比企谷兄妹   作:tomozow

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短編小説:比企谷家の夕食、あるいは「衝撃の家族会議」

放課後の部室で巻き起こった二度の濃厚すぎるキス劇や、それぞれの夜の悶絶など知る由もない我が家――比企谷家のリビングには、いつものように穏やかな(しかしどこか斜め上の)空気が流れていた。

今日の夕食の献立は、母特製のハンバーグ。

テーブルを囲んでいるのは、俺――比企谷八幡と、いつものように新聞を広げている父、そしてテキパキと皿を並べる母の三人だった。

「――で、小町はまだ塾の自習室か?」

父が新聞の端から顔を出し、のんびりとした声で尋ねた。

「ああ、今日模試の見直しがあるとか何とかで、夕飯は向こうで済ませるってさ。相変わらず忙しいこった」

俺がそう答えると、母はフライ返しを片手にふっと意味深な笑みを浮かべ、リビングの空気がなぜか妙な密度を帯びた。

「ねえ、八幡。……あんたさ、小町のこと、どう思ってるんだい?」

「……は? なんだよ急に。どう思ってるって、可愛い自慢の妹だろ。お前らも知ってるだろ」

俺が怪訝な顔をすると、父は新聞を畳み、なぜか妙に真剣な、しみじみとした目を向けてきた。

「いや、可愛い妹なのは間違いないが……小町本人は、案外そう思ってないかもしれないぞ」

「……は? なんだよそれ。小町は兄離れできないブラコン気味の妹だけど、さすがに家族としての愛情だろ」

「まあ、そうとも限らんさ。なにせ――」

父と言葉を引き継ぐように、母がフライパンをコンロに置き、真面目な顔でトコトコと俺の目の前までやってきた。

「いいかい、八幡。忘れているかもしれないけどね、小町は私たちが産んだ実の子だけど、あんた(八幡)は赤ん坊の時にウチが引き取った、血の繋がらない子供なんだよ。戸籍上は立派な兄妹だけどね」

呆然とする俺に向かって、母はこともなげにこう言い放った。

「だからさ、もし万が一、小町があなたのことを『お兄ちゃん』ではなく『一人の男』として好きになったとしてもさ――親としては、別に遠慮しなくていいと思ってますよ?」

「なっ……!?」

「むしろ、それならそれで、外から引き取った八幡が我が家の正式な婿(息子)になるんだから、血を残すという意味でも大歓迎じゃないか。な、お父さん」

「うむ。小町ほどのイイ女が嫁に行くなら、相手は気心の知れた八幡が一番安心できる。お父さんは大賛成だぞ」

父まで満面の笑みで親指を立ててきた。

さらに、母は俺の肩をポンと叩き、トドメとばかりにこう続けた。

「まあ、八幡はなんだかんだで顔の造作も悪くないし、最近は妙に色気のある『いい男』になってるからねえ。小町が好きになっても仕方ないさ。私だって、あんな可愛い娘があんな目をハートにして甘えてきたら、八幡をあげてもいいって思っちゃうね」

「待て待て待て待て!!!」

俺は椅子から転げ落ちそうな勢いで立ち上がり、両手を激しくブンブンと振った。

「なに言ってんだお前ら! 脳みそでも煮込みすぎたのか!? 相手は小町だぞ!? 俺にとっては正真正銘、たった一人の大事な妹だろ!! 血が繋がってなかろうがなんだろうが、妹は妹だろ……っ!!」

「えー、照れちゃってさあ」

「若いっていいもんだな、ハハハ」

普段は冷徹な無気力系モブを気取っている俺だが、さすがに実の両親(&血の繋がらない俺)からそんな爆弾発言を真顔で投下されると、理性もツッコミスキルも完全に崩壊した。

心の中で絶叫しながら、頭を抱えて椅子に崩れ落ちる俺をよそに、父と母は「いやぁ、将来が楽しみだねぇ」と楽しそうに夕食の準備を再開してしまった。

学校ではギャルや生徒会長に振り回され、家に戻れば「血の繋がり」を盾に禁断のルートを全力で勧められる。

俺の高校一年生の日常は、家族という名の牙城すらも、予測不能なカオスの渦へと巻き込みながら容赦なく暴走し続けているのだった。

 

短編小説:二年生の春、あるいは「妹の計算通り」

桜のピンク色が春風に揺れる、総武高校の校門。

昨年の文化祭を起点に巻き起こった数々の狂騒――美術部の筋肉デッサン、ネットの海を揺るがした材木座の怪作、そして奉仕部での甘く危険なスキンシップの嵐。そんな怒涛の一年間を経て、俺――比企谷八幡は、ついに高校二年生へと進級を果たした。

「ふあぁ……眠い……」

新学期の初日、重い足取りで昇降口へと向かう俺の背後から、パタパタと軽快な足音が近づいてくる。

「お兄ちゃーん! おはよー!」

元気いっぱいの声を上げて駆け寄ってきたのは、真新しい制服に身を包んだ、今年から総武高校に入学してきた我が妹・比企谷小町だった。

「おう、小町。入学式初日から遅刻すんなよ」

「もう、失礼だなあ! 小町は余裕を持って登校してますー! それよりお兄ちゃん、新しいクラスどこだったの? 2年H組? それとも……?」

小町がペチャクチャと楽しそうに喋りながら俺の隣を歩く姿は、相変わらず「可愛い自慢の妹」そのものだ。

……あの日の夜、両親から突きつけられた「お前は引き取られた身で小町とは血が繋がっていないから実質ノープロブレムだ」という衝撃の爆弾発言の記憶が脳裏をよぎり、俺は思わず小町の顔からスッと目を逸らした。

「……なんだよ、人の顔ジロジロ見て」

「ううん? 別に? ただ、お兄ちゃん、なんか最近……去年より一段と『モテる男のオーラ』が出てて、小町ちょっとヒヤヒヤしてるんだけど!」

小町はニヤニヤと悪戯っぽく笑いながら、俺の腕をキュッと掴んできた。

――そう、実はこの二年生に進級した時点でも、八幡の「隠れモブ的色気と筋肉の噂」は先輩・後輩の間にすっかり定着していた。下駄箱には相変わらず謎の差し入れが入っているし、廊下を歩けば他クラスの女子たちがこっそりこっちをチラ見してキャッキャと騒いでいる。

「モテるわけねぇだろ。ただの気だるげな陰キャモブだ」

「謙遜しちゃってからにー! 昨年の文化祭のデッサン画が裏で伝説化してて、新入生の間でも『総武高の隠しボス的イケメン先輩』って噂でもちきりなんだからね!」

小町は得意満面な顔で胸を張った。まるで「私の自慢のお兄ちゃんなんだからね!」と言わばかりのドヤ顔だ。

だが、その瞳の奥には、どこか計算高い、あるいは兄を完全に手中に収めていると言わばかりの小悪魔的な光が宿っている。

(……こいつ、ひょっとして俺が学校で変にモテ散らかしてるの、最初から全部計算づくで面白がってやがるな……?)

俺がジト目で小町を見下ろすと、小町は「えへへー」と可愛らしく舌を出してごまかした。

「ま、お兄ちゃんがどんなにモテようと、小町の『世界で一番大好きなお兄ちゃん』の座は揺るがさないけどね! さ、新入生のクラス発表見に行くよー!」

小町はスキップするような足取りで、満開の桜並木の下をスタスタと歩いていく。

学校の外ではギャルや生徒会長が虎視眈々とし、家の中では血の繋がらない爆弾(両親&妹)が待ち構えている。

二年生になった俺の高校生活は、平穏とは程遠いカオスな春の嵐の中を、今日も元気に暴走し始めていた。

 

 

短編小説:新学期の包囲網、あるいは「義姉候補の品評会」

二年生の新しいクラスが決まり、初日の慌ただしさが一段落した放課後。

私はいつものように――いや、なぜか今年は新学期初日から逃れられない運命にあるかのように、奉仕部の部室へと足を運んでいた。

扉を開けると、すでに先客がいた。

――いや、先客というか、なぜか我が妹である小町が、すでに我が物顔でソファに腰掛け、二人の先輩と楽しそうに茶飲み話に花を咲かせていたのだ。

「あ、お兄ちゃんだ! お疲れさまー!」

小町がパッと満面の笑みを浮かべて手を振る。その両隣には、由比ヶ浜結衣と、雪ノ下雪乃がしっかりと陣取っていた。

俺は扉の縁に手をかけたまま、思わず真顔で固まった。

「……おい。なんで新入生の小町が、堂々と先輩たちの部室に居座ってんだよ」

「いいじゃないですか! 今年から私も総武高の生徒なんですから、挨拶がわりに奉仕部に顔を出したってバチは当たりませんよー」

小町はケラケラと笑いながら、目の前に並べられたお菓子をポリポリと食べた。

そして、その琥珀色のクリクリとした目を、結衣と雪乃、そして私へと順番にぐるりと巡らせた。

「にしてもさぁ……お兄ちゃん、相変わらずモテモテですねえ!」

「……は? なんだ急に」

「だってさぁ、新入生の間でも『2年の比企谷先輩はヤバい』って噂でもちきりなんですよ? しかも、その噂の真偽を確かめようとしたら、校内で一番の美女二人――由比ヶ浜先輩と雪ノ下先輩が、隙あらばお兄ちゃんの周りを陣取ってるんですから!」

小町はそう言って、まるでお祭りの露店を眺めるようなワクワクした顔で両手を頬にあてた。

「すごいよお兄ちゃん! 小町、将来の『お姉様候補』がこんなにハイレベルで揃っちゃって、もう誰を本命に選ぶべきか迷っちゃうなあ!」

「こら、変なこと言うな。お前は受験の心配でもしてろ」

私が呆れたように頭をポリポリとかくと、結衣は顔を真っ赤に染めながら「ちょ、小町ちゃん、そういうの恥ずかしいから……!」と両手で自分の頬を隠した。

一方で、雪ノ下雪乃は優雅に紅茶のカップをソーサーに置き、ふっと冷ややかな、しかしどこか満更でもなさそうな美しい笑みを浮かべた。

「……ふん。由比ヶ浜さんのような落ち着きのないお姉様が加わったら、我が家の家風が乱れることこの上ないわね。もちろん、私のほうが圧倒的に良き妻――もとい、良き先輩としてふさわしいのは言うまでもないけれど」

「ちょっと、雪ノンヌそれどういう意味よ!? 私だって家庭的だし、ハッチーのお世話くらいちゃんとできるもん!」

「あら、お世話という名の餌付けのつもり? 彼女の料理スキルは致命的よ、小町ちゃん」

「うっ……それは否定できないけどさぁ!」

二人の先輩が、なぜか「どちらがより理想の義姉(お姉様)にふさわしいか」という謎のディベートを小町の前で繰り始める。

それを特等席で眺めながら、小町は「お姉様方のバチバチしたマウントバトル、最高に美味しくいただいてます……!」と心の中でほくそ笑んでいた。

――血の繋がらない妹の爆弾発言に始まり、学校では二大美少女ヒロインが「お姉様候補」の座を巡って火花を散らす。

二年生になった我が比企谷家の平穏は、こうして初日から綺麗さっぱり消え去り、さらに激しいカオスの渦へと飲み込まれていくのだった。

 

 

短編小説:妹の宣戦布告、あるいは「最悪の選択肢」

「お姉様方のバチバチしたマウントバトル、最高に美味しくいただいてます……!」なんて心の中でほくそ笑んでいた小町は、ピタリとティーカップをソーサーに置くと、意味深にフッと鼻で笑ってみせた。

そして、その大きなクリクリとした目を天井に向けながら、まるで冗談めかしたように、しかしはっきりとこう呟いたのだ。

「――まあ、最悪、ワンチャンわたしが『お姉様』じゃなくて『お嫁さん』になるって選択肢も、ないわけじゃないですけどねー」

「…………は?」

部室の空気が、一瞬にして絶対零度まで凍りついた。

ガタッ、と俺――比企谷八幡は、持っていた緑茶のペットボトルを危うく落としそうになりながら、全身の血の気が一気に引くのを感じた。

「なっ……ななな、何言ってるの小町ちゃん……!? え、えっ……!?」

由比ヶ浜結衣は、女子高生のキャパシティを遥かに超えた爆弾発言をモロに食らい、目が点になったまま両手をパタパタと慌てて振り回した。彼女の頭の中では「妹? お嫁さん? え、どういうこと……?」という疑問符が無限に増殖している。

一方、雪ノ下雪乃は優雅に構えていたティーカップを危うくソーサーに激突させかけるところだった。

彼女の琥珀色の瞳は信じられないものを見るように見開かれ、「……っ! あなた、今……何をとんでもないことを……!」と、さすがの彼女も言葉を失って固まっていた。

唯一、余裕の表情を崩さないのは当の本人――小町だった。

小町は俺の引きつった顔をチラリと見上げると、ケラケラと悪びれもせずに笑った。

「だってお父さんとお母さんも『八幡なら小町をあげてもいい』って公認してるし、戸籍上はともかく、血の繋がりとか意外とどうでもよくないですかー? ……なーんてね! 冗談ですよ、冗談!」

「じ、冗談で済むかバカヤロー!!」

俺はたまらずテーブルに両手をつき、情けない絶叫を上げた。

「お前な、何をナチュラルに我が家の家族会議の裏設定を全校生徒の前(※部室だけど)で暴露してやがるんだ! 親父とおふくろもふざけたこと吹き込みやがって、俺の心臓がいくつあっても足りねぇよ!」

「えー、お兄ちゃんそんなに焦っちゃって。もしかして、満更でもなかったりして?」

「あるわけねぇだろ! 妹は妹だ、ボケ!」

俺が必死に否定すればするほど、小町は面白そうにクスクスと笑う。

そのやり取りを目の当たりにした結衣は、ようやく状況のヤバさを察知し、顔を真っ青にしながら小町と俺を交互に見つめた。

「ちょ、ちょっと待って……? 血が繋がってないってどういうこと……? え、小町ちゃん、もしかして本気で……?」

「さあ、どうでしょうねー?」小町は小悪魔的な笑みを浮かべて肩をすくめる。

雪乃はというと、さっきまでの「どちらが良き妻か」なんていう可愛いマウントバトルが、一瞬にして「家庭内からのクーデター(血の繋がらない妹による本妻候補としての参戦)」という国家レベルの脅威に変わったことを悟り、キリッと目を細めて冷徹な戦闘態勢に入っていた。

「……比企谷くん。あなたの家庭環境は、想像以上にアナーキーで爆弾だらけのようね。少し、教育的指導が必要なんじゃないかしら」

「俺に言うな! 俺が一番被害者だよ!!」

頭を抱えて絶望する俺を他所に、小町はすっと立ち上がり、カバンを肩にかけながら満足げにニヤリと笑った。

「まあ、お兄ちゃん以上の『最高に都合のいい男』がどこかに現れるなら、そっちに行ってもいいですけどねー。あいにく、お兄ちゃんを超える男なんてこの世にいませんから、小町としては選択肢が狭くて困っちゃうなあ!」

「帰れ! 今すぐ塾の自習室にでも行って勉強してこい!」

「はーい、お兄ちゃん、今日も部活がんばってくださーい!」

ヒラヒラと手を振りながら、小町は嵐のように部室を去っていった。

残されたのは、完全にキャパオーバーを起こして固まる結衣、危機感と闘志を同時に燃え上がらせる雪乃、そして精神的疲労でHPがゼロになった俺の三人だった。

二年生の春。

俺の周囲を取り巻くヒロイン包囲網は、ついに「血縁の壁」をも軽々と超える狂気のステージへと突入してしまったらしい。

 

 

短編小説:一年生の基準、あるいは「比企谷の呪い」

小町が総武高校に入学して数ヶ月が経った頃。

新入生としての生活にすっかり馴染んだ小町は、持ち前の明るさと愛嬌、そしてどこか影のある美少女的オーラ(※八幡の妹というスパイス含む)を遺憾なく発揮し、早くも学年中の注目を集める存在になっていた。

