「はあ……? ちょっと待ってくださいよ、先輩。なんで私が生徒会長なんですか。聞いてないんですけど!」
放課後の生徒会室。
窓から差す夕陽が、絶望に染まった一色いろはの顔をいやに鮮やかに照らし出していた。
いかにも「巻き込まれました」と言わんばかりの、しかしどこか計算されたような不満げな表情。けれど、その瞳の奥には隠しきれない焦燥と、泣きそうなまでの気まずさが滲んでいる。
「いや、俺に言われてもな。推薦人の欄に勝手に名前を書かれたのはこっちも同じだ」
俺――比企谷八幡は、頭をかきながらため息をついた。
奉仕部での日々。あの場所は心地よかった。だが、いつまでもそこに甘え続けるわけにはいかないことも、頭のどこかでは分かっていた。
ふと横を見ると、いろはが「どうするんですかこれ……」と小さく震えている。誰もやりたがらない雑務を押し付けられ、責任だけを背負わされる生贄。そんなものに後輩を一人で差し出すほど、俺は枯れ果てちゃいない。
――いや、違うな。
もっと素直になれよ、俺。
奉仕部という馴れ合いの箱庭にしがみついているだけでは、何も変わらない。他人に依存した居場所なんて、砂の上の城みたいなもんだ。
だったら。
「……しゃあねえな」
ボソッと呟いた俺に、いろはが「え?」と間抜けな声を漏らす。
「誰も立候補者がいない生徒会長なんて話になんねぇよ。そんな茶番、見てて寒気がする」
「せ、先輩……?」
「俺がやる。生徒会長、この比企谷八幡が立候補してやるよ」
室内にいた数人の教師や生徒たちが、一斉にこちらを振り返った。
ざわめきが広がる。マジかよ、あのひねくれた比企谷が? そんな視線が肌を刺す。だが、どうでもいい。他人の評価なんて元から底値安定だ。
「は……? はあぁっ!? ちょっと何言ってるんですか比企谷先輩! 私を助けようとしてるのか知りませんけど、それじゃ私がただの無責任な無能みたいじゃないですか!」
いろはが慌てて詰め寄ってくる。その必死な顔を見て、俺は内心でフッと息を吐いた。
そうだ、それでいい。泣きそうだったその顔に、いつもの生意気な色が戻ってきたなら、この悪者を買った意味もある。
「安心しろ。お前は副会長なり会計なり、俺をサポートするポジションに収まっとけばいい。むしろ、俺みたいな不審者をコントロールできる有能な後輩アピールには最高の舞台だろ」
「っ……! そういう問題じゃ……!」
文句を言いながらも、いろはの頭は猛烈に対策を巡らせているらしかった。
ここで私が会長を降りて、代わりにこの先輩を立てる形に持ち込めば、自分の体面も保たれるし、面倒な実務も回避できる――そんな計算が、クルクルと変わる表情から手に取るようにわかる。相変わらず抜け目のない後輩だ。
「……もー。本当に、めんどくさい先輩ですね」
やれやれ、といった風に息をつきながら、いろははすっと姿勢を正した。
先ほどまでの焦りは消え、いつもの作り笑顔とも違う、どこか腹をくくったような、しかしあきれ返った顔。
「わかりましたよ。そこまで言うなら、仕方がありません。私が一生懸命な先輩を支えてあげる『気の利く可愛い後輩』として、会計のポジションにでも収まってあげます。感謝してくださいね、比企谷先輩」
「はいはい、ありがとうございますー」
適当に相槌を打ちながら、俺は窓の外の夕空を見上げた。
居場所なんてものは、誰かに与えられるもんじゃない。息苦しかろうが、カッコ悪かろうが、自分で泥を被ってでもこじ開けるものだ。
さて、ここから始まる厄介な生徒会の日々が、少しだけ面倒くさくて、そして悪くはないかもしれない――そんな予感がしていた。
雪乃と結衣の反応、そして内申や周囲の空気に対する八幡のツッコミを改めて自然なトーンで書き直してみました。
「……ねえ、ヒッキー。それが何の解決になるっていうの?」
放課後の渡り廊下。提出書類の控えを持った俺を待ち受けていたのは、呆れと困惑の色をありありと浮かべた雪ノ下雪乃の冷ややかな視線と、どう声をかけていいか分からずにおろおろする由比ヶ浜結衣の姿だった。
そりゃあ、そうだろう。
