」
赤面して海老名をポカポカと叩く由比ヶ浜と、それをやれやれと見守る川崎、そして頭を抱えて混乱する三浦。
――女子たちの会話が、いよいよ俺のキャパシティを超えた修羅場へと突入し始めたその瞬間。
俺はそっと、自分の席から立ち上がった。
(……うん、ここにいたら間違いなく流れ弾で消し飛ぶな)
誰にも気づかれないように、いや、むしろ一刻も早くこの場から逃亡するために、俺はカバンをひっつかみ、忍者のような足取りで教室の出口へと向かった。
「あ、ちょっとハッチー、どこ行くの!?」
背後から飛んできた由比ヶ浜の声を聞き流し、俺は「トイレ、大の方だ」という小学生並みの言い訳を脳内で唱えながら、ガラリと引き戸を開けて廊下へ飛び出した。
背後で「逃げたー!」「待ちなさいよ、比企谷!」という声が遠ざかっていく。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知った奴らがいて、俺を巡って女子たちが勝手にキャッキャウフフ(修羅場とも言う)している。
……俺の平穏な高校生活は、今日も今日とて全速力でどこかへ消え去っていくのだった。
短編小説:不器用な救出劇
教室から逃げ出すように廊下へと飛び出した俺――比企谷八幡は、とりあえず人気のない西棟の階段付近へと足を向けていた。
あのまま教室に残っていれば、海老名あたりの妄想の生贄にされるか、三浦のお説教を延々と聞かされるかの二択しかなかったからだ。
「はぁ……全く、どいつもこいつも平和ボケしてやがる……」
誰もいない階段の踊り場で、俺は盛大にため息を吐きながらポケットに手を突っ込む。
その時だった。
上層階から、カツカツと慌ただしい足音が響いてきたかと思うと、
「あ――っ!?」という、甲高い悲鳴が降ってきた。
「っ……!」
反射的に顔を上げた瞬間、視界の端で制服のスカートを揺らしながら見事にバランスを崩した人影が、階段を踏み外しそうになっているのが見えた。
頭から真っ逆さまに落ちれば、それなりに派手な流血沙汰になるコースだ。
「っとに、手がかかる奴らばっかだな……!」
思考よりも体が先に動いていた。
俺は一気に数段駆け上がり、転げ落ちてきたその細身の体を、両手でしっかりと抱き止める。
「――っは!?」
勢い余って、俺の胸元にその人物が飛び込んでくる形になった。
腕の中に広がったのは、ふわりと香る甘いシャンプーの匂い。そして、驚愕に目を見開いている、見慣れた金髪の横顔。
三浦優美子だった。
「……いたたた……え?」
自分の身に何が起きたのか分かっていない様子の三浦は、しばらく俺の腕の中で硬直していたが、やがて状況を把握したのか、カッと勢いよく顔を真っ赤に染め上げた。
「な、なっ……何よ急にっ……! 触んじゃねぇよ、バカ比企谷……っ!」
三浦は慌てて俺の胸をバシバシと叩き、乱暴に身を引いて距離を取る。その美しい顔立ちは、耳の先まで綺麗に真っ赤に染まっていた。
だが、その震えている細い足元は、まだ少しフラついている。
「口の利き方に気をつけろ、せっかく人助けをしてやったっていうのに。……次はもっと足元をよく見て歩けよ、小町」
「……は? 誰が小町よ、私は――」
「おっと、そろそろ部活か何かの時間だろ。じゃあな、不良品はお早めに修理しとけよ」
照れ隠しとばかりに強がる彼女の頭を、俺はまるで妹を扱うようにポンと雑に一撫でし、振り返ることもせずにそのまま階段をスタスタと降りていった。
「――っ……!?」
背後で、三浦が息を呑む音が聞こえた気がした。
階段の踊り際に一人取り残された三浦優美子は、乱暴に触られた自分の頭にそっと手をやり、信じられないものを見るような目で、去っていく俺の背中を見つめていた。
いつもは冷たくて、我が儘で、クラスの中心で女王様のように振る舞っている彼女。
そんな彼女を、あんな風に、まるで子供扱いするように「妹」の枠に放り込んで、何食わぬ顔で去っていく男なんて、この学校のどこを探しても比企谷八幡しかいない。
「……なんなのよ、あいつ……急にあんなこと言って……っ」
心臓の音が、静かな階段の踊り場にやけにうるさく響く。
顔の熱が一向に引かないまま、三浦は自分の胸元をぎゅっと片手で押さえ、小さく唇を噛み締めるのだった。
――まったく、どいつもこいつも、俺の平穏な日常をかき乱す天才ばかりらしい。
短編小説:深淵なる世界の住人
階段での一件から逃げるようにして図書館の端っこ、いわゆる「死角」と呼ばれるエリアに避難した俺――比企谷八幡は、静寂を求めて本棚の隙間に身を潜めていた。
……が、そこは甘かった。
背後から、わずかに紙がこすれる音と、何やら熱を帯びた独り言が聞こえてきたのだ。
「ふふっ……そう、ここで彼が壁ドンをして、不器用に目を逸らす……! ああ、この『すれ違いそうで交差しないベクトル』の尊さよ……!」
恐る恐る振り返ると、そこには目を爛々と輝かせ、手元のスケッチブックに何かを猛烈な勢いで書き殴っている海老名姫菜の姿があった。
見つかった。よりによって、この学園における「深淵の住人」に。
「……お前、こんなところで何やってんだよ、海老名」
「ひゃっ!? は、八幡くん……!?」
海老名ビクッと肩を跳ね上げ、スケッチブックを隠すように胸元に抱え込んだ。だが、その瞳にはなぜか「獲物を見つけたハンター」のようなギラギラした光が宿っている。
「いや、ちょっと調べ物をな……って、そのスケッチブックに描かれてるの、もしかして俺の隣のクラスのアイツと、あっちのアイツか?」
「ふふふ……さすが八幡くん、目の付所がシャープだね! いやぁ、最近ね、葉山くんとある男子の間に芽生える『抗えない運命の磁場』について考察しててさー!」
海老名は語り始めたら止まらないと言わばかりに、ぐっと身を乗り出してきた。
普通の人なら、この圧倒的な熱量とディープすぎる世界観に気圧されて即座に退散するところだろう。だが、あいにく俺には、妹の小町が持ち込んでくる大量の同人誌や、ネットの海を漂流するうちに培われた、謎の耐性と知識があった。
――そう、俺は「BL(ボーイズラブ)」という名の深淵に対して、意外と理解がある方なのだ。偏見なんてものはない。人間が誰かを想う形なんて、多種多様であっていい。ただ、それが自分の周りでリアルタイムに繰り広げられ、あまつさえ自分がその「モブ視点(あるいは解説者枠)」に組み込まれるのだけは勘弁してほしいというだけで。
「……まあ、なんだ。その、あれだろ。立場や役割のせいで本音を隠さざるを得ない人間同士が、お互いにしか見せない歪んだ執着とか、そういう泥臭い関係性の対比ってことだろ」
俺がぼそっと、どこか投げやりにつぶやいた瞬間だった。
「――っ……!」
海老名の動きが、ピタリと止まった。
彼女は驚愕に目を見張り、まるで未知の生物を見るような目で俺をじっと凝視する。
「や、八幡くん……? 今、なんて……?」
「いや、だから、お前がさっきから熱弁してるのって、結局のところ『お互いに理想を押し付け合って身動きが取れなくなってる奴らが、不器用にぶつかり合うカタルシス』が好きなんだろ? 違ったか?」
静まり返った図書館の隅で、海老名はブルッと全身を震わせた。
そして、次の瞬間――彼女は両手で自分の顔を覆い、狂喜乱舞するように身悶えし始めた。
「わ、わかる……! 分かりすぎるよ八幡くん……!! そうだよ、そこなんだよ! 光が強ければ強いほど、その裏に落ちる影のコントラストが最高にエモいの! ああ、もう、葉山くんと彼を巡る妄想のインスピレーションが、私の脳内で核融合を起こしそう……!」
「おい、変なところで発動すんな、脳内核融合は危険だからやめろ」
「ねえ、八幡くん! ちょっと今度、私の新しいノートのプロット読んでくれない!? 君のその斜に構えた冷めた視点からの絶妙な客観的ツッコミ、絶対に素材として最高だから!」
「お断りだ。俺の平穏な日常の素材を、お前の脳内変換フィルターに通されたら社会的に死ぬ」
やれやれ、と頭を抱える俺をよそに、海老名は「ふふふ……隠れ理解者(ストッパー兼オタク)の才能があるよ、八幡くんは……」と満足そうにノートをしまうのだった。
血の繋がりがなくても家族の温もりを知る奴がいて、勝手に彼氏候補の筆頭に挙げてくる奴がいて、階段で照れ隠しに強がる女王様がいて――そして、この図書館の隅には、人間の業を愛する狂気的な理解者がいる。
俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、予想の斜め上を爆走し続けているのだった。
短編小説:深淵の王者の撤退
「ねえ、八幡くん! ちょっと今度、私の新しいノートのプロット読んでくれない!? 君のその斜に構えた冷めた視点からの絶妙な客観的ツッコミ、絶対に素材として最高だから!」
海老名がキラキラと目を輝かせながら、なおも熱心に詰め寄ってくる。
俺は盛大にため息をつき、やれやれと首を振った。
「お断りだ。俺の平穏な日常の素材を、お前の脳内変換フィルターに通されたら社会的に死ぬ。第一、俺はそういう方向に振り切る気は――」
言いかけたその言葉を、俺はふと途中で止めた。
……待てよ。いつもいつも、この深淵の住人にペースを握られっぱなしなのも、なんだか癪に障る。たまには、こっちの土俵で一撃食らわせてやるのも悪くないかもしれない。
思考の隙間にふと悪戯心が芽生えた。
俺はわずかに目を細め、海老名の抗議を遮るようにスッと一歩、彼女との距離を詰める。
「……でも、な」
「へ……?」
海老名が間抜けな声を漏らし、わずかに体を引いた。
その瞬間、俺は彼女の目の前でスッと右手を伸ばし、彼女の頭の横――書架の木製パネルにドンと音を立てて腕をついた。いわゆる、世間で言うところの「壁ドン」というやつだ。
さらに、俺は彼女の顎にそっと指先を添え、その顔を強制的に自分の方へくいっと持ち上げた。
「男同士もいいが……男と女は、もっといいだろ」
低く、わざと気だるげで、どこか艶っぽいトーンを作ってそう囁く。
至近距離で目が合った瞬間、海老名の表情が完全にフリーズした。
「……は……?」
彼女の脳内で、おそらく地球の歴史を上回る規模の処理落ちが発生しているのが手に取るように分かる。
いつも数手先まで先回りして妄想を膨らませていた「深淵の住人」が、まさかモブの筆頭であるはずの俺から真っ向マウントを取られるなど微塵も想定していなかったのだろう。彼女の開いた口が、そのまま完全にふさがらなくなった。
勝負あり、だ。
俺はふっと冷めたような、それでいてどこか余裕のある笑みを浮かべ、海老名の顎からスッと指を離した。
「なんてな。……じゃ、立ち入り禁止エリアの散策はこれくらいにしとくわ」
クールにそう言い残すと、俺は振り返ることもなく、片手をポケットに突っ込んだままスータと図書館の出口へと歩き出した。
背後で、しばらくの完全な静寂のあと――。
「――っ…………!?」
海老名姫菜の、物理的に限界を超えた絶叫とも溜息ともつかない奇声が、静かな図書館の隅に盛大に木霊した。
――ドクン、ドクン、ドクンッ!!
