比企谷兄妹   作:tomozow

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短編小説:朝の教室、予期せぬ宣戦布告

まだ朝の静けさが残る、ピリッとした冷気に包まれた一年二組の教室。

俺――比企谷八幡は、いつも通り誰にも話しかけられないよう、アンニュイな足取りで自分の席へと歩を進めていた。平穏無事な一日の始まりを祈りながら、引き戸に手をかけようとしたその瞬間――。

目の前に、フワリと甘い香りが飛び込んできた。

「あ、ハッチー。おはよ!」

振り返る暇すらなかった。

視界の端に映った由比ヶ浜結衣の笑顔は、いつものそれよりもどこか決定的で、逃げ場のない熱を帯びていた。彼女は迷いのない足取りで一歩踏み出し、そして――躊躇うことなく、背伸びをした。

「っ……!?」

柔らかい感触が、俺の唇に直接触れた。

ほんの一瞬の、けれど間違いなくダイレクトな接触。朝の教室の冷たい空気が、一気に沸騰したような熱を帯びて頭から真っ白に弾け飛ぶ。

「……は?」

脳内の思考回路が完全にショートした。

俺は全身の関節を硬直させたまま、目を見開き、目の前にいる少女から一歩も動くことができなくなった。

朝の教室のざわめきが、まるで映画の音量をミュートにしたようにピタリと止まる。

由比ヶ浜は、自分の唇を軽く指先で触れながら、耳の先まで真っ赤に染めつつも、どこかすっきりしたような、最高に晴れやかな笑顔を浮かべて言い放った。

「だってさ!」

「だ、だってじゃねぇよおまっ……!!」

数秒の遅れて、俺の喉から裏返った悲鳴とも怒鳴り声ともつかない言葉が漏れ出た。

心臓の鼓動がうるさいほどにうるさい。周りの視線が一斉にこちらに突き刺さるのを感じながら、俺は冷や汗をダラダラと流して由比ヶ浜を睨みつけた。

「お前、なにして――いや、ここは教室だぞ!? しかも朝の! 治安の悪いジャングルかここは!」

「う、うるさいなぁ! もう我慢の限界だったんだから、仕方ないでしょ!」

由比ヶ浜は両手で真っ赤になった頬を隠しつつ、恥ずかしそうに、けれど全く悪びれる様子もなく、むしろ堂々と胸を張ってこう言い放った。

「だって、ハッチー最近あちこちで色んな人に絡まれてるしさー! モテるから、今のうちに自分の『唾』つけとこうかなーって思って!」

「どんな野良犬のマーキングみたいな理由付けだよ! 人間としての尊厳とか羞恥心とかはどこに置いてきたんだよ!」

俺が頭を抱えて絶叫しているその背後で、教室の空気が完全に凍りついていた。

「…………は?」

まず固まったのは、三浦優美子だった。

彼女は自分の席の椅子から半身を乗り出し、信じられないものを見るような、あるいは宇宙人でも遭遇したかのような絶句の表情で、由比ヶ浜と俺を交互に見つめている。言葉を失うとはまさにこのことで、彼女の口はパクパクと金魚のように動くだけで、声すらなかった。

その隣で、川崎沙希の周囲の空気が目に見えてピリピリと鋭利な刃物のような殺気を帯びていた。

彼女は机の端をギュッと握りしめ、キッと険しい目で由比ヶ浜を睨みつけつつも、自分の顔がカッと熱くなっていくのを必死に抑えようと耳まで真っ赤に染めている。

さらに、教室の隅にいた海老名姫菜は、手元にあったスケッチブックをバサリと落とし、両手で自分の顔を覆い隠した。

「ば、馬介な……朝から公式が最大手すぎる……! 不意打ちの直撃キスに『唾つけとこうかな』って台詞のチョイスが天才的すぎて、私のHPどころか全人類の精神が焼き尽くされちゃうよ……っ!」と、全身を痙攣させながら真っ赤になって悶絶している。

「……いやあ、すごいね、結衣ちゃん」

「だな……。比企谷、あいつ、やっぱりなんだかんだですげぇモテるよな……」

教室の入り口付近では、葉山隼人と戸部がその光景を生暖かい目(とほんの少しの羨望)で見守りながら、ボソボソと感想を漏らしていた。葉山は苦笑いを浮かべつつ、「これもう、周りがどうこう言える雰囲気じゃないね」と静かに腕を組んでいる。

血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知る奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、過去の呪縛を解き放たれた者たちがいて、仮面を剥ぎ取られたお姉様がいて、密室の紳士を救い、オタクの原稿用紙まで守り抜いた男――。

その男に向かって、朝っぱらから大胆不敵な「マーキング」をかました少女によって、俺の高校一年生の平穏は、今この瞬間、完全に粉々に砕け散ったのだった。

「……お前なぁ、ちょっと職員室の裏に来い、説教だ……」

「えー? やだ、ハッチーのケチ!」

顔を真っ赤にしながら抗議する俺と、どこまでもマイペースに笑う由比ヶ浜の姿を皮切りに、教室は今日一日、かつてないほどの激しい嵐に包まれることになるのだった。

 

 

短編小説:逆襲の壁ドン、あるいは暴走する青春

朝の教室の一件で、俺――比企谷八幡の精神的HPはすでにレッドゾーンを突き抜けていた。

「野良犬のマーキング」だの「今のうちに唾をつけておこう」だのと、女子高生らしからぬ暴挙を平然とやってのけた由比ヶ浜結衣。周囲のクラスメイトたちがざわめき、三浦が言葉を失い、海老名が鼻血(精神的な意味で)を出しそうになっていたあの修羅場から、どうにか放課後まで生き延びたというのに――。

「ちょっと、ハッチー! さっきから逃げようとしてない!?」

廊下を足早にやり過ごそうとした俺の前に、ふわりと由比ヶ浜が回り込んできた。その顔には、朝のド胆を抜くような大胆さはどこへやら、どこか照れくさそうに、けれど妙に勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。

「……逃げるに決まってるだろ。お前な、朝から何を血迷って――」

「だーって! あんなにモタモタしてるハッチーが悪いんでしょ! 私だって、これでも色々考えてるんだからね!」

悪びれもせず言い放つその顔を間近で見ていると、なんだかこう……いつも自分のペースをぐちゃぐちゃにかき乱されている不条理さに、妙なスイッチが入ってしまった。

いつもなら面倒くさいと切り捨てるところだが、今日ばかりはこのままでは「ただ圧倒されて終わり」のモブ人生のままだ。

俺はふっと小さく息をつくと、これまで見せたこともないような低い足取りで一歩、由比ヶ浜に詰め寄った。

「……おまっ、ハッチー?」

由比ヶ浜の背後が、ちょうど放課後の誰もいない特別教室の頑丈な壁にぶつかる。

俺はそのまま右腕をスッと伸ばし、彼女の頭の横の壁にドン、と叩きつけた。

――いわゆる、世間で言うところの「壁ドン」というやつだ。

「ひゃっ……!?」

由比ヶ浜の肩がビクッと跳ね上がる。急に距離を詰めてきた俺の意図が読めず、彼女の瞳が驚愕で大きく見開かれた。

さらに、逃げ場を失った彼女の小さな顎に、俺はもう片方の手をそっと添え、軽く上を向かせた。――「顎クイ」のコンボである。

「な、なに……急にそんな……」

由比ヶ浜の顔が一気に真っ赤に染め上がり、耳たぶまでがトマトのように熱を帯びていく。さっきまでの余裕はどこへやら、彼女の睫毛がパタパタと激しく揺れていた。

俺は自分の心臓のバクバク音を必死に押し殺しながら、できる限り冷めた、けれど至近距離の低い声で言い放った。

「……人のこと散々振り回しといて、いい気になるなよ。調子に乗ってると、こっちだってな……」

そこから先のセリフが、うまく出てこなかった。

だって、至近距離で見つめる由比ヶ浜の潤んだ瞳が、あまりにも真っ直ぐで、本気で熱を帯びていたからだ。逆にこっちの顔が赤くなっているのではないかと、冷や汗が背中を伝う。

「……って、言おうと思ったのかっこ?」

由比ヶ浜は、真っ赤な顔のまま、ふっと悪戯っぽく、けれどどこか愛おしそうに目を細めた。

そして、俺が動揺したその隙を逃さず――彼女は自らの意思で、そっと背伸びをした。

「……っ!?」

拒絶する間もなかった。

さっきよりも深く、しっかりと重なる唇。

朝の不意打ちとは違う、お互いの熱がそのまま伝わってくるような、甘くて切ないダイレクトな接触。思考のすべてが真っ白に焼き切れ、俺の手は支えていた彼女の顎から力なく離れ、ただその場に立ち尽くすししかなくなった。

数秒後、フッと唇を離した由比ヶ浜は、顔を真っ赤にしながらも、最高に満たされたような、勝者としての誇らしい笑顔を浮かべてこう囁いた。

「……これで、おあいこね、ハッチー」

「…………お、お前なぁ……」

膝から崩れ落ちそうになるのを必死にこらえながら、俺が真っ赤な顔で抗議しようとした、その時だった。

「――っ!?」

背後の渡り廊下の角から、ガシャン、と何かを盛大に落とす音が響いた。

慌ててそちらを振り返ると、そこに立っていたのは――生徒会の書類を抱えたまま、完全にフリーズしている雪ノ下雪乃だった。

彼女の手から、持っていたファイルがハラハラと床に散らばっている。

雪乃の琥珀色の瞳はこれ以上ないほど見開かれ、顔の血の気が一気に引いたかと思えば、次の瞬間には耳の先まで一気に沸騰したような真っ赤なトマトに変貌していた。

「な……いま……あなたたち、一体……何をやっているのかしら……っ!?」

雪乃の声が、見事に裏返っていた。

いつも冷静沈着で、どんなトラブルにも氷のような冷徹さで対処してきた彼女の「完璧な仮面」は、この瞬間、完全に粉々に砕け散り、彼女はパニックのあまりその場でパタパタと手を動かしながら、完全にショートを起こしかけていた。

「っ、ち、違うのよ、これはその、不意打ちというか、不可抗力というか……!」

由比ヶ浜が慌てて両手をブンブンと横に振って弁明しようとするが、自分の顔も真っ赤なままだから説得力がゼロである。

俺はというと、頭を抱えてその場にしゃがみ込みたい衝動に駆られながら、遠い目をしてつぶやいた。

「……もういい。俺は今日から、この学校のモブを辞めて、宇宙の塵になる」

彼氏候補だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、過去の呪縛を解き放たれた者たちがいて、仮面を剥ぎ取られたお姉様がいて、密室の紳士を救い、オタクの原稿用紙を守り……そして今、壁ドンと顎クイの応酬の末に、まさかの生徒会長(候補)を完全パニックに陥れた。

俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、予測不能な青春の暴走特急に乗せられて、音速でカオスな未来へと突き進んでいくのだった。

 

短編小説:連鎖する衝動、あるいは崩壊する日常

数日前の「廊下の壁ドン・顎クイ大事件」以来、学校中の空気がどこかおかしかった。

特に由比ヶ浜結衣の勢いは止まらなかった。廊下ですれ違うたびに「はーちゅー!」とわざわざ距離を詰めてきたり、クラスの女子たちから「いよいよ本気じゃん」と冷やかされたりするたびに、俺――比企谷八幡の胃酸はマッハで分泌され続けていた。

あの後、由比ヶ浜は一体どう思っているのか。気になってチラチラと視線を送ってしまっている自分自身に腹が立つが、人間、一度目撃してしまったインパクト(そして当事者になったショック)はそう簡単には消えない。

そんな、すっかり思考回路がショート気味なある日の昼休み。

俺が自分の席でぼんやりと現実逃避をキメ込んでいると、スッと一つの影が近づいてきた。

顔を上げると、そこには雪ノ下雪乃が立っていた。

相変わらず隙のない整った身なりだが、どこか視線が泳いでおり、両手には綺麗に包まれた手作りのお弁当箱がしっかりと握りしめられている。

「……なにをそんなにぼんやりしているのかしら、比企谷くん」

「いや、色々と人生の重みを感じていたところだ。……で、なんだその弁当は」

俺がジト目で尋ねると、雪乃はわずかに頬を朱色に染め、フイッと顔をそむけながらそれを机の上にドンと置いた。

「べ、別に……。母が余分に作ったから、仕方なく持たされただけよ。勘違いしないでちょうだい」

「相変わらず素直じゃない言い草だな。まあ、ありがたくいただくが……」

言いながら、俺はふと、数日前の廊下の出来事を思い出した。あのとき、完全にパニックを起こして逃げるように去っていった雪乃の姿が脳裏をよぎる。あれ以来、彼女と目を合わせると妙に気まずい空気が流れていたのだ。

俺は箸を割りかけながら、なんとなく気になって口を開いた。

「……なぁ、雪ノ下。お前さ……その、なんだ」

「なによ、はっきり言いなさい」

「お前はさ……その、俺と由比ヶ浜がどうこうなってるのを見て、その……気まずくないわけ?」

雪乃の動きが、ぴたりと止まった。

彼女はゆっくりと視線を俺に向け、その琥珀色の瞳をわずかに細める。その表情には、いつもの冷徹さではなく、どこか複雑な、波立つような感情が隠されていた。

「……どうこうって、何のことかしら」

「とぼけるなよ。お前もあのとき、現場をバッチリ目撃していただろ。……で、なんだ? お前は、俺たちのこと……その、付き合ってるわけじゃないのね?」

自分でも何を聞いているんだと頭を抱えたくなるような質問だった。だが、あの日の彼女のあまりの動揺が、どこかひっかかっていたのだ。

雪乃はわずかに息をのんだ。

彼女は美しく整った眉をひそめ、じっと俺を見つめたまま、一瞬言葉を失う。そして、かすかに震える声で呟いた。

「……付き合っている、わけではない……のね?」

「ああ、まあ、そういう関係ってわけじゃ……」

そこまで答えた瞬間だった。

雪乃が、ふっと息を吐き出した。

それは諦めとも、あるいは何かを決意したような、あまりにも鮮やかな吹っ切れ方だった。

「――なら」

「……は?」

雪乃は椅子から立ち上がり、迷いのない足取りで俺の目の前まで歩み寄った。

そして、その細い両手で俺の頬をそっと包み込み、強制的にその顔を自分の方へと向かわせた。

「お、おい雪ノ下……っ!?」

拒絶する暇すらなかった。

すっと近寄ってきた雪乃の顔。そして、重なる唇。

――二度目だった。

いや、由比ヶ浜のそれとは違う。もっと静かで、けれどどこか切実な、冷たくて甘い熱を帯びた接触。

思考が完全に白紙に戻る。心臓の音がうるさすぎて、自分の呼吸の仕方も分からなくなった。

数秒後。

雪乃はスッと身を引いた。

彼女の顔は、耳の先まで、かつてないほど真っ赤に染め上げられていた。それでも、彼女は精一杯の気高さを保とうとするように、わずかに顎を引いて俺を睨みつける。

「……これで、対等よ」

「…………は……?」

声にならない声を絞り出す俺を残し、雪乃は自分の弁当箱を掴むと、振り返りもせず、ものすごいスピードで教室の扉へと歩き出した。

その背中は、どこか逃げるような、けれど最高に誇らしげな震えを帯びていた。

「な、におまっ……おい雪ノ下……っ!」

呆然と立ち尽くす俺の手から、ポロリと、持っていたはずの箸が音を立てて床に落ちた。

――彼氏候補だと宣言する奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、過去の呪縛を解き放たれた者たちがいて、仮面を剥ぎ取られたお姉様がいて、密室の紳士を救い、オタクの原稿用紙を守り、朝からキスをかましてきた少女がいて……そして今、氷の女王と呼ばれた少女までが、自らその牙城を崩しにやってきた。

俺の高校一年生の日常は、もはや修羅場という言葉すら生温い、完全なる予測不能の暴走特急と化して、今日も容赦なく俺のライフを削り取り続けているのだった。

 

短編小説:氷の女王の宣戦布告、あるいは初恋の熱

――カタン。

教室の扉を乱暴に閉め、自分の席へと駆け戻った雪ノ下雪乃は、両手で自分の真っ赤な顔を必死に覆い隠していた。

「……っ、うそ……私、一体、何を……っ!?」

心臓が、うるさいほどに激しく脈打っている。胸の奥が熱くて、息をするのも苦しい。

あんな大胆な行動、これまでの人生で一度たりともしたことがなかった。由比ヶ浜結衣が不意打ちのキスをしたとき、「なんてはしたないのかしら」と心の中で呆れていたはずなのに。なのに、自分もまったく同じ――いや、それ以上に突発的な行動をとってしまった。