奉仕部の問題児が、なぜか全校生徒の前に立つ生徒会長に立候補したのだ。彼女たちにしてみれば、またぞろ自己犠牲を払った奇行にしか見えなかったに違いない。
だが、俺に言わせればこれ以上の絶妙な落とし所はない。
第一、これだけやっておけば指定校推薦だろうが一般だろうが、内申書(調査書)の評価は跳ね上がる。いろはは面倒な全校の矢面に立たされずに済むし、俺としても悪い話じゃない。
「いや、だってよ。むしろなんで誰も立候補しねぇんだよ」
俺は面倒くさそうに頭をかきながら毒づいた。
「みんなそんなに受験勉強が好きなのか? 青春を捧げる対象が赤本か模試の判定しかねぇのかよ。平和ボケした脳みそじゃ、いざという時のリスクヘッジもできやしねぇだろ」
「そういう問題じゃないわ、比企谷くん。あなたが矢面に立つことで、周囲がどう受け止めるか……少しは考えたことあるの?」
雪乃が冷ややかな、しかしどこか呆れたような息を吐く。
あの整った眉がキュッと寄せられているのは、いつものことだ。分かってるさ、俺がこういうトリッキーな解決策を選ぶと、決まって彼女は「正しくない」と言う。正論で殴ってくる。
「――でもさぁ、ヒッキー!」
それまで黙っていた結衣が、意を決したように割って入ってきた。
困ったように眉を下げながらも、その目はまっすぐに俺を見つめている。
「ヒッキーが言うことも、ちょっとは分かるけどさ……でも、なんかこう、危なっかしいよ。いろはちゃんを助けたいのは分かるけど、ヒッキーが変な目で見られるのは、やだな……」
その優しすぎる言葉に、俺は思わず目を逸らした。
痛いところを突いてくる。相変わらず、あの二人の真っ直ぐさは眩しすぎる。だからこそ、俺はいつだってその光から少し離れた場所で、勝手に泥を被る道を選んでしまう。
「心配すんな。俺の評判なんて、今さら下がりようがねぇよ。底値安定の株みたいなもんだからな」
「そういう問題じゃなくてね……!」
雪乃がさらに何かを言いかけ、俺がそれを適当にいなし、結衣が「もう、ヒッキーってば……」と困ったように笑う。
相変わらず噛み合わないし、面倒くさい。奉仕部という箱庭は確かに少しずつ形を変えていくかもしれないけれど――まあ、悪くはない。こんな風に喧嘩できる日常がそこにあるなら、生徒会長の椅子に座るくらいの面倒臭さ、安いもんさ。
――まあ、ぶっちゃけた話。
これを機に、あの奉仕部に顔を出さなくてよくなるというのも、俺にとっては大きなメリットだった。
行けば行ったで、雪ノ下からは鋭い言葉で論破され、由比ヶ浜からは心配そうな顔をされ、居心地の悪さと気まずさに胃を焼かれる。文句言われてばっかの空間になんて、わざわざ進んで通う義理もない。
「……そもそも、奉仕部なんてのは無いなら無いでそれが普通だろ」
誰も頼ってこなければ、部室で紅茶を飲んで本を読んでいるだけの幽霊部活動。元から形骸化していた場所なんだ。そこがどうなろうと、元通りの日常に戻るだけのことだ。
そんなことを考えながら、俺は夕暮れの廊下を一人、生徒会室へと歩いて行った。
「なぁ、川崎」
放課後の廊下、見かけた背中に声をかけると、川崎沙希はぴくりと肩を揺らして足を止めた。振り返った彼女の鋭い三白眼が、いかにも「何か面倒なことですか」と言わばかりに俺を射抜く。
「……なんだよ、比企谷。用がないなら話しかけるな」
相変わらずトゲのある返事だが、逃げ出さないあたり彼女の根の真面目さが窺える。俺はそんな川崎に向かって、ずばりと本題を切り出した。
「応援演説、頼めねぇかな」
「……は?」
川崎が間の抜けた声を漏らし、そのまま固まった。そりゃそうだ、生徒会長に立候補しただけでも校内ニュースのトップを飾るレベルの奇行なのに、その応援演説をクラスメイトの川崎に頼むなど、普通なら奇特の極みだ。
「なんでだよ、私なんかに」
不審がるような、あるいは警戒するような目で、川崎が問うてくる。理由は単純だった。
「良いやつだからだよ。フラットに見てくれるだろ、お前は」
「っ……なっ……!?」
思いがけないストレートな言葉に、川崎の端正な顔立ちがみるみるうちに朱に染まっていく。慌てて両手で頬を押さえ、目を泳がせるものだから、こちらまで気恥ずかしくなってきた。