心臓が、喉から飛び出るんじゃないかというほどの猛スピードで暴れ狂っている。
海老名は両手で自分の真っ赤に染まった頬をガッチリと覆い、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「な……なに今の……! え、待って、頭が追いつかないんだけど……! いつもは斜に構えてるジメジメしたモブ男子(自称)が、なんで急にあんな圧倒的少女漫画的イケメンムーブを……!? ていうか、今のシチュエーション、完全に私の脳内データベースの斜め上を行きすぎてて、キャパオーバー……っ! は、鼻血が出る、いやもう出てるかもしれない……っ!!」
頭から湯気が出そうなほど悶絶しながら、海老名はバタバタと畳の上(いやフローリングか)を這いずり回るように頭を抱えていた。
そんな彼女の阿鼻叫喚を背中で聞きながら、俺は図書館の自動ドアをくぐり抜け、夕暮れの廊下に出たとたん、大きく息を吐き出した。
「ふぅ……あぶねぇ、一歩間違えたら俺の羞恥心が爆発して死ぬところだったぞ……」
冷や汗を拭いながら、俺は自分の右手をちらりと見る。
やれやれ、とんでもない怪物(海老名)を相手に余計な真似をしてしまったものだ。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知る奴がいて、彼氏候補の筆頭だと宣戦布告してくる奴がいて、階段で照れ隠しに強がる女王様がいて――そして、図書館の隅で今まさに脳内核融合を再発させている狂気的な理解者がいる。
俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、予測不能なカオスの中を全速力で暴走し続けているのだった。
短編小説:深淵からの逆襲、あるいは自業自得
夕暮れ時の放課後。
俺――比企谷八幡は、自分の席にどっかりと腰を下ろし、今日の数々のイベントによる精神的疲労を盛大に噛り締めていた。
あの後、図書館から命からがら逃げ出してきたはいいものの、どこか胸の片隅に引っかかるものがあった。
――おい、いくらなんでもやり過ぎたんじゃないか、俺?
普段は日陰のモブを自称し、無難に、目立たずに、平穏なスクールライフの荒野を生き抜くことだけを信条としているこの俺が、よりによってあの海老名姫菜に対して「壁ドン」からの「顎クイ」、極め付きの甘いセリフをかましてしまったのだ。
あれは自爆テロに近い。もし彼女のスイッチを完全にバグらせてしまい、俺を主人公にした「歪んだダークロマンス大河」でも執筆されようものなら、俺の高校生活は物理的に終了する。
「……はぁ。調子に乗って尖った真似をするもんじゃねぇな。少し、反省するか……」
頭を抱えて机に突っ伏していると、遠くの方からカツカツと、異様なまでに気合の入った足音が近づいてきた。
嫌な予感がして、俺はゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは、海老名姫菜だった。
ただし、いつものおっとりとしたオタク女子の雰囲気は微塵もなく、その両目は狂気と情熱の炎でランランと燃え盛っている。彼女の手には、先ほどまで隠し持っていたはずのスケッチブックがしっかりと握られていた。
「は、八幡くん……」
「お、おう。なんだよ、さっきはちょっと魔が差したというか、その……悪かったって謝るから、そのスケッチブックをそっと閉じろ」
俺が冷や汗をダラダラ流しながら後ずさると、海老名はふっと妖艶な、それでいてどこか尊いものを見るような潤んだ笑みを浮かべた。
「謝る必要なんてないよ、八幡くん。むしろ……ありがとう」
「……は?」
「私、気づいちゃったんだ。いつも一歩引いて冷めた目で世界を見てる君が、あの瞬間、私に対して見せた『男の顔』……あれがどれほど破壊力抜群で、どれほど私の心臓をグシャグシャにかき乱したか……っ!」
海老名はそう言うと、持っていたスケッチブックをガバッと開いた。
そこには、見事なまでの少女漫画タッチで描かれた――なぜか異常にイケメン化された俺と、その顎をクイッと持ち上げられて真っ赤に染まり、キラキラした瞳で恋に溺れている海老名自身の姿が、鮮烈なカラーイラストで描き込まれていた。
背景には無数の薔薇が咲き乱れ、コマの隅には「恋を知ってしまったモブ王子の暴走」とかいう恥ずかしすぎるポエムまで添えられている。
「恋する乙女のようだろ? うん、自分で描いてて全私が歓喜の涙を流したね!」
「やかましいわ! なんだその少女漫画の表紙みたいなクオリティの高いイラストは! しかも俺の顔が実物の三倍くらい美化されてるだろ、詐欺罪で訴えるぞ!」
「いいの! 脳内変換フィルターを通したらこうなったの! ああ、もう、私の創作意欲のダムが完全に決壊した……! これをベースにして、今度の同人誌のメインエピソードは『陰キャ男子に不意打ちで堕とされた女子の葛藤』にするから!」
「やめろ! それを世間にばら撒かれたら俺の社会的人権が木端微塵になる!」
必死にスケッチブックを取り上げようと手を伸ばす俺と、「渡さないよ、私の尊いインスピレーション源!」と華麗に身をかわす海老名。
教室の隅で、俺たちの泥仕合(主に俺の羞恥心との戦い)が繰り広げられる。
――やれやれ。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知る奴がいて、彼氏候補の筆頭だと宣戦布告してくる奴がいて、階段で照れ隠しに強がる女王様がいて、そして今、俺のせいで完全に覚醒してしまった恋する(?)深淵の住人がいる。
俺の平穏な日常は、自ら蒔いた種によって、今日も今日とて盛大に炎上し続けているのだった。
短編小説:深淵の傑作、あるいはネットの海の餌食
前日の放課後、クラス中を巻き込んで盛大にバズり散らかした「カオスすぎる目撃情報」。
その余波がまだ冷めやらぬ翌日の昼休み。
俺――比企谷八幡は、教室の自分の席に座った瞬間から、嫌な予感しかしていなかった。
なぜなら、最前列の席に陣取る海老名姫菜の背中から、まるでサイヤ人の覚醒時のような、物理的に可視化できそうなほどの強烈なオーラが立ち上っていたからだ。
「……おい、海老名。昨日の今日で、変なものを産み落としてたりしないだろうな」
俺が警戒心を全開にして声をかけると、海老名はゆっくりと振り返った。
その目はランランと狂気の光を放ち、両手には昨日よりも分厚い、悪魔的なまでの説得力を秘めたスケッチブックが抱えられていた。
「ふふふ……八幡くん。昨日の放課後の出来事、そしてネットの海を駆け巡ったあの奇跡的なトレンドの波……。私のクリエイター魂と脳内データベースが、一晩で限界突破の化学反応を起こしたんだよ!」
「やめろ、嫌な予感しかしない。今すぐそのスケッチブックをシュレッダーにかけてくれ」
「無理! 最高の傑作ができたから!」
海老名は勢いよくスケッチブックを開き、教室の真ん中にドンとそれを突き出した。
そこに描かれていたのは――。
『愛の十字路、交差する視線~モブ王子の華麗なる受難~』
扉絵の時点で、葉山と俺が背中合わせで意味深な笑みを浮かべ、その真ん中で「ちょっと待ったぁ!」と全身全霊で阻止に入っている海老名自身がデフォルメされて描かれている。
ページをめくれば、葉山と俺が「イチャイチャ(※実際は不毛な会話)」しているところに、海老名が「そこを代われ!」と乱入し、最終的に「なぜか葉山からも八幡からも、全方位から愛されて頭を抱える海老名(および周囲で見守る女子たち)」という、BL、三角関係、そしてギャグがてんこ盛りになった超大作漫画が広がっていた。
「どう!? 昨日のリアルな目撃証言をベースに、私の妄想フィルターを全開にして描き下ろした自信作だよ! 葉山くんの爽やか王子スマイルと、八幡くんの『やれやれ系モブ魔王』の対比が、もう自分で描いてて尊さで昇天しかけた!」
「勝手に俺を魔王にすんな! しかもなんだこれ、俺と葉山がイチャついてるところに、お前がヒロイン(?)として割り込んで最終的に二人から溺愛されるって、どんだけご都合主義のハーレム展開だよ!」
俺が頭を抱えてツッコミを入れていると、その声を聞きつけて、周囲の面々がゾロゾロと集まってきた。
「ちょっと、見せてみなさいよそれ……!」
まず食いついたのは、三浦優美子だった。