なぜ、あんなことをしてしまったのか。

頭の中で言い訳を探そうとするが、思い出すのは直前に見た比企谷八幡の呆然とした顔と、あの不器用で、けれど真っ直ぐに自分に向き合ってきた横顔ばかりだ。

もちろん、雪乃にとって八幡という存在は特殊だった。

自分を真っ直ぐに否定し、時には呆れさせながらも、どんな面倒事からでも結果的に救い出してくれる。その不器用な優しさは、どこか頼れる「兄」のようでもあったかもしれない。

だが――。

雪乃はそっと両手を頬から離し、揺れる瞳で窓の外の空を見つめた。

彼は兄ではない。自分と同じ年の、同じ時間を生きる同級生だ。

そして、これまでの人生で出会ってきたどんな優秀な男子たちとも違う。表面的に取り繕うわけでもなく、卑屈でありながら、誰よりも確かな「芯」を持った男。

振り返ってみれば、彼以上に自分の心を激しく揺さぶり、目を離せなくさせた男など、これまでの人生で一人もいなかった。

(……そうよ)

頬の熱が少しずつ引き、代わりに胸の奥から湧き上がってきたのは、言い知れぬ気恥ずかしさと、それ以上に強烈な「誇らしさ」だった。

逃げるものか。

由比ヶ浜が先手を取ったからといって、自分がそれに気圧されて引き下がる理由などどこにもない。彼女は雪ノ下家の次女であり、プライドにかけて、自分の感情に嘘をつくような真似は絶対にしない。

雪乃はキュッと唇を引き締め、椅子からゆっくりと立ち上がった。

その表情に、もう迷いやパニックの色はなかった。そこにあったのは、人生で初めて自らの意志で踏み出した、「恋の戦場」に立つ一人の少女の覚悟だった。

これが、恋なのだと知る。

誰かに教わったわけでもなく、完璧だったはずの自分の世界を根底からひっくり返していくような、どうしようもなく熱くて、甘くて、切ない初恋。

「……覚悟しなさいよ、比企谷くん」

誰にも聞こえない声で小さく呟くと、雪乃はふっと美しく、そしてどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

崩れ去った「氷の女王」の城の跡地で、彼女は今、恋という名の新しい一歩を、力強く踏み出し始めていたのだった。

 

短編小説:国際クラスの噂話と、女王の答え

放課後の静けさが戻りつつある国際クラスの教室。

窓際の席に座る雪ノ下雪乃は、少しだけ開け放たれた窓から吹き込む初秋の風を受けながら、静かに教科書を閉じていた。

「ねえ、聞いてる? 雪ノ下さん」

声をかけてきたのは、同じクラスの女子生徒だった。彼女は少し楽しげな、けれどどこか探るような笑みを浮かべながら、雪乃の机に軽く手をつく。

「最近さ、隣の普通科の比企谷くん、なんかすごくない? あちこちで色んな女子の噂の的になってるし、ぶっちゃけちょっとした『時の人』みたいになってるよ。あんなひねくれたモブっぽい男子が、まさかあんなに人気出るなんて思わなかったよねー」

クラスメイトのその言葉に、周囲にいた他の女子たちも「わかるー」「なんか最近かっこよく見えてきたかも」と、面白半分、けれどどこか本気とも取れるトーンで口々に同調し始めた。

国際クラスという、どこかプライドが高く、海外の空気を纏った閉鎖的な空間であっても、あの比企谷八幡の名前はすでに無視できないノイズとして浸透していた。由比ヶ浜の大胆なキスも、校舎の裏での噂も、回り回ってこのクラスの耳にも届いているのだ。

クラスメイトたちは、面白そうに雪乃の顔を覗き込んだ。

なにせ、雪ノ下姉妹の妹であり、生徒会でも中心にいる彼女は、あの八幡と最も関わりが深い人間の一人なのだから。

「ねえ、雪ノ下さんはどう思う? あんな男のどこがそんなに人気出ちゃったわけ?」

クラスメイトから向けられた、ちょっとした冷やかし交じりの質問。

普通なら、「あんな人、知りませんわ」と冷たく一蹴するか、話題そのものを華麗にスルーするところだろう。つい数ヶ月前の雪乃なら、間違いなくそうしていたはずだ。

だが――今の雪乃は違った。

彼女は静かに顔を上げ、驚くほどまっすぐで、揺るぎない琥珀色の瞳でクラスメイトたちを見据えた。

そして、微塵の迷いもなく、誇らしげに、しかしどこか熱を帯びた声できっぱりと言い放った。

「――あれ以上の男を探すのは、世界中どこを探したって難しいわね」

「……は?」

教室の空気が、一瞬で凍りついた。

質問したクラスメイトはもちろん、周囲でやんややんやと言っていた女子たちも、全員がポカンと口を開け、信じられないものを見るような目で雪乃を見つめている。

「ゆ、雪ノ下さん……? 今、なんて……?」

「聞き間違いじゃないかしら。私は、彼以上の男なんていないと言ったのよ」

雪乃は微動だにせず、むしろ先ほどまでの冷徹な美少女の仮面をかなぐり捨てたかのような、圧倒的な説得力をもって言い切った。

誰よりも厳しく、誰よりも高い基準で周囲を見下ろしてきた「氷の女王」が、あのひねくれた比企谷八幡を、誰よりも高く評価している。いや、評価という言葉では到底足りない、あまりにも真っ直ぐな独占欲と誇りが、その一言には込められていた。

クラスメイトたちは絶句し、もはや何も言い返すことができなかった。

雪乃はふっと綺麗に微笑むと、自分のカバンを手に取り、椅子から立ち上がった。

その横顔は、数日前まで自分が持っていた「完璧な仮面」の呪縛に縛られていた少女のものではない。恋という名の戦場に立ち、自分の気持ちに一切の嘘をつかないと決めた、一人の強い少女のものだった。

「それじゃ、失礼するわ」

呆然とする教室を背に、雪乃は軽やかな足取りで扉へと歩いていく。

由比ヶ浜が牙城を崩し、自分がそれに続いた。あの男を巡る戦場は、もはや彼女たちだけの秘密ではなく、学校全体を巻き込む壮大なスケールへと突入しようとしていた。

遠くの普通科の教室で、くしゃみでもしているであろう比企谷八幡の知らぬところで、彼の評価は今、天井知らずに跳ね上がり続けているのだった。

 

短編小説:夕日の職員室と、逃げられない勧誘

放課後の職員室。

俺――比企谷八幡は、提出物の不備という実にモブらしい理由で平塚先生の机の前に呼び出されていた。

「まったく、相変わらずひねくれた字を書く男だな、比企谷は」

「すんませんね、文字にも性格の歪みがしっかり反映されるタチなもんで」

カウンターの端に腰掛け、やれやれと頭を掻く俺に向かって、平塚静はふっと満足そうな笑みを浮かべた。彼女は手元の書類をパタンと閉じると、机の上に肘をつき、鋭くもどこか温かい瞳で俺をじっと見据えた。

「でだ、比企谷。最近お前、やけに色んなところで面倒事を引き受けてるらしいじゃないか。女生徒の噂の的になったり、オタクの原稿用紙を守ったり、果ては電車の紳士まで救助したとか?」

「……どこからその情報仕入れてるんですか。ストーカーですか、怖っ」

「生徒の動向を把握するのは教師の務めだ。――だが、悪くない」

平塚先生は豪快に笑うと、ゴソゴソと引き出しから一枚の申込用紙を取り出し、俺の目の前にスライドさせた。

「部活に入らないか、比企谷」

「は? 今更ですか。俺みたいな陰キャが部活なんて入ったら、青春の空気にアレルギー反応起こして全身の穴から血を吹き出しますけど」

「心配するな。部員はお前一人だ」

「……は?」

思わず間抜けな声が漏れた。部員が一人しかいない部活なんて、名前だけの幽霊部員か、ただの収容所(サークル)じゃないか。

平塚先生は腕を組み、面白そうにニヤリと笑った。

「お前はなんだかんだと、困ってる奴を見過ごせない性格だからな。一人で勝手に抱え込んで、いつの間にか周囲を巻き込んでいる。……お前は、どこか兄貴みたいなやつだな、比企谷」

「……誰の兄貴ですか。俺は妹以外養う気力はありません」

「ふっ、いいから聞け。そこなら、お前がどんなにひねくれた理屈を並べようと、誰も文句は言わん。お前のその『面倒見の良さ』を存分に発揮できる場所を用意してやったのさ」

申込用紙に書かれた文字をちらりと見る。

『奉仕部』。

これまでの数ヶ月、由比ヶ浜に振り回され、雪乃の気高さに気圧され、周囲の勝手な期待や暴走に巻き込まれ続けてきた。どうせこのまま流されていけば、結局は色んな連中の面倒をズルズルと見ることになるのは目に見えている。

なら――。

俺は小さく息をつき、ポケットに突っ込んでいた手をだらしなくテーブルに伸ばした。

「……断る理由が、見当たりませんね」

「おう、そうこなくかなきゃな!」

平塚先生は満足そうに豪快に笑い、俺の肩をバシッと叩いた。その衝撃で背骨が折れかけたが、不思議と悪くはなかった。

こうして、俺――比企谷八幡の「奉仕部」での日々が、誰の予想もしないカオスと青春の渦に向かって、静かに幕を開けるのだった。

 

短編小説:放課後の奉仕部、そしてスケッチブックの行方(再修正版)

部員が俺一人しかいないはずの「奉仕部」の部室。

その放課後は、今日も今日とて、本来入部していないはずの二人の少女によって占拠されていた。

窓から差し込む夕日が、静まり返った部屋をオレンジ色に染めている。

俺――比企谷八幡は、平塚先生から押し付けられた不要な雑務を一通り片付けたあと、手元にあったスケッチブックと鉛筆を取り出し、なんとなく暇つぶしにペンを走らせていた。

サラサラと鉛筆の先が音を立てる。

描いていたのは、我が人生における最大の癒やしであり、全宇宙で最も愛すべき存在――最近すっきりとしたショートカットにイメチェンしたばかりの、最愛の妹・比企谷小町だ。

兄としての深い愛情(と、たまに財布を狙われる恐怖)を込めつつ、首回りが軽くなってより活発になったその特徴的な髪型と、満面の笑みを細部まで丁寧に描き込んでいく。

「……ふむ、我ながらなかなかのクオリティだな。このショートカットの再現度、お兄ちゃんの愛が爆発していると言っても過言ではない」

小さく満足してうなずいたその時だった。

「――ねえ、ハッチー。何を描いてるの?」

背後からスッと覗き込んできたのは、由比ヶ浜結衣だった。

彼女は俺の肩越しにスケッチブックを覗き込み、そこに描かれていたショートカットの少女の顔を確認するやいなや、ぴたりと動きを止めた。

「……あれ? これ、もしかして小町ちゃん……? え、ちょっと待って、小町ちゃん髪切ったの!?」

「おう、我が妹だ。どうだ、この生き生きとした表情。ショートカットになってさらに可愛さに磨きがかかったろ」

「聞いてないよー! 私、まだ新しい小町ちゃんに会えてないのに……っ! チートだ、ずるい!」

由比ヶ浜が「いいなー私も見たかったなー」と、なぜか俺の腕をバシバシと軽く叩きながら不満げに頬を膨らませる。

隣に立っていた雪ノ下雪乃も、いつの間にかすっと身を乗り出してスケッチブックを凝視していた。彼女の琥珀色の瞳が、画面のショートカットの少女と俺を交互に捉える。

「……ふん。小町ちゃんにしては、少しばかり美化されすぎていて気味が悪いけれど……確かに、先日すれ違ったときに髪を切っていたのは見たわね。絵心自体は悪くないわ」

雪乃はそう言いながらも、どこか不満そうな、じとりとした視線を俺に向けていた。

「ちょっと待って、ハッチーずるい!」

由比ヶ浜が、さらに両頬をぷくっと膨らせて俺の腕をガシッと掴んできた。その顔には明白な嫉妬の色が浮かんでいる。

「なんで小町ちゃんばかり特別扱いなわけ!? 私たちの絵は!? 私たちだって毎日こうして部室に入り浸ってあげてるんだから、当然描いてよね!」

「そうだわ、比企谷くん」

雪乃も腕を組み、ふんと顔をそむけながら、しかし耳の先を少し赤らめてそれに同調する。

「あなたが普段どれだけ私たちを雑に扱っているか、そのスケッチブックで少しは償いなさいよ。私たちも描きなさい、今すぐに」

二人が揃ってすごい剣幕で迫ってくる。

部員一人のはずの奉仕部が、いつの間にか「俺の絵のモデル争奪戦」の戦場と化していた。

やれやれ、と俺は小さく息をつき、鉛筆をクルリと回しながら、二人の顔をチラリと見上げた。そして、一番言ってはいけない(けれど、一番正直な)セリフを、あえてぶっきらぼうに言い放つ。

「……まあ、美人をモデルにするなら、こっちも多少はやる気が出るってものだけどな」

――ピタッ。

部屋の空気が、一瞬で凍りついた。

由比ヶ浜は目を見開き、自分が聞いた言葉を脳内で反芻するように数秒間固まった後、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染め上げた。

「っ……! な、なに急にそんなサラッと恥ずかしいこと言ってるのよハッチー……っ!」

雪乃もまた、優雅な仮面が見事に崩壊し、顔をカッと朱色に染めながら、持っていた本でパッと自分の顔を隠した。

「なっ……! あなたねぇ、自分が今どれほど赤面もののセリフを吐いたか、分かっているのかしら……っ!」

二人はそれぞれ顔を真っ赤にし、照れ隠しと怒りが混ざったような複雑な表情で、同時に俺を睨みつけてきた。

「い、いいから早く描きなさいよ! 似てなかったら承知しないんだから!」

「そうよ! 一ミリでも変に描いたら、徹底的に糾弾してあげるんだからね!」

真っ赤になりながらも、決してその場から離れようとしない二人の姿を見て、俺は小さく苦笑いを浮かべた。

小町を描いていたはずのスケッチブックは、結局そのあと、二人の「美人モデル(自称)」の監視の下、散々な文句を言われながらも描き進められることになった。

俺の高校一年生の平穏は相変わらず音を立てて崩れ去っているが――この賑やかすぎる部室の空気は、案外、悪くないのかもしれないと、俺は密かに思いながら再び鉛筆を走らせるのだった。

 

短編小説:サイゼリヤの密談、あるいは「ホストの才能」について

放課後の喧騒を抜け出した由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃の二人は、いつの間にか見慣れたサイゼリヤのボックス席に向かい合って座っていた。

注文したドリンクバーのグラスを片手に、テーブルを挟んで向かい合う彼女たちの間には、どこか落ち着かない、けれど妙に熱を帯びた空気が漂っている。

話題の中心にあるのは、言うまでもなく、あの奉仕部でスケッチブックを片手に不敵な笑みを浮かべていた比企谷八幡という男だった。

「ねえ、ゆきのん……」

結衣はストローをカチャカチャとかき回しながら、真っ赤になった頬を両手でパタパタと仰ぎ、どこか愚痴るような、けれど隠しきれない熱を含んだ声で切り出した。

「あのさ、あの日の『美人をモデルにするならやる気が出る』発言……あれ、すごくない? なんていうか、反則じゃない?」

「…………」

雪乃は紅茶のカップに口をつけようとした手をピタリと止め、わずかに目を伏せた。あの瞬間、自分がどれほど盛大に顔を赤らめ、頭から湯気を出しそうになったか。思い出すだけで心臓が再び跳ね上がりそうになる。

「あれは……たしかに、反則だったわね」

雪乃はかすかに震える声で呟き、カップをソーサーにそっと置いた。

「あんなふうにサラッと、しかもあんな真顔で言われるなんて……。少しでも油断していると、本当に心臓が止まりそうになるわ」

「でしょ!? なんていうかさ、普段あんなにひねくれてて、モブ気取ってるくせに、いざって時のあの不意打ち……!」結衣はテーブルに身を乗り出し、頭を抱えた。「あれもう、完全にホストの才能あるよね!? 女心を狂わせる天才っていうか、タチが悪いっていうか……!」

「――ホスト、ね」

雪乃はふっと冷ややかな、けれどどこか複雑な笑みを浮かべ、窓の外の夕暮れに視線を投げた。

「あんなひねくれた性根の曲がった男がホストになどなったら、店が一日で潰れるか、客全員から精神的慰謝料を請求されるのがオチよ。……だけど」

雪乃はグラスの縁を指でなぞりながら、静かに首を横に振った。

「あれはホストの営業なんかじゃないわ。……もっと質が悪いわよ」

「え? どういうこと?」

「あいつはね、無意識なのよ。人が何を言われたら動揺するか、どう接されたら救われるか……そういう無駄な洞察力だけが異常に発達しているせいで、本人はただ自然に振る舞っているつもりでも、相手にとっては致命的な一撃になってしまうのよ」

雪乃はそこまで言い切ると、わずかに頬を赤らめ、気まずそうに視線をそらした。

「……いわば、天性の『お兄ちゃんスキル』の暴走よ。妹の小町ちゃん相手にああやって自然と相手を褒めたり手懐けたりしているうちに、知らず知らずのうちに身についた悪質な技術(テクニック)に違いわえないわ」

「お兄ちゃんスキル……!」

結衣は目を見開き、それから「うわ、なんか妙に納得できちゃうのが悔しい……!」と頭を抱えて机に突っ伏した。

「でもさ、ゆきのん……あんな風に真っ直ぐ言われたらさ、こっちの気持ちがどんどん持ってかれちゃうじゃん。どうす責任取ってほしいよね、本当に」

結衣が恨めしそうにボヤくと、雪乃はゆっくりと顔を上げ、その琥珀色の瞳に強い光を宿してまっすぐ前を見据えた。

「責任なんて、あいつに取らせる必要はないわよ」

「え……?」

「あんな男をただのモブとして見過ごすわけにはいかないわ。……それに、ここで引いたら、あのひねくれ者の思う壺よ」

雪乃はふっと美しく、そしてどこか挑戦的な笑みを浮かべた。

サイゼリヤの安価な照明の下、恋という名の戦場に立つ二人の少女の決意は、今やすっかり同じ方向を向いていた。

八幡の知らぬところで、二人の「攻略会議」は確実に次のステージへと突入していたのだった。

 

短編小説:廊下の特等席、そして「細マッチョ」の王子様

重苦しい鉛色の空が広がる午後の授業中。

俺――比企谷八幡は、相変わらず退屈な黒板の文字を眺めながら、うつらうつらと意識の海を漂いかけていた。

だが、その平穏は唐突に破られた。

ドサッ……!