ある日の放課後、中庭のベンチ。

クラスメイトの女子たちに囲まれながら、小町はスマホをいじりつつ、やってきた男子からの告白(正確には「連絡先を教えてほしい」というアプローチ)を、見事なまでにサラリとかわし続けていた。

「ごめんねー、今すぐはちょっとスマホの充電が……じゃなくて、彼氏とか特に考えてないんだよねー」

「えー、じゃあさ、今度一緒に映画でも――」

「うーん、パス! また今度ね!」

パッと爽やかに笑顔で断り、相手の男子が赤面してすごすごと引き下がるのを見送ると、クラスメイトの女子が呆れたようにため息をついた。

「ねえ小町ちゃん、また断ったの? 今のサッカー部の1年、けっこうイケメンで女子人気も高いのに、もったいなくない?」

「そうそう! 小町ちゃん、ハードル高すぎだよ。いったいどんな理想の高い王子様が好みなわけ?」

周囲の女子たちから一斉に突っ込まれた小町は、ふっと遠い目をしながら、しかしどこか誇らしげにニヤリと笑ってみせた。

「うーん……別にこだわりはないんだけどさあ。ただ、どうしても比べちゃうんだよねえ」

「比べるって、誰と?」

「うちのお兄ちゃん、いるでしょ? 2年の比企谷八幡」

「あ……」

その名前が出た瞬間、周囲の女子たちは「あー、なるほどね……」と妙に納得したような、あるいは絶望したような複雑な顔をした。

総武高校の新入生、特に女子の間において、2年の比企谷八幡という存在はすでに「ある種の伝説」と化していた。

昨年の文化祭のデッサン画の件から始まり、校内で見かけるどこか気だるげな細マッチョの佇まい、そして時折見せる謎の男の色気。さらに、生徒会長の雪ノ下雪乃や、一軍女子の由比ヶ浜結衣がなぜか常に近くにハブを形成しているという事実。

「……確かに、比企谷先輩はちょっと反則っていうか……。去年の文化祭のラフ画、うちのクラスの女子の間でも『隠しボスみたいでエモい』って話題になってたし……」

「そうそう! 普段はあんな陰キャっぽいのに、いざという時に見せる雰囲気がズルすぎるんだよね」

「でしょー?」小町は得意満面に胸を張った。「だからさ、お兄ちゃんに負けないくらい、中身も外見もいい男だったらワンチャン付き合ってもいいんだけど……あいにく、世の中の男の基準がお兄ちゃんでバグっちゃってるからさあ。小町としては、当分おひとり様を満喫するしかなさそうなんだよねー!」

その言葉を聞いた周囲の女子たちは、「いや、それ基準が高すぎて一生彼氏できないやつだよ!」と総ツッコミを入れたが、同時に誰もが心の中でこう思わずにはいられなかった。

(――ていうか、あの比企谷八幡を基準にしちゃったら、この学校の男子全員詰んでない……?)

奇しくも、小町の何気ない一言により、総武高校の一年生男子たちの間では、知らず知らずのうちに「比企谷八幡を超える」ことが、学年全体の実質的な恋愛ハードル(到達不可能なラスボス)として設定されてしまっていたのだった。

その頃。

奉仕部の部室。

「……ん? なんか急に背中がゾッとしたな。誰か俺の悪口でも言ってるのか?」

くしゃみを一つ噛み殺しながら、私は緑茶のペットボトルを傾けた。

窓の外では、新入生の男子たちが「どうやったらあの比企谷先輩みたいになれるんだ……とりあえず猫背で死んだ魚の目をしてポケットに手を突っ込めばいいのか?」と、謎の修行を始めている姿がポツリポツリと目撃されていた。

「どうしたの、ハッチー?」

結衣が首をかしげながら不思議そうにこちらを覗き込み、雪乃は冷ややかに「まさか、またどこかで変な誤解を振りまいているわけじゃないでしょうね」と鋭い視線を投げてくる。

妹の無邪気な一言によって、学校全体の生態系がさらに狂い始めていることなど知る由もない私は、ただただ平穏なモブライフを夢見ながら、今日も今日とて静かに深いため息をつくのだった。

 

 

短編小説:放課後の日常、あるいは「羨望の距離感」

放課後の静けさが漂う奉仕部の部室。

いつものように、私が文学書(あるいは暇つぶしの読物)をパラパラとめくっていると、コンコン、と軽快なノックの音が響き、断りもなくスライドドアが勢いよく開けられた。

「お邪魔しまーす! 今日の部活の買い出しついでに、お兄ちゃんの顔を見にきちゃいましたー!」

やってきたのは、相変わらずの制服姿でぴょんぴょん跳ねる我が妹・比企谷小町だった。

「おい、勝手に入るな。ここは部外者がウロウロしていい社交場じゃねぇんだよ」

「えー、冷たいなあお兄ちゃんは! 妹がせっかく差し入れのプリン買ってきてあげたのにさー」

そう言うと、小町は私の机の上にポンとプリンの容器を置き、そのまま私の背もたれに覆いかぶさるようにして、背後から首元にペタッと頬をすり寄せてきた。

「ほら、お兄ちゃん、最近また顔色悪いよ? しっかり食べてるの?」

「おい、近い近い! 重いから降りろ、首が締まるだろ!」

「やだー、お兄ちゃん肌荒れてないかチェックしてるの! 動かないの!」

「「…………っっっ!!」」

部室の空気が一瞬にして凍りついた。

ソファに座っていた由比ヶ浜結衣と、紅茶のカップを持ったままピタリと固まる雪ノ下雪乃。二人の視線が、背後から私にベッタリと絡みついている小町へと、物凄い鋭さと圧倒的な熱量で突き刺さる。

「こ、小町ちゃん……!? い、いつの間にそんな密着して……!」

結衣が顔を真っ赤にし、ソワソワと落ち着きのない様子で立ち上がる。

雪乃もまた、カップをソーサーにガチャリと激しく置くと、冷徹かつ厳格な「生徒会長モード」の顔をしながらスッと立ち上がった。

「ちょっと、そこの一年生。血が繋がっていなかろうが、戸籍上は兄妹であろうが、学校の部室という公的な空間でそのような近すぎる距離感は――風紀上、いかがなものかしら」

雪乃の目が据わっている。声のトーンが完全に氷点下だ。

だが、当の小町はケラケラと余裕の笑みを浮かべ、私の肩に顎を乗せたまま二人の先輩を振り返った。

「えー? 何言ってるんですか、雪ノ下先輩。家ではこれくらい日常茶飯事ですし、むしろお兄ちゃんがもっと甘やかしてくることだっていっぱいありますよ?」

「なっ……!? な、なにを勝手な大嘘ぶっこいてやがるんだこいつは……!!」

私が慌てて否定しようとすると、小町は私の脇腹をキュッとつねりながら「でしょ、お兄ちゃん?」と悪戯っぽく微笑んだ。

「だ、大嘘って……でも、家でいつもそんなふうに……?」

結衣はショックを受けたような、羨ましいような、複雑骨折しそうな表情で私と小町を交互に見つめる。

雪乃はというと、美しく整えられた眉をハの字にひそめ、悔しそうに自分の唇を軽く噛み締めた。

(――家では、そんなふうに……。あのひねくれた男と、ごく自然に、あんなふうに肌を触れ合わせて……っ!)

学校では決して見せない、本当の「家族」としての圧倒的な距離感。

どれだけ部活で美少女ヒロインたちがアプローチを仕掛けようとも、幼い頃から積み重ねてきた「血の繋がりなき(しかし家族としての)歴史」という絶対的なアドバンテージの前には、どうしても埋められない壁が存在している。

「いいなあ……」

結衣がポツリと、本当に羨ましそうな、切なげな声を漏らした。

「……別に、う、羨ましくなんかないわよ! ただ、もう少しこう……女子に対する一定の距離感というものをね……!」雪乃も顔を真っ赤にしながら、ツンとそっぽを向いて負け惜しみを吐く。

「はいはい、お姉様方はまたすぐ焼きもち焼いちゃうんだからー!」

小町はフフンと鼻を鳴らし、私の背中からストンと床に降り立つと、満足げに手を叩いた。

「じゃ、お兄ちゃん、プリンちゃんと食べておいてくださいね! 部活がんばってくださーい!」

嵐のようにやってきて、二人の先輩の心を完全に掻き乱した挙句、小町はヒラヒラと手を振って颯爽と部室を去っていった。

静まり返った部室。

私はぐったりと机に突っ伏し、深い、それはもう深い溜息をついた。

「……なぁ、お前ら、そんなに羨ましいなら今度からお前らも背後から首元に突撃してこいよ。俺は一向に構わないからさ」

「「誰が生徒の目の前でそんなことするかーーっ!!!」」

結衣の恥ずかしそうな怒鳴り声と、雪乃の「この、痴れ者が……!」という冷徹な突っ込みが、夕暮れの部室に盛大に響き渡るのだった。

 

短編小説:放課後のサイゼリヤ、あるいは「三者会談」

奉仕部でのドタバタがようやく一段落し、夕暮れの冷たい風が吹き抜ける総武高校の校門。

なぜか今日はそのまま流れで一緒に帰ることになった、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、そして我が妹・比企谷小町の三人娘は、駅前のショッピングモールにあるおなじみのファミリーレストラン――通称「サイゼ」のボックス席に陣取っていた。

テーブルの上には、ミラノ風ドリアと辛味チキン、そしてドリンクバーのグラスが所狭しと並んでいる。

「ふう、やっぱ学校帰りのサイゼって最高ですよねー!」

小町はストローで炭酸をチュウチュウと吸いながら、向かい側に座る二人をじっと見つめた。その琥珀色のクリクリとした目が、なんだかやけに探るような、小悪魔的な光を帯びている。

雪乃は優雅にフォークでミラノ風ドリアを一口運び、何食わぬ顔で上品に咀嚼していたが、小町のただならぬ視線に気づくと、わずかに眉をひそめた。

「……なに? 小町ちゃん。そんなにじっと見つめて、私たちの顔に何か付いていてよ?」

「ううん、顔じゃなくて――心の中をちょっと覗き見しただけです」

小町はクスクスと笑い、ドリンクバーのグラスを両手で包み込みながら、まっすぐなトーンでこう切り出した。

「ねえ、お二人とも。ぶっちゃけた話を聞いちゃってもいいですか?」

「……なにをよ?」

「お二人ともさ……お兄ちゃんのことが好きなんでしょ?」

ゴホッ!

――まさに今、ミラノ風ドリアを上品に飲み込もうとしていた雪ノ下雪乃が、盛大にむせ返った。

「っ……! けほ、けほっ……な、なにを……急に……っ!」

雪乃は真っ白な顔をさらに真っ赤に染め上げ、慌ててナプキンで口元を押さえた。いつも完璧で冷徹な生徒会長の面影はどこへやら、耳の先まで茹でダコのように真っ赤である。

一方、隣に座っていた由比ヶ浜結衣は、フォークをピタリと止め、コップの縁を指でクルクルとなぞりながら、少しだけ寂しそうな、けれど覚悟を決めたような優しい笑みを浮かべた。

結衣は逃げることなく小町の目を真っすぐに見返し、こくりと小さく頷いた。

「……うん。隠してても、その……バレバレだった?」

「うわ、由比ヶ浜先輩、あっさり認めた!」

小町は目を丸くして感心したように声を上げる。そして、激しく咳き込みながら未だに顔を真っ赤にしている雪乃へと視線を移した。

「雪ノ下先輩は、図星すぎて今すぐこの席から消えたそうですね?」

「……っ! わたしが、そんな、子ども染みた感情を……! だいたい、あんなひねくれていて、いつも面倒事を引き起こすような木偶の坊のどこに好意を抱く要素があるというのよ……っ!」

雪乃は必死にツンとそっぽを向き、全否定の構えを見せるが、その赤く染まった耳たぶと、震える声のトーンが、すべての事実を雄弁に物語っていた。

「いやあ、分かりやすすぎて小町涙が出そうです」

小町はニヤニヤと笑いながら、辛味チキンを一口パクリと頬張った。

「お兄ちゃん、普段あんな感じなのに、なんでそんなにモテるんですかねえ。おかげで小町の将来の『お嫁さん候補』が、部室のなかに強力なライバルとして常駐してるんですけど!」

「ちょ、小町ちゃん、さらっとさっきの爆弾発言を回収しないでよ……!」

結衣が顔を真っ赤にしてツッコミを入れる。

雪乃もようやく咳を鎮めると、ワイングラス(中身はただの水ですが)を飲むような優雅な手つきでグラスを傾け、どこか決意を秘めた目で小町を見据えた。

「……小町ちゃん。あなた、さっきから余裕そうな顔をしているけれど……本当に、あの男をただの『お兄ちゃん』として割り切っていられるのかしら?」

雪乃の鋭い一言に、小町の動きがわずかにピタリと止まった。

サイゼリヤの温かい店内のざわめきの中、一瞬だけ、三人の間にピリリとした妙な緊張感が走る。

――血の繋がらない家族という絶対的な距離感を持つ妹と、恋心に目覚めてしまった二人の美少女ヒロイン。

夕食前のファミレスで繰り広げられる女子会は、ただの雑談から、いよいよ本格的な「恋の陣取り合戦」へと突入しようとしていた。

 

短編小説:サイゼリヤの宣戦布告、あるいは「家族という名の最強城壁」

雪ノ下雪乃の鋭い問いかけに対し、小町は一瞬だけフォークを止めたが、すぐにふっと悪戯っぽく、けれどどこか大人びた笑みを浮かべた。

「世界で一番のお兄ちゃんですよ。……今は、ね」

サラリと言い放ったその言葉に、結衣と雪乃の息がわずかに詰まる。

小町はドリンクバーのグラスをストローですっきりと飲み干すと、気負う様子もなく言葉を続けた。

「もちろん、今の小町はそこまで恋愛とか結婚にものすごく興味があるわけじゃないんです。部活も楽しいし、友達と遊ぶのも好きですし。……でもね」

小町はパッと二人の顔をまっすぐに見据えた。

その瞳には、子供の気まぐれではない、妙に落ち着いた「余裕」が宿っていた。

「もし万が一、誰かと結婚するってなったら、お兄ちゃんと結婚するのが一番楽で、一番楽しいだろうなあーって思うんです。恋人とか、そういうドギマギする関係になる前に、私たちはもうとっくに『家族』ですからねー」

――恋人の前に、家族。

それは、どれだけ美少女ヒロインたちが外からアプローチを仕掛けようとも、絶対に打ち破ることのできない「圧倒的な歴史と実績」という名の城壁だった。

血が繋がっていなかろうが、戸籍上は何であろうが、幼い頃から同じ屋根の下で笑い合い、お互いのダメなところも全部知った上で築き上げてきた絆。恋人同士の「これから」ではなく、すでに夫婦のような「これまで」を共有しているという強み。

それを「ある意味の距離感」「ある意味の余裕」として突きつけられた瞬間、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣の背筋に、ピリリとした冷たい緊張感が走った。

(――なるほど、ね……)

雪乃は細い指でグラスの縁を強く握りしめ、冷徹なまでの知性を宿した琥珀色の瞳を細めた。

彼女がこれまでに直面してきたどんなライバルよりも、この「妹」という存在が持つアドバンテージは強大で、そして何よりタチが悪かった。彼女はわざわざ外から攻め込む必要などない。最初から城の中に陣取っている王様なのだから。

(――うそ、めちゃくちゃ強敵じゃん……!)

