障子の向こうはもう白い光に満ちている。
私は光で起きる。何百年暮らしても、こればかりは目覚まし時計より正確だ。
布団を畳んで押し入れにしまい、冷たい水で顔を洗ってから台所へ向かった。
簡単な朝食を済ませ、食器を片づける。
柱時計に目をやると、家を出るまで少し時間に余裕があった。
玄関へ向かう前に、座敷の棚に置いた写真へ声をかける。
「おはよう。今日も行ってくるわね」
写真の中の夫は、白髪の混じった頭で、真面目な顔をしてこちらを見つめ返している。
レンズを向けられると、いつも決まって照れ隠しのように表情を硬くする人だった。
戸締まりを確かめ、傘立てから黄色い交通安全の旗を抜き取って家を出た。
交差点には、通勤の車がひっきりなしに行き交っていた。
私が立つのは、小学校へ向かう子どもたちの通学路になっている横断歩道だ。
向こう側の歩道から、頭に小さな角を生やした子と、人間の男の子が並んで駆けてくる。
その少し後ろには、尖った長い耳をぴょこぴょこと揺らす女の子の姿も見えた。
「おはようございます!」
「おはよう。まだ赤だから、白線の内側で待ってね」
先頭の子が勢いあまって車道へ飛び出しそうになり、慌てて足をそろえて立ち止まる。
「わかってるよ」
「それなら安心ね」
信号が変わるまでの間、男の子が自慢げに自分の足元を指さした。
「これ、新しい靴なんだ!」
「そうなの。綺麗な青ね」
「走るのも速くなった!」
「あら。じゃあ、渡るときは速く走らないでね」
「えー?」
「ちゃんと歩いて渡れたら、帰りにもう一度見せてちょうだい」
男の子は少し考え、納得したようにこくりとうなずいた。
やがて、歩行者用の信号が青に変わる。
私は左右の車が止まったのを確かめ、黄色い旗を掲げて子どもたちを促した。
「はい、渡っていいわよ」
小さな足音がパタパタと通り過ぎ、みんなが無事に渡り切るのを見届ける。
ほっと息をつく間もなく、通りの角から次の登校班が姿を見せていた。
朝の交差点では、挨拶を交わす相手が途切れることはない。
最後の一団を学校側へ送り届けると、ようやく交差点にいつもの静けさが戻ってきた。
反対側の歩道で見守りをしていた近所の人と、自然と目が合って頭を下げる。
「今日もお疲れさまでした」
「お疲れさま。また明日もお願いしますね」
黄色い旗をくるくると巻き、私は自分の家へと引き返した。
昼食のあと、縁側で少し休んでから庭へ下りた。
通り道に張り出した木の枝が、どうにも気になっていたのだ。
剪定ばさみと竹籠を用意し、枝ぶりを見上げる。
全部を短くする必要はない。先端を少し整えれば、歩く邪魔にもならず、縁側からの眺めも損なわずに済むはずだ。
青々とした葉に手を添えた瞬間、ふと、同じ木を夫と手入れした日の記憶が蘇った。
あのときも、どこまで切るかで意見が分かれたのだった。
「そこまで切るのか?」
木の下から夫が顔を上げた。
髪にはずいぶんと白いものが混じり、笑うと目尻に刻まれた深い皺がくしゃりと寄る。
並んで水鏡を覗き込めば、親子に見えかねない年齢差になっていたけれど、私の方はいまだに出会った頃の姿のままだった。
「通るたびに肩に当たるでしょう?」
「縁側から見ると、ちょうどいい枝なんだがな」
「じゃあ、通るときはどうするの?」
「俺がかがめばいい」
「毎日?」
「いい運動になるだろう」
「庭仕事をする前に、まず庭を歩く練習ね」
夫は声を立てて笑った。
「それは困るな。……よし、先だけ落とすか」
「そうね。それなら通れるし、眺めも残せるわ」
二人で枝を挟んで位置を確かめた。
私が揺れる先端を支え、夫が慎重に刃を入れる。
パチン、と乾いた音が響いた。
切り落とされた枝が地面に落ち、夫は一歩下がって満足そうに腕を組む。
「うん、これならいい」
「あなたが残したかったのは、そこだったのね」
「最初から言ってただろう」
「もう少し早くわかるように言ってくれたらよかったのに」
私が少し呆れたように言うと、夫は可笑しそうに目を細めた。
「何年一緒にいると思ってるんだ。言わなくてもわかってくれよ」