前方から、何か重いものが床に倒れ込むような鈍い音が響いた。

教室全体が静まり返り、一斉に視線が集中する。そこには、普段から夜遅くまでのアルバイトで寝不足が続いていた川崎沙希が、ついに力尽きたのか、机に突っ伏すようにして意識を失いかけていた。

「っ、川崎さん……!?」

近くにいた生徒が慌てて声を上げるが、女子一人を抱えて階段を降り、保健室まで運ぶのは体力的になかなか骨が折れる。そもそも、男子である俺たちが不用意に手を出すのも気まずい空気がある。

(……やれやれ。これだから、無理する奴は面倒くさいんだよ)

心の中では盛大に悪態をつきながらも、俺は椅子から立ち上がり、アンニュイな足取りでその場へと歩み寄った。

そして、周りの女子たちが「え、比企谷くん、どうするの……?」と戸惑う中、俺は川崎の体にそっと手を回し――そのまま、ひょいと軽々と抱え上げた。

「っ……!?」

川崎が小さく息を呑み、意識が朦朧としながらもびくっと体を震わせる。

映画やドラマで見るようなスマートな姫殿下抱っこ――とはいえないまでも、日々の自堕落な生活の裏で、妹を背負ったり雑用をこなしたりして密かに鍛えられていた俺の体幹は、意外にもしっかりと彼女の体重を支えていた。いわゆる、服を着れば分からない「細マッチョ」の真骨頂である。

「……比企谷、お前……」

川崎が顔を真っ赤に染め、か細い声で何かを呟こうとするが、寝不足と疲労の限界でそのまま俺の胸元にこくんと額を預けてしまった。

俺はそのまま周囲の驚愕と好奇心の入り混じった視線を浴びながら、「保健室行ってくるわ」と適当に言い残し、教室を後にした。

――そして、その一部始終は、当然のようにクラスメイトたちの網膜に焼き付けられていた。

「……おい、見たか今の……?」

「見た……! 比企谷のやつ、川崎をあんな軽々と……ってか、めちゃくちゃ王子様っぽくなかったか!?」

教室の後方。

戸部翔が目を丸くして窓の外の廊下を見送り、葉山隼人はその横で、どこか面白そうに、けれど深く納得したような笑みを浮かべて腕を組んでいた。

「だな……。普段はあんなにひねくれてるクセに、いざという時に迷わず体を張るんだから、そりゃあ周りも放っとかないわけだ」

葉山が爽やかにそう呟くと、戸部は「くそっ、なんか負けた気がするぜ……!」と頭を抱えて唸った。

さらに、その様子を少し離れた席からじっと見つめていた三浦優美子は、自分の頬がカッと熱くなっているのを必死に隠そうと、ツンと顔をそむけて腕を組んだ。

(な、なにやってるのよあいつ……! 王子様気取りで女子を軽々抱えて行くなんて反則でしょ……! もし、もしあれが自分だったらなんて……考えない、考えないっ……!)

耳の先まで真っ赤に染め上げながら、三浦は誰にも見られないようにそっと自分の胸元を抑えた。

血の繋がりなんてなくても家族の温もりを知る奴がいて、階段で照れ隠しする奴がいて、全方位を巻き込んでバズり散らかす深淵の住人がいて、密室の紳士を救い、オタクの原稿用紙を守り、朝からキスをかまし、氷の女王を動かし、サイゼリヤでホスト扱いされ――そして今、疲れたクラスメイトを「細マッチョ」な腕で華麗に(?)お姫様抱っこして保健室へ運んでしまった男。

俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、意図せぬところで新たな伝説を積み重ねながら、止まることなく暴走し続けているのだった。

 

短編小説:保健室のベッドと、全財産のプロポーズ

静まり返った保健室。

カーテンの隙間から差し込む午後の柔らかい光の中、白いベッドの上で、川崎沙希はゆっくりとまぶたを持ち上げた。

「……ん……ここ、は……」

「お、起きたか。耐久レースのしすぎで寿命縮めてるアホな不良少女」

パイプ椅子に腰掛け、面倒くさそうに小説のページをめくっていた俺――比企谷八幡が声をかけると、川崎はハッと起き上がり、自分の置かれた状況を把握して一気に顔を赤らめた。

「っ……! あ、あたし、なんでここに……ってか、お前が……!」

「お前が教室の真ん中で盛大にブッ倒れたんだよ。ありがたく思え、お姫様抱っこなんて人生で二度とする気のないイベントを強制消化させられたこっちの身にもなってほしいね」

川崎は耳まで真っ赤に染め、布団をギュッと引き上げながらバツが悪そうに目を泳がせた。

「……悪かったよ。その……運んでくれて、ありがと……」

「謝るくらいなら、もう少し自分の体力を考えろ。……で、聞かせてもらうが、お前、最近どんだけバイト詰め込んでるんだ?」

俺がジト目で問うと、川崎は気まずそうに視線をそらし、ぽつりぽつりと話し始めた。

「……別に、いいだろ。……弟や妹の進学とか、色々金がかかるんだよ。塾代とかも馬鹿にならないし……親にばかり負担かけるわけにいかないからさ」

だからといって、高校生が深夜までバイトを掛け持ちして体を壊すのは本末転倒だ。

俺は小さく息をつき、静かに、けれどはっきりと告げた。

「……そのバイト、やめろ」

「は……?」

川崎が信じられないものを見る目で俺を見上げた。

「なに言ってんだよ、ふざけんな。お金が必要だからやってるって言ったろ。あたしがやめたら誰がその金を――」

「なら、俺が出す」

「……は?」

川崎の動きが、完全にフリーズした。彼女はぽかーんと口を開け、数秒間、自分が聞いた言葉の意味を脳内で処理しようと必死にパチパチと瞬きを繰り返した。

「お、お前……なに言って……。ふざけてるのか?」

「ふざけてない。本気だ」

俺は椅子から立ち上がり、ポケットに片手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに続けた。

「お前が倒れて、またあんな風に無理をするくらいなら、俺がバイトでもなんでもして金を出してやるよ。足りない分は小遣い削るなり、どっかのブラックなバイトでも探してきてやる」

「なっ……! なんでだよっ……!!」

川崎の顔が、怒りと、それ以上に激しい動揺と気恥ずかしさでトマトのように真っ赤に爆発した。彼女はベッドの上で上半身を起こし、潤んだ瞳で俺を激しく睨みつける。

「なんで赤の他人のあたしにそこまですんだよ!? お前、頭おかしいんじゃないのか……っ!?」

「他人ってほど薄い関係でもないだろ。それに……」

俺は少しだけ視線を逸らし、気まずそうに頭を掻いた。

「お前の家には、お前を頼りにしている弟や妹がいるんだろ。……小町を見てるとなんとなく分かるんだよ。そういう奴が、家族のためにすり潰されていくのは、見ていて気分が悪い。……妹みたいで、放っとけないんだよ、なんとなくさ」

――妹みたい。

その言葉を聞いた瞬間、川崎の顔からスッと血の気が引いたかと思うと、次の瞬間には耳の先まで、かつてないほどの最高潮の赤みに染まった。

「い……いま……い、妹、みたいって……なんなんだよそれ……っ!」

川崎は真っ赤になった顔を両手で覆い隠し、ベッドのシーツをバタバタと引っ掻き回した。そのあまりのうなり声と不器用な照れ隠しに、俺は思わず苦笑いを浮かべる。

「いいから、自分の体を大事にしろ。バイトは少し減らせ。どうしても足りないときは俺に言え」

「……バカ……。お前、ほんと……調子狂うんだよ……」

手で顔を隠したまま、川崎がかすかに、けれどどこか嬉しそうな、愛おしそうな声を漏らした。

血の繋がりなんてなくても誰かを守りたい奴がいて、朝からキスをかます奴がいて、氷の女王を動かし、サイゼリヤでホスト扱いされ、そして今、不器用なプロポーズ(?)めいた言葉で不良少女のハートを完全に撃ち抜いてしまった男。

俺の高校一年生の日常は、相変わらずキャパシティの限界を突破しながら、止まることなく暴走し続けているのだった。

 

短編小説:保健室の密談、そして「頼りがいのかたまり」

「――おいおい、青春ドラマのクライマックスにしては、少々セリフの選択が直球すぎやしないか?」

ガラガラと、保健室の引き戸が乱暴に開け放たれた。

そこに立っていたのは、腕を組み、いつもの不敵な笑みを浮かべた国語教師――平塚静だった。

「ひ、平塚先生……!?」

ベッドの上で顔を真っ赤にしてうずくまっていた川崎沙希が、ビクッと肩を跳ねさせて飛び起きる。俺――比企谷八幡も、予想外の乱入者に思わず「うわ、タイミング悪っ……」と露骨に嫌な顔をした。

「まったく、話を聞いていれば……。高校生が勝手にバイトを増やすだの、自分が金を出してやるだの、勝手に男気を見せつけてくれるじゃないか、比企谷」

平塚先生は呆れたようにため息をつきながらも、どこか楽しげな目を細め、ふっと懐から一冊のパンフレットのようなものを取り出した。

「だが、そんなことでモブの分際で無理をされても困る。……そういう金銭的な悩みや特例の支援については、だな、まず大人である教師に相談しやい、馬鹿者」

「……は?」

川崎がぽかんと口を開ける中、平塚先生はそれを彼女の枕元へとスッと差し出した。

「これは校内の『奨学金(スカラシップ)制度』および、家庭事情を考慮した特別支援の案内だ。成績が一定以上で、かつ真面目に生活している生徒なら、学校側からいくらでもサポートの道はある。お前が夜な夜な体を壊す必要なんて、最初からないのさ」

パンフレットの文字を凝視した川崎の瞳が、みるみるうちに大きく見開かれた。

「これ……本当、に……?」

「あぁ、私を誰だと思っている。国語の教師にして、生徒の未来を守る鬼コーチだ。手続きの面倒は私が全部引き受けてやる、安心して勉強と部活……いや、自分の生活に集中しろ」

平塚先生の力強い言葉に、川崎は胸がいっぱいになったのか、ぐっと唇を引き締め、潤んだ瞳で「……ありがとうございます……!」と深々と頭を下げた。

トラブルが完璧に(かつ大人の手によって)解決したところで、平塚先生はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべ、ベッドの上で真っ赤になっている川崎へと視線を向けた。

「おや、川崎。さっきの比企谷の熱いセリフ、なかなか聞き応えがあったじゃないか。……どうだ、惚れたか?」

「っ――!?」

その直球すぎる冷やかしに、川崎の顔は再び沸騰したヤカンのように真っ赤になり、「な、なななな何を言ってるんですかっ、先生はっ……!」と布団を頭から被ってしまった。

平塚先生は豪快にカラカラと笑い飛ばすと、ふっと遠い目をしながら、保健室の出口へと歩きかける俺の背中を見つめてポツリと呟いた。

「――まあ、無理もないか」

「……ん?」

俺が振り返ると、平塚先生は腕を組み、どこか満足げな、そして妙に納得したような顔でこう続けた。

「あいつは、ああ見えてなかなか良い男だ。……私があと十数年若くて高校生だったら、間違いなく一発で惚れていたな」

「いや、先生の青春時代に俺がいたら、お互いストレスで胃に穴が空いて即死してますよ」

「ふっ、それもそうだな!」

平塚先生がからからと笑い、そのままスタスタと保健室を去っていく。

後に残された静かな部屋の中、布団の中からゆっくりと顔を出した川崎は、真っ赤な顔のまま、さっきまで俺が立っていた場所をじっと見つめていた。

(……先生の言う通り、だよな……)

思い返せば、柄の悪い不良に絡まれたときも、無理をして倒れたときも、いつもあいつは面倒くさそうにしながら、絶対に自分を見捨てずに手を差し伸べてくれた。

特別イケメンというわけでもなく、ひねくれていて、いつも死んだ魚のような目をしているけれど――。

(……意外と、ガタイはしっかりしてて……その、男らしい身体つき、だったし……)

ふと脳裏によみがえった、お姫様抱っこされたときの体温や、自分のために真っ直ぐに「放っておけない」と言ってくれた背中。

頼りがいのかたまりのような、どうしようもなく不器用で、けれど圧倒的に温かい男――比企谷八幡。

川崎は自分の胸の鼓動がまだうるさく鳴り響いているのを感じながら、真っ赤な顔のまま、ぽつりと小さく呟いた。

「……確かに、さ……反則、だよ……あいつ……」

平穏なんて文字は最初から存在しない、周囲を巻き込んで暴走し続ける俺の日常は、今日も今日とて、誰かの心をほんの少しだけ狂わせながら、相変わらず騒がしく続いていくのだった。

 

短編小説:体育準備室の衝撃、あるいは「男たちの筋トレ狂想曲」

秋晴れの心地よい風が吹き抜ける、午前のグラウンド。

次の体育の授業を控えた男子更衣室は、着替えを済ませた男子生徒たちのざわめきで賑わっていた。

俺――比企谷八幡は、Tシャツに着替えるために無造作にシャツを脱ぎ捨て、窓際でぼんやりと外の景色を眺めていた。

……と、その時だった。

「おい、ちょっと待て……マジかよ、比企谷……?」

近くで着替えていたクラスメイトの男子が、俺の背中を見て急に動きをピタリと止めた。その異様な声に、周囲にいた他の男子たちも「どうしたんだ?」と次々に視線を向けてくる。

「なんだよ、人の背中に何かでもついてるのか?」

俺が面倒くさそうに振り返ると、男子たちは皆、まるで信じられないものを見るような目で俺の体をじっと凝視していた。

「いや、お前……なんだその体……!」

「お前、服着てるとガリガリのモブに見えるのに、脱いだらめちゃくちゃ締まってて筋肉すごくね……!?」

普段は猫背でひねくれた姿勢をとっているため全く気づかれないが、いざシャツを脱いでみれば、無駄な脂肪が削ぎ落とされ、それでいて必要最低限の筋肉が美しく引き締まった、いわゆる見事な「細マッチョ」の肉体がそこにはあった。川崎を軽々とお姫様抱っこできたのも、決して気のせいではなく、この日々の鍛錬の成果なのだ。

「え? いや、まあ……」

俺が少し気まずそうに目をそらすと、運動部の男子たちが我先にと詰め寄ってきた。

おい、比企谷、お前隠れて筋トレとかしてんのかよ!?」「すっげえ綺麗な逆三角形じゃん、腹筋とか綺麗に割れてるし……! 一体どんなトレーニングしてんだよ!」

矢継ぎ早に飛んでくる質問に、俺はめんどくさそうに頭をポリポリとかきながら、適当にぶっきらぼうに答えた。

「……別に、大したことじゃないぞ。ただ、最愛の妹・小町が万が一の時に変質者に絡まれたりしたら困るからな。兄として不審者を一撃で物理的に排除できるように、格闘技は一通りマスターしただけだ。……まあ、我流の素人レベルだけどな」

「素人の身体つきじゃねぇよ!!」

男子生徒の一人が盛大にツッコミを入れた。

「不審者一撃で排除って、お前どんだけシスコン……いや、待てよ、めちゃくちゃカッコいいじゃねぇか……!」

「マジか、格闘技とかやってるのかよ……! ちくしょう、普段あんなにひねくれてるクセに、なんかズルいぞ!」

俺の適当な言い訳など誰も信じず、むしろ「妹を守るためにガチで肉体を鍛え上げた兄」という謎の美談に勝手に変換され、男子たちの間で妙な熱気がムクムクと湧き上がってきた。