結衣もまた、心の中で盛大に頭を抱えていた。

ただのブラコン妹だと思っていた小町は、実は誰よりも「比企谷八幡」という人間の本質を理解し、その上で一番安全で、一番近い場所から着実に陣地を固めている最強のラスボスだったのだ。

二人の表情がみるみるうちに引き締まり、臨戦態勢の「戦闘モード」に切り替わるのを察知して、小町はクスクスと楽しそうに笑った。

「なーんて! ちょっと大人っぽいこと言ってみただけですよー! お二人とも、そんなに怖い顔しないでくださいよお」

小町はケラケラと笑い飛ばしながら、テーブルの上に伝票をひょいと持ち上げた。

「あ、でも――お兄ちゃんを本気で泣かせたり、変な方向へ暴走させたりしたら、その時は小町が容赦なくお姉様方を排除しに行きますからね? そこんとこ、よろしくお願いしまーす!」

そう言って、小町は自分の分の代金をパパッとテーブルに置き、「ごちそうさまー!」と軽快な足取りで席を立った。

「あ、ちょっと、小町ちゃん……!」

結衣が声をかけようとするも、小町はヒラヒラと手を振りながら、あっという間にサイゼリヤの自動ドアの向こうへと消えていった。

残されたボックス席。

ミラノ風ドリアの湯気だけが、やけに静かに立ち上っている。

しばらくの沈黙のあと、雪ノ下雪乃はふっと小さく息を吐き、冷ややかな、しかしどこか闘志に満ちた美しい笑みを浮かべた。

「……なかなか、面白い宣戦布告をしてくれるじゃないの」

「……だね。うう、なんか完敗って感じで悔しいけど……でも、負けないもん!」

結衣も両手をギュッと握りしめ、小さくうなずいた。

血の繋がらない妹が放った「家族」という名の最強の矢は、図らずも、二人の美少女の心に眠っていた恋の炎を、さらに激しく燃え上がらせることになったのだった。

 

 

短編小説:後輩の探り、あるいは「妹の真意」

総武高校への入学から数ヶ月が経ち、新しい環境にもすっかり馴染んだ一色いろはは、生徒会室での雑務を片付けたあと、偶然中庭のベンチで一人本を読んでいた比企谷小町に声をかけた。

「ねえ、小町ちゃん。ちょっと今いい?」

「あ、いろは! お疲れ様。どうしたの?」

同期である小町がパッと本を閉じ、ニコニコと笑顔を向けると、いろはは少し気まずそうに、けれどどこか興味津々な様子で隣のベンチに腰掛けた。

「ううん、ちょっと気になってさ。……小町ちゃんの、その……お兄ちゃんのことなんだけどさ」

「お兄ちゃん? また我が家のお騒がせ男が何かやらかした?」

「やらかしたっていうか……なんと言うか、あの先輩、普段はあんな死んだ魚の目をしてるのに、いざという時の存在感が妙にずるいじゃない? 生徒会でも雪ノ下先輩や由比ヶ浜先輩がなんだかんだであの人の話ばっかりしてるし……」

いろははトントンと自分のこめかみを指先で叩きながら、少し不満げに、けれど少し探るような目で小町を見つめた。

「ぶっちゃけ、同期の小町ちゃんから見て、あの比企谷先輩ってどうなの? 家族としての評価を教えてよ。家ではどんな感じなわけ?」

いろはのその質問に、小町はふっと悪戯っぽい笑みを引っ込め、少しだけ遠い目をしながらクスッと笑った。

「お兄ちゃんねえ……うーん」

小町は両手を膝の上で組み、トントンと指先を叩きながら考え込むように呟いた。

「色々問題はあるし、ひねくれてるし、すぐ面倒くさい理屈こねるし、変なところでカッコつけて自爆するし……トータルで見たら、まぁ『色々問題ありの残念な人』ですよ、ぶっちゃけ」

「あ、やっぱりそうなんだ。そこは小町ちゃんも同じ意見なんだね」

「でもね」

小町は言葉を区切り、ふっと優しく、けれどどこか芯の通った瞳でまっすぐに前を向いた。

「――それでも、間違いなく『良い男』ではありますよ。少なくとも、小町にとっては、世界で一番信頼できる人です」

その、いつものおどけた調子とは違う、真剣な響きに、いろははわずかに息をのんだ。

「……そっか。まぁ、過去に何度も助けられてる私としても、先輩が変な人っていうのは同意するけど、悪い人じゃないっていうのは分かる気がする……って、ちょっと待ってよ小町ちゃん」

いろははふと気づいたように小町をじっと見た。

「さっきのサイゼでの噂話とか、お兄ちゃんと結婚しちゃうかもーみたいな話、あれって本気なの? ライバル多すぎて私としては頭が痛いんだけど」

いろはのその問いに、小町はクスクスと楽しそうに笑い、そして首を横に振った。

「ううん、あんなのは全部お姉様方を煽るための冗談ですよ。……まあ、お兄ちゃんが本気で困ってて、他に誰も引き取る人がいなくなったら考えてあげてもいいかなーなんて思ったりもしますけどね!」

「冗談になってない気がするんだけど……!」

「ふふ、冗談ですよ、冗談!」

小町は軽く笑い飛ばすと、ふと空を見上げた。夕暮れのオレンジ色の光が、彼女の横顔を柔らかく照らし出す。

「……ぶっちゃけ、お兄ちゃんの隣に誰が来ようと、小町は正直、誰でも構わないんです」

「え……? 誰でもいいの? あの先輩だよ?」

驚くいろはをよそに、小町は静かに、けれど揺るぎない愛情を込めてこう続けた。

「だってお兄ちゃんは、今までずっと自分のことなんて二の次で、いっつも誰かのために泥をかぶって、勝手に傷ついてきた人だから。だから――」

小町は膝の上でそっと両手をギュッと握りしめた。

「お兄ちゃんが選ぶ人なら、誰だっていい。由比ヶ浜先輩でも、雪ノ下先輩でも、あるいはもっと全然知らない人でも。その人がお兄ちゃんを心から大切にしてくれて、お兄ちゃんが本当に幸せになれるなら、小町は喜んで『お姉様』って呼んであげますよ」

「……小町ちゃん……」

その言葉には、ただのブラコンの域を超えた、血の繋がりすら超越した、あまりにも深く、あまりにも重い、家族としての無償の愛が満ちていた。

兄の幸せのためなら、自分が一番近くにいるという特権すら笑って差し出せる。そんな彼女の覚悟と愛情の深さに、いろはは言葉を失い、ただ圧倒されるしかなかった。

「なーんて! ちょっとカッコつけちゃいましたね!」

数秒の沈黙のあと、小町はパッと普段の明るい笑顔に戻り、ピョンと立ち上がった。

「さ、こんなこと話してる間に夕飯の買い出し行かなきゃ! お兄ちゃん、今日きっと腹ペコで帰ってきますからね!」

ヒラヒラと手を振りながら、小町は軽快な足取りで校門の方へと駆けていく。

その後姿を見送りながら、いろはは小さくため息をつき、そしてどこか羨ましそうな、優しい笑みを浮かべた。

「……まったく。あんな妹がいたら、そりゃああの先輩も甘やかされちゃうわけよね」

総武高校の片隅で、今日も最強で最愛の「ブラコン妹」は、誰よりも深く、誰よりも温かく、ひねくれた兄の背中を見守り続けているのだった。

 

短編小説:手の上のヒロインたち、あるいは「最強の妹」

小町が軽快な足取りで去っていった中庭のベンチから少し離れた植え込みの陰。

そこに隠れるようにして立っていたのは、一色いろはだけではなかった。

「……ねえ、二人はいつからそこに?」

いろはが振り返ると、そこにはいつの間にか息を潜めて聞き耳を立てていた雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣の姿があった。二人とも、先ほどの小町の言葉をモロに聞いてしまったらしく、何とも言えない複雑な表情を浮かべている。

「……最初からよ。あの子が、あなたに声をかけたあたりからね」

雪乃はフッと小さく息をつき、どこか脱力したような、それでいて深い感銘を受けたような複雑な笑みを浮かべた。

「なんかさ……」由比ヶ浜結衣は自分の胸元をギュッと押さえながら、ぽつりと呟いた。「私たち、完全にあの小町ちゃんの掌の上で転がされてたって感じだよね……」

「本当ですよ! サイゼで宣戦布告されたと思ったら、裏ではあんな大人びたこと考えてるんですから。ズルくないですか?」

いろはが不満げに頬を膨らませると、雪乃は静かに首を横に振った。

「ずるい、というのとは少し違うかしらね。あの子はただ……誰よりもあのひねくれた男の本質を理解し、そして愛しているだけよ」

雪乃の脳裏には、先ほど小町が語った「お兄ちゃんが本当に幸せになれるなら、誰だっていい」という言葉が鮮明にリフレインしていた。

自分たちは「彼女」の座を巡って嫉妬やマウントのバトルを繰り広げているというのに、あの妹は最初からもっと高い視座から、兄の本当の幸福だけを願っている。その圧倒的な「家族としての無償の愛」の前に、自分たちの恋心がいかに子供っぽく見えたことか。

「……でもさ」

結衣は遠ざかっていく小町の背中を見つめながら、ふっと柔らかく、どこか愛おしそうな笑顔を浮かべた。

「あんな風に自分のことを心から大切に思ってくれて、幸せを願ってくれる家族がいたら……そりゃあ、ハッチーも真っ直ぐ育つわけだよね」

「……そうね。あんな妹がいる比企谷くんが、少しだけ羨ましくもあるわ」

雪乃もまた、珍しく素直にそう認め、小さく微笑んだ。

いろはも腕を組みながら、「まったく……あんな妹がいたら、お兄ちゃんをダメにしちゃいそうですけど、同時に人生の幸福度が跳ね上がりそうですよねー」とため息混じりに同意した。

最強のブラコンでありながら、誰よりも深い愛情と広い視野を持つ妹・比企谷小町。

彼女の存在感の大きさを改めて思い知らされながら、雪乃、結衣、そしていろはの3人は、なぜか不思議と「あんな妹が欲しかったな」と心から思ってしまうのだった。

――さて、そんな彼女たちの知らないところで。

「ふんふふーん♪」と機嫌よく夕飯の買い出しに向かっていた小町は、スマホの画面を開きながらニヤリと笑っていた。

(ふふっ、お兄ちゃんを巡るお姉様方の動向もバッチリ把握したし、今日の夕飯のハンバーグはいつもより気合入れて美味しく作っちゃおっと!)

血の繋がりを超えた強固な絆と、ちょっぴり小悪魔的な計算高さが同居する我が家の最強の妹は、今日も絶好調で総武高校の日常を支配し続けているのだった。

 

 

短編小説:閃きの連鎖、あるいは「義妹という名の究極のご褒美」

小町が軽快に去っていき、その場に残された雪乃、結衣、いろはの三人。

しみじみと「あんな妹が欲しかったわね」などと感傷に浸っていたその瞬間――由比ヶ浜結衣の脳裏で、何かがパツンと音を立てて繋がった。

「……待てよ?」

結衣が突然、両目を見開いてハッと息を呑んだ。

「どうしたのよ、由比ヶ浜さん。そんなに急に大きな声を出して」雪乃が怪訝そうに眉をひそめる。

しかし結衣は、コポコポと沸き上がる自分の妄想に顔を真っ赤に染めながら、信じられないものを見るような目で宙空を見つめていた。

「だって……よく考えたらさ!」

結衣は隣に立つ雪乃といろはの肩を、すごい勢いでガシッと掴んだ。

「もし私がハッチーと結婚したらさ……?」

「……?」

「……それがどうかしたのかしら」

「自動的に、あの小町ちゃんが『義理の妹』になるってことじゃん……っ!!」

ビズンッ!! と、結衣の頭の中で雷鳴が轟いたような衝撃が走る。

最強のブラコンであり、誰よりも気が利いて、家事も完璧で、しかも自分たちの恋路を絶妙な距離感で見守ってくれるあの小町が――「自分の妹」になる。

「な……っ!?」

その瞬間、雪ノ下雪乃の美しい琥珀色の瞳が、カッと激しく見開かれた。

頭の回転が異常に早い雪乃のことだ。結衣のその一言が意味する破壊力を、一瞬にして完全に脳内変換してしまったらしい。

(――つまり……比企谷くんと結婚するということは、あの小町ちゃんという最高峰の義妹を獲得し、あまつさえ彼女から「お姉様」と敬われる生活が手に入るということ……っ!?)

「あっ……!」と、今度は一色いろはが両手で自分の口をパッと覆い隠した。

「ちょっと待ってくださいよ、それってつまり……あの小町ちゃんを身内で独占できるってことです……よね……?」

三人の間に、言いようのない凄まじい熱気と、野心を帯びたギラギラした光が走った。

それまで、彼女たちは「比企谷八幡」という唯一無二のひねくれ男を巡るライバル同士として、バチバチと火花を散らしていた。

しかし、ここに「小町を義妹にする権利」という、あまりにも強力すぎる追加ボーナス(むしろメイン級のメリット)が突如として発生してしまったのだ。

「……ずるい。ずるいわよ、由比ヶ浜さん。そんな斜め上の着地点を思いつくなんて」

雪乃は顔を真っ赤に染めながらも、負けじと闘志の炎をメラメラと燃え上がらせた。

「い、いやだって考えたらすごくない!? ハッチーのお嫁さんになれて、さらにあんな可愛い小町ちゃんが妹になるなんて、人生のハッピーエンドすぎない!?」

「先輩、それもう反則ですって……! そんなの、私だってお兄ちゃん――じゃなくて、比企谷先輩と結婚して小町ちゃんの義姉になりたいに決まってるじゃないですか!」いろはも両手をぎゅっと握りしめて地団駄を踏んだ。

さっきまで「あんな妹が欲しいね」とほのぼの語り合っていたはずの三人は、次の瞬間には「あの妹を手に入れるために、絶対にあのひねくれた男を落としてみせる」という、全く別の方向へと狂気的なモチベーションを爆発させていた。

「ふん……いいでしょう。そこまで言うなら、誰が最初にあの男のハートを射止め、小町ちゃんを正式な『義妹』として従えるか……正々堂々、勝負よ!」

雪乃がスッと冷徹かつ美しい笑みを浮かべ、宣戦布告する。

「望むところだもん! 絶対に私が生徒手帳の名字を『比企谷』にしてやるんだから!」結衣も負けじと気炎を上げる。

「お二人とも先輩風吹かせてますけど、最後にかっさらっていくのは私かもしれませんよー?」いろはも悪戯っぽく笑ってみせた。

――小町が全く知らぬところで、彼女の存在そのものが、三人のヒロインたちの執着心をさらに数百倍に跳ね上げる「最強の起爆剤」となってしまったのだった。

総武高校の放課後、恋の戦場は、もはや本人すら預かり知らぬ「義妹争奪戦」という名のカオスな泥沼へと、さらに深く沈み込んでいくのだった。

 

 

短編小説:サイゼリヤの奇遇、あるいは「魔王と小悪魔の密談」

学校帰り、少し小腹が空いた小町がふらっと立ち寄った駅前のサイゼリヤ。

平日の夕方ということもあり、店内は比較的空いていた。空いている席を探してキョロキョロと見回すと、なぜか一席だけ、窓際のボックス席にポツンと一人で座っている圧倒的なオーラを放つ美女が目に入った。

艶やかな黒髪、どこか底の知れない妖艶な笑みを浮かべたその女性――雪ノ下陽乃だった。

「あ、あの……席、空いてますか?」

小町が声をかけると、陽乃はふっと顔を上げ、面白そうなものを見つけた子供のような笑みを浮かべた。

「あら、可愛い新入生ちゃん。もちろん空いてるわよ。一人じゃ退屈だったし、ぜひ相席しましょう」

「お邪魔しまーす」と、小町は臆することなく向かい側に腰掛け、とりあえずミラノ風ドリアとプリンを注文した。

もちろん、目の前に座っている女性が「あの雪ノ下雪乃の恐ろしいお姉さん」であり、かつ自分の家と何かと因縁のある要注意人物だということなど、小町はまだ知らない。ただの「美人なお姉さん」くらいに思っている。

しばらく他愛のない世間話をしていた時だった。

陽乃がスマホを操作しようと、テーブルの上に画面を上にしてポンと置いた。

その瞬間。

画面に設定されていた待ち受け画像を見た小町の手が、ピタリと止まった。

「……あれ?」

小町は思わず目を凝らし、首を傾げた。

画面に映し出されていたのは、昨年の文化祭で美術部が描き上げ、ネットの海をも揺るがした伝説のデッサン画――あの、気だるげでありながら異常なまでの色気と細マッチョな筋肉を誇る「比企谷八幡」の絵だった。

(……え? なんで陽乃さんの待ち受けがお兄ちゃんなの!?)