彼女は海老名からスケッチブックをひったくり、ページをめくるやいなや、「はあ!? なんでここで私が結衣と手を組んで、二人を監視するポジションになってるわけ!?」と盛大に声を裏返らせた。
「だって優美子、君の『ちょっと、隼人何やってるのよ!』っていう昨日のリアクション、最高にツンデレのスパイスとして機能してたからさー!」
「誰がツンデレよ! 勝手にキャラクターを捏造しないで!」
「え、ちょっと待って……これ、私もしっかり出番あるじゃん……」
由比ヶ浜結衣が三浦の肩越しに覗き込み、「しかも、ハッチーを巡るライバルとして、海老名ちゃんとガチで言い争ってる……! なんかこれ、すごく青春っぽくない!?」と、なぜか目をキラキラさせて喜んでいる。
「……まったく、暇なものね」
そう言いながらも、一番近くの席で紅茶を飲みながらさりげなく視線を送っていたのは、雪ノ下雪乃だった。
彼女は、スケッチブックの隅に描かれた「冷徹な生徒会長風のキャラ(明らかに雪乃がモデル)が、二人を冷ややかに見つめつつも実は内心ハラハラしている」という描写を見つけ、カッと耳の先まで赤く染めた。
「な、なんなのこれ……! 私がこんな、いかにも不器用なさえないツンデレ役みたいに描かれているなんて、名誉毀損訴えてやるわよ海老名さん!」
「えー、ゆきのんのその『本当は気になってるくせにプライドが邪魔する感じ』、めちゃくちゃ解釈一致の最高評価だよ!」
「……ふん」
川崎沙希は、そのスケッチブックの片隅で、なぜか「影の黒幕、あるいはクールな保護者枠」としてスタイリッシュに描かれている自分を発見し、小さく「……悪くはない、か」と呟いてそっと目を逸らした。
極めつけは、教室の端でその様子をスマホ片手に目撃した相模南だった。
「ちょっとみんな、これ……! 昨日のSNSのトレンドに続いて、海老名ちゃんのこの漫画のプロットが一部スクショされてアップされた途端、また別の意味でバズってるんだけど……!!」
相模が突きつけたスマホの画面には、
『#比企谷を中心とした学園ラブコメ群像劇』
『#海老名先生の新作漫画が尊すぎて語彙力消失』
『#葉山くんと八幡の空気感がリアルすぎて無理』
というハッシュタグと共に、数千件のリポストと「これどこの高校? 入学したいんだが」という謎の称賛コメントが並んでいた。
「「「「「……は?」」」」」
教室の全員が、再び完璧にフリーズした。
自分たちの日常の(主に俺の平穏を踏みにじる)ドタバタが、ネットの海で完全に一つの「コンテンツ」として確立されてしまっている。
俺はゆっくりと机に突っ伏し、遠い目をして現実逃避のセリフを呟いた。
「……もういい。俺はただのモブだ。この世界線の脚本家を今すぐ連れてこい、小一時間説教してやる」
「あははは! ほら見て八幡くん、君のその絶望した顔のモブ感も最高にエモいから、次のページの表紙に採用決定ね!」
海老名が満足そうにスケッチブックをパタンと閉じ、由比ヶ浜が「ほら、ハッチー、そんな落ち込まないで、ね?」と笑顔で覗き込み、雪乃が「……やれやれ、本当に騒がしい男ね」と呆れながらもどこか楽しげに紅茶をすする。
血の繋がりがなくても家族の温もりを知り、勝手に彼氏候補の筆頭だと宣戦布告してくる奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいる。
俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、誰にも止められないカオスの渦の中を全速力で暴走し続けているのだった。
短編小説:不器用な矢印と、黒髪の決意
放課後の部室棟の隅、人気のない渡り廊下。
俺――比企谷八幡は、隣に立つ葉山隼人と共に、目の前で頭を抱え込んでいる男をジト目で眺めていた。
戸部だ。
あのパリピの代表格みたいな男が、いまや見るからにボロボロといった様子で、俺たちの前に突っ立っている。
「なぁ、葉山……。比企谷……。俺、マジでどうしたらいいのか分かんねぇんだよ……」
「どうしたんだよ戸部。珍しく深刻そうな顔して」
葉山が苦笑いを浮かべながら声をかけると、戸部は両手で自分の頭をガシガシとかきむしった。
「いや、その……海老名さんのことなんだけどさ!」
「ほう」
俺が相槌を打つと、戸部は真っ赤になった顔をさらに歪め、一気にまくし立てた。
「俺さ、ずっと海老名さんのことが好きなんだよ! でもあいつ、なんかこう……すげぇ世界持ってるじゃん? あの、その……男同士がキャッキャウフフしてるやつとか、そういうの好きなんだろ!?」
「……おっ、よくそこまでリサーチしたな」
俺が感心したように言うと、戸部は「ネットの噂とか色々調べたんだよ!」と泣きそうな顔で訴える。
「だからさ、俺みたいなチャラい奴じゃ、あいつの眼中にすら入らねぇんじゃねぇかって……! どうすりゃいいんだよ!」
真剣な恋の悩みなのは分かるが、よりによってその相談相手に俺たち(特に俺)を選んでしまうあたり、戸部の人生選択の方向性はいつだって斜め上をいっている。
俺は小さく息をつき、冷めた目で現実を突っ込んだ。
「おい戸部。冷静に考えてみろ。海老名がああいう深淵の住人だからって、お前が急にそっちの道に目覚める必要は微塵もないだろ。そもそも、問題の本質はそこじゃない」
「は? じゃあ何なんだよ、比企谷!」
戸部が必死の形相で詰め寄ってくる。俺はポケットに手を突っ込み、面倒くさそうに視線を逸らした。
「相談内容はなんだよ。お前が海老名にどう思われたいのかって話だろ」
「……俺はさ」
戸部はふっとふざけたトーンを消し、まっすぐに前を向いた。
「海老名さんを守れるくらいの、もっと強い男になりたいんだよ。あいつが変なところであれこれ背負い込んだり、変な目に遭ったりしたときに、一番最初に駆けつけられる男になりたい。……でも、今の俺じゃ、ただの軽い奴にしか見えねぇだろ?」
その言葉に、隣にいた葉山がハッと目を見開いた。
葉山はどこか誇らしいような、それでいて眩しいものを見るような目で戸部を見つめ、静かにうなずく。
「……いいと思うよ、戸部。君らしい、すごくまっすぐな答えだ」
「お前が言うなよ葉山……!」
俺は戸部の真剣な顔をチラッと見て、それからボソッと冷たく、けれど的確なアドバイスを投げた。
「なら、サッカー頑張れよ。試合に出て、結果を残して、学年で一番有名になれ。チャラいノリでごまかすんじゃなくて、泥臭く本気で戦ってる姿を見せろよ。……その過程の必死な姿に惚れなければ、諦めろ。それが男の引き際だ」
ビクッと戸部の体が震えた。
彼はしばらく言葉を失っていたが、やがてぐっと拳を握り締め、力強くうなずいた。
「……おう! 分かった! サッカーも、海老名さんへの気持ちも、中途半端にしねぇ!」
「あぁ、あとついでに――」
俺は戸部の頭から足元までをジロリと見渡し、毒を吐くように付け加えた。
「その明るすぎる茶髪、少しは黒髪に戻したらどうだ。お前、顔の造り自体は悪くないんだから、黒髪の方がよっぽど似合うぞ。誠実そうに見えるからな」
「まじ? 黒髪……? よし、明日から一応トーン落とすわ!」
戸部はすっかり吹っ切れたような、清々しい笑顔を浮かべると、「ありがとよ、葉山! 比企谷!」と勢いよく頭を下げ、足早に去っていった。
シャラランと、遠くで扉が閉まる音が響く。
静かになった渡り廊下で、俺と葉山はふっとため息をついた。
「……意外と、いい奴だよな、あいつも」
葉山が柔らかく笑う。
「だな。まあ、実るかどうかは知らんが」
俺たちがそんな会話を交わしながら、その場を離れようとした――その時だった。
曲がり角のすぐ陰。
誰もいないはずの非常階段の扉の影に、ちんまりと縮こまっている人影があった。
「……え?」
そこにいたのは、海老名姫菜だった。
彼女は両手で自分の真っ赤な顔を必死に覆い、信じられないものを見るような、それでいて涙が滲みそうなほど潤んだ目を大きく見開いていた。
さっきまでの戸部の告白めいた相談のセリフの数々、そして俺が最後に放った「黒髪の方が似合う」というアドバイスのすべてが、彼女の耳に完璧に届いていたらしい。
「あ、れ……? 私は、ただちょっと通りがかっただけで……その、今の会話、最初から最後まで全部……」
海老名の声が、完全に上ずっている。
彼女は自分の胸元を両手でギュッと掴み、全身の血管が沸騰するかのような勢いでパニックを起こしていた。
