四時間目が終わるまで、あと五分。
黒板の数式をノートに写し終えた俺は、机の上に教科書を立てた。
教壇の先生が背を向けた隙を見計らい、その陰でそっとカメラ雑誌を開く。
今月の特集は、新発売の単焦点レンズだ。
とても小遣いで買えるような値段じゃない。
そこに載っている写真を眺めているだけで、時間を忘れて見入ってしまう。
木漏れ日を浴びて咲く一輪の花。
限界まで絞りを開いて切り取られた一枚は、綺麗に溶け落ちた背景の中で、花びらの輪郭だけがくっきりと光をまとっていた。
(……あの公園の池のほとりなら、似た光を狙えるかもしれない)
解説の小さな文字を追おうと、雑誌を手元へ引き寄せた――その時だった。
斜め後ろから、ぎし、とパイプ椅子がきしむ小さな音がした。
反射的に雑誌を伏せ、立てていた教科書の下へ滑り込ませる。
教壇の先生は、背を向けたままチョークを走らせていた。
(……よし。たぶん、見られてない)
喉元で止めていた息を小さく吐き出した瞬間、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。
先生がチョークを置いて「今日はここまで」と告げると、静まり返っていた教室が一気にざわめき始める。
俺は雑誌を鞄に押し込み、前の席でスマホを取り出し始めている友人に声をかけた。
「学食、行くぞ」
「行くか。今日の日替わりなんだっけ?」
「知らない。残ってれば何でもいい」
廊下へ向かいかけていたもう一人も巻き込み、三人で教室の出口へ向かう。
「高瀬、放課後どうすんの? またカメラ?」
「うん。公園に寄る」
「毎日あそこ行ってて飽きないわけ? 池と木しかないじゃん」
「昨日と同じ場所でも、光の角度が違えば別の景色になるんだよ」
「出たよ、写真部特有のこだわり」
「聞いてきたのお前だろ」
そんな軽口を叩きながら教室を出ようとした瞬間、廊下側から入ってきた女子と肩がぶつかりそうになった。
「あ、ごめん。先どうぞ」
ふわりと甘い匂いが鼻先をかすめ、黒髪が揺れる。
彼女は足を止めると、背中に生えた蝙蝠のような黒い翼を、すれ違う邪魔にならないようきゅっと体に引き寄せた。
「……ありがと」
「うん。いってらっしゃい」
気さくに細められた紫色の瞳と、黒髪の隙間からのぞく小さく湾曲した角。
桐谷莉央。同じクラスの、サキュバスだ。
明るくて人懐っこい彼女の周りには、いつも誰かしらの輪ができている。
席は俺の右斜め後ろ。席替えからひと月以上経つが、目が合えば会釈する程度で、まともな会話なんてしたことがなかった。
学食へ向かう階段の途中で、友人が思い出したように口を開いた。
「桐谷さんって、ほんと誰に対しても愛想いいよな」
「さっきも他クラスのやつに声かけられてたしな」
もう一人が同意するように頷き、隣から肘で俺を突いてくる。
「高瀬って席近いだろ? 普段どんな話すんの?」
「斜め後ろな。近いけど、挨拶くらいしかしない」
「同じクラスなのに? もったいねえ」
「お前だって全員と喋るわけじゃないだろ」
「そりゃそうだけどさ」
友人は肩をすくめ、学食の入口に着く頃には今日のメニューの話題へと切り替わっていた。
定食の唐揚げを頬張りながら、昨夜配信されたソシャゲのアプデについて語り合う。
いつも通りの、他愛のない昼休みだった。
昼休みの終わり際、教室へ戻った俺は自分の席の前でピタリと足を止めた。
俺の机の角に、桐谷さんがちょこんと腰掛けていた。
机の脇にはクラスの女子が二人。どうやら購買の新作パンの味について盛り上がっているらしい。