心の中で盛大にツッコミを入れた小町だが、そこは肝の据わった比企谷家の血筋(※血は繋がってないけど)。表情一つ変えず、むしろ小悪魔的な笑みを浮かべながら、ニヤリとその画面を指さした。

「お姉さん、その待ち受け……すっごくエロカッコいい絵ですねー」

「おや?」

陽乃は自分のスマホの画面を一瞥し、ふっと楽しそうに目を細めた。

「これ、気になる? 去年の文化祭でちょっと話題になったものなんだけど、なかなかの傑作でしょう?」

「ですねー。なんだかちょっと退廃的で、でも目が離せなくて……モデルの男の人、相当センスいいいって言うか、描いた人の愛が重すぎません?」

小町が面白がって突っ込むと、陽乃はクスッと妖艶に笑い、ワイングラス(中身はレモンウォーターですが)を優雅に傾けた。

「でしょ? 私もそう思う。……ねえ、これ、私の好きな人がモデルなのよ」

サラリと、しかし強烈な爆弾発言を投下する陽乃。

その言葉を聞いた瞬間、小町の脳内で「ピピッ」と危険な警報音が鳴り響いた。

(――は……? この人、お兄ちゃんのことが好きなの……!? 雪ノ下先輩だけじゃなくて、お姉さんまでお兄ちゃんを狙ってるっていうの……!?)

だが、小町は怯むどころか、むしろ面白そうに口角をグッと釣り上げた。

目の前にいるのは、雪乃をも凌駕するかもしれない最強クラスの「大人の魔王」。しかし、こちらは家で毎日その男を転がしている最強の「ブラコン妹」だ。

小町はグラスのストローをくわえながら、じっと陽乃の目を真っすぐに見据え、小悪魔的にクスッと笑ってみせた。

「へえ……。お姉さんみたいなキレイな人が、あんな一癖も二癖もあるひねくれ男を好きだなんて……世の中、何があるか分からないものですねえ」

「あら、知ってるのかしら? あの子を『ひねくれ男』って呼ぶなんて、なんだかすごく親しげじゃない」

陽乃の瞳の奥が、わずかにフッと面白がるように光った。

夕暮れのサイゼリヤのボックス席。

一歩間違えれば全面戦争になりかねない危険な密談は、二人の不敵な笑みとともに、さらに熱を帯びていくのだった。

 

短編小説:サイゼリヤの密談、あるいは「魔王と小悪魔の宣戦布告」

「へえ……。お姉さんみたいなキレイな人が、あんな一癖も二癖もあるひねくれ男を好きだなんて……世の中、何があるか分からないものですねえ」

小町が面白がってそう告げた瞬間、陽乃の動きがピタリと止まった。

先ほどまでの余裕綽々な、どこかからかうような大人の笑みが、ほんの一瞬だけすっと消え失せる。

代わりに浮かんだのは、底の知れない冷徹さと、獲物を値踏みするような鋭い光を宿した「魔王」の顔だった。

陽乃はゆっくりとテーブルに肘をつき、組んだ指先で自身の唇を隠しながら、じっと小町を観察するように見つめた。

「……ねえ。君、さっきからその子のことをやけに詳しく知っているような口ぶりね。もしかして、学校の友達、あるいは……?」

その問いに、小町は怯むどころか、ふっと可愛らしく両肩をすくめてみせた。

そして、ストローから口を離すと、これ以上ないほど堂々とした笑みを浮かべてこう言い放ったのだ。

「ええ。私、彼とは『すごく深い関係』ですから。誰よりも、彼のことはよく知ってますよ」

ガツン、と。

陽乃の中で、何かが音を立てて警戒態勢に入った。

「深い関係、ねぇ……」

陽乃の目が細くなる。雪ノ下家の長女として、数々の人間関係やドロドロとした思惑を覗き見てきた彼女にとって、目の前の女子生徒が発する「深い関係」という言葉は、単なるクラスメイトの域を遥かに超越した重みを持っているように感じられた。

(まさか、雪乃だけじゃなく、こんなところにも伏兵が……? 一体、この子はあのひねくれ男とどういう関係なの……?)

陽乃の脳内で、急速に思考が回転する。

目の前の少女はまだ制服を着た新入生だというのに、全く動じないどころか、どこか余裕ですらある。自分の持つ待ち受け(八幡のデッサン画)の意味を理解した上で、あえてそこに入り込んできた。

これはただの生意気な後輩ではない。

――自分にとって、明確な「恋のライバル」、あるいはもっと厄介な「障害」になり得る存在だ。

陽乃の中で、小町に対する認識が「面白そうな子」から、一瞬にして「警戒すべき敵」へとカチリと切り替わった。

しかし、陽乃はそれを表に出さず、むしろ妖艶な笑みをさらに深くした。

「へえ……それは面白い。私より先に、その『深い関係』になれていたなんて嫉妬しちゃうな。一体、どんな関係なのかしら?」

「秘密ですー。教えてあげません」

小町はニコッと可愛らしく笑うと、運ばれてきたばかりのミラノ風ドリアにスプーンを入れた。

「それに、お姉さんがどれだけお兄ちゃんを好きでも、そう簡単には譲れませんからね。……なーんて、冗談ですけど!」

冗談だと言いながらも、その瞳の奥にある光は一切引く気配がない。

(――お兄ちゃんを狙う女は、雪ノ下先輩だけじゃなくて、このお姉さんもか……。まったく、どいつもこいつも厄介な美人ばっかり揃ってさあ!)

内心でやれやれと溜息をつきつつも、小町は「最強の妹(かつ最大の壁)」として、魔王・陽乃の正面に堂々と立ちふさがっていた。

夕暮れのサイゼリヤの片隅で、血の繋がりを超えた妹と、すべてを飲み込む魔王の間で、静かでありながらバチバチと火花を散らす「秘密の宣戦布告」が交わされていたのだった。

 

短編小説:魔王の狼狽、あるいは「妹の完勝」

「秘密ですー。教えてあげません」

ケラケラと笑う小町を前に、陽乃は美しく整えた眉をわずかにひそめた。その頭の中では、今聞いたばかりの言葉がぐるぐると渦を巻いている。

(深い関係、ねぇ……。学校の同級生にしてはやけに距離感が近いし、あのひねくれ男に対する当たりも妙に慣れている。まさか、彼女……?)

陽乃の脳裏に、一つの可能性が電撃のように走った。

――もしかして、この子は……!

「……ねえ」

陽乃は思わず身を乗り出し、いつも余裕な彼女にしては珍しく、少しだけ声を裏返らせた。

「もしかして君って……あの子の、『妹』ちゃん……?」

「え?」

小町はスプーンをピタリと止め、小首をかしげた。

「あ、気づいちゃいました? そうですよ、私、比企谷八幡の妹ですけど。何か変でした?」

ガタン、と。

陽乃の中で、長年積み上げてきた「完璧なお姉様」のペースが完全に崩壊した。

「い、妹……!? えっ、だって、妹があの男に対してそんな……『深い関係』とか、そんな挑発的な態度を……え、どういうこと……?」

いつもは周囲の人間を巧みな言葉と心理戦で翻弄し、面白そうに観察する側の陽乃が、完全に面食らい、目を白黒させてあたふたしている。あの雪ノ下陽乃をここまで動揺させる人間など、この世に両親か(あるいは当時のひねくれた八幡くらいしか)いなかったはずだ。

そんな陽乃の慌てふためく様子を見て、小町は心の中で「よし、完全にペースを握った!」とガッツポーズを決めながら、あくまで涼しい顔でクスクスと笑った。

「別にいいんですよー。そんなに驚かなくても。それだけお姉さんがお兄ちゃんのこと本気で好きって証拠みたいなもんですから」

小町はパッと椅子から立ち上がると、コートの裾を整え、まるで女王のような余裕の笑みを浮かべて陽乃を見下ろした。

「ふふっ。安心してください、ライバルが多いのはお兄ちゃんの魅力が増してるってことですからね! ……ま、うちの兄、なんだかんだでなかなかの『良い男』でしょ?」

そう言い残すと、小町は伝票をひょいと手に取り、「ごちそうさまー! お会計、お姉さんによろしくお願いしまーす!」と、これ以上ないほど爽やかに手を振ってサイゼリヤの自動ドアへと歩いていった。

残されたボックス席。

注文したレモンウォーターのグラスを手に持ったまま、雪ノ下陽乃は完全に固まっていた。

「……ま、負けた、かも……?」

あの比企谷八幡の「妹」という圧倒的なアドバンテージを背負い、さらにその上で自分を完全に手のの上で転がしていった小悪魔的な少女。

いつもは全てを冷ややかに見下ろしていたはずの魔王・陽乃は、生まれて初めて「高校生の一年生」に完敗したショックと、妙な悔しさと、そしてどこか面白すぎるという感情が入り混じり、思わずその場でポカンと口を開けたまま固まり続けるしかほかなかったのだった。

 

 

短編小説:女王の誤算、あるいは「比企谷家の牙」

夕暮れの街並みを抜け、自宅へと続く静かな住宅街を歩いていた小町は、ふと足を止めた。

上品で仕立ての良いコートをまとい、圧倒的な気品と冷徹な空気を纏った初老の女性――雪ノ下姉妹の母親が、まるで待ち構えていたかのように、そこへ立っていたからだ。

「……おや、あなたが比企谷くんの妹さんね」

雪ノ下母は、冷ややかな、けれどどこか値踏みするような視線を小町に向けた。

数々の修羅場をくぐり抜け、社会の頂点やプレッシャーを支配してきた人間特有の威圧感。普通の中学生・高校生であれば、その視線だけで気圧されて足がすくむほどのプレッシャーだった。

しかし、小町は一歩も引かなかった。

彼女の脳裏に、鮮明によみがえった記憶があった。――あの、兄が事故に遭い、全身に痛みを抱えながらも誰にも言わずに耐えていた頃のこと。あの時、責任の所在を曖昧にし、冷徹にその場をやり過ごそうとしたこの女性の姿を、小町は決して忘れてはいなかった。

小町はニコリと、けれどその瞳の奥の光が一切笑っていない、凍てついた笑顔を浮かべた。

「お久しぶりです、雪ノ下のお母様。……私のこと、覚えてますか?」

その声の低さと冷たさに、雪ノ下母はわずかに眉をひそめた。

「……生意気な口を利くのね。子供のくせに、大人の世界に首を突っ込むものではないわ。あの子と同じで、少しお灸を据えられたほうが――」

「子供、ですか?」

小町はフッと鼻で笑い、まっすぐにその冷酷な母親の目を捉えた。

「子どもと思って、舐めないでくださいね。あの時、お兄ちゃんがあの事故でどれだけ傷ついて、どれほど理不尽な痛みを一人で引き受けたか……。あなた、一言も謝罪なんてしませんでしたよね」

その言葉の重みに、雪ノ下母の表情がわずかに強張った。

「……あれは、その、お互いの過失というか――」

「言い訳はいいです」

小町は容赦なくその言葉を遮った。その小さな身体から放たれるのは、子どもをあやす余裕など微塵もない、狂気と愛憎が入り混じった「家族の牙」だった。

「お兄ちゃんの敵は、小町の敵です。どんな手を使ってでも、たとえ雪ノ下家が相手だろうと、小町は容認しません。潰しますよ、本気で」

静かに、しかし絶対的な殺意を孕んだその宣言に、雪ノ下母は思わず息を呑んだ。

目の前にいるのは、ただの生意気な女子高生ではない。比企谷家という、世間の常識や打算とは無縁の場所で、孤高の狼のように互いを守り合い、生き抜いてきた「異常なまでの結束力」の核心そのものだった。

――父も、母も、そしてこの妹も、いざとなれば一線を越えることをためらわない狂気を孕んでいる。それを、この小柄な少女の瞳がハッキリと物語っていた。

背筋を冷たいものが走り、雪ノ下母の額に冷や汗がにじむ。

だが、次の瞬間。

小町はふっと肩の力を抜き、パッと太陽のような無邪気な笑顔に戻ってみせた。

「なーんて! ちょっと脅しちゃいました! すみません、大人げなかったですねー!」

クルリと身を翻し、小町は立ち去り際に、ただ一言だけ、氷のように冷たい声で付け加えた。

「――お兄ちゃんが許しているなら、小町も大目に見いってあげます。お兄ちゃんが笑って許すなら、小町はこれ以上何もしません。……だけど」

小町は振り返りもせず、ただ前を向いたまま言い放った。

「次はないですからね。お兄ちゃんを泣かせたら、その時は本当にどうなるか分かりませんよ」

ヒラヒラと片手を軽く振ると、小町はそのまま夕闇の中へと軽快に歩去っていった。

残されたその場所で、雪ノ下母は全身の震えを隠せなかった。

社会的地位も、財力も、大人の理屈も通用しない。ただ純粋に、狂おしいまでの家族愛と牙だけを持った「最凶の妹」の背中を見送りながら、彼女は生まれて初めて、底知れない恐怖に膝を震わせるのだった。

 

 

短編小説:総武高校の裏路地、あるいは「兄妹の牙」

放課後の駅前通り、少し人通りの少ない裏路地。

「……だから、しつこいって言ってんでしょ。いい加減にしてよ」

聞き覚えのある、気の強さと気だるさが入り混じった低めの声が響いた。

そこにいたのは、派手な着こなしでありながらどこか隙のない沙希――川崎沙希だった。彼女を取り囲むように、他校の不良グループと思われる男たちが数人、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて詰め寄っている。

「冷たいこと言うなよ、川崎じゃねえか。ちょっとお茶くらい付き合えよ」

「おい、離れろって言ってるだろ……!」

男の一人が沙希の腕を強引に掴もうと手を伸ばしたその瞬間――。

「――そこまでにしておかないと、通報しちゃいますよー?」

凛とした、しかしどこか冷ややかな少女の声が路地に響き渡った。

男たちが振り返ると、そこには総武高校の制服を着た比企谷小町が、スマートフォンを片手に、全く怯む様子もなくスッと立っていた。

「んだおめえ、総武のガキが邪魔すんじゃねえよ」

「ガキ扱いしないでください。総武高校一年生、舐めると痛い目見ますよ?」

小町はスマホをポケットにしまうと、フッと息を吐き、足元をしっかりと踏み締めて戦闘態勢に入った。

――実は小町は、家で知っていたのだ。

あのひねくれた兄・八幡が、自分や大切な人たちを守るために、密かに自宅で体幹トレーニングや筋トレを重ね、いざという時に動ける体を維持していることを。

(お兄ちゃんが、誰かを守るために強くなろうとしてるなら……。なら、お兄ちゃんを守るのも、妹の務めでしょ!)