「何年一緒にいたって、言葉にしてくれなきゃわからないことくらいあるわよ」
「それもそうか」
夫は軍手を外し、節くれだった手の甲で皺の寄った額の汗をぬぐった。
わずかに肩を落とし、浅く息を吐き出す。
「休むか」
「ええ」
台所から盆を運んで戻ると、夫は縁側に腰を下ろし、庭の木をぼんやりと眺めていた。
二つの湯呑みを並べ終えるなり、夫は自分の手元にあった豆皿をこちらへ押しやってくる。
「そっちの甘い方を食べるだろう」
「よく覚えてるわね」
「何年一緒にいると思ってる」
「さっきは、一緒にいてもわからないことがあるって納得したばかりでしょう?」
「そうだったな」
夫は少しも困った様子を見せず、熱い茶をすすって目を細めた。
――ふと我に返ると、私の手元にあるのは、あの頃とは別の季節に伸びた真新しい枝だった。
パチン、と先端を落とすと、頭上の抜けが良くなり、通り道がすっきりする。
縁側のほうを振り返って眺めてみても、あの人が好きだった枝の形は崩れていない。
「……これくらいかしらね」
切り落とした小枝を籠に集め、剪定ばさみを道具棚に戻した。
ちょうど片づけ終えたとき、表の門の方から聞き慣れた明るい声が響いた。
「こんにちはー! おばあちゃん、いる?」
「いるわよ。今、庭にいるところ」
格子戸の隙間から、ひ孫がひょっこりと顔を覗かせた。
道着姿の肩に弓袋と矢筒を背負い、私と同じ尖った耳をピンと立てている。
「今日、ずいぶん早いのね」
「部活の片づけが早く終わったんだ。お茶、飲んでいっていい?」
「もちろん。お菓子もあるわよ」
「どこにあるか知ってる!」
「そうだったわね」
あの子は肩から弓袋と矢筒を下ろして縁側に立てかけると、勝手知ったる様子で台所へ向かい、菓子皿を運んできてくれた。
私が庭の水道で土のついた手を洗い、急須から湯気を立てるお茶を二つ淹れる。
私たちは並んで、ことりと湯呑みを置き、縁側に腰を下ろした。
「それで、今日の部活はどうだったの?」
「聞いてよ。道具の片づけでちょっと揉めたんだよね」
「あら、喧嘩?」
「違うの。誰も最後に使ってないって言い張って、的(まと)が出しっぱなしになっててさ。結局、私ともう一人で片づけた」
「それは大変だったわね」
「でも、その子も『みんな同じ言い訳するよね』って笑ってて。なんか怒るのもばからしくなっちゃった」
ひ孫は煎餅をパリンとひとかじりして、湯呑みを両手で包み込んだ。
「あ、あとね、席替えもあったの。窓際じゃなくなっちゃったのは残念だけど、前より黒板は見やすくなったかな」
「それなら、悪いことばかりじゃないわね」
ひ孫は「まあね」と楽しそうに笑い、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「あ、そうだ。写真撮ったんだ。見て」
部活の仲間が並んだ写真や、学校の廊下で撮った写真が次々と画面に映し出される。
誰かが変な顔で目をつぶってしまった一枚には、見せているひ孫自身が真っ先に吹き出していた。
「ふふ、賑やかで楽しそうね」
「でしょ? あとね、これ――」
勢い余ってスワイプされた画面に、ふと私の目が留まる。
並んで写っているのは、ひ孫ともう一人だけ。
少し赤くなった頬に指を当てて笑うあの子の隣には、照れくさそうに頭を掻く少年が写っていた。
「あ」
ひ孫が小さく息を呑み、慌てて画面を胸元に伏せた。
隠したって遅い。あの子の尖った長い耳の先が、根元から真っ赤に染まっている。
「この子、さっき話していた片づけの子?」
「……そうだけど」
「二人で撮ったのね」
「うん」
「仲がいいのね。どちらから撮ろうって言ったの?」
「おばあちゃん、急に質問多くない!?」
「だって、とても楽しそうなんだもの」
「別に、普通だよ」
「そう?」
「……何、その顔」
「どんな顔をしていたかしら」
「絶対わかってて聞いてるでしょ!」
あの子は画面を胸元に伏せたまま、それでもスマートフォンを鞄に戻そうとはしなかった。
私はそれ以上からかわず、冷めかけたお茶を一口すすった。
庭を眺めるあの子の横顔を待っていると、やがて、小さな呟きがこぼれ落ちてくる。
