交番の時計が七時半を回った。
机に広げていた地図を畳み、引き継ぎのメモを読み直す。
昨日、住宅街の歩道をふさいでいた自転車は、持ち主が移動させたと書かれていた。
「学校前、今日も頼むぞ」
向かいの机で先輩が顔を上げた。
「はい。終わり次第、商店街の方も回ってきます」
「お前が立ってると、車もよく止まるしな」
「信号が赤だからですよ」
「冗談だって」
先輩は笑って、また書類に目を戻した。
立ち上がって軽く肩を回す。
制服の収まりを確かめ、腰に付けた装備の位置を指先で直した。
交番を出ると、駅へ向かう人が早足で通り過ぎていく。
通学路の方から、子どもたちの賑やかな声が聞こえてきた。
学校前の交差点までは歩いて数分だ。
途中、八百屋のシャッターを押し上げていた店主に挨拶され、こちらも軽く会釈を返した。
いつもどおりの朝だった。
交差点に着くと、すでに何人かの児童が信号を待っていた。
「おはよう、お巡りさん!」
小さな角のある男の子が手を振る。
隣には、人間の子と三角耳をぴこぴこと動かした猫獣人の女の子が並んでいた。
「おはよう。白線から下がって待ってな」
「ちゃんと下がってるよ」
男の子は靴一足分だけ後ろへ下がった。
車の流れを確かめる。
歩行者用の信号が青に変わり、右折待ちの車も停止した。
「よし、歩いて渡れよ」
三人がそろって横断歩道を渡り始める。
先頭の子が少し勢いよく駆け出しかけたところで、後ろを歩いていた猫獣人の子がぴたりと足を止めた。
ランドセルのふたが跳ね上がって、教科書が落ちそうだ。
「向こうまで行ってから直そう。今は歩いて」
「うん!」
俺の声に頷き、猫獣人の子はふたを手で押さえて歩き出した。
渡り切ったところで、隣の男の子が金具をパチンと留めてやっている。
それを確認して、次の列に目を向けた。
横断歩道の向こう側には、黄色い交通安全の旗を持った和服姿の女性が立っている。
長く尖った耳。笑うと目尻にほんのわずかな皺が寄る、近所で暮らすエルフの女性だ。
「はい、みんな。そこは立ち止まらないでね」
女性は旗を手に、渡り終えた児童を歩道の奥へ促していた。
毎朝の見守りですっかり手慣れた様子だ。
それからも何組かの登校班を見送り、最後の一団が横断歩道を渡り終えた。
列の後ろにいた少し背の高い鬼の男の子が振り返る。
「お巡りさん、筋肉見せて!」
またか。この子は顔を合わせるたびに同じことを言ってくる。
「こっちには来るなよ。そこから見てろ」
周りを確かめてから片腕を曲げると、制服の袖がぴんと張った。
「うわ、すっげえ!」
男の子が目を丸くする。
「はい、おしまい。遅刻するぞ」
「また見せてね!」
「気が向いたらな」
男の子は名残惜しそうに手を振り、校門へ急いでいった。
「今日もお疲れさまでした」
彼女は黄色い旗を片づけているところだった。着物の袖はたすきでまとめてある。
俺に気づいた彼女は、旗を巻く手を止めて微笑んだ。
「お疲れさま。今朝もあの子たち、ずいぶん賑やかだったわねえ」
「元気なのは何よりですが、道路の上ではもう少し落ち着いてほしいものですね」
「ふふ、そうねえ。でも、さっきランドセルが開いてしまった子も、ちゃんと渡り終えてから直していたでしょう?」
「隣の友達が留めてやっていましたよ」
「あらまあ。そこまでは見えなかったわ、仲が良いのねえ」
女性は巻き終えた旗を細長い布袋に収めた。
「そういえば、お巡りさん。裏の細い道のことなんだけれどね。最近、あの曲がり角から自転車が勢いよく出てくるのよ」
「朝の通学時ですか?」
「朝も昼もねえ。あそこは生垣が茂っていて、歩いている人が見えにくいでしょう。自転車とぶつかりそうになった人もいるの」
「まずは道の状況を見てみます。必要なら、ほかの勤務員とも相談します」
「お願いね。学校が終わってから、あの道を通る子もいるから」
女性は優しく頷き、布袋の紐をきゅっと結んだ。
「庭の草むしりも残っているし、商店街にも寄りたいの」
「今日はお忙しいですね」
「そうなのよ。あなたもまだお仕事でしょう。気をつけてね」
「ありがとうございます。これから商店街を回ります」
女性は小さく会釈し、背筋をすっと伸ばして住宅街の方へ歩いていった。
交番での用事を済ませ、昼前に商店街へ向かった。
総菜屋の前を通りかかると、揚げ油の香ばしい匂いが通りまで漂っている。