ヒュッ、と鋭い風を切る音がした。

「なっ……!?」

近づいてきた不良の一人が掴みかかろうとした瞬間、小町は日々の密かなトレーニングで鍛え上げた見事な身のこなしで相手の懐に潜り込み、合気道や護身術の要領でその腕を鮮やかにひねり上げた。体格差なんて関係ない、バランスと重心移動を利用した鋭い一撃。

「いてっ!? なんだこいつ……!」

「人の体にベタベタ触るもんじゃないですよ。おまわりさんに引き渡されたいですか?」

冷徹な瞳で見据える小町の気迫に、不良たちは「おい、なんだこのガキ……ヤバいぞ……」と気圧され、捨て台詞を吐きながらそそくさに逃げ出していった。

静まり返った路地裏。

沙希は目を見開いたまま、ポカンと口を開けて小町を見つめていた。

「……小町、ちゃん? いまの、なに……めっちゃ動きキレてなかった……?」

小町はパッと表情を緩め、いつもの太陽のような笑顔に戻って沙希に駆け寄った。

「大丈夫ですか、川崎先輩! えへへ、ちょっと最近、護身術をかじりまして!」

「……助かった。ありがとう、小町」

沙希は少し顔を赤らめながら、照れくさそうにお礼を言った。同じ総武高校の生徒として、八幡の妹というだけでどこか似た気質を感じていたが、まさかここまで肝が座っていて強いとは思っていなかったらしい。

だが、この一件は、思わぬ波紋を総武高校の校内に広げることになった。

この一部始終を偶然目撃していた下校中の総武高生たちが、噂を大げさに広めたのだ。

『2年の比企谷先輩の妹・小町が、不良グループを鮮やかな体術でボコボコにした』

『しかも容姿端麗、頭脳明晰、兄をリスペクトする最強のブラコン美少女』

その日から、総武高校の校内における小町のステータスは爆発的に跳ね上がった。

男子生徒からは「カッコよすぎる」「守られたい」と熱狂的な支持を受け、さらに女子生徒の間でも「不良を返り討ちにする凛とした姿がイケメンすぎる」「あんな妹欲しい、むしろ付き合いたい」と、男女問わず黄色い声を浴びる事態に。

気づけば、総武高校の校内には非公式の「比企谷小町ファンクラブ(男女混合・過激派)」が設立され、小町が廊下を通るたびに「小町先輩、今日も美しすぎます!」「お茶奢らせてください!」と黄色い歓声が飛び交うようになっていた。

その噂を聞きつけた奉仕部にて。

「……なぁ。なんか最近、うちの妹が学校のアイドルどころか、ちょっとした用心棒みたいな扱いになってるんだけど、俺の気のせいか?」

机に突っ伏しながら遠い目をする八幡に、雪乃と結衣は複雑な顔で顔を見合わせた。

「……あなたの妹さんはね、もうすぐ総武高校全体を牛耳る女王様かもしれないわね」

「いや、でもカッコいいのは事実だし……って、ハッチー、妹のファンクラブとか知らなかったの?」

「聞いてねぇよ! なんで俺の妹が総武の男にも女にもキャーキャー言われてんだよ、おかしくだろ!」

頭を抱えて絶望する八幡の背後で、当の小町は「いやあ、お兄ちゃんを守るためには日々の鍛錬が大事ですからね!」と、今日も元気に総武高校のファン(男女)からの差し入れのプリンを美味しく平らげているのだった。

 

 

短編小説:陽乃の動揺、あるいは「底知れぬ妹」

総武高校での騒がしい一日が終わり、夜のとばりが降りた雪ノ下家のリビング。

高級な間接照明が静かに照らす部屋で、雪ノ下陽乃はソファに深く腰掛け、手元のグラスを見つめたまま、微動だにせずに考え込んでいた。

(……あの日のサイゼリヤで、完璧にペースを握られたと思ったら……)

陽乃の脳裏に蘇るのは、夕方に母親から連絡があった時のことだ。

普段はどんな困難や不測の事態に対しても泰然としており、冷徹なまでの余裕を崩さないはずの母親が、電話口で微かに声を震わせてこう言ったのだ。

『……陽乃。今日、比企谷家の妹という少女に会ったわ。……あれは、危険よ。関わるべきではないわね』

あのプライドが高く、周囲の人間を駒のように見下してきた母親が、高校一年生の少女に怯え、震えていた。

その事実だけでも異常事態なのだが、さらに思い出すのは、その母親に小町が放ったという言葉の数々だ。

――「お兄ちゃんの敵なら小町の敵」「どんな手を使ってでも、雪ノ下家が相手だろうと、潰す」

「……はぁ、本当に……」

陽乃はグラスをテーブルにコツンと置き、小さいため息をついた。

彼女は自分のスマートフォンを取り出し、画面に映る待ち受け――昨年の文化祭で描かれた、気だるげな八幡のデッサン画をそっと指でなぞる。

「……あの子の妹ちゃん、恐れ入ったわね。私だけじゃなく、お母様まで一撃で沈めちゃうなんてさ」

最初は、雪乃の周りに現れた「少し生意気で面白い後輩」くらいにしか思っていなかった。

だが、違った。彼女は単なる「ブラコンの妹」などではない。

比企谷八幡という孤高の男を心から敬愛し、その平和を守るためなら、社会的な地位や大人の権力など平気で踏み潰す覚悟を持った、本物の「牙」だった。

「雪乃があの子に敵うわけないし、私だって……ううん、下手したら私たち姉妹丸ごと、あの小さな女の子の手のの上で転がされているのかもしれないわね」

陽乃は呆れたような、しかしどこか底知れない恐怖と、強烈な面白さが入り混じった複雑な笑みを浮かべた。

「……ますます、あのひねくれたお兄ちゃんが欲しくなっちゃうじゃない。どうしてあんな家には、あんなに強くて眩しい『家族』がいるのよ」

誰もいない静かなリビングで、雪ノ下陽乃は乾いた笑い声を漏らしながら、未だに底の知れない比企谷小町という存在の恐ろしさと、その先に広がる泥沼のような恋のゲームに、ゾクゾクするほどの興奮を覚えるのだった。

 

 

短編小説:奉仕部の和解、あるいは「恐怖の正体」

放課後の奉仕部。

いつものように紅茶の香りが漂う部室だが、今日の空気を支配していたのは、紅茶の湯気ではなく、雪ノ下雪乃のただならず緊迫した気配だった。

ソファに座る雪乃は、カップをソーサーに置くと、覚悟を決めたような、それでいてどこか気まずげな表情で、目の前に立つ小町を見つめた。

「……小町ちゃん。少し、いいかしら」

「はい? 雪ノ下先輩、改まってどうしたんですか?」

小町が首をかしげると、雪乃はスッと立ち上がり、小町の真っ直ぐ前に歩み寄ると、綺麗に、そして深く頭を下げた。

「……あの時のことよ。比企谷くんが事故に遭った時……母が、十分な対応もせず、あなたたちに負担をかけたこと。そして、あの時……ちゃんと謝罪ができなかったこと。ずっと、心のどこかに引っかかっていたの。……本当に、ごめんなさい」

その謝罪は、プライドの高い雪ノ下雪乃が、誰かに心から頭を下げるという稀有なものだった。

過去のしがらみ、母親の冷徹さ、そして自分が背負ってきた「雪ノ下」という重荷。それらをすべて引き受けた上での、誠実な言葉。

しかし、当の小町はきょとんとした顔をしたあと、ふっと柔らかく、どこか達観したような笑みを浮かべた。

「……あ、なんだそんなことですか。頭上げてくれませんか、先輩。そんな真面目な顔されると小町が困っちゃいますよ」

小町はヒラヒラと手を振って雪乃を促し、そしてこう続けた。

「それに、あの事故の時……先輩、ちゃんと言ってくれましたよね。『兄が勝手に飛び出したから』って、必死に頭を下げてくれたじゃないですか。だから、もういいんですよ。終わったことです」

雪乃はハッと顔を上げ、小町を見つめた。

あの時、自分が震えながら絞り出した言葉を、この少女はちゃんと聞いていて、そして許してくれていたのだと知る。

「……それに」

小町は小悪魔的にクスッと笑い、肩をすくめた。

「噂に聞きつけましたけど、うちのお母様――じゃなくて、雪ノ下のお母様に、小町がちょっと直接『釘を刺した』って話、もう耳に入っちゃいました?」

「っ……!」

その名前が出た瞬間、雪乃の背筋に冷たいものが走った。

「……聞いたわ。母から連絡があったもの。『あんな恐ろしい少女には関わるな』って、怯えながら電話をしてきたわよ。……ねえ、小町ちゃん。あなた、一体母に何をしたの……?」

雪乃の問いに、小町は首を傾げながら、まるで天気の話でもするかのように平然と言い放った。

「えー? 別に大したことはしてませんよ? ただ、『お兄ちゃんの敵なら雪ノ下家が相手だろうと潰します』って、優しくお伝えしただけです。だってお兄ちゃんを傷つけた人なんですから、それくらい当然じゃないですか?」

「…………は?」

雪乃の思考が、完全に停止した。

相手は、政治・経済界の裏や、数々の権力者たちをも牛耳ってきた「雪ノ下家の母親」である。大人であっても震え上がるようなその絶対的な権力者を前にして、この高校一年生の少女は、まるでそこらの路地裏で会った厄介なおばさんを威嚇するかのように、堂々と宣戦布告してきたというのか。

(――違う……)

雪乃の背筋を、恐怖とは違う、もっと根源的な戦慄が駆け抜けた。

小町は、その母親が持つ権力や財力を「知らない」わけではない。全てを知った上で――その上で、そんなものは比企谷家の絆や兄の愛の前には何の意味もないと切り捨て、平然と牙を向ける胆力を持っているのだ。

(この子は……この少女は、本気で私たちの一族を丸呑みにする気だわ……!)

ただの「ブラコンの妹」などという可愛い評価は、すでに過去の遺物だった。

目の前にいるのは、愛する兄を守るためなら、社会のルールすら踏み潰しかねない「比企谷家の牙」そのものだったのだ。

そんな雪乃の引きつった顔を見て、小町はふっと悪戯っぽく微笑み、雪乃の肩をポンと軽く叩いた。

「なーんて! 冗談ですよ、冗談! お兄ちゃんが今の雪ノ下先輩のことも、お母様のことも、過去のこととして受け入れてるなら、小町もこれ以上怒ったりしませんよ。……だから、安心してください、お姉様?」

「お、お姉様……?」

「はい! だってお兄ちゃんを巡る大事なライバルなんですから、仲良くしないとですね!」

ケラケラと笑いながら自分の席に戻っていく小町の背中を見つめながら、雪ノ下雪乃は、生まれて初めて「人間以外の圧倒的な何か」を目の当たりにしたような、激しい目眩と、どうしようもない気後れを覚えるのだった。

(……勝てるわけがないわ。こんな妹が後ろに控えている男を、一体どうやって手に入ろじというの……!)

だが、その恐怖の裏側で、雪乃の胸の奥底には、なぜか消えない熱い闘志と、奇妙な憧れの感情がメラメラと燃え上がり始めていた。

 

短編小説:血族の証明、あるいは「比企谷家の仲間入り」

戦慄を覚えたあと、雪ノ下雪乃はわずかに呼吸を整え、目の前でケラケラと笑う少女の横顔をじっと見つめ直した。

――「お兄ちゃんを傷つけた人なら、雪ノ下家が相手だろうと潰す」

あの狂気じみたまでの執着と、それを笑いながらやってのける胆力。常識的に考えれば、そんな危険な一族とは一刻も早く距離を置くべきなのだろう。

しかし、雪乃の胸に去来したのは恐怖ではなく、なぜか不思議な納得感だった。

「……でもね」

小町はふと表情を引き締め、どこか誇らしげに、そして穏やかな声でこう続けた。

「逆の立場だったら、お兄ちゃんだって絶対小町のために同じことをするんです。……私たちの家族って、みんな似てるんですよ。根本的な性格が、ね」

その言葉を聞いた瞬間、雪乃の脳裏にあのひねくれた少年の顔が浮かんだ。

普段は面倒くさそうに溜息をつき、ひねくれた理屈ばかりこね回す比企谷八幡。しかし、誰かが理不尽な目に遭ったり、大切なものが傷つけられそうになった時、彼は自分の体を張って、泥をかぶって、すべての悪役を引き受けてきた。

あれはただの自己犠牲ではない。

あの男もまた、「大切な家族や仲間を守るためなら、世間の目も、自分の評価もすべてかなぐり捨てる」という、狂おしいまでの保護欲と狂気をその心に宿しているのだ。

(――そうよ。あの兄にして、この妹あり……というわけね)

血の繋がりを超えた、あまりにも強固で、あまりにも歪で、けれどあまりにも温かい「比企谷家」という名の孤高の狼たち。

雪乃はふっと息を吐き、そしてハッと目を見開いた。

もし――もし自分が、この比企谷八幡という男と結ばれ、彼の隣に立つことができたなら。

それは単なる「恋愛の成就」などではない。あの恐ろしくも頼もしい「比企谷家」という牙城の、正真正銘の「仲間入り」を果たすということだ。

いざという時には世界を敵に回してでも守ってくれる最強の夫と、どんな権力者をも一喝する最強の義妹。

そんな、どこまでも頼もしく、どこまでも温かい「家族」の輪の中に、自分も加わることができるのだとしたら――。

(……ふっ。何を怖気づいていたのかしら、私は)

雪乃の琥珀色の瞳に、再び強い光が宿った。

恐怖心は綺麗に消え失せ、代わりに胸の奥底からふつふつと湧き上がってきたのは、負けず嫌いな彼女らしい、激しいまでの闘志と、ほんの少しの甘い期待だった。

ここで諦めるなど、雪ノ下雪乃のプライドが許さない。あの最強の妹に「お姉様」と認めさせ、あのひねくれた男の隣を完全に勝ち取ってみせる。

「……そうね。小町ちゃんの言う通りだわ」

雪乃はスッと背筋を伸ばし、美しく、どこか不敵な笑みを浮かべて小町を見据えた。

「あなたのその覚悟、しかと受け取ったわ。……せいぜい覚悟しておきなさい。いつか私が、あなたを本当に『お姉様』と呼ばせてあげるんだから」

その雪乃の力強い宣戦布告を聞いた瞬間、小町は一瞬だけ目を丸くし、そして――これ以上ないほど嬉しそうに、パッと花が咲くような笑みを浮かべた。

「……おっ、いいですねえ、その顔!」

小町は満足そうに両手を腰に当て、頼もしいものを見るような瞳で雪乃を見つめた。

(さすが雪ノ下先輩! 最初は怖がっちゃいましたけど、やっぱりお兄ちゃんを狙うお姉様方はこれくらい肝が据わってないと面白くないですよね!)