「な、なんだ急に……っ! からかってんのか……っ!」
「からかってねぇよ。それに、周りの奴らは『比企谷がまた変なことやってる』って斜に構えるか、敬遠するかのどっちかだ。普通の奴は誰もこんな貧乏くじ、引き受けんからな」
事実、俺の周りでまともに話を聞いてくれて、かつ偏見なしに物事を見てくれる人間なんて片手で数えるほどしかいない。その数少ない貴重な常識人と、頼れる度胸を川崎は持っている。
「……お前、クラスじゃ結構人気あるしな。沙希ちゃんって慕われてるだろ」
「っ――! なっ、名前で呼ぶなっ!」
耳の先まで真っ赤に染め上げた川崎が、バシッと俺の肩を軽く叩いてから、そっぽを向いた。フン、と鼻を鳴らしてごまかしているが、その紅潮した頬は隠しきれていない。
「……誰も引き受けないって言うなら、考えてやらなくもないけどよ」
ボソッと呟かれたその一言に、俺は心の中で小さく息をついた。
まったく、周りに変な気を遣わされる奉仕部よりも、こういうドライでいて誠実な奴と話す方がよっぽど気楽でいい。
「ひゃはははは! 我が盟友・比企谷八幡よ、ついに狂ったか! 生徒会長とはまた大きく出たものだが……現実を見ろ、お前が生徒会に立候補したところで、全校投票の得票数は風前の灯火、いや、暗黒の淵に沈むゼロ票の悲劇となるのがオチではないか!」
廊下で待ち構えていたかのように現れた材木座義輝が、中二病全開の身振り手振りで盛大にまくし立てる。
……相変わらず声がでかい。周りの生徒が何事かとこっちをチラ見しているだろうが。
「お前なぁ……もう少し声のボリュームを考えろ。それに、お前が言う『人気がない』ってのは致命的に的が外れてるぞ」
「なに、だと……?」
「対抗馬がいればの話だろ」
俺は呆れたように息を吐き捨てた。
誰もやりたがらない、責任と雑務の押し付け合いでしかない生徒会長の椅子。そんな不人気ポジションに、わざわざ立候補してまで手を挙げる物好きなんてこの学校にいるわけがない。つまり、信任投票の形式上、形だけでも立候補者がいれば自動的に成立する――それがこの茶番の核心だ。
「まあ、そうは言っても……」
材木座の言葉が完全に的外れだとは分かっていたが、全校生徒の前に立つ以上、あまりにそのへんの道端の石ころみたいなルックスで行くのも、余計な野次を浴びる原因になりかねない。
「……身だしなみくらいは、少しは整えるか」
呟いた俺は、休日を使って人生で数えるほどしか足を踏み入れたことのない美容室の門を叩き、その足で実妹の元へと直行した。
「――お兄ちゃん、ちょっとこっち座って!」
リビングの椅子に無理やり座らされ、小町に両肩をガシッと掴まれる。
妹の厳しいチェック眼が、俺の頭髪から眉のライン、服装のヨレに至るまで容赦なく浴びせられた。
「もう! なんでそんなボサボサなの! せっかく顔のパーツは悪くないんだから(※小町主観)、少しはマシに見せる努力をしなさいよ! 眉毛はこの専用のコームでこう整えて、ワックスはほんのちょっぴり! あとはその、死んだ魚みたいな目を少しでも開くの!」
「痛い痛い、小町さん手加減を……」
「ダメ! 一生の一大イベントなんだから、小町がプロデュースしてあげる!」
妹の容赦ない美容指導とセットアップの末、鏡に映った自分の姿は、いつものひねくれた陰キャ高校生から「ほんの少しだけ常人っぽさをまとった不審者」くらいにはランクアップしていた。これなら少なくとも、壇上で失笑を買う最悪の事態は避けられるはずだ。
そして――翌日。
ガラガラと引き戸を開けて教室に入った瞬間、室内の空気がぴたりと凍りついた。
「「「…………」」」
ざわめいていたクラスメイトたちが、一斉に俺の方を振り返る。
いつもなら「うわ、比企谷がこっち見た」とばかりにサッと視線を逸らされるか、あるいは見なかったことにされるはずの視線が、なぜかじっと釘付けになっていた。
「……あれ? 比企谷センパイ、なんか今日……」
「え、髪型……? ってか、え、生徒会立候補したってマジ?」
「なんか、急にどうしたの……」
女子たちのひそひそ声が教室のあちこちから漏れ聞こえる。