向かいの八百屋では、店主が野菜のコンテナを並べ替えていたが、泥つき大根の箱が一つ、歩道にはみ出し、点字ブロックのすぐ脇に置かれていた。
「こんにちは。大将、それ、通る人の邪魔になりますよ」
「おう、お巡りさん。今どかすところだって」
「じゃあ、今お願いします」
「よく見てるなあ、相変わらず」
店主は苦笑いしながら大根の箱を抱え、店先の内側へと引っ込めた。
「これで文句ねえか?」
「ええ。助かります」
「まったく、うちの女房より小言が細かいよ」
「それは奥さんに失礼じゃないですか」
「ハハ、内緒にしといてくれ」
店主はからからと笑ったあと、ふと思い出したように通りの角を指さした。
「それより、あっちの街灯、昨日の夜は点いてなかったぞ。誰に言えばいいんだ?」
「場所を確認します。管理しているところへ連絡しておきますよ」
「頼む。あそこ、夜は妙に薄暗くて物騒だからな」
通りの角まで歩いて問題の街灯の位置を確かめ、支柱の番号を手帳に控えた。
元の通りへ戻る途中、買い物袋を提げた年配の女性に呼び止められる。
「お巡りさん、ちょっと道を聞いてもいいかしら」
「はい、どちらまでですか」
女性は近所に新しくできた医院の名前を挙げた。
近道なら住宅街の細い路地を抜ければいい。ただ、曲がり角が多く、初めて通る人にはわかりにくい。
「そこなら、この通りをまっすぐ行って、次の大きな角を右です。少し遠回りになりますが、大きな看板が見えますから確実ですよ」
「前に近道を教わったら、かえって迷っちゃってねえ」
「住宅街の奥は目印が少ないですからね。あのあたりは特に分かりにくいんです」
「やっぱり、近い道よりわかる道の方が安心ねえ」
「ええ。お気をつけて」
女性は礼を言い、穏やかな足取りで歩き出した。
八百屋の前では、背中の翼を畳んだ客が大根を一本持ち上げている。
すぐ横を、荷物を抱えた獣人の配達員が通り抜けていった。
俺は手帳を胸ポケットにしまい、次の巡回区へ向かった。
昼食後、学校裏の細い道を自分の足で確かめてから商店街の外れへ戻ると、花屋の前で朝の女性を見かけた。
手に提げた小さな袋からは、園芸用の麻紐がのぞいている。
「こんにちは。買い物は無事に済みましたか」
「あら、お巡りさん。またお会いしたわね。ええ、ちょうど今買い揃えたところなのよ」
「裏の道、歩いて見てきました。おっしゃるとおり、生垣が茂っていて、曲がり角の見通しが悪いですね」
「でしょう? あそこを自転車がスピードを出して抜けていくと、やっぱりヒヤッとするのよねえ」
女性は少し困ったように小首を傾げた。
「私も腕章をつけて、曲がり角の手前で声をかけようかしらと思ったんだけれど」
「あの角に立つのはやめてください」
思わず声が強くなった。
自分でも驚くほど、低い声が通りに響く。
「でも、少し離れたところなら――」
「あそこは道幅が狭いんです。自転車を避ける場所もありません。まずはこちらで対応を考えます」
そこへ、背後から張り詰めた甲高い声が割り込んできた。
「おばあちゃん!」
振り返ると、長い耳をした少女が肩を怒らせて駆け寄ってきた。
目の前の女性と同じ、エルフだ。
少女は俺を睨むように見上げる。
「おばあちゃんが何か悪いことでもしたんですか!?」
「……え?」
あまりの剣幕に、俺は一瞬言葉を失った。
「今、『やめてください』ってすごい声で怒鳴ってたじゃないですか! そんなに強く言わなくたって……!」
「違うのよ、落ち着きなさいな」
女性が困ったように笑いながら、少女の肩にそっと手を添えた。
「このお巡りさんにね、通学路のことで相談に乗ってもらっていたの。危ないから私が一人で無理をしちゃいけないって、心配して注意してくださっていたのよ」
「えっ……相談……?」
「そうよ。叱られてなんかいないわ」
少女は俺と女性を交互に見た。
「だって……すごく怖い顔で睨みつけてたから……」
俺は思わず視線を落とした。
「あら、そんな言い方をしたら失礼よ」
「いえ。気にしても、骨格までは変わりませんから」
顔を上げて答えると、女性が小さく笑った。
少女は気まずそうに俯く。長い耳まで真っ赤になっていた。
「すみません……っ! 私、前後の話も聞かずに……」
「いえ。こちらの口調が少し強すぎました。驚かせてしまって申し訳ない」
「でも、おばあちゃんが怒られてると思ったら、つい頭に血が上っちゃって……」