互いに腹を割って笑い合いながら、しかし決して引く気のない二人の間に、不思議な連帯感と、さらに熱を帯びた「恋の戦場」の空気が満ちていく。

――最強の妹が微笑み、最高のヒロインが牙を剥く。

比企谷八幡を巡る物語は、もはやただの青春ラブコメディの枠を遠く飛び越え、最高にスリリングで愛おしい「家族争奪戦」へと突入していくのだった。

 

 

 

短編小説:魔王との密談、あるいは「兄の価値」

数日後、放課後の落ち着いたカフェのテラス席。

そこには、あの雪ノ下陽乃と、当の比企谷小町が向かい合って座っていた。

「……あの時は、本当に驚かされたわ」

陽乃は優雅にカップを傾け、ふっと苦笑いを浮かべた。あのサイゼリヤでの一件以来、彼女の中で小町に対する評価は「生意気な後輩」から「完全なる強敵(かつ要注意人物)」へと完全に塗り替えられている。

「いえいえ、こちらこそ大人げなくてすみませんでしたー」

小町はストローでアイスココアを吸いながら、カラリとした笑みを返す。

陽乃はテーブルの上に置いたカップをそっと戻すと、真剣な、しかしどこかからかうような妖しい光を瞳に宿して小町を見つめた。

「それでね、小町ちゃん。あの日の『お兄ちゃんの敵なら雪ノ下家が相手だろうと潰す』っていう宣戦布告……あれ、本気だったのかしら?」

「さあ、どうでしょう?」

小町は小首をかしげ、小悪魔的に微笑んでみせる。

「ただ、お兄ちゃんに対する私たちの『覚悟』がどれほどのものか、お姉さんは試してみたいんじゃないですか?」

「……覚悟、ね」

陽乃はふっと目を細め、興味深そうに息を漏らした。

「いいわ。じゃあ、見せてちょうだい。小町ちゃんがどれだけ本気で、あのひねくれた男を我が物にしようとしているのか……その『覚悟』の片鱗をさ」

「ふふ、そこまで言うなら特別ですよ」

小町はカバンからスマートフォンを取り出し、画面を操作すると、スッと陽乃の目の前へと差し出した。

そこに映し出されていたのは――紛れもなく、比企谷八幡の「半裸」の写真だった。

自宅の自室で油断しているところを激写されたのか、余計な脂肪のない引き締まった上半身、気だるげにこちらを睨むような(あるいは寝起きの)無防備な表情が、あまりにもエロカッコよく画面いっぱいに広がっている。

「っ……!」

常に余裕綽々だった雪ノ下陽乃の呼吸が、わずかに乱れた。

完璧な美貌と妖艶さを持つ彼女であっても、予想の斜め上を行く「超一級の爆弾」を目の当たりにすれば、さすがに動揺を隠せないらしい。

「ど、どうですか?」小町はしたり顔で胸を張る。「これ、小町が日々コツコツとコレクションしているお兄ちゃん秘蔵のプライベートショットです。……欲しいですか、お姉さん?」

陽乃はぐっと息を飲み、そしてわずかに喉を鳴らした。

「……欲しい、わね。正直、喉から手が出るほど欲しいわ。……で、いくら出せばいいの?」

「ふふっ、そう簡単には売れませんよー。いくら出せます?」

小町が面白半分で「まあ、せいぜい1万とか……?」と考えていたその瞬間。

陽乃はスッと優雅に微笑み、右手の人差し指を一本だけ、迷いなくピッと立ててみせた。

「…………え?」

小町は思わず目を見開き、フリーズした。

「いち、まん……?」

「ううん」

陽乃は美しく艶やかな笑みを浮かべ、はっきりとこう言い放った。

「100万よ」

「……は、はい……!?」

小町は完全に言葉を失った。

(ひ、100万……!? 写真一枚に100万……!? この人、本気で狂ってる……いや、お兄ちゃんを舐めすぎというか、本気度が違いすぎる……!)

心の中で盛大にツッコミを入れながら、小町は冷や汗を拭った。

(待ってよ、うちのお兄ちゃんって……もしかして、ホストとしての才能とか秘められてるの……? ただのひねくれた無気力男じゃなくて、実は数百万を軽く稼ぎ出す系のハイパーイケメンだったの……!?)

小町のあまりの驚愕っぷりに、陽乃は勝ち誇ったようにクスリと笑った。

「どう? 私の『覚悟』、これで少しは証明できたかしら?」

しばらく呆然としていた小町だったが、すぐにハッと正気を取り戻し、あきれたような、しかしどこか感心したようなため息をついた。

「……お姉さん、本気でヤバい人ですね。お兄ちゃんも大変だわあ」

小町はやれやれと首を振りながら、スマホの画面をタップしてデータを転送する準備を始めた。

「まあ、そこまでの覚悟と財力を見せつけられたら、小町としても断る理由はありません! お金のやり取りはアレですし……その代わり、今日のこのカフェのお代と、ついでに駅前のサイゼリヤを全額奢ってくれたら、その写真、特別にあげちゃいます!」

「……え?」

今度は、陽乃が目を丸くする番だった。

「100万円出すって言ったのに、それだけでいいの?」

「だってお金もらったら、お兄ちゃんに変な疑われちゃいますもん! それより、お姉さんにサイゼリヤのミラノ風ドリアを限界まで奢ってもらう方が、小町としては嬉しいんです!」

ポカンと口を開けたまま、完全に意表を突かれて固まる魔王・陽乃と、それをニヤニヤと楽しそうに見上げる最強の妹。

一歩間違えれば危険すぎる密談は、なぜか「サイゼリヤの奢り」というシュールな結末をもって、和やかに幕を閉じるのだった。

 

 

短編小説:血の報復、あるいは「比企谷家の逆鱗」

それは、あまりにも唐突に訪れた悪夢だった。

放課後の帰り道、青信号の横断歩道を渡っていた比企谷小町に、一台の乗用車が猛スピードで突っ込んできた。

運転していたのは、酒気帯び状態の男だった。ブレーキを踏む音すらない、悪質な飲酒運転。小町は咄嗟に身をかわそうとしたものの、車体は彼女をかすめ、コンクリートの路面へと激しく叩きつけた。

救急搬送された病院の緊急手術室の前。

血まみれの制服をまとったまま、比企谷八幡はまるで感情の抜け落ちた人形のように立ち尽くしていた。

「……輸血が必要です。患者の血液型は……希少な……」

医師の切迫した声に、八幡は一瞬の迷いもなく自分の腕を差し出した。

「俺のを使ってくれ。型は合うはずだ……頼む、小町を助けてくれ」

自分の血がチューブを伝い、最愛の妹の身体へと流れ込んでいく。その冷たい感覚の中で、八幡の脳裏にあったのは恐怖でも絶望でもなかった。ただ一つ、黒く濁った、底知れない殺意だけだった。

――あの時。

小町の手術が無事に成功し、命に別状がないことが告げられたその夜。

「比企谷家」の静かなる反撃が始まった。

世間一般の高校生であれば、せいぜい警察の捜査や裁判の判決を待つことしかできない。だが、彼らは違った。

普段は無気力でひねくれているだけの八幡だが、いざ「家族」という絶対的な逆鱗に触れた時、彼は一切の容赦を見せない。さらに、裏社会や経済界の深部にまで通じる「比企谷本家」の隠されたパイプと莫大な財力が、文字通り水面下で牙を剥いた。

わずか数日。

それだけで、飲酒運転の加害者の男の人生は完全に粉々に砕け散った。

経営していた会社は不可解な不祥事と全取引先の契約解除によって一瞬で倒産し、個人資産はありとあらゆる法的・非合法の手段(もちろん違法すれすれの圧倒的な合法的圧カによって)で差し押さえられ、SNSやメディアには男の過去の悪事がすべて暴露された。

その男は社会的な居場所を完全に失い、二度と日の目を浴びることができない「社会的抹殺」という名の地獄の底へと叩き落とされたのだった。

この一連の出来事の一部始終を聞きつけた雪ノ下家の母親は、自室の椅子に座ったまま、全身の震えが止まらなかった。

「……嘘、でしょう……?」

警察や司法を動かすのではなく、企業や社会のシステムそのものをハッキングするかのように、一人の人間の社会的生命を完全に消し去る。あの日、小町が自分に言い放った「雪ノ下家が相手だろうと潰す」という言葉が、決してハッタリなどではなく、この一族の持つ「現実の力」なのだと思い知らされた。

額に冷や汗を流し、母親は恐怖に顔を引きつらせた。

――あの家族は、本気だ。絶対に怒らせてはならない。関わってはならない怪物の一族だわ……!

一方、この戦慄の報復劇の裏側を知った雪ノ下雪乃は、病院のロビーで、ぐっと自分の胸元を握りしめていた。

(……比企谷くんが、あそこまで……)

大切な妹を傷つけられた怒りから、一切の躊躇なく、容赦なく加害者を社会から消し去った八幡のやり方。それは決して褒められた手段ではないのかもしれない。けれど、雪乃の胸に去来したのは恐怖ではなく、むしろ胸を打つような熱い感情だった。

――なんて、頼もしいのかしら。

もし自分がこの男のパートナーになれたなら。この人は、自分が理不尽な絶望に叩き落された時、世界を敵に回してでも、同じように泥をかぶって、すべてを壊して守ってくれるだろう。

それは歪んでいるかもしれない。けれど、これほどまでに絶対的な「愛と絆の証明」が他にあるだろうか。

雪乃の瞳には、恐怖ではなく、さらに深まった執着と甘い熱が灯っていた。

そして、そんな緊迫した空気が漂う病院の廊下の片隅で、すべてを聞かされた雪ノ下陽乃は――。

「えーっと……?」

綺麗な首をかしげたまま、完全に思考を停止させていた。

「……え、ちょっと待って? 妹ちゃんが事故に遭ったのは大変だけどさ、それを聞いた途端に、あのひねくれ男が本家の力を使って一瞬で犯人を社会的に抹殺したって……? え、ドラマの主人公すぎない? いや、それもうヤクザのやり方じゃん……?」

いつもは周囲の人間を手のの上で転がし、すべてを理解しているはずの魔王・陽乃は、自分の理解の範疇を遥かに超えた「比企谷家のガチすぎる愛と狂気」を目の当たりにし、美貌を台無しにするほどポカンと口を開けたまま、完全にフリーズしていた。

――妹の危機に際し、容赦なく牙を剥いた最強の兄。

そして、その狂気と愛の深さにそれぞれ別の意味で圧倒される雪ノ下家の母、妹、そして姉。

比企谷家を敵に回す者がいかに愚かであるかを、世界は嫌というほど思い知らされるのだった。

 

 

短編小説:正義の限界、あるいは「葉山隼人の覚悟」

病院の一件――比企谷家が水面下で見せた、あまりにも圧倒的で容赦のない報復劇の噂は、ごく一部の人間、それも底知れぬ勘を持つ者たちの耳にひっそりと届いていた。

総武高校の生徒会室、あるいは放課後の図書室。

誰もいない窓際で、葉山隼人は一人、分厚い法学の専門書を開いたまま、じっと窓の外を見つめていた。

「……社会的抹殺、ね」

葉山は小さく呟き、苦虫を噛み潰したような顔で目を伏せた。

彼が目指しているのは「法律」の道だ。正義と秩序の枠組みの中で、社会のルールを守り、誰もが納得できる形で人々を救う弁護士――それが、彼が描いてきた理想の将来像だった。

しかし、目の前で起きた現実は、その理想を嘲笑うかのようにあまりにも理不尽で、あまりにも強烈だった。

法や正義の手続きを踏むまでもなく、一族の狂気と圧倒的な実行力によって、悪人を一瞬で社会の底へと叩き落とした比企谷八幡という男。

(……そんなやり方、法曹界の常識から見れば許されない。許されるはずがないんだ)

頭ではそう分かっている。正義の側から見れば、比企谷家のやり方は「私刑」であり、越権行為であり、決して褒められたものではない。

だが、葉山の胸の奥をざわつかせているのは、そんな正論ではない。

――もし、大切な人が同じように傷つけられた時、自分はあのようにすべてを敵に回して、泥をかぶって、その手を汚すことができるだろうか?

「……できないよな、僕には」

葉山は自嘲するように笑った。

彼は「皆に好かれる優等生」「誰からも期待される葉山隼人」という殻をずっとまとってきた。誰も傷つけず、誰からも嫌われず、誰にとっても完璧な選択肢を選ぼうとするその生き方は、美しく見えるかもしれない。だが、その実、土壇場で本当に大切なものを守るための「牙」を、彼は持っていない。

法という綺麗事の盾を構え、安全な場所から正義を語るだけの自分と、愛する家族のためなら世界を敵に回すことを恐れない比企谷八幡。

どちらが本当に「強い」かなんて、考えるまでもなく明白だった。

(……このままじゃいけない)

葉山は本をパタンと力強く閉じ、机に置いた。

優等生としての仮面を剥ぎ取り、綺麗事の正義の枠組みの外へ踏み出さなければ、あの男には絶対に勝てない。比企谷八幡という、常識の通じない規格外の存在と対等に向き合うためには、自分の中にある「優しさ」や「保身」という名の殻を、完全に打ち破る必要がある。

「弁護士になって法律で人を救う? そんな綺麗なことだけじゃ、誰も守れない……!」

葉山の瞳に、かつてないほど鋭く、熱い光が灯った。

誰もが恐れる比企谷家の圧倒的な力。その「暴力的なまでの愛と覚悟」を前にして、彼は法という武器をどう磨き、どう立ち向かうのか。

綺麗なお兄さんを卒業し、一人の男として殻を破り始めた葉山隼人の新たな戦いが、静かに、そして確実に動き出そうとしていた。

 

短編小説:病室の温もり、あるいは「最強の妹の誤算」

病院の白い消毒液の匂いが漂う静かな個室。

カーテンの隙間から差し込む夕日が、ベッドの上でスヤスヤと眠る少女の横顔を柔らかく照らしていた。

ピクッ、と小町の睫毛が小さく揺れた。

「……ん……」

ゆっくりと目を開けた小町が視線を巡らせると、すぐ傍らのパイプ椅子に座り、自分の手を両手でしっかりと包み込むように握りしめている人物の姿が目に入った。

「……お、にいちゃん……?」

かすれた声で呟くと、八幡はハッと顔を上げた。その顔は、ここ数日間の緊張と寝不足でひどくやつれ、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいたが、その瞳には文字通り「世界を取り戻したような」圧倒的な安堵の光が宿っていた。

「小町……!」

言葉を紡ぐよりも早く、八幡はベッドの縁にすがりつくようにして、目覚めたばかりの小町をそっと、けれど壊れ物を扱うように力強く抱きしめた。

「っ……!」

小町の心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。

いつもは「ひねくれ者」「残念なお兄ちゃん」「買い出しの下僕」くらいにしか思っていなかったはずのその背中。毎日のように軽口を叩き合い、軽くいなしてきたその体温が、今はやけに大きく、分厚く、そして男らしい熱を帯びて自分を包み込んでいる。

(――え……? うそ、ちょっと待って……?)

小町の脳内で、盛大に警報ベルが鳴り響いた。

いつもなら「お兄ちゃん、シャツ汗臭いですよー」なんて軽口を叩いて突き飛ばすはずなのに、今の自分はなぜか、彼の広い背中に腕を回すこともできず、ただ硬直したまま、トクン、トクンと伝わってくる兄の心臓の音を間近で聞いてしまっている。

(やばい、やばい、やばい……っ! 私、今めちゃくちゃ顔赤くなってない!? これじゃあただの「お兄ちゃんが大好きな可愛い妹」どころか、完全に「恋する乙女」の顔になってるじゃん……!)

懸命に理性を総動員し、心の中で自分を戒める小町。

(しっかりしなさい小町! 相手はお兄ちゃんなのよ!? いくら血が繋がってない(※実は繋がってる普通の兄妹設定です)とはいえ、家族なんだから、こんなのただのブラコンの行き過ぎよ、落ち着け私……っ!)

顔を真っ赤に染め、頭から湯気が出そうなほど必死で自制心を働かせる小町だったが、背中に回された八幡の大きな手が、ポンポンと優しく、愛おしそうに頭を撫でた瞬間――。

(――無理……! お兄ちゃん反則すぎでしょ、こんなの絶対意識しちゃうじゃん……っ!)