「……おい、お前ら」

教室の端で、さっきまでスマホをいじっていた一人の男子が、ゴクリと生唾を飲み込んで立ち上がった。

「俺たちもさ……このままでいいのか? 比企谷があんなに隠れマッチョでかっこいい背中してのに、俺たちがプヨプヨのままでいいわけなくないか……?」

「……たしかに」

「俺も最近、ちょっとお腹が出てきた気がする……」

「よし、今日から部活のあと、俺も筋トレ始めるわ!」

「俺もプロテイン買う!!」

なぜかクラスの男子たちの間に、謎の「筋トレブーム」がその場で急速に爆誕した。

「お前ら、グラウンド行くぞ――!!」と、謎のモチベーションに満ち溢れた男子たちが、雄叫びを上げながら一斉に更衣室を飛び出していく。

取り残された俺は、Tシャツを頭から被りながら、遠い目をして小さくため息をついた。

「……いや、俺はただ平穏に生き延びたいだけなんだが……なんでクラスの男たちが勝手に戦闘民族化し始めてるんだよ……」

俺の高校一年生の日常は、不可解な筋肉の連鎖を引き連れながら、今日も今日とてカオスな方向へと全力疾走していくのだった。

 

短編小説:禁断のサイゼリヤ会議、あるいは「保存された一枚」

体育の授業前の更衣室で起きた「謎の筋トレブーム」の余波は、男子の間だけに留まらなかった。

更衣室の窓から、あるいは隙間から、偶然その引き締まった肉体を目撃してしまった女子たち――川崎沙希、由比ヶ浜結衣、三浦優美子、そして海老名姫菜の4人は、放課後、いつの間にか見慣れたサイゼリヤのボックス席に集まっていた。

「……ちょっと、待ってよ」

ドリンクバーのペプシをストローで突きながら、三浦優美子が頬杖をつき、目の前のテーブルをじっと睨みつけた。その顔は、ほんのりと朱色に染まっている。

「なによ、あいつ……普段あんなにひねくれてて、猫背でモブっぽいのにさ……シャツ脱いだら、あんなに……なんていうか、ズルくない!?」

「わかる……!」

由比ヶ浜が両手で自分の真っ赤な頬を挟み、机に突っ伏した。

「あんなの反則だよ! 朝のキスとか、保健室のお姫様抱っことか思い出して、なんかもう直視できないっての……!」

その向かいで、川崎沙希は自分のコップの縁を指でぐるぐると撫でながら、耳までトマトのように真っ赤に染めていた。

(……たしかに、あの背中、抱き上げられたときのガッチリした体幹とか……思い出すだけで、頭がおかしくなりそうになる……っ!)

そんな三人を見て、海老名姫菜はレンズの奥の目をギラギラと輝かせ、両手を組んで身をよじらせていた。

「ふへへ……最高だね、最高すぎるよ……! ガリガリに見えて実は仕上がってる細マッチョ、しかも『妹を守るための戦闘ボディ』っていう設定のスパイスが効きすぎて、私の脳内妄想ライブラリが完全にオーバーヒートしちゃうよ……っ! あんなの、全女子が100パーセントそそられちゃうに決まってるじゃん……!」

4人の熱のこもった「八幡の肉体談義」が最高潮に達していたその時だった。

「――そこに混ざれないのは、少し不公平なんじゃないかしら」

「「「「え……?」」」」

スッと冷徹で、けれどどこか聞き覚えのある美しい声が降ってきた。

声の主を見上げると、そこにはいつの間にか席の隣に立っていた雪ノ下雪乃がいた。彼女の顔もまた、微かに耳のあたりが赤らんでいるが、その琥珀色の瞳には見逃せない対抗心がギラリと燃え盛っていた。

「ゆ、ゆきのん……!?」

「あなたたちだけ盛り上がっているなんて、ねえ?」

雪乃は優雅に、けれど強引に空いていた席に腰を下ろした。氷の女王もまた、あの日の弁当の件以来、彼の内側に秘められた「男の一面」を嫌というほど意識させられていた一人なのだ。女子たちの秘密の談合は、ここに完全なる「主要ヒロインのフルメンバー」によるサミットへと変貌した。

「……で、話の続きはどうなのかな?」と雪乃が涼しい顔で紅茶のメニューを開いた、その瞬間だった。

ピロリン♪

テーブルの上に置いてあった、三浦優美子のスマホが軽快な通知音を鳴らした。

「ん? なんだろ、男子のグループチャット……?」

三浦が面倒くさそうに画面を開いた瞬間――彼女の動きが、ぴたりと凍りついた。

送られてきたのは、体育の準備室の隙間から、クラスの男子がこっそり隠し撮りしたらしい――見事な逆三角形に引き締まった、比企谷八幡の上半身裸体の写真だった。

「っ……!? な、ななにこれ……っ!?」

三浦が文字通りひっくり返りそうな勢いで声を上げた。

そのただならぬ様子に、由比ヶ浜、川崎、海老名、そして雪乃の視線が一斉にスマホの画面に突き刺さる。

「ひゃっ……!?」

「なっ、なんだこれ……っ!」

「ぶっ……! これは国宝級の資料(エビデンス)……!」

「……っ、ふ、不謹慎極まりないけれど……!」

画面に映し出された生々しいまでの「細マッチョ」の肉体と、無防備にタオルを首にかけた八幡の横顔。

その破壊力は、サイゼリヤのボックス席の空気を一瞬で真空にした。

言葉を失い、全員が顔を真っ赤にして固まる中――最初に動いたのは、なぜか三浦だった。

彼女は「……っ、どうせすぐ消去されるなら、証拠として残しておいてあげるんだからね……!」と早口で言い訳を呟きながら、震える指でソッコーと「画像保存」を押した。

その瞬間、堰を切ったように、隣にいた由比ヶ浜が「あ、ずるい私も!」と慌てて保存し、川崎も顔を真っ赤にして画面を連打し、海老名は「保存完了! 永久保存版フォルダ行き決定!」とガッツポーズを決め、最後に雪乃までもが、誰にも見られないようにそっと、しかしものすごい速さで自分のスマホにその画像を保存していた。

数秒後。

全員が何食わぬ顔でスマホを裏返し、ものすごい気まずい静寂がサイゼリヤの席を包み込んだ。

「……で、でもさ!」

由比ヶ浜が真っ赤な顔で無理やり話題を切り替えた。

「こ、こんな写真が出回るなんて、ハッチー絶対後で怒るよね!」

「そうよ……! あんな無防備な姿を晒して、まったく、危機感というものを持ち合わせていないのかしら……!」雪乃もふんと顔をそむけながら、スマホの保存フォルダをそっと覗き見した。

彼の知らぬところで、その「危険すぎる肉体の証明」は、今や主要ヒロイン全員のスマホの厳重なセキュリティの向こう側に、しっかりと保管されてしまったのだった。

 

短編小説:密かなる夜の代償、あるいは翌日の視線

昨日の夜――サイゼリヤでの密談のあと、それぞれの自室のベッドの上で起きた惨劇について、当事者である比企谷八幡は知る由もなかった。

スマホの画面に保存された、あの引き締まった細マッチョの肉体。

無防備な横顔、不意に見せた男らしい背中、そして保健室で見せつけた体温の記憶。

「まさか、こんなものに……」という理性のブレーキは、昨夜の熱気と暴走した妄想の前にあっさりと粉々に砕け散り、気がつけば彼女たちはそれぞれに、その禁断の画像を見つめながら自らの手で甘く切ない夜を過ごしてしまっていたのだった。

そして、迎えた翌朝。

学校の廊下や教室は、いつも通り平穏なはずだったが――そこには、言いようのない異様な空気が漂っていた。

俺――比企谷八幡は、登校するなり「なんか今日の女子、やけに目を合わせてこなくないか?」と首をかしげていた。

例えば、由比ヶ浜結衣。

普段なら「はーちゅー!」とテンション高く近づいてくるはずが、今朝は昇降口で俺の姿を見た瞬間、全身をビクッと硬直させ、顔をトマトのように真っ赤に染め上げたまま、一言も発せずに超特急で反対方向へと逃げ去っていった。

「……なんだあいつ。朝から反抗期か?」

さらに、生徒会室の廊下ですれ違った雪ノ下雪乃もそうだ。

いつもなら冷徹な視線や的確な皮肉を飛ばしてくるところが、なぜか今日の彼女は、俺と目が合った瞬間にパッと顔を背け、耳の先まで真紅に染め上げながら、ものすごい早歩きで通り過ぎていった。すれ違う時に、かすかに聞こえたのは「な、なんでもないわよ、不意打ちしないでちょうだい……!」という上擦った呟きだけである。

クラスに戻れば戻ったで、さらに奇妙なことが起きていた。

川崎沙希は自分の席に座ったまま、顔を教科書で完全に隠して微動だにしない。三浦優美子にいたっては、遠くから俺の姿をチラッと視界に入れただけで、「っ……! み、見ちゃダメよバカ……!」と自らのデスクに突っ伏して頭を抱えていた。

(……おいおい、一体どうなってんだよ)

俺は自分の席にどっかりと腰を下ろし、深い溜息をついた。

昨日は昨日でクラスの男子が急に筋トレブームとか言い出してグラウンドを走り回っていたし、今日は今日の Administração(アドミニストレーション)で女子たちが一斉に目を合わせてこない。

「……まあいい。俺の顔なんか見ないで済むなら、その方が平穏でモブらしい極上のスクールライフってやつだ」

そう自分に言い聞かせ、俺は机に突っ伏して現実逃避を決め込もうとした。

だが、その背後で――スマホのカメラロールに昨夜の「禁断の画像」をしっかりと収めた彼女たちが、真っ赤な顔でお互いに目を合わせられずにいることなど、知る由もなかったのである。

俺の高校一年生の日常は、知らぬ間に夜の妄想までをも巻き込みながら、今日も今日とてシュールに暴走し続けているのだった。

 

短編小説:筋肉の伝染病、あるいは「全員所持」の悲劇

昨日の放課後に起きた「秘密の夜の儀式」から一夜が明け、学校全体がどこかおかしな熱気に包まれていた。

俺――比企谷八幡が登校して教室の戸を開けた瞬間、まず目に入ってきたのは、昨日までインドア派だったはずのクラスメイトたちが、なぜか机に向かって謎のダンベル運動(あるいはエア腕立て伏せ)に勤しんでいる光景だった。

「お、おい比企谷……! お前、昨日帰ってからプロテイン何グラム飲んだ!?」

「いや、プロテインじゃなくて鶏肉だろ! 今朝も胸肉200グラム食ってから登校したぜ!」

昨日、俺の裸体を見た男子たちが完全に感化され、クラス全体が謎の「戦闘民族化」を遂げていた。

「お前らのその無駄な向上心を、もう少し数学のテストに向けてくれないか」と心の中で盛大なツッコミを入れつつ、俺は自分の席へと足を運んだ。

だが、クラスの奇妙な空気は男子だけに留まっていなかった。

むしろ、女子たちの様子は昨日からさらに拍車がかかっておらず、やけに視線を感じるのに、こちらが向こうを見ると全員一斉にパッと顔を背けるという、徹底した「目を合わせないストリートファイト」が繰り広げられていた。

(……なんだこれ。俺の顔に何かついてるのか? それとも昨日の今日で、俺が歩く人体地雷原みたいになってるのか?)

当然、俺が知る由もない事実がそこにはあった。

あの準備室で男子が隠し撮りし、三浦を経由して主要ヒロインたちのスマホに収まった「あの写真」は、昨夜の間にクラス中の男子から女子へと凄まじいスピードで拡散され、もはや「クラスのほぼ全員が比企谷八幡の上半身裸体画像をなぜか所持している」という、前代未聞のシュールすぎるパンデミックを引き起こしていたのだ。

窓際の席で、由比ヶ浜結衣は自分のスマホの画面(もちろん厳重なロック付きフォルダ)をこっそり開き、そこに映る引き締まった肉体をチラ見しては「うわあああ、また見ちゃったよ……!」と顔を真っ赤にして机に頭を打ち付けている。

少し離れた席では、雪ノ下雪乃が教科書で顔を必死に隠しながら、「……まったく、品性の欠片もない写真なのに、なぜみんなこんなものを……」と言いつつ、自分のスマホの保存履歴を消去すべきか葛藤していた。

川崎沙希も、三浦優美子も、そしてクラスの他の女子たちも男子たちも、誰も彼もが心の中で「比企谷八幡の筋肉」を共有しているという、地獄のような、あるいは極上のカオス。

当事者である俺は、そんなクラス全体の異様な挙動にただ背筋を凍らせながら、「……やっぱり、この学校は何か強力な電波塔でも建ってて、全員の脳味噌を狂わせてるに違いない」と結論づけ、そっと机に突伏して現実逃避をキメ込むしかなかった。

俺の高校一年生の日常は、本人の知らぬところで「学年全員のスマホの待ち受け(になりかけている)男」という、絶対に知ってはいけない伝説をまた一つ、着実に積み上げていくのだった。

 

短編小説:職員室の機密情報、あるいは「教育的指導」の限界

クラス全体が「比企谷八幡の筋肉画像」の秘密の共有によって奇妙な連帯感と羞恥心に包まれていたその日の昼休み。

俺――比企谷八幡は、提出物の不備という相変わらずのモブムーブをかますために、仕方なく職員室へと足を運んでいた。

「……失礼します」

重い引き戸を開けて中に入ると、国語の教卓のあたりから何やら不穏なひそひそ声が聞こえてきた。

覗き込むとそこには、平塚静が腕を組み、険しい顔でスマホの画面を凝視している姿があった。その傍らでは、若い体育教師が冷や汗を流しながら頭を下げている。

「まったく……! 最近の生徒は何を考えているんだ!」

平塚先生の低く響く怒声に、職員室の空気がピリッと引き締まる。

(お、なんだ。またどこかのクラスで重大な校則違反でも発覚したのか?)

他人事のように思いながら、俺はトボトボと平塚先生の机に近づいた。

「……平塚先生、例のプリント持ってきましたけど」

「お、比企谷か。ちょうどいいところに来た」

平塚先生は鬼のような形相でスマホの画面を俺に向け……いや、待て。その画面に映っているのは、見覚えがありすぎる、見事な逆三角形に引き締まった俺の上半身裸体ではないか。

「……なっ」

「見てみろ、これだ!」平塚先生は憤然として机をドンと叩いた。「最近、生徒の間で出回っているらしい変態的な隠し撮り写真だがね、あろうことか、若手教師のグループチャットにまで流出していたのだ! 教育者として、風紀を乱すこういう不謹慎な画像は、即座に削除して厳重注意せねばならん!」

「いや、本当にすみませんでした……!」と、隣で体育教師がガタガタ震えている。

平塚先生は激怒しながらも、スマホの画面を自分の顔のすぐ近くまで引き寄せ、真剣な表情でその写真をじっと見つめた。

「ふむ……どれどれ、どれほど不謹慎で教育上よろしくないものか、大人の目でしっかりと精査してやらねば……」

職員室の静寂の中、平塚先生は指をスワイプさせ、写真を拡大し、あまつさえ「……ほう、これだけの密度を維持するには、相当な体幹トレーニングが必要だな……」「いや、しかしこれは確かに、多感な時期の生徒が見たら刺激が強すぎるかもしれん……」と、ブツブツ独り言を呟き始めた。

そして――数秒後。

平塚先生の指が、画面の隅にあるアイコンをトントンと正確にタップした。

カシャッ(消音カメラの小さな効果音)

「よし……証拠物件としての保存完了、と」

平塚先生は、何食わぬ顔でスマホをスッと自分の白衣のポケットにしまい込んだ。

そして、一瞬だけ気まずそうにゴホンと咳払いをしたあと、いつもの豪快な笑顔(を取り繕った顔)に戻り、俺の方をピシッと向いた。

「コホン! というわけだ、比企谷! 男といえど、自分の肉体を軽々しく他人に見せるような無防備な真似は慎みなさい! いいな!」

「いや、俺は勝手に隠し撮りされて被害者なんですけど……ていうか、先生、今しがた『証拠物件』としてガッツリ保存しませんでした?」

「なっ、何を言うか! 教師が生徒の不祥事の証拠を保全するのは当然の業務だ!」

平塚先生は耳のあたりをわずかに赤らめながら、声のトーンを一段階上げてごまかした。

「……はあ」

俺が遠い目をしてため息をつくと、平塚先生は気まずそうに視線をそらし、ボソッと呟いた。

「……しかし、なんだ……その、良い身体をしているじゃないか、まったく……」

教師の倫理観と、隠しきれない年頃の(?)好奇心の狭間で、綺麗にダブルスタンダードをキメた平塚先生の姿を見て、俺は自分の画像がもはや生徒だけでなく職員室の牙城まで完全に陥落させたことを悟り、そっとその場から後ずさるように退室したのだった。