「おばあさん思いなんですね」
「……はい」
女性エルフは、縮こまった少女の頭をそっと撫でた。
「私は大丈夫よ。それより、今日はお休みなのに、そんなに慌ててどうしたの?」
「買い物に来たら、たまたまおばあちゃんが見えたんだもん。休みだからって、ずっと家にいるわけじゃないし」
「そう。じゃあ、荷物を持つのを手伝ってくれるかしら?」
「いいけど……」
少女はおずおずと視線を上げ、まだ恐縮しきった様子で俺に小さく頭を下げた。
「あの……本当に、失礼なことを言ってすみませんでした」
「もう気になさらないでください。気をつけて帰ってくださいね」
「はいっ」
女性は買い物袋を少女に渡し、俺に会釈した。
「それじゃ、また朝の交差点で」
「ええ。お気をつけて」
並んで歩き出す二人の背中を見送る。
数歩離れたところで、少女が気まずそうに声を潜めるのが耳に届いた。
「……あんな大男に低い声で言われたら、普通誰だって事件だと思うよ……」
「そうかしら? 私は頼もしくて、とってもお話しやすい方だと思うけれどねえ」
「おばあちゃんは年の功で慣れてるだけ!」
しっかり聞こえていた。
俺は聞こえないふりをして、次の巡回先へ足を向けた。
学校前に戻ると、ちょうど低学年の子どもたちが下校を始めるところだった。
朝と同じ交差点で、黄色い安全帽をかぶった子どもたちが数人、信号を待っている。
「あ、お巡りさん!」
朝、ランドセルの留め具が外れていた猫獣人の子が、歩道の奥から声をかけてきた。
頭の上の三角耳がぴこんと立つ。
「ほら、見て! 帰りはちゃんと閉まってる!」
「朝はパカパカ開いてたもんな」
「友達に直してもらった!」
「そうか。次は家を出る前に自分で確かめろよ」
「うん!」
近くにいた、朝も筋肉を見せてほしいと頼んできた鬼の男の子が、口を挟んだ。
「ねえ、今日の給食、すっごく美味しかったよ!」
「それはよかったな」
「何だったと思う?」
「朝は筋肉のことしか聞いてこなかったくせに、今度は給食か」
「あはは、ばれた!」
二人が顔を見合わせてけらけらと笑い合う。
歩行者信号が青に変わった。
右折待ちの車が停止しているのを確かめ、子どもたちに声をかける。
「よし、渡っていいぞ。ふざけないで向こうまで真っ直ぐな」
「はーい!」
向こう側の歩道へ上がった子どもたちは、元気に手を振りながら、そのまま友達と並んで帰っていく。
後ろからやってきた別の一団も、白線の内側で足を揃えて信号待ちを始めた。
「お巡りさん、明日も来る?」
列の中の一人が、見上げるように尋ねてくる。
「交番の当番が合えばな」
「じゃあ、またね!」
交差点に近づいてきた車が、停止線の手前で止まった。
歩行者信号が青に変わる。
子どもたちは手を振り、横断歩道を渡っていった。
顔と名前を覚えた子どもが、少しずつ増えていく。
悪くない持ち場だ。気は抜けないが。
最後の下校班の小さな背中が見えなくなるまで、俺はいつもの位置に立ち、見守りを続けた。
交番に戻り、日中の巡回で確認したことを日報に記録した。
八百屋の店主から聞いた街灯の不点灯。
学校裏の曲がり角の見通しの悪さ。
見守り活動をしている女性から聞いた、自転車の通行状況。
「裏道の件、次の巡回でも見ておこうか」
先輩が記録用紙に目を走らせながら言った。
「お願いします。朝も昼も、自転車が勢いよく出てくることがあるそうです」
「了解。町内の見守りの人たちも、よく気がつくなあ」
「普段から子どもたちの安全を気にかけてくれていますからね」
先輩は紙を机に置いた。
「ところで、お前。今日は何かあったのか? さっきから妙に静かだな」
「いつもと同じですよ」
「そうか?」
「ええ。少し、誤解されたことはありましたけど」
「また怖がられたのか」
「……よく分かりましたね」
俺は机の上を片づけ、次の仕事に取りかかった。
通りから自転車のベルの音が聞こえ、買い物帰りの人たちが交番のガラス戸の前を次々と通り過ぎていく。
しばらくして、入口の方から遠慮がちな声がした。
「あの……すみません」
顔を上げると、スーツ姿の見知らぬ男性が戸口に立っていた。
俺と目が合った瞬間、男性はびくりと背筋を強張らせ、無意識に半歩後ずさりかける。
「道をお聞きしたいんですが……」
「はい。どちらまでですか」
俺は努めて穏やかな声で応じ、机の上の管内地図を広げた。