ただ、日常での物語を展開するのが苦手なので、1話完結(予定)
AIで作成したイラストは載せる予定。
嫌いな人もいるので後書きで載せる予定です。
玄関の鍵をかけたところで、ちょうど隣の部屋のドアが開いた。
「あ、おはようございます」
「おはようございます」
顔を出したのは、隣室に住む鬼の女性だ。
仕立てのいい黒いスーツに白いブラウス。片方の肩へ流した黒髪を留める深紅の髪飾りと、額の上からすっと伸びる二本の赤い角が、朝の光に品よく映えている。
いつも通りの、きちんとした通勤姿。
「今日も早いですね」
「そちらも、いつも通りですね」
「ふふ、そうですね」
彼女は近場のオフィスに勤めているらしく、平日は毎朝ほとんど同じ時間に家を出る。
こちらの登校時間もちょうど重なるため、いつの間にか駅まで連れ立って歩くのが日課になっていた。
「あ、今日はゴミの日でしたね」
見れば、彼女の両手には半透明のゴミ袋が提げられていた。
片方はかさばる大きな袋、もう片方は小ぶりな袋だ。そのせいで、肩に掛けた通勤用の革鞄が少しずり落ちそうになっている。
「一つ持ちますよ」
「えっ、いいんですか?」
「どうせ集積所の前を通りますから」
「助かります、すみません」
彼女が差し出してきた小さい方の袋を預かる。
こうしたやり取りも、すっかり日常の光景だ。
最初は申し訳なさそうに断られていたものの、今では声をかければ素直に頼ってくれる。
ゴミ置き場に袋を下ろし、二人は並んでマンションを出た。
「今日は帰り、遅くなりそうですか?」
「いえ、普通だと思います。そちらは?」
「私は少し仕事が残っていて……。まあ、なるべく早く帰りたいですね」
彼女は苦笑交じりに首をすくめ、ふう、と小さく息を吐いた。角の先端が朝日に透けて揺れる。
「大変ですね」
「お仕事ですから」
そう言って見せたのは、いつもの穏やかな笑顔だった。
朝の会話は、だいたいこんなものだ。
学校のことや仕事のことを少し話す日もあれば、天気の話だけで終わる日もある。
駅に着けば、それぞれ別の方向へ向かう。
「それじゃ、行ってきます」
「はい。気をつけて」
通勤客で賑わう人混みの中、彼女の頭にある赤い角が揺れながら遠ざかっていく。
その背中を見送ってから、学校へ向かった。
隣に住んでいる、感じのいい会社員。
自分にとって、彼女はまだその程度の、心地よい距離感の隣人だった。
学校から帰り、自室のドアを開けると、朝出たときのままの静けさが迎えてくれた。
鞄を置き、制服を脱いで部屋着に着替える。
ベランダの洗濯物を取り込んで畳み、冷蔵庫のあり合わせで手早く夕食の支度を始めた。一人暮らしを始めた頃は手際が悪くて苦労したが、今では簡単な自炊なら手慣れたものだ。
食事を終えて食器を片づけ、明日の弁当の仕込みを済ませる。
その後は学校の課題だ。途中でスマートフォンを確認したり、少し休憩したりしているうちに、時刻は思ったより遅くなっていた。
「……もうこんな時間か」
机の上を片づけ、明日の教科書を鞄に詰める。
念のため玄関の施錠を確かめに行くと、外の廊下から夜の静けさを割るような音が届いてきた。
コツ、コツ、と控えめに響くヒールの足音。
聞き覚えのあるその音は、隣の部屋の前でぴたりと止まった。
カチャリと鍵が回り、ドアが開いて、静かに閉まる。
――隣の人が帰ってきたらしい。
朝、首をすくめて「早く帰りたいですね」と苦笑いしていた彼女の顔が浮かぶ。結局、こんな深夜まで残業だったのだろうか。
本当に大変だな、と心の中で呟きながら寝室へ戻る。
明かりを消して布団に潜り込むと、心地よい疲労感がじんわりと全身を包んでいった。
別の日の朝。
いつもの時間に玄関を出ると、隣室のドアもちょうど開いた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
彼女はいつものビシッとしたスーツ姿だったが、今日は片手に半透明のゴミ袋を提げていた。
歩くたびにカシャカシャと軽い金属音が響く。中身を見れば、色とりどりのアルミ缶――どうやらビールや酎ハイの空き缶らしい。
「今日は缶の日でしたね」
「はい。忘れないうちに出しておこうと思いまして」
