ベッドの横に膝をつく。
目の前では、彼がまだ気持ちよさそうに眠っていた。
……相変わらず、朝に弱い。
しばらく寝顔を眺めていたけれど、起きる気配はない。
仕方なく、人差し指を伸ばした。
つん。
反応なし。
つん、つん。
「……ん」
まぶたが震え、寝ぼけた目がこちらを向いた。
「……おはよう」
「…………」
私は指を引っ込め、尻尾の先を小さく振った。
彼はそれで返事をしたと思ったのか、枕元の時計に目を向ける。
もう起きた。
だったら、ここにいる理由はない。
立ち上がって部屋を出る。
廊下に出てから、そっと指を握り込んだ。
……まだ、頬の感触が残っている。
階下に降りると、おばさんが台所からこちらを向いた。
「いつも起こしてくれて、ありがとうね」
「日課ですから」
そう答えると、おばさんは穏やかに笑った。
日課。間違ってはいない。
彼が起きなかったら困るし、放っておけば時間ぎりぎりまで眠っていることだってある。
でも、それだけなら――毎朝あんなにじっと、寝顔を眺め続けたりはしない。
そこまでは言わずに、私は玄関へ向かった。
スカートの裾から伸びる太い尻尾を巻き込まないよう横へ逃がし、上がり框に腰を下ろす。
鞄を膝の上に抱えて、静かに息をついた。
耳を澄ませると、階上から彼が制服に着替えている衣擦れの音が聞こえてくる。
やがて、慌ただしい足音がドタバタと階段を下りてきた。
「待たせた?」
「……別に」
視線を伏せ気味にしたまま、短く返す。
彼がスニーカーのかかとを整えて履くあいだ、私は立ち上がって扉の前で待った。
「よし、行くか」
彼の背中について、外へ出る。
朝の澄んだ空気の中に、同じ制服を着た生徒たちの姿がちらほら見えていた。
私は彼より、二、三歩だけ前を歩く。
横に並びたい気もするけれど、朝は隣に立つと顔を見られそうでなんとなく落ち着かない。
背中に彼の足音を聞きながら、少し先を行くこの距離が、一番心地よかった。
スカートの裾の下で、太い尻尾が歩調に合わせて静かに揺れる。
「そういえば、今日の体育って午後だったよな?」
後ろから、のんびりした声がした。
「そう」
「時間割、うろ覚えだった」
「……ちゃんと見て」
「一応見たんだけどな」
「一応じゃ駄目」
呆れて肩越しに言うと、彼は笑った。
昨日も同じようなやり取りをした気がする。
少しだけ歩幅を緩めた。
追いつかれてしまわない程度に、離れすぎないように。
ふと気づくと、スカートの裾の下で、尻尾の先が機嫌良さそうに左右へ揺れていた。
後ろを歩く彼も、その動きに目を留めている気配がする。
視線を感じて背中がちくりと熱くなり、慌てて尻尾に力を込めて揺れを止めた。
耳がぴくぴくと動いてしまうのを必死に我慢するように、私は前を向いたまま、すっと歩幅を広げた。
「おはよう、二人とも!」
背後から、やけに弾んだ声が飛んできた。
頭の上の猫耳がぴくりと音を拾い、振り向かなくても誰だか分かってしまう。
サキュバスのクラスメイト、黒月綾香だ。
彼女は制服の背から広げた大きなコウモリの翼を器用にすぼめ、私が彼と保っていた二、三歩の距離を飛び越えるようにして、あっさりと彼のすぐ隣に滑り込んできた。
頭の小悪魔的な角を揺らし、先端がスペードの形をした細長い尻尾が、楽しげにしなって時折、彼の制服の袖をかすめている。
視界の隅でそれを捉えた瞬間、私の背筋にちりりとした苛立ちが走った。
私の尻尾は、スカートの裾下でかちこちに固まったまま、びくりとも動かない。
「おはよう、黒月」