川崎が「……っ」と驚いたように目を見張り、窓際の席からこちらを凝視しているのが視界の端に映った。
いつもと違う。たったそれだけの変化でここまで騒がれるとは、平和な学校生活を送る奴らの感度というのは実に安上がりで、そして面倒くさい。
俺は眩しそうに目を細めながら、自分の席へと足早に向かった。
教室のざわめきがまだ収まらない中、自分の席に座ろうとした俺の前に、一人の人影が立った。
「……比企谷くん、ちょっといいかな」
爽やかな笑顔。だが、その瞳の奥にはどこか複雑な色が混じっている。葉山隼人だ。
周囲の女子たちが「きゃあ、葉山くんが比企谷に……?」と、また新たなゴシップの種を見つけたかのようにざわめき始める。
「なんだよ、葉山」
「この前のことだけどさ……いろはのこと、すまないね」
葉山は静かにそう切り出した。
生徒会の件で、一色いろはが押し付けられる形になった発端。そして、それを自分がうまく守れなかったことに対する負い目か、彼なりの誠実さのつもりなのだろう。
だが、俺はその言葉を聞いた瞬間、内心で冷ややかな息を吐いた。
「……お前は、言葉だけだな」
「え……?」
葉山の眉が微かに動く。
「謝るだけで、お前は一色のためになんかやったのかよ。綺麗事を並べて、みんなにいい顔して、結局誰の面倒も背負わない。それがお前のやり方だろ」
「っ……」
葉山は言葉に詰まった。
図星だったからか、それとも反論する言葉を持ち合わせなかったからか。いつもクラスの中心で、周囲の期待を一身に背負っている男が、初めて明確に絶句した。
何も言えない葉山を前に、これ以上会話を続ける意味も消え失せた。ふっ、と息を吐いて背中を向けようとした、その時だ。
「――いや」
俺は足を止め、振り返らずに言い放った。
「一色の応援演説を頼む」
「……は?」
「お前の影響力があれば、全校生徒に対するアピールとしては十分だろ。形だけでも、一色をフォローしてやれよ。それくらいできるだろ、葉山」
葉山はしばらくの間、驚いたように目を見開いていたが、やがて諦めたような、そしてどこか苦い笑みを浮かべて小さく頷いた。
「……わかった。それくらいなら、僕がやろう」
「頼むわ」
それ以上、言葉を交わす必要はなかった。
綺麗事だけでは誰も救えない。だけど、動かないよりはマシだ。俺は葉山に背を向け、自分の席へと歩き出した。
講堂のざわめきが、マイクのハウリング音とともにピタリと静まり返る。
全校集会という名の公開処刑の場。その壇上に立つ俺の隣で、川崎沙希はガチガチに緊張した面持ちで原稿用紙を握り締めていた。
いつもは鋭い三白眼が、今は不安そうに何度も揺れている。無理もない。全校生徒の視線が突き刺さる中で、このひねくれた問題児の応援演説をやれと言われたのだから。
「えー……っと」
川崎がマイクの前に立ち、かすれた声を絞り出した。
原稿に目を落とし、時折つっかえながらも、彼女はたどたどしく言葉を紡ぎはじめる。
「比企谷は……その、なんだ。人付き合いが悪いし、言葉も足りないし、誤解されやすい馬鹿だ」
おいおい、初手からフルスイングでディスってきやがる。会場のあちこちから「マジかよ」「喧嘩売ってるのか?」というクスクス笑いが漏れた。
だが、川崎はそこでひるまず、グッと拳を握りしめて言葉を続けた。
「けど……誰も引き受けない面倒事を押し付けられて、文句を言いながらも結局放っておけない奴だ。自分の評判が下がるのなんて気にしてないし、遠回りで、やり方が不器用で……見ててイライラするくらい損ばかりしてる」
その拙い、けれど一言一言を噛みしめるような声には、不思議な説得力があった。
取り繕った綺麗事でも、政治家の演説のような空虚な美辞麗句でもない。ただクラスの片隅から見てきた等身大の比企谷八幡という人間が、そこには正確に描写されていた。
「……だから、選ぶなら、こういう奴が上に立つ生徒会も、悪くないんじゃないかと思う。……以上だ!」
言い切るやいなや、川崎は逃げるように壇上の端へと引っ込んだ。
その直後、会場のあちこちから「……案外、その通りだな」「確かに」という妙に納得したようなざわめきが広がる。