並んでエントランスへ向かって歩き出したとき、ふと、甘くツンとした匂いが鼻先をかすめた。
「……あれ、なんかお酒の匂いがしますね」
「えっ?」
隣から、わずかに上ずった声が返ってきた。
不思議に思って彼女の手元を見やる。
「ああ、これですかね。空き缶から匂うのかな」
その一言に、彼女の肩がピクリと小さく跳ねた。
「……あ、はい! そう、かもしれませんね」
「結構な量ですね」
「あはは……ちょっと、ためてしまいまして」
彼女は気まずそうに視線を彷徨わせ、耳の先を朱に染めて愛想笑いを浮かべた。気のせいか、頭の二本の角までもが少し熱を帯びて赤くなっているように見える。
歩くたびにカシャカシャと派手な金属音を立てる袋を見かねて、いつもの調子で手を差し伸べた。
「それ、持ちましょうか?」
「あ、いえ! 今日は自分で持っていきますので!」
いつもの落ち着いたトーンとは打って変わった、明らかな早口の食い気味。思わず目を丸くしてしまう。
「そうですか?」
「はい。それに……結構、重たいですし!」
アルミ缶がそんなに重いわけがないし、そもそも鬼の彼女が腕力で困るはずもない。
明らかに誤魔化しの下手な断り文句だったが、本人が頑なに抱え込んでいる以上、これ以上踏み込むのも無粋だろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい、すみません」
並んで集積所へ向かい、彼女はゴミ置き場に袋を下ろした。
それから鞄のポケットから小さな香水瓶を取り出し、首元にシュッと吹きかけると、少しほっとしたように胸をなでおろした。
「それじゃ、行きましょうか」
「はい」
その後はいつも通り、学校や仕事の話を交わしながら駅へと向かった。
先ほどまでの酒気はすっかり消え去り、風に乗って届く甘く爽やかな香りが、歩幅を合わせるたびにこちらの鼻腔をくすぐってくる。隣を歩く大人の女性を少しだけ意識してしまいながら、いつもの改札をくぐった。
それから数日後。
その日は塾があり、帰宅した頃には夜の十時を回っていた。
マンションのエレベーターを降り、静まり返った外廊下を自分の部屋へ向かって進む。
あと数歩で自室のドア、というところで――ふと、足を止めた。
「……え?」
ドアの前にへたり込んでいるのは、紛れもなく隣の彼女だった。
だが、いつも見かける凛としたスーツ姿とはまるで違う。
床には空になったビールの缶が無造作に転がり、通勤用の黒いバッグは口を開けたまま放り出されている。
スーツのジャケットは乱れ、ボタンの外れた白シャツの胸元が大きく開いて、薄暗い廊下の常夜灯に白い肌が艶めかしく浮かび上がっていた。
目のやり場に困って思わずたじろぎながらも、放っておくわけにもいかず、意を決してその足元へと歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
恐る恐る声をかけると、彼女の長い睫毛が震え、うっすらと瞳が開かれた。
「ん……?」
ピントの合わない視線がこちらを彷徨う。
声は届いているらしい。少なくとも、呼びかけにも応じないほど完全に泥酔しているわけではなさそうだった。
目の前にしゃがみ込むと、朝の甘く爽やかな香りは完全にどこかへ吹き飛び、強いアルコールの匂いが漂ってくる。
「こんなところで何してるんですか」
「帰ってきたぁ……」
蕩けた笑みを浮かべ、ずいぶん気の抜けた甘い声が返ってくる。
深いため息とともに、彼女のすぐ背後にある鉄扉を指さした。
「部屋、ここですよね?」
「うん……」
「まだ一歩も入ってませんよ」
「……あれぇ?」
彼女はぽかんとした表情で振り返り、固く閉ざされたドアのノブをまじまじと見つめた。額の赤い角が、首を傾げる動きに合わせてゆらりと揺れる。
「ほんとだぁ……」
何がそんなにおかしいのか、口元をふにゃりと緩めて笑う。
普段の彼女からは想像もつかない、無防備きわまりない姿だった。朝はいつもきっちりとスーツを着こなし、礼儀正しく微笑んで見送ってくれる大人の女性なのに。
それが今は廊下にぺたりと座り込み、部屋に入っていないことすら理解していなかったらしい。よほど仕事で疲れていたのか、それとも何か嫌なことでもあったのだろうか。