「ま、待って、何これ……!? 脳内データベースが追いつかないんだけど……! いつもはチャラいクラスメイトが、私のためにガチで変わろうと決意して、さらに陰キャのモブ代表(八幡くん)が影のキューピッド役として最高すぎるアドバイスをかまして……しかも『黒髪が似合う』ってなにその王道キュン死確定イベント……!! は、鼻血が出る、いやもう私の心臓が爆発して宇宙の塵になっちゃう――っ!!」
早口でまくし立てながら、海老名は頭から湯気を出しそうな勢いで、その場から逃げるようにパタパタと走り去っていった。
ドクン、ドクンと、廊下の向こうから聞こえてきそうなほど激しい心臓の鼓動が、静まり返った夕暮れの校舎にいつまでも残っている気がした。
俺は遠い目をして、彼女が走り去った方向を見つめる。
「……やれやれ。あいつもあいつで、脳内の処理能力を完全にオーバーロードさせやがって」
「ははっ、本当に、僕たちの周りには一癖も二癖もある面白い人たちばかりだね、八幡」
葉山が楽しそうに肩を揺らす。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知り、彼氏候補の筆頭だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす奴がいて――そしていま、不器用な恋の矢印が、また新しい波紋を広げようとしている。
俺の平穏な高校生活は、今日も今日とて、予測不能な青春の暴走特急に乗せられて走り続けているのだった。
短編小説:解氷の夕暮れ
夕暮れの茜色が、校舎の廊下を長く引き延ばしていた。
生徒たちがほとんど帰路についた静かな放課後、一年二組の教室の前――。
そこには、綺麗な黒髪を揺らす雪ノ下雪乃と、どこか決意を秘めた表情の葉山隼人が向かい合って立っていた。
少し離れた廊下の角に身を寄せていた俺――比企谷八幡は、あえてその場を通り過ぎようとしたのだが、あいにく逃げ場のないデッドロックにハマってしまい、結果的にその会話の目撃者になってしまっていた。
「……話って、なにかしら、葉山くん」
雪乃の声音は、いつものように冷たく澄んでいた。だが、その琥珀色の瞳の奥には、わずかな警戒と、どこか隠しきれない戸惑いの色が揺れている。
葉山はふっと小さく息を吐き、これまでの「完璧な優等生」の仮面を脱ぎ捨てるように真っ直ぐに雪乃を見据えた。
「……雪ノ下。ずっと、言わなきゃいけないって思っていたことがあるんだ」
「何を今更……」
「昔のことだ。君が孤立していたとき、僕は――その状況を知りながら、クラスの中心にいるという立場と保身に囚われて、君を助けることができなかった。見て見ぬふりをした」
葉山の声がわずかに震えていた。それは演技でも何でもなく、彼が中学時代からずっと胸の奥底に抱え込み、腐らせ続けてきた本当のトゲだった。
「あのときから、僕はずっと後悔し続けている。あんな風に誰かを傷つける空気に同調して、自分の手で誰かを守れなかったことを……。思い出しもしない日はなかった。本当に、ごめん、雪ノ下」
頭を深く下げる葉山の背中は、かつて保健室で見せた「期待という鎖に縛られた少年」そのものだった。
誰もが彼をリーダーと持ち上げ、彼はそれに応えるために「正しい少年」を演じ続けた。だが、その代償として、誰よりも大切なものを見落としてしまったのだ。
静まり返った廊下に、葉山の懺悔の言葉だけが重く響く。
雪乃はしばらくの間、じっと彼を見つめたまま、動かなかった。その細い指先が、スカートの布地をぎゅっと握りしめている。
やがて、雪乃はふっと息を吐き出し、驚くほど穏やかな、そしてどこか吹っ切れたような声音で口を開いた。
「……何よ、今更そんな昔の湿っぽい話を。少しは感心しない顔でも見せてやろうかと思ったけれど、拍子抜けだわ」
「雪ノ下……?」
葉山が驚いたように顔を上げる。
雪乃は綺麗に澄んだ瞳を細め、どこか誇らしげに、しかし悪戯っぽく微笑んでみせた。
「それにね、葉山くん。あなたが助けてくれなかったからって、私が何か不当に傷つけられたとでも思っているのかしら? 別に、あなたがその場にいなくても、あのような幼稚ないじめは遅かれ早かれ起きていたはずよ。……だって、嫉妬というのは醜いものだもの」
「それは……」
「それにね」
雪乃はふっと柔らかく笑い、胸を張って言い放った。
「私、可愛いから。目立ってしまうのも、仕方のないことだったのよ」
――ぶっ。
遠巻きに聞いていた俺は、思わず自分の口を手で押さえた。
おいおい、あの雪ノ下雪乃が自分の口から「私、可愛いから」と言い放つ日が来るなんて誰が予想できたよ。自負と事実が一致しすぎていて反論の余地がないのがまたズルい。
だが、その言葉を聞いた瞬間、葉山の硬かった表情が一気に崩れ去った。
「……ははっ。そうだね、本当にその通りだ。君は昔から、驚くほど堂々としていたよ」
葉山は乾いた笑いをこぼし、やがて心の底から安堵したような、どこか少年らしい柔らかな笑顔を浮かべた。
ずっと彼を縛り付けていた罪悪感の氷が、雪乃のその不意打ちのような冗談によって、スッと溶かされていくのが分かった。
「……ありがとう、雪ノ下。君にそう言ってもらえて、やっと肩の荷が下りた気がするよ」
「別に、あなたを許したわけじゃないわ。ただ、終わった過去の亡霊にいつまでも縛られているほど、私は暇じゃないと言っているのよ」
雪乃はそっと顔をそむけ、頬のあたりをわずかに赤らめた。
その横顔には、かつて彼女を縛り付けていた孤独や棘のトゲトゲしさはもうどこにもなかった。
わだかまりが解けていく音を聞きながら、俺はこっそりとその場から足音を消して立ち去ろうとする。
血の繋がりがなくても家族の温もりを知る奴がいて、彼氏候補の筆頭だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて――そしていま、過去の呪縛から解き放たれ、新しい一歩を踏み出す者たちがいる。
俺の平穏な高校生活は相変わらず遠いけれど、悪くない景色かもしれんと、俺は小さく息をついて夕暮れの廊下を歩いていくのだった。
短編小説:甘すぎる缶と、名前の温度
雪乃との間のわだかまりが解けたその日の夕方。
校舎の裏手にある自動販売機の前に、俺――比企谷八幡と葉山隼人の姿があった。
夕日に照らされたグラウンドでは、サッカー部の面々がまだボールを追う声を響かせている。その遠い喧騒を背にしながら、俺は自動販売機のボタンをガチャンと押した。
コトン、と重い音を立てて取り出し口に落ちてきたのは、まごうことなき練乳の塊、黄色と緑の悪魔――マックスコーヒーだった。
「ほれ、奢ってやるよ」
「……ありがとう、八幡」
葉山は受け取ったそれを不思議そうに見つめ、それからプシュッとタブを開けた。一口飲んだ瞬間、彼は「うわ、相変わらずすごい甘さだね……!」と少しだけ目を丸くして笑う。
疲れた体に染み渡るこの暴力的な糖分こそが、俺の癒やしなのだ。
「甘いものが苦手なら無理して飲むなよ」
「ううん、嫌いじゃないさ。……なんだか、飲むと少し気が楽になる気がするよ」
葉山はそう言って、再び黄色い缶に目を落とした。
その横顔には、ついさっきまで背負っていた「完璧な葉山隼人」としての重苦しい仮面はもうない。一人の等身大の高校生としての、どこか穏やかな空気だけが漂っていた。
考えてみれば、この春に入学してから今日までの数ヶ月間、俺たちの周りは驚くほどめまぐるしく変わり続けた。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知った奴がいて、彼氏候補の筆頭だと全校の前で宣戦布告してくる爆弾娘がいて、階段で照れ隠しに強がる女王様がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、そして過去の呪縛からようやく解放された奴がいる。
その真ん中で、俺はいつの間にか、この学年のトップに君臨するはずの男に「マックスコーヒーを奢る仲」になってしまっているのだから、人生何が起きるか分からない。
「……なぁ、隼人」
ふと、口をついてその名前が出た。
自分でも驚くほど自然に、何の引っかかりもなく、その二文字が零れ落ちる。
「ん?」
葉山は驚いたようにパチリとまばたきをし、それからまるで春の陽気のような、とびきりの笑顔を浮かべた。
「……なんだい、急に」