控室の陰に戻ってきた川崎は、耳の先まで、いや首元まで真っ赤に染め上げて、両手で顔をパタパタと仰いでいた。
「な、なんでそんな変な顔してんだよ」と視線を向けると、川崎はバッとこちらを睨みつけて、潤んだ目で吐き捨てるように言った。
「……しょうがないだろ! お前をフラットに評価したら、どう言い繕ったってそういう人物にしかならないんだからなっ……!」
その声のトーンは、周囲の人間が聞き耳を立てれば、まるで気恥ずかしい告白のようにも、あるいは熱烈なラブレターのようにも聞こえたことだろう。
実際に、前方の席にいた由比ヶ浜あたりが「えっ、え……?」と目を点にしてこちらを二度見しているのが見える。
やれやれ、と俺は心の中で盛大にため息をついた。
泥を被るつもりの立候補だったが、この不器用な応援演説のせいで、余計に変な勘繰りを買う羽目になりそうだ。
――だが、まあ。
悪くはない。そんな感想が、妙にすんなりと胸に落ちたのだった。
続いて壇上に立ったのは、葉山隼人だった。
全校生徒の視線が一身に集まる中、彼はいつもの爽やかな笑みを少しだけ引き締め、滑らかな足取りでマイクの前に立つ。無駄のない立ち居振る舞いは、それだけで場の空気を完璧に掌握していた。
「――えー、皆さんこんにちは。2年の葉山です」
低くよく通る声が、講堂のスピーカーから響きわたる。
一瞬にして女子生徒たちの視線がハートマークに変わり、ざわめいていた会場がピタリと静まり返った。さすがはスクールカーストの頂点に君臨する男、場を作る手際が違う。
「今回の生徒会選挙において、僕が一色いろはさんを推薦する理由を、少しだけお話しさせてください」
葉山は柔らかな笑みを浮かべながら、しかし真摯なトーンで言葉を紡ぎ始めた。
彼の演説は、川崎のそれとは対照的だった。飾らない本音をぶつけた川崎に対し、葉山は誰もが納得せざるを得ない「大義名分」と「期待値」を綺麗に整えてみせる。
「一色さんは、一見すると少しわがままで、面倒なことから逃げ出したいように見えるかもしれません。ですが、彼女の本質は非常に責任感が強く、周囲の状況を誰よりも冷静に見渡すことのできる視野の広さを持っています」
――おいおい、褒めすぎだろ。
控室の袖で聞いていた俺は、思わず心の中でツッコミを入れた。だが、その言葉に嘘臭さや嫌らしさがないのが葉山の恐ろしいところだ。一色の持つ愛嬌やタフさを「長所」へと見事に変換し、全校生徒に受け入れやすい形で提示していく。
「これからの学校を支えていくのは、形式だけの綺麗事ではなく、変化を恐れずに行動できる柔軟さです。一色さんなら、必ず新しい風を吹かせてくれると信じています。皆さんの賢明な一票を、どうぞよろしくお願いします」
完璧すぎる締めくくり。
数秒の静寂のあと、講堂は割れんばかりの拍手に包まれた。女子からの黄色い歓声と、男子からの「まあ葉山が言うなら間違いないか」という妙な納得感が入り交じる。
壇上から降りてきた葉山は、涼しい顔のまま俺の前を通り過ぎ、すれ違いざまに小さくウインクしてみせた。
「……頼まれた仕事はこなしたよ、比企谷くん」
「あぁ、助かったよ」
完璧な布陣。完璧な論理武装。
川崎の不器用な真実味と、葉山の隙のない正論。その両輪が揃った時点で、この茶番劇の勝敗は決まったようなものだった。
やれやれ、これで晴れて俺は生徒会長、そして一色は会計という名の「泥舟の乗組員」に正式に決定というわけだ。
面倒臭い日々の幕開けにしては、上出来すぎる滑り出しだった。
盛大な拍手がまばらな納得感へと変わり、静まり返った講堂のステージ。
いよいよ本命である、新生徒会長候補・比企谷八幡の所信表明の番がやってきた。
俺はポケットに片突っ込んだままの気だるげな姿勢でマイクの前に歩み寄り、目の前に広がる数百人の生徒たちを見据えた。
ざわざわと、どこか冷ややかな、あるいは「この陰キャが何を言い出すんだ」という好奇の入り混じったざわめきが広がる。
「……えー」
マイクの音量が少しだけ大きすぎたか、くぐもった声が講堂全体に響いた。