深いため息を飲み込み、視線を落として声をかけた。
「鍵、持ってないんですか?」
問いかけながらどうしたものかと頭を抱えていると、彼女がとろんとした視線をこちらに向けてきた。
「あれぇ……」
「はい?」
「君だぁ……」
ここにきてようやく自分の存在を認識したらしい。あまりに遅すぎる気づきに、思わず苦笑が漏れる。
――と、油断した隙に、ふわりと彼女の手が伸びてきた。
「いい子…いい子……」
「……はい?」
ぽん、と頭の上に柔らかい手のひらが乗る。
鬼とは思えないほど優しく、控えめな手つきだった。普段の礼儀正しい彼女の優しさが、そのまま手の温もりに滲み出ているような気がする。
「よしよし……」
「え、ちょっ……?」
そのまま、くしゃりと髪を撫でられた。
「いつもぉ……重いゴミ袋、持ってくれるもんねぇ……」
「あ、いや、それは……」
「いつもありがとうねぇ……いい子だねぇ……」
もう一度、よしよしと優しく撫でられる。
ふわりと届く熱っぽい吐息と、はだけた胸元の眩しい白い肌。
普段は意識したことすらなかった年上の女性としての魅力が、至近距離から一気に押し寄せてくる。
カッと顔が一気に熱くなるのを感じ、慌てて後ろへと身を引いた。
「ちょっと、頭はやめてください」
「あれぇ……」
彼女は宙に浮いた手を止め、きょとんとした。
「やだった……?」
「びっくりしますよ、急に」
「そっかぁ……ごめんねぇ」
寂しそうに眉尻を下げて素直に手を引っ込めたので、少しホッとしたと同時に、なんだか悪いことをしたような気分になる。
今のうちに部屋へ戻ってもらおう。
「……とにかく、部屋に入りましょう」
「んー……いやぁ……」
彼女が両腕を広げた。
嫌な予感がした。
「いや、ちょっと――」
立ち上がろうと身を引くより早く、彼女のしなやかな腕が肩へ回った。
先ほどとは比べものにならない力強さで、一気に正面から抱き寄せられる。
鼻先がはだけたシャツの胸元に埋もれ、甘い酒気と熱い体温が一気に押し寄せてきた。
抵抗しようにも、彼女の腕力は泥酔してなお万力のように固く、びくともしない。
そのまま彼女は満足そうに瞼を閉じ、すやすやと寝息を立て始めた。
「いいこ……いいこ……」
完全に寝入って腕の力がふっと緩んだ隙を見逃さず、そっと身体を滑り込ませるようにして腕の中から脱出した。
床にへたり込み、乱れた呼吸を整える。顔はカッと熱く、心臓は早鐘のように鳴り響いていた。
正直、ひどく困った。
無理に立たせて転ばれても困るし、そもそもこの怪力では素人が一人で抱え起こすことすら危うい。かといって、この冷たい廊下に放っておくわけにもいかない。
しばらく考えてから、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
入居時にもらった案内に、管理人の連絡先が載っていたはずだ。
画面を操作し、すがるような思いで電話をかけた。
しばらくして、ペタペタとサンダルを引きずる音とともに管理人がやってきた。
「どうした、こんな時間に」
「夜分にすみません。隣の人が……」
口を開きかけたが、説明するより早く、管理人はドアの前にへたり込んでいる彼女の姿に気づいた。
「……ああ、またか」
深いため息とともに、頭を抱える。
「知ってるんですか?」
「飲み過ぎると、こうなるんだよな。この人は」
「そうなんですか……」
「まったく、普段はしっかりしてるんだけどな」
管理人は手慣れた様子で彼女の前にしゃがみ込んだ。
「おい、聞こえるか?」
「ん……?」
「大丈夫か。どこか痛いところはないか?」
「だいじょうぶ……」
「転んだりしてないな?」
「うん……」
管理人は呼びかけへの反応を確かめながら、呼吸のリズムや外傷がないかをテキパキと確かめていく。
彼女はとろんと眠そうではあるものの、聞かれたことには素直に頷いて答えていた。
「……まあ、話は通じるな。大事には至ってなさそうだ」
管理人は立ち上がり、ほっと息をついてこちらを振り返った。
「呼んでくれて助かったよ」
「いえ……僕一人じゃ、どうしたらいいか分からなくて」