「いや、なんとなく。苗字で呼ぶより、そっちの方がいちいち引っかからなくて楽だからな。お前が勝手に俺の名前を呼び始めたんだから、こっちだってそれくらいのお返しはするさ」
俺がぶっきらぼうにそう返すと、葉山は嬉しそうに目を細め、カチリと缶を軽く鳴らした。
「うん、そうだね。……ありがとう、八幡」
その響きは、初めて保健室で聞いたときよりもずっと自然で、心地よかった。
夕暮れの空が、ゆっくりと夜の帳に染まっていく。
俺たちの平穏な日常は相変わらず遠いし、明日になればまた由比ヶ浜が変な爆弾を投下してきたり、海老名が新しい妄想ノートを抱えて突撃してきたりするのだろう。
だけど――悪くないか。
俺は甘すぎるマックスコーヒーを一口飲み込み、沈みゆく夕日の中を、葉山と共に歩き出すのだった。
短編小説:夕暮れの自販機と、それぞれの視線
夕日に染まる自販機の前。
俺――比企谷八幡は、新しく呼び捨てにするようになった葉山――いや、隼人と並んでマックスコーヒーを飲んでいた。その光景は、校舎の二階ベランダからしっかりと観察されていたらしい。
少し離れた場所から、金髪を揺らしながらその一部始終を見つめているのは、三浦優美子と海老名姫菜の二人だった。
「……ねえ、海老名」
「ふふふ……見ているよ、優美子。今の角度、最高にアングルが神がかってる……!」
海老名は、手元のスケッチブックに尋常ではないスピードで鉛筆を走らせながら、目を爛々と輝かせていた。
彼女の脳内ではすでに、過去の呪縛から解放された王子(隼人)が、すり減った心を癒やすために魔王(八幡)の差し出す甘い蜜(マックスコーヒー)を受け取り、ついに名前で呼び合うに至るという大河ロマンが完璧に構築されている。
「光と影、そして救済……! 完璧なまでの精神的共鳴(メンタル・シンクロ)……! ああ、これにもう一人のヒロインやツンデレがどう絡んでくるか、私の脳内ハードディスクがいくらあっても足りないよ……っ!」
「……あんたね、相変わらず頭の中どうなってんのよ」
三浦は呆れたようにため息をついたが、その視線はなぜか、自販機の前で自然に笑い合っている二人の少年に釘付けになっていた。
(……隼人が、あんな風に心から笑うところ、最近全然見てなかったな……)
三浦はふと、胸の奥がチクリと締め付けられるような感覚を覚えた。
学年カーストの頂点に立ち、いつも完璧な笑顔を張り付けて、誰にでも優しい「みんなの葉山くん」を演じ続けていた彼。その重荷を、誰よりもひねくれていて、いつも面倒くさそうにしている比企谷八幡が、いつの間にかひょいと剥ぎ取ってしまった。
由比ヶ浜が言っていた。「ハッチーの本当の格好良さが分からないなんて、まだまだ見る目がないね」と。
そして、あの学年の中心にいる葉山さえも、自分から心を開き、あの男に引き寄せられている。
――あいつの、どこが良いのよ。
そう思っていたはずなのに。
「ねえ、優美子? どうしたの、そんな真面目な顔して」
海老名が不思議そうに顔を覗き込む。
三浦はフイッと顔をそむけ、少しだけ頬を朱色に染めながら、強がるようにフンと鼻を鳴らした。
「……なんでもない。たださ……由比ヶ浜が言ってた意味、少しだけ分かった気がするって話よ」
「おや? 優美子のハートにも、ついに新たな矢印のフラグが立っちゃった感じ!?」
「バカ! そんなんじゃないわよ!」
夕暮れの校舎のベランダに、海老名の楽しげな笑い声と、三浦の慌てた声が響く。
彼氏候補の筆頭だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、そして過去の呪縛を解き放たれた者たちがいる。
俺の知らないところで、この面倒くさくて温かい青春の歯車は、今日も確実に回り続けているのだった。
短編小説:夕暮れの来訪者と、年上の女
放課後の喧騒がすっかり引いた、帰り道の途中。
今日一日の精神的疲労を全身に纏いながらとぼとぼと歩いていた俺――比企谷八幡の前に、ふらりとその影は現れた。
「――おや、奇遇だね。比企谷くん」
夕日を背にして佇む、私服姿の女性。整った顔立ちに、余裕のある大人の雰囲気を纏ったロングヘアの美女――雪ノ下陽乃だった。
「……雪ノ下のお姉さん、ですか」
「そんなに警戒しないでよ。ちょっと近くまで用事があったから、ついでに君の顔でも見られないかなって思ってさ」
陽乃は悪戯っぽく微笑みながら近づいてくる。
だが、その笑顔を見た瞬間、俺はわずかに違和感を覚えた。
以前会ったときの彼女は、常に完璧で、底知れず、他者を寄せ付けないほどの分厚い「外向けの仮面」を被った化物のような印象だった。だが、今の彼女が纏う空気はどこか柔らかく、肩の力が抜けているように見える。
隼人が過去の呪縛から解放され、雪ノ下とのわだかまりが解けたこと。俺がその起爆剤(あるいは触媒)として立ち回った余波が、間違いなくこの人にも届いているのだろう。
俺はジト目で彼女を観察し、ふと口をついて出た本音を、そのまま言葉にした。
「……随分と、仮面は薄くなったようですね」
その言葉に、陽乃はピタリと足を止めた。
少しだけ驚いたように目を丸くし、それからふわりと――今まで見たこともないような、ひどく無防備で、年相応の柔らかな笑みをこぼした。
「……比企谷くんのおかげでね」
風が吹き抜け、彼女の長い黒髪がふわりと揺れる。
完璧な姉としての呪縛から少しだけ解放されたようなその表情は、思わず目を逸らしたくなるほど綺麗だった。
だが、感傷に浸る隙など与えてくれないのがこの人だ。
陽乃はスッと距離を詰めると、俺の顔を覗き込むようにして、琥珀色の瞳を悪戯っぽく細めた。
「ねえ、比企谷くん」
「……なんですか」
「歳上の女は、嫌い?」
甘く、艶やかで、それでいて逃げ道を塞ぐような問いかけ。
至近距離で香る大人の香水に、普通の男子高校生なら顔を真っ赤にしてしどろもどろになるところだろう。
だが、あいにく俺は、クラスの女子たちの度重なる爆弾発言や奇行によって、対人トラブルにおける防御力だけは異常に鍛え上げられていた。
俺はポケットに突っ込んだ両手をそのままに、やれやれと息を吐き出し、一切動揺を見せずに言い放つ。
「……好き嫌いで物事を語るのは良くないと、両親に厳しく躾けられたんでね」
ピタ、と。
陽乃の動きが一瞬だけ止まった。
「――っ、あははははっ!」
やがて、彼女はお腹を押さえて盛大に吹き出した。
「あー、おかしい! なにその返し! 歳上の女からのアプローチを、食わず嫌いの子供みたいな理屈で躱すなんて、本当に君って最高だね!」
ひとしきり笑い転げた後、陽乃は目尻に浮かんだ涙を指先で拭い、満足そうに微笑んだ。
「ま、いいか。君が相変わらず一筋縄ではいかない男だってことはよく分かったよ。それじゃ、またね。比企谷くん」
陽乃はヒラリと片手を上げると、夕暮れの街路樹の方へ軽やかな足取りで歩き出していった。
振り返りもせず去っていくその背中を見送りながら、俺は大きく息を吐き出す。
彼氏候補だと宣言してくる同級生に、強がる女王様、暴走するオタク女子。それに加えて、こんな得体の知れない年上のお姉様まで関わってくるとなれば、俺の胃壁はいくらあっても足りない。
「……まったく、面倒くさい連中ばっかりだ」
誰にともなくこぼした愚痴は、夕暮れの空に吸い込まれて消えていった。
短編小説:仮面の裏の素顔
軽やかな足取りで去っていく雪ノ下陽乃の背中が、夕暮れの街並みに溶け込もうとしていた。
その背中に向かって、俺――比企谷八幡は、ポケットに突っ込んだ手をそのままに、ポツリと言葉を投げた。
「……陽乃さん」
ピタ、と。
陽乃の足が、アスファルトの上で完全に止まった。
彼女は振り返らなかった。だが、その背中がほんのわずかにこわばったのが、背後からでも手に取るように分かった。いつも周囲を翻弄し、すべてを読み切っているような余裕の雰囲気が、その瞬間だけピタリと消え失せていた。
俺はゆっくりと彼女に近づき、数歩手前で足を止める。
「もう少し、楽にしてくださいよ。……少なくとも、俺の前では」
「……は?」
陽乃がゆっくりと振り返った。
その琥珀色の瞳には、いつもの完璧で冷たい「仮面」ではなく、戸惑いと、どこか子供のような剥き出しの動揺が張り付いていた。彼女がこれほどまでに言葉を詰まらせる姿なんて、今まで一度も見たことがなかった。