桐谷さんの細長い尻尾は、器用に机の脚を避けて床へ垂れ、黒い翼は背中にすっきりと収まっていた。
「あの、桐谷さん。そこ、俺の席」
「あ、高瀬くん。ごめんね!」
俺の声に気づくと、彼女はするりと机から降りた。
「場所、ちょっと借りてた。ありがと」
「いや、いいけど」
俺が席に着くと、彼女はすぐに友達との輪へ戻る。
「それでさ、チョコの方はクリーム多すぎない?」
「えー、あれくらい甘いのがいいんじゃん!」
楽しげな女子の会話を背中で聞き流しながら、五時間目の現代文の教科書を机に出す。
予鈴まではまだ少し間がある。俺は鞄から先ほどのカメラ雑誌を抜き出し、読みかけだったページを開いた。
作例の絞り値とシャッタースピードを頭に叩き込む。
――ふと、背後からの視線を感じて振り返った。
斜め後ろ。友達と喋っていたはずの桐谷さんと、ばっちり目が合った。
「……なに?」
「ううん、なんでもない」
彼女はいたずらを思いついた子どものように口元を手で隠してくすっと笑い、友達に「莉央、聞いてる?」と肩を揺すられて会話の輪へ戻っていった。
(……なんだ、今の)
やがて短く予鈴が鳴り、女子たちが「また放課後ね」とそれぞれの席へ散っていく。
俺も雑誌をパタンと閉じて机に置いた。
――その直後、すぐ横で足音がピタリと止まる。
「ねえ」
降ってきたのは、耳元数センチの至近距離からの囁き声だった。
さらりと俺の肩をかすめる艶やかな黒髪。
ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香りと、耳たぶに当たる微熱を帯びた吐息。
「さっきの授業中も、それ読んでたでしょ?」
「っ……!?」
跳ね上がった心臓を抑えられず、反射的に身を引いて顔を上げる。
俺の机にちょこんと手を突き、楽しそうに覗き込んできた桐谷さんが、紫色の瞳を細めてくすくすと笑っていた。
それだけ言い残すと、彼女は満足そうに背筋を伸ばし、ひらりと自分の席へと戻っていった。
(……見られてた)
四時間目の終わりの物音は、完全にこいつだったのか。
耳元にはまだ、微熱を帯びた吐息の感触が残っている。
というか――なんでわざわざ耳元で言うんだよ。普通に突っ込めばいいだろ。こっちの心臓がもたないんだが。
五時間目が始まっても、耳元に残った微熱がなかなか引かなかった。
ノートに板書を写しながらも、どうしても意識が後ろへ向いてしまう。
気になって、ほんの数ミリだけ視線を斜め後ろへ滑らせた。
案の定、桐谷さんと目が合った。
彼女は頬杖をついたまま、いたずらっぽく口角を上げてウィンクを寄越してくる。
(……絶対、からかわれてる)
俺は慌てて前を向き直した。
放課後の公園は、ひっそりとしていた。
住宅街の片隅にある小さな緑地公園。
コンクリートの護岸で囲まれた池と、少し色づき始めた並木道。
写真部の活動日ではないが、天気のいい日はいつもここで一人、シャッターを切るのが日課だった。
俺はベンチに鞄を置き、首から提げた一眼レフのレンズキャップを外した。
池のほとりに立ち、ファインダーを覗き込む。
昨日の曇天とは打って変わり、今日は西日が強い。
木々の隙間を縫って斜めに差し込む斜光が、静かな水面に細かな金の粒を散らしていた。
右へ二歩。
背景に入り込みそうだったベンチを画角から外し、木漏れ日の筋が画面の対角線を通るように構える。
カシャ、と乾いたシャッター音が響いた。
液晶プレビューを確認する。悪くはないが、水面の反射が白飛びしてギラついていた。
露出を一段下げ、明暗のコントラストを切り詰める。
――カシャ。