「それで正解だ。無理に引っ張って転ばれでもしたら大変だからな。彼女は普段大人しいが、鬼だからな」
自分の判断が間違っていなかったと分かり、張り詰めていた肩の力がようやく抜ける。
管理人は慣れた手つきでジャージのポケットから冷えたペットボトルの水を取り出し、彼女の手元へ押し当てた。
「ほら、これ飲みなさい。冷たい廊下にずっと座ってたら風邪引くぞ」
「ん……ぁ、おみず……」
ひんやりとした感触に少しハッとしたのか、彼女は震える指先でなんとかキャップを開け、すがるように口をつけた。
ごくごくと喉を鳴らして水を流し込んでいく。少し口元から零れそうになるのを、管理人がそっとボトルの底を支えてやった。
半分ほど一気に飲み干し、ふーっと熱い息を吐き出す。
ほんの少しだけ視線にピントが戻ってきたのを見計らい、管理人は呆れ半分に声をかけた。
「少し落ち着いたか? 飲んだら、ちゃんと起き上がりなさい」
「……んぅ……」
促されて、彼女がおずおずと顔を上げた。
管理人の呆れ顔を見上げ、それから恐る恐る周囲を見回して――自分のすぐ目の前に立つ僕の姿を認める。
「……あれ、私……」
「夜風に吹かれて爆睡してたんだよ。お隣さんに発見されなきゃ風邪引いてたぞ」
「……あ、う……」
瞬時に状況と自分の乱れた格好を理解したのだろう。
お酒のせいだけではない真っ赤な色が首筋から耳の先まで一気に駆け上がり、はだけた胸元を慌てて両手でかき集めた。
彼女はドアの横の壁にぺたりと手をつき、小さくなりながら身じろぎする。
「……た、立てそうか?」
「…………はいぃ……」
さっきまでの気の抜けた甘ったるい声とは打って変わって、恥ずかしさのあまり消え入りそうな蚊の鳴くような声が返ってきた。
管理人がすぐ横で見守るなか、彼女は壁伝いに時間をかけて立ち上がる。途中で一度よろけて動きを止めたものの、必死に姿勢を整えた。
「大丈夫か?」
「……はい。大丈夫、です……」
先ほどより、少しだけ普段の落ち着いた話し方に近づいていた。ただ、真っ赤になった顔はずっと伏せられたままだ。
「じゃあ、鍵を開けて早く部屋に入りなさい」
「……はい」
彼女はおぼつかない手つきで鞄から鍵を取り出すと、震える指先でゆっくりと鍵穴に差し込んだ。
かちゃり、と小さな金属音が響き、ドアの隙間から暖房の切れた部屋の空気が流れ出てくる。
「……本当に、すみませんでした……」
彼女は真っ赤な顔をこれ以上ないほど深く下げ、消え入りそうな声で絞り出した。視界の端で、僕のほうにも申し訳なさそうに頭を下げているのが分かる。
「謝るのはいいから、今日はもう休みなさい。今度から飲み過ぎないようにな」
「……はい」
すべるように部屋の奥へと消えていき、重いドアが静かに閉まる。
カチャリと内側から鍵がかかる音が響き、廊下には僕と管理人の二人だけが残された。
「君も、こんな遅くまで付き合わせて悪かったね。もう戻っていいよ」
「あ、はい。駆けつけてくださって、本当にありがとうございました」
「いやいや、君が冷静に呼んでくれて助かったよ。風邪引かないようにな」
管理人はそう言って軽く手を振り、エレベーターの方へと歩いていった。
自分の部屋の鍵を開けて中に入り、カチャリとドアを閉めた瞬間、張り詰めていた緊張が一気に解けてその場にへたり込みそうになった。
鞄をベッドへ放り出し、深い溜め息を天井へ吐き出す。
「……びっくりした、マジで……」
静まり返った部屋の中で一人になると、さっき起きた出来事が鮮明に蘇ってくる。
毎朝、隙のないスーツ姿で凛々しく挨拶してくれるお隣さん。
あの綺麗で大人っぽい彼女が、廊下でふにゃふにゃに酔い潰れ、頭をよしよしと甘やかすように撫でて――あんな無防備な格好で抱きついてきたのだ。
まだはだけた胸元の柔らかい熱が、肌に残っているような錯覚すら覚える。
――ただ、その熱気の中で彼女が口にしていた言葉も、はっきりと耳に残っていた。
『いつもぉ……重いゴミ袋、持ってくれるもんねぇ……』
『いつもありがとうねぇ……いい子だねぇ……』
普段のゴミ出しで顔を合わせたとき、重そうにしていた袋を運んだだけのことだ。