小町の完全無欠だった「最強の妹」としてのプライドと冷静さは、その一撫でで音を立てて崩れ去り、彼女は完全にただの「年頃の少女」へと変貌してしまっていたのだった。

そんな、ベッドの上で必死に顔を隠しながら真っ赤になっている娘の様子を、病室のドアの小窓から、両親がそっと覗き見ていた。

「あらあら……」

母親がクスクスと嬉しそうな笑い声を漏らす。

「うちの息子も、いざという時はちゃんと頼りになる男の顔をするじゃないか」

父親も腕を組みながら、ニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべて頷いた。

「だな。……にしても、あんなに肝の据わった小町が、あんな真っ赤になってタジタジしてる顔なんて、めったに見られないぞ」

「ふふ、青春ねえ。……まあ、あの二人なら、将来どうなってもお似合いかもしれないわね」

窓の外から、親バカ全開のニヤニヤ笑いを向けられていることなど、ベッドの上の二人は気づきもしない。

最強の妹・小町は、生まれて初めて「お兄ちゃんという一人の男の存在」に完敗し、激しく動揺する自分の心臓の音を必死に隠しながら、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめるしかなかったのだった。

 

短編小説:病室の扉の向こう、あるいは「乙女の決意」

病室の少し開いたドアの隙間。

その扉の向こう側で、息を潜めて中の様子を覗き込んでいたのは、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、一色いろは、そして川崎沙希の四人だった。

ベッドの上で真っ赤になり、必死に動揺を隠そうとしている小町の姿と、それを優しく抱きしめる八幡の背中。その一部始終を目撃してしまった彼女たちは、それぞれの表情で固まっていた。

「……ねえ」

由比ヶ浜結衣が、信じられないものを見るような目で呟いた。

「いまのって……どう見ても、ただの『お兄ちゃんと妹』のスキンシップじゃなかったよね……?」

「ええ、間違いなく」

一色いろはは、自分の頬をペタペタと両手で触りながら、引きつったような、しかし妙に納得したような声を漏らした。

「あんなに肝が据わってて、私たちを手の上の上で転がしてた小町ちゃんが、完全に女の子の顔してましたよ……。お兄ちゃんの前で、あんな可愛い顔するなんて反則じゃないですか」

「……」

川崎沙希は腕を組み、気まずそうに目を泳がせた。

「助けてもらった恩もあるし、あまり変なことは言いたくないけどよ……あいつら、普段からあんな感じなのか……?」

三人がそれぞれにざわめく中、雪ノ下雪乃だけは、微動だにせず病室の中を見つめていた。

彼女の琥珀色の瞳は、驚きというよりも、どこか深い納得と、そして負けず嫌いなライバル心を燃やすような複雑な光を帯びていた。

「……いやあ」

雪乃はふっと小さく息をつき、どこか遠い目をした。

「あの子は、あそこでよく踏みとどまったものだわ。あんな風に真っ直ぐ想いを向けられたら、普通は理性なんて吹き飛んでしまうものよ」

「え、雪乃ちゃん、それってもし自分が……」

結衣がドキリとして雪乃の顔を覗き込むと、雪乃はわずかに頬を赤らめつつも、いつもの澄ました美しい笑みを浮かべて、サラリと言い放った。

「当然よ。あそこにいるのがもし私だったら――あんな風に抱きしめられて、頭なんて撫でられたら、顔を赤くせずにはいられないでしょうね」

そのあまりにも堂々とした、そして実質的な「私だって本当は抱きしめられたい宣言」に、結衣といろはは「うわぁ、雪ノ下先輩が直球でぶっこんできた……!」と盛大に顔を覆い、沙希も「おいおい、聞いてるこっちが恥ずかしくなるぞ」と耳まで真っ赤にしてたじろいだ。

しかし、雪乃のその言葉の裏には、確かな覚悟があった。

小町がどれほど八幡を大切に想い、どれほど強固な「家族の絆」で結ばれているか。それを目の当たりにしたからこそ、雪乃の闘志は折れるどころか、さらに激しく燃え上がっていた。

(――血の繋がりがあろうとなかろうと関係ないわ。あの強い妹さんに認められ、そしてあのひねくれた男の隣に並ぶ資格を、私は絶対に手に入れてみせる)

病室の中で照れ隠しに慌てる小町の姿を最後にそっと視線から外し、雪乃はスッと背筋を伸ばした。

その後ろ姿から放たれる圧倒的な美しさと気迫に、結衣たちも息を呑む。

最強の妹の可愛すぎる秘密と、それを目撃したヒロインたちの新たな宣戦布告。

平穏な日常の裏で、比企谷家を巡る恋のバトルは、さらに予測不能で最高にスリリングなステージへと突入していくのだった。

 

短編小説:病室の廊下、あるいは「妹の哲学」

病室をそっと離れ、病院の静かな廊下のベンチに腰掛けた四人。

先ほどの光景の余韻がまだ空気に残る中、雪ノ下雪乃はカップの自販機から買った温かい紅茶を指先で転がしながら、ふと、隣に座っていた小町――ではなく、少し離れたところで腕を組んで考え込んでいた小町に声をかけた。

「ねえ、小町ちゃん」

「はい? 雪ノ下先輩、どうしました?」

スタスタと歩いてきた小町は、いつもの少し小悪魔的な、けれどどこか照れくさそうな笑みを浮かべていた。

雪乃は真っ直ぐにその瞳を見つめ、ずっと気になっていた疑問をそっと口にした。

「さっき……あなた、お兄ちゃんがあんな風に抱きしめてくれたのに、途中で必死に自分を抑え込んで、一歩引こうとしていたわよね。……どうして?」

その問いに、周囲にいた結衣やいろは、沙希もぴたりと動きを止め、息を呑んで小町の返事を待った。

小町は少しだけ目を丸くし、それから、困ったような、でもどこか愛おしそうな、優しい笑みを浮かべた。

彼女は自分の両手を軽く合わせ、ぽつりと言葉を紡ぎ出した。

「……だって、お兄ちゃんは優しいから」

「優しい……?」

「はい。あそこのお兄ちゃんは、本当にどうしようもないくらい、人のために自分を犠牲にしちゃう人なんです。私が『好き』って言ったり、もし本気で縋りついたりしたら……お兄ちゃんは、私のことを最優先にしちゃうかもしれない」

小町は窓の外の夜空を見上げ、どこか誇らしげで、けれど切なそうな目をすっと細めた。

「それが分かっているから……縛りたくないんです。『小町が好き』って言えば、お兄ちゃんはたとえ他に好きな人ができたとしても、私のためにその気持ちを押し殺して、小町を選んでくれちゃう気がするから。……それが怖いのと、申し訳ないのとで、加減がすごく難しいんですよねー、かな?」

軽口のように、冗談めかして笑ってみせた小町。

しかし、その言葉の裏に隠されていたのは、自分が一番でありたいという独占欲を遥かに超越した、あまりにも深くて重い、自己犠牲的なまでの愛情だった。

自分のせいで、あのひねくれた優しい兄の選択肢を狭めたくない。彼に自分の人生の重荷をすべて背負わせたくない。

それを聞いた瞬間、雪ノ下雪乃は、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。

(――縛りたくない、だと……?)

恋愛において、人はどうしても「相手のすべてが欲しい」「自分だけを見てほしい」と願ってしまうものだ。ましてや血の繋がった(あるいは一番近くにいる)家族であればなおさら、その愛を独占したいという欲求に駆られてもおかしくない。

それなのに、この少女は、相手の優しさを知っているからこそ、自分の気持ちをあえて手綱で引き締め、彼の自由や未来を守ろうとしている。

それは、生半可な「ブラコン」などではない。

魂のレベルで比企谷八幡という人間を理解し、愛し、支えている――本物の、底知れない「深い愛情」そのものだった。

雪乃は胸の奥がキュッと締め付けられるような、痛いほどの感動と、気高さへの圧倒を覚えていた。

「……そう、なのね」

雪乃は小さく呟き、そして美しく、どこか誇らしげに微笑んだ。

「あなたって子は、本当に……ずるいわね。そんな風に愛されたら、あんなひねくれ男じゃなくても、誰もがあなたを手放せなくなってしまうわ」

「えー、そうですか? 小町はただ、お兄ちゃんにずっと幸せでいてほしいだけですよ!」

小町はテヘッと舌を出して笑い、それから急に真剣な顔で雪乃たちを見回した。

「だからこそ! お兄ちゃんの隣に立つ人は、中途半端な気持ちじゃダメなんです。……先輩たち、覚悟はできてますよね?」

その真っ直ぐで力強い挑戦状に、雪乃はふっと息を呑んだあと、負けじと美しい笑みを返した。

「当たり前よ。あなたにそこまで言われて、引き下がるような私たちじゃないわ」

傍らで結衣が「もう、二人してかっこよすぎっ!」と目を潤わせ、いろはが「これ、本当に恋のライバル同士の会話ですかね……?」と呆れ笑いを浮かべる。

最強の妹が抱く底知れない愛情の深さを知ったことで、ヒロインたちの胸にある炎は、消えるどころか一層激しく、そして温かく燃え上がり始めていた。

 

短編小説:血縁の絶対性、あるいは「最強の余裕」

病室の前のピリッとした、けれどどこか熱を帯びた空気が、小町の放った一言によって一瞬で拍子抜けするほどフニャッと緩んだ。

小町はパッと両手を広げ、ケラケラと悪びれもなくこう言い放ったのだ。

「あ、でもよく考えたら――小町は『妹』ですからね! お兄ちゃんが誰と結婚しようが、小町はお兄ちゃんの妹のまま変わりませんし。どう転んだって、お兄ちゃんの一番近くにずっと居座り続けられるわけですよ!」

「…………は?」

固まったのは、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、一色いろは、そして川崎沙希の四人だった。

「だから、冷静に考えたら別に焦る必要なんて全然ないんですよねー。だってお姉さんたちの誰がお兄ちゃんと結婚したって、小町はもれなくセットでついてきちゃいますから! ふふっ、最強じゃないですか?」

ニコッと、これ以上ないほど眩しく、そして無敵の笑顔を浮かべる小町。

その言葉の破壊力は、直前のどんなシリアスな告白や覚悟よりも絶大だった。

恋愛の勝者敗者なんて関係ない。どんなに泥沼の恋の戦いを制し、最終的に八幡の隣の席(妻の座)を勝ち取ったとしても、その目の前には「一生絶対に縁を切れない、最強の元凶にして最強の義妹」がドーンと居座り続けるという現実。

――つまり、どうあがいても比企谷小町に勝つことはできない。

「……っ……!」

由比ヶ浜結衣は頭を抱え、ガクガクと膝を震わせた。

「そ、そんなの反則じゃん……! どんなにがんばってハッチーのお嫁さんになっても、小町ちゃんが義妹として一生家系図に残り続けるってこと……!?」

「しかも、あの手腕と肝の据わり方ですよ……?」

一色いろはは青ざめた顔で頭を抱えた。

「結婚した後に姑……じゃなくて、小町義妹から『お義姉さん、お兄ちゃんにそんな冷たい態度じゃダメですよー?』って裏で説教される未来しか見えないんですけど……!」

「……おいマジかよ」

川崎沙希も遠い目をしながら、首をブンブンと横に振った。

「そんなん、勝てる気がするわけねぇだろ……」

そして、雪ノ下雪乃は――といえば。

彼女は美しく整った顔を完全に引きつらせ、言葉を失ったまま微動だにしなかった。

(……くっ……! 敗北感すらないわ……!)

雪乃がどれほど努力し、雪ノ下家の重荷を振り払い、比企谷八幡の隣に立つ資格を手に入れたとしても、その食卓には必ず「お兄ちゃん大好きオーラを全開にしたこの無敵の妹」が涼しい顔で座っているのだ。

どれほど愛を誓い合おうとも、血の繋がり(あるいはそれに匹敵する圧倒的な絆)という絶対に切り裂けない「縁」の前では、恋愛感情など可愛らしい添え物にすぎないのではないかと思えてくる。

「ずるい……ずるいわよ、小町ちゃん……」

雪乃は思わず、うらやましさと、どうしようもない嫉妬心が入り混じった声で呟いた。

「えへへ、そうですか? だから安心してください! 先輩たちの誰がお兄ちゃんとお嫁さんになっても、小町はちゃんと可愛いお義姉さんとして大事にしてあげますから!」

どこまでも余裕綽々で、圧倒的なマウンテン(山の頂上)からニコニコと手を振る最強の妹。

その無敵の存在感を目の当たりにし、ヒロインたちはため息をつくしかなかった。

しかし、その絶望的なまでの「切れない縁」の強さこそが、彼女たちをさらに燃え上がらせる燃料になっていく。

(――上等よ。お嫁さんになって、その無敵の義妹を逆に「お姉ちゃんって呼ばせて」やり返すんだから!)

それぞれの胸の内で闘志を新たに燃やすヒロインたちを他所に、小町は「さて、お兄ちゃんのとこ戻ろーっと!」と軽快な足取りで病室へと戻っていくのだった。

平和で、騒がしくて、最高に愛おしい比企谷家の日常は、今日も元気に暴走を続けている。

 

短編小説:比企谷兄妹の演舞、あるいは「新たな伝説の始まり」

無事に病院を退院し、日常へと完全に戻ってきた小町。

すっかり元気になった彼女だったが、事故のブランクによるリハビリと体力の鈍りを気にしてか、ある日、学校の体育祭か何かのイベント(あるいは文化祭の有志企画)で、なぜか「空手の演舞」を披露してほしいと頼まれてしまった。

「まあ、リハビリにもちょうどいいし、体を動かしておかないと鈍っちゃいますからねー」

そう言って、小町は自宅の庭でシャカシャカとキレのある正拳突きや鋭いハイキックを繰り出していた。

その姿を縁側からお茶を飲みながら眺めていたのは、我が愛する兄・比企谷八幡である。

「お前なぁ……。退院したばっかなんだから、もう少し大人しくしてろよ。っていうか、なんで俺まで巻き込まれてるわけ?」

「だってお兄ちゃんも、『最近運動不足だし、小町の付き添いってことで一緒に体を動かせ』って先生に言われたでしょ? ほら、ボサッとしてないで、次の型合わせますよー!」

「めんどくせぇ……」と言いつつも、なんだかんだで妹の頼みを断りきれず、渋々立ち上がる八幡。

そして、迎えた学校のイベント当日。

全校生徒や教師、さらには見学に来ていた父兄たちが見守る中、特設されたステージの上に立ったのは、気だるげなオーラを隠しきれない死んだ魚の目の兄と、凛とした道着に身を包んだ無敵の妹だった。

「――それじゃあ、始めます!」

小町の澄んだ声とともに、演舞が始まった。

最初は「あのひねくれ者と妹が何をやっているんだ?」と冷ややかな目で見ていた観客たちだったが、次の瞬間、その空気が一変した。

シュッ! バキッ! と空気を切り裂くような鋭い風切り音。

小町が繰り出す演武は、ブランクなど微塵も感じさせないほど美しく、そして圧倒的なキレと迫力に満ちていた。さらに、面倒くさそうにしながらも、要所要所で重心を落とし、完璧なバランスで小町の動きをサポートする八幡のコンビネーションは、息がぴったりを超えてもはや一つの芸術の域に達していた。

「……え、待って、比企谷先輩ってあんなに動けるの……?」

「っていうか、小町ちゃんカッコよすぎない……!? イケメンすぎでしょ……!」

「なんだあの兄妹……強すぎる……!」

会場のあちこちから、どよめきと感嘆の声が漏れ聞こえる。

無事に演舞をかっこよく決め、最後のポーズをピタッと合わせた二人。息を整えながら微笑む小町と、どこか気恥ずかしそうに汗を拭う八幡の姿は、あまりにも絵になっていた。

その結果――。

総武高校における比企谷兄妹の株(というか謎のカリスマ性)は、さらに爆発的に跳ね上がることになった。

「いや、だからさ……なんで俺まで『実は隠れ武道派イケメン』みたいな扱いになってんだよ……」

放課後の奉仕部、テーブルに突っ伏して頭を抱える八幡。

「だってお兄ちゃん、意外と動きキレッキレでしたし! 女子からのキャーキャーすごかったじゃないですか!」と、当の小町はケラケラと笑いながらお茶をすする。

「お兄ちゃんのファンがこれ以上増えたら、お嫁さん候補の席がさらに激戦区になっちゃうじゃないですかぁ」と呆れたように嘆く結衣に、「まあ、あの兄妹のコンビネーションを見せつけられたら、誰も割って入れない気がするけどね」と、苦笑しながら紅茶を飲む雪乃。

リハビリのつもりが、またしても学校全体の生態系を揺るがしてしまった比企谷兄妹。

最強の血族が繰り出す無自覚無双は、今日も明日も、周囲を巻き込んで賑やかに暴走し続けるのだった。

 