俺の高校一年生の日常は、校内のあらゆるセキュリティをすり抜け、今日も今日とてシュールな伝説を拡大させ続けている。

 

短編小説:美術部の野望、あるいは「芸術」という名の免罪符

職員室での恐怖の「証拠保全」事件から数日後。

俺――比企谷八幡は、放課後の廊下を歩いていたところで、突如として背後から現れた海老名姫菜にガシッと腕を掴まれた。

「比企谷くん、ちょっと急ぎで話があるの! 私の命と、今後のオタクライフを左右する重大なミッションなんだ!」

「急に宗教の勧誘みたいなテンションで来るな。あと腕を引っ張るな、肩が外れる」

半ば引きずるようにして連れて行かれたのは、校舎の奥にある美術室だった。

ガチャリと扉を開けた瞬間、室内にいた数人の美術部員(全員、メガネの奥に変な光を宿した腐女子たちの精鋭)が一斉にこちらを振り返った。その異様な熱気に、俺は思わず後じさりそうになった。

「き、来た……! 本物の、比企谷くんだ……!」

「お腹から胸にかけての筋肉の密度、完璧な逆三角形……これぞまさしく現代のダヴィデ像……!」

「ちょ、おまっ……何言ってるんだ、お前ら」

俺がドン引きしていると、部長である海老名がフッと不敵な笑みを浮かべ、俺の前にパンフレットを突き出した。

「実はね、比企谷くん。次の高文祭(全国高校総合文化祭)の出品作として、ウチの部で本格的な人物デッサン画を描くことになったのよ。で、モデルを探してたんだけど……生半可なモブの体じゃ、どうしても『生きた線』が描けないの! だから、あなたのあの完璧に仕上がった細マッチョの肉体を、ぜひとも美術部に貸してほしいの!」

「断る。なにがダヴィデ像だ、俺はただの自堕落な陰キャだ。だいたい、なんで俺の体のこと知ってんだよ、お前らどこで情報仕入れてやがる」

「そんなの、クラスのチャット欄に落ちていた尊い文化遺産(エビデンス)に決まってるでしょ!」

美術部員たちが一斉にブンブンと首を縦に振る。

「お願い、比企谷くん! 服の上からじゃ骨格の起伏が分からないの! 上半身裸……いや、せめて上半身まで、いや、布一枚のドレス(?)なら……!」

「上半身裸なんて絶対無理だ。警察沙汰になるわ。どうしてもって言うなら……まあ、タンクトップか、せいぜい上半身まで(ただしワイシャツのボタンを少し開ける程度)の限定的なやつなら、モデル代なしのボランティアで妥協してやる」

俺がそう条件を出すと、美術部員たちは「くっ……贅沢は言えない、でも顔がいいから許す!」「むしろその制限された露出の方が背徳感があってエモい……!」と、謎の納得の仕方をしながらガッツポーズを決めた。

「よし! 条件は飲んだわ、比企谷モデル! さあ、ポーズをとって!」

逃げ道を完全に塞がれた俺は、諦めて特設されたステージの上にどっかりと腰を下ろした。

ワイシャツのボタンを鎖骨あたりまでラフに開き、腕を組んで、できる限り「死んだ魚の目」で遠くの天井を見つめる。

その瞬間――。

美術室の空気が、パァァッと色めき立った。

「ひゃっ……! 見て、あの鎖骨から胸筋にかけての陰影……!」

「やばい、語彙力が消滅する……。これが芸術の力……!」

「ねえ、ちょっと待って……私、今すごく……股間がちょっと湿ってきたんだけど……」

「わかる……! 芸術のためだと言い聞かせないと、理性と尊厳がマッハで崩壊する……!」

室内に響く、女子たちの生々しい歓声と、鉛筆が紙を狂ったように走るサラサラという物凄い音。

俺はステージの上で、「俺はいま、ただの無機質なマネキンだ……石膏像なんだ……」と必死に自己暗示をかけながら、永遠に終わらないようなデッサンの時間を耐え抜くししかなかった。

俺の高校一年生の日常は、本人の預かり知らないところで「芸術(エロ)」の領域へと足を踏み入れ、今日も今日とてシュールな伝説をキャンバスに描き殴り続けているのだった。

 

短編小説:美術室の乱、あるいは「筋肉の無駄遣い」

比企谷八幡が美術室のステージ上で「ただの石膏像」になりきり、無機質な視線を天井へと彷徨わせていたその時――。

ガラッ!!!

突如として美術室の頑丈な引き戸が盛大な音を立てて全開になった。

そこに立っていたのは、爽やかな汗を光らせ、なぜかユニフォームの裾をまくり上げたサッカー部のエース――葉山隼人と、その背後で妙に気合の入った表情を浮かべる戸部翔だった。

「ちょ、ちょっと待ったぁーーーっ!!」

戸部の叫び声に、美術部員たちの鉛筆の音がピタリと止まる。

静まり返った室内に足を踏み入れた葉山は、爽やかな笑顔を崩さないまま、しかしその琥珀色の瞳には妙な対抗心をギラつかせてステージのすぐ下へと歩み寄った。

「比企谷だけがいい思い……じゃなくて、美術部の芸術活動に協力するなんて、クラスメイトとして見過ごせないだろ? サッカー部で毎日泥まみれになって鍛え上げられた俺たちの肉体だって、デッサンのモデルくらいには十分役立つはずだ」

「おうよ! 比企谷の野郎だけいいカッコさせねぇからな! 見せつけてやるぜ、俺たちの青春の筋肉をよぉ!」

そう叫ぶやいなや、葉山と戸部は「せーのっ」とばかりに自分のシャツをガバッと頭の上まで引っぺがした。

――ザワッ……!!

美術室の空気が、別の意味で一瞬にして沸騰した。

サッカー部の厳しい練習で完全に絞り込まれ、太陽に焼かれた黄金色の肌を持つ葉山の見事な肉体と、日頃からそれなりに運動している戸部の引き締まった上半身が、夕日に照らされて露わになる。

「ひゃああああああっ!? は、葉山くんまで……っ!?」

「ま、待って、目の保養のバーゲンセールじゃん……! 誰か私に酸素マスクを……っ!」

美術部員たちが一斉に黄色い悲鳴を上げ、さっきまで八幡をスケッチしていた鉛筆が、今度は完全に別のターゲット(主に葉山)へと狂ったように走り始めた。

だが、騒ぎはそれだけにとどまらなかった。

「「なんだ、あっちでなんか面白いことやってるぞ!?」」

噂を聞きつけたのだろう。放課後の廊下を通りかかった他のクラスの生徒たちが、美術室の窓や開け放たれた入り口へと、蟻の群れのように次から次へと押し寄せてきたのだ。

気づけば、美術室の周囲は「比企谷の細マッチョ」「葉山の王道スポーツマンボディ」「戸部の謎の気合」を生で見物しようとする大勢の観客で黒山の人だかりと化していた。

「おいおい……なんだこの人混みは。文化祭の模擬店かよ……」

ステージの上でタンクトップ(に近い状態)のまま固まっていた俺は、外の廊下からスマートフォンを構える野次馬たちの姿を認め、そっと頭を抱えた。

「いやぁ、比企谷。こうして並んでみると、お前もなかなかいい身体してるじゃないか」

涼しい顔で隣に並び立った葉山が、爽やかに笑いながら耳打ちしてくる。

「何言ってんだ、お前はさっさと服を着ろ。これじゃあ俺の地味なモブ生活が完全に崩壊するだろ」

「はは、いいじゃないか。たまにはこういうのも青春ってやつさ」

ステージの上で爽やかに笑うスクールカーストの頂点と、絶望した顔で天井を見上げるひねくれ者、そしてその横で妙にポーズをキメ続ける戸部。

美術室はもはや本来の目的を完全に忘れ去り、謎の「筋肉博覧会」という名のカオスな空間へと変貌を遂げていたのだった。

俺の高校一年生の日常は、今日も今日とて、意図せぬ大観衆を巻き込みながら、音速でシュールな方向へと暴走し続けている。

 

短編小説:文化祭の異変、あるいは「伝説のダヴィデ像」

美術室で突如として勃発した「筋肉博覧会」から数週間後。

秋の気配が色濃くなり、総武高校全体が「文化祭」ムード一色に染まり上がっていた。各クラスや部活が趣向を凝らした展示の準備に追われる中、美術部が展示する特設ギャラリーの前には、連日、全校生徒を巻き込んだ大行列ができていた。

その原因こそが、あの日の放課後に描かれた――「比企谷八幡・上半身デッサン(限定解除ver.)」だった。

「……なぁ、ちょっと待て。これ、マジで俺か?」

文化祭の一般公開前、こっそり見学にやってきた俺――比企谷八幡は、展示室のど真ん中に鎮座する巨大なキャンバスを目の当たりにして、その場で完全に硬直していた。

描かれていたのは、鎖骨から胸筋にかけての美しく生々しい陰影と、無造作に開けられたワイシャツの隙間。そして、何よりもその「死んだ魚の目」でどこか冷徹に遠くを見据える、絶妙なアンニュイさのコントラストだった。

横には葉山や戸部の健康的な筋肉画も並んでいたが、なぜか俺の絵だけが、美術部員たちの狂気的な執念と全人的な情熱によって、劇画チックかつ圧倒的な色気を放つ「奇跡の傑作」に仕上がっていた。

「ふふふ……どうよ、比企谷くん!」

背後から、不敵な笑みを浮かべた海老名姫菜が腕を組んで現れた。その眼鏡のレンズがキラリと怪しく光っている。

「名づけて、『放課後の憂鬱、あるいは静寂の肉体美』! 部内で満場一致の最高評価を獲得し、今年の文化部展示のメインビジュアルに大抜擢されたわ!」

「頼むからそのタイトルをやめてくれ、恥ずかしさで胃に穴が空く。っていうか、こんなもん全校生徒に見られたら、俺のスクールライフの残り香すら完全に消し飛ぶんだが……!」

俺が頭を抱えている横を、通りすがりの女子生徒たちがキャーキャーと黄色い声を上げながら通り過ぎていく。

「ねえ、見た!? あの比企谷くんの絵、なんかめちゃくちゃエロカッコよくない……!?」

「やばい、生で見ると破壊力がエグい……。なんあのアンニュイな目つき……保存した写真より実物の方が何倍も尊いんだけど……!」

「文化祭のパンフレットの表紙もあれに決まったらしいよ!」

「……は?」

俺が耳を疑うような単語を聞き取った瞬間、海老名は「そうなのよ!」と満面の笑みで親指を立てた。

「すでに校内のインスタ垢や各種SNSで写真が爆速で拡散されてさ、『総武高の隠し秘宝』『令和のダヴィデ像』とかバズり散らかして、他校からも見学者の予約が殺到してるんだから!」

自分の知らぬところで、俺の肉体(と美術部の暴走した画力)は、もはや校内を飛び越えてちょっとしたネットミームと化していた。

その様子を、少し離れた廊下の角からじっと見つめている影があった。

由比ヶ浜は自分の頬を両手で押さえながら「も、もう隠し撮りしなくても学校中にバレちゃってるじゃん……!」と真っ赤になり、雪乃は「……まったく、品性の欠片もない騒ぎね」と言いつつ、自分のスマホの待ち受け画面に設定されているその絵の写真をそっと二度見して耳まで赤く染め上げていた。

校内の至るところで俺の絵が飾られ、誰も彼もがスマホを片手にざわめいているこの状況。

俺はもう諦めたように深く深くため息をつき、静かにその場から立ち去ろうと踵を返した。

俺の高校一年生の日常は、平穏とは程遠い「バズる肉体」という名のカオスを背負ったまま、文化祭という名の巨大なフェスティバルへと突入していくのだった。

 

短編小説:文化祭の狂騒、そして「イケメン三銃士」の誕生

文化祭のメインビジュアルに抜擢された比企谷八幡のデッサン画が爆発的なバズを引き起こしたその余波は、当然のように、あの日の美術室に乱入した男たちにも容赦なく降りかかった。

並み居る美術部員たちが血眼になって描き上げたのは、八幡だけではない。

その隣には、サッカー部で鍛え上げられた黄金色の肌と爽やかな笑顔を完璧に捉えた葉山隼人の「王道王子様系デッサン」と、なぜか筋肉の陰影が無駄にリアルかつ劇画タッチで誇張された戸部翔の「熱血漢系デッサン」が、堂々と並べて掲示されていたのだ。

――結果は、言うまでもない。

「キャーーーーッ!! 葉山くんの絵、美しすぎでしょ……! これもうルーブル美術館でしょ……!」

「待って、戸部の絵もなんかじわじわ来るけど、腹筋のラインがガチすぎて草。でもちょっとかっこいい……!」

文化祭の一般公開が始まると同時に、美術部の特設ギャラリーは、黄色い声を上げる女子生徒たちや他校からの見学者で足の踏み場もないほどの超満員と化した。

もはや「比企谷八幡の隠し秘宝展」であったはずの空間は、いつの間にか「総武高校イケメン三銃士(筋肉の部)」のファンミーティング会場のような様相を呈していた。

廊下の隅で、その大盛況の様子を遠巻きに眺めていた俺――比企谷八幡は、ぐったりと肩を落として壁に背中を預けていた。

「おいおい……なんだあの人混みは。アイドルの握手会かよ」

「まったくだな、比企谷。まさか僕の絵があんな風にファンシーに……いや、劇的に描かれるとは思っていなかったけれどさ」

いつの間にか隣にやってきた葉山が、どこか苦笑いを浮かべながら爽やかにそう言った。その制服の襟元には、すっかり見慣れた感はあるが、どこか誇らしげな「美術部ファンからの差し入れのクッキー」がなぜかピンで留められている。

「いや、お前はもともと校内のアイドル枠だろ。問題なのは、なんで俺までその巻き添えを食らって連帯責任みたいにファンを増やしてんだよ。昨日は下駄箱に謎のチョコとプロテインの詰め合わせが入ってたぞ」

「ははっ、いいじゃないか。比企谷の人気もうなぎ登りってことさ。SNSの『総武高のダークホース・比企谷くんを語るスレッド』とか、今や連日レス数がカンストしてるらしいよ」

「……ネットの海原に沈めてくれ、今すぐに」

俺が本気で頭を抱えていると、さらにその背後から、戸部が「いやぁ〜、マジでビビったぜ!」と声を弾ませてやってきた。

「なんかさっき、他校の女子に『戸部くん、腹筋のタッチが最高でした!』ってサインねだられちゃったよ! 俺、ついにモテ期きちゃったんじゃないか!?」

「よかったな、その調子で来年は筋肉の神様として崇められてこい」

俺が冷ややかな目で相槌を打つと、戸部は「いやいや、一番人気はやっぱり比企谷の『退廃的なエロス』だからさぁ!」と、これまた余計な太鼓持ちスキルを発揮してニヤニヤ笑った。

その騒ぎを、少し離れた場所からじっと観察している一団がいた。

由比ヶ浜は自分の頬をパタパタと仰ぎながら「なんか、ハッチーがどんどん遠い存在になっていく気がする……!」と焦りを見せ、雪乃は腕を組みながら「……まったく、品性の欠片もない騒ぎに油を注ぐような真似を……」と呟きつつ、ちゃっかり自分のスマホの待ち受けをそのデッサン画に固定したまま微動だにしていなかった。

文化祭の熱気は最高潮を迎え、校内のあちこちで「筋肉」と「ファン」の渦が巻き起こる。

俺の高校一年生の日常は、平穏の二文字を完全に置き去りにしたまま、盛大に、そしてシュールにバズり続けていくのだった。

 

短編小説:文化祭のフィナーレ、あるいは「10万円の独占権」

文化祭の熱気が最高潮に達し、生徒や来場者たちの活気で校内が揺れる中、特設ギャラリーでは今年の文化祭を締めくくる一大イベント――「文化部作品オークションおよびチャリティ募金」が開催されていた。

ステージの上には、美術部が誇る数々の傑作が並べられている。

そのトリを飾るべく、司会の生徒によって厳かに台車から運び出されたのは、もちろんあの「伝説のデッサン画」――比企谷八幡の『放課後の憂鬱、あるいは静寂の肉体美』であった。

「さあ、続きましての出品は、今年度ネットでも大バズり! 総武高の隠し秘宝、比企谷くんの肉体美を完全再現したこの特等デッサン画です! チャリティ開始価格、一万円から――!」

会場の空気が、一瞬でピリッと引き締まった。

「おおっ……! ついにきたぞ……!」

「あれを生で見られる最後のチャンスだ……!」

ざわめく観客席。野次馬たちの期待が最高潮に達する中、最前列の特等席でその絵をじっと見上げていた一人の美女が、ピクリと動きを止めた。

――雪ノ下陽乃。

彼女は、妹の文化祭に遊びに来たという建前のもと、ギャラリーの最前列に陣取っていた。

目の前に掲げられた、あのアンニュイな目つきと生々しい筋肉の陰影を捉えたキャンバスを見た瞬間、陽乃の琥珀色の瞳が大きく見開かれた。

(……うそ、なにこれ……。想像の何倍も、際どくて……エロいじゃない……っ!)

