「先生、外れました」
技術室の奥から、困ったような声がした。
俺が振り向くと、作業台の前で一人の生徒が木片を両手に持っていた。机には製作途中の本立て。薄い板が二枚、底板の上に置かれている。
「見せてみろ」
近づくと、生徒は仕切り板の下に小さな木片を当てた。ところが、横から少し押しただけで、仕切りがころりと倒れる。
「本の大きさに合わせて仕切りを動かしたかったんです。でも、これじゃ固定できなくて」
「なるほどな。で、どの本を置く?」
「教科書と、家にある図鑑です。図鑑のほうがずっと厚いので」
「そりゃ、幅を変えたくなるわな」
俺は外れた木片を受け取り、指で合わせ目を確かめた。まだ切っても削ってもいない端材同士だ。少し押せば滑るのは当たり前だが、考えたいことは分かる。
「先生、普通の仕切りに戻したほうがいいですか?」
「なんでだ?」
「何回やっても、うまくいかないかもしれないし」
「何回かやってから決めりゃいい。まだ一回目だろうが」
俺は木片を返した。
「今のままじゃ、使うたびに倒れる。そいつを完成品として出すなら俺は止めるぞ。だが、仕組みを考えるのまでやめる必要はねえ」
生徒はもう一度、底板と仕切りを見比べた。
「……下を二か所で留めれば、ぐらつきにくくなりますか?」
「おっ」
俺は机に片手をついた。
「そいつは試す価値がある。位置を変えるたび、二か所とも留め直すわけだな?」
「はい。底板に穴を並べておいて……」
「なら穴の間隔も考えろよ。端っこに寄せすぎりゃ板が割れる。ほら、図にしてみろ」
生徒が鉛筆を走らせる。その横顔が、さっきとはまるで違っていた。
こういう顔を見ると、こっちまで手がうずく。
「先生、穴を開けて試してもいいですか?」
「やりてえところだが、今日はここまでだ」
予定を忘れていたわけじゃない。今日の穴開け作業は、別の班が順に使うことになっている。来週の実習の進め方も、同じ学年を担当する教員と合わせてある。
昔、工房で働いていた頃は、面白い案が出れば自分の作業順を入れ替えられた。今はそうはいかない。目の前の一人だけを見ていればいい仕事じゃねえからな。
「今日は穴の位置を決めろ。端材に印をつけるところまでならできる。次はそこからだ」
「分かりました!」
「それと、できたら俺にも最初に見せろよ」
「先生が見たいだけじゃないですか」
「ばれたか。はっはっは!」
隣の作業台から「先生、こっちもお願いします」と声がかかった。俺は生徒の図面を一度だけ覗き込み、そちらへ向かった。
角の短い鬼の男子が、紙やすりを手に困った顔をしている。仕上げたつもりの板の端を指でなぞると、まだざらついていた。
「ここ、触ってみろ」
「あ、引っかかる」
「そうだ。触るたびに気になるぞ。もう一息だな」
男子はうなずき、また黙々と磨き始めた。
そうそう。その一手が大事なんだ。
*
放課後の職員室で、生徒の図面を開いた。
次の時間に試すなら、穴開けの順番を少し変えたい。共通の実習予定を確認し、余裕のありそうな枠に印をつける。
そこで、明日使う工具の点検記録がまだ途中なのに気づいた。ほかのクラスも使うものだ。こちらを先に済ませる。
点検結果を入力し、共有欄を確認する。その間にも返却する書類が机に積まれた。昔の工房にも納期や伝票はあったが、今は相手にする人数も、確かめる項目も桁が違う。
記録を片づけ、図面に戻ったときには、窓の外が薄暗くなっていた。
「ったく、腕を動かすより書く仕事のほうが多い日もあるってか」
それでも、生徒の図面をそのまま閉じる気にはならなかった。
端材で位置を確かめる。穴を開けるのは、各班の進み具合を見てから。
手帳に二行だけ書いた。十分な準備とは言えねえが、何もないよりずっといい。
机の端に置いていた図面を、折れないようにファイルへ戻す。
「よし。今日は帰るか」
*
「いつものかい?」
「おう。あと煮込みを頼む」
学校から少し歩いたところにある居酒屋は、カウンターの端が俺の定位置だ。座ると、店主が冷えたビールを出してくれた。
一口飲んで、ようやく肩が緩む。
「今日はずいぶん早いね」
「これで早いってんだから、嫌になるぜ。生徒がよ、面白えもんを考えてきたんだが、試すまでの段取りが多くてな」
「へえ」
「仕切りを動かす本立てだ。こっちが一つ聞いたら、あいつ、次の案を考えてきやがる。なかなか見込みがあるぞ」
「楽しそうだねえ」
「仕事の愚痴を言ってんだよ、俺は」
店主は笑って、煮込みを置いた。
大根に箸を入れると、ほろりと崩れる。よく味が染みていた。こいつを食うと、ついついもう一杯欲しくなる。
店の戸が開いたのは、そのときだった。
「あら。ここにいたのね」
振り向くと、銀灰色の髪を後ろでゆるくまとめたエルフの女が立っていた。以前から顔を合わせれば話す仲だが、約束していたわけじゃない。
「おう。飯か?」
「ええ。外で食べたくなって」
彼女は店主に空席を確かめ、俺の隣に腰を下ろした。
「焼き茄子、まだあるかしら」
「あるよ」
「それと、お茶をお願いします」
「酒じゃねえのか?」
「今日はお茶。あなたは好きなだけ飲めばいいでしょう」
「そりゃそうだ」
俺は残っていた煮込みを口へ運ぶ。彼女は届いたお茶を一口飲み、店の外へ視線を向けた。
「商店街、提灯を付け始めたわね」
「もうそんな時季か。祭りまでまだあるだろうに」
「今年は屋台が少し増えるそうよ」
「ほう。焼きとうもろこしも出るか?」
「あなた、毎年それね」
「うまいもんは毎年食う。何か問題あるか?」
「別に。私も買おうかと思ってたところ」
「なんだ、そうなら先に言えよ」
「今言ったでしょう」
焼き茄子が届いた。彼女は薬味を少しずつのせ、ひと口食べて満足そうにうなずく。
「うまそうだな」
「食べる?」
「いや、俺はこっちがある」
「そう」
しばらく、互いに自分の皿へ箸を伸ばした。
奥の席では誰かが笑い、店主が空いた器を下げていく。俺のビールもすっかり減っていた。
「次、何を頼もうかね」
「私はもう一皿、焼き茄子にしようかしら」
「同じもんを二皿か?」
「おいしいものは、もう一度食べてもいいでしょう」
「……そりゃそうだな!」
俺は笑って、店主を呼んだ。
「すまん、焼き茄子をもう一皿。あと、俺にはビールを頼む!」
明日のことは、明日考えりゃいい。
今はまだ、うまいものが残っている。