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「何?」
「今日の小テストって、どこまでだっけ?」
「昨日、黒板に書いてあったところまでだろ」
「あ、そっか。最後の方まで全部じゃないんだ」
「そうだったはず」
「助かった、ありがと!」
振り返ると、綾香は彼のすぐ隣にいた。
近い。
……別に、どうでもいいけれど。
彼女の尻尾が楽しげにしなり、その先が彼の制服の袖をかすめた。
彼はまったく気にしていない様子で、平然と歩調を合わせている。
私は前を向いた。
「昨日やろうと思ってたんだけど、途中で寝ちゃってさ」
「それ、まずくないか?」
「だから焦ってるんだって!」
……うるさい。
二人とも、そんなに楽しそうに話さなくてもいいのに。
気づけば、足が止まっていた。
肩越しに振り返ると、綾香はノートを胸に抱え、彼に向かって人懐っこく目を細めていた。
じっと綾香を睨みつける。
目を細めると、頭の上の耳も自然と横へ伏せた。
そのまま不満の視線を突き刺していると、不意に綾香と目が合った。
「ん? どうしたの?」
彼女はきょとんとして、頭の小さな角ごとこてんと首を傾げた。
……何、その顔。本当に、何も分かっていないらしい。
「……別に」
これ以上見ていると、自分でも引くくらい嫌な顔をしてしまいそうだった。
ぷいと顔を背け、スカートの裾を翻して早足で歩き出す。
太い黒の尻尾が、苛立ちを隠せないように左右へバタバタと空を叩いた。
「もう、その顔もかわいい!」
……は?
背後から、パタパタと翼が空気を掻く音が聞こえてきた。
振り向かなくても分かる。綾香だ。
「ちょっと待ってよー」
「……構わないで」
「えー、そんなこと言わないでよ」
「近づかないでってば」
「わかったってば。普通に歩くから!」
そう言って、綾香は小走りをやめた。
私の横に並びながらも、きっちり腕一本分ほど距離を空けている。
……そういうところは、妙に素直なんだから。調子が狂う。
「ね、今日の体育って何するんだろうね?」
「知らない」
「そっかあ」
それきり、綾香は何も言わなくなった。
隣を歩いているのに、気まずそうな様子もない。
本当に、この子は何を考えているんだろう。
「おーい、置いてくなって」
少し後ろから、息を切らした彼の声が届いた。
耳がぴくりと音を拾う。
振り返りたいけれど、自分から早足になった手前、今さら立ち止まって待つのも格好がつかない。
「早く早く!」
綾香が振り返って手を振った。
「お前らが急に先へ行くからだろ」
彼が小走りで追いついてくる。
そのまま、私のすぐ隣に滑り込んできた。
制服の袖が、腕にかすかに触れる。
「…………」
私は何も言わず、歩幅を自然に彼へ合わせた。
スカートの裾の下で、さっきまで落ち着かなかった太い尻尾が、いつの間にか穏やかに揺れている。
……まあ、いいか。
校門をくぐるころには、三人ともいつもの歩調に戻っていた。
「じゃ、教室でね。今のうちに頭に叩き込まないと!」
昇降口に着くと、綾香はノートをひらひらと振って駆けていった。
私も小さく息をつき、先に下駄箱へ向かう。
……別に、あの子が嫌いなわけじゃない。
ただ、あんなふうに何の躊躇いもなく彼の隣へ行けるのが、少し羨ましい。
……少しだけ。
もちろん、本人には絶対に言わないけれど。
昼休み。
友人と購買へ向かう途中、午前中の小テストの話になった。
「最後の問題、見直そうと思ったら『やめ』って言われちゃって」
「時間、足りなかったの?」
「違うの。消しゴム落として、拾ってるうちに終わっちゃった」