シュッとした鎖骨、引き締まった胸筋、そしてどこか冷めたモブの顔。その絶妙なギャップの破壊力は、大人である陽乃の心臓をも直撃した。

コンマ数秒後、陽乃の鼻の奥が熱くなり、危うく盛大に鼻血を吹き出しそうになったのを、彼女は必死の形相で手元のハンカチで押さえ、間一髪で理性の一線を死守した。

(やばい……あれを私の部屋の特等席に飾ったら、毎晩の楽しみが無限に増えちゃう……! 絶対に、絶対に誰にも渡さない……っ!)

「さあ、一万円からスタート! どなたかご入札は――!」

「「「二万!」「五万!!」」」

すぐさま生徒たちから威勢のいい声が上がるが、陽乃はふっと不敵で美しい笑みを浮かべ、優雅に、しかし誰をも威圧するような圧倒的なスピードで手を挙げた。

「十万」

会場の空気が、完全に凍りついた。

「じ、十万……!? いち、十万円ですか……!?」

司会の生徒がひっくり返りそうな声で叫ぶ。

ギャラリーのどよめきが一瞬にして静まり返り、誰もがその桁違いの金額と、発言主の顔を確認するために息を呑んだ。

「……っ! ちょっと、お姉様……!?」

客席の少し後ろ、由比ヶ浜やクラスメイトたちと一緒に固まっていた雪ノ下雪乃が、信じられないものを見る目で立ち上がり、叫んだ。

雪乃もまた、あの絵を密かに手に入れて自分の部屋の奥底(誰にも見られない場所)に封印しようと虎視眈々狙っていたのだ。まさか、実の姉が文字通り「札束で殴る」という暴力的な手段に出るとは夢にも思っていなかった。

「ふふっ、雪乃ちゃん。そんなに驚いた顔をして」

陽乃は優雅に振り返り、余裕綽々な笑みを浮かべて妹にウインクしてみせた。

「チャリティ募金への貢献よ。それに、これだけの芸術作品(お宝)をただの高校生の遊びで終わらせるのはもったいないでしょ? 私が責任を持って、我が家の最も神聖な場所に飾らせてもらうわ」

「なっ……! そんなの反則よ! お金にものを言わせて強奪するなんて、大人の汚いやり方だわ……!」

雪乃は顔を真っ青に、いや、悔しさと恥ずかしさでカッと朱色に染めながら、ぎりっと歯噛みした。手元にはしっかりとお小遣いをかき集めた財布があったが、さすがに一瞬で「十万円」を提示されたら太刀打ちできない。

「あら、大人の財力で殴るのが一番確実なのよ?」

余裕の笑みを崩さない陽乃に対し、雪乃は「くっ……!」と悔し涙を浮かべそうになりながら、自分のスマホの待ち受け画面に設定されたその絵をギュッと恨めしそうに睨みつけた。

「さ、他に十万を超える入札は……? ないようですね! では、十万円レッドカード……じゃなくて、落札者、雪ノ下陽乃様に決定です――!!」

ガチャン、とハンマーが鳴り響く。

こうして、比企谷八幡の「伝説のデッサン画」は、最終的に陽乃の分厚い財布の厚みによって見事(?)に落札され、彼女の私室へと連れ去られることが決定したのだった。

その一部始終を、会場の隅でこっそり目撃してしまった俺――比企谷八幡は、冷や汗をダラダラと流しながら、静かにその場から後ずさるように逃げ出した。

俺の高校一年生の日常は、チャリティの善意(?)と狂気に包まれながら、今日も今日とて予測不能なカオスの中を突っ走っていくのだった。

 

短編小説:姉の正論、あるいは「冷静と情熱のあいだ」

十万円という圧倒的な暴力(財力)をもって、比企谷八幡の「伝説のデッサン画」を見事に競り落とした雪ノ下陽乃。

会場がどよめきと拍手に包まれる中、陽乃は優雅に微笑みながら、悔しさのあまりプルプルと震えている実の妹――雪ノ下雪乃の方へと振り返った。

「ふふっ、そんなに悔しそうな顔をしなくてもいいじゃない、雪乃ちゃん」

「……っ、お姉様……! 人の心を踏みにじっておいて、よくそんな平然と……!」

雪乃は顔を真っ赤に染め上げ、唇を噛み締めながらキッと陽乃を睨みつけた。お小遣いを貯めて自力で手に入れようという青春の計画を、一瞬にして大人(の財力)に札束で殴り潰されたのだから、怒りと悔しさが湧くのも無理はない。

しかし、陽乃はクスリと余裕の笑みを崩さず、トコトコと雪乃の近くまで歩み寄ると、その耳元にそっと顔を寄せ、意地の悪い、けれど甘ったるい声で囁いた。

「――ねえ、よく考えてみて?」

「……なにをよ」

「我が家に飾るんだから、雪乃ちゃんがそんなに悔しがる必要なんてないじゃない。……うちに遊びに来れば、毎日いくらでも、目の前でゆっくり観られるのよ?」

「…………は?」

雪乃の動きが、完璧にフリーズした。

「……え?」

脳内で、陽乃の言った言葉が反芻される。

『我が家に飾る』=『雪ノ下の実家に飾られる』。

そして、『毎日いくらでも観られる』ということは――。

「……っ!?」

雪乃の脳裏に、自分の家のリビング、あるいは姉の私室の壁に、あの「比企谷八幡の半裸デッサン」が堂々と飾られている光景がフラッシュバックした。

そして、自分が実家に帰省するたびに、あるいはいつでもその絵と正面から(しかも姉の監視付きで)対面させられるハメになるという現実が、音を立てて彼女の背筋を駆け抜けた。

(――ちょっと待って。それって……お姉様に毎日からかわれながら、あの恥ずかしい絵を鑑賞し続けなさいってことじゃない……!? なにそれ、罰ゲームどころか公開処刑のフルコースじゃないっ……!!)

今まで「どうしても欲しい」という執着と「お姉様に奪われた」という悔しさのあまり、そこまで考えが至っていなかった雪乃は、自分がどれほど恐ろしい「爆弾」を実家に持ち帰らせてしまったのかをようやく理解した。

「……っ、あ……っ」

雪乃の顔から、さっきまでの怒りの赤みがサーッと引き、今度は恥ずかしさと己の致命的な思考の浅さに対する絶望で、耳の先までカッと沸騰したような真紅の色に染まっていく。

「ふふ、気づいちゃった? そうよね、毎日私の部屋の特等席で、あの子の引き締まった身体を堪能し放題だなんて、我ながら最高の買い物をしたわぁ」

陽乃はクスクスと楽しそうに肩を揺らし、満足げに微笑んだ。

周りにいたクラスメイトたち――事情をよく分かっていない由比ヶ浜や戸部たちは、「すげぇ、雪ノ下の家ってめちゃくちゃ仲良いんだな、お姉ちゃんが買った絵を見に遊びに行けるんだぜ!」なんて呑気に盛り上がっている。

だが、当事者である雪乃は、あまりの恥ずかしさと頭が真っ白になるような動揺に耐え切れず、持っていたバッグで自分の顔をバッと隠した。

「……う……、うるさいわね……っ! ば、馬鹿じゃないの、そんなもの毎日見たいわけないでしょう……っ!!」

完全に図星を突かれた少女の精一杯の強がりと、あまりの赤面ぶりに、陽乃は「あらあら、可愛いこと」とますます面白そうに目を細めるのだった。

文化祭の狂騒の裏で、姉の鋭い一撃により、雪乃のプライドと冷静さは完全に粉々に打ち砕かれたのであった。

 

短編小説:海老名姫菜の置き土産、あるいは「二番目の宝物」

文化祭のオークション会場が陽乃の圧倒的な「10万円落札」によって凄まじい大団円(?)を迎えたあと。

放心状態のまま立ち尽くしていた雪ノ下雪乃の肩を、背後からスッと軽いタッチで叩く者がいた。

「いやあ、お疲れ様、雪ノ下さん!」

振り返ると、そこには不敵な笑みを浮かべた海老名姫菜が立っていた。彼女の腕には、丸められた一枚のスケッチ用紙がしっかりと抱えられている。

「え……海老名さん? さっきのオークションは……」

「あんなの、一般人(陽乃さん)の財力バトルに巻き込まれて一般兵が全滅したようなもんだからね。気にしないで」

海老名ケラケラと笑いながら、自分の腕からスッとそのスケッチ用紙を引き抜き、雪乃の手にそっと押し付けた。

「これ、あげる」

「……これ、は?」

「本番のキャンバスを描く前に、比企谷くんをモデルにして私がこっそり描いた『門外不出のラフスケッチ』第一号。あの完成版ほど気合は入ってないけど、そのぶん生々しい線の勢いがあって、これはこれでオタク的に非常にエモい出来栄えになってるのよ」

開いてみたスケッチ用紙に描かれていたのは、まだワイシャツを着崩す前の、しかしシャツの隙間から覗く無防備な鎖骨のラインと、どこか気だるげにこちらを見据える八幡の素の横顔だった。完成版の「劇画的な色気」とはまた違う、ドキュメンタリーのようなリアルなセクシーさがそこに凝縮されていた。

「そ、そんな貴重なものを、どうして私に……?」

雪乃が戸惑いながら見上げると、海老名はフッと意味深な笑みを浮かべ、ヒラヒラと手を振った。

「いいのいいの。お姉様に本命を取られて悔し涙を流す純情なヒロインには、私からの『幸せのお裾分け』ってことで! じゃ、文化祭の片付け戻るから!」

海老名はそれだけ言い残すと、満足げな顔で風のように去っていった。

残された雪乃は、手に持ったラフ画のスケッチ用紙を凝視したまま、全身の血が一気に沸騰していくのを感じていた。

(――なっ……これを私に……!?)

お姉様に10万円の絵を奪われたショックと恥ずかしさはどこへやら、目の前にあるのは、誰の目も気にせず自分だけのものにできる、比企谷八幡の生々しい「隠し味」のようなプライベート・スケッチ。

その日の夜。

雪ノ家の一室。自室のベッドの上。

スタンドライトの暖かな光に照らされながら、雪乃は手元に広げられたそのラフ画を、息をするのも忘れたかのようにじっと見つめていた。

「……ばか、ね……こんなもの……」

口ではそう呟きながらも、描かれた無防備な鎖骨のラインにそっと指先を滑らせた瞬間、理性のタガが音を立てて外れた。昨日までの悔しさも、姉に対する気まずさも、すべてが頭から抜け落ち、胸の奥底から込み上げてくる甘い熱に、雪乃の体は完全に支配されてしまった。

結局、その夜。

雪乃は海老名から譲り受けたラフ画を枕元に置き、誰にも見せられない甘く切ない熱に身を委ね、自らの手で何度も彼の名前を小さく呼びながら、その夜を完全に溺れて過ごしてしまったのだった。

そして――翌日。

学校の廊下。

いつものように静かに登校してきた雪乃の視線の先に、偶然にもポケットに手を突っ込んで気だるげに歩いてくる比企谷八幡の姿が捉まった。

(あっ……!)

昨夜、彼の絵を抱きしめながら何度も頭の中でその体温を妄想し尽くしてしまったせいか、今の雪乃にとって、本物の八幡と目を合わせることは宇宙の真理に触れるよりも難易度が高かった。

雪乃はビクッと全身を硬直させ、顔をカッとトマトのように真っ赤に染め上げると、一言も発せずにスッと華麗に身を翻し、ものすごいスピードで反対側の階段へと逃げ去っていった。

「……ん? なんだあいつ、また俺に何か恨みでもあるのか?」

遠くで去っていく後ろ姿を見送りながら、八幡は心底不思議そうに首をかしげるのだった。

俺の高校一年生の日常は、ラフ画一枚の破壊力によってさらに混迷を極め、今日も今日とてシュールな逃走劇を繰り広げ続けている。

 

短編小説:海老名姫菜の脳内大奥、あるいは「極上の妄想ライブラリ」

あの文化祭の喧騒と「筋肉博覧会」の余韻がまだ校内に漂っていたある日の放課後。

図書室の隅っこ、周囲の視線を完全に遮る特等席の書棚の陰で、海老名姫菜は一人、スマートフォンを開き、そして自身のノートに挟まれた「あの日の記憶」を脳内でフル回転させていた。

「ふへへ……、はぁ……っ……」

眼鏡の奥の目をトロトロに溶かし、海老名は自分の両手で真っ赤に火照った頬をぎゅっと包み込んでいた。

彼女の脳内で今、完全に再生されているのは、比企谷八幡の「退廃的な細マッチョ」でも、葉山隼人の「王道爽やかボディ」でもない――。

あの時、美術室の扉を蹴破る勢いで飛び込んできやがった、戸部翔のむき出しの上半身だった。

(あのバカみたいに真っ直ぐで、でも日焼けした肌がめちゃくちゃ男臭くて……! 私の目の前でシャツを脱ぎ捨てたあの瞬間、戸部くんの熱い視線が――いや、もしかしてあれは私に向けられたものだったんじゃない……!?)

サッカー部の厳しい練習で鍛え上げられたあの引き締まった筋肉、男らしい汗の匂い、そして自分に向かって無邪気に笑いかけてきた(と海老名が勝手に脳内変換した)あの顔。

「あの筋肉が、あの熱い視線が、もしも全部……私のためのものだったとしたら……?」

そう想像した瞬間、海老名の下半身からじっとりと熱が込み上げ、理性のタガが音を立てて崩れ去った。

「……やばい、熱が……熱が冷めやらないよ……っ!」

図書室の硬い椅子の上で、海老名は身悶えるように足をバタつかせたい衝動を必死に抑え込んだ。

だが、彼女の脳内パンドラの箱は、一度開いてしまったらもう止まらない。戸部の熱い肉体から、次はスルスルとターゲットがスライドしていく。

「――もちろん、戸部くんだけじゃないよね……」

海老名の脳内スクリーンには、それぞれのシチュエーションで別の男たちの姿が次々と映し出されていく。

ある時は、冷ややかな目をしながらも自分のためにボロボロになりながら助けてくれる、あのアンニュイなモブ・比企谷八幡の引き締まった細マッチョな腕にギュッと締め付けられる自分。

またある時は、学年中の王子様であるはずの葉山隼人が、自分だけに向けた独占欲剥き出しの爽やかな笑顔で優しく抱きしめてくる姿。

(ひゃあああ……! なにこれ、最高すぎる……! 比企谷くんの乾いた冷たさと、戸部くんの熱い直球と、葉山くんの完璧な甘さが混ざり合う、まさに究極の『逆ハーレム・トライアングル』……っ!!)