「……ちょっと、気になってるんだよね。その子のこと」
「そうなの」
「一緒にいると楽しいし、話しやすいし。でも、どういうふうに思われてるのか、全然わかんなくて」
「そうね。相手の気持ちは、待っているだけじゃなかなか見えてこないものよ」
「おばあちゃんなら、どうする?」
私は縁側にコトリと湯呑みを置いた。
「私なら、もう少し一緒に話してみるかしら。急いで結論を出さなくても、言葉を交わしていれば少しずつ分かってくるものよ」
「でも、のんびりしてたらあっという間に卒業しちゃうよ? おばあちゃんたちみたいに、何百年も待ってられないって」
「百年も待たせた覚えはないわよ。人間相手にそんなことしてたら、あっという間に白髪のおじいさんになっちゃうじゃない」
「あ、そっか……」
「そうよ。私たちの『少し』は、あの子たちの『ずっと』なんだから。あの子の周りの人間の女の子たち、可愛いけれど……私たちと違って、ずいぶん足が早いんだから」
「……おばあちゃん、言い方」
あの子が引きつった苦笑いを浮かべたところで、私は少しだけ身を乗り出し、そのまっすぐな瞳を覗き込んだ。
「だからね。ここぞという時が来たら――その時は一気に勝負よ」
「えっ、急に?」
「ええ、一気にね」
ひ孫はぽかんと目を丸くして、私の顔を見つめていた。
庭を渡る風が、二人のお茶の湯気をふわりと揺らす。
「……おばあちゃん、意外と肉食系だったんだね。曾祖父ちゃん、そうやって捕まえたの?」
「さあ、どうだったかしらね」
「教えてよ!」
二人で顔を見合わせて笑い合う。
あの子の赤くなっていた耳も、ようやく元の色に戻り始めていた。
「そうだ。明日は部活の道具を全部点検するんだって」
「それは、今日より忙しくなりそうね」
「今度はちゃんと片づける場所を書いておくつもり。迷わないように」
「いい考えじゃない」
「こっちの相談には、すぐ答えてくれるんだね」
「片づけのことなら、わかる範囲でね」
ひ孫はまた声を立てて笑い、残っていたお茶を一気に飲み干した。
帰る時刻が近づくと、ひ孫は菓子皿を台所へ運んでくれた。
鞄を肩にかけ、立てかけてあった弓袋を背負い直して庭先へ下りたところで、あの子は縁側の脇にまとめてあった枝の籠に目を留める。
「今日も庭仕事してたの?」
「少しだけね。伸びたところを落としたのよ」
「朝は見守りもしてたんでしょ。あんまり無理しないでね」
「ありがとう。今は、これくらいがちょうどいいのよ」
「でも、一人でやってること多いじゃん」
すこし眉を寄せて言うその声には、いつもの気安さの中に、隠しきれない心配が滲んでいた。
「そうね。手が足りないときはちゃんと頼むわ」
「ほんとに? 私にも言ってよ」
「もちろん。そのときは、部活の予定を聞かないとね」
「休みの日なら手伝えるよ」
「じゃあ、お願いすることがあったら連絡するわ」
「約束ね」
ひ孫は門のところで振り返った。
「また来るね。お茶だけ飲みに来るかもしれないけど」
「それでもいいわよ。お菓子も用意しておくから」
「やった。じゃあね!」
「気をつけて帰ってね」
大きく手を振るあの子が通りの角を曲がるまで見届けてから、私は家の中へ戻った。
静けさを取り戻した縁側には、並んで置かれた二つの湯呑みが残っている。
庭にはすっかり夕暮れの気配が落ち、手入れを終えた梢の隙間から、やわらかな茜色の光が差し込んでいた。
冷めきった湯呑みを盆に引き上げ、私は台所へ向かう。
お茶の葉を替えるのは後にして、まずは、夕食の支度を始めることにした。
夕食を済ませ、湯呑みを洗い、風呂に入る。寝る準備をする。
いつもの日常。
座敷を通るとき、いつものように写真の前で足を止める。
「今日もあの子が来たわよ。部活の話と……それから、少しだけあなたの話もしたわ」
朝と変わらず、写真の中の夫は真面目な顔をしてこちらを見つめ返している。
私だけが知っている顔だ。
「おやすみなさい」
部屋の明かりを消し、寝室へ向かう。
庭の木々を渡る夜風の音が微かに聞こえてきた。
変わらない夜に身を委ね、ゆっくりと目を閉じた。