「……それ、自分で落としたんでしょ」
「そうなんだけど!」
あまりに真剣な顔で言うものだから、思わず笑ってしまった。
「ちょっと、笑わないでよ」
「ごめん。だって」
「もう!」
友人もつられたように笑い出す。
こうして他愛のない話をしている時間は、結構好きだ。
「で、今日のパン何にする?」
「……焼きそばパン」
「また? 好きだねえ」
「おいしいから」
「それは分かるけどさ」
そんな話をしながら廊下を歩いていると、頭の上の耳がぴくりと動いた。
聞き慣れた足音。
顔を上げると、向こうから彼が歩いてきていた。
彼は無言のまま、私を見つめている。
……見られてた。
さっきまで声を立てて笑っていた自分を思い出し、かっと耳の先まで熱くなる。
別に、笑っているところくらい見られたってどうということはない。
なのに、彼を前にすると途端に余裕がなくなってしまう。
気づけば、自分でもわかるくらい露骨に、いつもの無愛想な顔を取り繕っていた。
「……なに?」
「いや、別に」
彼は一瞬だけ意外そうに目を丸くしたものの、それ以上は何も言わず、私の横を通り過ぎていった。
……何よ。
別に、何か言ってほしかったわけじゃない。
尻尾の先が、スカートの裾の下で小さく揺れた。
「知り合い?」
隣の友人が小首を傾げる。
「……幼馴染」
「へえ、そうなんだ」
それだけで、話は終わった。
「それでさ、焼きそばパンって今日も残ってるかな?」
「……さあ」
「売り切れてたらどうする?」
「別のにする」
「即答だね!」
また友人が笑う。
私もつられて小さく笑った。
「じゃあ、私は何にしようかなあ」
隣で悩み始めた友人の声を聞きながら、私は一度だけ後ろを振り返った。
彼の背中は、もう廊下の角に消えていた。
午後の体育は、体育館のマットの上で二人一組のストレッチから始まった。
ペアになったのは、綾香だった。
……他の子と組めばよかった。
一瞬そう思ったけれど、今さら変わるのも面倒だ。
……まあ、授業だし。
マットに座って両脚を伸ばす。
腰の後ろから伸びる尻尾を横へ逃がすと、綾香が私の背後に膝をついた。
「痛くない?」
「……平気」
「じゃあ、もうちょっと倒すよ?」
「うん」
背中に添えられた両手が、ゆっくりと私の上体を押していく。
無理に力をかけてこないところは、正直助かる。
……こういうところは、ちゃんとしてるんだよね。
朝のことさえなければ、もう少し普通に話せるのかもしれない。
もっとも、頭を撫でたがる癖は別だけど。
「はい、お疲れさまー」
上体を起こしたところで、綾香の手が伸びてきた。
ぽん、ぽん。
猫耳の間を、慣れた手つきで撫でられる。
耳がぺたんと伏せそうになり、慌てて力を込めた。
……また。
私は横に伸ばしていた尻尾を持ち上げ、彼女の手首を軽く叩いた。
ぺしっ。
「あ、ごめん。つい」
綾香は苦笑いして、すぐに手を引いた。
……本当に、どうして毎回撫でたがるんだろう。
「次、交代」
「はーい」
今度は綾香がマットに座り、両脚を伸ばした。
私は背後に回り込む。
体操着の背中に設けられた開口部から、黒い翼が伸びている。
付け根に触れないよう、背中の中央に両手を添えた。
「どう? これくらい?」
「うん、ちょうどいい感じ」
「そう」
相手の様子を確かめながら、ゆっくりと上体を押していく。
綾香は素直に息を吐き、身体を倒した。
さっきまでのように、余計なことを言ってくる気配もない。
ふと顔を上げると、少し離れたマットで彼がこちらを見ていた。
……何?