その場でも深々とお礼を言われていたのに、まさか理性を失うほど酔い潰れてなお、あんなに嬉しそうに覚えていてくれるなんて思いもしなかった。
「……ほんと、人が良すぎるだろ」
呆れ半分、照れ半分でつぶやきながら、制服を脱いで風呂へ向かう準備を始める。
明日の朝、もし顔を合わせたらどんな顔をすればいいのだろう。
そんな気の早い心配を抱えつつ、今夜はとにかく、余計なことを考える前に早く寝てしまおうと決めた。
翌朝。
いつもの時間に玄関を出ると、隣のドアもほぼ同時に開いた。
「あ……」
思わず声が漏れた。
彼女はいつもの黒いスーツ姿だった。髪もきれいに整えられ、赤い髪飾りもいつもの位置にある。
見た目は普段通りの凛とした佇まいだ。けれど――
「お、おはようございます……」
昨夜の出来事が頭をよぎり、こちらの声が若干どもってしまう。
「……おはよう、ございます」
彼女からも挨拶が返ってきた。だが、その声は普段の落ち着いたトーンと違って、どこか硬くぎこちない。
彼女はドアの鍵をかけると、鞄を抱えたまま、しばらくその場に直立不動で立ち尽くしていた。
「あの……」
「はい?」
「昨日は……本当に、すみませんでした……」
彼女はこちらに白いうなじを見せるように腰を深く折り曲げ、深々と頭を下げた。
綺麗にまとめた黒髪の隙間から覗く耳の先まで、林檎のように真っ赤に染まっている。
「ちょ、頭を上げてください! 廊下ですし、誰か来たら変な誤解されちゃいますから」
「……っ、はい」
慌てて両手を振ると、彼女はおずおずと上体を起こした。
普段の落ち着いた大人の女性の面影はどこへやら、視線をあちこちに泳がせながら、抱えたビジネスバッグの持ち手をぎゅっと握りしめている。
「怪我とか、体調の方は大丈夫ですか?」
「はい、管理人さんにもらったお水のおかげで……。それより、私……あなたに、とんでもないご迷惑を……」
そこで言葉を切り、彼女は喉元まで出かかった言葉を飲み込もうとして――耐えきれずに、消え入りそうな声で白状した。
「その……私、頭を撫でたり……抱きついたり……しましたよね?」
「……しましたね」
否定せず正直に答えると、彼女の首筋から耳の先、額の角の根元までが一瞬で沸騰したかのように赤く染め上げられた。
抱えていた鞄を持ち上げ、耐えかねたように自分の顔をまるごと覆い隠してしまう。
「本当にすみません……」
鞄の向こうから、くぐもった消え入りそうな声が漏れる。
まだ何か言いたそうに唇を動かしている気配はあったが、羞恥で限界を迎えたのか、それ以上の言葉は出てこないらしい。
腕時計をちらりと見ると、そろそろ出ないといつもの電車に遅れてしまう時間だった。
「まあ……びっくりはしました。けど、お姉さんはお姉さんですから」
毎朝エントランスで会う姿を思い出す。
隙のないスーツを着て、丁寧にお辞儀をしてくれる隣人のお姉さん。お酒が入ると途端にだらしなくなるけれど、それ以外はどこまでも誠実で礼儀正しい人だ。
「……!」
「次からは気をつけてもらえれば、それでいいですよ」
そう口にしながらも、昨夜至近距離で浴びた胸元の熱気や甘い酒気の匂いが不意にフラッシュバックする。
カッと顔が熱くなるのを感じ、たまらず彼女から視線を逸らした。
「はい。本当に、気をつけます……」
「じゃあ、行きましょうか」
照れ隠し半分にそう言って小さく笑うと、彼女もようやく鞄の隙間から顔を覗かせた。
「……はい。行きましょう」
二人は並んで、朝の廊下を歩き始めた。
エレベーターに揺られ、いつものようにマンションのエントランスを出る。
今日はゴミ回収日ではないので、二人とも手ぶらだった。
「……昨日は、本当にありがとうございました」
並んで歩きながら、彼女が前を向いたままもう一度言った。
「それはもう聞きましたよ」
「……そうでしたね」
彼女は少し困ったように、けれどどこかホッとしたように小さく笑う。
「じゃあ、今日は普通にお仕事、頑張ってください」
「はい。そちらも学校、頑張ってくださいね」
「ありがとうございます」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人はいつもの駅へ向かって歩いていった。