短編小説:サイゼリヤの密談、あるいは「魔王の戦慄」

再び、あのサイゼリヤのボックス席。

注文したミラノ風ドリアをつつきながら、雪ノ下陽乃はふと、ずっと胸につかえていた疑問を口にしたね。

「ねえ、小町ちゃん。一つ聞いていい?」

「はい、なんですか? お姉さん」

「……お母様のことよ。あんなに冷酷で、業界でも恐れられている人間を相手にして、どうしてそこまで平気でいられるの? 怖くないわけ?」

陽乃の瞳には、どこか自嘲の色が混じっていた。自分自身、長年その母親の支配とプレッシャーに縛られ、完璧な「雪ノ下家の長女」という仮面を被ることでしか生き残れなかったからだ。

しかし、小町はスープをスプーンですくいながら、至って自然にこう答えた。

「そりゃあ、怖いですよ?」

「……怖い?」

「はい。めちゃくちゃ威圧感ありますし、あんな大人に睨まれたら普通に足もすくみます。……でも」

小町はスプーンを置き、まっすぐに陽乃の目を見た。その瞳に怯えの色は一切なく、ただ穏やかな覚悟だけが宿っていた。

「お兄ちゃんが傷つけられる方が、もっと何倍も怖いんです。だから動けるんですよ。……それに、世の中ってそもそも怖いものだらけじゃないですか。人間とか、世間の目とか、理不尽なこととか。だから今さら一人の大人を怖がってる暇なんてないんですよねー」

そのあまりにも潔く、そして強すぎる言葉に、陽乃はピタリと動きを止めた。

(――世の中、怖いものだらけ。人間とか……)

ハッとさせられた。

自分は「雪ノ下」という家柄の看板や、母親の期待という名の怪物に怯え、その目を気にしながら完璧な仮面を貼り付けて生きてきた。けれど、この少女はそんな虚飾の恐怖など端から相手にしていない。彼女が恐れているのは、ただ「大切な人が傷つくこと」その一点だけだ。

(根っこでは、私たち同じかもしれない……。何かを守るために、あるいは誰かに届くために、それぞれ違う形の「仮面」を被っているという意味では)

だが、すぐに陽乃の背筋を冷たいものが駆け抜けた。

同じ「仮面」や「強さ」の裏側にあるものが、決定的に違っていた。

自分(陽乃)の強さは、傷つかないための防壁であり、家という呪縛の中で生き延びるための武装にすぎない。

しかし、小町の強さは違う。彼女のそれは、他者を守るため、そして愛する兄のために世界を敵に回すことをいとわない、どこまでも純粋で、どこまでも前向きな「矛」だった。

(――もし、この子が……もし、あの雪ノ下家に生まれていたとしたら?)

もし小町が、あの息苦しいまでに冷徹で歪んだ雪ノ下家の次女、あるいは長女として生まれていたとしたら――彼女は母親に潰されていたのだろうか?

いや、違う。

きっとこの子は、あの冷え切った雪ノ下家そのものを根本からひっくり返し、母親を論破し、一族の秩序をまるごと自分の色に染め上げてしまったに違いない。環境に屈するのではなく、環境そのものを変えてしまうほどの圧倒的な生命力と、揺るぎない芯の強さを持っている。

「……そっか」

陽乃は乾いた笑いを漏らし、自分のグラスに目を落とした。

自分は今まで、他人の心理を読み解き、手の上の上で転がすことで優位に立っているつもりだった。しかし、目の前にいるこの高校一年生の少女は、自分の何周も先を行く「本物の強さ」を持っていたのだ。

恐怖心とは違う。

圧倒的な格の違いを突きつけられたような、あるいは、眩しすぎるものを見た時に感じるような、奇妙な戦慄が陽乃の全身を駆け巡った。

「……負けたわね、完全に」

「え? なにがですか?」

「ううん、何でもない。……ただ、あんなひねくれたお兄ちゃんを支えるのが、あなたで本当に良かったなって思ってさ」

陽乃はふっと力の抜けた、けれど心からの美しい笑みを浮かべた。

そんな陽乃の様子に、小町は「なんですか急にー?」と首をかしげつつも、嬉しそうにミラノ風ドリアを一口頬張るのだった。

最強の魔王が、一人の少女の生き様に心からの敬意と戦慄を抱いた夜。

比企谷家を巡る物語は、もはや誰も止められない熱を帯びて、静かに進んでいく。

 

短編小説:サイゼリヤの夜、あるいは「二人の少女の誓い」

「……でもね、お姉さん」

ミラノ風ドリアの皿を見つめながら、小町はふと、少しだけトーンを落とした優しい声で言った。

「小町がこうやって強くいられるのは……お兄ちゃんがいてくれたからなんです。あんな風に不器用で、でも誰よりも真っ直ぐに泥をかぶってくれるお兄ちゃんがいて、それを笑って見守ってくれるパパとママがいたから、だから小町は折れずにいられただけで……」

小町はスプーンを置き、まっすぐに陽乃を見つめた。

「もし小町が、雪ノ下のお母様の元で、あんな息の詰まるような環境で育っていたら……きっと、今の小町とは全然違う人間になっていたと思います。もっと歪んで、もっと冷たくて、誰のことも信じられないような女の子になっていたかもしれない」

だからこそ、と小町は続ける。

「お姉さんはすごいよ。あんなに厳しくて、冷徹な環境の中で、ずっと一人で耐えながら、自分の足で立とうとしてる。……だから、小町が生意気なこと言っちゃいましたけど、その、怒らないでくださいね?」

その言葉を聞いた瞬間、陽乃の動きが完全に止まった。

いつも周囲の人間を観察し、余裕の笑みで全てを包み隠してきた彼女の仮面が、初めて音を立てて剥がれ落ちた。

「……っ……」

胸の奥が、熱く、そして激しく締め付けられるような感覚。

自分がどれほど冷たい檻の中で息を潜め、誰にも本当の気持ちを分かってもらえないまま孤独に戦ってきたか。それを、この血の繋がらない、年下の少女が一瞬で見抜き、しかも「頑張っている」と真っ直ぐに認めてくれた。

陽乃の瞳から、大粒の涙がポロリとこぼれ落ちた。

慌てて手で拭おうとするが、あふれる涙は止まらない。完璧な「雪ノ下家の長女」として生きることを強要され続けてきた彼女にとって、その言葉はあまりにも温かく、あまりにも救いだった。

「……なによ、それ……」

陽乃は震える声で笑い、涙を拭いながら首を横に振った。

「ずるいじゃない、小町ちゃん……そんなこと言われたら、お姉さん、泣いちゃうでしょう……」

「あわわ、すみません! 小町、また余計なこと言っちゃいました!?」

慌てておしぼりを差し出す小町に、陽乃はふっと、今までにないほど柔らかく、作り物ではない心からの美しい笑みを向けた。

「ううん、怒ってなんかないわ。……むしろ、すごく嬉しいの」

陽乃は深く息を吸い込むと、震えの残る手でグラスを持ち上げ、そしてまっすぐに小町を見た。

「ねえ、小町ちゃん」

「はい、なんですか?」

「私たち……これから、友達にならない?」

その言葉に、小町は一瞬目を見張り、そして――これ以上ないほどパッと花が咲くような、無邪気で温かい笑みを浮かべた。

「……はい! 喜んで!」

カチン、とグラスとグラスが軽やかな音を立ててぶつかり合う。

そこにあったのは、もはや「魔王と強敵」でも「恋のライバル」でもなく、互いの痛みを分かち合い、それぞれの戦いの中で手を取り合う、二人の少女の確かな絆だった。

冷たい夜風が吹くサイゼリヤの窓際。

最強の妹と、仮面を脱ぎ捨てた魔王の間に生まれた新しい友情は、比企谷家を巡る物語に、また一つ温かくて強い光を灯していくのだった。

 

 

短編小説:路地裏の救世主、あるいは「いろはすの動揺」

放課後のショッピングモール裏の通り。

少し人通りが途切れたその場所で、一色いろはは不機嫌そうに眉をひそめていた。

「ですから、お断りしているんですけれど。……しつこい男性って嫌われますよ?」

「冷たいこと言うなよ、可愛いじゃねえか。ちょっとお茶くらい付き合えって」

いろはを取り囲むように、少しチャラついた大学生風の男たちが二人、ニヤニヤと距離を詰めてくる。スマホをいじりながらあしらおうとしていたいろはだったが、いよいよ面倒くさくなり、ため息をつきかけたその時――。

「――おや? 女の人一人を捕まえて、何やら楽しそうですねー?」

スッと、軽やかな足音とともに現れた少女がいた。

制服のスカートを翻し、全く物怖じしない笑みを浮かべて割って入ったのは、比企谷小町だった。

「なんだガキが。引っ込んでろよ」

「ガキじゃありません、高校一年生の比企谷小町です。……で、総武高校の生徒に絡むってことは、どういうことか分かってますよね?」

小町がフッと身構え、日々の鍛え上げられた重心移動でスッと一歩前に出る。そのあまりにも堂々とした気迫と、どこか冷ややかな瞳に、男たちは「なんだこいつ……?」とわずかにたじろいだ。

(お兄ちゃんを守るために鍛えたこの体、こういう時にも役立ちますね!)

心の中でそう呟きながら、小町は一瞬の隙を突いて男の腕を鮮やかに払い、一色いろはの腕を引いてその場からサッと身をかわした。

「ほら、行くよ先輩!」

「あ、うん……!」

呆気にとられた不良たちが追いつく間もなく、二人は軽やかな足取りでその場を駆け抜け、近くのカフェのテラス席へと逃げ込んだ。

やれやれ、と小町が息をつくのに対し、隣に座った一色いろはは、なぜか耳まで真っ赤にして心臓を激しく脈打たせていた。

(――いまの、なに……?)

いろはの脳裏に、先ほどの光景がスローモーションのように蘇る。

ピンチに颯爽と現れ、自分の手を取って守ってくれた小町の横顔。凛とした強さと、どこか男前な身のこなし、そして振り返った時の眩しい笑顔。

(あれ……? 私、いま……ちょっとキュンとしちゃった……?)

普段はあざとく立ち回り、周囲の男子を手玉に取るはずの一色いろはが、年下の少女のカッコよさに完全に心を撃ち抜かれてしまっていた。

頬を染め、フリーズしたまま小町をじっと見つめるいろは。

「どうかしました? 先輩、どこか怪我でもしました?」

小町が心配そうにのぞき込んできたその顔があまりにも至近距離にあり、いろはは「っ……!」と息を呑み、思わず顔をそむけた。

(やばい、これ……可愛いだけじゃなくてカッコよすぎるでしょ……。お兄ちゃんじゃなくても、惚れちゃうって……!)

その二人のやり取りを、数メートル離れた別のテーブルから、じっと目撃していた人物がいた。

――海老名姫菜である。

海老名っちは、手に持っていたカフェラテのストローをくわえたまま、眼鏡の奥の目をキラリと光らせた。

(……ふむ。これは……)

八幡を巡る激しい恋のバトルが繰り広げられている裏で、まさかの「最強の妹 × 後輩ちゃん」という新しいケミストリーが誕生している現場を目撃してしまった海老名っちは、脳内で猛烈に妄想の翼を広げ始めていた。

(お兄ちゃんを巡るライバル同士……に見せかけて、実は手練れの妹にすべてを持っていかれるいろはす……。これ、もしかして……百合の方向性もあり……いや、大ありだな……!)

眼鏡を押し上げながら、ニヤニヤと怪しい笑みを浮かべる海老名っち。

最強の妹・小町は、お兄ちゃんを落とすだけでなく、周囲のヒロインたち(さらにはその後輩まで)を次々と狂わせ、新しい扉を開かせていくのだった。

 

 

短編小説:クラスのアイドル、あるいは「兄の落ち着かない午後」

総武高校の2年F組。

昼休みのチャイムが鳴り響き、教室の空気がやれやれと緩み始めたその時、ガラッと軽やかな引き戸の音がした。

「お邪魔しまーす! お兄ちゃん、いるー?」

ひょっこりと顔を出したのは、制服姿の比企谷小町だった。

その瞬間、それまで雑談に興じていたF組の教室が、文字通り「ぴたり」と静まり返った。

「お、小町ちゃんじゃん!」

「今日も可愛いなー、どうしたの?」

「おい、比企谷、お前の妹が来てぞ!」

クラスのあちこちから黄色い声や歓迎の声が飛び交う。小町はくるくると愛嬌のある笑顔を浮かべ、「あ、戸部先輩、こんにちは! ちょっとお兄ちゃんにお弁当の忘れ物届けに来たんです」と、テキパキと笑顔で対応していく。

その場にいる全員が、すっかり「比企谷小町ファンクラブ」のようになっていた。

その様子を自分の席から眺めながら、比企谷八幡の背筋はガチガチに硬直していた。

(……おい、なんでお前らが我が物顔で小町に話しかけてんだよ……。ここ、一応俺のクラスだぞ……?)

八幡は机に突っ伏したい衝動に駆られながら、じっと死んだ魚の目で自分の席からその光景を睨みつけていた。顔を引きつらせ、挙動不審にソワソワと落ち着きのない様子を隠せない。

「おいおい、比企谷、そんなに落ち着くなって」

隣の席から、爽やかな笑顔を浮かべた葉山隼人がクスリと笑いながら声をかけてきた。

「相変わらず人気者だな、小町ちゃんは。お前のクラスでもすっかりアイドルじゃないか」

「うるせぇ、葉山。……ていうか、うちのクラスの連中は少し距離感を考えろっての。なんでお前らが『お、おう、小町ちゃん今日も元気だな!』みたいな顔してんだよ」

八幡がボソボソと文句をたれていると、そこへ戸部もニヤニヤしながら割ってきた。

「いいじゃんよ、比企谷! 可愛い妹がクラスに顔出してくれてさ。つーか、お前、さっきからめちゃくちゃソワソワして保護者面してんぞ。ハハッ、妹に嫌われたくないお兄ちゃん発動中?」

「してねぇよ!」

八幡が小さく叫んだその時、小町はクラスの男子たちからの黄色い声や差し入れの誘いを上手にいなしながら、スルスルと八幡の席へとやってきた。

「はい、お兄ちゃん。お弁当箱、忘れてましたよ。ちゃんと食べてくださいね?」

「……あ、あぁ。サンキュー、わざわざ持ってこなくても……」

「もう! こういうとこしっかりしてないと、小町がお嫁さんに行ったあと心配で仕方ないんですからね!」

小町がペロッと舌を出して悪戯っぽく笑うと、それを遠くから見ていた男子たちから「うわ、うらやましすぎる……!」「あんな妹が欲しかった人生だった……!」と絶望と羨望の混じった嘆きが漏れ聞こえた。

八幡は顔を真っ赤に(心の中で)させながら、お弁当箱を受け取り、そっぽを向いた。

「……わかったよ、食べるからさっさとしろよ」

「はーい! じゃ、小町は部活あるんで戻りまーす! 皆さん、お兄ちゃんのこといじめてあげてくださいねー!」

「「おー、任せとけ!」」

クラス全員が二つ返事で頷く中、小町はヒラヒラと手を振って軽やかに教室を去っていった。

教室が再び元のざわめきに戻ったあと、八幡は深々と机に突っ伏し、深い、長いため息をついた。

「……疲れた……」

「まあ、気持ちは分かるけどさ」

葉山は呆れを含んだ、しかしどこか羨ましそうでもある笑みを浮かべ、バシッと八幡の肩を叩いた。

「あんなに頼もしくて愛される妹がいたら、そりゃお前も苦労するよ。……誇りに思っていいんじゃないか?」

「……余計なお世話だ」

ぶっきらぼうに返しつつも、八幡の口元はほんの少しだけ緩んでいた。

学校全体を自分のペースに巻き込んでいく最強の妹と、それに振り回されつつも満更でもないひねくれ者の兄。F組の昼休みは、今日も平和(?)に過ぎ去っていくのだった。

 

 

 

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