今度はいい。暗がりのなかに、静謐な光の筋だけがまっすぐ伸びていた。
「あれ、やっぱり高瀬くんだ」
背後から掛けられた声に、ファインダーから目を離した。
振り返ると、通学鞄を肩にかけた桐谷莉央が立っていた。
背中に畳まれた黒い翼の皮膜が、夕暮れの光を受けて紅く染まっている。
「……桐谷さん? なんでここに」
「この先にちょっと用事。早く着きすぎちゃってさ、時間つぶしに公園通り抜けてたの」
そう言って、彼女は俺の手元にあるカメラへ視線を落とした。
「高瀬くんは……ふふ、見ればわかるね。写真?」
「見ての通り」
「知ってるよ。お昼休みにも読んでたカメラ雑誌、四時間目もあんな必死な顔して隠し読みしてたもんね」
「……その話、まだ引っ張るわけ?」
「だって面白かったんだもん。怒られるんじゃないかってソワソワしてて」
いたずらが成功した子どものように笑いながら、彼女はツツツと池の縁へ歩み寄ってきた。
「ねえ、どんなの撮ってたの? 見せてよ」
「風景ばっかりだよ。面白くないと思うけど」
「いいからいいから」
断る理由もなく、液晶モニターに先ほど撮った水面の写真を呼び出す。
彼女は俺のすぐ隣に並び、覗き込むように顔を近づけてきた。ふわりと、昼休みと同じ甘い香りが鼻先をかすめる。
「わ……これ、さっきの池?」
「うん。そこ」
「へえ……こんなふうに写るんだ。いつも見てる池なのに、なんか別の場所みたい」
「光ってるところだけ残したかったから、わざと全体を暗く撮ったんだ」
「ふうん……。うん、本物よりこっちの方が好きかも」
桐谷さんは液晶に映る光の筋に、指先で触れた。
「静かで、ちょっと特別な場所に見える」
構図がどうとか、絞りがどうとかではない。
切り取った空気そのものを褒められた気がして、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
「……ありがと。俺も、今日のは割と気に入ってる」
「でしょ? ね、ほかのも見たい。あっち座って見ようよ」
桐谷さんは池のそばのベンチへ足を向けた。
畳んだ翼が背もたれにぶつからないよう少し浅めに腰掛け、細い尻尾を足元へ逃がす。
俺もその隣、拳二つ分ほど空けて腰を下ろし、カメラを彼女の方へ傾けた。
錆びたフェンスに落ちる影。夕暮れの商店街の歩道橋。雨上がりのアスファルトに反射した信号の赤。
桐谷さんは写真をめくるたび、「これどこ?」「なんで後ろがぼやけてるの?」と無邪気に質問を投げかけてきた。
普段、友人に見せても「おー、うまいじゃん」の一言で終わる。
こんなふうに一枚一枚の意図に興味を持たれるのは、気恥ずかしくも、ひどく新鮮だった。
「――ねえ、高瀬くん」
「ん?」
「高瀬くんの写真って、全然人が写ってないね」
桐谷さんは画面を見つめたまま、ちょこんと首を傾げる。
「風景専門だから。人は……撮り慣れてないし、頼まれた時くらいしか撮らない」
「そっか。……じゃあ、もっと前の写真も見てもいい?」
「いいよ。十字キーで送れるから」
カメラを手渡すと、彼女は慣れない手つきでボタンをカチカチと押し、過去のデータを遡っていった。
公園の花壇。並木道。校門前――そこで、彼女の指がピタリと止まった。
「……あれ?」
「どうした?」
「これ、うちの校舎だよね?」
「うん。夕焼けが窓ガラスに反射して綺麗だったから、先週撮ったやつ」
「へえ……。あ、ちょっと待って」
桐谷さんが液晶画面の端っこを、爪先でちょんと示した。
「これ、私じゃない?」
「え?」
慌てて画面を覗き込む。
夕暮れに染まる昇降口の前。フレームの隅に、一人の女子生徒が写り込んでいた。