俺はそんな彼女の顔を見つめ、ふっと――自分でも驚くほど自然に、力の抜けた笑みを浮かべた。
それは、家で妹の小町に向けるような、あるいは学校で面倒くさい奴らをあしらうときとも違う、どこか頼りなさを隠さない、文字通り「兄貴」としての笑みだったのかもしれない。
「あなただって、無理して『完璧な姉』を演じてる暇があるなら、たまには肩の力を抜いたらどうですか。……見ててこっちが肩凝りそうですし」
「……っ」
陽乃の息が、わずかに詰まった。
彼女は驚愕に見開いた目で俺を見つめ、それから信じられないものを見るような、すがりつくような、複雑な表情を浮かべる。
「……なにそれ。まるで、私を子供扱いするように……」
「子供扱いってほどでもないですが。ただ、人の心配をする余裕があるなら、まずは自分を労わってやったらどうかって話です」
俺がぶっきらぼうにそう締めくくると、陽乃はしばらくの間、完全に固まっていた。
だが、やがて彼女の唇がゆっくりと震え、そして――小さく、けれど抑えきれないような笑い声を漏らした。
「あはは……っ、あーあ……」
陽乃は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるようにくすくすと笑い続けた。
肩が細かく震えている。笑いながら、彼女が必死に何かをこらえていることくらい、鈍感な俺にだって分かった。
やがて、彼女は顔を上げ、少しだけ赤らんだ瞳で俺をまっすぐに見据えた。
その表情に、もう張り詰めたような「仮面」はなかった。そこにいたのは、年相応の、どこか寂しげで、けれど驚くほど晴れやかな顔をした一人の女性だった。
「……参ったな。完全に、君のペースじゃないか、比企谷くん」
「こっちはただ、面倒くさい絡み方をされたからお返ししただけです」
「ふふ、そうだね。……ありがとう」
その「ありがとう」という声は、今まで聞いたどの言葉よりも、不思議なほど真っ直ぐで温かかった。
「……じゃあね、お兄ちゃん?」
最後に陽乃は、からかうように小首をかしげ、いたずらっ子のような笑みを浮かべてヒラリと手を振った。
「……おい、その呼び方はやめろ鳥肌が立つ」
「いいじゃない、気に入ったもの。――またね、比企谷くん」
今度こそ、陽乃は振り返ることなく、軽やかな足取りで夕暮れの向こうへと歩いていった。
その背中は、さっきよりもずっと軽やかに見えた。
俺は小さく息をつき、冷めかけた缶コーヒーをポケットの中で握りしめる。
彼氏候補だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす奴がいて、過去の呪縛を解き放たれた者たちがいて――そして、仮面を剥ぎ取られたお姉様まで現れる。
俺の高校一年生の日常は相変わらず騒がしいけれど、悪くない景色かもしれんと、俺は夕暮れの空の下を家路へと歩き出すのだった。
短編小説:ファミリーレストランの黒幕、あるいは小物の生存戦略
放課後の余韻を引きずりながら、俺――比企谷八幡が足を向けたのは、いつもの聖地――サイゼリヤだった。
疲労困憊の脳みそをリフレッシュさせるため、ミラノ風ドリアとドリンクバーという黄金の布陣を頼み、静かに現実逃避をキメ込もうとしていたその時だった。
「……おや、君は」
上品でありながら、有無を言わせぬ威圧感を漂わせる声が上から降ってきた。
顔を上げると、そこには完璧な身なりをした優雅な女性――雪ノ下姉妹の母親が、静かに立っていた。
「……っ。雪ノ下のお母さん、かよ」
「一人かい? よければ、相席させてもいいかしら」
拒否権など最初から用意されていない物言いに、俺は「どうぞ」と引きつった笑顔で席を譲るしかなかった。
彼女は優雅な所作で対面に座ると、テーブルの上のミラノ風ドリアを一瞥し、ふっと薄い笑みを浮かべた。
「……ふふ、悪くないわね。こういう場所の食事も、たまには新鮮で」
「あざす……って、一体何の用ですか。未成年の男子高校生を尋問するような趣味でもあるんですか?」
俺が警戒心を全開にしていると、雪ノ下母は紅茶のグラスに視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「話というのはね……最近、我が家の雰囲気が以前よりもずっと良くなったことについてよ」
「……はあ」
「あの子たちも、それぞれのしがらみから少しずつ解放されて、自分自身の言葉で話すようになった。……ねえ、比企谷くん。それは、あなたのおかげかしら?」
ずしりと重いプレッシャーを伴う問いかけ。
だが、ここで調子に乗って「まあ俺の活躍でですね」などと言おうものなら、社会的に抹殺されるか、どこかの政治家にでも売り飛ばされかねない。俺はすかさず両手をブンブンと横に振って全否定に入った。
「いやいやいや、俺は何もしてませんって。ただ勝手に周りが自爆したり勝手に解決したりしただけで、俺はモブとして傍観してただけですから」
「……ふうん」
「だいたい、家の雰囲気が良くなったとしたら、それは俺のおかげじゃなくて……あんた自身の、不器用な愛情がやっと娘たちに伝わったんじゃないですかね? ……知らんけど」
最後の「知らんけど」は、万が一の保身のための保険だ。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、雪ノ下母の動きがピタリと止まった。
彼女は驚いたように目を細め、じっと俺の顔の奥底を見据えるように観察し始めた。その視線は、値踏みをするような、それでいて未来の可能性を見通すような、底知れない重みがあった。
「……あなたね」
「ひっ……な、なんですか」
「話を聞けば聞くほど、面白い男ね。今はただのひねくれた高校生を気取っているけれど……ひょっとすると、この先にとんでもない大物に化ける可能性があるかもしれないわね」
雪ノ下母は、まるで面白いおもちゃを見つけた子供のような、それでいて冷徹な経営者のような笑みを浮かべた。
「その片鱗が、ほんの少しだけ見え隠れするわ。……ふふ、面白い」
「いや、俺は一生モブとして日陰で生きる予定ですので、大物とか勘弁してください」
「謙遜しなくていいわ。――ねえ、比企谷くん」
彼女はスッと立ち上がると、テーブルの上に置かれていた伝票をさりげなく自分の手にとった。
「あ、あの……?」
「あの子たちを……私の可愛い娘たちを、よろしく頼むわね」
そう言い残すと、彼女は振り返ることもなく、優雅な足取りでサイゼリヤの出口へと歩いていった。
静まり返ったテーブルの上。そこには、彼女がスマートに回収していった「俺のミラノ風ドリアの伝票」だけが残されていた。
数秒間、ぽかんと口を開けてその背中を見送っていた俺は、やがて頭の中で計算を弾き出し、ガッツポーズを心の中で決めた。
「……ってことは、今日のドリア代、タダになったってことか……?」
危機感はどこへやら、一瞬にして俗物的な思考回路に切り替わった俺は、ニヤニヤと隠しきれない笑みを浮かべる。
「ひゃっほい、実質タダ飯だぜ! ……まさか雪ノ下の母親から奢ってもらえるとはな、これもう実質俺の勝ちじゃね?」
小物全開で一人悦に入っていると、隣の席の客から冷ややかな視線を向けられた。
だが、そんなことはどうでもいい。
彼氏候補だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、過去の呪縛を解き放たれた者たちがいて、仮面を剥ぎ取られたお姉様がいて――そして今、ラスボス級の母親からタダ飯を勝ち取った。
俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、小物の小賢しさを武器に全力で生き延びられているのだった。
短編小説:電車の密室、そして新たな深淵
平日の夕方、帰宅ラッシュで適度に混み合う電車の中。
俺――比企谷八幡は、吊り革に片手をつかまりながら、今日一日の疲労を逃がすようにぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。
……と、その時だった。
少し離れた座席のあたりから、何やら妙な空気と、低い押し殺したような声が聞こえてきた。
「あの……お隣さん、少し距離が近すぎやしませんか……?」
声の主の方へ視線を向けると、そこにはスーツをビシッと着こなし、白髪が混じったいかにもダンディな中年紳士が座っていた。その上品な顔立ちは、どこかで見覚えがあるような気もしたが、あいにく今日の俺の脳みそは疲労でそこまで一致させる余裕がない。