現実の自分は「ただの腐女子のモブ」を装いながら、脳内では総武高校の主要カーストおよび隠し秘宝を完全網羅した「超豪華ハーレム」の真ん中に君臨し、毎夜のようにその三者三様の肉体と愛に溺れまくっているという事実。

海老名はスマホの画面に保存された、あの日の筋肉写真フォルダをそっと開き、その中央に戸部、八幡、葉山の顔を並べてニヤニヤと怪しい笑みを浮かべた。

「……ふふ、文化祭って素晴らしいイベントだったなァ。私のオタク人生、今年が全盛期(ピーク)かもしれない……!」

誰にも言えない秘密の快楽と、最高にエモい妄想の海に溺れながら、海老名姫菜は今日も今日とて、青春の暴走機関車を全速力で走らせ続けるのだった。

 

短編小説:放課後の図書館、あるいは「野獣の沈黙」

文化祭の熱気がすっかり落ち着いた放課後の図書館。

その一角で、いつものように自分のノート(=極上の妄想世界)に浸っていた海老名姫菜の平穏は、突然訪れたクラスのギャルグループの心なき一言によって破られたおい。

「ねえ、ちょっと聞いてよ海老名さーん。あんた、こないだの文化祭のときからスマホの画面ニヤニヤしながら見てさー、もしかしてまた例の『男同士の変な絵』とか漁ってわけ?」

「キモいよねー。いくらイケメンのデッサンがバズったからって、頭の中までそっち系でドロドロとかマジ無理なんですけどー」

面白半分、悪気のないイジりのつもりか、ギャルたちがクスクスと嘲笑うように海老名を囲む。

趣味を否定され、大好きな世界を茶化された海老名は、視線を泳がせ、悔しさと恥ずかしさで潤んだ目をギュッと閉じた。ポロリと、一粒の涙が頬を伝ってノートの上に落ちる。

「……っ、別に、そんなんじゃ……」

「お、泣いちゃったよ。図星じゃんウケるー」

その瞬間、図書館の空気がピキリと凍りついた。

少し離れた席で本を読んでいた俺――比企谷八幡と、その斜め前にいた葉山隼人が、同時に「やれやれ」と立ち上がり、トラブルを収めるために一歩を踏み出そうとしたその時――。

「……待て。そこまでだ」

スッと、一人の男が俺たちの前を大きな手で制した。

戸部翔だった。

いつもなら軽薄なノリで周囲を引っかき回す、あのクラスのムードメーカー。が、今の戸部の背中は、いつものお調子者のそれではなかった。

戸部は無言のまま、ギャルたちの前へと一歩踏み出した。

――睨みもしない。大声で怒鳴りもしない。

ただそこに立っているだけで、サッカー部で毎日過酷に鍛え上げられ、あの文化祭で全校の視線を集めた「本物の筋肉」と、男としての圧倒的な存在感が、周囲の空気をねじ曲げた。

言葉を発せずとも、全身から漂うのは、まるで縄張りを侵された野生の獣のような、抗いがたい色気と冷徹なフェロモン。

『もし、こいつ(海老名)にこれ以上手を出してみろ――その時は、俺が許さねえ』

その無言の圧力は、暴力よりも遥かに重く、鋭く、ギャルたちの心臓を直接鷲掴みにした。

「……え……? な、なに……?」

「……ちょっと、行こ、う……?」

ギャルたちは、目の前で静かに佇む戸部のただならぬ異様な雰囲気と、まるで別人のような男の色気に気圧され、顔を真っ青にしながら混乱した様子でそそくさと逃げ出していった。

静まり返った図書館。

涙を流したまま呆然と座っている海老名は、何が起きたのか理解できず、ただぽかんと戸部の背中を見上げていた。

戸部は、海老名の方を振り返ることすらしなかった。

ただ、自分のポケットに手を突っ込み、低く落ち着いた声で、しかしどこか優しくこう呟いた。

「……泣くなよ。みっともねぇからさ」

それだけ言うと、戸部はお世辞にもカッコいいとは言えない足取り……いや、今回はなぜか最高にキマった足取りで、クールにその場を去っていった。

……その一部始終を、少し離れた棚の陰から目撃していた三浦優美子、川崎沙希、そして由比ヶ浜結衣の3人は、それぞれに絶句していた。

「……嘘、でしょ……。あのおバカな戸部が……あんな顔、するんだ……」

三浦が目を丸くして呟くと、川崎も腕を組みながら、どこか感心したような、気恥ずかしそうな顔で小さく息を吐いた。

「……普段はあんな調子だけど、やるときはやる……ってやつか。意外と、見直したかもな……」

由比ヶ浜も両手を頬に当て、目をキラキラさせながらパタパタと跳ねた。

「ねえ! なんか最近さ、うちのクラスの男たち、みんな変にカッコよくない……!? ハッチーもそうだけど、なんか気づいたらウチのクラスって、めちゃくちゃ良い男が揃ってる気がするんだけど……!」

三浦と川崎も、否定するように顔をそむけながらも、内心では(……まあ、確かに、最近あいつらちょっとズルいよね……)と激しく同意していた。

騒ぎが去ったあとの静かな図書館で、海老名は自分の胸をギュッと押さえ、今しがた背中を見せて去っていった戸部の残像を思い出しながら、顔を真っ赤にして再び別の意味での過呼吸に陥りかけるのだった。

俺の高校一年生の日常は、モブであるはずのクラスメイトたちの謎の急成長と暴走によって、今日も今日とて少女たちのハートをめちゃくちゃに掻き乱し続けている。

 

短編小説:屋上の風と、甘い缶コーヒー

放課後の喧騒が少しずつ遠ざかる夕暮れ時。

校舎の屋上へと通じる重い扉を押し開けると、そこには夕日に染まる空と、心地よい秋風が広がっていた。

金網のフェンスにもたれかかり、遠くの街並みを眺めていた葉山隼人は、足音が聞こえるとふっと振り返り、いつもの爽やかな笑みを浮かべた。

「お疲れ、比企谷」

「……なんだよ、わざわざ呼び出して。生徒会の雑用なら平塚先生に言ってくれ」

俺――比企谷八幡は、めんどくさそうにポケットからマックスコーヒーを取り出し、プルタブをパチンと開けながらフェンスの端に寄り添った。

さっきの図書館での一件――戸部がギャルたちを無言の圧力で追い払い、最高にクールに去っていったその一部始終を、俺や葉山も遠巻きに見届けていたのだ。

葉山はフッと小さく笑い、腕を組みながら空を見上げた。

「いや、雑用じゃないさ。……さっきの図書館の件だけどさ、戸部のやつ、なかなかポイント高かったんじゃないのか?」

「……まあな」

俺はマックスコーヒーの甘ったるい液体を喉に流し込みながら、ぶっきらぼうに頷いた。

「普段のバカやってるお調子者からは想像つかないキレ方だったな。あの場の空気の支配の仕方は、モブの俺から見てもさすがに一目置かざるを得ない」

「だろ? あいつなりに、色々と考えてるんだよ」

葉山が少し誇らしげに目を細めた、その時――。

ガチャリ、と屋上の扉が再び開いた。

そこに現れたのは、さっきまでクールな野獣のフェロモンを漂わせていたはずの戸部翔その人だった。

「いやぁ〜、マジで緊張したぁぁぁーーっ!! 足震えっぱなしだったわ!!」

戸部は頭をガシガシとかきながら、先ほどまでの圧倒的な威厳はどこへやら、いつもの調子でドタドタと足音を立ててやってきた。

「おいおい、さっきのクールな佇まいはどこに置いてきたんだよ」

俺が呆れたように冷ややかな視線を向けると、戸部は「いやいやいや比企谷! お前も見ただろ! 俺、あれ人生で一番決まってたんじゃねぇの!?」と、恥ずかしそうに、けれど満面のドヤ顔で自分の胸を叩いた。

「自分でするなよ、自画自賛を」

「いいじゃんいいじゃん! 自画自賛させてくれよ! いやぁ、マジでビビったけど、海老名ちゃんが泣いてるの見てたら、なんかこう……勝手に体が動いちゃってさぁ!」

戸部はそう言って照れくさそうに笑い、首の後ろをポリポリと掻いた。

その不器用で、けれど真っ直ぐな熱量に、葉山は呆れたように肩をすくめながらも、温かい目を向けた。

「まあ、結果オーライってことさ。かっこよかったぜ、戸部」

「まじ!? 葉山にそう言われるとマジで嬉しいんだけど!」

俺はため息をつきながらも、ズボンのポケットからもう一本、ひそかに買い足していた新品のマックスコーヒーを取り出し、戸部の胸元へと放り投げた。

「おっと……? なんだこれ、比企谷からの愛の告白?」

「気持ち悪いこと言うな。冷えてないけど、さっきの労いだ。飲め」

戸部はキャッチしたマックスコーヒーを眺め、「へへっ、ありがたくもらうわ!」と嬉しそうにプルタブを開けた。

夕日が校舎の影を長く伸ばし、屋上をオレンジ色の光で包み込んでいく。

ひねくれたモブ、完璧を求められる王子様、そして恋に不器用なムードメーカー。

決して綺麗事だけではないけれど、それぞれの形で不格好に、そして全力で足掻いているこの空気感は――どう言い繕ったって、間違いなく「青春のど真ん中」だった。

俺たちはそれぞれの缶コーヒーを片手に、沈みゆく夕日を眺めながら、しばらくの間、無言のまま心地よい風に吹かれていたのだった。

 

短編小説:奉仕部の午睡、あるいは「商業化への険しき道」

放課後の部室――総武高校・奉仕部。

いつものように静かで、けれどどこか混沌とした気配が漂う部屋の中に、重苦しいため息が響き渡った。

「はぁぁぁ……やはり、愚民どもに我が至高のダーク・ファンタジーの真価は理解できぬというのか……!」

ガタガタと震えながら机に突っ伏しているのは、相変わらずのトレンチコート姿でブツブツと呪詛を吐く材木座義輝だった。その手には、分厚い原稿用紙の束が握りしめられている。

私――比企谷八幡は、淹れたての緑茶をすすりながら、やれやれと首を横に振った。

「おい材木座、いい加減その中二病全開のタイトルと、主人公が最初から無双しすぎるご都合主義プロットをどうにかしろよ。何度投稿しても出版社から良い返事が来ないのは、お前の文章が単にアレだからだ」

「なっ……! 我が魂の結晶に対して『アレ』とはなんだ比企谷! 貴様、この原稿の重みがわからんのか!」

「わかるか。物理的な紙の束としては重いけど、内容の密度は発泡スチロール並みだろ」

「もう、材木座くん、そんなに落ち込まないでよ……!」

見かねた由比ヶ浜結衣が、困ったような笑顔でクッキーの袋を差し出す。

「でも、何社も送って全部ダメだったんだよね? けっこう頑張って書いてるのに、もったいないなぁ……」

その横で、雪ノ下雪乃は優雅に紅茶のカップをソーサーに置き、冷徹でありながらもどこか知的な瞳で材木座の原稿の束をチラリと一瞥した。

「……確かに、あなたの書く文章には致命的な構成力不足と、過剰な修辞の乱用が見受けられるわね。登場人物の動機付けも浅薄だし、設定の端々に現実逃避の匂いがプンプンと漂っているわ」

「ぐふっ……! 雪ノ下の容赦ない毒舌が我が心臓を抉る……!」材木座がガクリと崩れ落ちる。

だが、雪乃はそこで言葉を区切ると、ふっと視線をそらし、紅茶を一口含んでこう続けた。

「――けれど。プロットの端々に散りばめられた独自の着想や、世界観に対する執着そのものは、評価に値しないこともないわ。少なくとも、昨今の量産型ライトノベルの海に埋もれている無難な作品群よりは、強烈な個性だけは放っているようね」

「おっ、雪ノ下、意外と高評価じゃないか」

俺が茶化すように言うと、雪乃は少し不機嫌そうに眉をひそめた。

「勘違いしないでちょうだい。私はただ、客観的な事実を述べているだけよ。……ただ、ね」

雪乃はそこで言葉を切り、机の上に置かれた材木座の原稿の束を静かに手に取った。

「出版社が求めている『売れ筋』の枠組みに無理やり自分を当てはめようとするから、あなたの文章の良さが死んでしまっているのよ。……今の編集者というのは、総じて目利きが足りないか、あるいは冒険を恐れているだけだわ。何度投稿しても良い返事がもらえないのは、あちらの見る目がないからよ」

「おお……っ! 雪ノ下殿が我が才能を認めてくれた……っ!」

材木座が感動のあまり大粒の涙を流しそうになる。

「私も、雪ノンヌの言う通りだと思うなー!」

結衣も元気に手を挙げ、材木座の肩をポンと叩いた。

「なんというか、ハッチーがいつも言ってる『ひねくれ者の美学』みたいなのが、この変なモンスターの名前とかにすごく出てるもん! ちゃんと読めば絶対面白いよ!」

「おい、俺を巻き込んで褒めるなよ」

とは言え、俺もその原稿の数ページをパラパラとめくりながら、ため息交じりに呟いた。

「まあ、結衣の言う通り、設定のバカバカしさは突き抜けてるけど、文章の端々に妙な熱量があるのは事実だ。一般大衆ウケは最悪でも、一定の狂ったマニア層(例えば海老名あたり)なら全巻買い揃えるレベルの毒はある。……結論から言えば、現在の出版社の見る目が節穴なだけだろ」

「比企谷殿……!!」

材木座は感動に震え、まるで大型犬のように俺に抱きつこうとしてきたので、容赦なく足蹴りして押し返した。

「気色悪いから近づくな。……で、どうするんだよ材木座。このまま諦めて同人誌即売会でコピー本でも売るか? それとも、俺たちの厳しい添削を受けて、もう一度だけ地獄の書き直しに挑むか」

材木座は痛みに悶えながらも、ぐっと拳を握りしめ、熱い瞳でうなずいた。

「もちろんだ! 我は諦めぬ! 雪ノ下殿や比企谷の助言を受けて、さらにブラッシュアップした究極の改稿版を送りつけてやるわ!!」

奉仕部の部室は、相変わらずの無駄に熱い友情(?)と、どこかズレた青春のエネルギーに包まれながら、夕暮れのチャイムを迎えていくのだった。

 

短編小説:デジタル社会の狂気、あるいは「ネットの海への放流」

材木座が熱い涙を流しながら「次こそは至高の改稿版を……!」と息巻いて部室を去ったあと、静まり返った空間には分厚い原稿の束だけがポツンと取り残されていた。

俺――比企谷八幡は、冷めかけた緑茶を飲み干し、残された原稿をジッと見つめながら小さくため息をついた。

「……で、だ。一応『奉仕部』として相談されたわけだが……俺たちはこれからどうしてやったもんかね」

文芸部や他の部活ならともかく、我が奉仕部に持ち込まれる相談のほとんどは、こうしてまともな解決策が見えない厄介事のオンパレードだ。

俺が意見を求めるように視線を向けると、由比ヶ浜結衣は腕を組み、真剣な顔でうーんとうーんと唸っていた。

「うーん……でも、材木座くんの小説って、最初はなんだこれって思うけど、読み進めると妙に癖になるし、キャラクターの変な熱量だけはすごいよね! わたし、結構好きだなあー!」

結衣はパッと顔を輝かせ、力強く太鼓判を押した。

「ね、ハッチー! あの小説、普通に面白いと思うよ!」

「お前は優しすぎるから、世の中のほとんどのものを『面白い』って言いそうだな」

俺が苦笑いすると、隣で優雅に紅茶を啜っていた雪ノ下雪乃が、ふっと冷徹で、けれどどこか悪戯っぽい美しい笑みを浮かべた。

「ふふ、由比ヶ浜さんの言う通りよ。彼の作品を従来の古い出版社の基準だけで測るのはナンセンスだわ」

雪乃はすらりとした指先で、材木座の原稿の表紙をトントンと軽く叩いた。

「そもそも、今の時代に紙の公募にしがみついているのが間違いなのよ。大衆の審判を仰ぐなら、もっと効率的で、もっと広大な海があるわ」

「……広大な海、ね。まさか、自費出版でもしろってのか?」

俺が尋ねると、雪乃は艶然と首を横に振った。

「いいえ。――インターネットよ」

雪乃の琥珀色の瞳が、わずかに怪しく、そして圧倒的な知性に満ちて輝いた。

「分母が多ければ、どんなに尖った異端の文章であっても、必ずどこかの誰かの心に深く刺さるものよ。幸い、今のネット社会には無数の小説投稿サイトが存在しているわ。ターゲット層を絞る必要すらなくてよ、ただ圧倒的な『数』の暴力に任せて、彼の原稿をネットの海にばら撒けばいいのよ」

「ネットにばら撒く……って、それもうプロデュースじゃなくて、ただのネットテロの片棒担ぎじゃねぇか」

俺が呆れたようにツッコミを入れると、結衣は「それ面白そう! ネットの反応見てみたい!」とすっかり乗り気になって手を叩いた。

「待ちなさい、比企谷くん。彼がこれまで出版社に落とされ続けてきたのは、彼の名前や経歴、あるいはその暑苦しいまでの文体が最初から敬遠されていたからという側面もあるわ。だからこそ、方法は一つよ」

雪乃はスッと立ち上がり、机の上に置かれた原稿を指さした。

「――『匿名』で投稿するのよ。一切の先入観を排し、純粋にその文章と設定の狂気だけをネットの海に放り込むの。そうすれば、本当の読者の反応がダイレクトに返ってくるはずだわ」

「……匿名か。まあ、確かに余計なノイズが入らない分、一番フェアなやり方ではあるな」

俺も納得したようにうなずいた。材木座の名前を出した瞬間に敬遠する編集者よりも、ネットの無慈悲かつ正直な読者たちの方が、案外この怪作を正しく評価するかもしれない。

「決まりね。じゃあ、今夜のうちに私が持っているスキャナで原稿をデータ化して、適当な小説投稿サイトにアカウントを開設し、一括投稿を済ませておきましょう」

雪乃はどこか楽しそうに、手際よく作業の段取りを組み始めた。普段の冷徹な生徒会長(あるいは奉仕部の副部長)とは一味違う、謎の「敏腕プロデューサー」のような手際よさである。

こうして、奉仕部の名において――材木座義輝の魂の結晶(中二病全開の怪作)は、何の予告もなく、静かなるインターネットの海へと放流されたのだった。

……そして、その数日後。

ネットの海に放り込まれたその作品は、雪乃の予想を遥かに超える速度で、凄まじい化学反応を引き起こすことになる。

「おい……お前ら、ちょっとこれ見てみろよ……!」

学校の登校中、スマホを開いた男子たちが口々に叫び、SNSのトレンド画面を指差してざわめき立った。

ネットの片隅に突如として現れた、作者不明のダーク・ファンタジー。

その異常なまでの世界観の密度と、謎の改行の多さ、そして脳を焼き切るようなエキセントリックな文体は、ネットの住民たち(もちろん、海老名姫菜のような一癖も二癖もある猛者たちを含む)に瞬く間に発見され、――「なんだこの神がかった怪作は……!」「作者の頭のネジが外れすぎてて逆に最高なんだが!?」と、猛烈な勢いでバズり散らかすことになったのだった。