原稿なんて用意してない。そもそも、生徒会長らしい立派なマニフェストや美辞麗句なんて持っていない。俺が言いたいのは、そんな綺麗事じゃない。
「この学校に不満がある奴は、多いと思う」
静まり返った空間に向けて、俺は淡々と言い放った。
「理不尽な校則、見えないカースト、あるいは教室の隅っこで息を潜めなきゃいけないような空気、さらには水面下で行われている陰湿なイジメ――そういうものに、蓋をして見ないふりをするのはもう終わりだ」
ざわっ、と空気が一変した。
まさか生徒会長の立候補者が、全校生徒の前で「学校の不満」や「イジメ」なんて不穏なワードを真っ向から口にするとは思っていなかったのだろう。教師たちが座る一角で、何人かの顧問が「おいおい……」と青ざめて立ち上がりかける気配がした。だが、知ったことか。
「言いたいことがあるなら、全部吐き出してくれ」
俺は真っ直ぐに客席を見据え、言葉を継いだ。
「学校が変えてくれないなら、俺たちが変える……なんて綺麗事は言わない。せいぜい、お前らの愚痴や不満を受け止めるゴミ箱の代わりくらいにはなってやるよ。生徒会室の前に、新しい目安箱を設置する」
そこで言葉を一度区切り、鼻でふっと息を吐いた。
「そこに入れられた面倒事は、生徒会一同で――まあ、主にあの優秀な会計の一色あたりが実務をこなして、俺がしぶしぶハンコを押す形で、一つ残らず対処してやる。期待せずに待ってろ」
壇上の端で、一色いろはが「ちょっと、私を勝手にこき使わないでください!」とでも言いたげな顔でこちらを睨みつけているのが見えたが、無視だ無視。
そして、俺は最後に、ほんの思いつきのようで、しかし確信犯的な一言を付け加えた。
「……あ、ちなみに」
場内の空気が再び静まり返る中、俺は淡々と告げた。
「この学校には、あまり知られていないが、『奉仕部』というものがある。面倒くさくも優しい奴らが相談に乗ってくれる。一応俺も所属している」
ちらりと、客席の真ん中あたりに座っているであろう雪ノ下と由比ヶ浜の姿を探すが、逆光で見えない。だが、二人がどんな顔をしているかくらい、想像がついた。
「もし、生徒会みたいな公の場じゃ話しにくい悩みがあるなら、そっちを訪ねてみるのもいいかもしれない。あそこの部員は、なんだかんだで放っておけない性分だからな」
そこまで言って、俺はもう十分だろ、とばかりに頭をかいた。
「――以上だ」
それだけ吐き捨てて、俺はマイクの前から背を向けた。
どよめきと、どことなく冷めた笑い、そして妙なざらつきを残したまま、俺の所信表明は終わりを迎えたのだった。
続いて、新会計候補・一色いろはの所信表明の番だった。
壇上に上がってきた彼女は、少しだけ頬を膨らませ、不満タラタラといった様子でマイクの前に立った。さっきまで完璧な所信表明をしていた葉山や、独特すぎる爆弾を投下した俺のあとだ。普通なら緊張してしどろもどろになるところだが、この後輩はいい意味で肝が座っているというか、図太いというか。
「えー……」
マイクの前に立ったいろはは、用意してきた原稿など最初からないと言わばかりに、軽く息をついてから口を開いた。
「正直、何も考えてませんでした」
初手から堂々たる爆弾発言だった。
講堂の生徒たちから「えっ?」「まじか」と乾いた笑いが漏れ、教職員席のあたりで何人かの先生が頭を抱える気配がした。だが、いろははそんな空気などどこ吹く風とばかりに、けろりとした顔で言葉を続ける。
「だって、元々こんな面倒な役、私に押し付けようとした人たちが悪いんですからね? ここにいる全員、よーく覚えておいてくださいからね」
毒を吐くのも忘れない。さすが一色いろはである。だが、彼女はふっと表情を和らげ、少しだけ遠い目をして、それから斜め後ろにいる俺をチラリと睨みつけた。
「……でも、本当に絶望して、どうしようもなかった時に、あのクソ……じゃなくて、ええと、比企谷先輩が助けてくれたんです」
危うく公の場で先輩を「クソ先輩」と呼びかけるところだったが、絶妙な修正力を見せた。
会場のあちこちから「いまクソって言いかけたぞ」「仲いいのか悪いのか分かんねぇな」というひそひそ声が広がる。