そして、その紳士の隣には、あきらかに不自然な距離感で体を密着させ、ニヤついた笑みを浮かべた見知らぬ男がぴったりと張り付いていた。あきらかな「密着系痴漢」のワンシーンである。
紳士は困り果てた顔で周りを助けを求めるように見回していたが、満員電車のピリついた空気の中、誰もが面倒ごとに巻き込まれまいと目をそらしていた。
(……やれやれ。これだから都会の電車は厄介なんだよ)
正義感から助けてやろうなんて高尚な目的は微塵もない。ただ、目の前でネチっこい嫌がらせを見せつけられているのが単純に胸くそ悪かっただけだ。
俺は小さく息をつくと、電車の揺れに合わせてその男の目の前へと歩み寄り、ぼそっと声をかけた。
「おい、そこ。パーソナルスペースの概念がバグってやがるぞ。席を詰めるか、それとも次の駅で一緒にホームに降りて駅員室でも覗きに行くか? なんなら大声で『このおっさんが変なことしてます』って実況してやってもいいが」
低く、不気味に響く俺の死んだ魚のような目が男をじっと捉える。
男はギクリと肩を震わせ、「っ……なんだよ、うるせぇな!」と吐き捨てると、次の駅でドアが開いた瞬間、逃げるように群衆の中へ消えていった。
一件落着、というやつだ。
俺はふうと息を吐き、助けられたはずのダンディな紳士に軽く視線を向けた。紳士は服の乱れを整えながら、ふっと苦笑いを浮かべて俺に向き直る。
「助かったよ、若い人。君のその……なんというか、世を諦めたような鋭い目つきに救われたようだ」
「いえ、たまたま目の前で不快なものが見えたんでね。お気になさらず」
俺が面倒くさそうに片手をひらひらと振ってその場を離れようとした時、紳士は少しだけ言いにくそうに、しかしどこかユーモアを交えて呟いた。
「しかし、世の中には色々な趣味嗜好の人間がいるものだな……まさか、私のような初老の男に好意を抱く者がいるとは、思ってもみなかったよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺はふと足を止め、気の毒そうな、けれどどこか冷めた目を彼に向けた。そして、これ以上ないほど不謹慎で、まったく慰めにもならない言葉をポツリと落とす。
「まあ、ダンディな紳士が好きな男もいますからね。世の中、広いですし、性癖の多様性ってやつですか。ドンマイです」
「……は?」
紳士が呆気にとられたような声を上げるのを背中で聞きながら、俺は次の駅で開いたドアからスッとホームへと降り立った。
あんなおっさんでも狙われるんだから、世の中恐ろしいものである。
――だが、その一部始終は、運悪く(あるいは運良く)、同じ車両の少し離れた吊り革につかまっていた別の「目撃者」に完璧に捕捉されていたらしい。
ホームの反対側のベンチ、あるいは同じ電車を降りて物陰からその光景を見ていた海老名姫菜は、両手で自分の口をガッチリと押さえ、全身を激しく震わせていた。
「……ま、待って……嘘でしょ……?」
海老名の脳内データベースは、すでに限界を超えてブラックホール状態に突入していた。
「いつもはジメジメしたモブ男子(八幡くん)が、満員電車でスマートに危機介入して不審者を一刀両断……しかも、そのターゲットになったのが、どう見てもあの『雪ノ下姉妹の父親』っぽい超絶ダンディな紳士……!? さらに、『ダンディな紳士が好きなおじさんもいる』とかいう、斜め上すぎるパワーワードで相手を慰める(?)謎の余裕……!! ああ、もう私の脳内妄想のダムが決壊して、エモい濁流が世界を飲み込む――っ!!」
鼻血の代わりに、脳内の興奮が限界突破した海老名は、電車の窓ガラスに映る自分の真っ赤な顔を両手で覆い、その場で崩れ落ちるように悶絶していた。
――血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知る奴がいて、彼氏候補だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、過去の呪縛を解き放たれた者たちがいて、仮面を剥ぎ取られたお姉様がいて、タダ飯を勝ち取った小物がいれば、ついには電車の密室で謎の紳士を救出してしまう。
俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、意図せぬところで新たな伝説(?)を積み重ねながら、全速力で暴走し続けているのだった。
短編小説:深淵の目撃者と、赤面する淑女たち
翌日の昼休み。
教室の隅、海老名姫菜の周囲には、いつものように不穏で、かつ熱烈な磁場が形成されていた。
「ねえ、聞いてよ二人とも……! 昨日、私すごいの目撃しちゃったんだよね!」
海老名は両手を大きく広げ、キラキラと目を爛々と輝かせながら、由比ヶ浜結衣と三浦優美子の前に一枚のスケッチブックをドスンと置いた。
そこに描かれていたのは、昨日の電車の車内を完全再現した――いや、海老名フィルターによって見事に「過激に美化・誇張された」一幕だった。
「ちょ、ちょっと海老名ちゃん、何これ……!?」
由比ヶ浜が目を丸くし、三浦が「はあ? また変なもの描いて……」と呆れたような、しかし好奇心を隠せない顔で覗き込む。
「昨日の電車でね、八幡くんが、ピンチだった『すっごくダンディなおじさま紳士』を、まるで映画の主人公みたいにクールに不審者から救い出したの! しかも、去り際の一言が『ダンディな紳士が好きな男もいますからね』って、もう最高にエモくない!?」
「「……は?」」
結衣と三浦が同時に固まった。
さらに、その物騒なワードに敏感に反応したのか、少し離れた席から川崎沙希がスッと無言で歩み寄り、スケッチブックを真上から覗き込んだ。
「……比企谷が……おっさんを……?」
川崎が低い声で呟き、スケッチブックの絵を凝視する。
そこには、微動だにせず冷徹な眼光を放つ美化された八幡と、彼に庇われてなぜか頬を赤らめ、少女漫画のヒロインのような潤んだ瞳で見つめ返す「超絶ダンディな紳士」の姿が、緻密なタッチで描き込まれていた。さらに、その二人の間には見えないピンク色のハートのオーラが漂っている。
「「「…………っ!」」」
その絵を見た瞬間、結衣、三浦、川崎の三人は、ピタリと動きを止めた。
顔にじわじわと血が上っていくのが、本人たちにも分かる。
「な、なんだこれ……! なんでこのおじさん、こんな少女漫画みたいな顔してハッチーに見つめられてるわけ……!?」結衣が頬を真っ赤に染めながら、恥ずかしさと変な笑いで頭を抱える。
「ば、馬鹿じゃないの……! 比企谷のくせに、なんでこんなカッコいい構図で描かれてるわけよ……!」三浦も耳まで真っ赤にして、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「……絵のクオリティが無駄に高いのが、余計に腹立たしいな……」川崎は顔を背けつつも、視線だけはなぜかスケッチブックの端から離そうとしない。
口々に文句を言いながらも、三人は誰もその絵から目をそらすことができなかった。人間の脳がバグるような圧倒的な「妙な説得力」が、そのスケッチブックには宿っていたのだ。
「でしょでしょ!? この『枯れた大人の男性』と『ひねくれたモブ少年』の禁断のシチュエーション、私の脳内アーカイブの中で今まさにノーベル賞級の発掘なんだから!」
海老名が一人で大盛り上がりしているその時――。
「……あなたたち、昼休みから一体何をしているのかしら?」
ふと、涼やかな声が降ってきた。
そこには、生徒会の書類を抱えた雪ノ下雪乃が、やれやれといった呆れ顔で立っていた。
「あ、ゆきのん! ちょっとこれ見てよ、昨日海老名ちゃんが描いたハッチーの新作なんだけど……!」
結衣が助けを求めるようにスケッチブックを差し出す。
雪乃は「まったく、暇ね……」と小さく息をつきながら、軽くそのスケッチブックへと視線を落とした。
――瞬間。
雪乃の足が、ぴたりと止まった。
絵に描かれている「超絶ダンディな紳士」の顔立ち、スーツの着こなし、そして特徴的な白髪交じりの髪型。
昨日、家で母から「最近父親が少し疲れているようだから気を配りなさい」と言われていた記憶と、目の前の絵の男が、あまりにも完璧に一致してしまった。
(……これ、もしかして……父……?)