目が合った瞬間、心臓が小さく跳ねた。
けれど、彼はペアの男子に肩を叩かれ、あっさりと向こうを向いてしまった。
私は綾香の背中へ視線を戻す。
「……もう少し倒す?」
「ううん、これで限界!」
「そう」
少し力を緩めた。
「ありがとね」
「……別に」
綾香が肩越しに小さく笑った。
私も手を離し、姿勢を起こす。
……そういえば。
もう一度だけ、彼の方を見た。
彼はペアの男子と何か話していて、こちらを見てはいなかった。
さっき、何を見てたんだろう。
放課後の昇降口。
ローファーに履き替え、鞄を抱えて下駄箱の隅で彼を待つ。
朝は彼の家で、夕方は学校で。
いつからか、それが当たり前になっていた。
下校する生徒たちが少なくなってきたころ、階段の方から彼が姿を現した。
私に気づくと、いつもの気の抜けた顔で声をかけてくる。
「帰るか」
「……うん」
彼がスニーカーのかかとを踏み直して履くのを待って、並んで校舎を出た。
帰り道は、彼のすぐ隣を歩く。
朝は二、三歩前にいたけれど、夕方はどうしても、その距離を取りたくなかった。
茜色に染まった道に、二人分の影が長く伸びている。
尻尾の影も、その隣で静かに揺れていた。
住宅街の緩やかな坂道に差しかかったところで、彼がぽつりと口を開いた。
「今日の体育、どうだった?」
「普通」
「黒月と組んでたろ」
「……そうだけど」
何で、わざわざあの子の名前を出すんだろう。
わずかに身構えた私の頭上で、三角耳がピクと警戒するように傾いた。
「朝、ちょっと避けてただろ。だから気になってさ」
「……別に、嫌ってるわけじゃない」
「そっか」
「授業はちゃんとやるし」
「まあ、そうだよな」
彼は納得したように頷いた。
……やっぱり。
体育のとき、目が合ったのは気のせいじゃなかった。
それに、朝のことまで気づいてたんだ。
思わず彼の横顔を見上げる。
けれど、彼はいつもどおりの呑気な顔で、前を向いて歩いている。
何でもない顔をして、そういうことばかり言う。
私は小さく息を吐き、視線を戻した。
朝のことも、綾香に頭を撫でられたことも、話そうと思えば話せる。
でも、きっと「あいつ、そういうところあるよな」と笑われて終わるんだろう。
……まあ、いいか。
ほんの少しだけ、彼の方へ寄った。
制服の袖がかすかに触れる。
彼は何も言わなかった。
もう少しだけ近づいてみる。
今度は腕が軽く触れ合った。
それでも、彼は離れようとせず、歩く速さも変えない。
……気づいてないのかな。
いや、気づいていても、きっと気にしないんだと思う。
昔から、ずっと一緒にいたから。
……私だけ、こんなに気にしてるのに。
「そういえば、明日って何か提出物あったっけ?」
不意に、隣からのんきな声がした。
「……また?」
「いや、念のための確認」
「ちゃんとプリント見て」
「そのプリント、どこ入れたか分かんなくなっちゃってさ」
「……あきれた」
思わずため息がこぼれる。
「帰ったら探すよ」
「……そうして」
本当に、いつもこうなんだから。
角の信号が青に変わった。
二人で横断歩道を渡る。
向こう側へ渡りきったところで、私は半歩だけ彼の方へ寄った。
こつん。
肩先を、彼の腕に軽く押し当てる。
一度離れてから、もう少しだけ近づいた。
すり。
歩調に合わせて、肩を彼の腕にそっと擦りつける。
……何やってるんだろ、私。
「……ん?」
頭の上から不意に声が降ってきた。
三角耳がぴくりと跳ねる。
上目遣いに見上げると、彼が不思議そうにこちらを見下ろしていた。
「……なに?」
「いや、なんでもない」
彼はそれ以上何も聞かず、あっさりと前を向き直した。
私も何事もなかったように前を向いて、歩き続ける。
けれど、肩は離さなかった。
むしろ、もう少しだけ、そっと押し当てる。
彼は何も言わず、拒むでもなく、いつもの穏やかな歩幅で隣を歩いてくれた。
私も、その歩調に静かに合わせる。
夕暮れの冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
足元には、長く伸びた影が二つ。
その端と端が、触れ合う肩と同じようにかすかに重なり合っていた。
私の太い尻尾の影が、右へ、左へとゆっくり揺れている。
私はもう、その揺れを止めようともせず、触れ合う腕から伝わる彼の温もりを感じながら、茜色の道を並んで歩き続けた。