「だから……みんなも、困ったときは誰かに頼ってみたらいいんじゃないですかね? きっと、助けてくれるんじゃないかなって思います」
そこまで言って、いろははフッと悪戯っぽい、しかしどこか信頼を含んだ笑みを浮かべた。
「たぶん、面倒なことはだいたいセンパイがなんとかしてくれます。私はその横で、ちょっとお茶を飲んだり、軽く手伝ったりするくらいには付き合ってあげます」
「おい、ちょっと待て」と心の中で盛大にツッコミを入れたが、マイクは持っていない。
「だから、安心して頼ってください。……あ、もし何か失敗しても、最終的な責任は全部この先輩がとってくれますから、大丈夫です!」
言い切った。満面の笑みで、全校生徒の面前で堂々と責任を押し付けやがった。
「なんでだよ!」と叫びたい衝動を必死に抑えながら、俺は遠い目をして天井を見上げるしかなかった。
「――以上です。ありがとうございました!」
清々しいほどに無責任で、しかし妙に人の心を捉えて離さないスピーチを終え、いろはは客席からの呆れと笑いが入り交じった拍手を浴びながら、悠然と壇上を降りてきた。
すれ違いざまに、「お疲れ様です、会長センパイ。いい感じに丸投げできましたね」と耳打ちしてくる小悪魔めいた笑みに、俺は深いため息を吐くしかなくて――まあ、こうして俺たちの異常で、どこか賑やかな生徒会の日々が、盛大に幕を開けたのだった。
あの日の全校集会での自爆スピーチ――いや、所信表明のせいで、学校内における俺たちのポジションはすっかり様変わりした。
生徒会の目安箱には、相変わらず日々の些細な愚痴や、ちょっとした校則への文句がボチボチと投げ込まれている。それらは大半がいちいち取り上げるほどでもない内容だったが、実務担当である一色いろはが「これだから先輩はもう……!」と文句を言いながらも、それなりに手際よく処理していた。
そして、予想外だったのはもう一方の余波だ。
あの所信表明の最後で「奉仕部」の存在をわざわざバラしたおかげで、部室のドアを叩く人間がちらほらと現れるようになったのだ。
放課後の部室。
「失礼します……」とおずおずと入ってきた相談者の悩みを聞き、雪ノ下雪乃が的確な(そして少し厳しい)アドバイスを飛ばし、由比ヶ浜結衣がフォローを入れる。その光景を横目で見ながら、俺はマグカップの紅茶をすすり、静かに呟いた。
「……そもそも、知名度が足りなすぎたんだよな」
部としての活動実績はあったはずなのに、認知度が圧倒的に低かった。存在すら知られていなければ、悩みを抱えた人間が頼る選択肢にすら入らない。あの時、あんな風に全校生徒の前で宣伝(あるいは暴露)したことで、ようやく本来あるべき「相談窓口」としての形に収まったわけだ。
「なによ、比企谷くん。あなたのその言い方は、まるで私たちのこれまでの苦労が宣伝不足のせいだったと言いたいようね」
雪ノ下が鋭い視線を向けてくるが、その口元にはわずかに呆れたような、しかしどこか落ち着いた笑みが浮かんでいる。由比ヶ浜も「でも、ヒッキーのおかげで相談しやすくなったって子、結構いるんだよ?」とクスリと笑った。
生徒会という表舞台で泥を被り、相変わらずの日常が裏の部室で続いている。
面倒臭さは相変わらずだが――まあ、悪くはない空間だった。
生徒会長という表立った役職に就き、そちらの雑務や全校の目を引く立ち回りで忙しくなったおかげで、俺が奉仕部に顔を出すのはせいぜい週に一、二度、それも暇を見つけてお茶を飲みに来る程度になった。
部室のドアを開け、相変わらず静かな空気が流れる中でマグカップを傾ける。
昔のように毎日のように入り浸っていた頃と比べれば、圧倒的に滞在時間は短い。けれど、あのピリついた緊張感や、気まずさの入り交じった空間に常に身を置かずに済む今の状況は、俺にとって驚くほど居心地がよかった。
「……うん。このくらいの距離感が、一番ちょうどいいんだよな」
部室の隅で本をめくりながら、俺は一人ごちる。
過剰に干渉し合わず、かといって完全に断絶しているわけでもない。適度な余白が生まれた空間は、ひねくれた俺のメンタルにとっても非常に優しかった。
――だが、そんな平和な時間は、大抵の場合長くは続かない。