血の気が引く音とはまさにこのことだ。
雪乃の琥珀色の瞳が、驚愕で見開かれる。あの電車の中で、見知らぬ男に密着されて困り果てていた父親の姿が脳裏に蘇り、それを救い出したのが――よりによって、あの比企谷八幡だという事実。
さらに、その救出劇が、海老名のフィルターによって「謎の濃厚なBL・救済劇」として全校生徒(の主要メンバー)に共有されようとしている。
「っ……!」
雪乃は絶句し、顔がみるみるうちに朱色から真っ赤へと染め上げられていった。
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ、これ……! このおじさんは一体……!」
「ふふふ、気づいちゃった? ゆきのん、この紳士の持つ『大人の色気と哀愁』、すごくエモいでしょ?」
何も知らない海老名が、目を輝かせてニヤニヤと笑いかける。
雪乃は逃げ出したい衝動に駆られながらも、なぜか、その絵のあまりのトンデモ展開さと気まずさに、一歩も足を動かすことができなかった。視線は絵に釘付けになったまま、頭から湯気が出そうになっている。
遠くの席で、自分の噂が広まっていることなどつゆ知らず、ただただ平穏にパンをかじっていた俺――比企谷八幡の平和な日常は、今日も今日とて、容赦なく崩れ去っていくのだった。
短編小説:原稿用紙の死守、あるいは中二病の誇り
放課後の薄暗い廊下。
俺――比企谷八幡が、渡り廊下の隅を通りかかった時だった。
「おい、オタクのデブ。持ってんじゃねぇよ、その紙の束。何書いてんだよ見せろよ」
「ふっ、愚か者め……! この我が魂の叙事詩(クロニクル)に触れることは、すなわち漆黒の闇に身を投じるに等しい! 離せ、無知なる下僕ども!」
聞き覚えのある中二病全開の声と、ガラルの悪い連中の怒声が同時に響いた。
足を向けると、そこには案の定、我が唯一無二の(そして面倒くさい)友人である材木座義輝が、数人の他クラスの不良たちに囲まれていた。
不良の一人が、材木座が必死に抱え込んでいる原稿用紙の束を面白半分に奪おうと手を伸ばす。
しかし、普段はどんなに馬鹿にされてもヘラヘラと受け流している材木座が、その瞬間だけは鬼気迫る形相で叫んだ。
「――触るなっ!!」
ガシャッ! と、激しい音とともに、材木座が抱えていた何百枚もの原稿用紙が宙に舞い、廊下に盛大にばらまかれた。
不良たちは「なんだよ、気色悪りぃ!」と吐き捨て、面白半分にその散らばった原稿用紙を足で踏みつけようとする。
(……やれやれ。これだから、頭の悪い連中は面倒くさい)
正義感なんてものはない。ただ、人の努力や執念を土足で踏みにじるその下品なノリが、単純に虫酸が走るほど嫌いだった。
俺はポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと連中の背後へと歩み寄った。
「おい」
低く、淀んだ声に、不良たちがピクリと動きを止めて振り返る。
「なんだお前、関係ねぇだろ――っ!?」
言葉を最後まで言わせる暇はなかった。
俺は一歩踏み込み、不良の一人の腕をねじり上げてバランスを崩させると、そのまま壁際に押し付けて動きを封じた。喧嘩のスマートな勝ち方など知らない。ただ、相手の急所を的確につ突き、無駄な体力を使わずに一瞬で戦意を喪失させる「陰キャの処世術(リアルファイト)」だ。
「っ、てぇ……! お前、なんだよこいつ……!」
「これ以上その原稿用紙を一枚でも汚してみろ。お前のその下品なスニーカーを、二度と歩けないくらいに破壊してやるから安心しろ」
濁った魚のような目が至近距離で睨みつけると、不良たちは恐怖に顔を引きつらせた。
「くそっ……覚えてろよ!」捨て台詞を残し、連中は慌てて逃げ出していく。
廊下に静けさが戻った。
俺はため息をつきながら、散らばった原稿用紙に目をやった。
材木座は、自分の足元に散らばった紙の束を拾い集めながら、いつもの大げさな口調をすっかり引っ込め、震える声で呟いていた。
「……お、おい、比企谷……」
「なんだよ。さっさと拾え。風で飛ぶぞ」
材木座は一枚一枚、まるで宝物を扱うように丁寧に原稿用紙をかき集めると、ガバッと立ち上がり、俺をまっすぐに見据えた。その目には、いつもの道化じみた光ではなく、確かな熱と感謝の色が浮かんでいた。
「……すまなかった、比企谷。我が魂の結晶を……助けてくれて、感謝する!」
「大げさだな。……で、なんだその原稿は。また変なファンタジーでも書いてんのか」
「ふっ、これぞ我が人生をかけた次世代のライトノベル大賞応募作よ!」
胸を張る材木座に、俺は少しだけ呆れたような、けれどどこか真面目な視線を向け、ぶっきらぼうに言い放った。
「……なら、途中で諦めて書くのやめたりするなよ。くだらなかろうが何だろうが、最後まで書き上げろよ」
「――っ!」
材木座が目を見開く。
俺はそれ以上何かを言う気もなく、ひらひらと片手を振ってその場に背を向けた。
「じゃ、俺は帰るから」
「おう……! 比企谷、お前は本当に……最高にいい奴だな!」
背後から聞こえてきた材木座の熱のこもった声を聞き流しながら、俺は夕暮れの廊下を歩き出す。
――だが、その一部始終は、少し離れた廊下の角からしっかりと目撃されていたらしい。
「……ねえ、戸部」
「お、おう、葉山……」
柱の陰に隠れていた葉山隼人と戸部翔の二人が、その光景をじっと見つめていた。
「比企谷ってさ、本当に時々、信じられないくらい真っ直ぐだよな」
「だな……。なんか、普段はひねくれてるクセに、いざって時はカッコよすぎるだろ、あいつ……」
葉山は爽やかに、けれどどこか羨むような笑みを浮かべ、戸部は「俺もあんな風にカッコよく決められる男になりたいぜ……」と自分の腕を見つめて呟く。
血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知る奴がいて、彼氏候補だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、過去の呪縛を解き放たれた者たちがいて、仮面を剥ぎ取られたお姉様がいて、密室の紳士を救い、ついにはオタクの原稿用紙まで守り抜く。
俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、意図せぬところで誰かの心を動かしながら、相変わらず騒がしく全速力で暴走し続けているのだった。
短編小説:原稿用紙の彼方に、純白の友情
渡り廊下の陰。
材木座の原稿用紙を守り抜いた八幡の背中を見送りながら、少し離れた場所でその一部始終を完璧にキャッチしていた人物がいた。
海老名姫菜だ。
彼女は両手でスケッチブックを抱え込み、目はすでに天井を仰ぐように潤みきっている。
「ふ、ふふふ……! たまらない、たまらないよこれ……! いつもは斜に構えているモブ魔王(八幡)が、危機一髪の場面で不器用なクラスメイト(材木座)の『魂の結晶』を体を張って守り抜く……! しかも『最後まで書き上げろよ』なんて、まるで少年漫画の主人公みたいな熱いセリフを背中で語るなんて、私の脳内アーカイブが完全にバーストしちゃう……っ!!」
海老名は至福の表情でその場で身悶えし、狂喜乱舞の勢いでスケッチブックにペンを走らせようとした。
――だが。
その熱狂的なオタクフィルターのすぐ隣で、別の光景を見つめる少女がいた。
「……ねえ、海老名ちゃん」
ふと声をかけたのは、由比ヶ浜結衣だった。
彼女は、遠ざかっていく八幡の背中をまっすぐに見つめながら、どこか誇らしげに、そして胸を張るようにふっと微笑んでいた。
海老名はピタリとペンを止め、キョトンと結衣を見上げる。
「あれ? 由比ヶ浜さん、そんな真面目な顔して……もしかして、今のシチュエーションに別の解釈のフラグが立っちゃった感じ?」
「ううん、違うよ」
結衣は首を横に振り、少しだけ照れくさそうに自分の胸元に手を当てた。
「こういうとき、ハッチーってさ……ベタベタ馴れ合ったり、綺麗ごと言ったりするわけじゃないじゃん。面倒くさそうに毒吐きながら、でも絶対に見捨てなくて、相手が一番守りたいものをちゃんと守ってやるの」
その声音には、歪んだ妄想でも、ただの野次馬としての興味でもない、真っ直ぐな誇らしさが宿っていた。
「……男同士の、そういう損得勘定抜きでぶつかり合う純粋な友情ってさ、なんか、すごくずるいよね。見てて、胸が熱くなっちゃうじゃん」
結衣はそう言って、えへへ、と少しだけはにかむように笑った。
そして、フッと胸を張って言い放つ。
「――ね? だから、私が選んだ『彼氏候補ナンバー1』って、やっぱり最高にカッコいいでしょ?」
その言葉に、海老名は一瞬ぽかんと目を丸くし、それから「……くっ!」と両手で自分の胸を押さえた。
「ま、待って由比ヶ浜さん……! 今の『私の彼氏候補ナンバー1』発言、ド直球すぎて私のHPがゼロになっちゃう……! 妄想じゃなくてリアルな青春の破壊力が強すぎるよ……っ!」
「えへへ、そうかな?」
夕暮れの廊下に、海老名の悶絶する声と、結衣の楽しげな笑い声が響き渡る。
彼氏候補だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、過去の呪縛を解き放たれた者たちがいて、仮面を剥ぎ取られたお姉様がいて、密室の紳士を救い、オタクの原稿用紙まで守り抜く。
そして、その背中を見つめながら「私の彼氏候補だ」と胸を張る少女がいる。
俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、予測不能な熱を帯びながら全速力で暴走し続けているのだった。