本人の知らないところで、自分の小説がネットのトレンドを我が物顔で蹂虻していることなど知る由もない材木座と、それを冷ややかに、けれどどこか満足げに見守る奉仕部の面々。

俺たちの平穏な(はずの)日常は、今日も今日とて、斜め上の方向へと盛大に加速していくのだった。

 

短編小説:天才の誕生、あるいは「サインの価値」

ネットの海へ匿名で放流された材木座の小説が、予想を遥かに超える爆発的なトレンド入りを果たしてから数日後。

放課後の奉仕部の部室には、相変わらず穏やかな(あるいはどこかシュールな)空気が流れていた。

私は窓の外をぼんやりと眺めながら緑茶をすする横で、雪乃はノートパソコンの画面をスクロールし、結衣はその覗き込みながら「すごーい、ランキングの一番上にいるよ!」と目を輝かせている。

ちょうどその時、部室の引き戸がガラッと荒々しく開けられた。

そこに立っていたのは、いつものトレンチコートをバッサーとなびかせ、なぜか顔面を青白くさせながらも、全身から「選ばれし者」のオーラ(※気のせいです)を全開に漂わせた材木座義輝だった。

「き、貴様ら……っ! 見たか、見たのかあの数字を……!!」

息を荒くしながら叫ぶ材木座に、雪乃はパソコンの画面を軽く示したまま、涼しい顔で言い放った。

「あら、来たのね材木座くん。騒がしいわよ。……もっとも、騒ぎたくなる気持ちも分からないではないけれど」

「なっ……! 我が魂のダーク・ファンタジーが、ネットの海にて数万の愚民……いや、信徒どもに狂喜乱舞されているではないか! PV数もうなぎ登り、コメント欄は我が世界観の考察で大炎上だ!」

材木座は自分の頭を両手で抱え、天を仰いで全身で歓喜を表現した。

結衣がクスッと笑いながら、「ね、すごかったんだよ! 匿名で投稿したら、一晩でランキングトップになっちゃってさ!」と声をかけると、材木座は急に真面目な(気障な)顔を作り、トレンチコートの襟をグッと正した。

「ふっ……やはりな。我が才能をいくら古い出版社が認めずとも、時代の最先端を行くネットの住民たちの見る目は確かだったということか。やはり……私は天才だったようだな……!」

「……うそぶくのも大概にしろよ。お前の実力じゃなくて、ネットのアルゴリズムと雪乃のプロデュース能力が奇跡的な化学反応を起こした結果だろ」

私が呆れたようにツッコミを入れると、材木座は「細かいことはいいのだよ比企谷!」と豪快に笑い飛ばした。

「しかし、我が人生最大の転換点(ターニングポイント)を演出してくれたこと、感謝するぞ奉仕部殿! 我は、さらなる高みを目指して続執筆の荒野へと旅立つ!」

それだけ言い残すと、材木座は満足げに、そしてどこか誇らしげな足取りで部室を颯爽と(トレンチコートを翻しながら)去っていった。

ガチャリと扉が閉まり、静けさが戻った部室。

私は遠ざかっていく足音を聞きながら、ボソッと呟いた。

「……なぁ。あいつ、もしこのまま本当に大物作家になっちまったら、今のうちに土下座して初期のサインでももらっといた方がいいのかね」

私のその言葉に、雪乃は「……ふっ、気が早いことね。でも、あの一文無しの未来の巨匠にサインをねだるなら、今のうちに高級なペンでも差し入れておくべきかしらね」と、珍しく楽しそうに微笑み、結衣は「わたしもサイン第一号ほしいなー!」とケラケラ笑った。

ネットの海で暴走を始めた「天才・材木座」の伝説は、こうしてひっそりと、しかし確実に総武高校の片隅から世界へと発信されていくのだった。

 

短編小説:夕暮れの奉仕部、あるいは「限定ビッチの威力」

放課後の部室の片付けを終え、そろそろ帰路につこうとカバンを手にしたその時だった。

「ふう、今日も色々あったねー」

伸びをした由比ヶ浜結衣が、なぜか急にトコトコと私――比企谷八幡のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。

「ん? なんだよ、忘れ物か?」

「忘れ物ってわけじゃないんだけどさ……」

結衣は少し気まずそうに、けれどどこか決意を秘めたような潤んだ瞳で私を見上げた。その頬がわずかにピンク色に染まっている。

「……ねえ、ハッチー」

「なんだよ、急に真面目な顔して」

「あのさ、最近さ……文化祭の準備とか、材木座くんの小説の件とかでバタバタしてて、なんだかこう……私、全然ハッチー成分足りてないっていうか……!」

「……は? ハッチー成分ってなんだよ、そんな栄養素聞いたことねぇよ」

私が呆れたようにツッコミを入れた、その瞬間。

結衣はふっと息を呑むと、ためらいなく私にグッと飛び込んできた。

「っ……!?」

不意打ちを食らった私の首に、柔らかい両腕がすっと回される。そのまま背伸びをした結衣の唇が、私の頬……ではなく、なぜか狙いすましたように私の唇の端へと、柔らかく、けれどしっかりと押し当てられた。

――チュッ。

静まり返った部室に、小さな、けれどやけに生々しいリップ音が響く。

「なっ……!?」

頭の中が真っ白になり、私が硬直している間に、結衣はパッと顔を離した。その顔は耳の先までトマトのように真っ赤だったが、彼女の唇にはどこか小悪魔的な、満足げな笑みが浮かんでいた。

「……ふふっ。ご馳走様!」

「お、おい……! お前、なにして――」

私が動揺を隠しきれずに声を裏返すと、結衣は悪びれる様子もなく、人差し指を自分の唇に当ててケラケラと笑った。

「なによ、ビッチかお前はって顔しないでよね!」

「いや、実際今の行動は完全にそのジャンルだろ!」

「違うもん!――そうだよ、ハッチー限定のね!」

結衣は恥ずかしさを誤魔化すように、そう言い捨てるやいなや、自分のカバンをひっつかんで「じゃ、また明日ね!」と、ものすごいスピードで部室の扉を開けて走り去っていった。

ガチャリ、と扉が閉まる。

取り残された静寂の中、私は自分の唇の端をそっと指で触りながら、全身の血が一気に沸騰していくような気恥ずかしさに耐えていた。

「……まったく、あいつは……」

ため息をつきながら振り返ると、そこには――。

「…………っっっ!!!!」

片付けの手を完全に止めたまま、持っていた紅茶のカップをソーサーにガチンと激しくぶつけ、顔面を真っ青から真紅へと目まぐるしく変化させながら、全身を激しく震わせている雪ノ下雪乃の姿があった。

雪乃の琥珀色の瞳は信じられないものを見るように見開かれ、唇をわなわなと震わせながら、言葉にならない怒りと、圧倒的な敗北感と、そして激しい「悔しさ」のオーラを全身から噴き出していた。

(――いま、この男は、私の目の前で、あんな露骨なまでのスキンシップを……しかも、あんな堂々と……っ!)

雪乃の中で、何かがブチッと音を立ててブチ切れた。

お姉様に絵を奪われ、海老名にラフ画を譲られ、そして今度は結衣に先手を取られ――次々とヒロインたちにリードを許しているという現実が、彼女のプライドを完膚なきまでにズタズタに引き裂いていた。

「……ゆ、雪乃? お前、そんなに顔を真っ赤にしてどうした。熱でも……」

私が恐る恐る声をかけると、雪乃はカッと激しい勢いで私を睨みつけ、声にならない絶叫を飲み込むように唇をきつく噛み締めた。

「……なんでもないわよ、比企谷くん! 早く帰りなさい、この……この、鈍感な木偶の坊が……っ!!」

普段の冷静沈着な生徒会長(あるいは美少女)の面影はどこへやら、耳まで真っ赤に染め上げながらテーブルをものすごい勢いで片付け始める雪乃の背中を見送りながら、私は今日という日のカオスっぷりに深く深く頭を抱えるのだった。

俺の高校一年生の日常は、こうして甘酸っぱさと狂気の境界線をフルスピードで駆け抜けていく。

 

短編小説:凍りついた放課後、あるいは「逆襲の雪ノ下」

由比ヶ浜が残していった甘い余韻と、それを目撃して激しい嫉妬と動揺に震えていた雪ノ下雪乃。

逃げるように部室を飛び出そうとした彼女の背中に、思わず俺――比企谷八幡は、普段なら絶対に口にしないような、しかしどこかからかいを含んだ言葉を投げかけてしまった。

「……おい、雪ノ下」

「な、なんよ……! 早く帰りなさいって言ったでしょう、この鈍感が……っ!」

振り返った雪乃の顔は、未だに耳の先まで真っ赤に染まっていた。その気恥ずかしさと怒りが入り混じった顔を見ていると、さっきの結衣の暴挙に対する当てつけか、あるいは、いつも冷静ぶっているこの高嶺の花を本気で慌てさせてやろうという悪戯心が、ひねくれた脳ミソの隙間からひょっこり顔を出したのだ。

俺は無言のまま、スタスタと雪乃との距離を詰めた。

「ちょっ……まっ……なんなのよ、急にそんな近づいて――」

ガツン。

雪乃の背中が、部室の壁にピタリと当たり、退路が塞がれる。

――そう、世間一般で言うところの「壁ドン」だった。

「お前もさ……」

俺は片手を壁につき、もう片方の手でスッと雪乃の華奢な顎を優しく、けれど逃げられないようにしっかりと掴み上げた。いわゆる「顎クイ」というやつだ。

「さっきからそんなに顔を真っ赤にしてさ……もしかして、お前も俺の成分が欲しいのか?」

自分でも「なにを気取ったセリフを吐いてやがるんだ」と内心で激しく吐血しそうになったが、ここで引き下がるわけにはいかない。モブなりの精一杯の反撃のつもりだった。

だが。

その言葉を聞いた瞬間、雪乃の瞳孔がカッと見開かれた。

頭の中で、さっき結衣が見せつけた「出し抜けのキス」と、今まさに自分がされている少女漫画の主人公みたいなシチュエーションが、凄まじい勢いで結合する。

(――なっ……! これじゃあ、まるで……私があの子に負けじと、彼からの愛を欲しがっているみたいじゃない……っ! でも、実際に……!)

雪乃の中で、プライドと、抑えきれない恋心と、そして女の子としての限界値が、一瞬にして最高沸点を超えて沸騰した。

顔の温度はもはや測定不能。耳も首筋もすべてが真紅に染まり、彼女の全身が小刻みに震え始める。

「……っ……――!」

言い返す言葉も、冷たい毒舌も、彼女の頭の中からは完全に蒸発していた。

ただ、目の前にいるこのひねくれた男に、これ以上からかわれ続けるくらいなら――。

「……あなたね……、調子に乗らないで……っ!」

震える声でそう呟いたかと思うと、雪乃はもう逃げ場のないその状態のまま、自らスッと目を閉じ、思い切って背伸びをした。

そして――。

ツンと冷たい鼻先が触れ合った直後、彼女の柔らかい唇が、俺の唇へとまっすぐに押し付けられた。

――チュッ。

今度は、押し付けられた方ではなく、自ら踏み込んだ者特有の、熱を帯びた生々しいリップ音が、静まり返った部室に響き渡った。

「っ……!?」

今度こそ、脳天をハンマーで殴られたような衝撃を受けたのは、他でもない俺だった。

まさか、あの雪ノ下雪乃が、自分のプライドをかなぐり捨てて、自発的にこんな真似をしてくるとは夢にも思っていなかったからだ。

数秒後、スッと顔を引いた雪乃は、もう直視できないとばかりに両手で自分の顔を両手で覆い隠した。

その指の隙間から覗く耳や首筋まで、すべてが茹でダコのように真っ赤に染まっている。

「……っ、ば、馬鹿……! ばかよ、私……っ……!!」

息を荒くさせ、涙目になりながら、雪乃は持っていたカバンを両手でしっかり抱え込むと、ものすごいスピードで部室の扉を開け、バタンと凄まじい音を立てて走り去っていった。

静まり返った部室。

壁に片手をついたまま、俺は自分の唇に触れ、完全にショートした頭でその場にポツンと取り残されていた。

俺の高校一年生の日常は、もはやギャルと生徒会長のダブルの破壊力によって、原型をとどめないほど甘く、そして狂気的なカオスへと突入していくのだった。

 

短編小説:夜の熱、それぞれの孤独

放課後の奉仕部で巻き起こった、あまりにも刺激的すぎる二度の「突発的接触」。

その夜――総武高校を揺るがした文化祭の喧騒やネットの狂騒とは全く違う、静まり返った闇の中で、二人の少女の部屋はそれぞれの「熱」に包まれていた。

壱:雪ノ下家の夜

自室のベッドの上。

部屋の明かりを落とし、デスクライトの微かな光だけが照らす空間で、雪ノ下雪乃は膝を抱えたまま、窓の外の夜空を呆然と見上げていた。

「……っ……もう、信じられない……」

声に出して呟く自分の声が、やけに熱を帯びている。

頭の中を支配しているのは、夕暮れの部室であの男に壁ドンされ、顎を捉えられ、そして――自ら進んで彼の唇へと自分のそれを重ねてしまった、あの信じがたいワンシーンだった。

いつもなら、冷静さを欠いた自分の行動を「なんて品のない、愚かしい……!」と一刀両断し、枕に顔を埋めて一日中悶え苦しむところだ。

だが、今日の雪乃は違った。

脳裏に蘇るのは、不意打ちで触れた彼の唇の感触と、あのひねくれたモブ男が不意に見せた、妙に男らしい熱っぽい眼差しだった。

「……あんな、ずるいやり方……するから……」

誰に見せるわけでもなく、雪乃はそっと自分の右手で自分の唇をなぞった。

その指先が触れた瞬間、下腹部の奥底から、言いようのない甘い疼きがじっとりと這い上がってくる。恥ずかしさと情けなさに全身の毛穴が逆立つような感覚があるのに、そこから逃げ出したいとは思わない。

「……っ、はぁ……」

熱を帯びた吐息が漏れる。

雪乃はたまらずベッドの上に横たわり、シーツを両手で強く握りしめた。由比ヶ浜に先を越された悔しさから始まったはずの衝動は、いつの間にか、比企谷八幡という一人の少年の存在そのものに溺れていく快楽へと変わっていた。

誰もいない暗闇の中、彼女は誰にも見せられない嬌声を噛み殺しながら、自分の手でその熱をなだめるように、何度も彼の名前を小さく紡ぎながら夜を溶かしていくのだった。

弐:由比ヶ浜家の夜

一方その頃。

由比ヶ浜結衣の部屋では、ベッドにダイブした彼女が、枕に顔をうずめたまま足をバタバタとジタバタさせていた。

「キャーーーーーーッ!! なになになに、私なにやってるの――っ!!?」

叫び声を上げながら、結衣は枕をギューッと抱きしめ、そのままベッドの上を転げ回った。

夕方、部室の勢いで思わず彼女が仕掛けた「ハッチー限定のキス」。その直後の彼の、完全に頭がショートして固まっていた間の抜けた顔が、脳裏からどうしても離れない。

「だって、だってもう我慢できなかったんだもん……! ハッチー、最近かっこ良くなりすぎだし、なんかもう色々とズルいし……!」

最初は「ちょっと驚かせてやれ」くらいの軽い悪戯心のつもりだった。

しかし、実際に触れた唇の硬さや、ふわりと香った彼の匂いを思い出してしまった瞬間、心臓の鼓動が跳ね上がり、胸の奥がキュッと締め付けられるような激しい独占欲が泡のように湧き上がってきた。

「……はぁ、もう……どうしてくれよう……」

結衣はふと動きを止め、ベッドの端に座り込むと、自分の両手で真っ赤に火照った頬をパタパタと仰いだ。

下半身からじんわりと広がる熱は、冷たい水を飲んだくらいでは到底収まりそうにない。

「……ハッチーのバカ。あんな顔されたら、またすぐしたくなっちゃうじゃん……」

誰にも聞こえない声で文句を言いながらも、結衣の口元には隠しきれない甘ったるい笑みが浮かんでいた。

彼女もまた、シーツに体を預け、脳内で何度もあの瞬間の彼を再現しながら、自分の手でその熱い想いをなぞるように、切なさと甘さに満ちた夜を溺れていくのだった。

同じ空の下、全く同じ男の影に心を狂わされている二人の少女。

平穏だったはずの日常は、もう二度と元には戻らない――甘美な熱のなかに、しっかりと沈み込んでいた。

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