「ちょっと、比企谷先輩! こんなところでサボってる場合じゃないでしょ!」
ガチャン、と勢いよく部室のドアが開き、見慣れた制服姿の後輩がずかずかと踏み込んできた。一色いろはだ。
彼女は呆れたような、しかし容赦のない目を俺に向けると、ズイと歩み寄って俺の腕を掴んだ。
「目安箱にまた面倒な案件が入ってきたんです。しかも、生徒会室のパソコンの調子もおかしいし、会長がいないと書類の決裁が溜まる一方なんですけど!」
「おい、待て待て。俺は今、貴重な休息タイムを満喫して――」
「休息は休日家に引きこもって勝手にやってください! ほら、行きますよ!」
「ちょっ、引っ張るな、腕がもげる!」「いいから歩いてください!」
「ああら、比企谷くん。お仕事のお迎えが来たようね。しっかり働きなさい」
「ヒッキー、がんばってねー!」
雪ノ下の冷ややかな見送りボイスと、由比ヶ浜の呑気な応援を背中に受けながら、俺は容赦なく生徒会室へと引きずり出されていくのだった。
――やっぱり、この距離感を保つのは、思っている以上に難しいらしい。
「……ふむ。なるほどな」
俺は手元にある分厚い紙の束――材木座が「我が盟友の栄光の軌跡を記した至高の叙事詩(ストーリーボード)だ!」とか言って押し付けてきた原稿用紙をペラペラとめくりながら、小さく頷いた。
「これは、良いな。なんせ受験勉強をしなくていい」
「……はあ?」
隣の席で山積みの書類に目を通していた一色いろはが、呆れ返ったような、あるいはゴミを見るような目を向けてきた。
「比企谷先輩、何を現実逃避してるんですか。生徒会長になったら受験勉強しなくていいって、頭の配線がどうかしちゃったんですか? 普通に推薦狙いだとしても、内申だけじゃなくて面接や小論文でボロが出たら一発アウトですし、そもそも日常の公務と雑務の量がえげつないんですけど!」
「いや、しかしだな……」
「そんな甘いもんじゃないよ、比企谷くん」
ピシャリと放たれたその言葉に、俺は思わず口をつぐんだ。
生徒会室のドアが開き、ひょっこりと顔を出したのは、前生徒会長である城廻先輩だ。相変わらず柔らかい笑顔を浮かべているが、その眼光は妙に説得力に満ちている。
「私も経験したから分かるけれど、生徒会長って想像以上に忙しいのよ。行事の調整に、学校側との交渉、それにトラブルの火消し……。受験勉強を言い訳にする暇なんて、これっぽっちもないんだから」
「ほら見なさいよ先輩。めぐり先輩だってこう言ってるんですからね。妄想はノートの端っこだけにしてください」
いろはがフンと鼻を鳴らし、再びガリガリとペンを走らせる。
――現実。
あの時、なんだかんだで全校生徒の前に立たされ、結果的に俺が押し付けられた(あるいは自ら進んで引き受けた)のは、生徒会長ではなく「書記」のポジションだった。
会長の椅子には、結局別の……まあ、それなりに適任な誰かが座ることになり、俺はその後ろで書類と格闘する羽目になっている。
会長の補佐という名の雑務係。相変わらず地味で、面倒臭くて、胃が痛くなるような役回りだ。
それでも。
「……ま、これはこれで悪くはないか」
ボソッと呟いた俺に、いろはが「なんか言いました?」と疑わしげな視線を寄こしてくる。
「なんでもねぇよ。はよ仕事しろ、会計」
「先輩がサボるからでしょ! ほら、そこの予算案、早くハンコ押してください!」
ピリピリとした、けれどどこか居心地の悪くない空気。
今日も今日とて、この生徒会室は賑やか……というか、騒がしい。
ひとしきり書類仕事に区切りをつけたところで、俺はふと伸びをした。
腰をトントンと叩きながら、椅子から立ち上がる。
「ちょっと一息入れてくるわ」
「え、ちょっと先輩、どこ行くんですか。まだ仕事残ってますけど!」
「すぐ戻るよ。……たまには、あの部室にお茶でもいただきに行くか」
背後でいろはが「もう、勝手に行かないでくださいよ!」と文句を言っている声をBGMに、俺は生徒会室を後にした。
向かう先は、あの見慣れた階段の先――奉仕部の部室。
すっかり変わってしまった日常の隙間で、少しだけ静かなお茶の時間が、俺を待っている気がした。