黒い髪、頭の角、背中の翼。
間違いなく、桐谷莉央だった。
「……うわ、本当だ」
「ちょっと、何この顔!」
彼女は片手で口元を押さえ、堪えきれずに吹き出した。
横を向いて歩き出そうとした瞬間だったらしく、半目になったなんとも言えない間抜けな表情で固定されている。
「なんかすごいブサイクに写ってるんだけど!」
「ごめん! 校舎の光ばっかり見てて、完全に気づいてなかった」
彼女はくすくすと笑いながら、もう一度その写真を眺めた。
「……でもさ」
「何?」
「せっかく私が写ってるのに、こんな端っこで半目なのは、ちょっともったいないと思わない?」
「……まあ、いい写りとは言えないけど」
「でしょ?」
桐谷さんはカメラを俺の膝の上へそっと預けると、すっとベンチから立ち上がった。
くるりと身を翻し、座ったままの俺を上からのぞき込むように前かがみになる。
垂れてきた黒髪を細い指先で耳にかけ、至近距離から艶やかな紫の瞳がまっすぐ俺を捉えた。
逆光に透ける黒い翼が、彼女の身体を包み込むようにわずかに広がる。
「ねえ、高瀬くん」
「……なに」
「今度、ちゃんと撮ってみる?」
「……は?」
「だから、私。モデルになってあげよっか?」
思考が一瞬、完全にフリーズした。
あまりに唐突な提案と、小悪魔のように口角を持ち上げた笑み。
そして――前かがみになったせいで無防備に覗きそうになる制服の胸元に毒気を抜かれ、返事がうまく喉から出てこない。
「……本気で言ってんの?」
「もちろん。こんな変な顔の写真のまま残されるの、悔しいし」
桐谷さんは楽しそうに小首を傾げた。
揺れる黒髪の隙間から、白い首筋と小さな角が覗く。
「ふふっ。なに、そんなに驚く? ……あ、顔赤くなってる」
「……急に近づいてくるからだろ」
「えー、私のせい? サキュバスだから?」
「そういう意味じゃない」
手元の一眼レフを見下ろす。
人を撮るのは苦手だ。風景と違って、光が巡ってくるのを勝手に待つわけにはいかないし、相手の表情やポーズにも気を配らなきゃいけない。
だけど――。
「……うまく撮れる保証はないけど。それでもいいなら」
「うん、それがいい!」
桐谷さんは嬉しそうに目を細めた。
「高瀬くんの撮る写真、なんか好きだし。私がどんなふうに写るのか、ちょっと見てみたい」
「……じゃあ、今度ちゃんと頼むよ」
「任せて。今度はとびっきり可愛く撮ってよね?」
「善処します」
その時、公園のスピーカーから五時のチャイムが鳴り響いた。
「あ、やば。行かなきゃ」
桐谷さんは前かがみだった上体を勢いよく起こすと、背中の翼を軽く振って位置を直した。
「今日はここまで! 次会う時までに、どんな場所で撮るか考えといてね」
言いたいことだけ言い残し、彼女は振り返ってひらひらと手を振ると、夕暮れの公園の出口へと駆け出していった。
黒髪と、リズミカルに揺れる細い尻尾が、茜色の光のなかに溶けていく。
嵐が去ったあとのような静けさの中、俺はベンチで一人、深く息を吐き出した。
膝の上のカメラの電源を落とし、丁寧に鞄へしまう。
ベンチから立ち上がり、歩き出す。
茜色に染まる並木道を見つめながら、頭の中に浮かぶのはさっきの突拍子もない約束だった。
……人物撮影、か。
黒髪と黒い翼が背景に沈まない場所を選ばなきゃいけない。
順光だと角の立体感が潰れるから、斜光か、いっそ逆光で輪郭を光らせるか――。
「……まだ約束しただけなのに、何考えてんだか」
思わず自嘲の笑みがこぼれた。
だけど、家へ向かう足取りは不思議と軽い。
明日、どんなロケーションが好きか聞いてみよう。